酒田市はなぜ獅子の街になったのか?疫病が発生しやすかった構造とは

酒田市は獅子舞の街だ。酒田まつりでは大獅子が練り歩き、神輿には行道の獅子がつき、ステージパフォーマンスでも獅子舞が登場する。何かと獅子舞が出現しがちなこの街において、獅子舞は街の特質とどのように結びついているのだろうか?そのようなことをふと思って色々と調べてみたところ、なんと「疫病が発生しやすい街だった(過去形)」という性質が浮かび上がってきた。2022年5月20日に酒田まつりの本祭を訪れて考えたことをここに記す。

酒田市の獅子舞

酒田市の民俗芸能に占める獅子舞率は特筆すべきである。なんとその割合が75%というのだ。全部で45件が伝来し、獅子舞の奉納が始まった時期としては江戸時代が22件、明治時代が20件、大正時代が3件ということで、江戸時代と明治時代が圧倒的に多い。

この内、明治時代の20件は全てコレラウイルスの悪疫を退治するために始まったということは特筆すべきである。酒田においてコレラウイルスが流行したのは、明治12年、15年、19年から21年だった。これらの年に村から村へと獅子舞が伝えられていったようである。なぜ酒田がコレラウイルスに対して敏感であったかといえば、当時は陸上交通が未発達なため、日本屈指の港町で人と物資の交流が盛んな土地であったからだ。海岸線に接する農村部も例外なく流行病を恐れたそうである。つまり、コレラウイルスという疫病が獅子舞の始まりになったというのは興味深い。現在、新型コロナウイルスが流行する中で、密になるからということで獅子舞は休止して廃れるばかりである。しかし、昔は逆に獅子舞をやることが疫病の退散に繋がると考えたわけだ。このような事例は、全国的にはやはり港町に多く見られ、2021年秋に取材した石川県加賀市橋立地区も明治時代のコレラウイルスの流行が元で白い獅子頭を使った獅子舞を開始したという話をされていた。

 

▼酒田まつりに登場した亀ヶ崎獅子舞

酒田まつりの大獅子の起源

現在の酒田まつりの拠点になっている日枝神社は、もともと明治の神仏分離後にこう呼ばれ始めた。その前までは山王権現と山王社だった。その山王社が起源の違いから上社と下社に分れており、1646年に上社の御神木を下社に移したことをきっかけに、2つの社の祭りを1つにまとめ、酒田の祭りとして始めたのが山王祭の始まりのようだ(酒田まつり公式ホームページなどに「山王祭の起源は1609年」と書かれている場合もあり真偽は定かでは無い)。酒田市で祭りに対する大きな転換点になったのが昭和51年の大火である。大風によって未曾有の被害が生じ、そこからの復興を祝す形で山王祭が行われた。その復興の象徴として大きな赤と黒獅子頭を祭りの中心に持ってきたのだ。この山王祭が今は酒田まつりとも呼ばれ、酒田の中心的な祭りになっている。

なぜ酒田の獅子舞は2頭1組?

また、酒田市の獅子舞の特徴として、2頭で1組という形で作られる場合が多い。これは大抵の場合、赤と黒で対になる。全国的にみればオスとメスだとか、親と子だとか、様々な言われ方がするが、酒田ほど2頭で1組が徹底している地域というのも珍しい気がする。

この理由として、まずオスとメスの意識があったからと言われている。酒田市では伝統的に、黒塗りで耳の立った雄獅子を陽、赤塗りで耳の垂れた雌獅子を陰と考え、雌雄揃うことで悪病災害厄除けの霊獣として信仰されてきた。酒田の飾り獅子の文化は約200年前からと言われており、意外と歴史がかなり古いわけではない。この考え方はおそらく、日本全国の黒い獅子と赤い獅子の信仰に概ねなぞらえて考えることができるものであろう。

それに加えて、「兄弟獅子」という考え方があったというのは重要な点かもしれない。明治初期に獅子舞が村から村に伝えられたとき、獅子頭を作る大木が必要とのことで1つの木から2つの獅子頭を作り、「兄弟獅子」と呼ぶ例があったようである。例えば中星川村が兄貴分、上安田村が弟分とされ、たまたま中星川村の方が根本に近い部分の木材を使ったため、上安田村より完成品が少し大きくなったという話まで残されている所もあるようだ。

 

▼酒田まつりの雌獅子

▼酒田まつりの雄獅子

実際に酒田まつりを訪れて感じたこと

とにかく4体の大獅子が巨大だった。あまりにも目立つものだから、やはり祭りの最大の見せ場にもなりうる。子どもが「お獅子きた!」などと喜んだり、逆に怖がったりする様は対照的に感じられた。そういえば、権現様の小さくて黒い獅子頭の方が怖がる子どもは多かったような気がする。酒田にいると獅子頭に見慣れるためか、道路を走る車さえも獅子頭のように思えてきてしまう。とりわけサイドミラーが酒田の獅子頭の耳に似ている気がする。あと、獅子頭を大きな団扇で仰ぐ役の人がいるのだが、あれは写真撮影の観点で非常に難しさを生み出している。どうしても獅子頭を撮ろうとしても大きな団扇で仰ぐ役の人が写ってしまって、ベストショットを撮るのに時間がかかってしまった。まあ、その難しさなんかも含めて獅子頭をずっと観察してついて歩くのはとても楽しかった。

酒田まつりが示す獅子舞の可能性

やはり酒田まつりが特筆すべきは、港町こそ厄の流入口であるということを示している。つまり開けた雑多な人間が入り乱れる街には何かしらの厄払い行動が生まれやすいということかも知れない。しかも人とモノの出入りにより儲かった貿易港である。祭りが生まれる必然性を感じるし、そこに獅子舞的精神の萌芽を感じるのだ。

 

参考文献

酒田民俗学会『酒田民俗4号』(平成9年11月)

五十嵐文蔵『庄内地方の祭と芸能』(平成10年3月)

獅子舞の爆発的ヒットの背景とは?富山県・新湊の春祭りを訪れ、歴史的展開から考える

富山県から獅子舞と地域の未来を考えたい。2022年5月14日、富山県射水市の新湊を訪れた。新湊の春季祭礼を見に行ったのと、高岡市を拠点に獅子舞文化を盛り上げるwebサイト「獅子魂」の発起人の方にお話を伺った。富山県は獅子舞が盛んなので、包括的に地域を読み解く指標にもなりうる稀な土地であると感じる。つまり、獅子舞を盛り上げることが地域を盛り上げることでもあると解釈できる土地だ。そして、獅子舞のこれからを議論することが地域の未来にとって非常に重要な意味を持つ土地でもある。それでは富山を訪れて考えたことを振り返っていきたい。

富山県はなぜ日本一の獅子舞大国?

