【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 中島町・大聖寺中町・西山田町・大聖寺松ヶ根町

10月3日

11:00~ 中島町 追加ヒアリング 

青年団OBで中島町上区班長の川畑健次さんと青年団の川畑侑紀さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞の祭りは10月に行われていたのが8月の第3土日に変わった。現在の祭りの日は片山津の湯の祭りと同じ日だ。祭りの日当日の土曜日、獅子舞は町内約80軒を1日で回る。朝4時くらいから準備を始め、5時半くらいに神社を出発して区長をはじめ3役をまず回る。この3役の家が離れている年は回るのが大変になる。それから上区、西区、下区に分けられている町内の家々を順番に回る(◯班という呼び方は祭りの時も日常でも存在しない)。16時以降は、みゆき、タバタ、北陸食堂といった、青年団が練習やら祭り当日やらに利用する食事処を回るが、近年は動橋地区の個人商店が少なくなり、加賀温泉駅前まで遠征することも増えてきた。毎年同じような所を舞っている。昔は動橋地区の個人商店だけを回ることが多かったが、近年は個人商店が少なくなり徐々に遠征をするようになっている。獅子が遠征をする場所は青年団が練習やら祭り当日やらに利用するところを中心に決める。毎年、基本的に同じような場所に遠征に行く。

土曜日はそれで終わって、日曜日は朝から遠征の続きで、昼から櫓を建てて、夕方17時から輪踊りをはじめる。昔は翌朝2時まで踊り続けたが、現在は22時くらいに終わる。昔は周辺の地域から青年会の人々が集まってきた。分校、動橋、橋立などの人々が来たのを覚えている。逆に、自分たちから踊りに行ったこともあり、小松の方まで行ったことがある。輪踊りは地域間のほぼ双方向の交流だった。昔は祭りの日以外でも片山津の観光会館などで青年団の大会をしたこともあり、獅子舞を出したこともある。他町からもすごいと絶賛される獅子舞だった。山中の菅谷町の町長・田中實さんが「子供に習わせたい」ということで、50年前頃に1ヵ月獅子舞を教えに通ったことがある。

獅子は頭と尻尾で2人だ。現在、棒振りは4つあり、薙刀2種類、太刀2種類、棒振り2種類の合計6つあったのが、薙刀と太刀が1種類ずつ減って4つになった。どれを舞うのかは、ご祝儀の額によって決める。青年団の家などご祝儀を1万円払ってくれる場合があり、このようにご祝儀が多い場合は長く舞う。棒振りの短い演目と、太刀と棒振りが戦う「ちぎり」と、棒振りの長い演目の3つを入れる。これを全部舞うと青年団にとってはかなり辛いので、1万円のご祝儀を出しても「短いやつだけでええ」と伝えてもらう場合もある。ご祝儀は3000円、5000円、7000円、1万円の4パターンのご祝儀があり、それぞれ舞いを変える。

獅子頭の購入は昔は青年団がしていたが、最近は町が出してくれるようになった。獅子の蚊帳は真っ白で、中に入る人も白い服を着て白い靴を履く。獅子の頭だけ目立つようなデザインだが、やや地味である。これは、棒振りがメインで衣装やら何から派手なことを考えると対照的で、棒振りが見せ場としてはメインであることを示しているとも考えられる。動橋地区会館には、中島町の昔の獅子舞の写真も残されている。

昔は青年団は16~23歳と決まっていたが、今は新しく入る人がいないと半永久的に青年団を続ける事になる。侑紀さんは現在34歳だが、青年団を続けている状態だ。現在の青年団の数は12~3人いる。青年団長は24~5歳がやる。それは今も昔も概ね年齢的に変わりはない。今は、中学卒業する人がいれば「獅子舞やらんか」と頼みに行く。昔は毎年2~3人は入っていたが、今は0人の年も多くなりつつある。現在65歳の健次さんが青年団に入っていた頃には、先輩で女性が所属していたこともあり、青年団の団員向けに昼飯を作ってくれた時もあった。また、8月の秋祭りの後にボロいバスを借りて、能登や白浜、富士急などに旅行に行った。現在は余剰金があるときは個人にお金をそのまま配布して、個人のものとするようになっている。

