ヘビやタコが登場する神楽!栃木県宇都宮市「二荒山神社宮比流太々神楽」を訪れた

気温30度を上回る灼熱の中、蛇はぐるぐるとくねった。なぜ5月末なのにこんなに暑いんだ!?夏空を見上げて、天照大神の太陽神の降臨の威力が凄すぎると思った。2026年5月31日、栃木県宇都宮市の「二荒山神社宮比流太々神楽」を訪れた。この地に伝わる蛸と蛇の舞を拝見すべく、早起きして宇都宮に降り立った。宇都宮は直線の大通りが長く伸び、どこか区画の存在を強く感じる町だが、少し道を逸れると餃子通りが広がっていたり、雑味のある小道が広がるのが面白い。

さて、駅からの直線道路を進むと道路沿いに大きな鳥居と拝殿へと続く急な石段が見えてきた。宇都宮二荒山神社である。宇都宮二荒山神社は「ふたらやま」である。一方で、日光の二荒山神社は「ふたらさん」なので、その点が違うことをのちに訪れた栃木県立図書館の郷土資料室の方に教えていただいた。さて、神楽殿では舞われたのは、午前は5座、午後は3座だった。それぞれを振り返っていきたい。

・10時〜12時
国定めの舞
鈴を鳴らして神楽殿を祓い清める舞。
この演舞は到着が少し遅れてしまったことによって、拝見できなかった。

猿田彦の舞
天孫降臨の道案内をする猿田彦。10時10分にはついた頃には次の猿田彦の舞が終わるところだった。この地の猿田彦は全身オレンジ色で、派手で、とてもかっこいいなと思った。

二神の舞
天津神と国津神がお互いの名を問うて、名乗り合うという演目。天地が融合して万物が生成されることを言う。これは天地和合であり天地未分であると考えれば、これは岩手県の早池峰神楽などで見られる「鶏舞」のような役割があるようにも感じた。

八幡の舞
「鈴とり鬼」とされる舞。鈴を振り踊る鬼(第六天の悪魔王)を八幡(八幡麻呂)が弓矢で退治する舞である。八幡系の舞は武神であり、やはり弓矢のモチーフが登場する。弓は「神通の弓」、矢は「方便の矢」とされており、これも八幡が応神天皇由来であることを思わせる。第六天魔王は仏教修行を妨げる悪魔とされており、歴史上の人物でいうところの織田信長が自らの仏教勢力との敵対する姿を第六天魔王と名乗ったことが思い出される。

鬼女の舞
これは非常に物語に入り込むような舞だ。恋焦がれた男がいた女が、結ばれることなく死に、鬼となりその男と再会するが、自分が鬼であることを隠せない。しまいに、鬼の姿をあらわにした女は、その場に現れた鍾馗に殺されてしまう。非常に悲しく切ない物語だ。女は鬼女としての鬼面と美しい姫の面を使い分ける変面的な立ち回りが非常に見どころだと感じた。これは昨年に石見神楽の佐野神楽社中の演目「有明」は女が徐々に面を変えて化け猫に変身する様を演じるが、あの演目を非常に思い出した。

さて、ここから昼休憩となった。
餃子通りに繰り出して一時間で餃子を食べようとしたが、日曜お昼であまりにも並んでいて、悟空なんかは人気すぎて40組以上待っていたので、比較的空いているキャロルに入って、餃子、ラーメン、ご飯のセットをいただいた。それで急いで、13時の演舞に間に合うことができた。

・13時〜15時
岩戸の舞
午後の最初の演舞は、岩戸の舞。これはもう全国の神楽で演じられる超重要演目であり、岩の影に隠れた天照を地上に連れ戻すべく、神楽を奏して賑わす。これぞ、神楽の起源というべき演目である。岩の造形のゴツゴツ具合がとても良かった。ここでは肝心の天照大神を偶像化せずに登場させていない点が非常に興味深かった。登場する役柄としては、猿田彦、岩戸の二神、鈿女、手力男命である。

恵比寿の舞
恵比寿神、またの名を事代主神。ひょっとこと道化とともに釣りを楽しんでいると、うなぎや鯛が釣れて、最後に大蛸が釣れる。道化は大蛸と相撲をとって、その勝負に勝ち、最後は踊る。漁民文化に根ざした非常に愉快な舞。鯛を釣るという所作はよく見るが、大蛸が登場して、そこと相撲を取るというのが非常に珍しくそして面白く感じられた。

お蛇の舞
さて、今回最も楽しみにしていたのがこの演目である。お蛇の舞の読み方は「おろちのまい」だ。八岐大蛇伝説を題材としており、これは出雲の奥山に住む蛇のことである。脚摩乳(アシナヅチ)には8人の娘がいて、毎年お蛇が降りてきて攫われること8年目。とうとう稲田姫の出番が来てしまう。須佐男命はそこで濃いお酒を用意して、お蛇に飲ませてその隙に退治する物語。斐伊川の氾濫に対する人身御供を思わせる話の構成である。

宇都宮二荒山神社では、なんといっても、この大蛇の造形そのものが非常に愛らしくおおらかである。大きな頭、大きな体をゆっくりと歩きのその外歩く蛇はまるで、2本足の恐竜のようである。わかりにくいような細くてひょろっとしたヘビではなく、大きくておおらかな蛇だと感じた。お酒を飲んで酔っ払ったところを須佐之男命が剣で退治して稲田姫を守る物語は他と同じだ。それにしても炎天下の中、このような分厚い着ぐるみのような大蛇を纏って演舞した演者には本当に感謝したい。それから道化のお酒を運ぶ姿が、足のふらつき具合がとても良い塩梅で、思いがこもっていて、素晴らしい身体所作だと感じた。

さて、演舞が終わり、餅まき(餅の手渡し50個ほど)があり、本日の神楽は終了となった。
その後に栃木県立図書館で資料を調べてから、また宇都宮の街に餃子を食べに繰り出した。17時前だったので、餃子のみんみんが並ばなくて入れたのはかなり良かった。やはりみんみんはパリパリで小ぶりなところに、手軽さがあり、「宇都宮餃子といえばこれだ」と思わせる風格があった。

全体を通して感じた楽しませる心

今回、8演目を拝見して感じたのは、埼玉県の鷲宮催馬楽神楽のような古風を今に留める太神楽というよりも、純粋に人を楽しませたいという気持ちが強い神楽なのだと感じた。娯楽要素の強さを感じたのだ。道化役の登場箇所が多かったり、大蛸や大蛇のような役が非常にユーモラスで親しみのある着ぐるみのような造形として登場していた。あと、演舞中に岩の上に凧と蛇が置いてあっておそらく陰干しされていたのかもしれないが、その姿が可愛らしかった。

そして、演目の合間の幕間に突如MCのような繋ぎ役が登場して、「今日は3万5千人の観客の皆様にお集まりいただきありがとうございます」という誇張表現で笑わせてくれたのに始まり、10分ほどの演目の紹介もあった。その合間に昔話もたくさんお話があった。「この地域には昔ワンワン(野良犬)がそこら辺を徘徊して、それを踏んじゃってがっかりしたこともあった。そんな中で唯一の楽しみはサッカー。ご飯を食べるときに白黒テレビを観ながら今日はこんなことがあったんだよと話していたんです」などと思い出をしてくださった。

神楽は誇張することで囃すという役割があり、これは国家のような大きな力の存在を成立させる条件とも思う。それがこの神聖なる神楽殿にて神に捧げられているという事実もまた興味深い。宇都宮という栃木県という地方都市の中心の街で、このような大きく囃す芸能が息づいていることが何か必然性のようなものを感じてそれがまた面白いと思った。


宇都宮二荒山神社、神楽の歴史

さて、ここからは栃木県立図書館で調べた資料や、WEBなどを検索して資料を集められた情報を振り返る。この二荒山神社の神楽は「太々神楽」に属する。今年4月には山梨岡神社の太々神楽に訪れたが、あの形式とも近い神楽だ。江戸を中心として、その周縁に伝播した一様式と考えられる。
宇都宮市教育委員会『宇都宮の伝統文化 二荒山の祭礼』, 平成24年度 宇都宮市伝統文化映像記録作成事業資料(2013年3月, 宇都宮市教育委員会)によれば、二荒山神社の太々神楽は江戸時代中期に始まったようで、江戸の神田流から教わったと伝えられており、「宮比流」と称するようである。

毎年、1月、5月、9月と4ヶ月刻みで、境内の神楽殿にて披露されている。もともとはこの年3回の演舞は28日に実施していたようだが、今回訪れたのは日曜日31日だったので、近年は土日に日程がぞれているのだと思われる。全ての演目は18座あり、そのうち7〜8座を毎回披露するようだ。面は全部で39面あり、江戸時代終わり頃から明治時代に活躍した仏師の高田運春の墨書きがあるものもあるという。非常に古い麺も残っているのである。宇都宮市指定無形民俗文化財となっている。


<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の伝統文化 二荒山の祭礼』, 平成24年度 宇都宮市伝統文化映像記録作成事業資料(2013年3月, 宇都宮市教育委員会)
栃木県教育委員会『栃木県の民俗芸能ー栃木県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1998年, 栃木県教育委員会) P12〜15
尾島利雄『栃木県民俗芸能誌』(1973年12月, 錦正社)P50〜51
栃木県教育委員会事務局文化課『栃木県の民俗芸能』(1985年, 栃木県教育委員会)P21〜22

獅子舞の熱狂と多様さ!富山県 新湊・射水の獅子舞を訪ねる

全国の中でも、これほど獅子舞に情熱を持って取り組んでいる地域は珍しい。毎度のことそう思わせられるのは、富山県新湊の獅子舞だ。その伝承力、根強い人気...。祝儀は多ければ一軒、50万円を越える。他県にとってはイベントで招くにも躊躇するほどの高額...富山の獅子舞は、その金銭的土壌が違う。

2026年5月14〜16日、富山県射水市の獅子舞を訪れた。今回の収穫は、どこか似ていると思っていた新湊の獅子舞が、実はそれぞれいろいろな違いが見えてきたということ。非常に重要な一歩となったように感じる。今回も射水市の久宗獅子舞工房のご案内もあり、たくさんの獅子舞を訪れることができた!実際に訪れた獅子舞を振り返っていこう。

5月14日(木)

六渡寺の獅子舞

庄西コミュニティセンターでの演舞のため、18時半には場所取りを始めた。実際に演舞が開始されたのは20時過ぎ。相変わらず、六渡寺はすごい熱気に溢れている。六渡寺といえば、松明で獅子を誘き出すヨソブリ舞である。「よそぶり」は漢字で書くと、「夜叟振」。そのまま読むと「夜に古老が振る」という意味らしい。この演目は非常に人気があり、新湊のさまざまな獅子舞に取り入れられた。古老というのは、人間の年齢を想起させるものというよりは、天狗のことをそのまま表した言葉なのではと思う。

前回、一年前と訪れた時の感想はどこまでも似ていたが、今回はやや演舞場所がコミュニティセンターの入り口から少しズレた場所だったので、相変わらず撮影に苦労した。この六渡寺の獅子舞というのは、日本の数ある獅子舞の中でも特に撮影が難しい獅子舞のひとつだろう。なぜなら、松明が灯る瞬間を境としてその前後の時間で、明るさやスピードの緩急があるため、F値、ISO感度、シャッタースピードの調整が必要である。さらには、非常に暗い夜間撮影であるため、ISOを5万くらいまで上げていく必要がある。カメラの性能と撮影技術が噛み合ってこそ、初めて撮影できる獅子舞であろう。

見物客の中の舞い手経験者に話を伺った。

「天狗は何歳から何歳というような制限はないけど、ある程度の腕を磨いていかないと、一発に最高やね〜!という風に、できるような役割ではない。今でこそ、ここで舞えるのは上手い人。でもこのコミュニティセンターで舞うのは昔はおまけで、祝い花にエース級が登場した。でも祝い花の軒数が少なくなっていった。祝儀は基本10万円。社長さん達がはずむと、20万、30万、50万と上がってくる。お祝いがあって、新築や子どもが生まれたとか、そういう時に祝儀がはずんだ。ただ、最近は祝いがあっても獅子舞を呼ばないことも増えた。それだけでは物足りない若い衆の出番を確保するために、このコミュニティセンターで舞うようになった。今ではここが恒例になって、非常に盛り上がってきている。ちなみに、公民館は町ごと、コミュニティセンターは小学校区ごとで整備されている。このコミュニティセンターは、建物の屋上に上がれるし、津波の時にも対応できる避難場所にもなっている」とのことだった。

5月15日(金)

