獅子が牛に成る・書道をする!長野県須坂市 高梨太々神楽 「牛獅子」

獅子頭を被るのだが、牛の動きを表現する獅子舞。このような民俗芸能は見たことがなかった。田楽や田遊びに登場する牛はいるけれど、その多くは牛の頭を持つ。獅子頭をかぶっていて牛を表現するというのは全国的にも珍しい。「牛獅子」を含む「高梨太々神楽」を拝見するため、2026年10月11日、長野県須坂市の高梨神社を訪れた。

夕方、石川県金沢市を出発!北陸新幹線で、長野駅へと向かった。夕日が海の方向に沈んでいって、やがて真っ暗になった。長野駅に着く頃、もう18時になっていた。前の取材が押していたこともあり、1時間遅れの到着だ。走って宿にチェックインして、そこから長野電鉄で、日野駅まで辿り着いた。駅横の自転車置き場が魔性の如く青いネオンの色に輝き、古びた施設にどこか異様な雰囲気を作り出していた。そこから歩いて高梨神社にたどり着くと、社殿前の小舞台にて獅子舞がおこなわれていた。獅子舞は牛獅子のみかと思っていたが、実はそうではなかった。18時から開始していたその舞台のほとんどは獅子舞が登場するのである。

さまざまな演目がある「高梨太々神楽」

境内の張り紙によると演目は9つあり、以下のようであった。 「宿舞い」「〆切り」 の後、社殿前の舞台で傍には大型の屋台のような太鼓を乗せた構造物があり、舞台上では8演目、近くの道祖神前で1演目がそれぞれ実施された。時間の関係で、鐘馗の最後の場面から拝見できた。『須坂市誌 第二巻 地誌・民俗編』の記述を参考にしながら自分の体感を含めて振り返っていきたい。

お祓いの舞「神獅子」
獅子 (ゴザ必要)獅子(後持ち) 笛 太鼓 火男
お祓いの舞で、ひょっとこも加わってユーモアあふれる舞をする。

悪魔祓いの舞「鐘鬼」
鐘鬼 獅子 獅子(後持ち) 太鼓
悪魔祓いの舞で、鍾馗と獅子が四方八方を御幣で清める。

片想いの恋物語「お三輪」
師子 舞子(後持ち) 豆腐の御用 太鼓 浄瑠璃
浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」を獅子狂言にした演目。白足袋着物姿の清楚な女性のお三輪は、男の後を追っていくと祝言をあげており落胆する。片想いの物語。

掛け合い漫才「おかめ」
おかめ 神主 笛 太鼓
神主とおかめが掛け合い漫才をする祝福芸。

狐との異類婚姻譚「久寿の葉」
郷子 (ゴザ必要)獅子(後持ち) 殿様 笛 太鼓 浄瑠璃

安倍保名という人物が信太の森で狩人に追われていた白狐を助けたが、その際に怪我をした。そこで葛の葉という女性が、保名を介抱して家に送り届ける。葛の葉は保名を見舞いなどをするうちに、2人は恋仲になる。そして結婚して童子丸という子どもを授かる。しかし童子丸5歳の時、葛の葉の正体が白狐であることを知られ、「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と一首書き残し森へと帰る。保名はこの書き置きを見て、恩返しのために葛の葉が人間世界に来たことを知った。これは大和地方に伝わる話である。
これが今回の演舞では獅子狂言として、葛の葉が保名の父に身分を知られそうなことを悟って、保名が寝ついた後に障子に一筆を書き残すために、筆を口に加えて墨をつけて「恋しくばたずねて来てみよ和泉なる 志乃田の森のうらみ葛の葉(実際に拝見すると漢字等表現がやや違うかも)」などと書いて、それを斉唱して退場する。障子の下から書いたり横から書いたりさまざまな方向から文字を書くのが大変珍しく、理由を尋ねたかったが、聞きそびれた。
また、この演舞については、近隣の霧原大元神社の獅子狂言と似た流れのようである。


悪魔祓いの舞「鬼」
舞子 獅子(後持ち) 太鼓 一
鬼と獅子が掛け合いをしながら、悪魔祓いをする。これは個人的に最も謎に満ちた演目であった。二刀流の獅子と鬼がお互い格闘するわけでもなく、掛け合いをしながら、切り祓いを実施していく。

報われぬ物語「清姫」
狗子 (ゴザなし)舞子(後持ち) 和尚 船頭 太鼓 浄瑠璃
能の「道成寺」、伝説や物語では「安珍清姫」として知られる演目。和歌山県日高の道成寺縁起に由来する。若い修験者安珍は、補陀落浄土を求めて奥州白河から熊野へ来る途中、真砂(まさご)の代官の邸に宿泊。そこで清姫に慕われることとなる。そして、熊野参詣の後の帰りに再会を約束したが、安珍は修行の身であるため、清姫との約束を破って帰路を変更した。清姫はそのことを女の勘で察知して、安珍を追跡して日高川のほとりの道成寺にたどり着く。煩悩の炎により、その女の体はすでに蛇に代わっていた。
獅子狂言はここから始まる。女装した獅子は、千鳥足の爺さんに「若い女の一人歩きは俺でさえも心が迷う」と野暮な言葉を浴びせられたり、和尚に幽霊と間違えられて念仏を唱えられたりする。船頭に渡し船を断られ、しまいには入水して溺れて流れていく。船頭は清姫が鬼や蛇になったのかと驚き、逃げ出すのである。
獅子狂言はここで終わるが、伝説によれば、清姫に追われた安珍が逃げ場を失い、寺の鐘の中に身を隠す。しかし、蛇体となった清姫は鐘に巻きついて情炎により安珍を焼き殺して、清姫は日高川に身を投じて果てるという話のようだ。救われない人間の物語であり、煩悩について考えさせられる。
船頭が船を漕ぐときに使う「櫓」を舞台にバン!と叩きつける場面が印象深く、本当に思いっきり叩くので、観客の最前列の女性2名がその度にビクッと驚いていた。何度も何度も叩くたびに、毎度驚いておられた。タイミングが分からず、基本的には驚いてしまうようである。

悟りを深く育てる様子「牛獅子」
牛(前) 牛(後) 牛方 牛追い

京都臨済宗大本山妙心寺を開山した関山国師生誕の地でもある高梨。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて生きた関山国師が修行をした姿を獅子狂言としたのが牛獅子という演目。四つん這いになった獅子が牛の姿を演じ、またそれを牛方と田五作が相手するという内容だ。牛方は蝿や虻を追払い、そして牛獅子が登場。田五作は牛獅子を中央に寝かせて、焼き餅(おやき)を食べさせる。そして自分たちもそれを食べ、また、会場の子どもたちにもそれを分ける。また、牛獅子を何やら諭すような問答を始める。また牛方が関山国師を演じ、牛をなだめすかす様子はユーモラスな笑いを起こさせることを意図しているようだ。関山国師はどうやら美濃国の山里に住み、昼は里人と共に牛を追い、田畑を耕し、夜は座禅を組むという姿を演じている。これは、仏教の禅宗における聖胎長養(しょうたいちょうよう)の姿であり、悟りを開いた後にその悟りを深く育てて養う修行のあり方のようである。

動画を撮影する限りでは、全体として12分ちょっとだったので、演目全体の中では短い方だったが、非常に牧歌的でのんびりとした演目であった。牛と人間の掛け合いがとても癒される感じであり、情緒を揺り動かされるような場面の数々の最後に、このような締めくくりになるのかと思った。そして、焼き餅(おやき)の登場には驚かされた。郷土食がこのようなところで登場するのかと思ったし、餅まきをするよりも珍しさと工夫が感じられた。


馬追の修行「丹波与作」
獅子(前) 獅子(後) 太 笛 鼓 太 笛 笛 爺 小
近松門左衛門の浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」に由来しており、与作が馬追をして修行し、立派な武士になった場面を獅子狂言化したもの。また、この演目のみ社殿前の舞台ではなくその近くの道祖神前で実施する。暗闇の中を移動する際、山車のような形で太鼓の台を移動していった。ぼんやりとした光は暗闇を薄く照らして、1日の終わりへと向かった。道祖神前には2つのあかり、そしてそれぞれに「道祖神」の文字が書かれている。それに向かうようにして、暗闇の中で獅子舞が舞われて、終了となった。

全体を通して、本当に長い時間舞っておられた。丁寧に長くしっかりと受け継いでおられる印象である。しかし、観客は少なかった。これは非常にもったいないことである。ただ逆に言えば、このように発見されていない民俗芸能の有り様こそが素晴らしい形なのかもしれないとも思う。観光客に媚びずに、伝統ただしっかりと淡々と受け継ぐ姿が拝見できた。それから長野駅方面に向かい、帰路についた。


須坂はなぜ獅子神楽や狂言が盛んなのか?