昔、獅子舞の練習は神社でやっていたが、今は公民館の前で行う。祭りの1ヵ月前から19時頃~21時過ぎまで行ってきたのは今も昔も同じだ。ただし、昔は練習の厳しさが違った。神社から1km以上離れた高塚町まで、棒振りの「ホス!」という決めポーズの格好をしながら、ちょっとずつ後ろに下がるのを果てしなく繰り返した。また、16歳からお酒でベロベロになったこともあったが、途中ゲロを吐いてもこの練習を止めなかった。棒振りがクルッと前回りをする舞い方もあるが、昔は今のようにマットをひくということがなかったので、砂利道にペラペラのゴザをひく程度で、背中から血を出す者も多かった。獅子頭を「カーン」とぶつけて壊してしまうこともあったから、獅子頭を新調することもあった(浅野太鼓で頼んだかもしれない)。地域の該当年齢の人は基本的には獅子舞に参加させられたが、高校受験の人だけは参加しなくてもよかった。

獅子舞の始まりは戦後に寺井の粟生から習った(松山町に取材に行った時に「動橋川の堤防の反乱の時に粟生から土建屋さんが来て獅子舞を伝え、それを習って、宇谷町、横北町、桑原町、二子塚町、分校町に伝えた」という内容がわかり、この時中島町というワードは出てこなかった。しかし、中島町は動橋川の氾濫に巻き込まれた地域の1つであり、昔から農村地帯で松山町から用水を引いたという歴史があるため、おそらく粟生の獅子舞を松山町を経由して習ったのではないかと思われる)。小松市の串とか高塚町とか冨塚町とか棒振りがいるところで舞いが似ているところがあるようにも思う。棒振りか獅子かがメインで考えた時に、棒振りの方がメインになる舞いだ。

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13:00~ 大聖寺中町

20年くらい前に獅子舞をされていた区長の志田仁さんと美容室を経営されていて青年団長を何度も務めたことがある金澤心さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。

祭りは桜祭りの時に2日間行う。町内40軒くらい、外も合わせると140軒くらい回る。1日目は加賀神明宮に行って区役を回ってから、他の町内(各公民館、つまり本陣)に舞いに行く。2日目は自分の町内を回る。2日目の最後には、中町の大通りを端から端まで蚊帳と獅子を持って太鼓が「ドンドン」と鳴っているリズムに合わせてダッシュする。中町公民館の前から大通りの端までダッシュしてから獅子舞をひと踊りして、それから逆サイドの端までダッシュしてひと踊りして、公民館に戻ってまたひと踊りするという流れだ。志田さんが青年団に所属していた30代後半、お酒に酔った勢いでこれを始めた。それから毎年伝統的に20年以上続けられている。錦城小学校前の桜並木の道をダッシュして行った時もあり、その場合は太鼓を軽トラに乗せて移動させた。また、ミリオンプラザなど食品店の売り場をダーっと走り回ったこともあった。今でもホテルアローレなど、呼ばれたら祭りの日以外にも獅子舞を舞いに行くこともある。20年くらい前に青年団に所属されていた志田さんからすると、太鼓のバリエーションが変わってきていると感じる。志田さんの上の世代は、獅子舞は1日しか回らなかった。昔は桜まつりが終わったあと、貯めたお金で飛行機に乗って福岡ドームで野球を見に行ったこともある。

2021年はコロナ禍でも獅子舞を実施した。青年団は18歳から40歳までが所属する。「寂しいなあ」ということで、青年団7~8人の熱量により実現できた。青年団の意見がまとまったら、区長さんにお願いして話を通して、回覧板に獅子舞を実施する旨のお知らせを書かせてもらった。蚊帳の中に入る人も皆マスクをして回った。ご祝儀もらうとクレームが来る可能性も考えられたので、一切もらわなかった。事前に包んでくれる家庭もあったが、「来年倍にしてもらうわ」と言ってもらわなかった。純粋に獅子舞が楽しいので、獅子舞をやった。加賀神明宮のお祓いを受けて、町内40数軒を回り、町外を回ったり最後のダッシュをしたりということはなしに2時間くらいで終わらせた。また、今回はお酒を飲まなかった。皆若いからノリが良く、皆で集まることに楽しさを感じている。青年団は年代が離れているので、幼馴染みというわけではなく、青年団と獅子舞があるから繋がった仲という場合が多い。青年団の行事は1年でほぼ獅子舞しかなく、たまにバーベキューをすることがある。

