2026年7月7日、奈良県吉野町金峯山寺で実施された蛙飛び行事を訪れた。この日は日帰りの奈良県。夜行バスで大阪について、そこから奈良に向かい、夜は大阪から夜行バス。日帰りのコンパクトな移動によってまとめてみた。やはり夜行バスは朝と夜の時間が有効に使えるのが良い。時と場合によっては今回のように、飛行機や新幹線よりも時間が有効に使えるように思うのである。
さて、まずは奈良の橿原市立図書館で文献を調べてから、吉野町に向かう。徐々に木々は青々としてきて、飛鳥の古都を偲ぶような風景が広がっていた。まだまだ夏とも言えないような曇り空。これから雨も降りそうな重い空気感の中、修験の行事は今、始まらんとしていた。
12時には吉野駅に辿り着いていた。吉野の山は急坂。現金をほとんど持ってきておらず、ケーブルカーに乗れず、機材を抱えて急坂のハードな道を登る。青々とした山々が徐々に遠くまで見られるようになってきて、ケーブルカーの頂上の吉野山駅に到着。そこからはさまざまな露店が並んでおり、paypayを使えるお店で、五平餅とあとで桜葉入りの団子も購入。柔らかくて非常に美味しかった。それから黒門と仁王門を越えると、今回の行事の舞台となる蔵王堂に到着した。吉野駅からは30分もかかからなかった。

到着と同時に、太鼓の音が聞こえてきて、どうやら太鼓台が出発したようだ。12時半に地蔵堂を出発した太鼓台をひたすら追いかけた。基本的には寺社仏閣や鳥居の前など要所要所で、「えーらいやっちゃー」「◯◯せよ!」などと叫びながら、太鼓台を上に押し上げて、カエルが手を振りまくるという箇所が何度もあり、その後に休憩という流れが何度も続いた。最初は勢い盛んだったが、徐々に疲れを見せる時もあった。
まずは勝手神社にいってそこからUターンして、今度は僕が歩いて来た道を戻り、ケーブルカーの吉野山駅へ。「観客は参道の隅に避けてください」「太鼓台に近づかないでください」などとしきりに担い手や警察の方々が声をかけて回っていた。狭いところを大きな構造物がUターンしたり移動したりするというのは、なかなかに難しいハンドリングが必要なのである。


少し雨が降ったりして、休憩が長くなってきたので、合間を見て見晴らしの素晴らしい茶屋で葛の素麺をいただいた。美味しすぎた。水がきれいだからか、ソーメンの味も清く澄んでいるように感じられた。
観客の様相も面白かった。カエルを見た瞬間に笑顔ハツラツとしてカエルのバンダナ被った人が、「あのカエルに頭噛まれたいねん」と言っていた。それから小さい女の子はカエルを見た途端に大声で泣き出した。お母さんが詳しく聞きだすと「カエルに噛まれるかと思った」と言う。獅子舞でもあるまいし、頭を噛むという所作はないはずなのだが、なぜか頭を噛むということが連想されるらしく大変興味深いと感じた。もしかすると、大口という特徴があるからかもしれない。
それから、カエルが蛇目を持つことに気がついた。蛇目は龍とか蛇の系統かと思ってきたけれど、どうやらカエルもこの系統なのだと知った。カエルの着ぐるみ頭だけ被ってる人もいた。ライブ配信してるのかもしれない。
15時ごろ、山伏行列もケーブルカーの吉野山駅を出発したようである。そして、太鼓台の出発の後、まもなく山伏行列も到着した。まずは蔵王堂の中で法要が行われていた。法要の途中でカエルが出てきて、蛙飛び行事の定位置の畳の上にずっと正座していた。おそらく30分近く正座をしていただろうか。かなり辛い時間であろうが、周りの観客(特にご高齢の女性)たちが「足つらそうね」などと口々に労わるような声掛けをしていた。
僕は15:12には蔵王堂前で場所取りをしていた。16時から蛙飛び行事なので、まだまだ時間があるのだが、それでもこの時間でもすでにかなり多くの人が場所取りをされており、最前列はすでに埋まってしまっていたので、2列目に陣取った。蛙飛びが行われる通路の正面に位置取りできて本当に良かった。
蛙に接近....!ずっと何時間も蛙の動きをされており、暑くて足が痛そうだ。踏ん張っておられる。山伏の験競べにより人間はカエルの身体を獲得しているようである。