富山といえば、獅子舞伝承数が日本一という話もある。これは平成6年の富山県教育委員会の調査で1170という伝承数が明らかになって以降に言われ始めたことだ。「獅子魂」の発起人である大島さんのお話だと、「春や秋のお祭りで隣町が楽しそう!という気持ちで、素朴で素直な気持ちから広まっていったのではないか」とのこと。確かに娯楽がない時代に、お酒飲んで、美味しいもの食べて、馬鹿騒ぎするという楽しさが元で爆発的に広がったのかもしれない。これは良いものをどんどん広めていこうというミーハー的な県民性によるものだと感じる。富山県内で最も獅子舞の伝承数が多いのは高岡。一方、氷見は盛んだが年々人口減少の影響で数が減っているのが顕著のようだ。また、富山市には空襲が原因で獅子舞が少ないので、なかなか獅子舞を富山県として推進していくという動きがあまりない。そのため、逆に自治体単位や有志が獅子舞を盛り上げていくという雰囲気がある。

新湊の獅子舞の歴史

新湊の獅子舞は技術、熱量ともに日本全国でも有数の土地と考えてよいだろう。港町ならではの活気と荒々しさとともに、各々の町内がプライドを持って「富山県で1番」だと思ってやっているので、なかなか良い意味でまとまらない風土がある。一方で各町内の演目をよく見てみると、似通っているところも多い。基本構成として獅子頭は黒が圧倒的に多く、獅子に対峙する天狗、キリコなどはどこも共通している。これは富山県民の良いものを徹底的に広め取り入れるという性質から来るものだろう。

この地域の獅子舞の始まりはどこからだろうか?新湊市教育委員会『新湊の獅子舞』(平成7年3月)によれば、昔、放生津で大火があったときに、東町の光明寺と荒屋の光山寺との間に、新規町という新しい町を作り、火事が起きないようにという願いを込めて、お宮を建ててその慶讃行事に新湊で初めて獅子を出すことになったという。その時、獅子舞を演舞する中心人物になったのが、魚商いの安さんという方。商売の暇を見つけては能登や加賀に獅子舞研究に出かけたようだ。安さんは天狗役となり名人技を習得したため、加賀藩の剣術者が手合わせを願い出るほどに、大きな話題をよんだという。

また、富山県教育委員会富山県の獅子舞-富山県内獅子舞緊急調査報告書-』(昭和54年3月)によれば、放生津の獅子舞の元祖はやはり新規町のあたりのようだ。新規町は現在の新湊市八幡町2丁目にあたり、そこにある秋葉神社の縁起では、西国で行われていた獅子舞が船乗りによって伝えられ、放生津八幡宮にて奉納されたという内容の記録が残っている。この獅子は現在神輿の露払い役として10月1日に登場するものだ。獅子方の道具箱には「文政十一歳子八月改」(1828)の紀年銘があり、これより以前に獅子舞が伝来していることが伺える。以上のように始まりには諸説あるものの、現在、新湊市には約80の獅子舞が伝来している。

総じて、全国的に考えれば、新湊の獅子舞の歴史は新しいと言えるかもしれない。考え方を変えれば、立山修験が始まった一千年以上前にも獅子舞はあったかもしれないが、それが変化して、原形をとどめておらず、獅子舞の歴史はどんどん塗り替えられているという風に捉えることもできる。そういう意味でとにかく良いものを取り入れるミーハーな県民性が伺える。また、この特徴をよく表している事例としてたいまつを持つ獅子舞の流行ぶりにも注目すべきである。なぜか新湊の獅子舞はタイマツをもち、火を使ったスリリングな技が流行しつつある。おそらく修験か源平合戦倶利伽羅峠の戦いの影響だろうが、始まりは六渡寺という地域らしい。そこから一気に広まり、今では新湊の全域でタイマツを使った演舞が見られる。

獅子魂から学ぶ、日常的なところに潜む獅子舞意識

獅子魂に学んだのは日常の中から何かを改革することの必要性である。もはや祭りは担い手たちだけのものではない。祭りマニアだけが盛り上がるものでもなく、地域としてそれを受け継がねばならない。そこには土地の資源があり、それを元に生み出した観光業やグルメ、地場産業などと獅子舞が常に結びつくような存在でなければいけないのだと感じる。それは獅子舞が地域単位で受け継がれる存在であり、地域をよりよくしていくものであり、その土地に潜む厄を払い幸せをもたらす存在であるからである。そのような本質的な意義を語ることで、獅子舞はやっと地域のものになる。

興味深かったのは、獅子舞の担い手を「獅子メン」「獅子女」などと呼んでいるというお話。獅子の担い手たちは祭りの衣装を纏うとなぜか粋な存在になる。細い人も太った人も、なぜか誇らしく感じられる。そういう日常には見られないギャップのようなものが立ち現れる。そこに名付けをすることで、獅子というものが地域の人々の意識の中に醸成されるのだ。また、「獅子めし」もそうである。獅子舞の時に食べられる食事は全部、獅子めし。なるほど、獅子めしと呼び始めれば、獅子舞がより身近になってくる。呼び方を少し工夫するだけでも、獅子舞がより身近に感じられ、その必要性が生まれてくる。言葉の持つ力って本当にすごい。

この獅子舞意識を日常に潜ませるという行為は、富山県内では様々なところに見られる。高岡-新湊を結ぶ路面電車万葉線は、2020年から獅子舞のデザインの列車を一両走らせており、それを「獅子舞トラム」と名付けている。また、氷見市のZONAというカフェではアイスに獅子の顔を型どったモナカが付いてくる。そして氷見市の小島ダンボールさんはダンボールで手作りできる獅子頭を販売している。このように、祭りだけでなく、富山県民が日常的に獅子舞に愛着を持てるような瞬間が日常に溢れているのである。

歴史的展開に、富山の獅子舞を位置付ける

考えてもみれば、獅子舞の文化は歴史的にどのように醸成されてきたのだろうか?もともと飛鳥時代奈良時代平安時代までは、確実に獅子舞は宗教にくっついていく形で広まった。鎮護国家思想のもとで全国にお寺ができ仏教が普及して、その仏教行事の中に行道の獅子舞というものが組み込まれていたはずだ。鎌倉・室町時代以降はものづくりの観点から獅子舞の普及が始まった。綿産業の勃興により獅子舞の胴幕が普及したし、彫り師たちが仏像を掘る側で獅子頭も彫りだした。

獅子魂のようにいわゆる広告業的な視点から獅子舞が爆発的に普及したのは江戸時代以降だろう。伊勢神宮御師たちが伊勢大神楽をしながらお伊勢参りを全国的に勧めていった時に用いたのが「伊勢暦」であり、毎日の時間感覚を把握するという極めて日常的な行為を庶民的に普及させることに成功した。あれは伊勢のお札とともにかなり珍重されたものだし、伊勢講を作って田畑を耕して経済的な潤いを作りお伊勢参りをさせるという極めて日常生活的なサイクルをも作り出していた。これは伊勢大神楽という非日常的な祭り要素が日常的なその他の行為に紐づいていたことを示しており、したたかな御師たちの広告代理業だか旅行代理店だかよくわからない特殊な活動が人々の意識を根底から変えていった一つの大きな事例だろう。

ただし、現在の富山県の動きというのはそこまで中央集権的祭祀に基づくものではなくて、お好きにどうぞ精神から各地域の祈りみたいなものが珍重され、ボランティアから始まる地域活動ともいうべきか。ある意味ゆるい意識の醸成の仕方だと感じる。獅子魂の活動というのも仕事で利益を追求するものではなく、有志の立場で地域に関わるというスタンスを保っている。これこそが「伝統文化の継承には不可欠なこと」であり、獅子舞の歴史が長いように、長いスパンでできることを少しずつやっていくことが大事なのだと、あくまでも控えめな姿勢が少し見え隠れしているのが面白い。

これはトップダウン的に思想が広まったのではなくて、隣町がやっているから楽しそうだし、自分たちもやってみようかという極めて内発的な動機と横の繋がりによって広がっている。町同士のコミュニケーションの活発さこそが、富山県を獅子舞王国にした一方で、超伝統的な獅子舞ではなく比較的新しく上書きされやすい獅子舞であることをも示唆している。だから、超個性的な獅子舞とか超古いみたいな獅子舞が少ない。これはおそらく、富山県という比較的湾状で平野的な土地が多い場所であるからこその特徴であり、氷見の獅子舞が五箇山まで伝わっちゃうというスピード感とか移動距離とか、無線LAN飛びまくっているみたいな移動の活発さを感じざるを得ないわけである。

大事な飼いキツネを神の国に送る「イオマンテ」の真意とは? 35年前の貴重映像とともに考えた

東京・東中野ポレポレで、2022年4月30日より、「チロンヌプカムイ イオマンテ」という映画の放映が始まり拝見してきた。北海道の大地で受け継がれてきた、イオマンテという幻の儀礼の映像が35年の時を経て公開されたのだ。これよりネタバレを含むので、興味のある方のみ、読んでいただきたい。


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イオマンテとは?

