石川県加賀市 公民館大会にて「獅子舞」をテーマに講演させていただきました!

11月21日

11:45~

石川県加賀市の市民会館で行われた公民館大会で「獅子舞」をテーマとした講演会をさせていただいた。石川県加賀市の獅子舞はバラエティに富んでいることが特徴だ。漁村、城下町、温泉地、宿場町、農村、山村と街並みが多様であるからこそ、大漁祈願や五穀豊穣、商売繁盛など、祈りの形も様々と言える。

都市祭礼などと比べれば規模は小さいが、中心となる祭りがなくお互いの舞い方を知らない分、各地域ごとの個性が際立っている。また、獅子頭も石川・富山・南方系に加えて、宇津型や権九郎型、紙製と木製など非常に多様で、日本の街並みと獅子舞文化の縮図を見ているようだ。これらの要素は各地域のまとまりを促し、多世代の交流や誇りの醸成、観光やUターンの促進など様々な効果がある。このことをぜひ知っていただきたいと感じていた。

ただ、現在獅子頭保有する127町のうち40町は獅子舞が途絶えてしまっている。今回は、加賀市の全ての地区の方々約200人が集う公民館大会という場において、「獅子舞」をテーマに講演会を開催させていただいた。コロナ禍でここ2年間、なかなか祭りが実現できない町内が多かったこともあり、獅子舞をこのタイミングでテーマにできたことは本当に良かった。また、講演会だけでなく、当日は以下のような出し物が行われた。

 

・稲村による20分の獅子舞トーク
大聖寺関栄と千崎町の獅子舞の演舞
・獅子舞の写真のパネル展示
・特徴的な獅子頭8体の展示
加賀市内の獅子頭127町分を掲載したクリアファイルの配布

 

これらを通して、加賀市の獅子舞の魅力をたっぷりとお伝えすることができた。今後は来年に向けて、3つの取り組みを進めていく。まずは各地区会館に展示できるようなポスターの制作、そして今までの獅子舞取材のまとめ本の作成、伝来経路や舞い方の共通性などを踏まえいくつかの町内を集めた獅子舞の展示会の開催という3つだ。

 

地域の皆様の理解があってこその活動だと感じている。いつもお世話になっている獅子舞チームの、橋立公民館館長の吉野裕行さん、片山津の山口美幸さん、ライターの北嶋夏奈さんには本当に感謝である。僕の力は加賀市において微々たるもので、チームのメンバーがいたからこそ、今回の企画を実現することができた。また、(公財)あくるめの助成にはとても助かっている。今後は、デザイナーの方々の協力も得ながらさらにパワーアップした活動を進めていけたらと感じているところだ。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 山中温泉荒谷町(追加)

2021年11月20日

9:30~ 山中温泉荒谷町

昭和63年に荒谷町の獅子舞を復活した時のメンバーの一人で、現在荒谷町の区長をされている三ツ谷宣明さんにお話を伺った。同行は大土を中心に東谷の調査をしている金沢大学の國領真央さん。荒谷町集会所に伺うと、縦長の獅子頭の箱があり、蓋には昭和8年9月14日新調と書かれていた。かなり古い獅子頭だが、手入れされているので、状態が良いまま保管されている。1989年の新聞が敷かれていたので、この時期には少なくとも獅子頭の手入れが行われていたことがわかる。

獅子舞はおそらく30年ほど途絶えていた。木こりがいなくなったことと、獅子舞の衰退は関係があるかもしれない。ただ獅子舞が途絶えたあとにも、獅子舞の話題自体は絶えなかった。町の決め事を話し合う寄合があり、林道整備や農業用水などの話し合いをした後に飲み会をしていて、その雑談の中に獅子舞の話がよく出てきていた。昔話をしていたら、何回か「獅子舞してみんかいや」と言う人がいて、「また話出てきたわ」などということが繰り返されたので、復活することが決まった。その後、復活したあとには、北国新聞に「何十年ぶりに復活!...」という風な記事が掲載された。

獅子舞を始めた最初の年は少なくとも、隣の今立や中津原などの地域にも獅子舞を舞いに行った。7人は獅子舞に最低限必要になり、獅子4人、棒振り1人、太鼓1人、笛1人がいればできる舞い方だった。交代できる人含めて、10人ほどのメンバーはいただろう。30年ほど前に獅子舞をやっていた人がまだ生きておいでだったので、その人から獅子舞を習うことはできた。また、笛に関しては金沢に民謡をしている人がいて、その人が荒谷周辺出身で獅子舞の笛の音色を覚えていた。そのため、横笛もその人から教えてもらうことができた。舞い方には頭を激しく振るような動作があるので、獅子頭自体は軽い作りをしている。

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また、祭り前にはポスターを貼っていた。どこそこに来てくれという告知ではなく、舞いに行きますよという告知のために貼ったと思われる。祭りの当日は荒谷神社で8月15日の午前から始まり、午後3時くらいには終わった。荒谷町では十数軒あるすべての家を回ったが、今立などの他の集落は頼まれたところだけ回った。そのほか、中津原町では盆の祭りをしていたので、そこに合わせて獅子舞を舞いに行った。ご祝儀の額は覚えていない。2年目、3年目は続けようという気持ちが最初からあったわけではないが、それは自然と続いていった。