蛙飛び行事のあと、帰ろうと思っていたのだが、あまりにも異様な空気が蔵王堂の周りに立ち込めていて、立ち去ることができずずっとその場にいた。どうやら結界が張られており、そこで大量の木の葉が集められ、祭壇が作られている。そこに蛙飛び行事を終えた山伏たちが参集してきて、法螺貝を吹き、太鼓を叩き、そして声を張り祈りながら、また違う行事が始まったのだ。「採灯大護摩供」という行事のようである。
まずは四方に弓を射て矢が放たれ、そして、最後に中心に1発放たれる予定だったが、最後の1発が不発だったので、とある一方向に射て終わった。担い手はあっと声を出していたのでおそらくわざとではなく不本意ながら外したのだと思うが、それをやり直すよりは他の一方向に射たというのは非常に興味深かった。どのようなルールのもとで実施しているのかということは気になった。それから剣によって魔を祓うような所作もあり、いずれも男女に関わらず、非常に太くて大きな声を上げた。
最後、巨大な竹に火をつけて、真ん中に山盛りにされた葉に火がつけられた。水をかけたり、板を割り入れたり、下の方から火を付加したりして、煙は天に昇るように深く混沌とした様相を呈しており、空へと昇っていった。徐々に赤々とした火に変わり、木枠含めてその葉を焼き尽くしていった。ある程度焼かれたところで、読経や法螺貝、太鼓が静まり、そして、山伏の一行は蔵王堂の方に帰っていった。


異様な光景を目の当たりにして立ちすくむ。このような山伏の行事が、カエルの行事の後に、ひっそりと実施されているのだ。煙にあたり険しい顔をしながらもその行事に粛々と真剣な眼差しで向き合う姿は、印象的だった。男性はもちろん女性も、そのような荒々しい業に向き合っている。山伏修験の生々しい姿をみて、心が震えるような思いがした。行事の後、暮れかかった吉野山の山道を下っていった。帰りはもうケーブルカーはやっていない。そこで、行きと同じように歩行にて下った。ヤバ武士修行の姿がシンクロしてきて、やはり帰りはこれが正解だと思った。吉野駅に辿り着き、そこから京都にむかい、軽食を食べて銭湯に入って、バスで東京に帰った。
蛙飛び行事とは何か
さて、文献で知れたことについて振り返っていこう。この「蛙飛び行事」は毎年7月7日に実施され、蓮華会の一幕として実施されるものである。太鼓台の巡行、そして、その後の蔵王堂前での蛙飛び行事の流れである。担ぐ形式ではあるが、乗っているのが蛙なので神輿のことではなく、「太鼓台」と呼んでいる。ちなみに神輿は違うものが巡行していたが、寺院の行事で出てくる「神輿」とはどういうことなのかは詳しく調べられていない。
流れはこのように執り行われた(行事ポスターより)。まずは大和高田市奥田弁天池にて行事を行い、その後、吉野町の吉野山に移動。太鼓台が出るという流れである。今回、僕が拝見したのは、吉野山からの行程だったわけである。
奥田弁天池にて
午前10時:蓮取り行事
正午:採灯大護摩供
吉野山にて
午後0時30分:蛙太鼓台出発(聚法殿前)
午後3時:山伏行列出発(ロープウェイ山上駅前広場)
午後3時30分:蓮華会法要(蔵王堂内陣)
午後4時:蛙飛び行事(蔵王堂前)
午後5時:採灯大護摩供(蔵王堂境内)
なぜ奥田から始まるのかといえば、蓮華桶の移動のためということもあるようだ。また以前は奥田で延年が催されたそうだが、現在は実施されていない。奥田から運ばれた蓮華は吉野で一本神輿に乗せられて、この蓮華輿が吉野の蔵王堂に練り込むのである。この時、周囲を賑わせるのが太鼓台であり、昔は朝から練り込んでいたそうだが、現在は勝手神社からケーブルカーの吉野山駅の間を賑わすようである。この時登場する青蛙は蓮華会の開催を賑わす存在である。
蛙飛び行事の由来
さて、奥深い由来についてもみていきたい。以下、吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(1)によれば、以下のことが書かれている。
「昔白河天皇の延久年間のこと、金峯山に参詣する修験者のなかに、平生から神仏をあなどり人の苦しみを喜ぶつまらぬ男があった。この男は「行者と俺とどちらが尊いか、悪いといわれる俺が山上へきても何のさわりもない。いくら行者でも仏の力でもこの俺にかなわないと見える」といって笑い、行者を侮辱した。するとたちまちあたりは真黒な雲に包まれ、その男は鷲の窟の上にさらわれてしまった。さすがの男も「今日から真人間にたちかえりますからお助け下さい」と後悔して助けを求めた。すっかり改悛したのを見た金峯山寺の高僧がかわいそうに思い、「お前を助けてやるがとても人間としては助けられないから、蛙にして助けてやろう」と、呪をかけるとその男は蛙になり、窟の上から救ってやった。それから蔵王堂に連れてきて、蔵王権現の宝前で祈祷したところ、その法力によってふたたび人間に立ちかえることができたという伝説があって、蛙飛びの行事はその実演であるというのである」
