【2021年9月】石川県加賀市 獅子舞取材 4日目 大聖寺耳聞山町・大聖寺今出町

2021年9月22日

10:00~ 大聖寺耳聞山町

区長・上田正義さんと、山田秀和さんにお話を伺った。もともとシンユウ会というものがあり、それが青年団の前身だった。青年団の復活が、25年前ごろで、そこから獅子舞を5年行い1回途絶えて、それから10年前に青壮年団が立ち上がって夏祭りをやろうということで獅子舞が再び復活した(過去の獅子舞の動画を撮ってあったので、それを参考に復活)。

菅生石部神社と春日神社で氏子が半分半分だったので、青年団の時はお正月の獅子舞をやろうということで、町内の内田さんが10人ほどの青年団メンバーを募り、舞い方を教えた。そして、予約が取れたところだけ、町内の家々を回った。朝回りだすと軒数が多い(150軒以上の時もあった)ので夕方までかかった。ちなみに、旧大聖寺川が菅生石部神社と春日神社の氏子を分ける境界線だった。耳聞山はもともと武家屋敷が多かったし、竹やぶの小高い丘もあったので、なぜ町内で氏子が分かれていたのかはよくわからない。耳聞山仲町に見聞堂という場所があり、それが耳聞山の名前の由来である。博士やら土地持ちの人が多かったのが町の特徴だ。

獅子舞の演目は過去かなりの数があったが、現在は1つしかやっておらず、太鼓と獅子のみの寝獅子である。「デコデコデン」というリズムから始まる。昔はそれから三角形を描くように舞っていたが、道路にはみ出す時間が長くなり、車を止めないといけなくなってしまうし、玄関前のスペースがない場合もあるので、結局前後に動く単調な動作に変わっていった。舞いの長短はご祝儀の額によって変えることはなく、むしろ疲れてくると舞いの長さが短くなったり、回る軒数が多いので太鼓を叩く手が疲れて動かなくなったりすることもあった。

獅子頭の製造年月日や場所などはよくわからない。修理を繰り返してきており、間違いなく50年以上、もしかしたら100年以上この獅子頭を使っているかもしれない。もしかしたら、戦前にも実施していた可能性がある。昔耳が取れたので付け替えたし、鈴も鳴らなくなってきたので、3回も追加で取り付けた。仮装山車をやっていた記録が昔のアルバムから出てきたこともあった。太鼓もかなり古いものを使っているが、いつに作られたものかがわからない。獅子頭は1つのみ保管されており、蚊帳は昔の紫色のものが1つと、新しくて赤いシンプルなものが1つ残されている。

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13:00~ 大聖寺今出町

区長の中野武男さんにお話を伺った。獅子頭は集会所や公民館がないため、清掃用具を置くような倉庫に保管されており、虫がわいてしまったようだが、それを綺麗にして用意してくださっていた。今は獅子舞を実施しておらず、平成2年くらいには途絶えていたと思われる。獅子頭の製作はおそらく白山市の鶴来に頼んだ。一番新しい獅子頭が作られたのは昭和48年で、それ以前にも同じような顔立ちの獅子頭があった。なぜか今の獅子頭は獅子から見て左側の歯が抜けてしまっていたので、舞い方的に左側に負担がかかっていたのかもしれない。

中野さんが初めて獅子舞に参加したのは昭和27年の小学校一年生の時だった。その頃から少なくとも獅子舞をやっていたが、それより前になるとどこまで遡れるかよくわからず、どこの町に習ったかも定かではない。昔から獅子舞は寝獅子で、寝るところから始まり、太鼓が「デコデンデコデンデコデン」となって起き上がって、あくびをして眠たいような表情をしてから、睨みを効かせるように斜めに持って舞った。子供獅子で小学校1年生から6年生がメインで舞いを行なった。蚊帳の中は小学校一年生で、獅子頭を持つのは小学校5~6年生、太鼓は小学校6年生か中学生が役割を担った。子供が25~6人いたので、一軒舞う毎に交代して回っていたし、蚊帳の中には少なくとも5人は一度に入ることができた。みんな入りたがるのだけど、5軒に1回くらいしか入れなかった。

ご祝儀は10円で饅頭が3個変買えるくらいの時代に100円くらいもらっていたような記憶がある。町内以外にも、肉屋、魚屋、八百屋、大同工業の社長の家など日頃から買い物しているところやお世話になっているところにも舞っていた。子供獅子だがいつもご祝儀をもらうときは大人が付いて歩いて「今出町です」と声をかけて歩いた。町内30軒の誰かがお世話になっていたら、それだけで舞いに行ったので、かなり広範囲のエリアを舞いに行った。他の町も舞いにくるので、商売をやっている店からすればご祝儀だけでかなりの金額が無くなってしまいそうだが、実際はそうでもなかった。なぜなら、獅子舞を舞いに行った町の人はご祝儀を出してくれる店をきちんと覚えていて、日常的に買い物などでそのお店を利用するようになるからだ。そうやって、獅子舞のご祝儀を始まりとしてお店に対する付き合いを始める人も増えて、お金が回っていった。つまり、商業地である大聖寺というエリアにおいて、獅子舞のご祝儀は経済を回して活性化させインフレを起こす仕組みとして機能してきたことがわかってきた。これこそ大聖寺加賀市内屈指の数の獅子舞が行われるエリアである由縁だろう。そう考えると大規模なスーパーマーケットが参入して個人商店が潰れたことが獅子舞の衰退にも大きく関わっているとも考えられる。

また、個人経営の各お店を回っていると、例えばお医者さんのところで違う町同士の獅子舞が鉢合わせることがあった。東北や東海地方の郷土芸能の話を聞いていると、鉢合わせた時に獅子同士をぶつけるということをよく聞くのだが、ここではそのような行為はなく、比較的平和に順番待ちをして譲り合いながら実施されているようだ。こういうことを考えると、大聖寺というエリアは行政区分に対する意識、または境界線の感覚が比較的薄いということなのかもしれない。

子供獅子は4月16日ごろの桜まつりの時に、学校の一限が終わってから早退して、10時ごろに出発した。お昼は昔経営されていたうどん屋に行った。そのうどん屋に行くのがとても楽しみだった。町内・町外からお金をもらって夕方ごろに町内に帰ってきて、ご祝儀の額を確認した後に、子供達はお小遣いをもらえた。そのお小遣いを持って、18時ごろに神明宮の近くの屋台に行って仮面を買ったり色々な買い物をしたりして帰ってきた覚えがある。集会所も公民館もないので、獅子舞の練習は3月20日くらいから近所の広場で夜19:00~20:30か21:00あたりの時間で実施していた。