獅子舞が途絶えた原因の1つとして、横笛を吹ける人がいなくなったことが挙げられる。ごうちゃん、滝野さん、谷口さんの3人が笛を吹けたが、地元・荒谷の人間として練習していたのがこのうち1人(ひろしさんというお名前、3人のうちどなたのことだろうか)だけだった。また、ごうちゃんは途中から抜けてしまった。それで、横笛を練習するという習慣がなくて、次の世代に繋ごうという動きがなかった。「喉元過ぎれば...」とはこのことだ。

現在、祭りの日は提灯や飾り付けをして神事をするという習慣のみ続いている。獅子舞が途絶えたのち、一回、山中温泉で獅子舞を見せて欲しいと頼まれたことがあったが、横笛は誰が吹くのかという話になって実現しなかったことがある。ただ、今では荒谷町に住む子供が7人になって若い人が徐々に増えているので、獅子舞をしようと思えばできるかもしれない。移住してきた人がたくさんいて、その影響だ。この辺で商売している人はほとんどいない。陶芸家と大工以外はサラリーマンだ。家は26軒ほどあるがそのうち12.3軒に人が住んでいる。

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p.s. 依然として、平成2年の資料に書かれていた四十九院町の獅子頭がいつどのように使われたものだったのかに関する手がかりは掴めない。三ツ谷さんがご存知の話としては、滝町のお宮さんは燃えたので、幟旗や剣旗は四十九院町に受け継がれたということのみだ。また、昭和63年に始まった荒谷町の復興された獅子舞のDVDをお預かりして見せていただいた。再生できるときできない時があって、きちんと見られるのが奇跡という感じだったが、友人が持つプレーステーションを使い、かろうじて見ることができた。そこには神社から町内を回って神社に戻る獅子舞の姿と、その後の打ち上げで歌われたカラオケの様子が映し出された。子供が短パンを履いていたり半裸の男性が映っていたり、まさに昭和という感じだった。また、集会所の奥には、昭和63年の獅子舞開始時の写真が額に入れて飾られていた。これもなかなかに昔懐かしい感じの写真だった。

 

【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大畠町(追加)

11月19日

18:45~大畠町

地域住民の宮野修身(おさみ)さん(68)にお話を伺った。同行は吉野裕之さん。大畠町の獅子舞は伊切町から、68歳の自分よりももっと前の世代に習った。少なくとも昭和30年には獅子舞があったということだ。現在では、この獅子舞は途絶えている。

獅子頭は公民館に2つ保管されている。古い方は権九郎型の獅子頭で、「昭和二十七年秋祭 菅野海◯◯ 奉納」と下顎の内側に記載がある。新しい方は角が大きく顔が小さな子供獅子のような獅子頭で、裏側に「井波 野原晢夫作 奉納 墨谷博 昭和四十九年」と記されている。新旧の順序を考えれば、もしかするとどこかで大人獅子から子供獅子へ移行した可能性がある。また、角の有無を考えれば、雌獅子から雄獅子へと移行したとも考えうる。

棒振り2人、太鼓1~2人、横笛5~6人、獅子という構成だった。難易度が高い横笛ができる人がこれほどの人数いたのは特筆すべきだ。小学生の棒振りは基本は5~6年生男子が務めたが、人数不足で中学生や女の子がやっていたこともあった。棒振り以外は基本的には青年団がしていたことが多く、高校生ぐらいから30歳以上の人までが青年団として所属していた。棒振りが身につける衣装はシャガや白足袋で、これは橋立3町の獅子舞とも似た格好だったと考えられる。

祭りは9月の15日か16日にやっていた。祭りの日は公民館か神社から回り始め、町内を回り、神社か公民館に終わるという流れだった。午後から始まった記憶がある。みんなでお昼に集まってご飯を食べたような記憶はない。町内には28軒の家がある。千崎町と大畠町は合わせて美岬町という行政区に属するが、祭礼行事はそれぞれ別々に行ってきたという歴史がある。小学生の棒振りは2種類があり、薙刀と棒とがあった。各家で、2種類どちらの舞いも行った。また、神社や公民館の前で舞う「むっか獅子」という名前の特別な獅子舞があった。獅子を回すのが難しく、ノミ取りをしたり、最後にバーと走って行ってから突然後ろに引きずられたりするような動作があった。この「むっか獅子」について、話を伺う限りでは、塩浜町の「アクビ・マメ」という2種類の演目とやや動きが似ていると思われる。ここまでの合計3種類の演目が、祭りでは実施されていた。また、片山津温泉の方で聞いた80代の古老の話によれば、大畠町は草刈り鎌を持った人が登場するのが珍しかったと話していた。これが事実だとすれば、宮野さんよりもさらに上の年代の方は、もっと多くの演目を実施していたということが推測できる。

練習は今の公民館ではなく、昔は別の公民館があったので、そちらの場所で行っていた。お祭りの2週間くらい前、9月に入ってから練習を始めた。基本的に練習を行っていたのは夜だ。お祭りの時は屋台、のぼり、輪踊りなどもあった。輪踊りでは、越中おわら節を踊っていた。神輿は登場しない。

お話を伺っていて、大畠町の獅子舞というのは、加賀市の浜どこ(海側)の獅子のハイブリッドのような形なのではないかと思えてきた。つまり、棒振りの演目や衣装に関しては橋立地区によく似ており、棒振りが登場しない「むっか獅子」は塩浜町の獅子舞に似ている。また、獅子舞自体はどこから習ったのかというと、これまたハイブリッド獅子舞の典型的な伊切町である。伊切町は潮津町、小松市安宅、橋立地区の3つの地域から獅子舞を習ったと言われており、そこから習った大畠町の獅子舞はおそらく、究極的なハイブリッド獅子舞をしていたのではないかと思えてきた。しかし、今では獅子舞が途絶えているため、その実態を確認することは非常に難しい。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 河南町(追加)・大聖寺下福田町山岸(追加)

