佐賀の地域性とは?地形や祭礼から土地を読み解く旅

今まで旅したことがなく新幹線で通過したことしかなかった佐賀を旅してみようと思った。福岡から佐賀への地続きを感じ、そこに佐賀という特質が見えれば良いと思った。訪れたことがない土地に訪問することは新鮮である。新しい土地を読み解く手法との出会いをどこか期待していたのかもしれない。

夏夜の博多を歩く

2024年7月18日(水)、福岡空港から地下鉄に乗って、間も無く到着した夜の街は夏夜の熱気に満ちていた。まずは空港からたどり着いたのは博多駅だ。博多駅を出るとウエーブを描く建物のフォルムがどこか金沢駅の鼓門のごとく象徴的な存在に感じられ、そこにきた人を記念撮影に誘っているような雰囲気を持っていた。実際にそこを訪れる人々は、友人に何らかのポーズをさせながらも、広角気味にそのフォルムを写真に収めていた。
博多は男性より女性の方が人口が8万人も少ないらしい。知り合いの博多在住者は女性の方が結婚に躍起になっていると言っていた。それだからだろうか。化粧品の消費量は多いし、秋田や京都に並ぶ三大美人として博多美人が挙がることが多い。塩顔な人を見かけると中国人や韓国人が母国語を話している場面に立ち会うことも多く、大陸が近いことを感じた。
最初の夜は博多ラーメンの中でも泡系元祖と言われる博多一幸舎のラーメンを食べてきた。これはうますぎると思った。泡系のこってり豚骨ベースのラーメンは、お腹への負担は意外となくあっさりとしているが、意外としっかりと食べた感覚になれるところが良い。白ご飯も追加で注文した。白米が進むラーメンだと思った。粒感がしっかりありながらも柔らかいお米が非常に泡系ラーメンとマッチしていた。

博多の夜の街を歩いていて、最も面白いと思ったのが、南池袋公園と同じ構造をした公園緑地が博多駅のすぐそばに存在することだ。これだけの大都市の中にあって存在感のある広々とした芝生が広がる緑地はゴテゴテ感がなく素晴らしいと思った。地下に駐輪場があって、その上に芝生をメインとした緑地が広がっている構造は、東京の南池袋公園そっくりだ。ちなみにこの公園は「明治公園」というらしい。いかにも帝国主義のような名前をだと感じざるを得ないが、名付けには何らかの理由があるのだろう。

今ここにある風景を感じること

さて、1日目を終えて考えたことは自分と旅との関わりについてだった。自分は移動することと、文章を書くことが物事の真実を考える気づきのための最も必要なことだと考えている。文化人類学的な長期的な滞在を行うフィールドワークはそこまで必要とは考えない。移動することによりその風景が瞬間的にそこに現れ消えていくこと、その刹那にこそ気づきがあるのであって、何度も見すぎるとその風景は意味がないような存在に思えてくる。そこに不安定な次元の揺らぎを感じて、それを見逃すわけにはいくまいと凝視するのである。
この感覚は寂しさと隣り合わせという裏の顔があって、発見の喜びはそこに定着する現地人への憧れと、その暮らしに溶け込むことは本質的にはできないという寂しさを含んでいる。だから、僕は帰れる巣を作る鳥の気持ちがよくわかるし、定着する住処が必要な欲張りな存在でもあるのだ。移動を本質としていると、集団行動は苦手だ。集団への貢献度合いは非常にお粗末になる。大きな権力(大企業や大学など)には馴染みきらない。集団の中心か周縁かと言われれば周縁にいる。だから、自由な旅人や鬼のような物の怪、あるいはマレビトなどと自分を重ね合わせることもある。

