橋から逆さに吊るされる獅子舞がある。2026年4月29日、長野県千曲市雨宮に伝承される雨宮の御神事を訪れることができた。3年ごとの実施であり、しかもコロナ禍を経て9年ぶりの通常開催ということで、今回非常に貴重な機会に立ち会えた。
夜行バスで長野駅に到着、そこから鉄道で屋代駅へと向かった。長野県に来たという実感が徐々に湧いてくる。やはり高い山が街と近いという印象を受け、そこに寂しさとか暖かさとか清らかさを感じるのだ。屋代駅で降りると、まずは朝に空いているデニーズに立ち寄り少しの時間を過ごしてから、千曲市立図書館へと向かった。ここであらかじめ文献を調べてから、30分ほど歩いた。
12時半には雨宮坐日吉神社の境内に到着。神社の前の通りを太鼓を打つ人々が練り歩いている。全国から人が押し寄せており、知り合いにも何人もあった。あらかじめ保存会の方に頼んであった冊子を購入し、場所取りをする。
いよいよ境内での踊りが始まる。神事の流れは以下の通りで実施された。振り返っていこう。
<雨宮の御神事の流れ>
13:00〜 本社前 朝踊り・城踊り
14:20〜 若宮社 踊り
15:45〜 北町 踊り
17:05〜 御旅所 踊り
17:40〜 若宮社 入り口〜本社 入り口 早駆け
17:50〜 大鳥居前 呼び上げ
18:05〜 御立ち会 化粧落とし・踊り
18:30〜 斎場橋 橋懸り・踊り
19:00〜 唐崎社 踊り
19:30〜 神社帰還 お道具納め
本社前で踊りの開始
まずは本社前での朝踊りと城踊りから始まった。初見の印象として、あまりクライマックスのない踊りだと思った。自然に始まり自然に終わる。淡々としており、脚色されていない感じがする。

基本的な踊りの構成としては、天狗面を被って高下駄を履いた「御(大)行司」を先頭として、「陰獅子」と「宝寿獅子」、そして神面をつけた「六大神」、作神様を表し鍬を振る「御鍬」、童子の「児踊り」6名と神前で小さなお宮をつけた傘を被る「中踊り」1名、そして、「陽獅子」2頭、そして、笛・歌・太鼓の諸役というような順に並んでいる。踊りの集団の四隅に獅子が配されている印象である。それで太鼓の音をベースとして、踊りが展開される。御行司の横には刀と大団扇が配される。大団扇には表裏で赤と白のマークが対照的に描かれている。とある担い手に「一番偉い人が持って歩くんだ。表を裏返す瞬間もある」と教えていただいた。

六大神

御鍬

太鼓
若宮社から御旅所へと町を巡る
それから大鳥居を抜けて若宮社に行き、そこでも同じような踊りが実施される。非常に神秘的な場所で、空洞のケヤキの御神木があり、とても堂々として佇んでいた。ここでの踊りが20分あったのちに、休憩となった。


その後、雨宮坐日吉神社の大鳥居の方面から、神輿が出てきた。甲冑武者や宝剣持ちなどもいる。神輿の担ぎ手は「ゆうとーゆうとー!」と珍しい掛け声をしている。たまに、子どもたちが「大きな声出したらお金もらえるらしいよ」と噂しあって、大声を出している場面がとても良かった。あと、途中に伝統的なお囃子が鳴る中で少しだれてきて、学校か習い事か何かで野球をしていると思われる小さな子どもが野球の応援歌を友達と歌い始めて練習をし始めた姿には笑った。このような厳粛な行事の緊張を溶かすような場面であった。
木の箱を紐で肩からかけている担い手(六大神役)がいて気になったので、これは「何が入っているのですか?」と尋ねてみると、「烏帽子です」とのことで、出して見せてくださった。人によって、木の箱に書かれている内容は違うらしく、その中でも位があるようだ。それがどうも出しづらくて頑張って出してくれた。「きっちり入っているんですね」。懐に入っていた牛乳パンが転げてしまって、そのことに気づかずに歩いて行ってしまいそれを手渡す。
また背中にはオンべという御幣のようなものを付けている担い手がいるので「何かに使うのですか」と尋ねてみると「特に付けておくだけですよ」と教えてくださった。神輿行列の各所に共通した紋が付けられており、これについて尋ねると「雨宮坐日吉神社の御神紋です」と教えていただいた。
それから、宝剣を立てる派の古老と斜めに持ち歩く派の若手との間に、揉め合いがあった。古老としては「見栄えが良いから、伝統だから」と宝剣をことあるごとに垂直に立てようとするが、若手はそんなこと気にしなくても持ち運びやすいやり方が良いと譲らない。伝統をどこまで継承するべきかの論争があり、非常に興味深かった。
途中、北町を経てそこから御旅所に向かうときに、神輿は若宮社境内を通らずに神輿行列と踊り行列の経路が違う箇所があったが、これは神輿行列の道幅に耐えうる道を選択したということらしい。