まずイオマンテとは何かという話である。我が子のように大事に育てた動物を殺して、たくさんの土産物を持たせて神の国(カムイ)に送り返す、というのがこの儀式の簡単な流れである。ここで送られる動物は熊である場合が多いが、今回の映画ではキタキツネが送られていった。この儀礼を行う真意は、カムイに送られる動物が生前に人間界で多くのもてなしを受けたことで、カムイに行った時に人間界の素晴らしさをたっぷりと語るため、他の動物たちがまた人間界を再び訪れてくれるという循環的な思想に基づいている。

今では動物愛護などの観点からイオマンテに反対する意見も多く、1955年には北海道知事が野蛮な儀式として事実上禁止したものの、2007年には撤回されている。ただし、現在、イオマンテを実施している村は存在しないと言っても良い。このイオマンテの禁止は和人とアイヌ人との同化政策の中で消失した貴重なアイヌ文化とも言える。

食肉加工プロセスに蓋をする

このイオマンテの問題は、現代に生きる私たちが蓋をしてきた食肉加工プロセスの問題とも深い関わりがあるように思えてくる。江戸時代以降、食肉加工の末端を担ったのは、えた・ひにんと呼ばれた下層階級の人々であった。その中でも動物を殺める役割を担ってきた人々はごくわずかであり、大多数はどのように動物を殺害し食卓に並ぶかを知らない。スーパーで人工の容器に入れられた切り身を購入し、それを調理することくらいしか経験しないのだ。これは日本人の清浄なる仏教的意識とも結びついており、動物を殺める行為がなぜか野蛮なことにすり替わってしまった農耕社会以降の思想とも言える。

儀礼は徐々に外部化する

ここからさらに議論を広げていこう。稲作や仏教の伝来以前、縄文時代に行っていた狩猟文化において、イオマンテのような儀礼は日本全国で見られたはずだ。長野県の諏訪大社で春に行われる御頭祭では鹿の首75頭を神に捧げる儀礼があった。これは今、剥製を捧げるという儀礼に変わってしまったが、昔は毎年鹿を捕まえて殺すことから儀礼が始まっていたのだろう。

これが日本古来の儀礼であるならば、もしかすると神社は獣を神に捧げる場所であったのかもしれない。極端なことを言えば、最初期は獣ではなく人間の子供を捧げていたのだろう。これが徐々に儀礼として弱まり、人間の子供→大事に育てられた獣→狩猟によって獲得した獣→獣の剥製ときて、最終的には「獅子頭」になったと考える。これは自分の身内から徐々に関わりのないものとして象徴化、あるいは外部化されていくプロセスのようにも思える。

現代人が発明した獅子舞という芸能

なぜ獅子頭は開発されたのか?獅子頭は元々獅子舞に使う祭り道具であり、この起源を辿ると生命との関わりが減った文明人が、生命と接続する術として編み出した芸能であるという側面を持つ。だから、獅子舞も最初は実際の鹿などの首と毛皮を身につけた人間が舞うような芸能であったはずだ。獅子舞は日本全国47都道府県で継承され、日本で最も多い民俗芸能と言われる。獅子舞の分布域を見るに、その古層にはイオマンテのような芸能の息遣いを感じることができる。

獅子舞が全国有数の数を誇る石川県のある旅館に関する興味深い話を聞いたことがある。昔、ホテルのオーナーが猟師をしており、ある日親熊を仕留めたそうだが、子熊は連れて帰って大事に育てたそうだ。子熊は誰もが鑑賞できる檻に入っており、学校給食を携えた小学生が遊びにきて、餌をあげることもあったそうである。しかし、いつの日か子熊はいなくなり、その檻が置かれていた跡だけが今でも残っているという。この話を聞いた僕は、短絡的と言えるかもしれないが、これは一種のイオマンテのような儀礼の名残ではあるまいかと推測した。

先祖への感謝と継承の義務

それはともかく、儀礼の外部化には、民俗芸能の簡略化と同じような思考が働いているように思える。つまり、これは儀礼や民俗芸能を継承していくことで、自分たちの地域、あるいは先祖の意思を皆で受け継いでいこうという地域社会の伝統というものが生まれ、その継承をどのように実現するかというプロセスの中で生まれた工夫であったはずだ。

ただし今回の映画の中には、本心では儀礼を継承したくないがやらざるを得なくて、村を離れたい意思をなかなか家族に伝えられない子どもたちの姿が印象に残った。35年経った今、彼らは土地を離れ、都会で暮らすことを選んだようである。自分の肉体や精神は親と大地によって育てられきたという側面があるが、これは先祖が築いてきたイオマンテに象徴される循環型社会からの恩恵に感謝するというよりはむしろ遠ざける行為とみなされても仕方がない。しかし、これは現代の私たちが行ってきた日本という国家の統一性と秩序の形成、ライフスタイルの変化など、複合的な要因がそうさせたといっても過言ではないだろう。ここに大きな葛藤が生まれ、伝統を継承しなかった自分に対する村八分的な犠牲をもたらすのである。

飼い犬を神に捧げることはできるか?

イオマンテは現在、断絶しているものの、これと似たような風習が中国に残っている。僕は2017年に中国貴州省を旅した際に、飼い犬を犬鍋として食す祭りに出くわした。地域住民は各家庭皆、飼い犬を捌き、淡々と犬鍋を作り高価な値段で振る舞うのである。これはカムイに動物を送るという行為とは異なるが、大事に育てた動物を殺めて捧げる点で、似たような儀礼であるように思える。犬をペットとして飼う多くの現代日本人にとって理解しがたい行為であろうが、これは貴州省の人々にとって当たり前の行為なのだ。こう考えれば、世界的には中央政権の支配がなかなか十分に及ばない秘境的な土地において、イオマンテは脈々と受け継がれているようにも思える。

イオマンテが現代に託すメッセージ

我々はイオマンテから何を学ぶことができるのだろうか?イオマンテという儀礼を駆逐した先に、どのような未来を築くべきかは想像を超えているため、熟考していきたい。ただ、確実に言えるのは、我々は大地の恩恵を受けており、その大地は今アスファルトの下に眠っているということだ。我々が築いてきた都市はこの大地という野生を覆い隠し発展してきたが、想像を超えた災害などの野生に打ち負かされることもある。まだまだ人間は未熟だ。土に触れるという行為を大事に、大地の声に耳を傾けるという姿勢をさらに強く意識していきたいと感じた1日であった。

獅子舞が大集合!ながの獅子舞フェスティバルが持つ機能とは?

5月3日に長野駅前から善光寺参道にかけて開催された、ながの獅子舞フェスティバル。長野市を中心に34の獅子舞団体が一堂に会した。スタッフの方にこのイベントの狙いについてお話を伺うことができた。今年で第6回目。

ー開催の目的はなんでしょうか?

伝統芸能の継承と、地域の宝を次の世代に残すという目的があります。長野市では平成30年に伝統芸能推進室という部署ができました。それ以前にも伝統芸能を推進していこうという機運があり、後継者不足で活動ができない団体が出てきているので、このままでは大切な地域の資源が失われてしまいます。これをなんとか食い止めたいと考えています。回復はできなくても、ずっと持続させていきたくて、なんとか子供に伝える機会を作りたいんです。

 

ー獅子舞の演舞だけではなくて、獅子頭づくりのワークショップもされていましたね。子供さんたちがたくさんきていました。それで赤色だけでなくて黄色やピンク色などの獅子頭を作っているのも印象的でした。

子供に楽しんでもらうには色々な色や形があっていいのだと思います。市の職員が獅子頭の作り方を教えています。作り方を考案したのはちょっと誰かわかりません。

 

ーコロナ禍での開催となりましたが、大変だったことはありましたか?