ご祝儀の額は区役など含めて皆平均的に3000円くらいが相場となっている。舞いの種類は「正調」と「短調」という2種類がある。前者は右、左、真ん中という順に移動するが、後者は左、真ん中しか移動しないため、時間が少し短い。どれを舞うかはご祝儀の金額による。1万円などの極端な金額が入った場合は正調を舞う。また、自分たちの本陣(公民館)、他の町の本陣、神社などでも正調をやる。その他は短調で短く済ませる。空き家になっていても獅子を舞うが、その場合は短調でしかも家主に見られることがないため、あまり練習できていない人が舞うことも多い。また、その場のノリで獅子頭2体で舞うこともある。正調の時は、手と足で「寿」の字を書く。

現在は人がいないので、中町の実家にいない県外の人が2人青年団で関わっている。また、獅子舞の当日に中学生、高校生がアルバイトでくる。中高生のバイト代は出来高制で、誰が見ても明らかに頑張った人にはあり得ないくらいの金額を包むことがある。太鼓2人と獅子3人で舞う。余った人は交通整理をやる。練習は公民館の中で1ヶ月くらいから練習をすることにはなっているけど全員がなかなか揃わず、10日前くらいからは本腰を入れてほとんどのメンバーが集まり始める。青年団長は1年交代で口約束で決まる。そこに、長老が口出しをすることはない。志田さんの時は子供会の子供神輿をやっていたので、獅子舞をする時に4人くらいでしなくてはならない時もあった。今は子供神輿をしていない。

獅子舞の始まりはよくわからない。志田さんによれば、80代の人が子供の頃つまり70年前には獅子舞を実施していた。また、金澤さんによれば「ヤタヤ」というお店の方が富山のどこかで習ってきたと聞いたことがあるという。その方は現在58歳の志田さんが小学生の時におじいさんくらいの年齢だったので、もし今生きていたとしたら100歳を越える。昭和9年(87年前)の大聖寺大火があったので、もしかするとこの大火の後に獅子舞を始めたのかもしれない。また金澤さんによれば「最初はすごい低い姿勢で座敷で舞う獅子舞だった」と、この間亡くなったおじさんに聞いたそうだ。座敷の獅子がなぜ外に出るようになったのかがよくわからない。もしかすると昔、大聖寺中町の獅子は大聖寺関栄のように上品な座敷獅子だったのかもしれない。

獅子頭は2つあり、古いものは直した跡がある。新しい獅子頭には竜代作と書いてある。福井で作った太鼓もある。古い獅子頭は金澤さんが4年前くらいに自分で直した。2種類漆は高いのでカシューという塗料を買ってきて塗り、耳は自分で作り、白い髪を取り付け..などして修理した。練習用に使えればと思っていたが、意外と使えるので2手に分けて町内を回ったこともある。耳は取れやすいので、新旧ともに何回も直している。獅子頭は2つとも軽い。また、獅子の尻尾も毛が縮れるなどして短くなってしまっていて、材木屋でもらった木を使い金澤さんが作り直した。

大聖寺中町の獅子舞のお話を伺っていて、純粋に獅子舞を楽しんでいる町だということがわかった。そこに義務感はなく、むしろ自分たちの楽しみとして継承している。これは獅子舞運営においてとても大事なことだと感じる。

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15:00~ 西山田町

昔、獅子舞をされていたご経験がある、区長の川﨑照之さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子頭は2つあり、古いやつは練習用、新しいやつは本番用だ。結構ぶつけたりして傷がつくので新調したが新しいやつは10年は経っていない。バチが大量にあり、鈴が付いている尻尾がある。蚊帳はテーブルに広げて干している。古い獅子頭は川﨑さんが生まれた頃からあったので、もう60年以上は少なくとも使ってる。

現在65歳の川﨑さんは5年前、60歳まで獅子舞を舞ってきた。その後は、現在40歳くらいの滝野さんという方など若い人がやらせてくれということで、5~6人集まって引き継いだ。ただ、それだけだと人数が足りないので、他の町からも応援が来た。川﨑さんたちは獅子舞の運営を滝野さん達に明け渡す形になった。とりわけ「寂しい」というわけでもなく、やはり獅子舞を舞うのは大変なので引き継いでもらうことになった。川﨑さんは18歳頃から60歳頃まで獅子舞を実施してきた。