須坂にはこの10月中旬という時期に、さまざまな地域で獅子神楽や獅子狂言が実施される。獅子神楽の中に、代神楽(太神楽)、獅子狂言、祝福芸などが含まれているようである。歴史を遡れば江戸時代以降に、伊勢御師が回った伊勢大神楽が、次第に神楽団という組織に受け継がれて各地を回るようになった。それは『須坂市誌 第二巻 地誌・民俗編』2014年P600によれば、「神楽団でも有名なのは丸一神楽団で、㊀の印をし、江戸から上州に入り、吾妻郡あたりで大笹神楽団となって大笹街道沿いに須坂に移入されてきた」(1)とする。大谷町の神楽の腰幕に㊀印があり、また狂言のセリフなどに「丸一」という言葉が出てくるのが証拠とも言われる。その中で獅子神楽に続いて獅子狂言が登場するのは、須坂や高山の獅子舞の半数近くに上るようだ。

引用及び参考文献
(1)須坂市誌編さん室『須坂市誌 第二巻 地誌・民俗編』須坂市, 2014年3月

棒振りと獅子舞の関係は?地域独自の継承のカタチ。石川県 加賀市・金沢市の獅子舞を巡る

2026年10月11日、一年の中でも、全国的に最も獅子舞が数多く実施される日。まず降り立ったのは石川県の加賀市〜金沢市、そして長野県の須坂市だった。まず朝5時に金沢のネットカフェを出て、金沢駅まで30分歩いて、始発の電車に滑り込んだ。まだ暗い車内だが、徐々に朝日が車内に差し込んできた。そして、淡いオレンジ色が広く伸びる田んぼの地平に差し込み明るく照らしはじめた。この遠くまで見渡せる平野が、石川県を南北に縦断する中での素晴らしい景色のひとつである。石川県加賀市の加賀温泉駅に降り立った。ここから車で送ってもらって、まずは小塩辻町に辿り着いた。

農作物を食う獅子を退治「小塩辻町の獅子舞」

加賀市小塩辻町は、農業を生業とする人々が多く、とりわけ梨農家が多いことでも知られている。今回は青年会館から神社での奉納演舞を撮影することになった。朝6時に伺うとぽつりぽつりと青年団が集まりつつある。眠そうで、パンツを少し出した腰パンの人もいる。青年団の衣装は半被に梨と小塩辻の小の字を模したマークが描かれている。ぼんたんのような、鳶の作業員が来ている作業服を着ている。27歳の団員が大学終わって、23歳のときに入った時にはすでに、この作業服を獅子舞の正装として使ってきたそうだ。また、舞い手になるのは、18から30歳まで。ただ実情としては、人が少ないこともあり半分は30歳以上の人となっているそうだ。

徐々に寝坊の人も姿を現して、「今日1日お願いします!」の掛け声と共に、青年会館の前から獅子舞が始まる。この時間からアルコールを飲み干し、朝6時に獅子舞を始める。青年会館と神社での演舞を拝見した。獅子舞は新、旧の順番で舞う。新は棒振り付きの獅子殺しで、旧は棒振り無しの太鼓に向かっていく獅子舞である。地域の方にお話を伺いながら演舞を拝見することを繰り返した。

農作物を食い荒らす獅子を退治
ーー新旧という名前は珍しいですよね。どういう意味があるんでしょう?
これは僕の推測だけど、農作物を食い荒らした獅子を棒振りが退治するという意味なんじゃないかと思う。

ーーでも、先ほどの演舞では、獅子を退治する新を舞ってから獅子が暴れる旧を舞ってましたよね。
昔、僕らは旧をしてから、新をしたんや。暴れた獅子を退治するという意識でやった。今は祝儀の金額によって、新だけの時と、新と長い旧を舞う。それで、今、新から舞ってるのかもしれない。
ーー祝儀の金額が非常に高いと聞きました。
平均1万円、5千円以下のときは新だけ。それより多い1万円以上の時は、新と旧を舞います。他の地域では、500円のこともあるくらいで、自分たちは当たり前の金額と思ってきたから驚いた。梨とかお米とかをしてて、儲かっているところはしっかりご祝儀を出す。儲かっているところが、区長をしてきた。今はサラリーマンでもするけど。昔は若い人は払うとは大変だからと親に一部出してもらってそれに5千円をつけて渡すとか、そういうことをしていた。

(若い人は見栄を張る人が多いとのことだが、それによって青年団もたくさん飲めるのも事実である)

ーー以前、「芋掘りの動作で練習をしている」とお話を伺っていました。
芋掘りというよりは、農作物を荒らすということで、芋や豆をパクン!とします。芋の蔓をこうやって手繰り寄せていくんや。豆や芋を食い荒らすという。畑してる90のじいちゃんが詳しい。もう耳が遠いので、でかい声で喋らんといかん。この舞はなんやろというのはあまり知る人は少ないかな。

祭りの時期の禁忌?
ーー10月に獅子舞をするのも市内では珍しいですが、それはなぜですか?
梨の農繁期が終わってからじゃないと人が動けない。9月いっぱいまでは梨の仕事。それで、昔は祭りは9月11日あたりが固定の日だった。それで梨の農家の人のことを考えて、10月11日に祭りの日をずらした。でも日をずらしたことによった、町に火事が相次いで、祭りの日をずらしたさかいやいうて。それで、9月になったり10月になったり祭りの日の変更が相次いだ。そういうことで、しまいにどっちが本当の日かわからんようになった。その日も、出て行った若い衆が戻れるように第二日曜日にしようゆうて、今、10月第二日曜日になった。

幟を立てる場所の謎
それから「小さい時から思ってたんやけど」とある、興味深い話を教えてくださった。
「(祭りの日には)町の何ヶ所かに「奉納」と書かれた幟を立てた。神社の前の他に、2ヶ所立てるところがあった。もう立てる人もいなくて、木も腐って危ないし、電柱も増えて、今はしていないんや。青年会館の団室スタートで、その幟が立ってるところを次に舞ってから、神社で舞った。でも、今はもうしていない。公民館の横に1ヶ所と、何もないような道端に1ヶ所建てた。それでその道端の幟のところには石碑があったんや。幟がなぜその場所に建てられたかはよくわからないけど、何か由来があるのだと思う。全然聞いたこともなくて、なんの石碑なのかがよくわからない。僕の推測だと、これは町の鬼門の位置だと思う。そこから、禍が出入りするし、そこで舞うんかなあと。僕の推測やよ」

幟は神社以外に立てるというのが大変興味深い。それは災封じと繋がっていた可能性がある。
神社の方の幟も昔は木だったが、今は危ないということでポールに変わったらしい。
昔使われた木の幟は、今、神社境内の瓦の屋根付きの幟置きのようなところに、置かれている。その場所も見せてくださった。

獅子舞の始まり
他の方にも獅子舞の歴史のお話を伺った。「獅子舞は庄町から習ったらしい。80年ほど前にはすでにその獅子舞をしていたので、おそらく推測だと100年以上前、戦前の頃には獅子舞をしていた。80年前にも舞の名前は新と旧という名前の演目をしていた。もともとは旧の舞をしていて、それから新の舞が伝えられたらしいが、その真相はよくわからない」とのこと。youtubeにアップする話をしたら、「孫がyoutube好きなんやて」と教えてくださった。あちらにも「蝿たかる虻たかる」といって尻尾を振り回すような演目があり、これは田んぼの虫を追い払う意味があるが、これはこちらでは見られない。いずれも農家のつながりから伝わった可能性がある。

祭りの流れ
今回は青年会館から神社のみの演舞を拝見した。しかし、担い手の方々はこれから、長い1日が始まるのようだ。今は青年会館、神社、お寺、氏子、町の役員、そして、一般の方の町回りの順番で舞う。昔は神社の上でしてから、下の鳥居の前でもしたそうだが、コロナの時期から下の鳥居だけになって、今回は上の社殿前だけ実施された。町回りは青年団だけでは回りきれないので、昼からは壮年団がもう一つの獅子で、他のルートを反対側から舞う。古い獅子頭は最初の青年団の獅子の方である。町回りだけではなく、町から外に出てた人の家にも舞にいく外回りもしてる。作見や松ヶ丘の方にもいく。これは祝儀をいただくためでもある。打ち上げをする。焼肉屋や飲み屋にもいく。朝6時から始まって夜の「しまい獅子」が夜の7時半から8時くらい。とのこと。

「昔は100何十軒の家があって、2日間かけて回っていた」という。今は85軒とのこと。「全部で100万円近くの祝儀が集まる。それ全部、練習の前や練習中、本番後などでほとんど、1年で綺麗に貯金がなくなっていたが、獅子頭が壊れた時の積み立てをするように言われて、最低10万積立することになった」とのこと。今年か来年獅子頭を新調するという。獅子頭を頼むのは白山市の知田工房のようだ。

それから補足的ではあるが、「御神燈」の話も面白くて、立ち話中に通りかかった移住したばかりの自転車の方が、「御神燈の明かりは夜につけるんかいな」ときくと、「電気つけたり、明かりつけずに下げてるだけだったり、つけない人もいる。絶対つけないといけないわけでもない」とのこと。「なんてこった!(笑)」と驚いておられた。いまは、1万円以上かけて御神燈をつける人も少なくなってきているようだ。

8年ぶりの復活!高塚町の獅子舞

公民館前での演舞を撮影。8年ぶりの獅子舞復活とのことで伺ってきた。

キョウブリ、コンコラコン、ナガボウ、チョウチョウトマレの4つの演目を実施した。キョウブリとナガボウが小学校5年生で、コンコラコン、チョウチョウトマレが大人の演舞となる。7つの演舞があり、これから少しずつ復活させたいとのこと。本来はシャンシャン、キョウブリ、ナガボウ、コンコラコン、チョウチョウトマレ、タチ、寝獅子という順で行う。タチは棒振り3人で実施する演目のようだ。

寝獅子の演目は特殊で、物語的には農民が歩いていたら、獅子に出会うストーリー。獅子が農民の足に噛みついて、最後には退治をする。寝獅子がデカすぎると、獅子の方が勝ってしまうように見える。背格好が小さい人が演じた方が良い。アドリブも部分もあって面白さを出したい。これを伝承していきたいとのこと。