東古新町の獅子舞

朝7時にこの町を訪れると、公民館前に人々は集まり始め、談笑をしていた。そして、神社に移動。そこで、宮参りの獅子舞が始まった。全員で舞っていたけれど、それから徐々に、天狗と獅子の対決に。天狗が薙刀をカン!と地面に叩きつけると、他の者たちは霧散し、一対一の対決になったところに所作の妙を感じた。それから町回りが始まった、港の朝は早い。拝見してて思ったのは、まず、女性に活気があったように感じる。そして留守の家の前でも簡単に舞っていたのが良かった。

その後、この町に21時ごろに再来した。そして、獅子舞というものの価値観を反転させるような価値観と出会った。天を仰ぎ見るように松明を揺らす天狗は、突然、獅子に襲いかかって、獅子頭の持ち主の足にその松明を擦り付けるのである。地域の人曰く「べちゃっと」付けるのである。一瞬どころではない、10秒くらいあっただろうか。当然の如く、舞い手が火傷をする。ただの火傷ではない、足の皮が大きく剥がれてしまうほどである。僕はそれを直視することができない。それが男としての勲章のようなものなのかもしれないとも思う。
しかし、自分だったら、そんなことは絶対にしたくはない。火傷は誤ってしてしまうことはあっても、自分から進んでそれをするものではないからだ。僕は直視できなかったが、足の皮ばべろっと剥がれる。火傷した箇所はただれて、後遺症が残る可能性があるし、ましてや火が衣服に燃え広がる危険性もある。しかし、その姿を見て「当たり前だ」とか、「よくやった!よし!」などと言って、みな褒めるのである。これは血肉沸きおどる原始の狩猟採集時代、あるいは戦国時代の戦乱の世にあって死が非常に近い人々の記憶をとどめているようにも感じられる。どこまでも冷徹であり恐ろしい。それがこの激しく荒々しい港町の獅子舞の気質として立ち上がっている。このような獅子舞は初めて見た、衝撃が強すぎて、しばし、放心状態となった。「この地域が一番荒い。皆すすんで、松明の火に向かっていってる、それがかっこいいという考え方なんだ。布を固定するために、針金を巻いとるからその跡がつく。パンツは当然のように水に濡らしとると思うけど、それでも熱いと思う」という話も聞いた。僕はこの価値観を自分ごととして考えることはできなかったが、文化として尊重したいと思う。


南長徳寺の獅子舞

朝の8時台は南長徳寺を回った。この地域の獅子舞は幕末から実施されており、その分歴史が古いとされている。街の軒数が多いので、街回りをする時のリズムが速くなっていったという話もある。その中でも、サンバサがかっこよかった。

夜は20時ごろに再来して、新婚での演舞を拝見した。祝儀の口上が大変興味深かった。「前から見ると有村架純、横から見ると、後ろ姿は...」と芸能人に例える。昔は藤原紀香が出てきたそう。今は、有村架純、広瀬すず、橋本環奈の3人を出す町内が多いとのことだった。特に橋本環奈はよく出てくるようである。橋本環奈は結婚のドラマでブライダルに来る人をどんどん奪っていくモテの象徴的なところがある。男への褒めは「プロレスラーのなんちゃらかんちゃら」とストレートに褒めずにマニアックな方向性。「変わったことを言いたかったみたいな感じかもしれない」と言う方もいた。個人的には、口上を述べる者とそれを受け取る者との、男同士のいじりの雰囲気も感じた。それから、男の演者同士が呼ばれてキスをして、新婚夫婦がそれに続いてキスをした。「キスをしやすくする工夫」のようである。なかなかディープな獅子舞であった。立山や庄川はわかるとして、地名として「カムチャッカ半島」が出てきたのも驚いた。夜の営みを「ダンクシュート」と例えていた。このように、花のお礼の口上が非常に珍しく工夫に満ちていた。しかも皆暗記して、それらを叫ぶのがさすがだと思った。


二の丸本町の獅子舞

居酒屋たかじんでの演舞を拝見。もともと獅子絵田の獅子舞を拝見するために向かったが、17時半につき、そしたらその前の団体の演舞が実施されていた関係で、拝見できた。ここはその名の通り、お城と城下町のあったところである。今回の花では、なぜかかなり疲れていらしたが、お亀が登場する舞いが見られて良かった。獅子頭がどこか、小川寺の獅子舞の獅子頭に似ているような気がした。非常に古い型を今に残している可能性もあるかもしれない。


獅子絵田の獅子舞

18時半ごろから開始、とにかく素晴らしい演舞だった。「新湊で最も演舞が上手な団体はどこか?」と尋ねると、真っ先に名前が上がる団体である。やはり、演舞に品があって、入場前に円陣を組み、祝儀をもらった花の演舞であっても宮参りの時のように整列して、そこから入場するように演舞が始まる。松明の時は、その火を獅子にあたるすれすれのところまで持っていって、そこで避けさせているようにも見える高等技術が見られた。また、天狗4名、松明8本を使った大廻りの舞も、かなり迫力があって素晴らしかった。居酒屋たかじんの前は非常にお客さんで賑わっており、とても盛り上がりだった。獅子絵田の松明の使い方はふわっとしている感じが上手という話もあった。子どもの人数が多いそうで、20人以上で、選抜で数人が選ばれて舞うという競争環境がこの豊かで洗練された演舞を実施している可能性がある。烏帽子かぶっているサンバサになれる子は相当うまいのだろう。

ヨイヨイという演目は新しく、獅子絵田が発祥とされている。隣の自治体である高岡の獅子舞競演会に呼ばれた際に、演目を新しく追加するという流れもあるようだ。獅子絵田は曳山を持たなかったという歴史もあり、その関係で、獅子に対して人もお金もしっかり集めて時間をかけて技術を磨いてきた歴史がある。ところで、この獅子舞の名前は土地名から来ているそうだ。「西神楽川」の曲折する所を整地、明治8年にその西側を「獅子絵田」と名付けたらしい。この名付けからもわかるように、芸能が非常に盛んな土地である。


江柱の獅子舞

22時ごろに訪れた。ここは獅子絵田の隣町であって、非常に獅子舞が盛んなところである。どこか、川を想起させる土地名だ。今回は花を拝見できた。演舞の途中に、獅子の尻尾付近を担当している人が川に落ちた。皆べろんべろんに酔っ払っているので、獅子含め皆ふらふらなので、こうなるのも無理はない。獅子頭は普通に演舞していて、お囃子も止むことはなく、淡々と続いていたが、獅子の後ろの方が何やら騒がしい。船と獅子が舞う歩道の隙間に落ちてしまったらしいのだ。しかし、さすが、水とともに暮らす人々だ。すぐに這い上がってきて、びしょびしょのまま、歩道に寝転がった。無事に上がってきて、皆、担い手の男も見物の女も歓喜し、「いやさーいやさ!」の歓声が止まなかった。そういえば、見物客の会話を聞いていると、どうやらすでにこの演舞の前に、川に落ちた人がもう一人いて、何かの拍子に血だらけになったと。それで家に帰ったという話をしていた。非常に恐ろしい出来事である。ところで、この地域も見せ方が非常に上手だと思った。演舞の最後に、六斎念仏の獅子でよく見るような長くて細長い髪を組み合わせた紙の束ををふわっと獅子に振りかけ、そして細かく刻まれた祝いの紙が宙を舞った。


奈呉の獅子舞

最後の最後で、22時半ごろに少し演舞を拝見できた。古い獅子頭が個人家に飾られており、窓越しに拝見できた。この地域は歴史が古い。江戸時代からの歴史がある。漁師が多くて漁師文化が濃い町でもある。東古新町ほどの荒さでもないが、「天狗が松明を獅子に投げ捨てて急に来るので獅子はそれを避ける」という話も聞いた。また、奈呉町の獅子舞は「オーベッサン」の演目を生み出した町であるという噂もある。「もともとは不漁の時しかやらない演目で、漁師に対して敬意があるので漁師の家の時に舞う。繁栄の意味で弓矢を打って、魚を弱らせたりする。そして、鯛をとる」とのこと。誇りとプライドを持っているという印象である。


5月16日(土)

三ケ錦町の獅子舞

ここの獅子舞の初見として、「街の獅子舞」という感じがした。三ケはよく新築の住宅が立つエリアのようだ。新湊の荒々しさと比べると、どこか整った雰囲気を持った獅子舞であるように感じる。しっかりと獅子舞も教えられている。回る家の軒数がとても多いので、バスで移動して先々で披露していく。非常に興味深かったのが、そのご祝儀の徴収制度で、500円を払い町内で回収して、そこの町ごとで大きなお金を作り、獅子舞を呼ぶというシステムのようである。これは軒数が多いからこその仕組みかもしれない。また、獅子舞の練習に行くと、ラーメンの無料券がもらえるという仕組みがあるらしい。これは非常に画期的で、商工会が獅子舞団体との連携をしているからこそできることなのか?とふと思った。

今回は町回りの獅子舞と、コミュニティセンターでの昼の演舞を拝見できた。コミュニティセンターでは屋台が立ち並び、輪投げなどの子ども向けの遊びも軒を連ねた。また、ステージではよさこいや歌の披露などがおこなわれ、その最後のトリとして獅子舞が登場した。ここでは、子ども獅子と大人獅子の2頭舞となった。花笠の子ども達もいたので、かなりの数の子どもが関わっている様子が窺えた。5年間の獅子舞講座の成果として、今回、演舞が実現したわけである。

終了後に、獅子舞の団体の方にお話を伺えた。
ーー今回、小学校何年生が舞いましたか?
小学校2〜4年生です。

ーーみんなどんなきっかけですか?
5年前から実施している「獅子舞講座」がきっかけですね。最初から子獅子を復活させるのが目的のひとつで、5年目にしてようやく揃いました。胴幕のお尻から2番目、3番目は兄弟で、その親が獅子舞講座で太鼓や笛をやっていたんですけど、子どもの方も練習に来るようになってくれました。そのようなこともあり、獅子舞をする4人が揃ったんです。5年前は子どもがなかなかいなかったんですが、徐々に子どもが増えてくれました。

ーーみなさんどこから参加しているのですか?どのように知ってくれましたか?
立山町から参加してくれる子もいるんです。獅子舞講座のチラシを見て、連絡をくれました。もともと獅子舞が好きだけど、加わりやすいところということで、遠方からでも連絡をしてきてくれたんです。
ーー素晴らしいですね。お話を聞かせていただきありがとうございました。

素晴らしい取り組みである。「子ども達がまた大人の獅子舞の担い手になってくれたら」という気持ちもあるそうで、新しい次世代への継承の取り組みとなっている。

庄東の獅子舞

この獅子舞は、新湊と六渡寺の中間に位置する。それゆえに、どちらもの影響を受けているとも言われる。比較的、噛みが激しいという話もある。確かに、餅つき舞などは、もう六渡寺そっくりにも感じた。流れ的には六渡寺方面から伝来。もともと川がなかった。小矢部川が氾濫していて、その流れを分けるのに、庄川を作ったという話がある。それが庄西と庄東となった。氷見の方からの流れを汲んでいるという話もある。

演舞後に担い手に話を伺うことができた。
ーーこの町ならではの演舞の特徴は?
他の周辺の獅子舞は獅子殺しをしてから、生き返らせてということがメインです。ただここは六渡寺を意識してか、松明を持って獅子を誘き出す大廻りの演目をメインにしています。他だと獅子が太鼓の回りを回るけれども、戦うひとつの道具みたいになって松明を使うんです。

ーー何時から何時の演舞ですか?
朝6時くらいから始めて、街回りは夕方までで終わらせて、18時くらいから「本花」(本格的な祝儀の舞)として、呼んでもらえたところにいきます。

ーー長いところはどのくらい舞いますか?
40分くらいです。寿司屋の旅館でも花があります。賑やかしくなるように意識しています。

今回の訪問のまとめ

富山県の獅子舞を見ていると、工夫して獅子舞をとにかく盛り上がるものとして完成させ、人々を熱狂の渦に巻き込んでいる。この手法は天下一であり、なかなか他の地域が真似できることではない。富山が獅子舞王国と言われるのもわかるし、その火種のひとつであるのだろう。歴史的な深みというよりは、新しいことへの挑戦に振り切っているところもある印象。

それぞれの獅子舞の特徴がわかってきたのは大きな収穫であった。それから、血肉わき踊る熱狂の渦は、祭りに身を擲つというある種の没頭感によって作られることは実感として強く感じた。祭りなくして、この土地を語ることはできない。そういう完成度の高い獅子舞文化が醸成されているのである。土地柄、手の器用な大工さんが多かったから、獅子頭も手に入りやすく作りやすいという環境があったそうだ。獅子頭の寄付ということも大いにあったのではないかと想像する。

獅子絵田とその隣の江柱は上手だという話は聞いた。あと、今回は拝見できなかったが、西新町には蛇のようにグネグネ動ける、「蛇の関節」を持つ柔軟な身体の持ち主がいて、素晴らしい舞い手がいるらしい。まさに、伝説の人である。コロナ禍以降に始まった越中祭り青年会も立ち上がり、年に一度の課題共有の会を実施しているようだ。これからも発展していくことだろう。

獅子舞の胴体「蚊帳」はどう作る?富山県の染色工房「山本染業」、伝統継承と現代を生き抜く知恵

獅子舞の胴体部分、「胴幕」を染める職人を探していた。なかなかタイミングが合わず、東北の有名な染色工房でさえ、「2年に1度くらいしか作りません」というお返事をもらったばかりだった。やはり獅子舞が盛んな地域でないと、そのような工房は見当たらない。そこで訪れたのが富山県だった。

2026年5月14日、富山県の獅子舞の胴幕づくりを手掛ける山本染業を訪ねた。明治42年創業の歴史あるお店で、胴幕に挑戦を始めたのは3代目から。30~40年前のことだという。現在代表を務めるのは4代目の山本剛士さん。全国でも稀なほど、獅子舞の胴幕作りを熱心にされている山本さんに伺った貴重な話を振り返る。

yamamoto-some.com

蚊帳作りの流れ

富山県では胴幕のことを「蚊帳」と呼ぶ。工房を訪ねると、綺麗な蚊帳の見本と、新しく作っている途中の蚊帳を拝見できた。

ーー本日はよろしくお願いします。蚊帳作りの工程はどのような流れですか?