もともと今出町は芸妓さんの町で、昭和50年前後まで華やかだった。神社は加賀神明宮で、廃仏毀釈でお寺がなくなってお宮さんになった。今出町の獅子舞も加賀神明宮と関わりが深い。また、昔は越前町にも弓町にも仲町にも銭湯があった。そこがコミュニケーションの場になっていた。しかし、現在は銭湯がなくなってしまったので、大聖寺の人は山中・山代・片山津などに行く人も多い。中野さんも温泉を巡る回数券を持っているようだが、歩いて行けるところにお風呂があれば…と感じているようだ。中野さんは「子供の頃は面白かったわい」と懐かしくその時代を振り返る姿はとても印象的だった。また、漆器関係の営業で東京都心から千葉県の茂原の方まで行ったそうで、僕が千葉から獅子舞の取材で加賀に通っていることをお話しすると、「おたくがこちらに来られる気持ちもわかる」とおっしゃってくださった。玄関先での立ち話だったが、たっぷりと獅子舞から地域のことまでお話を聞かせていただき、多くの気づきに繋がる取材となった。

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【2021年9月】石川県加賀市 獅子舞取材 3日目 大聖寺越前三ツ屋町

9月20日

19:00~ 大聖寺越前三ツ屋町

区長の山本誠さんにお話を伺った。越前三ツ屋町の獅子頭を出していただいたところ、その特徴は蛇の目の形をしていることから、 富山県由来のものだと推測できた。実際に現在の獅子頭は昭和28年に富山県の井波で作られたと箱に書かれていたので、その頃には少なくとも獅子舞を行っていたことが分かっている。しかし、獅子舞がいつ始まったのかということは定かではなく、その伝来経路も判明していない。第二次世界大戦の前から獅子舞は行われていて、その時の獅子頭はとても小さかったようだ。それから昭和28年に新しく獅子頭を買ったという流れである。また獅子頭のおでこの所に丸い小さな角のようなものがあり、これをもっている獅子頭は今まで1度も見たことがない。あと珍しかったことといえば、獅子頭が保管されている箱に鍵がついていたことと、獅子頭購入のための寄付者名が箱の蓋に列挙されていたことである。

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獅子舞は桜まつりの時期の2日間で行われ、その他の時期には行われてない。現在青年団は12~3人ほどいて高校生から50代の人まで本当に様々な年齢層が一緒に獅子舞を行なっている。その演目は基本的に太鼓と獅子のみで、棒振りや笛などは存在しない。桜まつり当日は基本的に2日間の中で行われるが、一部祭りの屋台が町内の家の前に立ってしまうため、そこだけ前日の金曜日に舞うこともある。 その時に金曜の夜に舞うことが多いため、近所の人にとっては迷惑になってしまうこともあるが、そこら辺は街の人が寛容なため成り立っている。他の町にも舞いに行くことがあり、各集会所が本陣と呼ばれているためそういう場所を中心に回る。ご祝儀の額によって舞い方を変えることはない。ご祝儀の額は他の町の青年団が舞いに来た時は基本的に3000円だ。また2年に1度民謡踊りというものがあり、子供が山車の舞台に乗って踊るというものがある。この場合ご祝儀は町内・町外問わず5000円が平均となっており、獅子舞よりは金額が大きい。祭りの流れとしてはまず加賀神明宮で奉納の舞を行い、それから公民館、町内の家々という順に舞いを披露していく。子供の民謡踊りが行われる年は基本的にまず民謡踊りを披露して、その後に獅子が演舞を行う。つまり山車に獅子がついて歩くというような形である。越前三ツ屋町は町内に13件しかないので、大聖寺錦町などは獅子だけ単独でガーッと回るがそういうことは基本的にはせず、山車と獅子のセットで回っていく。ちなみに、この民謡踊りが出てくる町はここら辺だと、大聖寺錦町、大聖寺本町、大聖寺越前三ツ屋町くらいである。昭和の時代に8~9割が商店街だった町なので、財を持っていてこのような豪華な山車と踊りが披露できたのだ。

越前三ツ屋町は元々、越前町と三ツ屋町が合わさった町名である。なぜその2つの合同になったかという理由は定かではないが、 現在、その2町の集会所は一つとなっている。この町には本当に様々な祭りの写真の記録が昔からアルバムで残されていて、一番古いと思われるものには年代が書かれていないのが惜しいところだが、それでも子供が大勢写っている写真があったので、昔は子供主体の祭りをしていたのかもしれない。子供が選抜制で舞うこともあったみたいで、それだけ子供が多かったのだ。

 

【2021年9月】石川県加賀市 獅子舞取材 2日目 篠原町・福田町・野田町・大畠町・大聖寺下屋敷町

2021年9月19日

9:00~ 篠原町

青年団長の西村健司さんと青年団の松本拓己さんにお話を伺った。同行は橋立公民館の吉野裕之さん。篠原町は本日が獅子舞の祭りの日で、9:30スタートだった。町民会館に着くと、青年団が6人ほど集まり談笑をしていた。青年団長は25歳で、その年齢が青年団の卒業の年齢とも重なるので、青年団の年齢は全体的に若い印象である。祭りが開始する前に獅子頭の撮影もさせていただき、祭りと道具撮影をそれぞれセットで取材ができた。獅子頭は鼻が割れている古いものと新しいもので2つ保管されていた。新しい獅子頭白山市鶴来の知田工房で知田清雲さんが作ったもので、古いものは加賀国金城住人の横山さん(塗り師と彫り師が同じ姓だが別人、兄弟か親子だろうか)が制作したもので、獅子頭の裏にその旨が記されている。どこから獅子舞を習ったとかについては聞いたことがない。ただ、お祭りの獅子舞の演舞を拝見した時に、ロッコイという掛け声をしていたのが印象的で、これは橋立地区によく見られる掛け声なので、何かしらそれらの地域との繋がりがあるのかもしれない。

いつもこの時期に、3日間土日月で普段は獅子舞をしているが、家の数はそれほど多くはなく、50軒ちょっとである。太鼓と笛と棒振りと獅子で構成されている。獅子の舞い方は2種類あり、笛は片方の舞いでしかやらない。今回なスペース的な問題もあり、神社の境内や区長宅などの限られたところでしか舞わないので、笛のない方の演目の方を行う。獅子舞に子供は関わっていない。獅子の動きはダイナミックで、後ろに大きく下がる動作もある。獅子の中には3人が入り、合計で7人は少なくともいなくてはならない。現状の青年団の数がその最低ラインをキープしている状況である。今日は午前で祭りが終わりなので、午後から車に乗る人もいてお酒は飲まないとのこと。コロナ禍なりにできることできないことがある中で、獅子舞を運営されていることがわかった。年齢的には皆20代前半ということで同年代同士ということもあってか、青年団の和気藹々とする姿は印象的だった。今回は若い青年団の方にお話を伺ったが、地域には神社のいわれなど詳しいことをご存知の方も多いようで、神社にいる狛犬は由緒ある子持ち狛犬だとかそういう事細かな話ができる方もいるようなので、またぜひお話を伺いに行きたいと感じた。