11月16日

15:30~ 河南町

田んぼだったところに植えられた柿の木の剪定作業をされていた、西出さん(85歳)にお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。昔青年団長をしていた時、獅子舞はあった。舞い方は槍を持たない形の獅子舞を実施していた。当時は大学に行ってしまったので、青年団は子供の時代から20歳くらいまで所属した。20歳ですでに青年団を卒業ということはとても早い段階での卒業である。4つ上の杉田さんという方だと獅子舞の話は詳しいかもしれない。

その木の剪定作業をされていた向かいのお家にお住まいの瀬口明彦さん(75歳)にもお話を伺った。数年間、獅子舞が途絶えていたが、町内の昔の人(西野さん、中道さんなど)から獅子舞を教えてもらって、瀬口、寺田、中尾の3人で復活させた。後輩の人も巻き込んで復活させることとなった。舞い方は今と変わらず1つのみだったが、昔の方が少し演目の長さが長かった。5分くらいの舞いだった。太鼓2人、獅子4人という構成で、これは今も変わらない。

お2人の話を総合するに、85歳の西出さんが団長をしていた時から、75歳の瀬口さんが獅子舞を復活させた時までの約10年間の間に、数年間獅子舞が途絶えていたことがわかる。今からおよそ60年くらい前の話だろう。

▼木の剪定をする西出さん

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16:00~ 大聖寺下福田町山岸(やまぎし)

収穫した山芋の整理を道端で行なっていた女性の方に連れられ、獅子舞に詳しい方を探した。同行は北嶋夏奈さん。詳しい方を探している道中、少しお話を伺えた。青壮年団が獅子舞を実施しており、長男が参加することに決まっている。ただ、子供は5~6歳になると男女関係なく獅子舞の尻尾をさせてもらえることはある。現在は40~50歳くらいの人がメインで獅子舞をして、孫がそれを見に行くというようなイメージである。太鼓と獅子で舞う獅子舞だ。

その後、谷幸男さん(85歳)を紹介していただき、立ち話で1時間ほどお話を伺うことができた。谷さんは18歳から42歳まで獅子舞の親方をしていた経験がある。下福田町山岸の獅子舞は、下福田町東組西組(本村)から獅子舞を習った。中学校1~2年生くらいの時に、市議会議員の人やら川畑板金の人やらが、獅子舞を教えにきてくれていた。結婚式を挙げる人がいて、急遽獅子舞を実施せねばということで、それがきっかけで獅子舞を始めた。その時の獅子舞のメンバーの一人として、谷さんが選ばれた。獅子頭の回し方がわかると、太鼓を覚えられた。厳しい指導のもとで、獅子舞を練習していった。谷さんの親世代には獅子舞がなかったので、この時が下福田町山岸の獅子舞の始まりだったかもしれない。下福田町山岸の土地は山沿いに藁葺き屋根の家があったが崖崩れがあって、下福田町東組西組の方に引っ越したという関わりもあり、歴史的にも下福田町山岸と下福田町東組西組には密接な関係がある。

3月の田植え前と8月のお盆と11月23日の収穫感謝の新嘗祭の3回は必ず、獅子舞を実施してきた。正月の厄除けなどの時は舞わない。お宮さん、町民会館、各家、大同工業を1~2時間ほどの短時間で回ってご祝儀をいただく、という流れは3回とも同じである。仕事の終わる時間に配慮して17時ごろに始まり、18時から19時には終わるという獅子舞を実施してきた。ただし、昔は獅子舞の宿が決まっていて、カレーライスや肉じゃがをもらって食べたような記憶がある。つまり、午前・午後で獅子舞を実施していた時代もあったということだ。

獅子舞の祭りでは、大概は5000円くらいのご祝儀が入った。ご祝儀が入ったら子供はお小遣いがもらえて駄菓子屋に子供達だけで行ったこともあった。また、若い人は山代までよく飲みに行っていた。コンパニオンを呼んで、「延長延長!」と言って、長時間遊んで楽しんだ。

結婚式の時は、皆家で式を挙げた。その時、獅子舞も舞いに行った。「にしのしんごさん」が20年前に結婚式を挙げて以降は、町内で結婚式を挙げて獅子舞を舞いに行くということはしていない。結婚式で獅子舞をすると、町内のいろいろな人が見にきた。結婚式の時に披露した獅子舞は、寝た状態から始まり、ノミ取りなどの仕草があった。お座敷の獅子舞だった。これは町内を回る時の演目と異なるもので、町内を回る用と結婚式の時用で舞い方は2種類実施していた。この演目の違いは、町内回る時は3回獅子頭をかえす動作があるが、結婚式の場合はそれに加えてノミ取りなどの動作が入ってきた。結婚式では演目が終わると、蚊帳の中にみんな入ってきてお酒を飲んだ。そして、(蚊帳の中から頭が出ている人に食べ物を食べさせるという)二人羽織などの芸も披露しなくてはいけなかった。芸を披露すると、「なんやそれ!もう一回やってこい!」と言われたこともあって、恥ずかしくてやってられなかったこともあった。昔の家は30畳の広い部屋とかもあったので、このようなことができた。何周忌などの行事の時は、その度に(大聖寺新町の)菅波屋などの料理屋から食事を手配していた。どこの家も20人前くらいのお皿や御膳などがあったので、どこでもこのような宴会が開催できた。