唐津から佐賀市へと移り変わる風景

翌日19日、電車に乗って博多から唐津に向かう途中で、電車は山に押しのけられるように海岸線ギリギリへとその道のりを徐々に変更していった。海は広いけれどもその先には常に島があって島の多い海はその先に広がる大海を想像させた。雨が降ったり止んだりと不安定な天気になって、おどおどしながら唐津駅に着いた。気候がもわっとして暖かく、熱気に包まれる感覚が、関東に比べて大きいように感じられた。
僕は横浜の黄金町バザールで出会った人と再会し、唐津を旅した。地形が山と海とグネグネ道の広がる唐津は祈りや祭礼の匂いを強く感じた。七ツ釜や名護屋城玄海原発のエネルギーパークなどを旅した。とりわけエネルギーパークはとても印象的だったので詳しく触れておこう。ここはある種の科学館であり博物館のような機能を持っていた。原子力発電所の安全性PRの側面が強かったものの、原子力についての理解が深められたほか、ふるさと館では佐賀県内の祭りの大規模展示があり、また公園の遊具はなかなか遊びがいがあるシーソーや滑り台があった。植物園もあるようだった。原発が親しみやすい場となっているのが面白かった。原子力発電施設は現地の人にとっては高給取りだったそうだが、現在では安全性などからなかなか風潮としてやりたがる人も少ない。その中で、原子力発電そのものがクリエイティビティに溢れており、改革が必要な過渡期なのかもしれないと思った。

そこから佐賀市へと移動した。佐賀市唐津市に比べると平坦な道が続いている印象が強かった。一方で佐賀市内は盆地地形にある地方都市という感じで、街路樹、チェーン店、道幅の広い車道や歩道が広がっていた。とても便利でなんでもある街並みだった。賄い食から発展したシシリアンライスや生卵を入れるあっさり系豚骨の佐賀ラーメンを食べ、地域の食と向き合うこともできた。

祭礼行事の備忘録①鳥栖山笠

20日佐賀市を起点に鳥栖市にも足を伸ばし、祭りに触れた。まずは鳥栖山笠を訪れた。この祭りの始まりは昭和3年のこと。当時祇園祭の振興策として西町(今の秋葉町)が商店会長の吉竹春次郎さんが中心となって、博多山笠を参考に山笠を出すことを思いつき、その原型が作られた。当時は2メートルほどの榊と据え山があるのみでもろもろの飾りが当日までに間に合わなかったようだ。当時は車がなく、力綱でその山笠を担いだ。戦後の山笠は毎年作り替え、天幕を張って各町が隠しながら制作をして山雅さの当日にお披露目するという形をとっていた時もあった。太平洋戦争での中断や大水害での中止などを乗り越え現在も継承されている。
山笠開始当時四基だった山車は現在六基となり、鳥栖の道を埋め尽くす様は非常に迫力がある。本通筋商店街周辺を練り歩く「総かぶり」や中央公園の旗周りを速く回る「祇園旗廻り」などがある。見どころは山車を大きく前後に揺らす「がぶり」であり、何百キロとある山車とその上に4〜5人が乗っている状態の山車を持ち上げて前後に揺らす様はとても迫力がある。また、今回は拝見できなかったが、山車を激しく回転させる「差し廻し」というものもあるようだ。

またこの鳥栖山笠の期間は猛暑であり、担い手たちに水を勢いよくかける「力水(ちからみず)」というのも興味深かった。お店や個人宅でタライや柄杓、ホース、洗面器、水鉄砲などを用意して山車を担ぐ担い手に応援の意味を込めて水をバシャー!とかけるのだ。たまに沿道の観客も思いっきりそれを浴びてしまうこともあり、とりわけ子どもが間違えてかけてしまうこともあった。僕もカメラが濡れたが、少しで済んだし微笑ましかった。とりわけホースでの力水の場合は水の噴射口の近くで水を潜るように通り抜けられれば、問題なく水を浴びずに通過できることに気がついた。歩道は車道近くではなく、そこから離れたところを歩くことが肝だと思った。

鳥栖山笠の山車である六基は「舞台」とも呼ばれるらしい。それぞれに意味が込められているという。本通町の「神楽獅子」は神社で奉納する獅子舞を表し、本町の「飛びたつ鷲」は子どもが力強く大きく羽ばたくことへの願いが込められている。中央区の「弁慶号」は開拓当時に北海道で走っていたSLであり、鉄道の町である鳥栖ということで作られた。京町は「京町恵比寿」であり、七福神のひとつである福の神を山車としている。秋葉町の「浮立面」は鬼を示し、己の中の鬼を見つめそして福に変化させ内に返すという。また魔除けとしても知られる。東町の「唐獅子」は住民の健康や平和の願いが込められている守り神だという。
鳥栖山笠を実際に拝見してみて、獅子の威力がものすごくつたわってきた。巨大なものへの憧憬や畏怖、そしてそこにかけられた想いは、町に一体感を生み、地域をあげての大盛り上がりの祭りを作り出す。街ごとの競い合いは祭りを盛り上げそして、自分たちの街への誇りを醸成しているように思われた。