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10:00~ 福田町

肉のやなぎ屋の角谷裕司さんにお話を伺った。20年以上、獅子の舞い手として関わってこられた方である。同行は橋立公民館の吉野裕之さん。公民館は昔、仏壇屋だったので屋根が低く、大聖寺の商家の特徴として不届き者を槍で突ける高さで作られており、昔ながらの土間がある古民家の長屋を改築した作りだったのが印象的だった。元々子供獅子をやっていたが、途中で継続が難しくなって今は平成16年に白山市の鶴来で新調した大きめの大人用獅子頭で舞いを行なっている。新調の際は、浅野太鼓経由で鶴来に頼んで作ってもらった。なぜか浅野太鼓経由で鶴来に頼む例は大聖寺番場町などの地域でも見られ、その理由はよくわからない。今回の福田町のケースでいうと、鶴来で獅子頭を作っていると知らず、浅野太鼓の人に繋いでもらったそうだ。それからなぜかコミュニケーションの齟齬もあって飾り獅子が作られてしまい、少し重い作りとなった。

獅子舞を行うのは4月の桜まつりである。春だけで五穀豊穣とは関係がないので、秋に獅子が舞うことはない。山下神社の氏子なので、本来はそこから舞い始めるのだが、最近は山下神社まで行くということがなくなった。朝8時30分ごろから初めて40軒くらい町内を回り、昼過ぎから町の外の知り合いのところなどに舞いに行く。元々は座敷獅子なので座ってノミ取りから始まるのが基本だ。太鼓と獅子舞だけで舞う舞い方である。ご祝儀は昔は5000円から10000円も平気で出していたが、最近は3000円も多い。獅子舞の構成人数は獅子の中が3人で太鼓が2人で合計5人でできる。青年団のメンバーは20人弱である。ただし、青年団はかなり高齢化しており、最も若い人で35歳である。

獅子舞がどこから伝わったのかは聞いていない。福田町がどこかの町内に教えたというのは聞いたことがある。また、町民会館に残っていた写真によれば、1986年には既に子供獅子を法被を着ている子供が持っている写真が残されているので、その頃には子供獅子を舞っていたことがわかった。ただこれが持っているだけなのか、この時まで毎年舞っていたのか疑問が残る。また、獅子頭の新調の際は子供獅子と大人獅子で2体同時に舞った記憶があり、それが1986年の写真に記録されていたので、もしかするとこの年に獅子頭が切り替わったということかもしれない。角谷さんの記憶では子供が舞っていたのは30年以上前で、関栄の親子獅子にも似ている要素がある。角谷さんが冗談交じりに「獅子も髪が乱れてきたから町内のパーマ屋さん連れて行ったり、歯が欠けてきたから歯医者さん連れて行ったりせなあかんな」と行っていたのが印象的だった。

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11:00~ 野田町

予想外にテンポよく取材が進んだので、中々アポとりが難しかった野田町に電話をかけてみた。そしたら案の定断られてしまったが、何度も粘り強くしつこく頼んでみたら、「そんなもんをする人はダラ(アホ)や」と言われてしまったが、とうとう最後には「あと30分以内に来れば案内する」と言ってくれたので急いで向かい、公民館近くの草取りをちょうどされていた区長の南出健市さんに神社の倉庫のような場所をご案内いただいた。こういう方ほど、度がすぎるように頼むと逆に優しく対応してくれる。同行は橋立公民館の吉野裕之さんだ。

獅子頭の保管場所である倉庫に行くと、そこには提灯がずらりと並び、まずはそれが圧巻の光景だったのだが、その奥に埃をかぶった獅子頭が3体出てきた。白髪の獅子と、ゴツゴツした鬼のような富山型の獅子と、権九郎型の頭がこんもりとした獅子とで、各種全くタイプの違う獅子が出てきたのだ。推測するに、3代に渡ってタイプの異なる古い獅子が出てきたということはかなり昔から獅子が行われていたと同時に、かなり昔に獅子舞が途絶えたことだけはわかった。人手不足などもあってか獅子舞ができなくなってまず神輿に切り替えたが、それも今では行われていない。撮影時間は3分ほどと短く、獅子舞に関するお話はほぼ伺うことができなかった。以前野田町の獅子舞の印象を他町の人に聞いたとき、野田町では獅子舞をやった歴史はないという認識の人もいたほどで、野田の獅子舞について語れる人はかなり少ないような印象だ。

ただ、出てきた獅子頭は非常に珍しく、野性的な風貌をしていた。この面白さは、自分のようなよそ者を通してしか届けることはできないのではないかと思った。それと同時に食べ物を食べるくらいに分かりやすく実益的なことでないと町の人が直接関心を持つということは難しく、ひっそりと町の精神的な基盤を担ってきた公益的な獅子舞文化について個人個人が意識的になるということの難しさを実感した取材であった。

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11:30~ 大畠町

区長の山谷喜朗さんにお話を伺った。同行は橋立公民館の吉野裕之さん。町民会館は神社の横にあった。神社には、祭りの準備がしてあったが、今では提灯を灯すくらいであまり派手に祭りをするということはなくなっている。いつも祭りの日といえばこの9月の第三休日の時である。現在、獅子舞は行われていない。いつ途絶えてしまったのかは定かではない。非常に大きな角が生えている顔の小さな獅子頭とよく見る権九郎型で白髪の獅子頭の2体が保管されていた。前者は井波で製作されたもので昭和49年の年記銘が残っており、小型なので子供獅子だった可能性が高い。小型の顔に大型の角が生えている獅子頭は、大聖寺新町と大聖寺鉄砲町でも見られた。少なくとも昭和49年には獅子舞をしていたと思われる。棒振りが使う槍などが4本見つかったので、おそらく獅子殺しの演舞があっただろう。ただし棒振りが使う槍の形状は新しいので、そこまで長く使われたような形跡がない。

千崎町と大畠町を合わせて美岬町と呼ぶ。つまり、大畠町は厳密に言うと、石川県加賀市美岬町字大畠町となるわけだ。やや複雑な行政区に位置するのには、どのような理由があるのだろうか。美岬町の方が新しい行政区なのだが、美岬町には区長がいなくて千崎町と大畠町には区長がいると言う関係である。獅子舞もこの通り区長に紐づいて、千崎町と大畠町にそれぞれ存在するのだ(大畠町の方のみ途絶えてしまったというのが現状だ)。獅子舞の伝来経路の話で言えば、千崎町が橋立地区から獅子舞を習ったことと、千崎町と大畠町は地域的な交流が深いと言う関係から推測するに、大畠町も橋立地区の獅子舞の影響を強く受けているだろう。