1代目の獅子頭は谷さんの家の真横にある家の倉庫に保管されていた。目やら舌やらが壊れてしまったのでこれは放ってしまっただろう。30年ほど前に、2代目の獅子頭をどこかで購入した。太鼓は浅野太鼓に修理に出した。そしたら、店内に大きな太鼓があってびっくりした。獅子頭を持っていると、蚊帳が後ろから引っ張られるので「腕が痛うて..」となった。獅子頭が重いことも原因の1つかもしれない。

獅子舞の構成は、獅子2人、太鼓のオオバエとコバエの2人、で合計4人は少なくとも必要である。昔は声をかけると皆すぐに集まってきたが、今はテレビやゲームがあって家から出たがる人は少ないので、担い手の確保が難しくなってきている。下福田町山岸では、獅子舞は長男しか担い手になることができない。消防団も長男の人が務めている。長男が大事な子供であり、女の子しか生まなかった場合は、外に出されるということもあった。嫁として外に出されることもあった。それだけ、農作業に男手が必要な時代だったのだ。そのような経緯もあり、町内には子供を14人も生んだ母親もいる。人数が多かったからか、お墓に同じ名前がつけられていることもある。男の子が生まれたら、村中に見せて歩くことが普通だった。わー!と歓声が上がり、万歳三唱をした。谷さんの場合は長男だったために、高校を決められ、企業も決められ、親の言いなりで生きてきた。本当は小松製作所に勤めたかったが、大聖寺の江沼チェーンに勤めざるを得なかった。(実際には手伝いをあまりしなかったが)親が田んぼの手伝いをすることを望んだからだ。あの頃は、車をかっ飛ばすのが趣味だった。マツダのロータリーばかり乗っていた。車は20歳から乗っていた。最近は皆、軽ばかり乗っていると感じる。

谷さんは12歳の時に少年兵として、満州事変に参加した。農家の人たちは普通は行かなかったが、長男で男一人なので、行かざるを得なかった。下福田町で満州事変に出兵したのは、おそらく自分だけだ。4人で運ぶ20ミリ機関砲を揃えて撃った。遥か遠くの看板でも破壊することができた。零戦主翼についている機関砲と同じ種類である。その頃、日本人は中国人のことを今となっては言葉としては悪く聞こえてしまうかもしれないが、「チャンコロ」と呼んでいた。若い頃はバンド活動もしていた。できちゃった婚だが、結婚式が遅れたともいう。広島カープのファンだから、広島で新婚旅行をした。下福田町山岸には溜池から水が流れていてそこで昔は野菜やら洗濯物やらを洗っていた。でも、上流のもんらが水路でお尻を洗ったので、うんこが流れてきた。民政委員になって村を回っていると、いろいろなことがわかる。一人暮らしで死んでしまった人がいて、前日までコーヒーを一緒に飲んでいましたといって、現場検証をした。どうやら、布団をバッと広げた時に、パタンと倒れてしまったらしい。谷さんはタバコを吸ってはいけないと言われているがどうも止められず、タバコを吸い続けている。入院しても「わしどうもねえんや」と言って、脱出を試みた。ガラガラと戸を開けると、看護師さんが立っていて「こら!何しとんじゃ!」と言われた。4回目にして脱出に成功したが、エレベータのボタンを押した時に、「どこ行こうとしとんじゃ」と後ろから看護師に引っ張られた。6回目にやっと脱出に成功して、駐車場でタバコを吸っていた。そしたら、警備員が騒いでいたので、タバコを隠した。それからざわざわしてきて、看護師が並んで睨みつけてきた。ああ、恐ろしや。「あんたみたいな患者は初めてだ。出てってください」と言われた。とにかく、入退院を繰り返していた。退院した時に、サークルKでタバコ吸って女と話していた時に倒れた。店員に怒られ、また救急車で小松の八幡や市民病院などに運ばれた。入院してエコーとって血液検査しても原因がつかめず改善しなかったので、「谷さん、切ってみるか」と言われたが「それだけは勘弁してくれ。お願いしますから」と言ってやめてもらった。あと、顔色が悪いということで、検査したら脳梗塞ということもあった。この腕は点滴溜めで出来とる。今では、夜の11時になると、星を見ながら一服するのが楽しみだとのこと。1時間話をする中で、谷さんはタバコを6本吸っていた。「もうお迎えが..」などと話をするので、「お大事になさってください。長生きしてくださいよ!」と伝えておいた。

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【2021年9~11月】獅子舞取材 石川県小松市額田町(追加)・加賀市野田町(追加)

2021年11月15日

獅子舞の追調査や小松市加賀市の獅子舞の結びつきの調査などを行なった。同行は北嶋夏奈さん。突撃訪問での取材も少しずつ慣れて来たが、最初に公民館や個人商店、老人ホームなどの、地域の中心的なコミュニティスペースや70歳以上の地域の方が集いそうな場所にまず訪れて人を紹介してもらうのが有効な手段と感じつつある。

 