山本さん:工程としたら、まず「下写し」。下写しは、この見本の図にトレーシングペーパーを載せて、図柄を写し取って、その後、トレーシングペーパーの図案を生地に写し取る「本写し」。それから「糊置き」と「染色」。色を染めて乾燥したら、水元の不純物を洗い落とす。「縫製」は細かいこと言ったら、柄合わせや芯の取り付けもある。

 

<蚊帳作りの手順>

①下写し:見本の図をトレーシングペーパーで写しとる
②本写し:生地にその図を写しとる
③糊置き:写し取った図柄の上に筒を使用し糊を置く
④調色:粉末染料の配合をし、染料(液体)を作る
⑤染色:色を染める
⑥色止め:溶剤を塗布する
⑦水洗い:不純物や溶剤を洗い流す。
⑧乾燥:生地を張り場に吊って、乾燥させる
⑨縫製:縫い合わせ、柄合わせ、握りや裏地の取り付けもある

 

ーー大体全部でどれくらいの時間かかるんですか?

山本さん:フル稼働でやったら、2週間ぐらい。乾きの問題もあって、なかなか乾かなくて時間がかかるのは、雨の時。梅雨の時は本当に乾かんからね。

蚊帳作りの様子

ーー現在取り組んでいるのは、どのような工程なのですか?
山本さん:これはほんまの下絵やもんで、そこに糊(のり)を置いていく。洗ったら取れるこの茶色い部分が、染色の時に色が染まらないところ。

生クリームを絞るのに似ている、「筒描(つつがき)」をされていた。「やっぱり歴が長い人は上手やわ。キメが細かくて、手がブレずに置ける。昔は型がなかったもんだから、みんなこう手で置いてやっとったんやね」とのこと。

ここで使っている糊は「防染糊」というそうで、「ピーナッツバターみたいですね。なんか美味しそうに見えます(笑)」なんて盛り上がったのだが、どうやら染色の前に、色の浸透を防ぐ目的があるようだ。

「材料屋さんから仕入れているもんで厳密に原料は分からんけど、米ぬか、もち米、石灰、などが入っています。それらを混ぜたら、こういうふうに黄色くなるんです」とのことだった。

その後、糊の上から、ふるいにかけた細かい砂を撒く姿が見られた。

「この砂かけるのは、何のためにやっとるか言うたら、この糊のブツブツの上に染める時に色持っていった時に、フジツボみたいな感じの表面だと、そこに染料入っちゃう。あと、糊は餅からとるから、硬くなって、バリバリ割れていく。砂をかけるのは、それらを防ぐため。お店によってもやり方が違うかもしれん。おがくずを使う人もおるし」とのこと。表面がとても美しく綺麗な仕上がりになっていた。

砂を撒いた状態

形を整えると美しい表面に

ーー蚊帳作りで一番難しいところ、「ここを乗り越えたらいいものができるぞ」みたいな工程ってあったりするんですか?

山本さん:やっぱり、今の糊工程。この工程でちょっとでもずれないようにしないといかんし。この仕事はずっと立ちっぱなしやから、休憩もできん。ゆっくりやったら乾いてしまう。だからこの作業が一番しんどいかな。絵になるのは、色を染める工程だけど、それと比べると、始めたら一気にやんないといけない。

蚊帳の素材の選び方

ーー蚊帳はどのような素材で作るのですか?

山本さん:歴史的には、昔は綿ばかりで麻はあまり見かけなかった。30,40年ほど前からは麻が主流になってきた。ここ最近は麻を扱う業者さんがめっきり少なくなって入荷が不安定なので、当店では綿にしている。

麻は軽くて繊維自体が長いもんで、引っ張る時の強度がある。同じ薄さの綿と比較して、擦れ強度はどうなのかと思う時もあるかな。現在、麻は多分、引き染めじゃないと染められない。引き染めで染めると裏まで染料が透るので色の深みがある。

綿は綿花を細かく紡いで、撚り(より)をかけることによって作る。綿の場合は、最近はプリンターでやろうと思ったら染められる。両面でインクジェットを使って、染められるんじゃないかな。だからあと何年かしたら、手でやるところは少なくなっていくやろな。

あと、富山県の獅子舞は松明に火をつけて、天狗が獅子と舞う団体もあるから、その炎の影響で、化学繊維で作ると溶けてしまうことがあるから、現在当店では、そういう素材は取り扱っていない。

綿製の蚊帳

山本染業の蚊帳づくりのコツ

ーー1年間で、どれくらい蚊帳を作りますか?
山本:多い時で数えたら18、今は10くらいの時も多い。今年は今作っているのが、4つ目かな。

ーー蚊帳ってどれくらいのサイクルで新調したりするもんなんですかね?
もう30年超えとるものもあれば、早いところで5〜10年。やっぱり使い方次第かね。やめてる人たちも多いし、あと補修、補修でやっとるとこも...。あとは限界が来て、作り替えということもある。まだ使えるものは使えると思うんやけど、それでも新調する場合もあるし。舞う人がいなくなって、蚊帳が小さくなったところもある。

ーー普段、蚊帳作りをどこから頼まれますか?

山本さん:仕事お願いしてくれるのは、ほとんど9割以上は富山県の団体から。たまに違う県、例えば和歌山県や北海道からも連絡がある。北海道だったら富山型の蚊帳もあるけど、和歌山は全然違った。県外の地域では蚊帳のことを油単(ゆたん)って呼ばれることも多い。

さまざまなお仕事の展開

ーー蚊帳作りの他に、どんな仕事をされていますか?

山本さん:神社や仏閣の幕、一般家庭の幕、法被、店舗のれんとか...。すごい人は学校にかかっている「どこどこインターハイ出場」っていう懸垂幕を作る人もおって、うちらはそこまでやってないもんで、ただ、これからそういう仕事も考えていかなと思ってて。

 

その他にも、さまざまな体験やグッズ展開をされているようだ。

・大漁旗の布

大漁旗については、染色体験用に制作したデザイン。実際に染めを体験してもらうために用意したもので、仕事の幅を広げるため、染物ワークショップの取り組みにも力を入れているとのこと。

・斜めがけバック

バッグについては、もともとクラウドファンディングを活用して制作・販売したもの。斜めがけのスタイルで、蚊帳の毛卍紋がついている。

・額装だるま

また、だるまについては、「額装だるま」と呼ばれるもので、額縁の中にだるまを描いた作品らしいです。商売繁盛の願いが込められている。このような新しい取り組みをされている染め工房も少ないと思うので、貴重な取り組みだと感じた。

このように獅子舞の蚊帳を染めつつも、多岐にわたるグッズの展開をされているとのこと。時代の流れも考えながら、生き抜く歴史ある工房の今を知ることができた。

 

▼グッズに関しての詳細はこちら

yamamoto-dyeing.com

 

▼山本染業ホームページはこちら

yamamoto-some.com

平安時代に遡る優雅な舞い!神奈川県大磯町 国府祭 「鷺の舞」を訪れた

非常に歴史が古い伝統的な鷺の舞があるという。2026年5月5日、神奈川県中郡大磯町にて、相模国国府祭が開催。そこで実施された県指定無形民俗文化財・鷺の舞を訪れた。国府祭は「こうのまち」と読む、非常に珍しい読み方である。それから、鷺の舞には鷺、龍、獅子が含まれる。この辺りも非常に興味深いところである。

この祭りのは旧相模国内の6つの神社が合同で行う祭り。大磯町の六所神社、寒川町の寒川神社、二宮町の川勾(かわわ)神社、伊勢原市の比々多(ひびた)神社、平塚市の前鳥(さきとり)神社、平塚市の平塚八幡宮が参加する。この6社を「類社」と呼ぶ。この祭りの舞台は、大磯町の神揃山と大矢場(馬場公園)である。

さて、大磯駅からバスに乗って、馬場公園に着いたのは13時半ごろ。非常に多くの人でごった返しており、屋台も軒を連ねるように多い。ここは人口が多い街なのだということを改めて気付かされ、神輿が次々と入御してくると、人をかき分けるように動画や写真を撮影した。

13時50分、15時30分の2回、鷺の舞は実施された。これは神輿の入御、そして神輿の出御に合わせたものである。最初の演舞の際は、船から見て斜め右から、次の演舞は船から見て斜め左から撮影をした。いずれも方向によって見える雰囲気が異なる興味深い舞だと思った。拝見してみて感じたことはとにかくゆっくりである。平安貴族の時間の流れの緩やかさを思い浮かべる。そして、比較的動きも複雑ではなく、手と腰の上下動や回転によって、所作が繰り出されていく。また、すくっと立った瞬間の異形さはどこか奇妙さを感ずるものであり、舞楽の仏の舞のような少ない動きで多くのことを語るような雰囲気がある。鷺、龍、獅子はいずれも同じ動きをしていたと後から知ったが、全くそれに気づかないくらいにその造形に対して意識が向くように思う。

鷺の舞

龍の舞

獅子の舞

さて、鷺の舞を拝見したのちに、大磯町立図書館 国府分館で資料を調べた。そして、帰り道にアイスを食べて帰った。もう夏のような気候である。暑いし連日の取材で疲労も溜まっていたので、あっさりした取材に留めておいたが、今回の訪問の核となる鷺の舞が拝見できてよかった。帰り道、次々と神輿が僕のことを追いかけてくるように後ろから複数の行列が迫ってきてびっくりした。僕に何かを語りかけるように、たまたま帰路が同じである神輿がついてくる。狭い歩道を馬が歩いていてびっくりした。車に対してたくさん手を振っていた。帰りは平塚駅から東京へと帰路に着いた。平塚駅近くにバケツでメダカを買う商店があり、近所の子供達が集まってきて机を囲んでしゃべっていた姿が印象的だった。さて、今年のゴールデンウィークの取材もここにて完結である。

鷺の舞とは何か?