現在、小学校の子どもは7人いる。女子もできるが、今は男子がしている。

ーーどうして獅子舞を復活することになったのですが?
コロナ前、伝承がうまくいかなくて、人数が少なくなっていて、大人が棒振り、全部大人の状態だと難しくなりしました。でも7年後、子どもたちが獅子舞って何?というようになってきて、もともと伝統だったものがなくなるのは、さみしいことやなと思い、どうにか子どもらにも参加してもらって体験型で実際に見るだけではなく、獅子に入ってもらって、継承するようになりました」とのこと。

ーー子どもたちはどのくらい練習してここまで仕上げてきたんですか?
今年の7月から週3回のペースで練習して、2か月しっかり練習して、秋祭りの9月(先月)に間に合いました。まだまだなので、年々、これからの成長も追っていただけたら嬉しいです。

ーー高塚の獅子舞はどこから伝わりましたか?
片山津の獅子舞から伝わったとも言われますが、どちらかというと小松の獅子舞に近いようにも思えます。箱宮町の獅子舞と一緒に習いに行ったという話も聞きました。

個人的にはキョウブリなどの演目が見られるし、能登獅子にも近いように思えた。
左手で2つのリズムの太鼓の叩き方を演じるのもなかなかに興味深い。



分校地区4町が集結!文化祭の獅子舞

朝10時~10時半、石川県加賀市分校地区の文化祭。分校地区4町の獅子舞が実施された。今回、途絶えていた分校町の獅子舞が復活!とのことで連絡を受け、撮影に伺った。なんと、1週間の練習で今回の本番を迎えた。こんな獅子舞ですが...と謙遜するけれども.....唯一無二の獅子舞であることには変わりない。思いを繋ごうとしている姿がとてもよかった。その他、3町の演舞も無事に撮影ができた。

打越町の獅子舞
分校町の獅子舞
箱宮町の獅子舞
高塚町の獅子舞

石川県金沢市「二日市・八幡養老獅子舞」

日本唯一香辛料の神を祀るとも言われる波自加彌神社を拠点に演舞を展開する「二日市・八幡養老獅子舞」。「二日市・八幡」とは地域名であり、波自加彌神社が養老2年に創建されたため「養老」とつくそうである。かつては「八幡」が雄獅子、「二日市」が雌獅子であり、2頭の競演をしていたそうだ。実はこの獅子舞、大阪関西万博出演なども果たし、非常に有名な獅子舞である。金沢の加賀獅子屈指の棒振りの技術を誇り、獅子殺しを特徴とした棒振りと獅子の勇壮な格闘が見所だ。

午後に町回りを1時間同行させていただいた。「演目は大きくアイボウとコジンボウに分かれます。コジンボウは子どもと大人の2種類、アイボウは獲物を刀などを使って獅子と戦います。それが数種類あります」とのこと。祝儀や場所によって、舞を変えるというよりは、この家の子どもがこれこれの演目ができる、何軒かまとめて演舞をする時はアイボウをするなど、その時々によって変える。家の前の道を大きく使って演舞が展開された。





以上、加賀市から金沢市の獅子舞を拝見した後、長野県須坂市へと新幹線で向かった。今回もかなり突然の短時間の訪問となってしまったが、さまざまな獅子舞を取材させていただき、石川県特有の棒振りと獅子舞の関係を中心に、さまざまな演目や舞と出会うことができた。

大きな旋回運動!子どもの活気。群馬県伊勢崎市「千本木龍頭神舞」

まず何に惹かれたかといえば、名前であった。千本木の龍の頭...かっこよすぎる名前だ。人間の苗字でいえば、五十嵐や城之内、あるいは道明寺級にかっこいい名前だと思う。それに加えて、群馬県の中では3つしかない県指定無形民俗文化財の獅子舞のひとつであることも後押しとなり、この地を訪れることを決めた。2026年10月11日、群馬県伊勢崎市の千本木龍頭神舞を拝見するため、千本木神社に訪れた。

龍頭舞が登場するのは夜の祭り会場なので、まずは、日中のうちに資料収集をしようと思い、境町駅で下車。伊勢崎市境図書館を訪れた。閉館15分前に訪れたのに、なんと5分で貴重な分厚い資料に2つ巡り合い、10分で複写を完了するというスムーズな荒技を達成した。

そして、今のうちに夜ご飯を食べておくことにした。この辺りはなぜか、パキスタンやインドカレーのお店が多く、スーパーもこれらの専門店が立ち並ぶ。どうやら外国人労働者が多いようだ。伊勢崎市一帯では、製造業は移民の方々の仕事として定着しており、特にパキスタン出身者などが中古車の輸出や自動車解体関連のビジネスに携わっているようである。しかし、まだ早い夕食の時間に閑散とした店に入る勇気もなく、爆食系和洋折衷オードブル的な店に入った。それから、腹を満たし、境町駅から剛志駅に移動。

まずは、南千木町会所に向かった。しかし、もう遅かったので出発した後のようで、しかし、金〇〇と書かれた紙があり、祭りが開催されていることはしっかりと確信できた。また、会社の前に龍頭舞のトグサが何本か落ちていたので、これはどうやら龍頭舞も出発したようだという確信が持てた。そので、次に千本木神社へと向かった。

神社に近づくにつれて子連れやお年寄りなど老若男女が神社に向かって歩いており、それを何人か追い越した。神社に着いたら、まだ龍頭舞は到着していなかったが、武術の披露が実施されていた。

その後にまもなく、龍頭舞が到着した。笛の音は優雅で、また、子どもがたくさん隊列に加わっており非常に賑やかである。千本木龍頭神舞の始まりだ。神社の鳥居をくぐり、参道を直進して、開放的な社殿の前には大きな空間。ここで、龍頭神舞が実施された。流れとしては、荒木流古武術ののち、子どもと大人の舞を交互に実施するというものだった。

18:40開始として、

子ども①20分
大人①20分
子ども②20分
大人②20分

という流れで、20時前には終了した。





興味深かったのは幣束(おそらくボンゼンのこと?)を持った獅子が周囲をお祓いして回り始めたこと。これほどモリモリのトグサをつけている上に、幣束も持つなんて相当な厄祓い意識がありそうなどと感じた。この瞬間にどこか楽しげで賑やかな空気が一瞬引き締まったような気がした。それにしてもブワサっとなびくそのトグサの迫力はものすごい。その場にいる人々をみな絡めとってしまうくらいに、その場の空気を支配してしまうような力があり、それが太鼓の音によって引き締められるような感覚があった。子どもたちは次々と地面に落ちるトグサを笛の音が止まるとともに何度も何度も拾っていった。

千本木神社の演舞は、20時ごろに終了。石川県への終電に乗るべく、徒歩20分以上かかる道のりを走って10分でカバーして、なんとか電車に飛び乗り、本当に短時間の龍頭神舞見学を終えた。素晴らしい獅子舞だった。短時間でもそれがよく伝わってきた。あと、子どもへの伝承をかなり意識しておられる様子も伝わってきて、子どもと大人の舞をサンドイッチするように交互に披露しておられたのも良かった。名前のいかつさは厳格な奉納舞を連想させるものだったが、実際に訪れて感じたのは、柔らかな地域の連帯感によって受け継がれる姿そのものだった。これは初見の印象として強く残るものであった。

千本木龍頭神舞とは?

獅子頭は「鳳凰元(ほうがん)」「雌獅子』『雄獅子』の三頭からなる三匹獅子舞である。ホウガンと雄獅子には、角の付け根に神像と思われる人面が彫刻されている。また、それぞれの頭には「鳥総(とぶさ)」と呼ばれる、和紙を染め幣束型に切った髪を着用する。鳥総は鳳凰元が赤・黄・緑、雌獅子が赤、雄獅子が黄という配色である。また龍なので、耳はついていない。鼻が大きく、舞手は鼻の穴から外を覗けるそうだ。
ささらを使い奏することから「ささら(佐々良)」とも言い、獅子舞を習うところを「ささら会所」とも呼ぶらしい。また、龍頭神舞の前段として「棒使い」があり、荒木流古武術の人々が務めている。舞の種類としては、庭めぐり、摺り込み、たたら、回りささら、ロットロ、岡崎、橋掛かり、ボンゼン掛かり、歌ぎり、そして雨乞いの時のみ雨乞いの舞がある。この獅子舞の所属は、北千木町と南千木町であり、千本木神社をはじめ、飯福神社、八幡神社、退魔寺、元伊勢崎藩御番所、氏子総代、北千木町会議所などで舞う。雨乞いが目的でありながらも、その降雨によって豊作がもたらされる意味では五穀豊穣につながる舞のようである。

根底にある雨乞いの信仰

利根川や荒川水系沿いに発生した龍頭の獅子舞の系統の一種と考えられる。宝暦年間(1751年~1764年)にはすでに実施されていたとされ、雨乞いの功徳にまつわる話を多く伝えている。
基本的には秋祭りに登場するが、臨時の場合に雨乞いのために実施されてきた。寛政11年(1799年)、明治4年(1871年)、昭和5年、昭和19年などに雨乞い実施の記録がある。『伊勢崎市史 民俗編』(平成元年2月) P721によると、「干ばつに際し、赤城山、榛名山、鎮守、水神宮などに舞を奉納するもので三頭が雨を待つように天を仰いで舞う。舞を奉納したあと、獅子頭をかぶって裸になり広瀬川で泳いだものだという」とある。これらの上毛の山々が雨乞い信仰の対象になってきたようだ。ここでは鳥総を外して、3頭が水を掛け合うという場面もあったようだ。またこれが終わったらすぐさま走り出したようである。「舞を納めると一目散に会所に向かって駆け出す。このとき退魔寺の門前を走り抜けるが決して退魔寺を振りかえることはなかった。振りかえると雨乞いのご利益が薄れてしまうと言われていた」とある。