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13:00~ 大聖寺下屋敷

大聖寺の600軒以上の建物に関わってこられた大工の市田信博さんにお話を伺った。同行は片山津の山口美幸さん。いつも桜まつりの際に子供会が主体となって、獅子舞を実施している。昭和58年7月7日に獅子頭を新調したのだが、公民館が新しくなった時の演舞に間に合わなかったため、その時だけ塗りをしていない獅子頭を持って子供たちが舞った。その時の様子を撮影した写真が下屋敷町の冊子に残されている。また、この時新調した獅子頭の値段は85万円だった。また、練習用の獅子頭が一体残されており、かなり簡易的で素朴な作りをしている。これは下屋敷町の獅子頭が新しく作られる時に練習するために北さんという本番用の獅子頭を作ってくれている方が作った獅子だ。獅子頭の新調後の練習ではこの獅子頭は使っていない。昭和58年7月22日の獅子舞の練習風景に関する「獅子頭購入練習会」と名付けた写真がきちんと残っており、町民会館の一角に飾ってあったことからもこの年に練習に精を出していたことが読み取れる。ちょうどこの頃、昭和58年の7月に町民会館が完成したようなので、その前後の話と思われる。

この獅子舞が始まる前は、お神輿はあったが獅子舞は実施されていなかった。それからなぜ獅子舞が始まったのかというと、熊坂町に昔、字◯◯という地域がありそれが畑岡、将棋谷、吉岡、北原(キタワラ?)という名前で、その中でも畑岡の角谷茂雄さんという方が下屋敷町に引っ越してきた時に故郷の獅子舞をそのまま教えたと言われている。それからは、お祭りにおいて紐を引っ張る形の神輿が出るときもあるが、基本的には獅子舞をメインで実施するようになった。今、熊坂町の獅子は1つしかないのだが、昔はその中でも4地域に分かれておりそれぞれ独自の舞いを持っていたようだ。この時の4つの獅子頭が残っているかはわからないので、今後再調査が必要である。

桜まつりの獅子舞はまず加賀神明宮で朝9時ごろにお祓いをしてもらって、奉納の舞をしてから、90軒ほど町内を回り始める。町内が済んだら、2日目では他町の知り合いのところまで舞いに行く。大聖寺の獅子舞は全般的に、他町の知り合いのところまで舞いに行くという文化があり、町同士の交流が盛んなことは特筆すべきである。桜まつりの2日間の最終日は最後、町民会館で終わるのが恒例である。今年はコロナ禍で桜まつりは規模が縮小してしまったが、家々は回らずに道の辻々(道の曲がり角など)で獅子を舞ったようだ。大人は基本的について歩くだけで、子供が獅子舞を行う形式である。子供は小学校6年生がメインで、太鼓2人と獅子舞4人で合計6人いれば舞える獅子だ。小学校3~5年生辺りの学年の子供でもこれに参加している。ご祝儀は2000円ほどの場合が多い。演目は1つで、比較的ゆっくりと舞う。桜まつりに向けて練習は2週間ほど行う。子供が仕切り役というよりは子供会の大人がリーダーシップを発揮する形で練習から本番まで行っている。

元々下屋敷という町自体が存在しなくて、この町の町民は引っ越してきた人ばかりである(『公民館開設記念 下屋敷町の記録』(昭和61年3月)によれば、下屋敷町の成立は昭和33年)。お話を伺った市田さん自体は、三男坊だったこともあり、獅子舞が始まる10年前、つまり昭和48年に大聖寺錦町(当時の地名は穴虫)から引っ越しをしてきた。楽焼工房の荒木さんもその時に錦町から引っ越してきたし、この時に新しく町を作っていくような感覚があった。この下屋敷町ができる前は庄兵衛谷という村がありどのような理由かわからないが、下屋敷町という町ができていた。ここは元々城下町の鉄砲の訓練所があった場所で、市田さんの息子さんの部屋で兵隊さんの幽霊が出たということもあった。そこらへんの木を切って製材しようとすると鉄砲の弾が入っていて、錆びているので鉋で削ると鉋がダメになってしまう。ここら辺一帯は古戦場となっており、雪の研究で有名な中谷宇吉郎大聖寺に母方の実家があって住んでいたこともある人物だが、かんざしを挿した白蛇が出るというので、錦城山には登らなかったという話まで残されている。また、下屋敷町の公民館には、大聖寺藩の藩邸の家の設計図などが残されており、大聖寺の歴史を考える上でかなり重要な場所であるように思われる。

また、町民会館にはトロフィーがたくさん飾られており、運動会、バトミントン、綱引きなどの地域のイベントがたくさんあり、地域交流が盛んだったということがわかる。また、錦町と下屋敷町の合同で24時間耐久のソフトボールの大会が行われたこともあり、12時間耐久だった時の写真は町民会館に残されている。現在では、火の用心のために大人も子供も歩いて回ることがあり、マイクを持って子供もたまに呼びかけることがある。これができる町はなかなかないだろう。これらの話から、地域の人が知恵を絞ってどうしたら町が盛り上がるかを考えてきた軌跡をたどることができ、この下屋敷町の事例から町の誕生とそこに精力を注いだ方々の地域交流に対する情熱が読み取れる貴重な取材だった。

ps. 大聖寺のご年配の方は、嬉しい時にはしゃぐイメージで「ピッチンココク」と言う。これは大聖寺特有の方言なのか流行り言葉なのかよくわからないが、他地域からしたら何を言っているのか全くわからない感じがとても面白い。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 1日目 田尻町

2021年9月18日

田尻町獅子舞取材

田尻町青年団長さんにお声がけいただき、獅子舞のカメラマンをさせていただいた。田尻町は何度も取材させていただいている馴染み深い町で、今回は初めて仕事の形で、祭りのカメラマンを任せていただいた。祭りをすると言っても、例年通り3日間できるわけではなく、集合写真を町民会館前で撮影してから、町民会館前で舞い、神社の境内で奉納の演舞をしてから、町民会館に戻るという流れで行われた。13時に始まり15時に終わるというかなり短時間のお祭りとなったが、その分濃い時間で盛り上がりも半端なかった。