15:30~ 小松市額見町

片山津温泉に伝わった寝獅子という演目が特徴的な獅子舞が、小松市の串町の方に伝わったというのはほぼ間違いがなさそうである。そして、串町では伝わった寝獅子の形が少し崩れたようなのだが、隣の額見町は昔の原型をとどめているのではないか?少なくとも20年前まではとても古い形態の獅子舞をしていたのでは?と聞いたので、気になって額見町を訪れた。まず知り合いゼロのところからどう地域に入って行こうかと考えたときに、選択肢は2つ。地域のコミュニティの中心を担う場所として、竹平商店(個人商店)と額見会館(公民館)を発見した。竹平商店は14日に入ってお話を伺ったものの紹介していただいた方には会えず、今回、額見会館にも来たという流れである。額見会館の事務員さんによれば、獅子舞の祭り道具は神社に保管されていて、町会長さんならそれを見せてくれるのではないかということで、連絡を取っていただくことにした。ここら辺の地域では町のトップが加賀市のように「区長」と呼ぶのではなく、「町会長」と呼ぶようである。ただ、事務員さんも女性の方ではあるけれども、獅子舞にことに関してご存知のことがあったので、その時伺ったことをここにメモしておく。

最近獅子舞の詳しい人がなくなってしまった。青年団が獅子舞を実施している。元々、額見町の獅子舞は、富山県高岡市に行って習って来た。獅子頭高岡市で作ってもらったとのこと。片山津温泉の獅子舞は富山県の石動の青年団の経由で伝わったものだが、少しまたこの獅子舞とも違うのかもしれない。ただし、寝獅子の形態は少なくとも富山県から南加賀に伝わったことは間違いなさそうだ。額見町は昔、江沼郡月津村字額見だったので、月津村と同じ村に属していた。また、江沼郡ということは、加賀市の柴山町や片山津温泉と同じ行政区に属していたことになる。そのような経緯もあり、片山津温泉と似た形態の獅子舞を継承しているのかもしれない。また、近くの月津町や矢田町などは現在、子供獅子を継承している一方で、額見町は大人獅子を行なっている。現在、このように多少の違いは生じているようだ。額見町の獅子舞の祭りの日程は、いくつか変更があったようだが、現在は9月の第3土曜日に実施している。ただ、コロナ禍で2年間、祭りも練習も実施していない。来年以降、実際の祭りで獅子舞を拝見したいものだ。

小松市額見町「額見会館」

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16:30~ 加賀市野田町

老人ホーム「きんめい」のご紹介で、宮野双友会(宮地町と野田町合同の老人会)の中野祐四郎さん(73歳)にお話を伺った。野田町の獅子舞は春と秋、両方とも15.6年前に途絶えた。「ここら辺では珍しい獅子だった」とのこと。最後は若い人がいなくなって、青年団の後に壮年団がメインになって獅子舞をするようになった。まず、高校一年生が青年団に入ると普通は25歳までだったが、30歳まで伸びた。壮年団が運営主体になると、50歳の人もいた。結局は人手不足で獅子舞ができなくなったという経緯がある。保存会という形態も考えられただろうが、ここら辺は派閥があって、なかなかまとまって新しい組織を立ち上げるというのも難しかった。今では小松空港ができた関係で防衛庁の補助が降りて、その費用で神輿を作り、現在でもお祭りの時に神輿を出すのが恒例となっている。獅子舞は現在行われていない。

舞い方は基本3つで、棒振りと薙刀とムカシ(寝獅子に似ている舞い方)という名前だった。ムカシが一番難しい舞いで、寝た状態から徐々に激しくなっていくような感じで、個人差が出る我流の要素が強い舞い方だった。獅子、太鼓、棒振り、笛という構成だった。まず最初の3年で笛をやり、その後獅子頭を持てるようになった。獅子頭と太鼓をしない人は場合、そのまま笛をやった。

祭りは農耕の獅子舞だ。昔は農家ばかりがあったが、今では6軒しかない。町内に貯水池もあるが、これは農業用水関連の池である。祭りの日は最初、9月15日だったが、8月25日になり、その後、10年から20年ほど経ったら、田んぼの収穫が早くなり、最終的には8月17日になった。春は3月15日に獅子舞をしていて、雪の中で舞ったこともある。春と秋で獅子舞の祭りの内容は同じで、公民館から朝6時ごろに舞い始め、その後に神社か区長宅を舞い、その後区役を回ってから町内(現在の戸数は49軒)を巡った。その後は片山津温泉の旅館に舞いに行って、お金が多く入る旅館にご祝儀を頂きに行った。お客さんも喜んでくれた覚えがある。旅館などご祝儀がたくさんもらえるところは、3つの舞い方を全て行なった。そうでない場合は、棒振りと薙刀の2種類を実施した。難しいムカシの演目は特別な時に舞うという意識があった。ご祝儀は5000円から10000円などの幅で、出す人が多かった。もらったご祝儀で、富山県の黒部にトロッコに乗りに行った。あと、旅館でお昼にご飯を食べて、バス一台借りて山代や山中の旅館に行ったこともあった。田植えが終われば「さつきあげ」と言って、お互いをねぎらいあう会をした。

また、お昼は順番にローテーションで自分の家に食べに帰ったので、お昼は担い手が皆集まってお昼に食卓を囲むという機会はなかった。これには常に獅子を動かせる状態にしておくという意図もあり、町内を回ってから旅館まで舞いに行く必要があるため、限られた時間を有効活用するという意味もあったのかもしれない。また、獅子舞が舞いに行ってもその時に家に人がいなくて、獅子舞を見なかったが、後日ご祝儀を持っていくという場合もあり、これは時代を経るに従ってそのような風潮も生まれてしまった。8月17日が平日のことも多かったので、務めている人だと休みが取れなくて、このように対処せざるを得ない場合もあった。平日ではなく土日にずらすという手もあったかもしれないが、そのようなことは実現しなかった。