獅子たちが走り出す「早駆け」
比較的、御旅所までは淡々と進んでいくが、この行事の最も盛り上がりを見せるのが、早駆け、化粧落とし、橋懸りという後半部分である。
早駆けでは太鼓が早打ちへと変わり、一向は走り込んで、雨宮坐日吉神社の大鳥居の中に駆け込む。これはなぜ走るかというと、神霊の形をとった童子の行列がやってくるからだと言われている(この童子が何を示すのかはよくわからない)。

獅子のタテガミを剥ぐ「化粧落とし」
また、化粧落としでは獅子のタテガミを見物客が競って剥ぎ取るということであり、このタテガミを家の軒に吊るすと疫病払いになるとされている。また神棚や仏壇に備えると良いらしい。また箪笥に入れると、虫除けになるともいう。

獅子を橋に吊る「橋懸り」
そして橋懸りでは、沢山川にかかる斎場橋の欄干で獅子4頭が吊るされて、ロープで逆さに吊るされて徐々に水面へと近づいていく。この吊るされ方に関しては、橋の上流方向2頭、下流方向2頭という配置で、それぞれの2頭がオスとメスの対になっているようである。
そして、ついに水面についた獅子頭を前後に揺らして、激しくふり、災いや厄を水に流していく。怨霊の祟りも水に流して、田植えに向けて五穀豊穣を祈る行事である。獅子頭からこの時に化粧落としで剥ぎ取られていない残った和紙が川を流されていく。沢山川はまもなく千曲川へと合流し、そこから野沢温泉を越えて新潟に入り、信濃川へと注ぐ。そこから十日町などを経て寺泊に注ぐ。この日本で最も長い川に流される。この紙が新潟県にたどり着く頃、雨宮地区では小麦や玉ねぎの収穫を終えて、田植えが始まるそうである。
もともと橋懸りという言葉は能の世界でも使われるが、能舞台の「鏡の間」と「本舞台」をつなぎ、演者の入退場に使われる、廊下のことである。これは通路というよりは、それだけではなく、現世と霊界をつなぐ重要な空間という位置付けがある。まさに、今回の橋懸りでも、あまりに非現実的な光景であり、どこか霊界に続くような神秘さが見られた。もともとは小さな橋で行われていたそうだが、現在は落差が大きい斎場橋で実施されている。「斎場」と言えば葬儀場を思い浮かべるが、おそらくそういった冥界へと通じる場所であることは明らかである。
個人的にはこの橋がかりがロープ越しに、他人に身を委ねるという行為に大きな意味があるような気がする。これが村の絆を高める要素でもあると思う。担い手はこの後の唐崎社でのテレビの囲み取材で「今回9年ぶりの通常開催とのことでしたが、それ以上に今まで500年以上の歴史があるという由緒あるお祭りで、今回盛大に開催できたことがとても良いことだなと思いました。全国高齢化も進んでいると思いますが、だんだん若い方に引き継いでいくことも大事だと思いました。途中で獅子が上がらないという感覚にもなって体力が必要でしたね」というお話をされていた。橋懸りの担い手にも大きな責任感があり、それに臨んでいる姿がありありとわかるようなお話だった。



唐崎社での踊り、本社への帰還
夜の最後の演目。見物に来ていた方が「これは麒麟獅子舞に似ている。ゆっくりしていて、自然に始まり自然に終わるんです」とのことだった。紙を川に流した獅子はどこか、純粋無垢な存在として、今後、蘇生される魂のようにも思われた。それから社殿に戻ると、一行は本社の拝殿前の灯籠の周りを3度回転して、拝殿に礼を捧げ、そして道具納めの流れとなった。
行事の終了間際、最後の場面を見にきているおばあちゃんが「高い区費を払っているんだよ」と教えてくださって「いくらぐらいですか?」と尋ねてみると「5千円だよ」というお話もあった。地域住民にとって、非常に重要で大きなお祭りであり、盛大に盛り上げようという意気込みがあるからこそ、区費もはずむということだろう。
とにかく深い祭りだと思った。「謎が謎を呼ぶ祭りだ」と僕は口々につぶやいた。不思議で解明できないことがこれほどまでにたくさんあることに喜びを覚えた。なぜ紙を張るの?なぜそれを人々に分け与えるの?疑問は尽きない。