ここからは図書館で調べたことについて振り返っていきたい。鷺の舞は又の名を「祭場警護の舞」あるいは「悪魔払いと警護する舞」という。5月5日の国府祭、9月第1日曜日の六所神社例大祭櫛魂祭で奉納される。また、12月31日の除夜詣では笛と太鼓のみで「流し」の演奏を実施する。日本全国において舟形舞台で舞う鷺の舞は、この六所神社の鷺の舞(神奈川県大磯町)と、五所八幡宮の鷺の舞(神奈川県中井町)の2地域のみとも言われている。

国府祭においては、馬場公園で祭式の一部として奉納される。鷺、龍、獅子を続けて舞い、その総称として「鷺の舞」と名付けられている県指定無形民俗文化財の芸能である。鷺と龍と獅子は格好は違えど、同じ舞い方をする。獅子の舞はところどころで歯打ちが入る。いずれも非常に古風で優雅に舞う。

国府祭では各社の神輿が入御する時から、歓迎の曲「流し」が演奏されて、6社全てが到着したら鷺の舞の披露という流れになる。鷺の舞の披露の際には「舞路(まいじ)」という曲が披露される。鷺の舞は「天下泰平」、龍の舞は「五穀豊穣」、獅子の舞は「災厄消除」を祈願するものである。囃子方合わせて5名で実施される。各社の神輿が出御するときも、「流し」が演奏される。

鷺は左右一対で口開き(雄)と口閉じ(雌)の阿吽の状態で頭がある。これはかつて舟形舞台が2艘あったことが由来。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P369によれば、「古文書などによって、舟形舞台は二艘あったことが確認されているが、いつの時代まで二艘の舟形舞台があったのかが不明である」と書かれている。現在では、雄か雌かがその時々で舞うことになっている。また、鷺の頸には御幣がつけられ、羽は金属板で波型の装飾が施されている。2本の扇を持って舞う。

また、龍と獅子も、鷺と同様に雄雌で作られている。龍は左右一対で口開き(雄)と口閉じ(雌)の阿吽の状態で、御幣(呼び方は合っているか?)を持つ。また、獅子は宝珠が雌で、角が雄であり、角と宝珠は金色、頭の全体は赤、杉で作られている。そして胴幕は木綿製で全体が緑色であり、白色の唐草模様が描かれる。

鷺の舞

龍の舞

獅子の舞

鷺の舞の由来と歴史

この鷺の舞の始まりについて、鷺の舞実施時に保存会の方が配布されていたパンフレットをもとに振り返ろう。大化の改新の時に、地方に国・郡の制度が定められて、国府が置かれて、国司が京都から派遣された。国司は年に一度、国中の有力な大社や豪族を国府に招いてもてなし、天下泰平と五穀豊穣を祈願したという。神奈川県大磯町の国府祭は、少なくとも平安中期には実施されていたとも言われている。

鷺の舞の由来は平安時代において、京都では貴族が来賓を招く時に、酒宴を開くとともに、庭先の池に船を浮かべて舞いを披露して歓迎の意を表して、もてなした。この歓迎法が国司によって、京都から相模国にもたらされたようである。

演者は国司とともに同行して、舞太夫家として代々、国府祭の鷺の舞に仕えてきた。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P369によれば、「もともとは、六所神社の管轄下にあった神事舞太夫の伝える芸能であったが、神事舞太夫が途絶えたため、同じ芸能が伝えられていた中井町の五所八幡宮の伝承者が一時期引き継ぎ、平成8年(1996)からは六所神社の鷺の舞保存会が上演するようになった」とある。

舞太夫が途絶えたのはいつ頃のことか判然としていない。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P387によれば、昭和30年ごろには舞太夫が一人になってしまったという記録はあるようだ。もともとこの舞太夫は呪芸に達者な人であったようで、神託神楽の継承者でもあったようだ。しかし最後の一人も昭和34年に国府祭に出かける際に輪禍(交通事故)で亡くなり、おそらくここで途絶えてしまったのではないかと考えられる。そのような危機を乗り越えて、担い手の主体が変わりつつも、現代まで継承されてきたようである。

また、舟形舞台は祇園祭との関わりで論じられることもある。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P395によれば、「永田衡吉の『神奈川県民俗芸能誌』や、植木行宣の先行研究(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告3『祇園囃子の源流に関する研究』田井竜一編、平成二十年十二月十日)などによると、六所神社の鷺の舞は扮装に趣向を求める風流であり、舟形舞台も「山鉾の芸能の流れに立つ伝承」(植木、前掲書、79頁)とあり、先行研究の中では、祇園祭り関係で論じられるものである」という。

参考文献

大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年3月, 大磯町教育委員会)
永田衡吉『かながわの祭と芸能』(神奈川合同出版, 1977年)
相原純『写真集 神奈川のまつり』(1972年,  萬葉堂書店)

岐阜県高山市にて、金蔵獅子と蛇獅子の系譜を辿る!獅子殺しの真意とは何か?

飛騨高山には非常に重要な獅子舞の一系統がある。それが県指定無形民俗文化財となっている金蔵獅子である。加賀の獅子殺しでもない、伊勢大神楽でもないその中間を行くような地方的展開。その理解を深めたいと思い、2026年5月3日〜4日、岐阜県高山市を訪れた。3日は国府町金桶の金蔵獅子と、糠塚のまむしとりの獅子舞。そして4日には国府町広瀬の金蔵獅子を拝見できた。

今回はゴールデンウィークでの訪問ということで、非常にアクセスや宿泊に苦労した。なにしろ、新幹線は満杯だろうからと夜行バスを見るも、東京から高山直通が満杯、名古屋経由も満杯...。そうなると、もう富山経由しか残っていないということで、夜行バスで早朝の富山駅に降り立った。

富山から南下して高山市を目指す。途中から渓谷の緑が青々と美しくて見入る。この線は非常にローカルであるが、外国人観光客をちらほらと見る。これhあみな高山を目指す人々である。高山はインバウンド最先端で飲食店に入ると外国語のメニュー表ばかり。街を歩いていても外国人ばかりでご飯を食べようとしても宿泊しようとしても値段が高い。なかなか日本人にとっては観光しづらくなっている。かくいう安旅の僕も非常に苦労して、節約のために風呂に入らずに、やっと雑魚寝の宿を5000円ちょっとでとったという感じである。

国府町金桶 冨士神社、ハンカチの奇跡

さて、ここからは獅子舞について振り返っていきたい。飛騨国府駅で降りて歩くこと30分ほど。金桶というエリアに着いた。
神社の方向を間違えたようで迂回するのに山をぐるりと回り、20分くらいかかった。鳥居の前でお辞儀して入ると、激しく爽やかな風が吹いた。こんな感覚は初めてだが、どうやら私は歓迎されているようである。

拝殿では神事が始まっており、浦安の舞を奉納していた。途中、浦安の舞の音楽のテープがだぶるようになり、慌てている様子もあったが、その後は難なく行事は滞りなく進んだ。「神楽奏上」の声がかかり、ここで誰か舞人が現れるのかと思いきや、大きな太鼓がドーンと重い音を響かせて打たれ、そして笛が鳴った。詳細は不明であったが、これが「神楽」ということのようだ。それにしても太鼓の大きさが大きいし、重くて大きな音が出るので、びっくりした。

神事が滞りなく完了すると、間もなく石段を少し降りたところにある神楽殿のような舞台で、金蔵獅子の時間である。サービス精神も旺盛で、基本的には観客は地元客のみのようだったが、見学に来た外国人観光客の夫婦がいらして、その方に体験として獅子をかぶらせていた。

それから、獅子舞は2演目披露された。終始、舞台の真下で動画を撮る小学生くらいの男の子がいて、的確な角度で動画を撮るのに苦労したが、本当に純粋に獅子舞が好きな様子が伝わってきてよかった。それから金蔵獅子の担い手たちも、三脚を据えて動画を撮影しており、演舞の記録アーカイブに力をいれておられるようだった。

それから、舞台での演舞が始まった。まずは獅子舞1頭が登場する演目(おそらくは「曲」)だった。その後、おかめと金蔵が登場する「金蔵」へと移った。金蔵が獅子を退治するような物語となっており、獅子との攻防が非常に迫力があった。おかめは直接的に獅子に働きかけることなく、その回りで囃すように舞っているようだった。

非常に激しい獅子舞だった。担い手の方によれば、「うちの獅子舞は他のところと比べても特に激しい」とおっしゃっていた。確かに僕もそう感じていて、シャッタースピードを1600分の1まであげないとブレるなあという感覚だった。いつもであれば、400分の1くらいで十分なので、相当早いなあという感覚である。

それから終了後に、神社の参道を鳥居から出ようとしていた時に、その手前で、「ハンカチ落としませんでしたか?」と呼び止めるスーツの方がいた。「いいえ、違います」とその場はお返事をしただけだったが、後から振り返って、「午後はどのように回るのですか?」と予定を尋ねてみた。すると、「獅子と金蔵、おかめの神輿を子どもが曳いて回るんです。あと、獅子舞が簡単な舞をして、家を一軒一軒回りますよ。いろんな地域の方が参加しています」とのことだった。「明治時代には小松宮殿下が馬車で通って、この獅子舞を御覧いただいたのですよ」と教えてくださった。名刺をお渡ししてみたら、家業のご立派な不動産屋の家屋に案内していただき、名刺をとってきてくださった。「ぜひ何かあればご連絡ください」とのこと。ハンカチをきっかけに素晴らしいご縁ができた。ちなみにハンカチの持ち主は見つかったようである。

改めて振り返ると、この地域の金蔵獅子はとにかく激しいと感じた。15分近く、側転などを含む演舞を続けるので、若い担い手の獲得が必須である。そのための工夫として、映像の記録作成やPRなど含め、残す映像と外に魅せていく映像の両側面についてしっかり考えておられて、2026年5月16日には国府公民館で映像の上映会を実施するという話も伺った。獅子の形態的な話でいうと、お亀が左手にささらを持ちそれだけではなく、右手に木のデコデコを持って擦り合わせる。広瀬の場合はささらを2つ組み合わせて擦るのでその点で地域的特徴がある。


国府町糠塚 白山神社、まむし取りの獅子舞

それから「ありがとうの広場 すえひろ」という場所にある、麺屋さんで、焼きそばとご飯の定食を食べた。ボリューム満点を予想したが、意外と少なかった。焼きそばが凝っている感じがした。付け合わせの野菜や肉が細々としていたのがよかった。ここから小雀獅子に向かおうかとも思ったが、歩いて3時間くらいで公共交通機関のアクセスが難しそうだったので、この近くのエリアの獅子舞に変更することにした。

歩いて50分ほどのところにある、糠塚というエリアに向かった。ここは山の中にあるエリアで、徒歩で向かうと後半、ほぼ山登りである。しかし、視界が開けてきて国府の街並みが徐々にひらけてきて美しかった。それから昔、年貢か何かの徴収が厳しくて村のために直訴した人物に関する説明板がありそれを拝見してから、急なグネグネした道を登りきると、田んぼやこじんまりとした牧場がある直線に出た。この高山市の山間部はなぜ、この時期に鳴くカエルの声が逞しいのだろうか。以前、この時期に両面宿儺の取材で近在に訪れた時にも感じたのだが、とにかくカエルの声が逞しい。人間が通ると、その存在を察知したからなのか、声が少し中断して、また鳴き出す。当たり前のことではあるけれど、人間もこの自然に対して働きかけていることを実感する。

集会所の前にたどり着くと、獅子がいた。これから祭り行列が、神社に向けて進んでいくようだ。見物客に「どこからきたのですか?」とすぐさま尋ねられた。こう聞かれる時は大体、あまり見物客が来ない祭りであることが多く、地域の村祭り的な雰囲気なのである。おそらく縁故がなく外から訪ねてきた人は僕のみなのだろう。そこで、「まちづくり協議会さんのinstagramを拝見してきました」と団体名を出すと、「ああ、そういうところで告知しているんだね」などと見知ったような口調になって、受け入れてくださった。

それから白山神社へと向かっていく。白山神社へも急坂を進んでいく。この坂もなかな急である。そして鳥居があり、お辞儀して入ると、ここでも激しく爽やかな風が吹いた。「あ、また受け入れてくださっている」と思った。こういう感覚は非常に珍しく、何かしら縁のある土地なのだという感覚が強くなった。

それから境内では金桶の時と同じように、神事が始まった。境内下の敷地内に四方を縄や紙垂によって囲まれた榊の木のような木があり、そこでのお祈りをするのが金桶と共通していた。そこでは浦安の舞こそなかったものの、非常に丁寧に玉串奉奠を実施している印象を受けた。神事ごとが丁寧に実施されている土地のようである。その合間で、神事の進行を見守る地域住民の姿があった。

なぜか見物客の中では、子どもが非常に多い気がする。すぐさま理由はわかった。まず、お菓子がもらえるようである。それもいくつか袋詰めされていて、お得感のあるようなお菓子の詰め合わせだ。中には、手作り獅子舞で幕付きのものを持参している子どもが2人いた。一人は金色の獅子舞、もう一人は赤色の獅子舞である。時折、被って大人や子ども同士で戯れる姿があり微笑ましかった。またペットボトル投げをして遊ぶ姿も見られた。時折、そのボトルが田んぼの方まで飛んでいって取りに行っていた。

神事が1時間以上に及び、途中で雨が降ってきた。そこで、どうやら「獅子舞は公民館で行います」と伝えており、そこで、再び、集会所へと戻った。集会所みたいな小さな空間だと、よそ者である僕は非常に緊張してしまう。しかし、最初に声をかけてくださった見学のかたが、僕を「ぜひ中に入ってください」と促してくださり、なんとか空間の端っこで動画と写真を撮らせていただくことにした。