やはり出られない団体がありましたよね。直接団体の方で、コロナに感染した方がいるとか、子供の感染が怖いと判断された方などがいれば、なかなか出演は難しいです。お囃子をやるにもただ人数が揃えばいいだけでなく、太鼓、笛、鉦など役割があって誰かが欠けたらできなくなってしまいます。今回は34団体の出演となりましたが、2022年2月に申し込みを受け付けた段階では49団体のエントリーがありました。過去には81団体が出演された時もありました。

 

ーとても出演団体が多いのですね!長野市以外からも参加されているのでしょうか?

81団体が出演した時は長野市以外にも6団体ほど市外からの参加がありました。今回は松本市三才山からの参加団体が出演できなくなってしまいましたが、須坂市や高山村から参加してくれている団体があります。

 

ーなかなか市が主導して大規模な獅子舞イベントを開くというのはないことですよね。

ないかもしれないですね。このようなイベントを行うことによって我々と獅子舞団体とが繋がることができます。他の市区町村は各獅子舞団体と繋がっていないので、問い合わせがあった時に、団体を紹介するのが難しい場合も多いでしょう。僕らは少なくとも260団体とつながっています。イベントをする時には、「ながの獅子舞フェスティバルをやりますよ」という風に声をかけて回って、出演団体を募ることもできます。

 

ーながの獅子舞フェスティバル以外に獅子舞団体同士が繋がる機会はあるのですか?

長野市内で五分一流(こぶいちりゅう)という神楽囃子を継承している団体が18団体あります。今回のフェスティバルのトリを飾った善光寺平神楽囃子保存会はこの1つですが、それぞれの村や町で受け継がれてきた一方で、皆が一堂に会せば、「あれ、どれも演じることができるじゃん」という舞い方があります。そういう繋がりもあるので、出演のオファーがある時に声かけもしやすいです。あと善光寺平神楽囃子保存会は善光寺との繋がりがあり、何度か御開帳の期間中に境内で一斉演舞をしています。5月22日には善光寺平神楽囃子保存会の道中行列の予定もありますね。

ーそうなのですね!どんどん繋がっていきますね。今回はお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。

 

今回、ながの獅子舞フェスティバルを訪れてみて、行政側のものすごい熱量が、地域の民俗芸能の継承の大きな原動力になっていることを実感した。

 

ps. 長野県長野市の獅子舞の歴史

長野県の獅子舞は長野県教育委員会『長野県の民俗芸能』(1995年)によれば、県内に550件もの分布が確認されている。このデータは消滅、復活の有無なしに伝承数を調べたものである。

また、小林幹男『信濃の獅子舞と神楽』(2006年8月10日, 信濃毎日新聞社)によれば、北信地方にはおよそ260件の獅子舞が伝わっており、獅子舞、獅子神楽、神楽獅子、神楽、大神楽、太神楽、大々神楽、五分一太神楽、イタコ獅子など呼び方は様々である。

冨建千引神社神楽保存会『-大神楽考-獅子舞の歴史を訪ねて-』(1983年9月15日, 信毎書籍印刷株式会社)によれば、信濃における獅子舞は概して、伊勢系の大神楽を基にした2人立ちの獅子神楽が多い。元々、太神楽は伊勢や江戸を起点として、関東甲信越や東北方面に各藩の庇護のもとで、武家屋敷やのちに領内全てをお祓いするようになったと考えられる。これは明治時代になって各藩の庇護がなくなっても、娯楽の少ない時代ゆえに積極的にこれらを受容し、また自ら身につけようとするものも少なくなかった。日本の民俗芸能の3分の1が獅子舞であると言われているが、この多くが大神楽系の影響を受けていることは言うまでもない。

長野県に取り込まれた大神楽系は3つの伝来パターンがあったと考えられる。1つ目が獅子宿に集まって装束を整え、各家々に出向いて悪魔祓いの神事舞をして回るものである。これは南佐久郡道祖神行事と結びついた獅子舞などで典型的に見られる。2つ目が秋祭りを中心に神社へのお練りを基本形として演じられる獅子舞だ。これは飯山市野沢温泉村などを中心として見られる。3つ目が獅子狂言や獅子芝居と言われるような余興芸が独立して行われるものだ。これは上松町須坂市、あるいは山梨県、愛知県などに分布している。

7年目ごとに開催!御柱祭の様子は?コロナ後の祭りについて考える

7年目ごとに行われる長野県諏訪地方の御柱祭に行ってきた。1200年以上の歴史の中で、史上初めて御柱が人力ではなくトレーラーで運搬されるなど、新型コロナウイルスの影響での異例の開催となった。この歴史的な年に、御柱祭について振り返っておきたい。

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諏訪大社御柱祭の始まり

諏訪大社は出雲の建御名方命が出雲で国譲りに反対し、諏訪までやってきて国を築いた時の信仰拠点である。建御名方命といえば謎多き神で、大国主命御子神であり、国譲りを迫った武甕槌命と戦い諏訪まで逃れてきた神とされる。仏教的に言えば、親仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いのようでもあり、建御名方命はつまり物部守屋のことであると考える説もある。何れにしても、大和政権など中央の支配が及ばなかった山に囲まれた場所であり、日本の古くからの祈りが今に残っていると言えるだろう。

御柱祭、正式名称は「式年造営御柱大祭」であり、諏訪大社の氏子の奉仕によって行われる諏訪最大の神事である。御柱祭の起源は定かではないが、室町時代の『諏訪大明神画詞』には、平安初期の桓武天皇(781~806年)の時代にすでに「寅・申の干支に当社造営あり」という記録が残されており、これは出雲などでも行われる式年遷宮のような形での社殿の建て替えのことを意味していたようにも思われる。

なぜ、御柱祭は柱を立てるのか?

なぜ柱を立てるか?について、はっきりとしたことは分かっていない。上記のように式年遷宮が中世までは日本全国で当たり前のように行われていたので、社の全面的な建て替えが行われた名残として、巨大な四隅の柱だけを新しくする現在の祭りの形態が生まれたのかもしれない。ちなみに現在でも、御柱祭の際に宝殿のみは建て替えられている。

また、御柱祭では山を下って柱が降りてくるため、これは祖霊が山を下ることを意味するという説もある。諏訪大社下社の大祝となった金刺氏の主人である欽明天皇は妃の固塩(きたし)姫がなくなった際に、氏ごとに大きな柱を陵の周りに建てさせたともいう。それならば、上社本宮は建御名方命、前宮が八坂刀売命を埋葬した可能性もあり、これは男女一対のような神社観念にも想像が膨らんでいく。御頭祭の時に本宮から前宮に神輿が移動するのは、まさに七夕のように一年に一度、愛人に出会えるという観念にも近いのかもしれない。そういえば、前宮と本宮の間には北極星が祀られている神社があることを偶然にも思い出した。

そのほかにも御柱が結界としての役割を果たし、武甕雷命と建御名方命との和平交渉の条件が諏訪を出ないことであった。つまり、古代の諏訪地域というのは他地域と隔絶された地域であったことが伺える。柱の境界性はチャンスンや道祖神蘇塗などと連想を広げられる。世界は4本の柱で支えられている世界各地の伝説とも重なる話だ。とにかくこの疑問は尽きないが、どの要因が核となってこの御柱祭という祭が立ち上がってきたのかについては興味深い。(参考:遠山郷観光協会

御柱祭の概要について

諏訪大社は上社と下社があり、前者は縄文的な狩猟文化、後者は弥生的な稲作文化が今に残っているとも言われている。

・上社では前宮と本宮があり、春の御頭祭では本宮から前宮に移動して狩猟で獲れる鹿など山や川の幸の豊穣に感謝し、本宮に戻る。一方で、下社には春宮と秋宮があり、2月1日に秋宮から春宮、8月1日に春宮から秋宮にそれぞれ神様が移動することで、五穀豊穣を祈る。諏訪信仰は上社前宮から始まり、下社が後から生まれた。信仰勢力の強かったのが上社であり、それに押されるように下社の命名がなされた。