雨宮の御神事の歴史
ここからは文献等を調べた知識をはじめとして、情報を補足していくことで、この祭事の深いところに迫っていきたい。
神社と祭事の始まり
この神事の歴史は500年以上とも言われており、その始まりは鎌倉時代に遡るという話もある。というのも、雨宮と屋代に日吉神社が勧請されたのが、鎌倉時代に遡ると言われており、森・倉科・生萱・土口・雨宮の5つの村による雨宮坐日吉神社と八代村の須須岐水神社との合同祭事であり、非常に大規模だったようである。互いに山王社であり、山王信仰の影響をうけているわけで、滋賀県の日吉大社とのつながりが深く、また御祭神に大国主命(大己貴命)が入るわけである。また、4月の申の日にもともと祭りを実施してきた経緯があり、これは日吉の猿と関連しているのであろうと思う。社号はもともと「天ノ宮」だったそうだが、ある日照りの年に降雨祈願をしたら神霊の加護があり忽ち喜びの雨が降ったそうで、神徳をたたえて「雨宮」と表記を改めたようである。
女性の怨霊がきっかけ
この雨宮の御神事の由来について、日吉神社の勧請がきっかけだったにしても、その起こりに関する物語が伝わっている。それはなんと、豪族の浮気だった。『雨宮古老談』(1623年)という資料には、このような内容が書かれている。生仁(現在の長野県千曲市生萱)の豪族である「種津殿(たなづどの)」が矢代に住む「お飛礼(ひれ)」という女性と浮気をして、妻の「雲井の前」はそれを恨んで死んでしまった。それ以来、「雲井の前」の怨霊の祟りが村中に及んで、村人の狂乱や急死が続き、雷雨、洪水、バッタなどによる蝗害(ごうがい)などの天変地異が続いて、田畑が荒れて疫病が流行したという。
その祟りを鎮める目的で祭りが実施されるようになった。同時に、日吉神社、若宮社、唐崎社、姫宮などもこの雲井の前の怨霊をまつった場所だとされており、この行事の経路もこのことと関係しているように思われる。この祭りには怨霊を鎮め、疫病を鎮め、そして五穀豊穣を祈るという目的ができたわけである。なお、祭礼行列に組み込まれている中踊りの役は、「雲井の前」を表しているという土地の言い伝えがあり、ここでは稚児が神の依代となっている。

中踊り
京都の祇園御霊会からの系譜
また京都の祇園祭の始まりは祇園御霊会であり、崇神天皇の祟りと疫病鎮めであったことを考えると、この系譜として始まったものとも考えられる。このような祭りでは、祭りの行列が艶やかな仮装を凝らして練り歩くものだが、これは京都のみならず、鎌倉時代以降に地方で流行するようになり、室町時代にはさらに遠隔地へと広がったとされる。
また獅子が橋懸りによって逆さまに吊るされて、川に向かうのは、厄を川に流すという「御霊送り」の意味を体現したものであり、ここには祟りの元凶である怨霊をはなやかな踊りやお囃子で盛大に送り出すという姿にそれが体現されている。これはある種、雲井の前の祟りの鎮送でもあり、中踊りの扇子がこの時に川に流されるのもその理由があると思われる。このようにあらかじめ祟りを鎮送することで、その眼差しは実りへと向けられる。この行事には田畑の豊穣を祈る意味があり、御神事の中に御鍬が入っているのは、その豊穣の予祝のためであろう。
祭事の体制の変化
天文22(1554)年の第1次川中島合戦では、雨宮坐日吉神社は武田方の本陣となった。明治時代に入ると、明治22年(1889年)の市町村制施行によって廃止された。その後、雨宮坐日吉神社の春季例大祭に際して、雨宮地区のみで3年に一度の御神事踊り奉納という形で、この祭事が現在も続いている。

雨宮の御神事の獅子踊りについて
獅子の頭数
この獅子については非常に珍しすぎて、何から書けば良いものかと考えていた。まずは獅子舞の頭数である。一人立ちの獅子舞の全国分布を見ると、1頭、3頭はまず全国的に見て、非常に多い。それから愛媛県や東北のしし踊りを考えると、5頭、7頭、8頭、12頭あたりも多い。二人立ちも合わせれば無論、2頭も非常に多いのだ。しかし、4という数字は獅子舞の頭数では飛ばされがちである。それが、今回はなぜか4頭だった。しかも全て一人立ちだ。これは非常に珍しいのだ。もともとは5つの村の合同で催事が催されていて、雨宮以外の4つの村がそれぞれ獅子を一頭ずつ出して計4頭となっている。
獅子の配置
獅子の配置は陰陽五行にもとづいたものだろう。陽獅子2頭、陰獅子2頭の構成であり、陰獅子のうち、神社拝殿(御行司)側からみて左手にいるのが宝珠獅子である。その名の通り、頭に金色の大きな宝珠を抱いており、その対となる陰獅子には角がついている。これは左大臣、右大臣と同じ考え方で、左の宝珠獅子の方がより位が高いという格式を示す。その他の陽獅子にも角がついている。この陰獅子と宝珠獅子の配置を見ていると、どこか、東京の浅草神社のびんざさらの時に出てくる獅子の様相を思い出すのだが、この配置は古式に則ったものだろう。それからこの陰獅子と陽獅子のうち、陰獅子がいつも先頭に近く、上座ということになっており、陰獅子を「めじし」と読むことから「雌」となっている。これは黒い紙を歯として貼り付けていることから、「お歯黒の特徴」が見られ女性的である。そして、末座には陽獅子が配されて「おじし」と読むことから「雄」となっている。こちらは銀の紙を歯として貼り付けている。