2演目が演じられた。金蔵獅子同様の構成で、まず、獅子が舞い、その後に、見どころとなる演舞へと移った。ここでは「まむしとり」が行われた。担い手によれば「これは蛇退治をするんです」と教えてくださった。この 近くの村上温泉で以前、「へんべとり」というこれも蛇に絡む演舞を拝見したことがある。これと似たような系統であるが、あの時は蛇を退治するというよりも「踊りを教えている」と教わったことを思い出した。似た舞いでも、地域によって解釈が異なるようである。

演舞の間は終始、カーペットがコの字型に組まれて獅子舞を囲むようにして、お酒やジュースを飲んだり、お菓子を食べたり、して皆思い思いに過ごしていた。地域住民でない僕はそれをいただくか迷ったが、お酒を何回か注いでくださって、地域の方も僕のことを気遣ってくださっているようだった。動画が見切れるようなことはあったものの、何度も注ぎに来てくださったのは嬉しかった。

それから2演目の終了後に、「蛇の獅子舞について聞かせてください。詳しい方はいますか?」ということで、担い手に繋いでいただき、そしてお話を伺った。

ーーいつもはどこで練習していますか?
いつも集会所で練習していて、夜の8時から実施しています。

ーーなかなか蛇の獅子舞は見ませんが、どのような動きをしますか。
始めた頃からこういうものをやっていますね。蛇を食べるというものです。どぐろを巻いているのですが、それを咥えて、見上げて、歩きながら食べていくんです。他の部落にもあると思うんやけど。

ーー獅子の種類は幾つですか?今回は2つでしたよね。
ここの地区では本当は5つの舞い方があります。ざいぶり、たかやま、ふたつ、曲、まむしです。今回舞ったのはそのうち2つでした。まむしはいつもはもっと長くて、30分くらい舞いますが、今回、その3分の1くらいでした。いつ食べるんやろう?ってくらい、繰り返しが多い獅子舞なんです。

コロナ前は全ての演目を実施していましたが、コロナ明けからは縮小しています。舞える人数も減っていて、疲れる獅子舞なもんで。俺は48で、相方が46で舞っています。限界きとるんですよ、50になるまでとは思っていますが、後継者がいません。20〜30代がおれば良いんだけど。この部落では20代が1人、30代が1人で、あとは40代なんです。しかも後半なもんで。

ーー子どもたちはたくさん見にきてくれていますよね。
そうそう、ただほとんどは親戚の子で、地元の子は少ないと思う。うちもそうやけど、妹の子どもは見にきてくれていますね。

ーーいや、それでも会場に活気があるなと思ってみてましたよ!
ほんと?そう思ってみてもらえるのは嬉しいです。

東京から来たことを伝えると、シティボーイやんとおっしゃって驚いていらしたが、よく田舎の人みたいって言われるんです。とお答えしておいた。ここでも素晴らしいお話が伺えた。貴重な強いs米をありがとうございましたとお礼を伝え、その場を後にした。

お話を伺っていて、近年、飛騨市で途絶えた1300年の歴史ある数河獅子も激しい獅子舞である。このような獅子舞はとにかくかっこいい。しかし、担い手がとにかく若くないといけない。今回、お菓子を配ったり、親戚を連れてきたりして、工夫されている点に学ばせていただいた。

それから集会所を出て雨の中歩き出すと、横を通った車が止まってくださり、「乗ってくか?」とのこと。すごく綺麗な高そうな車だったが、中の運転手は農作業をしてそうな素朴な感じのおじいちゃんだった。大変ありがたく、「三ツ石まで行こうと思っています」ということをお伝えした。その方は昔、獅子舞の太鼓をしていたようで、獅子舞に関しての想いがある方で、最近は映像での記録も進んでおり、「誰が撮影したのかわからんけど結構長いことかかって、今度、(その成果として)国府会館で映像の上映もします」と情報を教えてくださった。これはどうやらネットを調べると、金桶の金蔵獅子の話のようである。春と秋の祭りでは獅子舞はせず、ゴールデンウィークの時だけ。今回、貴重な獅子舞であった。このたどり着いた三ツ石は光り輝いていた。素晴らしい出会いに感謝である。

国府町広瀬の獅子舞

朝7時半起床、高山駅近くのスタバで作業をした後に、電車で昨日と同じ飛騨国府駅へと向かう。急足で看板が開けっぱなしなのも忘れて歩いていると、鉦を鳴らす一団が道端で列をなして歩いている。どうやらこの地域には子どもたちが継承をする「闘鶏楽」があるようだ。それから線路沿いに15分ほど進むと、11時には度瀬神社へと辿り着いた。

ここで改めて、広瀬の獅子舞の演舞の流れについて振り返っておきたい。本日は以下、3つの神社での演舞を中心として展開された。

11時 度瀬神社
13時 秋葉神社
15時 廣瀬神社

まず、度瀬神社では非常に厳かな神社で、杉の大木が境内にかなりの数立っていて、古い歴史のある社であることを思わせた。なかなか演舞が始まらなかったが、神事、鶏闘楽の後に、獅子舞が開始された。初めて拝見した印象としては、金蔵の演目が非常に演舞時間が長く、20分近く舞っていた。感覚としては、金桶よりも演舞時間が長いような気がする。

また、金蔵の面を被り衣装を纏う子どもがいて、大人の演舞が始まった途端に踊り出して、おじさんが不意に本物の金蔵の踊っている真横まで連れていったら、控えの担い手によってまた客席に戻されるというハプニングがあった。瞬間的に金蔵が2人になったことで緊張が解けて笑いに包まれた。これぞ、道化役の本望だろう。演舞終了後に、おかめと金蔵に関して、担い手の方に非常に興味深い話を伺うことができた。

ーーおかめと金蔵が戦っているように見えたのですが、あれは獅子と金蔵との戦いではなくて、他にもそういう争い事があるのですか?

あの、金蔵ってのは小心者の見栄っ張りなもので、おかめがその手助けをしているんです。俺を庇うな、邪魔するなということで金蔵が怒るんですよ。夫婦喧嘩のようなもので、でも、おかめとしては金蔵を助けたいんです。ノミがついているからそれをはらってあげたいなどですね。

ーーおかめがささらを擦っていたのは、何かしていたんですか?
ささらっていうのは、肉を切っているということなんです。ジャカジャカジャっていう音を出して、切るんです。で、それも金蔵が「俺の仕留めたやつを何する!」と怒るわけです。

それからお昼ご飯を食べに、近くのお店に中華料理を食べに行った。そこで、ボリューム感や味付けなどの観点で、本当に美味しい中華に出会えて、とても嬉しかった。

それから、13時に秋葉神社に着いた。ここでは時間通りには始まり、街の中のこじんまりした社であった。ここでもしっかり金蔵が披露された。金蔵の演目は先ほどの度瀬神社では19分ほどであったが、ここでは16分ほどの演舞時間だった。少し短縮して実施されたようで、曲の演舞もなかった。しかし、ここでもお客さんがたくさんいて、さすがの演舞だった。

それから、獅子舞についていくと、2手に分かれて、家々を回っていた。家々を回る演舞のことを、この地域では「カイダン」というようだ。道路の向こう側とこっち側という風にして、並行して進んでいく。病院や郵便局などでは、先ほどの秋葉神社の時と同じように金蔵を演舞するものの、個人宅では小走りに走って玄関の中まで入ってきて、その家の方の頭を噛むというのが基本的な動き方だった。

また獅子舞と同時に、鶏闘楽(けいとうらく)が家々を回る姿も見られた。鶏闘楽とは、大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P107によれば、「鶏を鳴かせて天照大神を天岩戸から呼び出したこの鶏の声に鉦の音が似ているところから、こう呼ばれる」とある。

さて、それからスーパーに寄っているうちに時間が過ぎ、再び獅子舞を追いかけた。田んぼに映る雲を見て、ああ、春になったと思った。これから稲を植える田んぼはたっぷりと水が張られていて、その向こうにはなだらかな山がそびえている。

さて、廣瀬神社には15時にたどり着いた。ここでは曲と金蔵が演舞された。お客さんの人数がとても多かった。狛犬にしめ縄と紙垂がつけられていて、演舞を見守っているようだった。

ここにきて気づいたのが、この地域にはカメラマンが少ない。三脚を立てているのが、僕ぐらいしかいなくて、安そうな一眼レフカメラを携える方はいるものの、圧倒的に携帯で動画を撮るという人が多い。あまり観光化が進んでいない証だろう。たまたまツーリングで通りかかった外国人観光客が数名いたが、外部の方はそれくらいだったかもしれない。

これは県指定の金蔵獅子があまり対外的に認知が進んでいないということの証でもあるが、その反面で同時に今の姿を保って欲しい気持ちもあった。どうしてもカメラが多くなると、祭りが観客に媚び始めることもある。その意味では、適度に在住者が多くて、観客もいて、非常に素晴らしいバランス感で継承されている獅子舞であると感じる。

さて、ここでの演舞も度瀬神社の時と同じくらいの長さで、素晴らしい演舞だった。それから、スーパーやタクシー会社などで舞い、終了となった。

改めて広瀬の獅子舞を振り返ると、さすが世帯数が多い地域である。どこも非常に多くの人が境内に詰めかけていた。鶏闘楽がまず実施されて、その後に獅子舞という順番が徹底されていた。また獅子舞は曲、金蔵の2演目で、この構成は度瀬神社と廣瀬神社で共通。あとは秋葉神社では短縮版の金蔵が実施される流れだった。また、この地域は朝から夕方まで、2組の獅子・金蔵・お亀が地区の回壇を実施。熱心に町回りをされている印象だった。地域に根付き愛されている獅子舞という感じがした。

さて、この日の最終演舞を見届けて、飛騨国府駅から高山駅まで電車で戻った。それから、高山で風呂に入り、食事をとって、帰路についた。そして、電車で名古屋に到着。日を跨いで間もない夜行バスで東京へと帰った。

金蔵獅子の歴史

さて、ここからは5月3日に高山市立図書館、そして5月4日に国府分館で調べた文献をもとに、金蔵獅子について深掘りをしていきたい。飛騨国はどうやら「獅子舞の生きた博物館」と言われることがあるようだが、それほどに獅子舞が盛んな土地である。なぜ金蔵獅子は始まったのだろうか。

その最古層にあるのは、「獅子殺し」という発想にある。岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年)P16によれば、「古代から中世の飛騨国は、汎日本海文化圏の文化周圏地であり、祭政一致の当時の国司は天津社・国津社の宮司も兼ねていた(六五〇年)。従って、神事芸能の指導も行っていたと推定される。殊に古代飛騨の支配層は帰化人達(七四九年=大野郡司高市麻呂・七六六年=百濟王利善・七七四年=秦忌寸伊波多紀)であったから伎楽の普及も頷ける。この[獅子殺し](現在呼称<<金蔵獅子>>)も、この帰化人達の作品かも知れない。飛騨では、昔からの呼称[曲]と[獅子殺し]を統合して、昭和10年以降に<<金蔵獅子>>と呼称する村落も有る」とする。ここで非常に重要なのは、飛騨国の支配者層が帰化人であるということである。しかし、北陸周辺の加賀獅子や富山県の数々の獅子にも共通する獅子殺しの演目を一括統合して、その獅子殺しの起源とするにはかなり難しい論に思えなくもない。もう少しミクロ的な視点で検討をしてみよう。

大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P106によれば、「広町・金桶・上広瀬の3集落には、現在県指定無形文化財の金蔵獅子がある。この沿革は、飛騨国造大八橋一族が金桶・名張・広瀬の地に繁衍した上古において、耕作に大害のあった野獣を狩って農作の豊饒を神に祈った事より起因し、天正年間(1580年)この地の城主広瀬宗城氏の代に大成した、ということで、年中行事として秋の新穀感謝祭に奉舞されている」という。

また、国府町史刊行委員会『国府町史 民俗編』(2010年)P318によれば、「金蔵獅子は、北陸系代神楽による伊勢のお札頒布の折に演じた「余興芸」の演目が、飛騨や北陸に定着したもので「神楽芸の獅子神楽(神楽獅子)」である」とする。また伊勢大神楽の分化として、旧高山市以南に伝わったのが一人立ち、北飛騨に伝わった二人立ちを金蔵獅子として位置付けている。いずれにしても、その伝播経路を辿ると、伊勢にたどり着くというのだ。代神楽の「棒使」と金蔵獅子の「金蔵」は同じような役割を担うようである。伊勢大神楽は尾張熱田派から江戸熱田派に伝播、それが甲斐、信濃を経由して、江戸文政期〜江戸末期にかけて飛騨へと流入している。今日の岐阜市周辺には明治維新後の現代において、風紀を乱すということで、中学区ごとに「獅子舞禁止」が通達されたことがあったそうだが、それより北側の地位域では獅子舞が盛んに実施されている。