この話は、実際に蔵王堂前でのアナウンスでも放送された、現代の蛙飛び行事における比較的公式の物語のようである。非常に驚愕の技であり、山伏の法力や蔵王権現の威力を感じる物語である。ここで重要なのは、直接人間に戻すのではなく、一旦蛙の身体を経由して、人間へと向かう過程である。実際に蛙飛びを拝見して、暑い中で膝を擦って飛んでいる姿は非常に辛そうだったので、そのような身体を経由することがある種、人の世に戻るための訓練であるようにも思えた。実際の経緯については詳しく学んでいかないといけないところである。
由来として伝わる話は実はもう一つあるようだ。吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(2)によると、以下のように記述される。
「なおもう一つ大和高田市奥田に伝説がある。それは、役小角の母刀良売が奥田の蓮池の堤で病を養っていた。夏のある朝刀良売が池中の社に詣でると、光輝いて池の蓮の茎が伸びて二つの白蓮が咲いた。そしてそこには金色の蛙が唄っていた。刀良売が茅を一本抜きとって蛙に投げると、蛙は片眼を射抜かれて水中深くもぐってしまった。その瞬間あたりを色どっていた五色の露も、一茎二華の白蓮も消えてしまい、蛙はみくい褐色にかわり一つ眼になって浮び上ってきた。刀良売は自責に堪えずついに重態におちいり、四二才をもって他界してしまった。母を失った役小角は発心して修験の道をひらき、吉野深山に入り蔵王権現を崇め、蛙の追善供養をおこなって母の菩提を弔うたという。毎年吉野から奥田にきて行者堂と刀良売塚に香華を献じ、蓮池の蓮を持ちかえり通りの峯通り祠(原文は「示→ネ」)堂に献じるのはこの蛙の供養であるという」
この蛙がなぜ登場するのか、そして奥田からなぜ蓮を吉野に持っていくのか、その答えがこの物語の中で示されているように思われる。修験道の開祖である役小角の話がここで登場するのだ。奥田は役小角の生誕地としても知られ行者堂がある土地だ。しかし、実際には作り話という説も強い。
そのほかには、このような話もある。白河法皇の病を治すため参内した高僧が、見苦しい装束を理由に追い出されるも、智謀を用いて門外から数珠と笠を操る不思議を起こした。その場所である戌亥の方角の礎の下を調べると虵(蛇)と蛙が埋まっており、高僧がこれを放つと法皇の病も治った。これが「吉野山の蛙飛びの会式」の由来とも言われる。しかし、後世の作り話とも考えられ、江戸時代にしっかりした縁起が伝わらなかったのは、蓮華会が勧進(人々に仏の道を説いて勧めること)を伴わず、あえて縁起を必要としなかったためと考えられている(3)。
蛙飛びの古来の姿
平安時代の熊野行幸の時にはすでに、この修験道の験競べというものが存在したようである。その修験道の行法がこのように今日演じられるに至っているのだ。蛙の他にも、どうやら石を跳び上がらせたり止めたりする呪法、刀や炎の上を歩いても傷がつかない火生三昧法や消除火炎法、難所・渡河・沙汰などに西風を吹かせる秘法なども存在するようだ。また出羽三山の験競べ、とりわけ羽黒山の松例祭などでは烏飛の神事があり、兎に扮した少年を山伏がひっくり返す。このような小動物の姿をかりて護法づけをする験競べの中のひとつとして、蛙に化たり戻したりする呪法があり、それを現在、遊覧化して伝えるに至ったのが、今日の蛙飛び行事とも言える。
四時堂其診の著「滑稽雑談」(正徳三年序)巻十一には、江戸時代中後期頃、正徳3年(1713年)の蛙飛びに関する記述があるという。以前は旧暦6月9日に実施していたようである。6月9日の夜、蔵王堂で行法が行われたのち、それが終わると、「僧が蛙の姿をした人を招き寄きよせ祈り殺す。蛙の姿をした人は堂外で湯水をかけられ蘇生する」とある。これはある種の「験競の遺風」とする。祈り殺したのは鞍馬の蓮華会との関連性もある(4)。一方で、文化3年(1806年)の「諸国図会年中行事大成」では、「行法中に無意識の状態で五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりしている。やや激しさが減退した感があるが護法づけの要素があり、これこそまさしく蛙飛そのものである」とする(5)。