祭礼行事の備忘録②蓮池八坂祇園祭の獅子舞

もともとこの土地の獅子舞は、越後国から肥前国蓮池藩の鍋島公のもとに伝えられたものを継承している。佐賀県の無形民俗文化財となっている三重の獅子舞とその起源を同じくしており、これも越後国が源流だ。おそらく蓮池八坂祇園祭の獅子舞も三重の獅子舞と同じような舞で、二段継ぎの舞いなどもあったかと思われるが、現在は簡略化されて舞うと言うより練り歩く印象が強い。形態を見るに、越後国とはいえどそのさらに源流を辿るとおそらく三重県伊勢大神楽や御頭神事に行き着くだろう。紙垂がもさもさでそれを取って神棚に飾る風習や、頭を大きくぐるぐると振って回る様子、そして迷路のような道の至る所に縄と紙垂が張り巡らされている風景、夜に提灯を灯しながら進んでいく様子、そして村境へのお祓い意識が強いことなどが三重県の御頭神事を取材した時にそっくりなのだ。祭りだけでなく、そこに広がる町の作りや風景そのものが三重県伊勢市あたりと重なって内心驚いた。ここまで祭礼は風景を左右するとともに、ある土地との共通点を表出させるのだ。

獅子舞自体は、春は五穀豊穣、秋は報恩感謝と年2回継承されてきた。現在は八坂神社の祇園祭で7月に開催されている。今年は八坂神社をスタートして、蓮池町の街中を練り歩き、下宮とされる魚町公民館の社で休憩してから、また八坂神社に戻るという経路を辿った。もともと行きで1日、帰りで1日という風に2日間で開催されていたようだが、今では19:20から22時までと1日完結の祭りとなっている。
この練り歩き行列には獅子舞、天狗(3本の刃がついた槍に面が取り付けられたもの)、神輿、提灯持ち、木箱持ちなどがいる。獅子舞も天狗も赤と青(緑)で一対となっており、福岡の祓い獅子の構成を思わせるもので、おそらく赤の雌と青の雄という構成だろう。木箱の中には白米や果物などのお供えが入っているようだ。

獅子舞は道中、頭を振りながら練り歩く。提灯が照らされた家の前でゴザが敷かれたところに寝て、棒を持った人物に頭を叩かれて起こされ、また頭を振る練り歩きを再開することの繰り返しである。昔はここで叩き起こされてから二段継ぎとも言われる担い手が肩車をしながら獅子を舞うような所作も行われしっかりとした舞いを継承していたようだが、現在ではそのようなことはしていないようだ。途中川にかかる橋など村境と思われる場所に行列とは別に単独で獅子のみおもむき、そこで頭を振ってからまた行列に合流するという姿が多々見られた。村境を祓うという意識の表れだろう。太鼓の台にはスピーカーが取り付けられ、笛の音が流れているが、これは笛ができる担い手がいなくなったために録音で代替されているようである。
獅子舞の所作は途絶え、そして笛の担い手もいなくなってしまった。昔は子どもも獅子舞をしていたようだが、それはできなくなってしまっており、蓮池公民館に子どもの獅子のみ胴幕と獅子頭とがセットで飾られているので、それを見てきた。簡略化された獅子舞でありながら、やはり地域の子どもたちをはじめ人だかりができる風景は変わらないようである。子どもが「獅子舞だ!」とその姿を発見して走っていく様子も見られた。地域が集う風景は変わらないことは、素晴らしいことだと感じた。

未知が既知になる

佐賀は僕にとって既知の土地になった。知らないことばかりなのだけど、少し見ただけでわかった気になっている。新鮮な感情は真空パックしておかないとね。心の声が文章を書かせている。大事な記憶は書き残しておかねばならない。
唐津の起伏と対照的に佐賀市には平坦な街並みが広がっていて、それぞれに多様な祭り文化が広がる。佐賀の自然と都市とを一気に見られた贅沢な弾丸旅だった。既知の風景が増えていくことに何の意味があるのだろうか。自らが暮らす土地との違いを発見したい。そう思うくらいに鈍感だから、経験しないとわからない。土地を移動することは気づくことであり、鈍感さの証明でもあった。