宝珠獅子

陰獅子

陽獅子
紙による厄祓い
それから、この獅子には「1200枚以上の紙が貼られている。和紙はたくさん購入してくる。」と担い手から伺った。ふさふさの紙の中には目玉も取り付けられているようである。花が非常に大きく、赤い色をしている。この紙は厄を祓うという役割があるのは明白で、獅子の頭を振るのもこの紙を振るためであろう。そして厄を振り切った獅子はその穢れに触れ続けた紙を化粧落としによって剥いで、そして斎場橋で川に流すのである。祝福を与え、そして厄を祓った獅子はその橋懸りののちに、唐崎神社でその一連の行事の踊り納めをする。剥き出しになった獅子は、やり遂げた実感を持ちながらも、夜の闇の中で秘めやかに踊り輝くのである。
動きは座った状態とうつ伏せに寝た状態では右に振って左に振ってという比較的シンプルなもので、立った状態になると回転するなど動きがやや複雑になるような印象だった。各場所で動きは比較的似たような感じだったが、唯一、雨宮坐日吉神社の拝殿前では、うつ伏せに寝るという動きがあったことを思い出す。
それから踊りの集団の四隅に獅子が配されていることは非常に興味深いもので、関東一円に伝承される三匹獅子舞では舞う集団の四隅に4名のササラが配置される。今回の神事ではこのササラの位置に獅子が配されているというのは非常に興味深い事実である。ある種の結界を形成する異類としての存在が、獅子の概念と共鳴したのかもしれない。



御頭神事との共通点
この獅子舞に関して、伊勢の御頭神事との共通点が見られるというのは、新しい発見であった。それは例えば以下のような共通点がある。
・御幣としての紙を獅子頭に大量に貼り付けて舞い、後にそれを人々はもぎ取るという行為の存在
・後半で獅子が走り出す場面がある
・切り払いや橋懸りのような厄の消滅を促す行為があり、それが村の外れの他村との境界で実施される
以上の3つの観点が大きいように思う。そこに疫病退散という意図も生まれる。今回、現地に見学にいらしていた有識者の方がちらっと「御頭神事は火で、雨宮の御神事は水なんですよね」とおっしゃっていたのが大変興味深かった。確かに、厄を何によって滅却させるかといえば、御頭神事は松明の火であるし、雨宮の御神事は沢山川という川の水に流すという行為につながっている。また御頭神事の中でも「掛橋の御頭神事」では、舞い出した獅子が水面に顔を映す場面があるという。
北信州には長野の大神楽系の獅子舞は数多く分布しているが、それらが広がる前の御頭神事が広く勢力を持っていた時の古風を今に伝えているのかもしれないと感じる。
一人立ち獅子舞の分布域
それから今回の獅子舞をはじめ、南信州よりも北信州に一人立ちが数多く分布するのはおそらく縄文文化に根ざした生活風土が最後の最後まで残ってきた土地だからだと感じる。鹿や猪などの狩猟文化と一人立ちの獅子舞とのつながりが深かったからであろう。東北のしし踊りから関東の三匹獅子舞へと続く分布帯の最西端はこの北信州の一帯であると位置付けることもできるかもしれない(これは雲浜獅子や宇和島の鹿踊などの大名転封による伝承ではなく民間伝承や生活文化の結びつきの中での広がりによって点ではなく面的に分布域が決定していく由来を辿ったときの考え方)。その一方で南信州には大型の屋台獅子、籠獅子などが分布し、大型の獅子舞の宝庫となる。この差異は文化圏の違いとして面白い特徴を見せているように思う。
参考文献
長野県教育委員会『雨宮の御神事 長野県無形文化財調査報告2』(1965年, 長野県教育委員会)
雨宮御神事踊り保存会『雨宮の神事芸能(御神事)』パンフレット(作成年不明)
長野県神社庁・監修『信州の神事』(1990年, 銀河書房)
春原 英一『雨宮県村誌』(1959年, 雨宮県村誌刊行会)
信濃毎日新聞社編集局『信州の芸能』(1974年, 信濃毎日新聞社)
更埴市史編纂委員会『更埴市史 第二巻 近世編』(1988年, 更植市)