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田尻町青年団が獅子舞を行う道中、最も盛り上がった場面について、実際に撮影をさせていただいた立場からここに記しておく。まず、集合写真の時点では皆あまり体が温まっていないのか、表情はまだ硬かった。意外と集合写真の撮影ではっちゃけるという場面は見られなかったのだ。ただ、神社での奉納のあたりから青年団の盛り上がりが始まった。手水舎の水が溜まっているところに青年団のメンバー同士担ぎ上げて降ろし、水に浸してしまったり、水を掛け合ったりというふざけ合う場面も多く見られた。これには見物客も巻き込まれていたが、祭りなのでまあしょうがないという風に考えているのか、それを気にするような人はあまり見られなかった。この時から、ご祝儀を読み上げる時など獅子を舞う合間に「よーいよい」などの囃子声がかけられるようになった。ご祝儀の掛け声は最初少しだけ遠慮がちにも聞こえていたが、徐々に気分も乗ってきた様子が見られた。また、神社の境内から町民会館に戻るときには、青年団の人同士が肩車をして歩き非常に迫力があり盛り上がった。町民会館に着くと、ホースで水かけ合戦が始まり、青年団の人はみんなびしょびしょになった。町民会館の中に入ると獅子の蚊帳が雑巾絞りのように絞り上げられ、回転するように回る仕草が見られたが、そのときに獅子頭を持って踊る仕草をするエセ獅子頭持ちの人々が表れて盛り上がったのは印象的だった。また、最後の方になると、獅子頭を最終的に木箱の上に収めて終了という流れになるのだが、祭りの時間を引き伸ばすためかなかなかそこに収まらず、邪魔をするものや獅子頭持ちにお酒をかける様子が見られた。町民会館の床は酒だらけだ。太鼓の音がものすごくリズムが早くなり音も最高潮に大きくなった(橋立公民館長の吉野さん曰く、太鼓のリズムは全体的に昔より早いらしい)。最終的に獅子頭が収まったときには、青年団皆がずぶ濡れで、すごい状態になっていた。最後青年団長から役職持ちまでが胴上げされていたが、天井に体をぶつけるように勢い良く投げられ、酔いも回って勢いが半端なかった。やはり、田尻町ほど祭りに全力で取り組んでいる町は加賀中を探してもなかなか見つからないだろう。それにしても、手水の水、ホースの水、酒の水とふざけ合うことを媒介するものが「水」であることは大変興味深いポイントであった。やはり、漁師町ならではのアイデンティティがここに表出しているようにも思えた。

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盛り上がっていたのは、青年団の人達だけではなかった。それを取り巻く地域の見物客もすごかった。皆携帯で動画を撮り、写真を撮るものはいなかった。おそらく、獅子の動きとかふざけ合う場面とかをそのまま記録したいという気持ちの表れだろう。自分は写真も動画も撮っていたので、むしろこういう場面では写真的な記録が残りにくいのかなと思い、どちらの記録媒体の特徴も生かして記録したいと考えた。また、小学生に上がる前の子供たちは最初獅子を怖がるのだけど、途中から全然怖くなくなって、じっと獅子の演舞を見守る姿が印象的だった。子供は頭を噛まれるシーンがいくつかあったが、嫌がる様子があまり見られず怖がる子も少ししかいなかった。また、子供が獅子や棒振りに近寄って接触してしまうということも多々あり、それほど子供たちにとっても興味深い対象だとわかった。ミニ獅子頭を自分で持ってきてパクパクさせている子供もいた。あと意外だったのは、見物客に高齢者の姿は少なくてむしろ30代までの女性が多かった。青年団関係者の奥さんとか子供達が撮影役として駆けつけたということだろうか。今回の演舞はコロナ禍で最小限に執り行われたため、告知も十分に行なっていないからというのもあるだろうが、こんなに見物客が若い獅子舞というのも珍しいと感じた。

全体を通して、まず今日は晴れてよかった。ずっと雨続きだったが、なぜか獅子舞をしている時間だけ晴れた。コロナ禍で子供が一人でも感染していたら実施できなかっただろうし、そういう意味では今回は奇跡的な開催だったといえる。今回撮影させていただいた集合写真は脚立を使って俯瞰的に撮影することで綺麗に撮れた。後ほどプリントして、青年団の皆様と町民会館用でそれぞれお渡しできたらと考えている。コロナ禍では貴重な祭り取材の機会をいただいたことが本当にありがたかった。また、ぜひ3日間ぶっ通しで祭りをやるときにも顔を出せたら嬉しい。ぜひ他に撮影希望の地域があれば、お声がけいただきたい。

 

ps. 2021年9月19日追記

本記事公開後、田尻町の獅子舞を昔から見てこられた南俊一さんより、facebook経由で以下のような貴重なコメントをいただいたので、紹介させていただきます。

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僕が子供の頃公民館は今の神社の隣ではなくここから500mくらい離れた場所にあってクラブと呼ばれていました。三日間かけて町内全戸をまわった獅子は神社でハイテンポな薙刀のリズム(田尻の獅子舞は歩き太鼓、六尺、薙刀の三つのリズム)でカンサマガエリ(三日間神様は獅子と一緒に町内をまわってここで神社に戻られるのだと思います)を終え棒降り、笛、太鼓の子供たちは青年団にハツウマ(肩車)され棒降りは薙刀、六尺、太刀、剣、鎌などを構えのポーズで田尻町クラブまでの500mを整列して歩き太鼓で行進しました。そしてクラブについてまたハイテンポな薙刀のリズムで二人棒から四人棒まで間髪入れず棒降りが舞い続けました。やがて獅子のかやは畳まれ大広間を何周もして終わる祭りを惜しみ眠りにつくのを悔しがって置き台を睨み付けまた台を何周もして何度を口をガシャンガシャンして置くのかと思ったらグーっとまた下がって、また台を睨み付けてガシャンガシャンやってこれを繰り返して最後に獅子は台に置かれました。この田尻の獅子舞のクライマックスは見ている誰もが鳥肌を立てていました。祭り全体としてはこいこい祭り、ぐず焼きまつり、大聖寺さくらまつりなどに到底及びませんが出し物単体としては田尻の獅子舞が加賀市ナンバーワンです。1970年代後半に加賀市でひとつの祭り(かがしフェスティバル~かがしまつり)をやっていた時期がありますがそこで舞われた田尻の獅子を街の人達が目を丸くして見ていたのを思い出します。

イオンモール土浦で展示された獅子頭の話

2021年9月10~15日の日程で、茨城県土浦市イオンモール土浦にて、祭りの小道具の展示が行われた。この展示はおそらく獅子舞の未来を考える上でとても重要な取り組みになるように思うのでここに書き記しておく。

家電店前に獅子頭?圧巻の獅子たち

イオンモール1階にある花火ひろばに到着するとまず出迎えてくれたのが15頭の獅子頭!まさに圧巻の光景である。茨城県の各地から集められた獅子頭が一堂に会し、獅子頭を中までじっくりと覗くことができるのだ。しかも、獅子頭の背後には家電専門店のノジマがあるという絶妙な組み合わせ!普段はなかなかみることのできない光景である。獅子頭15体にはそれぞれ個性があり、地域ごとに全く異なるデザインをしていて同じものがない。

獅子頭の展示の印象は?