参考文献
永竹威『ふるさとの民俗 佐賀の芸能・祭り 郷土シリーズ第8集』佐賀県文化館 昭和42年2月
篠原真『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 鳥栖』(制作年不明)
株式会社中広『月刊TOSS 2022年7月号』

獅子頭制作15日目

茨城県石岡市での獅子頭制作は15日目。本日は毛玉の左右をバランスよく整えるのと、顎の周りを削るという行程だった。

毛玉は職人によって彫り方が変わるし、巻く回数も変わる。個人的には彫りが深くてはっきりした造形が好きだったので高さが必要で、それを師匠に調整してもらった。いつも力技で削ってしまうので、やはり木目を読んで斜めにスッと刃を入れられるような技術が必要だと思う。

石岡市獅子頭事情の話にもなった。市内には伝修館に所属していない職人もたくさんいるという。石岡市獅子頭制作は土橋(市内で1番最初に獅子舞を始めた町)をお手本にしている場合が多いが、よく見てみると、各町に特色があり全て異なる。だから、石岡市獅子頭職人がたくさんいるのは良いことだが、そのデザインが均一化していくことを危惧する職人もいるようだ。「ひとつひとつの獅子頭のデザインが違くことに注目してみてください」とのことだったので、今度お祭りの時などにしっかり見比べてみようと思う。

ちなみに本日毛玉を彫っていて、「土橋の獅子頭は左右で巻き方が違うんです」ということも教えていただいた。獅子頭ひとつとっても左右で違うものがある。獅子頭は手作りで、かつそれぞれが違うデザインであることが面白さなんだと改めて実感した日だった。  

あと今日は僕が明日にテレビに出たり、今月末には本を出したりすることについて皆さん関心を持ってくださって嬉しかった。

獅子頭制作14日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作は14日目。毛玉の続きをメインで行った。 

毛玉はクルクルした模様の中心部分にいくほど細かい表現になるので、そこを正確に彫るのが難しかった。ささくれのように表面が毛羽立ってしまう。彫れる力加減とかノミの角度とか、細かな事が関わっているのだろう。滑らかに彫れるようになりたいと思った。

また、獅子頭は直線的な箇所がひとつもないという興味深い話を伺った。頭頂部から顎にかけて曲線を描くように丸く作られている。たしかに、自然の生き物も、全て曲線的であり、それが獅子頭に表現されているのだ。まずはじめに角張った木材を貼り合わせたら、それをどんどん丸くしていき、最終的には全ての箇所に手を加えることになる。まだまだ先は長いがじっくり取り組んでいきたい。

変化に富んだ観るものを楽しませる獅子舞、東京都渋谷区代々木囃子保存会

2024年5月26日(日)、東京都渋谷区代々木囃子保存会を取材!今度、7月に渋谷区で開催するイベントに出演いただくこともあり、演舞の流れについて知っておくため、今回取材することにした。

金魚祭りとお囃子・獅子舞の位置付け

大正時代以前、金魚を買うお宅が地域に多かったなどの由来があり、代々木八幡宮の5月のお祭りを金魚祭りと呼ぶそうだ。このお祭りが始まるのが10時で、それよりも前に来て囃し立てこれから祭りが行われますよという合図のような感じで、お囃子と獅子舞が行われているようにも思われる。

演舞の様子

8時40分から開始されたお囃子。その後の獅子舞は幕の裏から出てくると、背筋をぐんと伸ばしたり引っ込めたり、左右に触れたりと動きがとても変化に富んでいて見応えがあると思った。そして、ボールを口に咥える仕草やおかめとひょっとこが大勢現れて眠っている獅子にちょっかいを出して、起こしてしまうと怒って、たまらず逃げていくようなシーンもあって、ユーモアにも富んでいた。やはり獅子舞が登場すると場の空気感が変わる。ポジティブなエネルギーをもたらしてくれる存在に思われた。約1時間の演奏・演舞となった。