またP320では「「金蔵獅子」の源流となるものは、三重県太夫町「神楽獅子」、愛知県鳳来寺町「田楽祭」、長野県阿南町「新野の雪まつり」などにある芸能に、「田畑を荒らす獅子を悪霊の猪(しし)に見立て、天狗や鬼がこれを鎮める舞」があり、このテーマを採り入れたものが飛騨に伝わる「金蔵獅子」である」とする。確かに野獣退治の側面から考えれば、その必要があるこの田楽系統の舞いを伝承する地域の影響も受けていると思われる。

また、金蔵獅子の伝播のハブになったのは、幕末に古川町の数河獅子が「金蔵獅子」を導入して、明治期に評判となって広まったという側面も大きい。国府町(広瀬、上広瀬、金桶、桐谷、漆垣内)もこの時に、数河獅子の「金蔵獅子」を取り入れたようである。P322によれば「国府町広瀬町は戦後に古川町種村へ、金桶は戦後に小坂町小坂へ、桐谷は明治期に高山市下切町へ、また同下切町は戦後に久々野町橋場へ金蔵獅子を伝承した」とあり、国府町は第2の伝播のハブになったようである。また、明治元年に「神仏分離令」があり、「神道国教化政策」によって、飛騨では獅子舞導入が進んだようで、全国的な傾向でもあろうが、この政策が獅子舞の伝播の遠因になっていることも検討する必要がある。また、昭和29年に広瀬町の金蔵獅子が東海三県芸能コンクールで金賞を受賞するなど、非常に芸の技能が名高く、金蔵獅子が世の中に知れ渡ることとなる。

主な構成としては、笛、太鼓、ささらすり、獅子、金蔵(男神)、お亀(女神)となっている。1曲目に神前奉納としての「曲」、2曲目に余興芸としての「金蔵」が来ることで、その緩急が人々を楽しませる側面があるように思う。


金蔵とお亀の深い関係性

そもそも金蔵とお亀というこの得意な登場人物はなぜ生まれたのか。元を辿れば、これは猿田彦と天鈿女であることは想像に難しくない。この関係性はひょっとことお亀というペアで表出するような地域もあると思うが、この岐阜県北部の高山地域の金蔵獅子というのは「金蔵」という呼び名が登場することに特殊性がある。

金蔵は天狗面を被り、鶏毛冠をいただく。紅白の段々巻をした短棒を握って、獅子の進路を遮る。獅子はその威圧によって衰えると、すかさず金蔵は背に馬乗りになる。それに対して、獅子は怒り狂い、金蔵を振り落とす。この攻防が非常に迫力があり、妙技が見える。

お亀はお福面をつけて、ささらを持ってすりながら、金蔵を手助けをする。獅子の背から振り落とされた時は手や脚を撫でて、その元気の回復に努める。しかし、金蔵はことあるごとに、介抱をするのを嫌って打ったり蹴ったりする。広瀬の金蔵獅子の担い手によれば、「ささらを擦るのは、肉を切る様子を表しています。自分が切った肉に手を出して調理をしようとするので、金蔵はそれを嫌がるのです」ともおっしゃっていた。このような状況の中でも、お亀はひたすら金蔵を介抱し続ける。最後に金蔵が獅子を押し倒して、短棒によってその後頭部を刺すと、獅子に跨って天を仰ぎ凱歌を奏する。お亀はそれを真似て右往左往してその悲壮な場面に、滑稽さを添えるのである。表面と裏面の関係性ともいうべきか、物語の楽しみ方にある種の深みを持たせている。

大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)P106によれば、「女神の情熱と嬌態は、まさに見る人の爆笑と情感をそそる」とある。お亀は金蔵に恋をしているのだろう。その熱っぽさとか、媚びている感じとか、そういう情感が伝わってきて、それを笑いに昇化させている。もちろん、現代においてこのようなところまで読み取れる人はほとんど存在せず、会場にお亀の所作が笑いを起こすことはなかった。人々はただ、なんかお亀がいるなあ、くらいにしか思わなかっただろう。でも、その裏側には、さまざまな物語が渦巻いているのである。

これはある種、男性優位社会の現れでもあり、女は男に対して、何があってもただひたすら尽くさなければならないという条理を表しているようにも思える。しかし、その反面で、男にはある種のプライドがあり、弱さを見せたくないという可愛げある条理も存在するようにも感じられる。ここに、男女の助け合いの普遍性について、考えざるを得ない。


演目「曲」の源流と分布

それから金蔵とともに演じられる曲の演目について。岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年, 岐阜県教育委員会)P16によれば、「この「曲技を伴う獅子舞」は広く阿蘇山麓(虎舞と呼称)から飛騨までの西日本に分布し、能登・北陸・飛騨では<<曲>>の呼称で伝承されている。曲獅子圏の東限である飛騨の中で異色な舞風は、現在全国で三ヶ所にしか伝承されていない、基盤上で曲伎をする獅子舞である」とする。この3箇所とは、京都市中堂寺の六斎念仏の演目の「基盤獅子」、吉城郡河合村稲越(小雀獅子)、吉城郡国府町名張一之宮水無神社(台獅子)としている。この分布は非常に興味深く、碁盤に獅子が乗るという系譜の珍しさを強調する。


獅子舞の名付けの謎

金蔵獅子系統の獅子舞には、なぜか町ごとに「小雀獅子」や、「槍獅子」など、その獅子の性格的なところを踏まえたニックネーム的な名前がつけられている。これは団体名というよりかは獅子の特色を踏まえた呼び名のようなものだろう。この傾向は金沢の加賀獅子にも見られ、町ごとに「〇〇獅子」とこちらも名付けられる。この謎の「獅子舞の名付けの文化圏」の存在に気がついてはいるものの、その発端がどこにあるのかがわからない。

ちなみに、金沢、津幡、射水、砺波等で見られる熊の皮を張った熊獅子の系統は、岐阜県高山市で継承される県指定重要無形民俗文化財・荒城神社鉦打獅子舞(あらきじんじゃかねうちししまい)でも見られ、「熊獅子」と「曲」の2種類を伝承する。この獅子舞の歴史は鎌倉時代まで遡るかもしれず、熊獅子の源流と関わっているかもしれないので、今後詳細に調べて、熊獅子の伝播域にも注目したい。

参考文献
国府町史刊行委員会『国府町史 民俗編』(2010年3月, 国府町史刊行委員会)
大谷大学民俗学研究会『総合民俗調査報告書 飛騨 国府町の民俗』(昭和57・58年度, 国府町教育委員会)
岐阜県教育委員会『岐阜県の民俗芸能ー岐阜県民俗芸能緊急調査報告書』(1999年, 岐阜県教育委員会)

橋から逆さに吊るされる獅子舞!ルーツを辿る。長野県千曲市 「雨宮の御神事」9年ぶりの通常開催

橋から逆さに吊るされる獅子舞がある。2026年4月29日、長野県千曲市雨宮に伝承される雨宮の御神事を訪れることができた。3年ごとの実施であり、しかもコロナ禍を経て9年ぶりの通常開催ということで、今回非常に貴重な機会に立ち会えた。

夜行バスで長野駅に到着、そこから鉄道で屋代駅へと向かった。長野県に来たという実感が徐々に湧いてくる。やはり高い山が街と近いという印象を受け、そこに寂しさとか暖かさとか清らかさを感じるのだ。屋代駅で降りると、まずは朝に空いているデニーズに立ち寄り少しの時間を過ごしてから、千曲市立図書館へと向かった。ここであらかじめ文献を調べてから、30分ほど歩いた。

12時半には雨宮坐日吉神社の境内に到着。神社の前の通りを太鼓を打つ人々が練り歩いている。全国から人が押し寄せており、知り合いにも何人もあった。あらかじめ保存会の方に頼んであった冊子を購入し、場所取りをする。

いよいよ境内での踊りが始まる。神事の流れは以下の通りで実施された。振り返っていこう。

<雨宮の御神事の流れ>

13:00〜 本社前 朝踊り・城踊り
14:20〜 若宮社 踊り
15:45〜 北町 踊り
17:05〜 御旅所 踊り
17:40〜 若宮社 入り口〜本社 入り口 早駆け
17:50〜 大鳥居前 呼び上げ
18:05〜 御立ち会 化粧落とし・踊り
18:30〜 斎場橋 橋懸り・踊り
19:00〜 唐崎社 踊り
19:30〜 神社帰還 お道具納め

本社前で踊りの開始

まずは本社前での朝踊りと城踊りから始まった。初見の印象として、あまりクライマックスのない踊りだと思った。自然に始まり自然に終わる。淡々としており、脚色されていない感じがする。

基本的な踊りの構成としては、天狗面を被って高下駄を履いた「御(大)行司」を先頭として、「陰獅子」と「宝寿獅子」、そして神面をつけた「六大神」、作神様を表し鍬を振る「御鍬」、童子の「児踊り」6名と神前で小さなお宮をつけた傘を被る「中踊り」1名、そして、「陽獅子」2頭、そして、笛・歌・太鼓の諸役というような順に並んでいる。踊りの集団の四隅に獅子が配されている印象である。それで太鼓の音をベースとして、踊りが展開される。御行司の横には刀と大団扇が配される。大団扇には表裏で赤と白のマークが対照的に描かれている。とある担い手に「一番偉い人が持って歩くんだ。表を裏返す瞬間もある」と教えていただいた。

六大神

御鍬

太鼓


若宮社から御旅所へと町を巡る

それから大鳥居を抜けて若宮社に行き、そこでも同じような踊りが実施される。非常に神秘的な場所で、空洞のケヤキの御神木があり、とても堂々として佇んでいた。ここでの踊りが20分あったのちに、休憩となった。

その後、雨宮坐日吉神社の大鳥居の方面から、神輿が出てきた。甲冑武者や宝剣持ちなどもいる。神輿の担ぎ手は「ゆうとーゆうとー!」と珍しい掛け声をしている。たまに、子どもたちが「大きな声出したらお金もらえるらしいよ」と噂しあって、大声を出している場面がとても良かった。あと、途中に伝統的なお囃子が鳴る中で少しだれてきて、学校か習い事か何かで野球をしていると思われる小さな子どもが野球の応援歌を友達と歌い始めて練習をし始めた姿には笑った。このような厳粛な行事の緊張を溶かすような場面であった。

木の箱を紐で肩からかけている担い手(六大神役)がいて気になったので、これは「何が入っているのですか?」と尋ねてみると、「烏帽子です」とのことで、出して見せてくださった。人によって、木の箱に書かれている内容は違うらしく、その中でも位があるようだ。それがどうも出しづらくて頑張って出してくれた。「きっちり入っているんですね」。懐に入っていた牛乳パンが転げてしまって、そのことに気づかずに歩いて行ってしまいそれを手渡す。

また背中にはオンべという御幣のようなものを付けている担い手がいるので「何かに使うのですか」と尋ねてみると「特に付けておくだけですよ」と教えてくださった。神輿行列の各所に共通した紋が付けられており、これについて尋ねると「雨宮坐日吉神社の御神紋です」と教えていただいた。

それから、宝剣を立てる派の古老と斜めに持ち歩く派の若手との間に、揉め合いがあった。古老としては「見栄えが良いから、伝統だから」と宝剣をことあるごとに垂直に立てようとするが、若手はそんなこと気にしなくても持ち運びやすいやり方が良いと譲らない。伝統をどこまで継承するべきかの論争があり、非常に興味深かった。

途中、北町を経てそこから御旅所に向かうときに、神輿は若宮社境内を通らずに神輿行列と踊り行列の経路が違う箇所があったが、これは神輿行列の道幅に耐えうる道を選択したということらしい。

獅子たちが走り出す「早駆け」

比較的、御旅所までは淡々と進んでいくが、この行事の最も盛り上がりを見せるのが、早駆け、化粧落とし、橋懸りという後半部分である。

早駆けでは太鼓が早打ちへと変わり、一向は走り込んで、雨宮坐日吉神社の大鳥居の中に駆け込む。これはなぜ走るかというと、神霊の形をとった童子の行列がやってくるからだと言われている(この童子が何を示すのかはよくわからない)。

獅子のタテガミを剥ぐ「化粧落とし」

また、化粧落としでは獅子のタテガミを見物客が競って剥ぎ取るということであり、このタテガミを家の軒に吊るすと疫病払いになるとされている。また神棚や仏壇に備えると良いらしい。また箪笥に入れると、虫除けになるともいう。

獅子を橋に吊る「橋懸り」

そして橋懸りでは、沢山川にかかる斎場橋の欄干で獅子4頭が吊るされて、ロープで逆さに吊るされて徐々に水面へと近づいていく。この吊るされ方に関しては、橋の上流方向2頭、下流方向2頭という配置で、それぞれの2頭がオスとメスの対になっているようである。