私が今回、獅子頭を拝見して感じた印象としては、まず獅子頭がとても大きく作られているということ。日本全国を見ても、なかなか舞う獅子でこれほど大きな獅子頭を持つところは少ない。ただ、比較的薄く軽い素材で作られているため、大きさと軽さを両立している印象を持った。また、茨城県土浦市立田町の獅子頭は展示品の中では唯一白い獅子頭だが、これは全国的にみて珍しい。あと獅子が舞う時に、町名の書かれた提灯を使用するという特徴もあるようだ。全体を通して感じたのは、祭礼を通して街全体が活気にあふれ、そこを練り歩いたり観客に見せたりすることを前提とした獅子が多いようにも感じられた。

展示背景について

今回は鍾馗会(しょうきかい)の初代頭である富塚さんに電話でお話を伺う事ができた。今回はコロナの影響で展示が2年間中止になったので、しまいっぱなしになっている獅子頭を表に出してあげたいし、自分もお祭り気分を味わいたいということで、今回の展示に至った。邪気払いや豊年満作の祈りが込められており、1年間を無事に過ごせますようにということで、気持ちだけでも邪気を払って、少しでも祭りができるようになればいいなという思いを込めたそうだ。

展示に至った経緯の順序としては、土浦市内には祭り会といういくつかの町内が連合となるグループがいくつかあり、その中でも富塚さんに、イオンの花火ひろばの企画担当の方が声をかけて、今回の企画が実現した。土浦祭り会の代表をやっていた3年前にも、獅子舞をやったりお囃子をやったりするような小規模な祭りイベントをやった付き合いがあり、その時も声をかけてもらった。「今年も何かできませんか?」という流れだった。展示であればコロナ禍での心配も少なく実施できるということになり、少なくても多すぎてもいけないから知り合いづてでちょうど良さそうな数の獅子頭を集めて今回の展示に至ったようだ。

42年前まではそのような祭り会というグループがなくて各町内祭りを行なっていた。半纏を着て行う祭りもなく、肉襦袢に前掛けというスタイルが一般的だったが、転換点は浅草の三社祭を見た事だった。それを見てかっこいいから地元に取り入れようという事で、祭りが一新していった。何時代から獅子舞の祭りが行われているということはわからない。そこからどんどん新しい取り組みも始まり現在に至るということだろう。

獅子頭の展示内容について

土浦八坂祭礼(土浦祇園まつり?)が現在、土浦の中心的な祭りとなっており、川口、大和、城北、東崎の4町が集まって祭礼を行う。またこの4町内の中に16町内という風に、そこからまた細分化されている。この中で、自分たちが声のかけやすい町内にお願いして協力してもらい、今回15体の獅子頭の展示に繋がった。土浦全体となると、数が多すぎて把握しきれていないようだ。また、町内にも3~4体あるところもあり、中でも大きいものを展示してくれとか、2つ出して欲しいというところとか、古いものは許可がでないから難しいという場合とか、各町内事情は様々だった。立田町では白獅子と黒獅子という対になった手作り獅子があり、それを両方飾った。また、祭りに参加するというよりは好きに獅子頭を作って販売しているという方もいる。そういう方の作品含めて展示しているとのこと。

ショッピングがてら獅子舞を知るという文化

なかなかイオンでお祭りの展示をしているというのは見たことも聞いたこともない。多くの場合は博物館や公民館などでの展示が多いからだ。しかし、このようにショッピングセンターを活用して展示を行うということは、祭りにあまり興味を持たない人含めて日用品などを買い求めに来る不特定多数のお客さんに獅子頭をはじめとしたお祭りの魅力について知ってもらえる機会になる。そういう意味で、個人的には素晴らしい展示だと感じる。これが実現した背景についても富塚さんに伺ってみると、町内に公民館は持っているが展示するスペースがある施設がないようだ。一方で、イオンは地域とのつながりを考えて場所をお貸ししますよという風に提供しているという。ただ、これも祭り会の方からイオンに掛け合ったわけではなく、イオンから祭り会に掛け合ったということがとても重要だと考えていて、つまり祭りの文化を繋ぐことを担い手という主体ではなくその外側の人々が必要だと感じているということでもあるのだ。

 

ps. 土浦の白獅子がとても珍しいと思ったが、その由来はわからなかった。また、獅子の口封じとして紅白の紐で縛っているのも珍しいと思ったが、その由来は不明である。この2点は今後の検討課題としたい。

 

【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材 11日目 篠原新町・大聖寺荻生町

2021年8月29日

9:00~ 篠原新町 獅子舞取材

篠原新町の区長・上谷長英(ちょうえい)さんと、そのお知り合いの北出学芳(たかよし)さんにお話を伺った。同行は橋立公民館長の吉野裕之さん。獅子頭の髪型のバランスは横流しがしっくりくるとのことで、それに配慮しながら撮影を行った。

獅子舞は伊切町から習ったがいつ頃のことかがよくわからない。演目は4つあり、そのうち武器が登場するのは2つの演目だ。一番・二番・薙刀・相棒という名前がついている。また、笛、棒振り、太鼓、獅子がある。子供が棒振りと太鼓で、青年団が笛と獅子をする。笛はもともと青年団の担当だったが今は吹けなくなっており、伝承ができておらず、年長者が入ることになっている。祭りの日は9月19日だが、今年はコロナ禍で中止が決まっている。例年であれば、練習をしているころだ。お祭りがあるときは神社に始まり25軒ほど回って、お昼頃から知り合いや親戚を回って、神社で終わる。青年団は15人ほどいて、一部の人は他所の地域に住んでいるが祭りの日だけ帰ってくる。元々小学校3年生から獅子舞をするが、今は年齢が上がっている。

太鼓は大正時代制作のようだが、獅子頭はいつ作られたのかがよくわからない。獅子頭は角がなく、耳が大きく、目に黒い円が二重に描かれているのが特徴だ。とりわけ二重の円が描かれている獅子頭はとても珍しい。耳はとれやすいので、本番では外して舞う。

ps. 篠原新町の歴史

今回撮影を行った八幡神社(祭神:武勇の神である応神天皇)に建てられている案内板「篠原新町の由来」によれば、篠原新町に人々が住み着いたのは平安時代初期に遡る。漁猟や機織を営んだ遺物が残っているようだ。源平合戦の際には斎藤実盛が奮戦した場所となり、江戸時代(天保末年)には家数11、人口33人、塩釜11の製塩地だったようだ。

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13:00~ 大聖寺荻生町 獅子舞取材

大聖寺荻生町でお祭りが15分の短縮版で行われるということで、伺ってきた。獅子舞は実施されなかったが、区長の山下二三男さんをはじめ、獅子頭の撮影と祭り関係者10名ほどにお話を伺うことができた。