武術や雨乞いの文化圏の広がり

風流の獅子舞で雨乞いがあり、そして橋掛かりの演目が存在する、そして頭には紙のふさふさ、川に入ってじゃぶじゃぶする動き、そして一目散に走る動作...。これらは長野県の雨宮坐神事の獅子舞に非常に類似しているように思う。ただ、あちらは4頭でこちらは3頭なので、獅子の頭数が違う。ただし、龍頭神舞の鳳凰元と雄獅子の頭の角の人面彫刻は合わせて四面であるというから、これは何か手掛かりかもしれない。それから雨宮坐神事の場合は順番として一目散に走った後に橋掛かりという順番になる。そのような細かな違いがはある。ただ、この2つの芸能を比較したところで、そこに直接的な関連は見えるものではなく、おそらく、群馬から長野にかけての地域のさまざまなところで似たような獅子舞のような芸能は数多くあったのではないかと思う。

それから、龍頭神舞の前段で登場する棒術が、明らかに武術的な所作として登場することは必見である。三匹獅子舞の棒術は武術と必ずしも結びつくものではない。しかし、ここで武術と結びつき、露払いをしていることは非常に興味深い事実である。これは北陸の加賀獅子との対比の中で、非常に面白い推測ができる。加賀獅子では大きな竹の輪が入った獅子舞に対峙する形で武術の棒振りが登場する。この棒振りは龍頭神舞の場合のように前段で登場するものではなく、獅子と同時に登場するのである。いわゆる獅子殺しとして、獅子舞を退治することで厄祓いを達成する流れではあるが、なぜか、獅子舞に向かわずに2人ないし4人などでカンカン打ち合って、獅子舞には見向きもせずに武術の披露に夢中になって最後の最後でやっと獅子に向き合い、獅子を退治するという流れになる。長年疑問だったのは、なぜ最初から獅子退治に向かわずに、味方同士で打ち合い戦うのかということであった。

おそらく龍頭神舞の武術が前段の露祓いを本質としているのと同様に、加賀獅子の棒振りも武術をぶつけ合うことによる前段の露払いを本質としているのではないか?と思うのである。それがなぜか獅子と同時に登場することになって、獅子を退治するという演出を加えることで、勇壮さを強調したことになる。つまり、加賀獅子においては、獅子を見せるための獅子舞ではなく、武術の棒振りを見せるための獅子舞なのである。同時に門付を次々としていくもんだから、棒振りをしてから獅子舞をするというふうに分けるよりも、棒振りと獅子舞を一気に登場させる方が都合が良かったように思える。これは龍頭神舞のように獅子舞を「魅せる演舞」として扱い、そこに雨乞い信仰という重要な意味付けを置くこととは事情が全く異なるのである。これは一人立ちの狂う舞と多数立ちの存在で威圧する舞の見せ方の違いでもあろう。棒術が武術として構成される文化圏の広がりを考えていくの非常に面白いものである。

参考文献
編集・発行 伊勢崎市『伊勢崎市史 民俗編』(1989年2月)
編集・発行 伊勢崎市『北千木町南千木町の民俗』(1987年5月)
編集・発行 群馬県教育委員会『群馬県の民俗芸能ー群馬県民俗芸能緊急調査報告書』(1997年3月)

「人が見たけりゃ」大賑わい!和歌山県「御坊祭」、獅子舞や四つ太鼓を拝見した

次々と繰り出す獅子舞。その色とりどりの獅子舞を追いかけていると、それぞれが誇るべきものが見えてくる。2026年10月4日、「人を見たけりゃ御坊祭」という言葉で知られる、和歌山県御坊市の小竹八幡神社で開催された御坊祭を訪れた。

朝から雨が降りまくっていた。前日の蛙おどりの追加で資料調査のため、尼崎に滞在して、図書館や博物館を1時間で見て回って、それから、電車で和歌山県に向かった。正直なところ、この祭の存在はかすかに知るのみだった。しかし前日にAIに聞いてようやく祭情報にたどり着き、次の日に和歌山県にもうすでに向かっているのだから、AI時代の情報社会の動き方は急展開で面白いものだ。大阪府から和歌山県に入ると穏やかな山々と海が見えてくるあの景色が毎度のこと癒される。そして、紀州路快速による大阪から和歌山へのアクセスの良さを改めて感じる。

御坊駅からたった一両のローカル線に乗り換えて、西御坊駅へと辿り着いた。西御坊駅はかなりローカル感あふれた駅舎で、駅に降り立った人が書き込めるノートが置いてあって、「聖地巡りしてます」などの書き込みがある。駅舎は小屋のような作りをしており、一見住宅街の中にあるひとつの家というような風貌をしている。それから、少し歩くと太鼓の音が聞こえてきた。

昼ごはんのために立ち寄ったスーパーで黒人並みに肌の黒い日本人がいて、それから祭り会場の小竹八幡神社に向かうにつれて何度も肌の黒い人にあった。この土地の人々はどこか肌が黒い気がする。調べると和歌山の御坊は日照時間が長いなどのデータがあるようで年間2500時間を超えるらしい。その上、農業や漁業などの一次産業が活発であることから、自然相手に働いておられる方が多いのだろう。それから少し歩いて小竹八幡神社に辿り着いた。

次々と四つ太鼓や獅子屋台が神社に入っていく。先払いの鬼もいて、人々を脇に避けさせている。「サイテクリョー!」の掛け声とともに、担ぎ上げられている四人の子どもたちが同時に後ろにのけぞる。激しい曳き回しも大変威勢がよく見応えがある。境内に入り込んでいくと、自分たちの町内の文字が入った幕が、境内に広げられる。そして、演舞が始まる。大雨の中での演舞だ。演舞の途中でさまざまな掛け声がかけられる。

出演順に整理を進めていこう。
1. 中組
2. 濱之瀬組
3. 下組
4. 名屋組
5. 東薗組
6. 上組
7. 紀小竹組
8. 春日組
9. 島組

下組の獅子舞
名屋組の獅子舞
東薗組の獅子舞
東薗組の運搬の様子
紀小竹組の獅子舞

このうち拝見できたのは、下組、名屋組、東薗組、そして紀小竹組、そして、最初の鳥居前の所作のみ春日組を拝見できた。個人的には東薗組の演舞に感銘を受けた。周囲の盛り上がりも素晴らしいが、演舞の激しさと緩やかさに緩急があり、起伏に富んだものだったように感じた。また、四つ太鼓が2基登場したのも盛り上がりが感じられた。もう少しいれば、2頭舞のある春日組の演舞が拝見できたのだが...。見学は約半分の団体にとどまった。というのも、大雨となってしまい、カメラの機材もびしょ濡れで、体力もなかなか続かなかった。それに加えて三脚を忘れてしまったこともあり、左手に動画用、右手に写真用のカメラを持ち、さらに脇に傘を抱えて、時には一眼レフのレンズカバーを口に加え、なんとか撮影を続けたが、なかなかきつかったのと、決して、ベストな撮影環境ではなかった。途中一時間ほど、御坊祭の資料収集に向かおうと思って、図書館を訪れた。そして、非常に詳しい調査資料を拝見することができ、やはり、祭りの担い手が血気盛んなだけではなく、アーカイブも充実しているということを感じさせられた。そして、祭り会場に戻り、電車の時間まで撮影を続けた。

獅子頭を乗せた屋台
四つ太鼓

それから、大阪からのバスの時間に間に合うように帰路に着いた。途中、ご飯を全然食べてないことに気がつき、「せち焼き」なる名物があるようで食べにいった。暗い住宅街の中にポツンと明るいお店。テイクアウトの窓口とバーに分けられており、バーに入るとまだ早い時間だったのか、客は僕1人だけだった。沈黙の中で、鉄板の上に乗せられたホクホクのせち焼きを食べた。これは麺や具が卵で固められた小麦粉を使わないお好み焼きのような食べ物である。野菜もたくさん取れるしスタミナメニューといった感じである。

それから、紀州路快速で、大阪への帰路に着く。最後尾の車両に、一人で乗り込んだ。こういう時は、あまり人が見ていないだろうと、どうしても変な姿勢で格好をして携帯を見ている。曲がった姿勢でブログを書き始めた。思えば、ここ数日間は椅子の上で寝ていた。今日も椅子の上で寝ることになる。ただ、そんなのはあまり疲れに入らないくらいにアドレナリンが出た数日間だった。

御坊祭の始まり

この祭がいつ始まったかは定かではない。この祭が継承される地域は、石清水八幡宮の神領でもあったようである。小竹八幡神社は薗八幡とも呼ばれ、御坊祭は「薗八幡祭」とも呼ばれるらしい。ただし由来は、天正以前にはほとんど遡ることができないようだ。「小竹八幡神社誌」に古老の言として「天正(13年-1585)の兵火にかかり古文献宝物等殆んど焼失し、又其後阿波辺の海賊の掠奪にあい社宝悉く散逸した」とある(1)。それから時代は降り、寛永19年(1642年)に古寺内六左衛門という人物が突然狂い、さまざまな言葉を発したが誰もわからず、次第にその人物は身を清めて八幡神社へ参り、二日と一夜穀水を断ち、「何故祭をしないのか、此の時節に当っているから急いで祭せよ」との御神託を告げた。それを聞いた一同は畏れいって、この年から祭りを始めたという記録がある(2)。ここでどうやら祭りを復興したとのこと。その後、延宝7年(1679年)には御輿、獅子、鬼、笠鉾が登場したという。また「薗八幡祭は室町時代湯川家の庇護のもとに執行されてきたが、天正十三年湯川落城後の政情の変化から、民心の動揺と生活の不安をもたらし、以後中絶したままになっていたのを、寛永十九年に復活したことが明らかである」という見方もある(3)