そして、ついに水面についた獅子頭を前後に揺らして、激しくふり、災いや厄を水に流していく。怨霊の祟りも水に流して、田植えに向けて五穀豊穣を祈る行事である。獅子頭からこの時に化粧落としで剥ぎ取られていない残った和紙が川を流されていく。沢山川はまもなく千曲川へと合流し、そこから野沢温泉を越えて新潟に入り、信濃川へと注ぐ。そこから十日町などを経て寺泊に注ぐ。この日本で最も長い川に流される。この紙が新潟県にたどり着く頃、雨宮地区では小麦や玉ねぎの収穫を終えて、田植えが始まるそうである。

もともと橋懸りという言葉は能の世界でも使われるが、能舞台の「鏡の間」と「本舞台」をつなぎ、演者の入退場に使われる、廊下のことである。これは通路というよりは、それだけではなく、現世と霊界をつなぐ重要な空間という位置付けがある。まさに、今回の橋懸りでも、あまりに非現実的な光景であり、どこか霊界に続くような神秘さが見られた。もともとは小さな橋で行われていたそうだが、現在は落差が大きい斎場橋で実施されている。「斎場」と言えば葬儀場を思い浮かべるが、おそらくそういった冥界へと通じる場所であることは明らかである。

個人的にはこの橋がかりがロープ越しに、他人に身を委ねるという行為に大きな意味があるような気がする。これが村の絆を高める要素でもあると思う。担い手はこの後の唐崎社でのテレビの囲み取材で「今回9年ぶりの通常開催とのことでしたが、それ以上に今まで500年以上の歴史があるという由緒あるお祭りで、今回盛大に開催できたことがとても良いことだなと思いました。全国高齢化も進んでいると思いますが、だんだん若い方に引き継いでいくことも大事だと思いました。途中で獅子が上がらないという感覚にもなって体力が必要でしたね」というお話をされていた。橋懸りの担い手にも大きな責任感があり、それに臨んでいる姿がありありとわかるようなお話だった。

唐崎社での踊り、本社への帰還

夜の最後の演目。見物に来ていた方が「これは麒麟獅子舞に似ている。ゆっくりしていて、自然に始まり自然に終わるんです」とのことだった。紙を川に流した獅子はどこか、純粋無垢な存在として、今後、蘇生される魂のようにも思われた。それから社殿に戻ると、一行は本社の拝殿前の灯籠の周りを3度回転して、拝殿に礼を捧げ、そして道具納めの流れとなった。

行事の終了間際、最後の場面を見にきているおばあちゃんが「高い区費を払っているんだよ」と教えてくださって「いくらぐらいですか?」と尋ねてみると「5千円だよ」というお話もあった。地域住民にとって、非常に重要で大きなお祭りであり、盛大に盛り上げようという意気込みがあるからこそ、区費もはずむということだろう。

とにかく深い祭りだと思った。「謎が謎を呼ぶ祭りだ」と僕は口々につぶやいた。不思議で解明できないことがこれほどまでにたくさんあることに喜びを覚えた。なぜ紙を張るの?なぜそれを人々に分け与えるの?疑問は尽きない。

雨宮の御神事の歴史

ここからは文献等を調べた知識をはじめとして、情報を補足していくことで、この祭事の深いところに迫っていきたい。

神社と祭事の始まり

この神事の歴史は500年以上とも言われており、その始まりは鎌倉時代に遡るという話もある。というのも、雨宮と屋代に日吉神社が勧請されたのが、鎌倉時代に遡ると言われており、森・倉科・生萱・土口・雨宮の5つの村による雨宮坐日吉神社と八代村の須須岐水神社との合同祭事であり、非常に大規模だったようである。互いに山王社であり、山王信仰の影響をうけているわけで、滋賀県の日吉大社とのつながりが深く、また御祭神に大国主命(大己貴命)が入るわけである。また、4月の申の日にもともと祭りを実施してきた経緯があり、これは日吉の猿と関連しているのであろうと思う。社号はもともと「天ノ宮」だったそうだが、ある日照りの年に降雨祈願をしたら神霊の加護があり忽ち喜びの雨が降ったそうで、神徳をたたえて「雨宮」と表記を改めたようである。

女性の怨霊がきっかけ

この雨宮の御神事の由来について、日吉神社の勧請がきっかけだったにしても、その起こりに関する物語が伝わっている。それはなんと、豪族の浮気だった。『雨宮古老談』(1623年)という資料には、このような内容が書かれている。生仁(現在の長野県千曲市生萱)の豪族である「種津殿(たなづどの)」が矢代に住む「お飛礼(ひれ)」という女性と浮気をして、妻の「雲井の前」はそれを恨んで死んでしまった。それ以来、「雲井の前」の怨霊の祟りが村中に及んで、村人の狂乱や急死が続き、雷雨、洪水、バッタなどによる蝗害(ごうがい)などの天変地異が続いて、田畑が荒れて疫病が流行したという。

その祟りを鎮める目的で祭りが実施されるようになった。同時に、日吉神社、若宮社、唐崎社、姫宮などもこの雲井の前の怨霊をまつった場所だとされており、この行事の経路もこのことと関係しているように思われる。この祭りには怨霊を鎮め、疫病を鎮め、そして五穀豊穣を祈るという目的ができたわけである。なお、祭礼行列に組み込まれている中踊りの役は、「雲井の前」を表しているという土地の言い伝えがあり、ここでは稚児が神の依代となっている。

中踊り

京都の祇園御霊会からの系譜

また京都の祇園祭の始まりは祇園御霊会であり、崇神天皇の祟りと疫病鎮めであったことを考えると、この系譜として始まったものとも考えられる。このような祭りでは、祭りの行列が艶やかな仮装を凝らして練り歩くものだが、これは京都のみならず、鎌倉時代以降に地方で流行するようになり、室町時代にはさらに遠隔地へと広がったとされる。

また獅子が橋懸りによって逆さまに吊るされて、川に向かうのは、厄を川に流すという「御霊送り」の意味を体現したものであり、ここには祟りの元凶である怨霊をはなやかな踊りやお囃子で盛大に送り出すという姿にそれが体現されている。これはある種、雲井の前の祟りの鎮送でもあり、中踊りの扇子がこの時に川に流されるのもその理由があると思われる。このようにあらかじめ祟りを鎮送することで、その眼差しは実りへと向けられる。この行事には田畑の豊穣を祈る意味があり、御神事の中に御鍬が入っているのは、その豊穣の予祝のためであろう。

祭事の体制の変化

天文22(1554)年の第1次川中島合戦では、雨宮坐日吉神社は武田方の本陣となった。明治時代に入ると、明治22年(1889年)の市町村制施行によって廃止された。その後、雨宮坐日吉神社の春季例大祭に際して、雨宮地区のみで3年に一度の御神事踊り奉納という形で、この祭事が現在も続いている。

雨宮の御神事の獅子踊りについて

獅子の頭数

この獅子については非常に珍しすぎて、何から書けば良いものかと考えていた。まずは獅子舞の頭数である。一人立ちの獅子舞の全国分布を見ると、1頭、3頭はまず全国的に見て、非常に多い。それから愛媛県や東北のしし踊りを考えると、5頭、7頭、8頭、12頭あたりも多い。二人立ちも合わせれば無論、2頭も非常に多いのだ。しかし、4という数字は獅子舞の頭数では飛ばされがちである。それが、今回はなぜか4頭だった。しかも全て一人立ちだ。これは非常に珍しいのだ。もともとは5つの村の合同で催事が催されていて、雨宮以外の4つの村がそれぞれ獅子を一頭ずつ出して計4頭となっている。

獅子の配置

獅子の配置は陰陽五行にもとづいたものだろう。陽獅子2頭、陰獅子2頭の構成であり、陰獅子のうち、神社拝殿(御行司)側からみて左手にいるのが宝珠獅子である。その名の通り、頭に金色の大きな宝珠を抱いており、その対となる陰獅子には角がついている。これは左大臣、右大臣と同じ考え方で、左の宝珠獅子の方がより位が高いという格式を示す。その他の陽獅子にも角がついている。この陰獅子と宝珠獅子の配置を見ていると、どこか、東京の浅草神社のびんざさらの時に出てくる獅子の様相を思い出すのだが、この配置は古式に則ったものだろう。それからこの陰獅子と陽獅子のうち、陰獅子がいつも先頭に近く、上座ということになっており、陰獅子を「めじし」と読むことから「雌」となっている。これは黒い紙を歯として貼り付けていることから、「お歯黒の特徴」が見られ女性的である。そして、末座には陽獅子が配されて「おじし」と読むことから「雄」となっている。こちらは銀の紙を歯として貼り付けている。

宝珠獅子

陰獅子

陽獅子

紙による厄祓い

それから、この獅子には「1200枚以上の紙が貼られている。和紙はたくさん購入してくる。」と担い手から伺った。ふさふさの紙の中には目玉も取り付けられているようである。花が非常に大きく、赤い色をしている。この紙は厄を祓うという役割があるのは明白で、獅子の頭を振るのもこの紙を振るためであろう。そして厄を振り切った獅子はその穢れに触れ続けた紙を化粧落としによって剥いで、そして斎場橋で川に流すのである。祝福を与え、そして厄を祓った獅子はその橋懸りののちに、唐崎神社でその一連の行事の踊り納めをする。剥き出しになった獅子は、やり遂げた実感を持ちながらも、夜の闇の中で秘めやかに踊り輝くのである。

動きは座った状態とうつ伏せに寝た状態では右に振って左に振ってという比較的シンプルなもので、立った状態になると回転するなど動きがやや複雑になるような印象だった。各場所で動きは比較的似たような感じだったが、唯一、雨宮坐日吉神社の拝殿前では、うつ伏せに寝るという動きがあったことを思い出す。

それから踊りの集団の四隅に獅子が配されていることは非常に興味深いもので、関東一円に伝承される三匹獅子舞では舞う集団の四隅に4名のササラが配置される。今回の神事ではこのササラの位置に獅子が配されているというのは非常に興味深い事実である。ある種の結界を形成する異類としての存在が、獅子の概念と共鳴したのかもしれない。

御頭神事との共通点

この獅子舞に関して、伊勢の御頭神事との共通点が見られるというのは、新しい発見であった。それは例えば以下のような共通点がある。

・御幣としての紙を獅子頭に大量に貼り付けて舞い、後にそれを人々はもぎ取るという行為の存在
・後半で獅子が走り出す場面がある
・切り払いや橋懸りのような厄の消滅を促す行為があり、それが村の外れの他村との境界で実施される

以上の3つの観点が大きいように思う。そこに疫病退散という意図も生まれる。今回、現地に見学にいらしていた有識者の方がちらっと「御頭神事は火で、雨宮の御神事は水なんですよね」とおっしゃっていたのが大変興味深かった。確かに、厄を何によって滅却させるかといえば、御頭神事は松明の火であるし、雨宮の御神事は沢山川という川の水に流すという行為につながっている。また御頭神事の中でも「掛橋の御頭神事」では、舞い出した獅子が水面に顔を映す場面があるという。

北信州には長野の大神楽系の獅子舞は数多く分布しているが、それらが広がる前の御頭神事が広く勢力を持っていた時の古風を今に伝えているのかもしれないと感じる。

一人立ち獅子舞の分布域

それから今回の獅子舞をはじめ、南信州よりも北信州に一人立ちが数多く分布するのはおそらく縄文文化に根ざした生活風土が最後の最後まで残ってきた土地だからだと感じる。鹿や猪などの狩猟文化と一人立ちの獅子舞とのつながりが深かったからであろう。東北のしし踊りから関東の三匹獅子舞へと続く分布帯の最西端はこの北信州の一帯であると位置付けることもできるかもしれない(これは雲浜獅子や宇和島の鹿踊などの大名転封による伝承ではなく民間伝承や生活文化の結びつきの中での広がりによって点ではなく面的に分布域が決定していく由来を辿ったときの考え方)。その一方で南信州には大型の屋台獅子、籠獅子などが分布し、大型の獅子舞の宝庫となる。この差異は文化圏の違いとして面白い特徴を見せているように思う。

 

参考文献

長野県教育委員会『雨宮の御神事 長野県無形文化財調査報告2』(1965年, 長野県教育委員会)
雨宮御神事踊り保存会『雨宮の神事芸能(御神事)』パンフレット(作成年不明)
長野県神社庁・監修『信州の神事』(1990年, 銀河書房)
春原 英一『雨宮県村誌』(1959年, 雨宮県村誌刊行会) 
信濃毎日新聞社編集局『信州の芸能』(1974年, 信濃毎日新聞社)
更埴市史編纂委員会『更埴市史 第二巻 近世編』(1988年, 更植市)