獅子舞の始まりは下福田町の獅子舞を習ったことだった。この地域の獅子舞には、大蛇を退治するという意味合いがある。今は町内の稲荷神社を拠点に獅子舞が行われるが、昔は江沼神社にも獅子を舞いに行ったので、江沼神社から習ったことも検討する必要がある。昔は竹で蚊帳の枠を組んで、10名ほど中に入っていたが、今は竹で枠を組むことがなくなり2~3人しか入らなくなった。担い手不足というのが関係しているだろう。青年団が多いときは10人超いたが、今は5人もいない。中学1年生から30歳までの年齢の若い人々が青年団に所属した。壮年団のような組織はない。

祭りをしているのは3月13日と8月28日、9月13日で、9月の秋祭りのみで獅子舞をしてきた。農家が多い土地でもあったので五穀豊穣の意味がある祭り(※)だが、獅子舞はそれとはまた別で五穀豊穣の意味を考えながら舞うことはない。町内に昔は50軒あったが、今では17軒のみとなっている。獅子舞の演目は1つで、寝ているのを起こす寝獅子だ。豆拾いといって、獅子頭を下の方でパクパクするような仕草もある。昔は祭りの日だけでなく、結婚式でも獅子舞を実施した。以前、下福田町でも結婚式で獅子舞が登場した話を伺ったので、この地域一帯でそのような習慣があったと思われる。

稲荷神社は元々、殿様の避難場所だった。由緒ある神社なので、重要文化財にするという話もあったが、今のところ実現していない。人々はこの神社に来るのに、大聖寺川から船で上がってきた。また、能舞台が昔あって、能を見にきた人々もいただろう。戦国時代には、朝倉の軍勢を見張っていたという話も残っている。合戦が多かったので、地面を掘ると人骨が出てくるという話もある。また、白い字でお経が書かれた石が見つかったこともあった。昔は検問所(関所)が近くにあって、武士の家やお寺が多い土地だった。氷室があったことでも知られる(昔、雪を詰めて氷を貯蔵する氷室はとても貴重だった)。昔は川魚をよく食べていたが、今はあまり川魚を食べなくなった。

 

※9月13日が秋祭りの日になった由来としてある話が残されている。昔、大聖寺藩政時代に、藩の財政が厳しくなり、農家への年貢米取り立ての再調査と耕作面積測量を厳重に強制執行しようとしたところ、住民の逢坂伝平なる者が、白装束に身を固めて切腹自殺の覚悟を決めて藩主に土下座して直訴した。武勇果敢度胸ある振る舞いに心打たれた藩主は、この者を死刑にすることなくその場を退去せざるを得なくなった。貧しい農民の危機を逢坂伝平が死を賭けて救ったこの日を祭礼の日として定めた。祭りの名前は「オヨゴシ」祭りと名付けられた。オヨゴシとは精進料理に欠かせない素朴な珍味である。(年代不明、山下芳男さん80歳、新聞記事コメントより)

 

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ps.獅子頭の材質は桐材で赤色、制作地は大聖寺一本橋町で、制作者は林龍代さん。制作年は昭和26年8月である。頭もちの名称は「カシラモチ」で、1人が行い交代要員は3人だ。頭もちの位置は胴体の内で、服装は上が法被、下が運動服である。鉢巻をして、赤いきれを腰に巻き、前掛けをつける。蚊帳には青色の巻き毛模様と茶色のうず模様があり、竹の輪は入れないが、過去には4.5本入れたこともある。尾の形状は36cmの棒に90cmくらいの赤い麻糸の束をつける。演舞の特徴は「ウイタウイタ」と言って立ち、水の字を書くように舞う。この由来は昔、3月7日に村全体が焼ける大火事があったためだ。現在、3月7日は火祭りの日とされている。また、お囃子は獅子の胴体の外にいて、太鼓は男2人により叩かれる。獅子の組み立ては神社境内で行い、お酒を供えてお参りしてから、そこで舞う。この時、獅子の口にお酒を飲ませ、自分達も飲む。それから区長さん方、相(脇)役方で舞い、一年交代で村の西方東方の順で各家を回る。最後に境内で舞い、片付ける。獅子は基本的に天候に関係なく行うが、雨のひどい日は玄関や小屋の中で舞う。獅子舞運営の主体は青年団で、下福田町の獅子の舞い方を取り入れた。現在の獅子頭が昭和26年にできるまでは、江沼神社の獅子頭を借りて舞っていた。江沼神社との結び付きは強く、江沼神社の獅子が舞うときは、いつも荻生町の若い衆がその舞いをしていた。現在の獅子頭は江沼神社のものと同じ型である。荻生町の青年団の構成は昔ながらのしきたりで長男以外は団員になれない。戸数が少なく、このようなしきたりがあるため、団員が少ない時は退団者に協力してもらい獅子を出す。昔、青年団は若連中と呼ばれていて、数え歳で15~30歳までが所属できた。お花代は3,000円から5,000円で、区長が10,000円、相(脇)役方が7,000円ほどである。(年代不明、獅子頭の箱に入っていた「獅子舞調査表」より抜粋、著者・加代等さん)

 

▼年代不明、青年団の写真。

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ps. 稲荷神社のご神体は石である。本日祭りの時に宮司さんや区長さんがご神体の位置を確認したところ、以前見たときと比べて少し場所が移動していた。もしかしたら神社の整理で移動したのかもしれないが、滅多にご神体を見ることもないだろうし、非常に不思議な話である。そこで以前の場所に戻したそうだ。その後、区長さんの帰宅に同行して、神社のいわれが書いてある写真を見せてもらうことになった。しかし、区長さんがパソコンを開いてみると、保存されていたはずの写真がなくなっていた。何の因果かわからないが、この出来事の顛末は非常に不思議としか言いようがない。

 

 

 

【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材10日目 動橋町(本番)・山中温泉山中座

2021年8月28日

9:00~ / 17:30~ 動橋町 獅子舞本番

動橋町の獅子舞が振橋神社で行われることを知り、朝9時と夕方17時半に伺った。同行は山口美幸さん。コロナ禍でどのようなプロセスで獅子舞を実現したのかをぜひ知りたかった。獅子舞をしたいけどなかなか実現できないという地域はとても多いので、ほかの地域にも応用できるやり方を知れたらという思いで神社に向かった。

まず、神社に着くと、獅子舞が舞うスペースに結界が張られていた。笹が立てられ、それを結ぶ形でしめ縄と紙幣が張り巡らされ、神域が作られていたのだ。その前にはテントが2つ張られ、受付と観客席がそれぞれ作られていた。受付を通ると、観客席に通され、透明なビニール越しに獅子舞を見られるというわけだ。また、神社の境内には、参道沿いに獅子舞やぐず焼き祭りのぐずなどの絵が描かれた灯籠が並べられ、18:00以降に明かりが点灯することになっていた。