明治維新直後から昭和3年までは中断しており、昭和3年に復活した時は、夜に蛙飛びを実施したのは江戸時代の伝統であったろう。一方で、奥田に向かう際の鉄道の利用や、祈り殺し、そして人間の背丈ほど飛び跳ねる様子は影を潜めて穏やかな行事として復活したようである。

蛙に変身する感覚が正反対になった
古来、この蛙飛びで「蛙が人間になる」には、まず大導師や脇師などにより行法や秘文が授けられて変身した。しかし、現代ではこれが「蛙が人間へと戻る」ための変身法へと転換されている。ここに「演出」が加わっており、現在でも「奇祭」などと言われるが、江戸時代にはそれどころではない激しいほどの「奇態」が存在したようである。金峯山寺史編纂室『金峯山寺史』によれば、以下の記載がある(6)。
「江戸時代の蛙飛では行法によって無意識に五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりして行法が終われば正気に戻るのであり、あるいはまた秘文を授けられて正気を失い蛙の所作をするのである。それが復興後の近現代では偈文・呪・戒などを授けられて蛙から人間に戻るのである。これは後述する蛙飛の縁起と関連する問題であるが、復興にさいして多くの人々に呼びかける必要から合理的な説明ができる縁起が求められ、その内容にそった演出が考案された結果であろう」という。

なぜ蛙という動物なのか
さらに、なぜ蛙に化けるのかという観点において面白い記述がある。なぜ蛙が出てくるかといえば、蛙が「吉野山の地主神」という説もある(7)。
また、「さらに蛙飛び行事の所作をみると、「護法憑け」の要素もうかがえる。もともと古代人は土地の精霊の存在を信じ、それが人間界に出現するにあたって動物の形、ことに大きい形、醜悪な形をとったりすると考えた。人間は生命を終ると神に昇華するので、彼等はこれをうらやみ、人間の生活を妨げようとねらう。したがって神に昇華できないさまよえる霊物となる。この悪霊も善神の霊がつくことによって逆に悪霊を除き罪穢を祓(原文は「示→ネ」)ってくれる神霊となると信じた」(8)
蛙が飛び跳ねる所作は精霊の躍動と悪心から覚めて正気にかえることを意味するという。非常に興味深い話である。
文中引用・参考
(1)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453
(2)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453〜454
(3)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P381
(4)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P369
(5)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P370
(6)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P378〜379
(7)宮家準「修験道の祭とシャマニズムー吉野山の蛙とびー」、佼成出版社刊『大峯修験道の研究』所収
(8)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P455
参考文献
吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P449〜456
金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P366〜383











































































