代々木囃子の歴史

代々木囃子保存会。その歴史は江戸時代に始まったという。葛西囃子と神田囃子が栄えた事で、江戸の太神楽の基盤ができたことはよく知られているが、そこから伝えられた目黒囃子を源流として、この代々木囃子が生まれたようだ。代々木囃子保存会のホームページによれば、この江戸時代のお囃子文化の源流は田楽にあり、田楽が鎌倉時代武家流にアレンジされて勇壮な5人で行うお囃子という形態の基盤ができたと考えられるという。長い歴史を経て相当な変化が加わったと思われるが、今でもその名残を伝えてくれる歴史あるお囃子だ。

お囃子を担う人々

男女年齢に関わらず他世代がここに所属し、活気があるように思えた。若い人に話を聞いてみたら、もともと祭りに関わりたくてホームページを発見して問い合わせて、練習に通うようになったという。全く知り合いがいなくても問い合わせをして、団体に所属する流れが、できているのがすごい。

出演も多数

活躍の場も多い印象だ。お正月は代々木八幡宮での奉納演舞だけでなく、門付けも行うという。それから区内のイベントなどに多数呼ばれて出向くという。渋谷区の無形民俗文化財として、地域の人々に愛されている様子が伺える。



獅子頭制作13日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭づくり。本日はテレビ取材込みだった。

作業内容としては家で課題として木片を獅子頭の側面に貼り付けていたので、それを彫るというものである。この彫る部分を毛玉という。
毛玉の彫り方はまずぐるりと周りの木を削り大まかな形を整えたら、細いキリで細かく斜めに削っていく。中心部が最も高くなるように、一方でその周辺部が少しずつ低くなっていくように作る。全体として角張った木材が丸く獅子頭全体に馴染むように作らねばならない。部分と全体と、両方の視点が必要なのだ。
毛玉の巻き方にとりわけ法則はなく、獅子頭のサイズが大きいほど、巻く数が多くなると言う程度らしい。僕が作っているのは子ども獅子くらいのサイズなので、巻く数は2回で済む。もっと大きいサイズになるとすごい巻くことになるんだろう。

今回、取材では他に、巨大獅子頭の展望台や獅子頭が飾ってある観光案内所、すずめやなどのお店を回った。すずめやで非常に興味深い話を聞いた。石岡の人は獅子を舞うというよりも「獅子を揉む」と言うらしい。舞うでも踊るでも振るでもなく、揉む。これは新しい発見だった。

船の上で肩車して獅子舞!?アクロバティックな「船上継ぎ獅子」、愛媛県今治市大西町九王にて

愛媛県今治市越智郡大西町九王(くおう)。この地には、船上継ぎ獅子なる獅子舞があると聞いていた。ただでさえバランスのとりにくい船の上で、肩車をしながら獅子舞をするという。聞いただけでもハラハラするような獅子舞が存在するのだ。以前、今治市内で行われた「おんまく」という夏祭りで、いくつかの団体が獅子舞を演舞しているのを見た。しかし、この時継ぎ獅子の頂点に立つ獅子児(ししこ)が獅子頭を被っている団体が偶然か知らぬがひとつもなかった。獅子頭を被った継ぎ獅子が見られなかったこと、そして、船上で行われるというレア感に惹かれて、僕は松山行きのフライトをとった。

余裕のある滞在、三津浜に立ち寄る

飛行機の中では、「右手に富士山が見えます」というアナウンスが入った。すっきりした晴れの日に、まずは松山に前日入りした。松山空港を降り立って、1日目は三津浜まで1時間歩き、暇つぶしをした。港町の生活感あふれる港町の風景はかなり魅力的に思えた。カメラを向けることが後ろめたくなってきて、柔らかく風景に接触できるようなカメラがあるといいのにと思った。船べりにもたれかかる船頭、のんびりと道端を歩く猫、それらすべてが自分にとっては素晴らしい風景だった。伊達という食事処で、三津浜焼きを食べた。入るなり地元の若者とおじさんが飲み友みたいに5人ほど話に花を咲かせていて、自分の入る隙はなかった。しかし、その横のカウンター席に座らせてもらい、店主と思われるおばあちゃんに話しかけてもらった。「どこからきたの?どこに泊まるの?」矢継ぎ早に質問が飛んできて、隣の30代くらいの若者ともその流れで話をするようになった。とても生き生きしていてテンションも高くて怖気付いたし、地元ノリが羨ましくも感じられてなんだか虚しくもなったが、暖かい気持ちにもなった。旅先の食事処は、こういう場所を選ぶべきなのだ。その夜はバンビーズというネカフェに泊まった。塩バターとキャラメルのポップコーンが食べ放題でとても綺麗なネカフェで大満足である。