獅子舞はご祝儀を払う人がいたら舞う方式で行われた。これは、各家を回ってご祝儀をもらうのを神社境内で完結させるやり方である。獅子舞を実際に拝見してみて、太鼓の位置が獅子から見て右か左か定まらない点、歯打ちが激しいという点、獅子が観客に迫る感じが、独自の面白さだと感じた。

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獅子舞の合間に、川向電機の川向尊(たかし)さんにお話を伺った。獅子舞は昔、祈りやすがる気持ちが強く、飲んで無礼講であるという遊び場であり、社会的な学びの場でもあった。しかし、今は携帯の普及などで遊びなどの機会が広がって、縛られることを嫌うため、その点で担い手が少なくなっていると感じる。今年は獅子舞ができないだろうという話し合いを町内で行っていたが、工夫すればできるのでは?という話に変わった。青年団の思いもあるので、それを叶えたくて、妥協せずに話し合いを重ねた。まずは青年団が全員コロナのワクチンを打った。獅子舞は一軒一軒家を回るのは、フェイスシールドをつけて玄関から2mの距離をとれば大丈夫なのではという話もあったが、やはり回るのはダメだと。それならば、希望者の家のみ回ろうとなったが、やはり周辺住民含めて同意を得るのが難しそうということで、最終的に神主の榊さんに相談して振橋神社の中で舞うことになった。印象的だったのは、若者と長老の間に入って仲介できる人が地域にいることが重要というお話。若者が獅子舞をやりたいと言っても長老がなかなか許可を出せない場合も多く、若者と長老の間で取り次いでくれる人がいたことが今回の獅子舞の実現につながったようだ。

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15:00~ 山中座 獅子踊り取材

山中節の獅子踊りについて伺いたいと思い、まずは芸妓の松風千鶴子さんにインタビューをさせていただいた。同行は山中取材の際にいつもお世話になっている村田和人さんと、取材チームの山口美幸さん、北嶋夏奈さん。山中の獅子踊りは女性しか演じることができない。普通獅子舞というのは女性に厄を触らせないという意味合いで、男性が演じるものである。全国的にも珍しい女性が演じる獅子をメインにお話を伺った。

もともと獅子踊りの由来は様々である。昔、湯座屋で働く娘さん(浴衣ベ)が芸妓に上がれた歳が16歳だったので4×4=16を獅子とかけたとのこと。また、浴衣ベがお客さんの浴衣を頭の上に乗せて佇む姿や、芸妓が夕方から日本髪で歩く姿が獅子に見えたからとも言われている。恋人に会って朝帰って行くときに恥ずかしさから風呂敷をかぶって歩いていった姿という話もある。「山中や夜の夜中に獅子がでる」とも唄われているのだ。

現在、芸妓さんは4名おり、そのほかは座員さん10名ほどで構成されている。座員さんはプロではないが、芸事が好きなので参加されている方々である。最年少は50歳代で、少し前まで20歳代の方もいたのだが、辞めてしまった。20代の方はおばあちゃんが民謡をされていて、その影響もあり始めたようだ。昔は通常であれば、18歳から芸妓になることができたが、今では若い担い手がいない状況だ。

山中節は民謡の中では日本で3つに入るほどに難しいと言われており、素朴で情緒的であることが特徴だ。春夏秋冬の四季折々を歌っている。山中座は20年前から始まった。その前は置屋さんが芸能プロダクションのような形で、担い手の育成が行われていた。旅館が演者を呼ぶということもあった。芸能人でも森光子さんや石原裕次郎さんなどファンが多い。松風さんは福井の金津(※)で教わった後、可奈津屋として独立し、芸妓を続けて今に至る。昔はお座敷で高いお金を払わないと見られない世界だったが、山中座ができてからその敷居が低くなった。旅館に呼ばれたら舞を披露することがあるものの、置屋はなくなってしまい昔とは芸妓の環境にも変化が訪れている。

※山中節が全国的に広まったのは、大正末期から昭和にかけて金津家米八が芸妓として活躍した時代である。それまで「俚謡(りよう)」と呼ばれていたのが一転して、「民謡」という言葉が広まったのもこの時代と言われている。(山中温泉ゆけむり俱楽部・山中節の四季編集委員会『山中節の四季』令和2年, ゆけむり書房より)

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<山中座の公演を見学>

今回、毎週土日に行われる15:30~16:15の山中座の公演を拝見した。今回、披露された演目は以下の6曲だった。

長唄 岸の柳
②正調 山中節
③小唄 つりしのぶ
④小唄 さつまさ
⑤山中祭 獅子踊り
⑥こいこい音頭

最初は山中温泉の紹介映像に始まり、これらの6演目が披露された。最後のこいこい音頭では観客も手拍子をするという参加型の演目で締められた。曲だけを聞くと現代人にとってはかなり緩やかに思えてしまうだろうが、個人的には芸妓さんや座員さんの所作の正確さに感銘を受けた。例えば、表情がキリッとしていたり、立ち位置が背景の大きな木の絵の幹の部分に立つようにしていたり、声の高さとか伸ばし方がこなれていたり、そういう一つ一つの所作が洗練されていることが見どころのようにも感じた。

 

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また、今回取材のメインである獅子踊りに関して、ここで詳しく記しておく。演目の流れとしては、最初に2人の女性が祭り心で踊ることに始まり、後に一匹の獅子に変化し獅子の様々な姿を演じる。その中には、眠る獅子、怒る獅子、戯れる獅子などが含まれ、個人的には眠ってしまいそうで、うとうとする獅子の姿がとても可愛らしかった。

獅子頭は親獅子と子獅子がいる。大阪万博に行った時に、獅子を手直ししたようだ。オスメスの性別は特にないようだ。獅子頭を製作したのは、なんと浅草とのこと。石川県内の多くの獅子頭とは作り場所が異なる。獅子頭は6~7体あるが、古くてボロボロな獅子頭もあり、使える状態のものは4体である。2体が金色、もう2体が赤色だ。赤色と金色の獅子があり、比較的軽くて、ベロの形が可愛らしい。

 

<山中節のルーツ>

山中座で購入させていただいた書籍を元に、山中節のルーツを調べてみた。

・元禄年間(1688~1704年)にはすでに山中節の原型が出来上がっていた。日本海を往来した加賀の北前船の船頭さんが、習い覚えた北海道の松前追分や江差追分をお湯に浸かって口ずさみそれを聞いた浴衣べが山中なまりで真似たのが『山中節』の始まり。(山中温泉芸妓組合のホームページより引用)

・もともとはこの土地で唄われた甚句が元になった(東京堂 日本民謡辞典より引用)

その他に、追分や色々な俗謡、民謡が複雑に重なり合い、今ある山中節の原型が出来上がったと言われている。(以上、山中温泉ゆけむり俱楽部・山中節の四季編集委員会『山中節の四季』令和2年, ゆけむり書房)

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