2年間、コロナ禍で獅子舞はできていない。祭りは普段、春祭りは3月20日(土)の春分の日で、秋祭りは9月19日(日)の秋分の日近くの日曜日である。この年2回、五穀豊穣の獅子舞を行う。町内は約30軒あり、松ヶ丘町に出て行った人やら来てくれという人やらのところにも舞いに行く。獅子舞は八幡神社に朝8時頃に奉納の舞をしてから、光闡坊(こうせんぼう)というお寺にも舞いにいく。光闡坊は蓮如上人からの歴史あるお寺で、門徒さんが西山田町にたくさん住んでいるわけではないが、ここでも舞う。お寺で舞いをする地域というのも珍しい。それから、町内の区役から順番に回わる。獅子舞が終わる時間は毎年バラバラだ。町内だけで言えば、14~15時ごろには終わる。最後に、公民館の前で暴れ獅子をしてダーーーと走る。道の端まで走ってからその真逆の端まで走って、それから戻ってきて終わりとなる。ただ、現在の青年団になってからは、この習わしはしていない。川﨑さんが60歳になるまではやっていた。この習わしがあるのは、大聖寺中町と同じである。獅子舞をどこから習ったのかはよくわからない。

獅子舞は蚊帳の中には4人はいる。太鼓2人合わせて計6人は必要で、それを交代でやらなくてはいけないので、メンバーは10人くらいは必要になる。ご祝儀は3000円が平均で、区長さんが1万円、役員しているところは少し高めで出す。舞の種類は1つ。眠り獅子で寝た状態から始まり、最後に暴れて終わる。昔と比べると、今の獅子舞はあまり大きく変わってない印象だ。少しだけ太鼓の叩き方が変わった程度である。

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17:00~ 大聖寺松ヶ根町

区長の大田恭介さんにお話を伺った。獅子頭は大きくて新しく、軽い木が使われているものがある。松ヶ根町は大工の棟梁さんたちが住んでいたので、獅子頭の作りに対しては厳しかったと思われる。ただ、どこでこれを作ったのかはわからない。大きいものを使っていた時の獅子舞は、87歳の地域の方が中学生(13歳)、つまり74年前(昭和22年ごろ)には少なくとも獅子舞があったと聞いた。しかし、もう70年くらい獅子舞はしていない。大きな獅子頭は区長が持ち回りで保管していたが、途中から新聖会館ができたのでそこで保管するようになった。この大きな獅子頭が、まさに松ヶ根町の独自の獅子頭だった。昭和25年生まれの大田さんが物心ついた小学校上がりたての時には、相生町が提灯をぶら下げて祭りをしていたことや、春祭りと夏祭りで上福田町の獅子舞が松ヶ根町に舞いに来ていたことは覚えている。その時にはすでに松ヶ根町の祭りはしていなかった。もともと氏子が上福田町の春日神社だからだ。

なぜ、戦後に松ヶ根町の獅子舞は途絶えてしまったのだろうか?中学生からは少なくとも大人の獅子に参加していたので、その獅子を演じる人が少なくなったと考えられる。松ヶ根町は元々、大工の棟梁やら学校の先生やら人の上に立ち、頼られるような人が多い土地柄だったので、戦後で家がなくなった人を部屋を貸して住まわせるなどして一時的に町内の人数が多くなっていた。一時的に松ヶ根町に住みに来た人というのは、例えば、都会に住んでいた松ヶ根町の人の親戚たちが空襲の被害を避けるために疎開してきたという場合もあった。石川は金沢も加賀も文化的な町なので大聖寺も空襲で襲われることはなく、戦後の3~4年後に仮住まいをしていた人たちが故郷に戻ることで一気に人がいなくなって獅子舞ができなくなったということが考えられる。

どのような獅子舞が実際に行われていたのかはよくわからない。戦後に途絶えてしまったという松ヶ根町の獅子舞は、戦中も戦前もやっていた。つまり、疎開などで遠くから来た人が伝えた獅子舞ではなく、元から松ヶ根町には伝統的な獅子舞があったということだ。獅子舞の始まりはいつどこから伝えられたのかはわからない。

▼70年前とは思えないほどに綺麗な獅子頭

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