【2021年9~11月】獅子舞取材 石川県小松市額田町(追加)・加賀市野田町(追加)

2021年11月15日

獅子舞の追調査や小松市加賀市の獅子舞の結びつきの調査などを行なった。同行は北嶋夏奈さん。突撃訪問での取材も少しずつ慣れて来たが、最初に公民館や個人商店、老人ホームなどの、地域の中心的なコミュニティスペースや70歳以上の地域の方が集いそうな場所にまず訪れて人を紹介してもらうのが有効な手段と感じつつある。

 

15:30~ 小松市額見町

片山津温泉に伝わった寝獅子という演目が特徴的な獅子舞が、小松市の串町の方に伝わったというのはほぼ間違いがなさそうである。そして、串町では伝わった寝獅子の形が少し崩れたようなのだが、隣の額見町は昔の原型をとどめているのではないか?少なくとも20年前まではとても古い形態の獅子舞をしていたのでは?と聞いたので、気になって額見町を訪れた。まず知り合いゼロのところからどう地域に入って行こうかと考えたときに、選択肢は2つ。地域のコミュニティの中心を担う場所として、竹平商店(個人商店)と額見会館(公民館)を発見した。竹平商店は14日に入ってお話を伺ったものの紹介していただいた方には会えず、今回、額見会館にも来たという流れである。額見会館の事務員さんによれば、獅子舞の祭り道具は神社に保管されていて、町会長さんならそれを見せてくれるのではないかということで、連絡を取っていただくことにした。ここら辺の地域では町のトップが加賀市のように「区長」と呼ぶのではなく、「町会長」と呼ぶようである。ただ、事務員さんも女性の方ではあるけれども、獅子舞にことに関してご存知のことがあったので、その時伺ったことをここにメモしておく。

最近獅子舞の詳しい人がなくなってしまった。青年団が獅子舞を実施している。元々、額見町の獅子舞は、富山県高岡市に行って習って来た。獅子頭高岡市で作ってもらったとのこと。片山津温泉の獅子舞は富山県の石動の青年団の経由で伝わったものだが、少しまたこの獅子舞とも違うのかもしれない。ただし、寝獅子の形態は少なくとも富山県から南加賀に伝わったことは間違いなさそうだ。額見町は昔、江沼郡月津村字額見だったので、月津村と同じ村に属していた。また、江沼郡ということは、加賀市の柴山町や片山津温泉と同じ行政区に属していたことになる。そのような経緯もあり、片山津温泉と似た形態の獅子舞を継承しているのかもしれない。また、近くの月津町や矢田町などは現在、子供獅子を継承している一方で、額見町は大人獅子を行なっている。現在、このように多少の違いは生じているようだ。額見町の獅子舞の祭りの日程は、いくつか変更があったようだが、現在は9月の第3土曜日に実施している。ただ、コロナ禍で2年間、祭りも練習も実施していない。来年以降、実際の祭りで獅子舞を拝見したいものだ。

小松市額見町「額見会館」

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16:30~ 加賀市野田町

老人ホーム「きんめい」のご紹介で、宮野双友会(宮地町と野田町合同の老人会)の中野祐四郎さん(73歳)にお話を伺った。野田町の獅子舞は春と秋、両方とも15.6年前に途絶えた。「ここら辺では珍しい獅子だった」とのこと。最後は若い人がいなくなって、青年団の後に壮年団がメインになって獅子舞をするようになった。まず、高校一年生が青年団に入ると普通は25歳までだったが、30歳まで伸びた。壮年団が運営主体になると、50歳の人もいた。結局は人手不足で獅子舞ができなくなったという経緯がある。保存会という形態も考えられただろうが、ここら辺は派閥があって、なかなかまとまって新しい組織を立ち上げるというのも難しかった。今では小松空港ができた関係で防衛庁の補助が降りて、その費用で神輿を作り、現在でもお祭りの時に神輿を出すのが恒例となっている。獅子舞は現在行われていない。

舞い方は基本3つで、棒振りと薙刀とムカシ(寝獅子に似ている舞い方)という名前だった。ムカシが一番難しい舞いで、寝た状態から徐々に激しくなっていくような感じで、個人差が出る我流の要素が強い舞い方だった。獅子、太鼓、棒振り、笛という構成だった。まず最初の3年で笛をやり、その後獅子頭を持てるようになった。獅子頭と太鼓をしない人は場合、そのまま笛をやった。