・柱に神が宿るとされる諏訪地域では、上社(前宮・本宮)、下社(春宮・秋宮)の計4つの社に4方位分(4本分)の柱を立てる。つまり、合計16本の柱が必要であり、これは7年目ごとに入れ替えされていく。これが御柱祭である。

御柱祭の日程

▪️上社 御柱祭

山出し 4月2日、3日、4日

里曳き 5月3日、4日、5日

宝殿遷座祭 6月15日

 

▪️下社 御柱祭

山出し 4月8日, 9日, 10日

里曳き 5月14日, 15日, 16日

宝殿遷座祭 5月13日

御柱祭の開催状況に関しては公式ホームページを参照。

コロナ禍での諏訪神社下宮 御柱祭

御柱は150年前後のモミの木を諏訪大社周辺の山から8本切り出す。切り出す時の道具は本来、斧やノコギリを使って行うが、一部コロナ禍のため簡易的に伐採できるチェーンソーも使用した。また、4月8日午前2本・午後2本、9日午前2本・午後2本の合計8本を普段であれば人力で運ぶが、今回はコロナ禍で練習不足の担い手たちに配慮してトレーラーを使って運んだ。坂の上から人が乗った御柱を下まで落とす「木落し」は中止。桟敷席を予約した人は全部現金で返金という形で対応が行われた。柱の洗い清めがホースだったり、注連掛けの時にクレーン車を使ったり。なんだか現代の祭りという雰囲気が強い御柱祭の幕開けとなったが、コロナ後の世界も案外こんなものかもしれないとも思えてくる。祭りのこれからを再考する良い機会となった。

職人から見た祭りの姿とは?工芸品が盛んな石川県金沢市に行ってきた

獅子舞の蚊帳を作る職人は祭りをどのように捉えているのだろうか?石川県は能登キリコ、金沢の百万石祭りなど、祭り文化が盛んな土地である。これを下支えしてきたのは、江戸時代に加賀前田藩が奨励してきた工芸品文化と経済的な豊かさだ。

今回は工芸品の文化の中でも、獅子舞の蚊帳に着目して、2022年4月7日に取材を行った記録をお届けする。今回訪問させていただいたのは、奥田染物さんだ。基本的には奥田染物の万行さんに車での送迎や奥田染物の活動紹介、工場見学など多岐にわたってお世話になった。

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実は前日の4月6日に石川県加賀市大聖寺で西野呉服店さんにお会いして、蚊帳の話を少し伺っていた。興味深かったのが、武家文化の金沢は公家文化の京都に比べてより簡素なデザインが流行しており、虫食い跡を描くこともあるという話を伺っており驚いた。その一方で金沢といえば金箔の産地だし、派手な祭礼行事も多い。そこら辺のバランスのようなものが気になっていた。あとは、西野呉服店さんは問屋さんとして注文を受けたら京都や金沢などに発注し、自分のところで物作りはしないが、それが祭りの担い手や職人にとってどのような恩恵をもたらしているのかは気になるところだ。大聖寺であれば染物職人がいないので、そういう意味では注文相談できる気軽な問屋さんは必要だし、仕事が職人にもどんどん回っていくことにも繋がっている。一方で、蚊帳作りのオリジナリティをどこまで引き出せるのかという話でもある。さあ、こだわりの蚊帳職人の世界を覗いてみよう。

金沢の祭りが豪華な理由とは?工芸文化が支える祭り

奥田染物は金沢市の郊外にあり、中心部の商業地帯に比べると田園風景が広がっているような場所に位置する。まずは、奥田染物が考える祭り文化について、その大枠を社長の奥田さんにお話を伺った。

奥田さん:世の中は進歩していく中で、人間の精神活動の根源をなすものが伝統文化だと思います。伝統芸能、お茶など様々な文化がありますが、その中の一つとして加賀友禅があります。加賀友禅の友禅作家であり、染物の加賀染めを合わせて伝承してきました。加賀友禅は着物に集中した方は多いですが、色付けに着目してものづくりをしてきました。お祭りだと衣装などを見てみると、型染め、手染め色々ありますが、どちらが来ても対応できます。石川県で一番の一級技能賞をいただき、現代の名工としても表彰いただきました。伝統という言葉は、当事者はそのようなことなど意識していません。生活の一部としてただそこにあるからです。だから、その時代に便利なものを工夫して作り出さねばならないのです。

稲村:加賀友禅の最近のトレンドはどのようでしょうか?

奥田さん:ものづくりはまず人間性です。加賀友禅の場合はそれに加えて、色と技法が大事になります。色やデザインは時代に応じて変わっていきます。最近はインクジェットも普及していますね。

稲村:京都は公家文化なので、きらびやかな着物を着ることが多いです。一方で、金沢は武家文化なので自然のありのままを表現しますので、花に虫食い模様を描くこともあるそうです。そういう違いも加賀友禅の個性として現れてきそうですね。

奥田さん:加賀前田藩以降に、加賀友禅は盛んになりました。加賀藩外様大名ですから、幕府からはいつ反逆するか睨まれるのを避けるために、文化工芸に対して力を入れるようになりました。この文化工芸は質素なデザインのものでした。それで全国から名工を呼んできましたし、地元の職人との刺激し合う中で、文化の土壌ができました。その伝統を歴代の藩主が受け継いできたのです。一方で、自然に恵まれ、雨が多く、家の中でのコツコツとものを作るような仕事が多くなりました。つまり、歴史と気候の両方があって金沢には工芸文化が根付いたのです。ただ、今では家にいるとテレビなどたくさんの娯楽や、やることがあります。一方で昔はご飯を食べて、寝て、仕事をしてという生活が普通でした。手間暇かけて作ったものが良いものとして残っています。

稲村:そういえば、加賀獅子の始まりについて、加賀藩外様大名ゆえに軍事費にお金をつけると幕府に睨まれるために、文化奨励政策にお金を使うようになった流れで、武芸鍛錬の獅子舞を始めたという話もあります。つまり、表立って軍事訓練をするのではなく、民衆のコミュニティの中で武芸鍛錬をするという形に変わったということかもしれません。

稲村:着物は日常的に着る人は少なくなってきましたが、お祝い事の時に着る人も多くなっていますよね。

奥田さん:普段着、式服、余所行きなど、着る服が変わります。余所行きは相手を尊敬するために良いものを着ていくとか、感謝の気持ちとか、そういう発想です。神様にお願いしにいくので、神社に少し良い服を着ていきますよね。最近は馴れ合いで服を気にしなくなっていますが。

稲村:最近は個性を重視した服装にするとか、制服を撤廃したりする動きもありますね。自衛隊は制服を着ると悪いことはできないとか、リラックスしたいから私服にするとか..。

蚊帳の貸し出しをするという発想はどこから?