東薗組の獅子舞

御坊の獅子舞の特徴

この地域の獅子舞は二人立ちで四つ足。胴幕と獅子頭はそれぞれ縫い合わせられている。神前に向かって舞い初め、背後には屋台を据えて、囃子を奏でる。演舞でない時には、獅子頭をこの屋台の中心に置いて運ぶ。囃子には太鼓、締め太鼓、笛がある。笛は獅子が1頭であれば1人、2頭であれば2人と対応関係にあるのが大変興味深い。笛は獅子をまるでコントロールするかのように吹いているようにも思える。

獅子頭の作りは眼球が動いて音が鳴り、耳はフサフサとして高い位置にある。獅子頭が赤色の町内が雌獅子、黒色の町内が雄獅子と言われている。ほとんどが紙製の獅子頭とされる。これは軽くて躍動的な表現が可能だからという機能面が背景にあるようだ(4)。紙製の獅子頭といえば京都の六斎念仏を中心として、愛媛県、香川県、兵庫県など瀬戸内海沿岸でも数多く分布する(5)。それから御坊祭の獅子舞の変遷として興味深いのは、明治四十三年(1910年)に塩崎幸吉氏が獅子舞の笛と芸態を改良させたという記録である。紙製の獅子頭が普及し出したことも特筆すべきだが、単調なリズムから勇壮でアクロバティックなものへと変化していったそうである。

獅子舞の物語は、山から野に出た獅子が、花や蝶と戯れ、やがて眠りにつき、最後は再び起き上がって荒々しく舞う。山から野に出た獅子が、花や蝶と戯れ、やがて居眠りをする。その後再び歩き出すが、鉄砲で撃たれて手負い(負傷)となり激しく暴れ回る。しかし、最後は神に諌められて鎮まる。このような非常に物語性に富んだ獅子舞なのである。ちなみに、「鉄砲で撃たれる」という場面は、存在しない場合もあるようだ (6)。

所作として興味深いのは、アップテンポなリズム感が、クラブでビートに乗る若者というような感じでイケイケだ。はうちが非常に激しい場面も見られ、緩急が非常に大きな動きと感じる場合もある。それから「鉄砲で撃たれる」という箇所は実際の鉄砲が登場するわけではなく、アップテンポなリズムと獅子の動きで表現するものであり、一般の視点からするとどこで鉄砲を打たれたのかは判然としない。ただ、この物語構成や獅子が四つ足であることから、狩猟を連想させる舞であるように感じられた。

名屋組の獅子舞
東薗組の獅子舞


注
(1)御坊市史編さん委員会『御坊市史 第二巻 通史編II』(1981年7月, 御坊市)P1169
(2)御坊市史編さん委員会『御坊市史 第二巻 通史編II』(1981年7月, 御坊市)P1169
(3)御坊市史編さん委員会『御坊市史 第二巻 通史編II』(1981年7月, 御坊市)P1170
(4)編集・発行 御坊市教育委員会『御坊祭総合調査報告書』(2022年3月) P369
(5)編集・発行 御坊市教育委員会『御坊祭総合調査報告書』(2022年3月) P370
(6)編集・発行 御坊市教育委員会『御坊祭総合調査報告書』(2022年3月) P372

参考文献
御坊市史編さん委員会『御坊市史 第二巻 通史編II』(1981年7月, 御坊市)
編集・発行 御坊市教育委員会『御坊祭総合調査報告書』(2022年3月)

蛙と鶴を模した踊り!兵庫県丹波篠山住吉神社「蛙踊り」

なぜ人間は蛙や鶴へと変身するのか。2026年10月3日、兵庫県丹波篠山市の住吉神社で例大祭前夜に実施される蛙踊りを拝見した。

感性が開く夜。古市駅に降り立つと、もうすでに薄暗い空が広がっていて、街灯がちらほらと点灯し始めていた。辺りには小高い山々が広がり、「チー」という虫の声、そして近所で談笑する方々の話し声も聞こえる。ここは無人駅だ。電車が通らなければ、静けさに包まれているような場所。そこから少し歩くと、道標に立て看板があって、歴史ある道標が交通事故で破損してこれはレプリカであるということが書かれていた。それから近くのコンビニに向かい、そしてパンとおにぎりを買った。品揃えが多くて、店内装飾も煌びやかで見事だと思った。この辺りは少なからず、スーパーの代わりにコンビニを利用する方々が多いから、コンビニが充実するのかもしれないと推測した。それから、夜道を歩き出した。次第に、歩道がなくなってきた。これは、なかなかハードな道になるかもしれないと思った。30分ほどの道のりなのだが、街灯が少ない暗闇の山間部を歩くことになる。携帯を懐中電灯がわりにして辺りを照らしながら歩いた。自分の足元の安全を確保するとともに、車道を走る車に自分の存在を知らせる灯りである。こんな山奥まで来て、電気の力を感じたのだった。なだらかな丸を描くような坂を登り、そしてそこからやや降っていくと、ようやく歩道が増えてきた。そして、集落にたどり着いたようである。歩くこと30分。ようやく「蛙の宮」とも呼ばれる住吉神社にたどり着いたのだった。

蛙の宮は薄暗い灯りに急登の石段が照らされており、仄暗い灯りがどこか神聖な雰囲気を醸し出していた。やや近寄りがたく、鳥居の前をうろうろして、カメラ機材を触りながら、ようやく石段を歩き出した。非常に急な石段だ。そして登りきると、カメラマンが3人ほど、そして後は羽織袴の担い手の方々がずらりと並んでおられた。

19時を過ぎて、舞い手が現れた。鶴亀模様藍染の礼服・素襖を見に纏う。手水で手を洗ってから、拝殿にお祈りをして、また手水舎の横まで来たが、何かを待っているようで始まらない。
19:15ごろ、そこで突如として、「ときめきくん」と呼ばれるゆるキャラが軽トラの荷台に乗って現れて驚いた。兵庫県丹波篠山市今田町のご当地キャラのようだ。このようなキャラが夜の神社に現れるとは!意外だったが、何よりその登場が面白過ぎてすかさず近寄っていってしまった。そして、なぜか記念撮影が始まった。みな社殿を前にして勢揃いして集合写真を撮っていた。はよ帰れやという人の声もあったが、そして、19:25ごろになってときめきくんが足を拭いて、これから蛙踊りを実施する長屋に上がった。そして、ファンサをするように少し飛び上がったのだ。その姿には非常に驚いた!
それで、ときめきくんの興奮も落ち着き、いよいよときめきくんは見物客となり影をひそめた。

そして、担い手の方々が長屋に上がっていった。そこで、神舞が実施されたのである。稲の収穫風景を表現した「惣田楽」と、田んぼに舞い降りたツルが豊作に感謝する「いず舞」からなる演舞だ。まず、惣田楽から始まった。締太鼓の太鼓打と踊り手のささら擦りによる舞。前後に列を作ったり、円を描くように舞ったりしていた。それから、締太鼓と踊り手が前後の列を入れ替える際に「かえる」というセリフがあったり、「ヘエー」という掛け声を連呼しており、ぴょんぴょん飛び跳ねたりする姿が、まるでカエルが舞台に現れたように思えた。そしてその後、鶴の舞に入った。鶴は徐々にむくむくと大きくなるような仕草が3度ほど繰り返され、最後に手足をちょこんと出してから大きくバサっと羽ばたくのである。それを3回ほど、3人繰り返された。本当にひたすら同じような所作が繰り返されていくのでまるで何者かに本当に成ってしまったのではないかと思うほどに取り憑かれているような気持ちになる。そして最後に御神酒が回されて、終了となった。




その後、談笑している姿を眺めながら、社殿にも向かった。その社殿前で神戸から来た大学生と談笑されている地域のおじさんがいらして、横から話の輪に入るようにお話を伺った。

ーーなぜ蛙を祭るようになったのですか?
蛙を祀っているわけではないけど、蛙の踊りということです。稲作の関係ですね。飛び跳ねる仕草は蛙ではなくツルです。前半の踊りの鳴き声や掛け声は蛙でしたね。

ーー社殿にある蛙の夫婦の像や、蛙の墨絵のようなものはどなたが奉納されたのですか。
蛙好きの焼き物作家の方が送ってきてくれたんです。この写真は、舞堂で催し物的に蛙踊りを演じた時の写真ですね。今は作業場のような感じですけれど。普段は(今回のように)長床という場所でやっています。

明かりを消し始めたので、すぐに写真を撮影して、その場を後にした。そのような時もあるのかとふと思った。

それで東京から来たことに驚かれており、車で送っていきますと名乗り出てくださって、その横の役付きの方に声かけて、軽トラに乗せていただくことになった。夜の道は本当に街灯がなく、歩道があまりないので、とても助かった。草野駅まで送っていただいた。助手席で最近の話を伺った。

ーーこの辺にお住まいですか?
すぐ近くです。

ーー祭りに関わって長いのですか?
今回、この宮の会計の役なのです。持ち回りで回ってくるんです。
(中略)
ところで、この辺りは夜になると、よく鹿が出るんです。出るところは決まっていて、獣道と呼んでいます。

ーーこの辺は牡丹鍋をよく食べますか?
はい、食べますね。牡丹鍋は猪が多いです。

ーー最近は豚コレラは 大丈夫なのでしょうか?
最近はあまり聞かないですね。数年前は猪の豚コレラはとても流行しました。火を通せばある程度は大丈夫でしたが。

ーー猪も鹿も多いのですか。
猪も鹿もどちらも多いですね。僕は見たことがないですが、熊も最近は出るようです。

ーー蛙はいるんですか?
蛙はたくさんいますよ。もーう、夏の夜はやかましいです。今はもう稲刈りが終わって水がないんで、蛙はいないですけど。
(駅に車がついて)お疲れ様でした。