青年団の親方を23歳の時にやっていた時に、鼻などがボロボロになった獅子頭を新調しようということで、汽車に乗って井波まで行った。でも、獅子頭の値段が一刀彫りで高すぎて、買えなかった。それで、鶴来の貼り合わせの軽いものを買ってきた。これが野田町の2体目の獅子頭だった。獅子頭が軽くても、結局動きが激しいので、手が疲れてしまった。だから、獅子頭はなるべく軽いものでないといけなかった。

青年団では、良いこと悪いこと全部習った。獅子舞の練習は町の社交場とも言える。8月の秋祭りに向けて、7月25日には練習を始めた。公民館の外で、練習をした。練習は早めに切り上げて麻雀などの博打をよくしていた。お酒やタバコ、花札もそこで覚えた。悪いことはたくさん教わった。気づいたら、麻雀は1年で350日やり続けていた。麻雀は勝ち負けがあるからこそ面白い。

野田町の獅子舞の歴史は、冨塚町か弓波町から70年前に習ってきたことに始まる。弓波では子供相撲というものを神社で実施しており、小学生の時に芋を運ぶようなオート三輪の荷台に乗せられて送ってもらった記憶がある。この相撲に出ると10円か20円のお小遣いがもらえて、10円を国鉄蒸気機関車が走るレールの上に置いてどうなるかを実験したところ、ビューと伸びて使い物にならなくなったことを覚えている。お小遣いがもらえたら、屋台で買い物をすることもあった。このように、弓波町との祭りの繋がりがあったので、これが獅子舞の伝来と関係するかもしれないが、よくわからない。作見町八日市町、動橋町などの町内の子どもも、この相撲に参加した。他の町内だと、弓波町の他に子供相撲をしているのが、山代温泉の菖蒲湯祭りである。

 

ps. 中野さんは、シベリア鉄道に乗って、−43℃の世界を体感して、町歩きを一ヶ月半するなど、非常に旅人としての人生を謳歌されている。また、穂高や白山、乗鞍など、様々な山を登ったり見たりして楽しんでおられる。昔は、マカオでカジノに行き、博打をしたこともある。新聞を1部とお茶もいただいて、60分たっぷりと獅子舞だけでなく、かなり幅の広い興味深い話を伺えた。「麻雀は究極の博打だ」とのこと。単なる運だけでなく、きちんと頭を使う必要がある。だから、成長していけるのだ。好奇心旺盛で記憶力の良い中野さんとの会話は非常に起伏に富んだ面白い展開があり、とても楽しむことができた。

 

▼中野さんが写真NGだったので野田町の風景写真を貼っておく

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【2021年9~11月】石川県加賀市 片山津町 獅子頭制作ワークショップ

11月14日(日)

14:00~16:00 獅子頭制作ワークショップ @片山津公民館

片山津町で獅子頭ワークショップが開催された。片山津町では今年、青壮年部が継承してきた獅子舞をどのように次の世代に受け継いでいくかということについて、何度も話し合いが重ねられてきた。今までは青壮年部が獅子舞を実施していたが、人手不足という現状がある。そのような経緯もあり、子供達が実際に獅子舞をしたいと思ってもらえるような機会を作る必要があるのだ。将来的には来年以降、子供でも獅子舞の担い手が出てくれたらという想いでの開催であった。子供が獅子頭を作って楽しんでもらうとともに、自分の町の獅子舞に触れるような機会ができたらということでイベントが開催された。

 

スケジュールは大まかに以下のような流れで行われ、約2時間のイベントだった。

①片山津町の獅子舞の3種類の舞い方を披露

②獅子舞の舞い方や云われの解説

獅子頭の制作

④作った獅子頭とともに記念撮影!

⑤獅子舞の棒振りや蚊帳の中、太鼓の体験

⑥お土産としてお菓子の詰め合わせの配布

 

今回のイベントを運営したのは片山津町の青壮年部の方々と、獅子舞チームメンバーで片山津町の山口美幸さんだ。僕は獅子頭の制作サポートや写真の撮影などで関わらせていただき、先日竹の浦館の「カガコレ」というイベントで実施した獅子頭ワークショップの経験を生かせる場となった。青壮年部の家族を中心として、親子合わせて20組ほどが参加してくださり、とても盛り上がった。

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まず、青壮年部の皆さんが獅子舞を3演目(シーシャ・フン・ケン)を披露し、実際にどのように舞うのか?を解説付きで教えてくれた。僕の方からは、片山津の獅子舞の歴史を軽くお話ししたところ、なるほど!と自分たちのルーツにとても関心を持ってくださった。そこから、獅子頭づくりの説明、制作という流れで行われた。獅子頭づくりはすでに土台を用意しておいて、そこに装飾をするという形だった。子供達は、目や鼻、耳、角、歯などのパーツを想い想いの色・形で作り、どれ1つとして同じものはなかった。やはり、獅子舞が各町違うように、十人十色の獅子頭ができて、それを並べてみると壮観だった。記念撮影の後は、子供達が実際に獅子舞の棒振りを回したり、蚊帳の中に入ったり、太鼓を叩いてみたりと様々な体験ができ、とても楽しそうだった。最後に詰め合わせのお菓子の配布が行われて終了となった。