コカコーラ社の綾鷹では、伝統工芸の柄を使ったペットボトルカバーにして売上金の一部を若者の職人支援に活用している。これに応募して見事助成を獲得して、コロナ禍でも密にならない小さい蚊帳を製作するようだ。万行さんとプロジェクトリーダーの奥田雅子さんにお話を伺った。

万行さん:コロナ禍で祭りの担い手さん達と話していた時に、「中止になりました」という声をよく聴きました。お祭りが中止になると、担い手が育ちません。小学生から中学生の世代で祭りに携わったことがない人も増えていくでしょう。新興住宅街であればなおさらで、人口が増えても祭りの認知度が上がらないということもあります。(ご祝儀の)「花をうつ」という言葉を知らない人も多いです。

町の祭りはできていませんが、金沢市文化財保護課が窓口になっている獅子舞保存協会が窓口となり、イベントを開催するために各団体に声がけが来ることもあります(※後ほど追記)。お披露目できることが嬉しいという思いもありますが、コロナ禍においてイベントで獅子舞を披露するとなると獅子舞に10人ほど必要なことも多く、ホテルなどで人数が原因で中止になったイベントもありました。過去には「芳斎」という民泊で獅子舞を演じて普及していこうという活動をされている団体では、蚊帳を横に掛けておいて、獅子頭だけ動かしていることもあったようです。

蚊帳ありで考えていくと、蚊帳が小さければダイナミックさは欠けますが、担い手との対話の中で人数が削減できて実現できるイベントもあるのではと気づいたのです。小さい蚊帳でもたくさんの方に見ていただきたいし、実際に小さい蚊帳でやっている地域も県内にありますので、加賀獅子の蚊帳の大きさをひとまず置いといて、獅子舞をたくさんの方に見ていただき応援していただきたいという思いで小さい蚊帳を作りました。

稲村:蚊帳のデザインはどのように決めたのですか?加賀獅子のオーソドックスな蚊帳のデザインみたいなものがあるんでしょうか?多くの団体に貸し出すとなると、その分、デザインにも配慮する必要がありそうですよね。

奥田さん:(私は綾鷹のプロジェクトのリーダーをしている染物職人です。綾鷹のプロジェクトは5人でやっており、若手50歳以下でチームを組んでいます。)今までやってきた中から、牡丹の花などある程度デザインは決まってきます。蚊帳は1年に1回新調があるかないかなのですが、近年は7~8つの時もあります。コロナ禍で作り変えの時期なのかもしれません。加賀友禅の花では迫力が欠けるので、通常は迫力のある花を意識して描きます。ただ、今回は少し小さいサイズの蚊帳なので、色のぼかしも入れながら少し加賀友禅の特徴も混ぜて作っています。

加賀友禅のデザイン

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▼今回制作中の蚊帳のデザイン

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稲村加賀友禅は控えめなデザインが特徴的ですが、なぜ加賀獅子の蚊帳は派手で力強い装飾になったのでしょう?

万行さん:加賀前田藩のお殿様向けに、ハレの場として派手に作ったのが始まりですよね。

稲村:蚊帳の中に入れる人は何人くらいの想定ですか?

万行さん:今は2人~3人を想定して作っています。

稲村:10人の獅子が2人になったとして、舞い方は変化しないのでしょうか?

万行さん:加賀や能登など、2人立ちのところもありますよね。獅子舞を広めるためのものという認識なので、金沢市だけではなく様々な地域の方に使っていただけたらと考えています。

稲村:蚊帳職人さんにとってお祭りはどういう印象ですか?

奥田さん:お祭りは身近ですね。あ、うちが染めたやつだなと思うこともあります。自分がこうした方が良いと思っていても、実際に舞うところを見た時に「あ、そういうことだったのか」と納得することもあります。全て手作業で祭り道具が作られていますし、何十年も受け継がれるものとして向き合い作っています。機能性も考えながら、その絵柄の意味を考えることもあります。

万行さん:見せ場に牡丹を配置するとか、各町内の要望を聞きながら作っています。

蚊帳にもオスメスがあるんです。渦巻きの違いを見てください。町内でオスメスがある場合もありますし、隣の町内と一対でオスメスの場合もあります。

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万行さん:蚊帳に自分の孫の名前を入れて、街に寄付するという場合もあります。これが会社名の時もあります。こういうのは作った人の名前ではなく、贈る人の名前を入れる場合が多いですね。

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万行さん:花の位置は尋ねることにしています。花は見える場所に持っていかねばなりません。花はパーンと開いているものもあれば、今から開こうとしているような花もあります。親子獅子の場合、子供の蚊帳はぼかさずに黄緑や緑を使って、大人の蚊帳は熟練した雰囲気で作りました。問屋さん経由だとなかなかお客さんとの対話ができませんが、直接お客さんと対話することで、生まれるデザインもあります。

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万行さん:なぜ獅子に牡丹かはご存知ですか?もともと百獣の王のライオンが獅子ですよね。百獣の王でも苦手なものがあって、それは寄生虫なんです。体内に入ってきて肉を蝕みます。流石に百獣の王でも勝てません。その寄生虫が苦手なものが牡丹の朝露でして。獅子が牡丹の里にいて牡丹に守られているというわけなのです。

加賀獅子の蚊帳はおめでたいものなので加賀友禅の特徴である虫食いを入れることは稀ですが、せっかくなので加賀友禅の特徴を入れて欲しいと言われて蚊帳にも虫食いの跡を入れたことがあります。

稲村:加賀獅子の中には花棒というのが登場して獅子を誘導して最後に獅子殺しをするという演目もありますが、この花はもしかしたら牡丹のことかもしれないですよね。

祭りの担い手とともに、職人も育成する

稲村:石川には何軒くらい獅子の蚊帳を作っている職人がいらっしゃるのですか?

万行さん:いま、私たちの他に3軒くらいですね。能登に引越しされた玉作さんと、金沢の平木屋さんが2軒です。伝統的な素材を扱う染物屋さんはもう少ないです。

稲村:そう考えると獅子舞が盛んな石川県ですが、職人は少なく、祭り道具を一手に担っていくような存在になりつつあるのですね。

万行さん:京都や北海道などに発注する場合もあるようですが、それは絵柄を真似して作ってもらうという形になってしまいます。そういう意味で、石川県の染物をしている人は加賀獅子と地域に対する思い入れがあります。祭りの担い手とともに、染物職人の担い手も育成するという意味で、今回、綾鷹の若手支援に応募させていただきました。100件の応募があった中で、22件の採択があり、50万円の助成をいただきました。4月末までに蚊帳を1つ完成させ、5月以降に祭り団体に使っていただきます(綾鷹は、The Coca-Cola Companyの登録商標です)。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000620.000001735.html

万行さん:作った蚊帳は今まで使ったことのない色も使用しました。葉が紅葉した加賀友禅的な表現もこのように取り入れています。これからさらに製作を進めて4月中に仕上げます。

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蚊帳はどのように貸し出すのか?

万行さん:1団体に使っていただいたら、その次の団体とかし出すという風に順々に貸し出す予定です。小学校4年生が社会科の授業で地域のことを学ぶという回で地域の獅子舞の紹介があるようで、小さい蚊帳があると見せやすいからということで、今回貸出を予定している団体さんもあります。地元のまつりでは本物のものを使いますが、小さい蚊帳を貸し出す場合はイベントごとや子供達への紹介など、その他の催しで身軽に持って行ってもらうために、今回貸出を行います。また、獅子頭の工房をされている方が、獅子頭と一緒に見本として色々な方に見ていただくときに小さな蚊帳があると持ち運びも便利で持っていけるとも言っていただきました。

まだ蚊帳は完成していませんが、現在、すでに2団体への貸出が決まっている状況です。友人の結婚式のためなど、これから様々なアイデアが生まれてくれば良いと思っています。綾鷹からご支援いただいたものですので、お金はいただかずに使っていただけたらと考えています。

稲村:貸出期間とかはあるのですか?