ーーお疲れ様でした。本当にありがとうございました。


ポツンと灯りが灯る無人駅に降ろしていただいた。鈴虫のような声が聞こえる。幸いなことにすぐに電車が来た。いろいろと恵まれていた1日だったし、感性がとても開かれた踊りだった。暗闇の中にある田んぼはもう稲刈りが終わった頃であろう。

蛙踊りの概要

どうやら、神社前の立て看板によれば、篠山の中で三大奇祭というものがあるそうだ。沢田八幡神社に伝承する大蛇退治の「鱧(はも)切祭」と、新荘轟八幡神社の「もち祭」と共に、小野原住吉神社の「蛙おどり」が伝えられている。「蛙おどり」は笛や太鼓に合わせて祈願する「神舞」であり、200余年継承されているとのこと。ただ、この看板の設置年が不明なため、結局200年前がいつなのかわらない。

蛙が踊るといえば、鳥獣戯画を思い浮かべる。鳥獣戯画は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて制作された国宝の絵巻物であり、ウサギやカエルなどの動物を擬人化してユーモラスに描いたことから日本最古の漫画とも称されています。 この作品の中でカエルは、二本足で立ち上がってウサギと本格的な相撲を取ったり、投げ技を決めて相手をひっくり返したりする躍動感あふれる姿で描かれています。また、蓮の葉を背中にして仏像の真似をして座り、サルの僧侶からお経を読まれるというコミカルな法会の場面や、他の動物たちと一緒に川へ飛び込んで水遊びを楽しむ姿など、まるで人間のような生き生きとした営みが墨一色で表現されています

小野原住吉神社の「いず舞」は、和歌山那智大社の「しててん」、兵庫県上鴨川住吉神社の「イリ舞」などに類似した田楽関係の舞だ。いず舞という発音は、入り舞の転訛とも言われる。京都府京丹後市弥栄町野中の大宮神社に伝わる田楽における扇の舞がユリ舞とも呼ばれているのも、同じく入り舞の転訛とも言われる。兵庫県三田市末東の天満神社に伝わる田楽はホーホー踊りの一曲「鶴の舞」も同じく入り舞である。三田市では蛙踊りではなく蛙跳びと呼ぶ。
毛越寺延年の路舞は兎と呼ばれ、菅江真澄も兎に例えて「兎跳ね」と呼んだというが、兎は1羽2羽とも数えるように鳥と近い。ピョンピョン跳ねる姿が鳥に似ているという説があるようだが、これは類似の話なのかもしれない。

なぜ蛙なのか

これには様々な説がある。締太鼓と踊り手が前後の列を入れ替える際に「かえろ」というセリフがあったり、「ヘエー」という掛け声を連呼しており、ぴょんぴょん飛び跳ねたりするその仕草に由来するという話がある。また、神社の森が蛙に見えるからという説もあるようだ。びんざさらは蛙の声とも言われる。

蛙踊りや鶴の舞の話を聞いていると、山伏の験比べを思い浮かべる。高く飛ぶほど良いと言われる山伏の法力を使う験比べ。鶴の舞は烏跳びとの類似も考えられると言われているから、なおさらである。出羽三山神社の松例祭や、水海の田楽能舞、あるいは岡山の護法祭などの烏跳びにつながるものがある。松例祭では烏跳びの後に兎のぬいぐるみが登場する。験比べには蛙や兎といったぬいぐるみが登場する場合もあるのだ。ここで、奈良吉野金峯山寺の蛙飛び行事のカエルの着ぐるみが思い浮かぶのである。ところで、蛙と兎ばかりが着ぐるみになるという謎と共に浮かび上がるのが、鳥獣戯画の蛙と兎は実は人間が中に入っているぬいぐるみや着ぐるみの類を描いたものではないかということだ。これは、橋本裕之「(共同研究報告)論舞考―研究史的素描を通して―」(2020年)P107にも記述がある。

これらは論舞として整理できるようである。惣田楽後の余興として演じられる三角跳びは、根本的には真面目で格調高い「真」とくだけた「草」に分けられる。今回の小野原住吉神社の蛙おどりでは、その見分けがよくわからなかったが、全国的な分布を鑑みるとこの構成があるようだ。そして田楽のフィナーレとされていた。そこには、兎、鶴、烏、蛙が登場するというわけだ。

参考文献
橋本裕之「(共同研究報告)論舞考―研究史的素描を通して―」『万葉古代学研究年報』第18号、奈良県立万葉文化館、2020年3月、69-118頁。

担い手の継承に密着!東京都国立市 谷保天満宮の獅子舞

東京の郊外で、3頭が勇壮で賑やかに舞う獅子舞。今年、極めて重要な「雌獅子」などの新しい担い手が加入し、7年越しの大きなニュースであったようだ。民俗芸能にとって重要な「繋ぐ」という意味を考える貴重な取材であった。2026年9月27日、東京都国立市の谷保天満宮で開催された本祭の獅子舞を拝見した。当日の様子を振り返る。

祭りの真っ只中、谷保天満宮に到着!

久しぶりの東京の獅子舞。南武線で谷保駅に辿り着いた。東京都内では比較的小さな駅舎を持つこの駅を降りルトすぐ似たいこと笛といったお囃子の音が聞こえてきた。地図も見ずにその音に誘われるようにして向かうと、5分もせずに谷保天満宮の鳥居が見えてきた。どうやら道行の行列は境内へと入っていくところのようである。

まず境内に入って行ったのは、大きな万燈が3基だった。大万燈は獅子の喧嘩の最中に解体するものらしい。100kgを超える大万燈も入場して盛り上がりを見せる。境内へと向かう最後の降りの階段を降りて、神楽殿前の土俵へと上がる。竹は神棚に飾るのではなく、それを箸にすると良いとも言われるようだ。行列にはさまざまな役の者がおり、肩車されている子どもを「拍子木童子」と呼ぶらしい。顔は白塗りで美しく着飾っている。

さて、参道から入って来て、大万燈は社殿の方面へと向かい、その後に続いてきた天狗や三匹獅子舞たちは、神楽殿前の相撲の舞台のような場所にたどり着いた。「いつも階段が降りてくるとき、天狗が先頭降りてくる時にですね、笛人、舞子、唄人、という続いてきます。階段を降りるところが一番画になる場所なんですね」とアナウンスが入った。カメラマンが集い、道行の行列の撮影をしていた。


賑やかな獅子舞の演舞!

演舞はまず四天王による清めの所作が入る。1対1で2組ずつの舞が実施された。これは棒使いや棒術的なものと思われる。それからいよいよ獅子が出てくる。演舞の流れは、以下のようであった。全部で50分弱で一連の流れが休むことなく行われる。

・棒使い
・舞込
・雌獅子かくし
・けんか
・腰休め
・とび違い
・さらさらの切り

とりわけ盛り上がりを見せるのが、「雌獅子かくし」と、「とび違い」という演目である。彩り鮮やかで賑やかな舞だ!

雌獅子かくしの舞では、雌を取り合う雄同士が喧嘩をする!天狗がひたすらかけ声をかけ、そして「馬鹿」と呼ばれる道化が茶化しに来る。、そのやりとりが非常に賑やかだ。「隠される」という言葉の捉え方次第なのだが、ここでは雌獅子を隠し、ささらを擦る「花笠」の役がいなくて、雄獅子2頭が喧嘩をしている横で雌獅子はしゃがんで背を低くしている。これが「隠れる」姿勢ということだろう。勝った雄は雌とともにしゃがみ、負けた雄は立ったまま演舞している。これらの獅子の舞の周りを天狗が葉団扇のようなものを持ちながら回っており、同時に、2人の道化も回る。道化を「馬鹿」と呼ぶらしく、なんともユニークな名前である。道化はこの様子を茶化しにくるという役回りらしい。

とび違いの舞はひたすらスクワットをしているような上下の屈伸の所作が続いていく。演舞の後半なだけに、疲れが溜まっている時に、重い衣装や頭を身に纏いながらのこの動きはなかなかに疲れそうである。これらの舞を経て、45分の演舞は終了するのである。



終了後、再び行列を成した一行は、獅子舞保存会の建物へと帰っていった。この時についていったら副会長の北島さんの計らいで、なんと、直会に主っっ席させていただくことになった。お菓子やピザ、唐揚げなどオードブル形式のものが並び、ビールなどがずらりと数列並んで、そこに担い手たちが座って、乾杯が行われた。その合間に、私は新しく雌獅子になった担い手にインタビューをさせていただくなど、大変有意義な時間を過ごすことができた。

新しい担い手の獲得について

谷保の獅子舞は近年、「雌獅子」の役を担う人の獲得に力を入れており、ポスターを制作するなどして精力的に、勧誘を強化しておられた。そして最近ついに、31歳の担い手が入ったとのこと。

演舞前にはこのようなアナウンスも入っていた。「雌獅子が引退した先生が2年、続けて来ましたが、今回、雌獅子の担い手が決まり、通常一年研修で翌年にやっと出演できる流れになりますが、実際に彼はほぼ3ヶ月で舞を覚えて今回初めてデビューとなりました。本当に今回頑張っていただいて、そのことも皆さんみていただいて応援してもらえたらと思います」。

どのように担い手が入り、そして本番を迎えることができたのだろうか。「(期間というよりは)稽古の量が大事ですよね」というお話も聞いた。獅子頭を被ったのは5回くらいだったという。そのような中で習得はどのように行われたのだろうか。そこで、直会の際に、実際に新しく雌獅子を務めた方にお話を伺った。