翌朝に祭りは始まった

翌日7時には三津浜駅まで歩いて、それから波方駅で降り、そこから30分歩いて、祭礼のスタート地点である龍神社に向かった。ここから9時ごろに獅子舞が始まり、船上継ぎ獅子は9時20分ごろ。初見で印象的だったのが、船の上での継ぎ獅子は非常に盛り上がった。海岸沿いにはたくさんの地元民やカメラマンが詰めかけ、場所を取り合うという状況。その中で、アクロバティックな獅子舞が進んでいく。最も難しい四継ぎ獅子は途中で力尽きて子どもが下の大人たちのところに飛び降りるみたいなハラハラするシーンもあった。人間の高いところに届きたいという欲望のようなものを感じたし、技芸はどんどん難しいところを目指してしていくという実感を得た。海上での演舞の最後に、紅白の餅まきをしていて、海に投げられてしまった餅たちを全身ずぶ濡れになりながら取りに行く子どもたちがどこか微笑ましかった。

獅子舞をラストまで追いかけた

それから海岸を上がって、道を歩きながら獅子舞が行われた。狭い道を獅子が左右に大きく目一杯舞い歩く姿が印象的だった。最後は九王地蔵堂に到着。ここではおそらくフル演舞だったのだろう。1時間以上はさまざまな舞いが繰り広げられた。終了したのが11時半ごろだ。獅子舞は午前中約2時間半ほどの演舞と練り歩きであった。神輿は龍神社から少し歩いて船に乗るでは同じだが、そこから富山八幡神社へと移動するため、会場での演舞以降は、獅子舞と経路が異なり見られなかった。ただ、最後獅子舞が終わって国道15号線沿いを歩いていると、腰掛けて休んでいる神輿の大群と出会うことができた。結構広い範囲が氏子の区域なんだと思った。

それから、他にも天神社など15号線沿いの神社を見て回ったのだが、もうすでに獅子舞が終了しているような様子だったので、そのまま通り過ぎた。鉄板焼きを食べて、図書館に籠って継ぎ獅子の資料を読み漁った。冊数は多いが、内容がシンプルすぎる印象で、継ぎ獅子の調査研究はもっと進んでほしいとは思った。それから、大井八幡大神社に立ち寄り、大西駅から電車に乗って松山駅で降りて、じゃこてんうどんを食べてから、松山市駅から夜行バスに乗って帰路についた。今回の旅はどこか余裕のある旅だった。その分、道端の小さなものに注目するような機会にもなったし、業務的な要素は薄く、心の豊かさと向き合う良い機会となった。忙しない道場の中に、レタリングの面白い良い看板とか、庭木や鉢が充実している店先とか。自分の暮らしへの妄想が広がっていく要素もあった。継ぎ獅子も船上継ぎ獅子は人気だから多少の観光地化も免れないとは思っていたが、案外アクセスが困難だし地元の人も多くて、素朴な風景として一連の流れを捉えることができた。見応えある演舞と素朴さを両立することは案外難しいようにも思うので、そういう意味で素晴らしい獅子舞の形を観ることができた。

九王獅子連とは?

それでは改めて、今回の獅子舞の基本情報について触れよう。龍神ヶ鼻にある龍神社がスタート地点となった。龍神社はもともと、神武東征の際に、激しい風波にあって龍神の助けで九王の浜に何を避けられたことから竜神を祀ったことに始まる。かつて江戸時代に龍神社は松山藩の雨乞の祈祷所としての性格を持っていた。ここで演じられる継ぎ獅子は今治市越智郡で特徴的な曲芸的な立技を披露する獅子舞のことである。もともと龍神社の祭礼は旧暦9月7日であったが、1932年(昭和7年)から5月20、21日となった。近年は休日に合わせて5月第3日曜日に行われているようだ。