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実際に獅子頭づくりのサポートをやってみて、とても喜んでもらえて良かった。やはり、獅子頭作りをしていると、農民が竹籠やら藤箕などを使いそこに紙で目や鼻などを描いて作ったように身の回りのものをかき集めてブリコラージュで仕上げるという原点をよく思い浮かべる。獅子頭づくりは今でこそ、職人に発注して立派な木彫りと漆塗りで仕上げて作るという形になっているが、江戸時代以前は今よりも格段にブリコラージュの獅子頭が多かっただろう。農民に獅子舞と獅子頭などの道具が今のような形で普及したのも、明治以降という場合が多い。そういう意味で獅子頭作りのワークショップには、未来の担い手に獅子舞を伝えている一方で、過去の原点に帰れるような魅力があると感じる。

運営サイドの下準備に関しては、土台制作の手間がとても時間がかかるので、この点を今後スムーズになるように改善していければ、様々な場所で気軽にワークショップを開催できるようになるだろう。例えば、午前からワークショップを開始して土台づくりから親子の参加者にやってもらい、お昼はみんなでお弁当を食べ、午後から獅子頭に装飾を加えるという流れであれば、子供も飽きずに最初から最後まで楽しんでくれるかもしれない。今回のワークショップを通じて、獅子舞の担い手不足の町にとって、このようなイベントが子供たちの興味を持ってもらえるきっかけづくりになるという確信を得ることができた。今後もぜひ積極的に獅子頭制作ワークショップを実施していきたいので、興味がある地域の方はぜひお声がけいただきたい。また、獅子舞を様々なテーマで取り上げて一堂に会するような展覧会を来年以降考えており、そのような場でも合わせて今回のようなワークショップを開催したら、さらに獅子舞の魅力が伝わるかもしれない。

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【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 菅谷町・宮地町(追加)

2021年11月10日

13:00~ 菅谷町

菅谷町には獅子頭がないと思ってた。町民も獅子頭のありかを知らなかった。しかし、今回、昭和63年の資料で獅子舞をしていたという事実が判明して、では獅子頭はどこへ?ということで、八幡神社氏子総代の石川さんに調べていただいた。神社の倉庫か、地区会館の物置か。それでたどり着いたのが、神社の倉庫だった。そこには、2体の子供獅子があった。今回、撮影できて本当に良かった。製作者と制作年は書かれておらず箱も残っていないので詳細がわからなかったが、片方の獅子頭の顎が割れているのをみると、おそらく獅子頭が古くなったので、新調したということだろう。古い獅子頭は紐で耳が取り付けられ、鈴もついていた。一方新しい獅子頭は耳をはめ込む形のもので、逆さにすると取れてしまうような作りをしており、左右に向けてピンと張っているのが印象的だった。サイズが小さいので、子供獅子ということはすぐにわかった。さて、いつに獅子舞をしていたのだろう。

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石川さんはこの方なら獅子舞のことを少しはご存知かもしれないということで、蕎麦屋の山法師に以前お勤めで現在西谷地区・公民館長の竹中浩三さんをご紹介いただいた。その後、地区会館の事務の方を通じてお電話していただき、体調が良くない時もある中で、すぐに車で来てくださってお話をしていただいた。そして、菅谷町の獅子舞のかなり詳しいお話を伺うことができた。

獅子舞を始めたのが何年かはわからない。菅谷町出身で山中温泉の町長を務めたことがある田中實さんが、中島町の獅子舞が素晴らしいということを聞いて、獅子舞を何回か習いに行った。この獅子舞の創始には4~5人が関わっていて、太鼓、獅子、笛、棒振り..などの役割を決めて分担して習った。それを持ち帰って、菅谷小学校の5~6年生に体育館で教えた。菅谷小学校は今はなく跡地が町民会館になっているが、昔はここに小学校があって体育館もあった。ここで獅子舞の練習をしていたが、何回か、中島町の人にもきて教えてもらったこともある。これは7~8年は少なくとも獅子舞を続けていたことは覚えている。田中實さんはもう、2~3年前に亡くなってしまったので、獅子舞の開始についての年数は明らかでない。ただし、田中實さんが町長を務めたのは1999年から2005年ということが後ほどの調べで分かったので、この期間のどこかで習ったというよりかは、その前に昭和63年時点で獅子舞をしていたことが明らかなので町長になる前に獅子舞を習いに行ったということだろう。

現在、獅子頭は小さいものが2つしか残っていないが、昔は大きな獅子頭を子供が使っていたこともあった。中島町の獅子といえば、棒振りがメインで獅子がサブのような棒振りが活躍する獅子舞である。ただ、棒振りだけでなくそのほかの役も小学校5,6年生が務めた。大人が練習に関わっていたとはいえ、獅子舞の運営主体は子供会であった。青年団はどちらかというと輪踊りなどを担当していた。舞い方は2~3つほどだった気がする。獅子が数人、棒振りが3人くらい、太鼓が2~3人、笛も3~4人という構成で、小学校5~6年で10人いたかどうかという感じだった。