ーーどんなきっかけで獅子舞を始めようと思ったのですか?
始められるようなきっかけもあったのですが、なあなあにしていて、後継者がいないということで親父に聞いて、改めて獅子を見てかっこいいなと思いやることになりました。昔から小さい頃から身近に感じていたんです。自分しかいないという感じでした。7年も探していたと聞いています。

ーー三ヶ月の練習はどのようにして来ましたか?
映像があるので、それを1日2回くらいを見て、それを見て練習をしたりしていました。家で時間がある時には、テレビに動画を映して練習をしていました。

ーー難しいシーンはありましたか?
喧嘩や、とび違いの舞のところは辛いですね。でもその後の達成感があります。今日は最後まで立っていて、最後に礼をした時に...泣きました。

ーー素晴らしい演舞でした。お話を聞かせていただきありがとうございました。

熱心な練習が短期間での成果につながったようである。

道具の数々も拝見

それから、直会の場では、獅子舞で使う道具を拝見した。法螺貝に「石垣島」と書いてあって、気になった。「これは普段、獅子舞には使わないものだが、昨年、ポスターを見て笛を吹きたいと言って入って来てくれた子がいて、たまたま法螺貝を吹けるというので、行列の際に法螺貝を吹いてくれた」とのことである。それから髭が白くて長い天狗面が吊るされて、新旧の獅子頭が2組3頭ずつ飾られていた。宵宮では新しい獅子、本祭では古い獅子ということのようである。宵祭りの獅子は金色の眼をしているようだが、昔の獅子頭もどうやらそうだったらしく、現在は色が取れて黒色になっている。それから、扇子やうちわに獅子の歌詞が書かれており、その歌詞が15まであって、かなりしっかりと歌が伝承されているという印象を持った。

50分くらい直会に出席したのち、谷保駅への帰路についた。駅までの途中に、神輿に遭遇するなどした。まだまだ、谷保の街は賑わい、活気に満ちた1日が続いていた。

谷保の獅子舞の形と色の意味

この獅子舞は3頭の獅子からなり、角がねじって播かれて青一色の御幣を持つ大頭(おがしら)、角がまっすぐで青と赤の御幣を持つ小頭(こがしら)、角がなく赤一色の御幣を持つ雌獅子(めじし)によって構成される。赤と青、そしてその混色...作り手の巧みな構成力を感じさせる。ささらが四方に無いのは、前段で登場する棒を持った四天王が四方祓い的な役割をすでに持っていたからのように思われるが、どうなのであろうか。真偽は定かではない。


さらに興味深いのは、谷保の獅子舞のデザイン的な部分に、以下のような十二支の意味が込められているということである。万物を演舞の構成に取り込もうとした意図を強く感じる部分である。

角は辰
羽は酉
眉間は戌
瞼は申
目玉は巳
鼻頭は子
鼻の穴は卯
唇は丑
歯は午
牙は亥
青い御幣は羊
袴は寅

虎のパンツという鬼の象徴があるけれど、ここでは虎らしさを袴で表現しようとしている。それから、御幣のモコモコ感は確かに羊のようだななどと思う節もあった。瞼や唇など、細かい部位に関しては、そこまでは判然と分からなかったものの、このような十二支に当てはめる意識を持っていることが興味深く思われた。


谷保の獅子舞の歴史と由来

獅子頭3基は古来、天暦元年(947年)に京都の村上天皇より賜ったものとされる。ここに、村上天皇伝説が浮かび上がる。村上天皇起源説は全国の数カ所で分布しており、例えば岐阜県の山奥の蛇を加える獅子舞が村上天皇の名前を出していた。事実と史実というのはどこまで整合性が取れるものかは分からないが、このような村上天皇を起源として語るという起源説自体が非常に興味深いのである。京都から勅使を迎えて、仮屋で稽古をして習得したそうだ。もともと昭和42年までは「獅子伝さん」と呼ばれた佐藤家から谷保天満宮までを練り歩いたようだが、現在は天満宮の敷地内にある獅子舞保存会の拠点でもある場所から出発して、練り歩きが実施されている。非常に歴史ある獅子舞は、現在も少しずつ工夫を凝らしながら、受け継がれているようである。


参考
谷保天満宮獅子舞保存会『谷保天満宮獅子舞』(2026年4月)
※獅子舞演舞時に配布されたパンフレット資料

石川県を南北に縦断!11町の獅子舞を巡り考えたこと。加賀市、津幡町、羽咋市、氷見市(富山県)、宝達志水町

非常に精力的に動いた1日だった。石川県加賀市では、お昼から橋立3町(田尻町、小塩町、橋立町)、片野町を撮影。その後、津幡町で「津幡四町獅子舞頭合せ」を拝見。それから山に入り、羽咋市の神小原、そして、宝達志水町を回って、帰路についた。もう午前2時を回っていた。加賀獅子、そして、その変形版、能登獅子、氷見獅子などその多様な姿を捉えることができ、この南北に長い石川県の獅子舞的な諸相を一気にダイナミックに感じられる機会となった。

加賀市 海のさまざまな獅子舞

まず、石川県加賀市に向かった。加賀市の獅子舞はもう見慣れているため、あえて情景的な描写は省いて、新しい気づきに着目して振り返っていきたい。まず、橋立地区の3町の獅子舞は港祭りが11時40分からのはずだったが、それが繰り上がって、11時10分からとなった。港の船が風の関係で、出なくなったから早まったという話も聞いた。港まつりは盛り上がるので撮影したかったが、難しかったので、町回りを撮影することにした。他の町を回っている町内が多めだった。なかなかお昼直後だと疲れているところが多いようなタイミングで、撮影となってしまったが、相変わらず荒々しい迫力があった。

それから、今回、橋立よりもさらに南の福井県境にも近い、片野町の獅子舞を初撮影することができた。車で公民館に向かっていると、途中に道路沿いのお宅の前で葡萄などを食しながらくつろいでいる獅子舞の方々がいらした。橋立3町のような荒々しさというよりは、どちらかといえば優しい雰囲気を強く感じた。片野町の獅子舞は牡丹と豆拾いのに演目があった。先週、深田町の獅子舞が、牡丹くずし、まめひらい、棒振りだったことを考えると、おそらくかなり伝来経路が似通っているのだと思う。それから、橋立3町が内灘から来ているが、こちらも同じ河北郡の獅子舞という話もあるが、演目の名前が、違うし舞い方も違うので、深田町や片野町の系統の獅子舞は、どこから伝わったのだろうと謎が深まる。獅子頭はもともと赤、黒、金という順番で塗り直しているので、禿げるとその下の色が出てくるという状況のようだ。

祝儀は5千円と1万円が多く、1万円となると、豆拾いまで実施するらしい。それから本来は牡丹から豆拾いまでが連続して実施されるようだが、最近は一回間を開けるようである。また三三七拍子のリズムで縁起が良いという意味が込められるそうだ。「コロナ禍で3年獅子舞をしていない時期がありました。一応、中学生が獅子舞になることになっていますが、最近は(人手不足で)誰でもウェルカムです」とのこと。また、「獅子舞を舞わしますか?動画にしてみたらどうですか?」と提案してくださったものの、なかなか難しいので持たせていただくにとどまった。今回、門付が遅れており、本来であれば16時には公民館で終了となるはずだったが、1時間以上遅れているようだったので、門付を約5軒ほど撮影するにとどめ、次の土地へと向かった。

橋立町
小塩町
田尻町
片野町

津幡町 喧嘩をする男気の獅子舞

それから車を走らせ、河北郡津幡町に到着。津幡四町獅子舞頭合せを拝見した。最初の囃子の演奏順で、津幡・太白会のけんか獅子(白鹿の皮あり)、加賀爪・白鳥会の赤獅子、庄・住吉会の大獅子(黒熊の毛皮あり)、清水・八幡会の熊獅子(黒熊の毛皮あり)の4町がぶつかり合った。これらの町々の特徴として、加賀爪の赤い獅子頭をのぞいて、熊や鹿の毛皮が貼られていることが非常に特徴的である。そして、太鼓は2種類で、重い音と軽い音が鳴る。重い音の方は2人で叩き、軽い方はそのうち一人がこちらの方も叩くことがある。対角線上にある町の人々を睨み、威嚇して爆竹を鳴らす。すると、反対側からヤジが飛ぶということが何度か続く。そして、しまいに棒振りやら獅子やらも出動して、掴み合いも始まり、混沌としていく。ホイッスルを鳴らす人が統制をとっているようである。ケンカの大乱闘で収集がつかなくなるということはなく、そういう意味では統制が取れているということなのだろう。強そうじゃない威嚇には「あんまり強そうじゃない」などと、側の観客から声が漏れることもあって、結構シビアな世界だなと思った。非常に強そうな街もあった。オスとしての遺伝子の強さのようなものを感じて、これがまさに祭りという感じだなとしみじみ思った。道いっぱいに広がって、大きな獅子を堂々と回す感じは、どこか、都市部に近い街の獅子という風格があった。近くにいた警察官に終わりの時間を聞いたら、「21時くらいまで実施してるんじゃないですかね。でも残って、獅子してく人たちもいると思いますよ」みたいな曖昧な感じだったので、ひとまず、最後までは観られないだろうと思って惜しかったが、次の見学先の羽咋市に向かった。
この行事はもともと、江戸時代に宿場町である「津幡」を形成した四町が合同して実施しており、四町獅子舞頭合せは1969(昭和44)年から始まった。津幡町HP(2026年9月22日アクセス,https://www.town.tsubata.lg.jp/site/kankou/6393.html)によると、
「町内の所々で見られた獅子がぶつかり合う「かち合わせ」が近年見られなくなっていき、その名残りを残そうと、当時の四町の青年団が発案し、獅子舞頭合せが行われるようになりました」という。