祭りは農耕の獅子舞だ。昔は農家ばかりがあったが、今では6軒しかない。町内に貯水池もあるが、これは農業用水関連の池である。祭りの日は最初、9月15日だったが、8月25日になり、その後、10年から20年ほど経ったら、田んぼの収穫が早くなり、最終的には8月17日になった。春は3月15日に獅子舞をしていて、雪の中で舞ったこともある。春と秋で獅子舞の祭りの内容は同じで、公民館から朝6時ごろに舞い始め、その後に神社か区長宅を舞い、その後区役を回ってから町内(現在の戸数は49軒)を巡った。その後は片山津温泉の旅館に舞いに行って、お金が多く入る旅館にご祝儀を頂きに行った。お客さんも喜んでくれた覚えがある。旅館などご祝儀がたくさんもらえるところは、3つの舞い方を全て行なった。そうでない場合は、棒振りと薙刀の2種類を実施した。難しいムカシの演目は特別な時に舞うという意識があった。ご祝儀は5000円から10000円などの幅で、出す人が多かった。もらったご祝儀で、富山県の黒部にトロッコに乗りに行った。あと、旅館でお昼にご飯を食べて、バス一台借りて山代や山中の旅館に行ったこともあった。田植えが終われば「さつきあげ」と言って、お互いをねぎらいあう会をした。

また、お昼は順番にローテーションで自分の家に食べに帰ったので、お昼は担い手が皆集まってお昼に食卓を囲むという機会はなかった。これには常に獅子を動かせる状態にしておくという意図もあり、町内を回ってから旅館まで舞いに行く必要があるため、限られた時間を有効活用するという意味もあったのかもしれない。また、獅子舞が舞いに行ってもその時に家に人がいなくて、獅子舞を見なかったが、後日ご祝儀を持っていくという場合もあり、これは時代を経るに従ってそのような風潮も生まれてしまった。8月17日が平日のことも多かったので、務めている人だと休みが取れなくて、このように対処せざるを得ない場合もあった。平日ではなく土日にずらすという手もあったかもしれないが、そのようなことは実現しなかった。

青年団の親方を23歳の時にやっていた時に、鼻などがボロボロになった獅子頭を新調しようということで、汽車に乗って井波まで行った。でも、獅子頭の値段が一刀彫りで高すぎて、買えなかった。それで、鶴来の貼り合わせの軽いものを買ってきた。これが野田町の2体目の獅子頭だった。獅子頭が軽くても、結局動きが激しいので、手が疲れてしまった。だから、獅子頭はなるべく軽いものでないといけなかった。

青年団では、良いこと悪いこと全部習った。獅子舞の練習は町の社交場とも言える。8月の秋祭りに向けて、7月25日には練習を始めた。公民館の外で、練習をした。練習は早めに切り上げて麻雀などの博打をよくしていた。お酒やタバコ、花札もそこで覚えた。悪いことはたくさん教わった。気づいたら、麻雀は1年で350日やり続けていた。麻雀は勝ち負けがあるからこそ面白い。

野田町の獅子舞の歴史は、冨塚町か弓波町から70年前に習ってきたことに始まる。弓波では子供相撲というものを神社で実施しており、小学生の時に芋を運ぶようなオート三輪の荷台に乗せられて送ってもらった記憶がある。この相撲に出ると10円か20円のお小遣いがもらえて、10円を国鉄蒸気機関車が走るレールの上に置いてどうなるかを実験したところ、ビューと伸びて使い物にならなくなったことを覚えている。お小遣いがもらえたら、屋台で買い物をすることもあった。このように、弓波町との祭りの繋がりがあったので、これが獅子舞の伝来と関係するかもしれないが、よくわからない。作見町八日市町、動橋町などの町内の子どもも、この相撲に参加した。他の町内だと、弓波町の他に子供相撲をしているのが、山代温泉の菖蒲湯祭りである。

 

ps. 中野さんは、シベリア鉄道に乗って、−43℃の世界を体感して、町歩きを一ヶ月半するなど、非常に旅人としての人生を謳歌されている。また、穂高や白山、乗鞍など、様々な山を登ったり見たりして楽しんでおられる。昔は、マカオでカジノに行き、博打をしたこともある。新聞を1部とお茶もいただいて、60分たっぷりと獅子舞だけでなく、かなり幅の広い興味深い話を伺えた。「麻雀は究極の博打だ」とのこと。単なる運だけでなく、きちんと頭を使う必要がある。だから、成長していけるのだ。好奇心旺盛で記憶力の良い中野さんとの会話は非常に起伏に富んだ面白い展開があり、とても楽しむことができた。

 

▼中野さんが写真NGだったので野田町の風景写真を貼っておく

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