万行さん:期間は特にはなくて、個別で連絡を取り合い、空いている時に貸し出すようなイメージです。今のところはお問い合わせが数多くあるわけではないので、そこまでスケジュールをきっかり決める必要はなさそうです。まず、コロナ禍でもイベントを開催するという条件があって初めて蚊帳を貸し出すということになりますよね。

奥田染物で聞いた!ものづくりのこだわりと祭りへの思い

染物職人の現場を知るべく、今度は万行さんに工場を案内していただいた。

万行さん加賀友禅の技法で、獅子の蚊帳を製作しています。加賀友禅の餅糊を使って、蚊帳を製作しているので、技法をそのまま使っていることになります。餅の粉を練って作ったものが餅糊で。水につけると柔らかくなって、ほっておいて乾くと固くなるのです。そういう性質を利用して作っています。

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万行さん:水は白山の地下水、つまり伏流水を使っています。金沢には染物屋さんがたくさんあるのですが、環境汚染や土壌の問題が50年前に出てきました。それで、昭和47年に協同組合を立ち上げて、みんなで作ったものを洗ったり干したりということを始めました。白山から川に交わらない地下を流れてくる水が年中あって豊富なのです。前は30軒ほどでしたが、今では5軒ほどになりました。

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万行さん:染め物工場の周りには、お豆腐屋さん、化粧品工場、カット野菜のお店などもあり、皆、白山の伏流水の恩恵を受けています。

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金沢市役所が窓口に!獅子舞を普及

万行さんに「加賀獅子保存協会」をご紹介いただき、電話インタビューを実施した。金沢市文化財保護課の中にあり、金沢市内の各地域で活動されている加賀獅子をより地域の外に広めていくとともに連携していくような動きも見られる。これは富山県の小矢部や高岡などでも開催される獅子舞共演会的な動きとも重なるもので、コロナ禍になる前には獅子舞の共演会を開催したり、百万石祭りに登場する獅子舞を抽選で選んだりということをしていたようだ。コロナ禍では獅子頭の展示会を金沢駅構内で開催するなど、展示にも力を入れているという。

基本的には金沢市内の獅子舞団体はほぼ入会するのが当たり前になっていて、1年で1万円の年会費を払うこととなっている。このような行政が窓口となって獅子舞の魅力を発信していこうという動きは、岩手県釜石市の虎舞連合会と同じような動きにも思える。ただ、こちらの場合は窓口が観光課になっているのが異なる。虎舞が地域イベントなどに呼ばれ、地元の祭り以外でも活躍していく場面が作られるという意味で、普及に大きな役割を担う組織と言えるだろう。

厄を祓ったがゆえに祓われる、創作獅子舞の革新的ストーリー

奥田染物で働く方が獅子舞の担い手もされていた。「今日の20時から練習をしますよ」と教えていただき、津幡町川尻の井上公民館に伺い、偶然にも獅子舞練習を拝見する機会を得た。会場にたどり着くと、蚊帳1人、獅子1人、太鼓1人、棒振り1人、笛1人の合計5人で練習をされていた。20~40代まで年齢層も様々だ。出番の有無に関わらず、一年中、毎週練習をしているという。

町内の同期でお揃いの法被をオリジナルで作るようで、世代ごとに法被の柄が違うらしい。また、町内のリーダーを取れる人は厄年の人で、その人の名前が獅子舞の青年団の名前になる。町名ではなく、人名で団体ができるというのは興味深い。般若、龍虎、鯉、芸妓、狐など図案は本当に様々だ。デザインはバージョンアップしている。ただ、近年は担い手不足で、何年かまとめて作っているようだ。

今回練習をされていたのは、町内の祭りで披露する獅子舞ではなく、地域のお正月のイベントなどで披露する創作の獅子舞だ。ああ、なるほど。こういう機会があるから、小さい蚊帳を作ろうという発想も生まれてくるのだと思った。

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創作の獅子舞は、醫師神社(くすし神社)に伝わる伝説と、獅子舞を組み合わせたようだ。お面も何もかも全部手作りという。簡単なあらすじとしては獅子が村のために疫病などの厄を払ってくれたが、厄を祓い過ぎた獅子が暴れ獅子になってしまい、最後に剣士によって聖なる刃で退治されるという流れだ。元の話は疫病が村で流行った際に、村人が田んぼを耕していたらキコロ像という人形が出てきて、それに鍬が当たって血が出て、それを奉納して祭りをしたら疫病が払われたという言い伝えがあった。これを獅子舞の邪気払いと合わせて話を作ることで、「僕らの中でもすんなりいったんです」とのこと。

加賀獅子の伝統的なデザインで獅子舞が始まるが、獅子が暴れ獅子になった途端、蚊帳は反転する。そして、食欲(青)、色欲(赤)、金欲(黄)の3体が描かれた蚊帳が現れるのだ。これは蚊帳が小さいからこそできる技であり、蚊帳を反転させるという発想とそれを体現できる技術が素晴らしい。

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これには加賀特有の獅子殺しと、頭を噛むなどの仕草に見られる獅子が厄払いをする性質を同じストーリーの中で表現した点でかなり革新的である。獅子は厄払いをするのに、なぜ厄として払われる場合もあるのか?という矛盾を解決する試みでもあるわけだ。普通の祭礼行事ではどちらかの役割しか担わないか、もしくは分離独立した形で獅子殺しの舞いなのになぜか祭り終わりに頭を噛んでくれるという場合が多い。そういう意味では、より獅子舞に対する理解を促進するような獅子舞なのだ。

獅子舞の蚊帳にまつわる奥深い世界

考えてもみれば、蚊帳の世界は奥深い。普段獅子舞をしていると獅子頭や舞い方の方ばかりに注目しがちだ。蚊帳はどちらかというと裏方である。しかし、蚊帳が獅子頭を上回らんばかりに、デザインには様々な工夫が凝らされているし、使い手にとってより良い蚊帳とは何かが常に追及されている。金沢ならではのものづくりの技術が花開いたからこそ、金沢の祭り文化は発達したとも言える。奥田染物の蚊帳作りを始め、この業界の今後の展開に注目していきたい。

【2022年4月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺錦町・塩屋町(追加)

2022年4月5~6日の日程で加賀市に滞在した。獅子舞取材を振り返る。

4月5日
11:00~ 大聖寺錦町

荒木実さんにお話を伺った。錦町(にしきまち)の獅子舞は、昭和3年の御大典記念の時に即位の祝賀ムードの中、国、県、町などの予算が下りて始められた。これは明治維新後に全国に神社が作られたのと動きとしては似ている。天皇の力が強く、国の命令が絶対の時代であり、戦争に向かって各町内がまとまっていくような意図もあったかもしれない。東北の方に獅子舞の取材に行くと、村境から疫病が入ってくるなど境界地点に厄が宿っているということで村人同士が喧嘩のように獅子舞を繰り広げてきた地域もあるが、これは紛争を平和的にユーモアに昇華して解決する手段だった。しかし、今回の話を伺っていて、実は獅子舞が戦争に向けて国家の統制や秩序を作り出すために利用されていた側面もあるのではないかという風にも思えてきて、それは新しい気づきであり十分に考えていかねばならないテーマと感じた。

桜まつりの獅子舞はほとんどこの昭和天皇の御大典記念の時期以降に始まっただろう。錦町に獅子舞を伝えたのが下福田だ。その頃、錦町は穴虫という名前だった。神様が加賀神明宮から水森神社に神輿が移動するときに、神様を賑わすという喜びの表現の意味で、獅子舞が行われた。これは神輿についていく形ではなく、あくまでも町内で別に行う。昔は桜まつりは2年に1回で、神輿が通るルートの町内が獅子舞を出すという考え方の時もあった。錦町の獅子舞は雌獅子には獅子殺しがつかず、雄獅子にのみ獅子殺しがつくという形で発展していった。その後、獅子舞は10年もしないうちに一時断絶してしまった。

いまから約50年前に青年団が発足して、獅子舞が復活した。再び下福田の人にお酒を飲みながらも習った。この時復活した獅子舞は基本的には太鼓と獅子で行う獅子舞だが、備品として槍や笛など昔のものが残っていたので、昔は少し違う獅子舞をしていたかもしれない。太鼓や獅子などの備品は使える状態で残っていたので、金銭面で発足に問題はなかった。約45年前に高度成長期で働きに出る人が多くなり仕事が休めない人も出てきて中学生が獅子舞の担い手として参加しだして、そこから大人と中学生で2チームができた。その後、大人が指導役で中学生が担い手になる時期もあったが、現在は大人と中学生で2チームに戻った。