津幡・太白会のけんか獅子
勇壮な棒振り
清水・八幡会の熊獅子
庄・住吉会の大獅子
加賀爪・白鳥会の赤獅子

羽咋市 美しい土地の素朴な獅子舞

津幡から羽咋方面に移動すると、急に交通量が少なくなってきて、あたりは山々に囲まれた土地も増えてきた。車なしに人力で歩いていたら恐ろしいくらいに闇が広がっている光景も数多く観られた。羽咋市街には向かわずに、氷見市方面の山へと繰り出した。そして、間も無く、神子原についた。車を駐車場に停めて、急ぎ足で夜道を進む。真っ暗な道を進み、時折わずかな街頭に照らされながら進んでいくと、その先の森の中から笛や鉦の音が聞こえてきた。その森の中には、神社があり、円形の人垣ができて、その中に、獅子と天狗がいた。もう始まっていたのだ。しまった!しかし、まだ序盤な気がするので、その後の展開に注目したい。

この神子原の獅子は素朴な感じがした。原始的である。派手さはないが、どこか、ゾーンに入っていくような気がする。それから、神子原の獅子舞の担い手は本当に疲れていた。特に獅子頭の持ち手が特に疲れていた。日中どのような行程を経て今に至ったかがわからないものの、獅子は殺されかけると同時に担い手も本当にふらふらになっていて、これは演じるということを超えた、一体化であると感じた。獅子は震えて最後にピクッとなって横に倒れて逝ってしまった。ここからが獅子の本望なのだが、獅子と天狗は揃って仲良く退場した時に、殺し殺された関係性であっても、自然という大きなものの摂理を考えた時に、これは当然の循環なのであるというキュ劇な壮大な思想が立ち上がるように感じるのである。終了後に、社殿の森を抜けると、行きの時には気づかなかったこととして、非常に澄み切った田園風景が広がっていたようである。夜空の下のひらけた大地で、ピイーと甲高い口笛を吹いてみたくなるような雰囲気がある。あるいは「神子原」という地名のごとく、神棲む原という雰囲気もある。



氷見市 古きを残す山奥の獅子舞

それから、熊無の宮入りが遅くなったと知人の連絡が入り、その分、奇跡的に熊無も撮影ができた。もともと同時刻だったはずの神子原の獅子殺しが早まり、熊無の獅子殺しが遅くなったというわけだ。そして、数日前までの大雨の影響で通行止めになっていた神子原と熊無の間の道路が片側通行ながらも奇跡的に開通した。これらの軌跡が重なって、熊無を拝見することができた。熊無の獅子舞は型がしっかりとしており、見ていて小刻みな震えや瞬発的な動きに躍動感があり、なかなかに見応えがあった。本物の蝋燭が灯されて、その蝋燭が境内の社殿の周囲にもぐるりとともされ、静かに何かに捧げているような祈りを感じざるを得なかった。
熊無の獅子舞の古老たちの反応がなぜか地域の雰囲気、情景を色濃く表していると思った。獅子舞を取り巻く円形上の人がきの群れから蝋燭持ちの古老が一歩前に出て、獅子の担い手に対してはだけた胴幕を被せ直してあげたり、「いいぞ!」などと天狗に話しかけていた。それから観客にも話しかけたり、控えている舞い手に話しかけたりとあちらこちらで話しかけている。静かで神聖な場において、おじさんが話している感じは浮いた感じもあったけれど、昔はこれが普通だったのだと思う。撮影している方々のカメラの前に立ってしまうことも多々あったが、きっと昔はカメラも普及していなかったわけだし、静かに眺めるよりもワイワイしながら、獅子舞を見て楽しむという方がもっと当たり前だったのかも知れない。そう考えた時に、携帯やカメラの普及は獅子舞の鑑賞者の在り方をまるっきり変えてしまったようにも思う。かなり僕個人の推測の部分は大きいような考察で真偽の程はわからないが、とにかく蝋燭持ちのおじさんは強い印象に残った。最後に蝋燭を撮影していると、「これ綺麗やろ」と、また違う蝋燭を灯すおじさんが話しかけてきた。神社を後にすると、どこか名残惜しくて、こんな短時間しか滞在できないことが惜しく感じられた。獅子舞の一行があかりの灯る広い集会所に入っていくのが見えた。それを眺めてから、次の町内へと向かった。




宝達志水町 魅せる力を感じる獅子舞

車を走らせる。もう23時を過ぎていた。途中のコンビニで、甘栗を食べた。こんな夜まで、長い1日だなと思う。そして、お茶を飲む。車の座席が少し前のめりな感じになっていて、すぐに外に出やすいのがアドレナリン分泌の証拠だと思う。それから夜道を歩き出す。子浦出雲神社に到着すると、非常に薄暗い。0時から獅子殺しと聞いていたが、15分前になってもこの様子だと、もう終わってしまったのか?と思う。しかし、役付きの方であろうスーツ姿の方が2名、石段に座っておられる。まさかこれから始まるのか...?午前0時に近づくにつれて、子どもたちがぞろぞろと現れた。獅子舞が町を回っている鉦の音が聞こえてきた。しかし、いっこうに近づく気配がない。どうやら祭りが遅れているようである。それを見越して、地域の人々は遅れてこの神社にやってきているらしい。大声でジャパニーズポップを歌う若者の声が遠くから聞こえてきて、社殿前の人々は口々に笑い転げた。ものすごく遠くにいる人と会話をしているような感じがして面白かった。次第に、大勢の人々が集まりだし、神輿が到着したのが、0時半ごろである。それにしても立派で巨大な神輿である。煌びやかに金色に輝く御殿のようでとにかく大きい。一度社殿前まで階段を登ってから神輿庫に収納され、いよいよ、獅子舞が始まった。滝のような花火があたり一体に広がって、その中から、鳥居をくぐり、獅子舞が登場した。

石川県羽咋郡宝達志水町の子浦(しお)地区の子浦出雲神社の秋祭り。久保町青年団と荒屋新川青年団の2団体が合同で開催する。instagramで拝見して、0時開始の獅子殺しに非常に関心を持った。こんな時間に獅子殺しをするのは、なんとなく獅子に力を入れている団体なのでは?という予感を持っていたが、それは的中した。非常に演出力に富んだ獅子舞ともいうべきだろうか。社殿前の参道は赤々と照らされて、そこに獅子舞が入ってきた。獅子は合計3頭登場した。そこに次々とかわるがわる天狗が対峙して、獅子を次々と殺していく。途中、白い仮面を被った謎の役(後から調べると鬼の面を被った「ベッサイ」という役らしい)が登場して、天狗と格闘して、それから獅子とも格闘するという場面もあった。獅子は倒されてからが比較的早く、次の獅子が登場、次の獅子が登場となって、最後に獅子と天狗が肩車されて、花火が背後に鳴る中で社殿に突っ込んで終了となった。非常に躍動感がありダイナミック。先ほどの神子原や熊無のように長い時間、獅子がしっかり殺されているかを確認するということはなく、そういう意味では時間の流れが早いのだが、3頭出てくる獅子殺しが一時間で実施されるということもあるのだろう。最後、胴上げがされて終了となった。鳥居をくぐり、仮眠できる場所を探して車を走らせ、金沢郊外に泊まった。もう午前3時半を回っていた。なかなかに充実した1日だった。






金沢の獅子舞が見られず

翌日、雨がたくさん降っていた。河原市町の獅子舞を拝見しようと考えていたが、17時終了と金沢市の獅子舞スケジュールのPDFに書いていたにも関わらず、15時に行ったらすでに終了していた。町民会館の方に獅子舞はどこにいますかと尋ねたところ、雨なので、早々に切り上げた(回り終えた)ということらしい。今日1日はここしか観る予定がなかったので、残念だと思いながら、森本駅へ徒歩で帰っていると、家の軒先に「吉原町」と書かれた緑色の法被が吊るされていた。雨に濡れたのだろうか、どうやらこの町も本日祭りだった可能性が見えてきた。いずれにしても残念だが、今回はしょうがないと帰路についた。雨でも台風でも獅子を出すところは出すので、これも地域性かもしれない。

石川を南北縦断して感じた特徴

本当に長いけれどあっという間の11町の獅子舞見学。加賀市から羽咋市、氷見市まで、加賀・能登を南北縦断することで見えた石川県の獅子舞の諸相。加賀の小型の獅子舞の形態、あるいは河北郡から南下してきた大型の形態。それが津幡に向かうと顕著に思えた。そこから北上すると能登獅子と氷見獅子が分布し、そこには宮での獅子殺しを基調とした獅子と天狗との格闘があった。その獅子殺しを1晩で3箇所拝見して思うのは、まず、獅子に何を噛ませるか、というところで、神子原は羽団扇が置かれたが、熊無はそれがなかった。熊無は二本棒を咥えさせられていた。それから、神子原と熊無は獅子が死にかけてから、ちゃんと死んでいるかの確認の場面が非常に長かった。しかし、久保獅子舞はそれがあっさりしていた。その代わり、獅子の頭数が多いほか、非常に演出力に富んでいた。それから神子原と熊無の違いは蝋燭にあり、神子原はランプ方式だったが、熊無は本物の蝋燭が使われていた。また、神子原は最後に天狗と獅子が退場して終わりだったが、熊無は社殿の周りを一周ぐるりと回ってから、胴上げが行われて終了した。そのような細かな違いはあるけれども、県境とはいえ、どちらも隣の地域ということもあって似ているところがたくさん見られた。