祭りの日は9月の第2日曜日になっているが、昔は9月16日ごろに行なっていた。春祭りでは獅子舞をせず、昔から獅子舞は秋祭りと決まっていた。獅子舞の練習は1ヵ月前ごろから行っていた。獅子舞は神社に始まり町内を回ってから神社に終わる獅子舞で、祭りの開始時間は9~10時ごろに始まり夕方に終わるという流れだった。町内110~120軒の家があるが、全ての家を回るわけではなかった。ご祝儀は最初個人で出していたがそれでは個人差が出て良くないということで、町内6~7班のそれぞれの活動費の中から一定額のご祝儀を出すことを取り決めていた。そのため、班長さんの家の近くで獅子舞を舞うというのが恒例で、班ごとに舞うということになっていた。1班いくらという風に金額が定められていたが、その金額については覚えていない。獅子舞のあとに輪踊りをする習慣があり、その輪踊りだけは3~4年前までは続いていた。しかし、若い人がなかなかいなくなって、それも今では途絶えてしまっている。今では秋祭りというと、神事に加えて、振る舞い酒、焼き鳥などが登場する。また、神輿を台車で引くということはある。

獅子舞がなぜ途絶えたのか?といえば、指導者がいなくなってしまったのが大きい。子供が大きくなったら自分が教えてもらったことを下の世代に教えることもできただろう。しかし、そう上手く継承していくことはできなかった。伝統文化を継承していくことはとても難しいことであるということを実感する。いつに獅子舞が途絶えたのかはよくわからない。竹中さん自身は大聖寺を拠点に、加賀市全域の会員に対して、能楽を教えている。春とか秋の発表会や、菅生石部神社でそれを披露することもある。だからこそ、実感することもあるのだろう。

西谷地区では菅谷町以外に獅子舞をしていた地域がない。九谷ダムと我谷ダムができたので、かなりダムによって居住面積が縮小した。我谷ダムは着手年が1958年、竣工年が1965年であり、これができる前には西谷地区には8~9町の町があったが、それが今ではダムの底に沈んだところも多く現在3町しか残っていない。獅子舞をしていた町がダムによって沈んでしまったという可能性もあるが、そこに関して詳しいことはよくわからない。

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19:00~ 宮地町

 

宮崎伸子さんの紹介で、青年団の吉田元気さんと砂田瑠架さんにお話を伺い、獅子頭の再撮影をさせていただいた。同行は山口美幸さん。獅子頭は平成3年に町民の西村功紀さんと庄谷昭一さんによって寄贈されたものが非常に綺麗な状態で残されている。どこで作られたのかはよくわからない。獅子頭の作りはしっかりしているが、かなり軽いことが特徴だ。また、45年前には違う獅子頭を使用していたことがわかっている。獅子頭の初代のことや始まりについてはよくわからない。

毎年、8月16~17日で獅子舞をしている。朝8時半くらいに神社に始まり、町内を回って公民館で16時半くらいに終わると言う流れだ。町内には45軒の家がある。お昼は公民館に併設された青年団の団室で食べる。ご祝儀は様々だが、5000円以上を出す場合が多い。ご祝儀とともに、お酒をくれることもある。獅子舞が終わり次第、公民館の玄関付近で、ご祝儀を誰がいくら出したのかを紙に書いて貼る習慣がある。獅子舞が終わった後は、昔は輪踊りをしていたが、今では輪踊りの櫓を出すことはなくなり、ビンゴゲームなどのイベントなどを行う。コロナ禍でも獅子舞をしたが全軒回らず、8月16日に神社と役職のみ舞いに行った。春祭りでも同様に、コロナ禍で獅子舞を実施できた。春祭りでは通常、町内全軒ではなく町の役職についている人の家のみを舞い、日程は3月の3週目の日曜日である。秋に比べれば獅子舞の回る軒数は断然少ないため、こちらは通常通り実施できたようだ。

舞い方は棒3種類と薙刀3種類があり、通常、人がいる家はそれを交互に1種類ずつ、合計2種類を舞う。棒も薙刀もそれぞれタテ・ヨコ・アイボウの3つの名前がつけられた演目だった。留守の家でも舞うが、いつも2種類舞ううちの1種類のみを舞うなどして対応する。その場合、棒か薙刀かどちらを舞うかは、舞い手同士のじゃんけんで決める。昔は演目が8つがあり、棒にも薙刀にもそれぞれ「ナナメ」という演目があった。獅子舞は橋立地区から伝わったと言われているので、橋立の獅子舞とも演目や舞い方が似ている。橋立の方が現在演目数が多いが、それが洗練されて結果的に棒3種類と薙刀3種類が残ったという形だろう。棒や薙刀には金色のテープが貼られている。獅子2人、太鼓、笛、棒振りと言う構成である。

今回お会いした2人は現在22歳で、その年齢でも青年団長を務めると言うから驚きだ。非常に若い担い手がたくさん確保できているようである。青年団は高校1年生(15歳)から始まり、卒業は下の人が入ってきたら卒業できるという流れになる。上が30歳までやっていた人もいたが、本来であれば25歳くらいで卒業をする場合が多い。現在は8人の青年団がいてそのうち5人は高校生で、その他は22歳である。基本は部活優先で、19:30~21:00の練習なのであまり部活にはかからないような時間帯で祭りの一週間前ごろから公民館前で練習をしている。担い手の確保のため、高校生の家に青年団長1人で勧誘にいく習慣になっており、基本的に断られると言う場合は少ないが、過去に引っ越してきたばかりの人に断られると言うことはあった。獅子舞の指導に関しては基本的に青年団の中で行われるが、青年団を卒業した30代くらいの2~3人が舞い方の確認のため、練習を1ヶ月の間に4~5回くらい見に来てくれる。

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