ここでは神輿の海上渡御に供奉するという形で、シシブネが出て、獅子舞が海上で舞われる。この「船上継ぎ獅子」と呼ばれる獅子舞は江戸時代末期に始まったと言われており、約200年の歴史があるとされるシシブネは小型漁船2隻をつなぎ合わせ、座板をその上に乗せて接着して、ゴザを敷いて四方には斎竹(いみだけ)を立てて、注連縄を張った作りとなっている。これを手漕ぎするとともに、途中から動力を積んだ漁船が引っ張るという形で海上へと進んでいく。

獅子の基本動作

獅子舞は基本動作が2つあってそれを「曲(きょく)」と「練る」というそうだ。曲は獅子頭を上下させる動きで、練るは獅子頭を左右に動かしながら、足を前に蹴上げて舞う動きである。

演目としては、「①練る、②ダイバ(提婆):天狗が笹と刀で悪魔祓い、③立ち芸:二継ぎ、三継ぎ、四継ぎ、④もちつき、⑤スリガネ:少年が三番叟を踏む、⑥オヤス:お多福面をつけた少年が油単の穴から顔を出す、⑦マエギ:獅子頭持ちと油単持ち2名で演舞、獅子が脇差を咥えて舞う等の所作あり」などがある。

かつては五継ぎ獅子、六継ぎ獅子もしたことがあるそうだが、今では四継ぎが人数的に精一杯であり、昔は高すぎると上に乗った大人を受け止めきれずに入院者が出たという話も残されている。四継ぎ獅子の場合、一番下をダイ(台)、ダイの肩に乗る者をナカダイ(中台)、その上をコウツカイ(子使い)、最も頂点に立つ少年をシシコ(獅子子)と呼ぶ。五継ぎの場合はナカダイ(中台)が2名となり、三継ぎの場合はナカダイ(中台)が0人という考え方になる。

他の地域との繋がりは?

個人的に面白かったのが、練り歩きの時に二継ぎ獅子、つまりカタグルマ状態に似たような感じで大人が子どもを背負って、練り歩いている場面があったが、これは石川県加賀市田尻町の獅子舞で見たことがある。神社から公民館へと移動する際に、肩車で担がれた青年団の重役が意気揚々と歩いている姿を見た。加賀方面には棒振り文化があるから、田尻町における獅子と対峙する棒振りが、今治におけるシシコという対応関係として似たものがあるのかもしれないと思ったが、完全に推測の域を出ない。

またマエギという演目は完全に伊勢大神楽から取り入れられたように思われる。伊勢大神楽で言うところの剣の舞のような所作であることに驚いた。ダイバと呼ばれる天狗も、伊勢の猿田彦のような感じがする。そもそも継ぎ獅子の歴史を辿ると、江戸時代中期ごろに伊勢大神楽から習った説が濃厚で、それをより高く高くしようと継ぎ獅子というアクロバティックな舞いへと独自の変化が生まれたわけだ。

 

◯主要参考文献

愛媛県生涯学習センター『昭和を生き抜いた人々が語る 愛媛の祭り(平成11年度地域文化調査報告書』平成12年3月

◯その他の参考文献

大西小学校『小学校3・4年生副読本 大西のくらし』昭和43年4月初版発行 P61.62

近藤福太郎『大西の文化財』大西町史談会、平成16年1月 p16

愛媛県歴史文化博物館『平成十二年度企画展 愛媛まつり紀行ー21世紀に伝えたい郷土の祭礼』平成12年7月p34

押岡四郎『愛媛民俗伝承の旅 まつりと年中行事』愛媛新聞社 平成11年4月 p76

※基本的に文献は多いが少しのコメントが載っている程度なので、全体的に継ぎ獅子の調査を進めねばと個人的には思っているところだ。

 

 

 

東京都豊島区「長崎獅子舞」、大地を回りながら踏みしめる。暮らしから発生した舞い

2024年5月12日(日)東京都豊島区で唯一の民俗芸能とされ、区指定無形民俗文化財となっている長崎獅子舞を訪れた。

当日のスケジュールがこちらで、お囃子団体もいくつか来ていたようだったが、長崎獅子舞の出番だけを抜き出すとこんな感じだった。

11:00〜ふんごみ
14:20〜14:40 平舞
15:30〜16:00 花巡り(花舞)
16:20〜16:30 ふんごみ
16:50〜17:30 幕係り

午後からの部を全て拝見することができた。実際に拝見してみて、躍動感ある動きがかっこよく、またちょこちょこと小刻みに歩く様子が可愛らしく感じられた。

長崎獅子舞とは?