演目の数はいつも立ち獅子と寝獅子で、これは一連の流れの中で行うため、1つの演目と考えて良い。当時から比べるとどんどん舞い方は簡略化されており、太鼓が特に変わった感じる。「テレスコテン」というリズムで獅子頭を回すが、その時の動作が少し短くなった。これは世帯数が多くなったのと、飲み会の時間を長くしたいなどの考えがあった。他の町内が3分舞っている横で、錦町の獅子舞が1分半の獅子舞をした時もあって「乞食獅子」と呼ばれた。バタバタと獅子舞をして蚊帳が破れてしまって、男の手で塗って修復したので縫い目が荒くて、それが舞うものだから「また穴虫の乞食獅子が来たわ」と楽しそうに賑やかす人もいた。「それではいかんわ」という話をする人もいて、演目の動作を長くして、しっかりと指導をする時代もあった。

担い手の数は今30人ほどいるが、実際に町内にいて稼働しているのは5~6人だ。この人数で錦町180世帯を、4月のさくら祭りの2日間をつかって回る。世帯数が多いのでご祝儀の金額は2~3000円が平均で、それでも十分運営していける。親子三世代の獅子舞が余興として獅子舞を演じたこともあったが、基本的には青年団が実施してきた。錦町には龍笛という能関係の笛の名手である林さんという方がいて、獅子舞を一本橋町に教えたそうだが、錦町の獅子舞には特に関わっていなかったようだ。近年は獅子舞に参加してくれた子供にバイト代を渡す。中学生、高校生、大学生で金額は変えている。最初はバイトと言えども、獅子舞に愛着を持ってくれるきっかけになればと考えてバイト代を渡している。青年団に入っている人にはバイト代を渡さず、基本的には飲み会でお金を使う。大聖寺は町ごとに神社があるわけではなく盆踊りはしないため、獅子舞が終わったらすぐに飲み会に出かけた。打ち上げでは加賀市内の料亭に行って、コンパニオンを呼んで飲むような日常的にはできないことをした。昔は打ち上げがやりたくて獅子舞をしていた人もいたし、祈りの気持ちも強い人もいた。今は継続しなければという義務感もあり、参加してくれる人も多い。

獅子舞は基本的には桜まつりの時だけだが、結婚式でも行うこともある。青年団長が数年前にがんで亡くなったときに、獅子舞を舞って送ってほしいという遺言があったので、葬儀の時に獅子舞をしたことがあった。基本的に獅子舞はお祝いの時にやるので、葬儀の時にも賑やかな獅子舞をそのまま披露した。

獅子頭白山市の鶴来で作ってもらった。今は3代目で、形は初代と変わっていない。太鼓は松任の浅野太鼓に頼んでいる。

コロナ禍では3年間獅子舞ができていないのが現状だ。名簿を回して丸がついたところだけ回っていくことも考えたし、後継者を育てるためにも獅子舞をやるべきという意見はあった。ただ、獅子舞はお神輿に乗っている神様を賑わす存在でもあるため、お神輿が出ないのに獅子舞をするというのは趣旨が違うということで、結局獅子舞はできていない。天の岩戸の神話と同じで、獅子舞は御隠れになった神様を賑やかして楽しませて、俗世の世に出てきてもらうような存在として考えている。

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14:00~塩屋町

獅子舞を現役でされている熊岡さんにお話を伺った。

祭りの日が楽しみで、中学生の時から「早く祭りの日が来れば良いのに」「一生続けばいいのに」と感じてきた。獅子舞は重たいし、酔っ払いの先輩がいたら後輩がテンション上げていかないといけないしで、辛いこと厳しいこともたくさんあるのだが、楽しいこともたくさんあった。中学生の時は祭りの前日に親の許可をもらって、公民館に泊まれるのも楽しかった。貸切の部屋でジュースもお菓子も食べ放題で、大人の世界を覗き見するような感覚でもあった。ファンタとコーラを混ぜて、そこにマヨネーズを入れて、じゃんけんで負けたら一気飲みということもしていた。また、とんがりコーンを食べさせられたら、とんがった部分にわさびが入っていて、とても辛い思いをしたこともあった。また、前日にあわら温泉にも出かけた年もある。祭りの日は朝5時~5時半くらいから神社の奉納に始まるが、3時半くらいから寝ようとした仲間に「もう3時半やぞ」とちょっかいを出したり、寝ている人にマジックで落書きをしたり、寝ずに祭りを開始する年もあった。

祭りの始まりの時は、お神酒を飲み、獅子頭にお酒を吹きかけ、法被着て二礼二拍手一礼をして獅子を舞い、「さあ行こう」という流れで出発する。東と西で雄獅子と雌獅子に分かれて舞うが、メンバー発表は公民館の黒板に書かれているので、そこで確認する。朝の集合に遅れた人は「連チャン要員」として迎える。雄獅子と雌獅子だと雄獅子の方が重いので、午前と午後で入れ替え負担は平等にする。舞い方はご祝儀によって変わるが、雌獅子と雄獅子で変わることはない。小雨くらいであれば獅子はやるが、雨で濡れた蚊帳は重くて操作がしにくいし水たまりに浸からないように気をつけねばならない。途中、蚊帳を絞ったり、乾燥機をかけたりする年もあった。

まずは獅子舞が回る家、回らない家はどのように決めていくのかという話。獅子舞は喪中の人の家は回らず、喪に服している人は法被を着ない、鳥居をくぐらないなどの諸々の決まりがある家もある。また、親戚関係は場合によっては祭りに顔を出さない。塩屋町の家を一軒一軒回るときに、クリアファイルに地図を入れておいて、その地図にマーカーで印をつけておき、「そこの家は喪中やぞ」と声を掛け合ったりする。ただ、快い人は「祝儀だけでももらって」とお金を渡してくれる場合があったり、形だけでもお礼として少し獅子舞をする場合がある。また、商売しているお店や金比羅神社、鹿島の森など町内じゃなくても回る。鹿島の森では正装をした人がいて、その場所の太鼓を使うので、鹿島の森だけ違う音の太鼓をたたく。秋の祭りの時に最後の神社の奉納で行う「あげ獅子」まで時間がある時、バス停のロータリーのところで、獅子舞で遊ぶ。ドンドンドンとワンフレーズの動作で何度も繰り返したり、バスに一瞬乗って少しだけ獅子舞をしたりということもある。漁船パレードが秋に開かれ、港祭りと呼ばれていたものが秋の例大祭になった。太鼓は船の上に乗せて大漁旗がはためく中、パレードをする。この船には獅子舞はのせない。これは10月の大聖寺の十万石祭りの時期に行う。

獅子舞の寝る行為のところは「チャリ」という呼び名がつけられている。「チャリあるぞ」というと、祝儀が1万円くらいの場合だ。太鼓に対して獅子の動きのアプローチの動作が2パターンあり、「両チャリ」というと祝儀が3万円くらいの場合にやる。肩で合図したりABCで合図したりなどで何の演目をするかを伝えていく。祝儀をどこからいくらもらったという書き出しはしない。500円玉の時もあれば、おばあちゃん1人の場合は商品券を渡してくれる時もある。

高校生以下で獅子舞の担い手として参加してくれた場合は、飲み会に参加できないため、寿司折りやお金を渡す。大人は飲み会でコンパニオンを呼んだり、昼間に回ったスナックで夜にどんちゃん騒ぎをすることもあった。春は当日に打ち上げ、秋は一ヶ月も経たないうちにどこかのお店を貸し切りにしてコンパニオンを呼ぶか、公民館でピザを頼んで獅子頭の新調に向けて節約をするという流れだった。昔はソフトコンパニオンを呼ぶ事もあったが、今は普通のお酒を注いでもらうコンパニオンを呼ぶくらいで、おとなしくなった印象だ。喧嘩もしなくなった印象がある。世代なりの楽しみ方で、獅子舞は受け継がれている。