岩手県南部の鹿踊、成立の歴史とは?行山流舞川鹿子躍 菅原神社例大祭を訪れた

2026年4月25日、岩手県一関市舞川の菅原神社の例祭で開催された、行山流舞川鹿子躍を訪れた。今回、行き帰り夜行バスの0泊3日の強行取材となったが、非常に充実した日程となった。盛岡駅に朝6時につき、そして空を見ると快晴、背後に大きな岩手山。雪を被っており美しい。さて、ここから新幹線で一ノ関、そして在来線を乗り継いで陸中松川へとたどり着く。

ここから約1時間の道のりを歩く。ここら辺は東北砕石工場があったようで、石と賢治のミュージアムなどもあり、いきなり道端に工場で働いていた人々の等身大の人形が現れるなどギョッとしたが、工場の看板に建てられた石のフクロウの像に癒されるなどして、いよいよ山道に入る。これが想像以上に直線で、トンネルなどもあり、やや歩きづらさはあったが、それを抜けると、桜が咲く山里のささやかな暮らしがそこには広がっていて、心地よい小道を歩きながら、舞川の一関文化伝承館にたどり着く。早くつきすぎたので少し散歩をしてから中に入ってみると、担い手の方々が鹿踊の道具の準備をしているようだった。着用する装束や道具の多さや華やかさに驚いた。和気藹々としており、東京から来た方もいるようで、また岩手大学の先生や学生など、見学の方もおられた。

さて、伝承館から10時半ごろに出発。菅原神社へと目指す。一列になり、太鼓を叩きながら、ササラが伸びた鹿たちが群行する様子は、非常に迫力があり、澄み渡る空の下で遠くから見つめる地元の方々の眼差しも印象深いものがあった。菅原神社の鳥居の前に来て、行列は止まった。

ここから演舞は以下のような流れで実施された。まずは「鳥居ぼめ」である。菅原神社の鳥居前で舞い、鳥居を褒める。春の陽気に空高く明るい春の風に誘われて遠くまで音が響いていく感じが心地よい。

鳥居前の様子

そして、長く急な石段を登り、御堂の前では、御堂歌が歌われて、飛騨の匠が建てたというような褒め歌となっている。また、禰宜の歌も歌われる。

御堂前の様子

それから、神楽殿前に移動。ここで、「三人狂い」と花のお礼を受けたため「なげくさ」の踊りが披露された。

神楽殿前の様子

さて、演舞が終わり、一段は伝承館へと戻っていった。11時半には全ての演目が終了し、解散となった。全体として、約1時間ほどだった。昔は門付けで家を一軒一軒回っていた時もあったようだが、現在、その風習はないらしい。また、その舞い方をみると、太鼓踊り系の特徴がまさによく現れており、ササラが長い分、非常に迫力がある。また跳躍の箇所など躍動感があった。また、重く低く響きたまに高い音が鳴る太鼓と、低い声で歌う雰囲気が、やはり、この鹿踊の魅力のように感じられた。

その後は岩手大学の方々や担い手の方などの見学者とともに、道の駅かわさきでひっつみ定食をいただいた。そして、そのうちの一人の方に一ノ関駅まで送っていただき、京屋呉服店、一関図書館に寄ってから帰路に着いた。さて、以下は図書館で調べたことについても触れておこう。

行山流舞川鹿子躍の起源

舞川鹿子躍には「行山鹿子躍之由来」が伝わっている。その要約として、一関市史編纂委員会『一関町史 第3巻 各説II』(1977年, 一関市)P305〜306によれば、以下のように書かれている。

「鹿踊りの起源を前記「行山鹿子駆之由来」によって要約すると、天照太神が豊葦原を治め給う頃、天は天照太神が海原は月読命が、そして国土は素戔嗚尊が治めることになった。そこで尊は八百万の神達と共に天下り、紀伊の国八坂尾の郡八股村にいる八つ首の大蛇を征伐した。その後尊は稲田姫を伴い、大和国の春日山に御幸すると、春日の神は御迎として小男鹿の八つの御耳を揃えて尊に奉った。尊は悪鬼悪党を悉く平らげて、天照大神の許に帰った。太神は大いに喜び、神々を集めて幣を進め神楽を奏した。すると尊に従っていた小男鹿たちも太鼓の曲に打連れて踊った。太神は御感あって、鹿は春日の神の使者なれば獣にあらず........とて、春日野へ返された。その時から鹿の八つ連とてその世までも八人で踊る。又頭に八股の角を戴くのも八岐の大蛇を退治したことに始まる。(中略)これは元禄十三年七月、本吉郡水戸辺村、行山元祖、伊藤伴内持遠が書き記したものである」という。

伊藤伴内持遠なる人物がなぜこのような演舞、そして物語を思いついたのか。八岐大蛇の舞台が出雲国ではなく紀伊の国名となっていることは興味深く、おそらく春日大社が奈良県なので、そこと近い立地で物語を成立させた可能性がある。また、「八つ首の大蛇」や「鹿の八つの御耳」といった言葉は、「シシ」の考え方の起源に「死屍分割」の「死屍」の概念が含まれているように思われ、そこに日本神話を導入したことで権威づけが図られている可能性もある。いずれにしても非常に興味深い話だ。

また地域各所には「鹿子踊供養碑」があるようで、これには鹿に関係する神仏の伝説を集めて供養したものとされる。そこには「春日大明神」「不空羂索観音」「空也上人」などが記されているという。不空羂索観音は多くの腕を持ち、鹿の毛皮を身に纏うという特色あり。ヒンドゥー教のシバ神が野獣の毛皮を纏う山岳神であることと関係があるとも言われる。一本の羂は獣を捕まえる網、索は魚の釣り糸を意味するそうで、これらにより衆生を救う考え方からきているようだ。

また、「行山流」という名称の発祥について、一関市史編纂委員会『一関町史 第3巻 各説II』(1977年, 一関市)P306によれば、以下のように記載がある。「この伊藤伴内が「行山元祖」となるのは、彼が登米郡の伊達式部様に召使われていた頃、品川様(伊達綱宗)が仙台へ御入部になり、登米屋敷で鹿踊を御覧に入れると「ぎょうざんなる踊」とほめられ、品川様からは九曜星の紋、登米様からは輪違い紋の使用を許されたので「行山鹿子躍」と称し、装束にそれらの紋を用いたという」とある。「ぎょうざん」とは「仰山」のことで大きいや多いといった意味があるように思うが、それだけ迫力を感じたということなのかもしれない。これが今日の「行山流」という呼び名の起源になったようだ。

この話が生まれた「本吉郡水戸辺村」こそ「行山流」の発祥地であり、ここから直接伝授された行山流舞川鹿子躍は、非常に歴史ある行山流の初期形態を伝承しているように思う。一関市史編纂委員会『一関町史 第3巻 各説II』(1977年, 一関市)P306によれば、「その弟子に当る本吉郡平磯村の千葉平九郎から受け継いだのが、東山相川村馬洗の吉田猪太郎、七内の兄弟で、相川村に於ける初代であるが、その年代は明白でない」と書かれており、舞川は伊藤伴内持遠の弟子から踊りを習ったようで時代的にはそう遠くない話だろう。千田一司『行山流舞川鹿子踊り 中興三十五周年記念誌』(1991年, 舞川鹿子踊り保存会)P29によれば宝永2年(1705年)7月20日以前とのことだが、年号までは伝わっていないようである。岩手日報社出版部『いわての郷土芸能』(1992年)P90によれば、この伝来の時期について、「元禄13年(1700)」とあるが、おそらくこの年号は伊藤伴内持遠が行山流鹿子踊りの秘巻を書き記して、千葉平九郎などに伝授した年号と思われる。

行山流舞川鹿子躍の形式

拝見したところ、鹿8頭による舞であり、中央前方の「中鹿子」1頭(リーダー)、中央後方の「女鹿子」1頭、そして両脇の「脇鹿子」6頭(若い牡鹿)という構成である。鹿頭を被り、本物の鹿の角が取り付けられている。この角が8股であるのは、胎蔵界の大日の八葉(蓮の花が8枚の花弁を持つことに由来)を表現する。また、前に垂らす幕は内側から微かに覗ける構造になっており、外側からは中に入る担い手の顔が見えない。また鹿頭の背後の幕(流)には、八岐大蛇と素戔嗚命が描かれていたが、上記の由来と結びつくのだろう。幕の三つ巴は仏法僧、あるいは日月星を表す。

背後には白くて長い2本の2.5mほどのササラが長く伸び、依代のような意味がある他、それを地面に叩きつけることで禊を祓うような効果がある。また、締め太鼓を腰につけて細い撥で叩きながら踊る。この太鼓は天地万物未分化状態の「大極」に意味が通じ、撥はそこから生じる陰陽で合わせて雷を生じるほか男体女体を意味する(この概念は今年初めに早池峰神楽の鶏卵舞(鶏舞)取材時にも考えたことであり、その時のブログ参照のこと)。太鼓の上部を叩くときにはカッカッと高い音が出て、側面を叩くとダンダンと重く低く響く。太鼓踊り系のしし踊りの典型的な装束と道具の構成である。

他の地域と異なる点として、土佐舞と海の門中の演目が珍しいことや、岩手日報社出版部『いわての郷土芸能』(1992年, 岩手日報社)P91には、「舞いはじめに、ささらを大きく左右に振る」という特徴などが言及されている。また、中鹿子について年齢等の属性にかかわらず、全ての演目を習得した者が成れるという柔軟な気風を感じる。

行山流舞川鹿子躍の演目

最初の庭入り、入り羽。最後の引き羽のほか、役踊りが8演目ある。以下、役踊りの演目とその意味である。土佐舞と海の門中は非常に珍しい演目のようだ。

・三人舞(狂):3頭の牡鹿子が女鹿子をめぐり争う

・二人舞(狂):2頭の牡鹿子が女鹿子をめぐり争う(霧が出て引き分け)

・土佐舞:若鹿子が大海原へ泳ぎ出て波のうねりを体現し、独り旅立ちする

・鹿島踊:若鹿子が独り立ちする

・海の門(と)中:女鹿子が主役となる可憐な踊り

・かかし踊(鉄砲踊り):案山子を猟師と間違えて驚く、案山子の周りで遊び戯れる

・女鹿かくし:一頭の女鹿子をめぐって牡鹿子たちが争奪を展開

・墓踊り:先祖を供養する、個人を偲ぶ

行山流舞川鹿子躍の近況

昭和初めから昭和30年ごろまで休止していたようで、ちょうど戦時中、不況の時期などの事情があったとも言われる。それから地域の人々の復活への機運が高まり、昭和32年に保存会を結成。代々庭元を務めた吉田家から伝書を保存会が譲り受ける形で再開したそうだ。

女性が鹿に入るようになったきっかけとして「一番最後の庭元の後継が女性しかいなかったのが要因として大きいのではないか」というお話も聞いた。それが今では、中立を務める20歳の女性も現れるほどに、非常に柔軟な形で継承されていることが素晴らしいと感じた。「今は集まったメンバーで誰がどこの役割でもできるのが理想。中立できる人は一人しかいない団体も多い」というお話もあった。

また現在は小学校の授業でも鹿踊りを教わり、小学生向けには小学生用の装束があるという。道具作りは地域の方が自分で作れる方もいたようだ。一ノ関駅近くの京屋染物店に帰りに立ち寄ってみると、獅子踊りの幕や衣装の染めは、スタッフ総出で1ヶ月間それに集中するくらいの意気込みが必要らしく、普段の服の染めとまた違うやり方で実施。新調の注文は珍しいものであるというお話もあった。もともとは各地域の鹿踊団体に所属する個人が幕を作れる技術を持っていたという場合も多いそうで、その伝承の仕方も素晴らしい。

 

参考文献

一関市史編纂委員会『一関町史 第3巻 各説II』(1977年, 一関市)
岩手県文化財愛護協会『文化財普及シリーズ四 岩手の民俗芸能〜国と県指定団体のすべて』(1999年)
岩手県教育委員会『岩手の民俗芸能』(1982年)
岩手日報社出版部『いわての郷土芸能』(1992年, 岩手日報社)
千田一司『行山流舞川鹿子踊り 中興三十五周年記念誌』(1991年, 舞川鹿子踊り保存会)

佐藤 丕基・千田 一司『一関地方の民俗芸能 郷士の文化シリーズ No.26』(1998年, 一関市教育研究所)

行山流舞川鹿子躍保存会『行山流舞川鹿子躍 伝承記録【保存版】』(2002年)