大夫獅子、中獅子、女獅子が登場する三匹獅子舞。大夫獅子が貫禄のある雄、中獅子が雄、女獅子が雌という構成だ。女獅子は大夫獅子のお嫁さんで昔の人はお歯黒だったのでこの獅子もお歯黒になっている。それに花笠、おんべ(舞が一幕終わるごとに榊を持ち振って祓い清める役)、高張提灯、世話人などがつく。獅子頭は龍の形で、頭の後背には地鶏の羽が漆黒に輝く。長崎神社境内のモガリと呼ばれる聖域の中で演舞される。場合によっては塩化ビニールを使って作られた笛を吹きながら、練習することもあるという。舞い方の演目はふんごみ、平舞、笹舞、花舞(はなめぐり)、花四つ舞、幕掛り舞、帯舞などがある。江戸東京の近郊農村の行事として長い間継承されてきたが、東京都北豊島郡長崎村は豊島区に吸収。首都圏のスプロール化、都市化の波に飲み込まれて住環境は変化した。その中でも、危機を乗り越え現在でも継承されている。


長崎獅子舞の歴史

3匹獅子舞であり、東京都内では非常に古い型を今に残す。ゆっくりと長い舞いが繰り広げる。この獅子舞の起源を遡れば、江戸時代の元禄年間に遡る。伊佐角兵衛という人物が病の床に臥せっていたが、長崎神社に詣でることを繰り返すとたちまち病気が全快したという。それに感謝した伊佐角兵衛が、村人たちと総出で獅子舞を奉納したのが始まりだ。文書の記録だと1847年(弘化4年)9月に演舞の記録が残されている。

それから中絶を何度も繰り返しながらも今に至る。五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から行われてきた舞いだ。平成4年には豊島区無形民俗文化財に指定された。今では毎年長崎神社のお祭りで、5月第二日曜日に開催されている。


興味深かったこと①ふんごみの舞い

「ふんごみ」という舞いがあり、担い手ははじめに習うのがこの演目であり、基本動作とされる。「ふんごみ」の意味はけっして汚いものではなく「ふみこむ」から転じた意味があり、大地を回りながら踏み締めることを指す。非常に興味深く、日本の民俗芸能の各所で見られる反閇の所作に通ずるものがある。

興味深かったこと②藁獅子

長崎獅子舞は稽古の際に使う「藁獅子」というものがあり、稲刈り後に出た稲穂を少し湿らせ槌で打ってから、使って縄をなうという工程で30分ほどあればできるという。それは5~6年使用できるらしい。また旧長崎村は茄子の生産地として知られており、藁獅子の鼻の部分の編み方は茄子の苗床の縁の編み方と同じとのこと。生活動作から生まれた獅子でもあったのだろう。だからこそ練習用として重宝されたし、練習がしっかりできたら本番の獅子頭をかぶるのが楽しみになるような存在でもあったのだ。
このようにその地域の気候風土を体現する獅子舞というのは興味深い。昭和16年12月発行の『民族学年報』3巻の古野清人著『下野の獅子舞ー本邦農耕儀礼の一研究』という文章によれば、下野(栃木県)の獅子舞が農作物の風害を防ぐ意味があると書かかれている。つまり、厄除けや雨乞いなどの意味もあるが、畑作雑穀生産地帯ゆえの地域特性が反映されており、炎天下でも長い時間単調に舞い続けねばならない意味がそこにある。作物がよくできますようにという願いが込められていれば、村の中心的な行事としても成立する。そういう流れでもあった。藁獅子の話は地域で行われることの必然性について考えさせられる事例である。

参考文献
東京都豊島区教育委員会『豊島区長崎獅子舞調査報告 第一分冊』平成3年10月31日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区登録文化財 長崎獅子舞の伝承』平成4年6月1日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区文化財ブックレット1 長崎獅子舞のおはなし』平成29年3月発行