青森県・下北半島の能舞と獅子舞を訪問、500年の歴史によって洗練された知られざる舞いとは?

2025年1月3日から4日の日程で、下北半島に滞在。日本最初の原子力船が生まれた地にして、日本最古の原始を残す地とも言われる下北半島の能舞と獅子舞を訪れた。

今まで八戸の鮫神楽などは訪れていたが、それより北にはなかなか行けていなかった。しかし、以前から国指定無形民俗文化財のリストを眺めていて、「下北の能舞」という芸能があることは知っていた。下北半島には能舞が国指定で、獅子舞が県指定、そして神楽もあるという3種類の芸能が根付いているようだ。いずれも全国に存在する獅子舞の芸能と近い権現舞を有している。県指定の「獅子舞」は能舞と同じくさまざまな演目を構成する総称的なものであり、そこに権現舞を含んでいるという形である。つまり、全国的には獅子舞といえば獅子頭と胴幕を被って舞うものと理解されるが、ここでは権現舞、翁舞、道化舞などさまざまな演目の総称として、「獅子舞」という言葉が登場する。また「能舞」と「獅子舞」の違いは拍子にあり、能舞は5拍子なのに対して、獅子舞は3拍子である。

今回は青森の地域芸能をinstagramに数多くアップされている吉田ゆかりさんと繋がり、各団体をお繋ぎいただき訪問が叶った。能舞と獅子舞の違いも知ることができた充実した2日間の滞在を振り返る。

三沢市織笠稲荷神社の獅子舞に遭遇

八戸駅近くで朝9時にレンタカーを借りて、下北半島へと向かった。路面は基本的にずっと雪や氷に覆われており、ハラハラしながらの運転となった。ゆっくりと車を走らせる。途中、三沢市で道端を歩いている獅子頭を被って歩く集団に遭遇した。すごい場面に偶然出くわしたものだ!今日は日程にも余裕があるのでぜひ見たいと思い、車を止められる場所を探して10分くらいうろうろしたのち、先ほどの獅子舞を走って追いかけた。

お囃子の音色の方へ向いていくと、玄関の前で待っている獅子舞を発見!横にいる関係者に「通りがかりの者ですが、見ていっていいですか?」と聞いたら、「うんいいよ」と言ってもらえて、ついて歩くことになった。そうして尋ねないといけないくらいに小さな村で関係者しかいない状況だったのだ。どうやら剣や鈴を持ってシャンシャンと鳴らし、優雅に舞う獅子舞だと思った。おそらくその舞の形態や所作を見るに、三重県伊勢大神楽の影響を色濃く受けた神楽系の獅子舞であろう。玄関前でお米を受け渡す様子も見られて、五穀豊穣の予祝的な意味があるのかもしれないとも思った。また大太鼓と小太鼓を繋げて一人の人が背負っている姿が見られてこれは珍しいと感じた。

この地域の獅子舞は、朝から開始してお昼には終了するという。普段はお正月の他に9月の収穫後に行うようだ。僕がこの獅子舞と遭遇したのがすでに11時を過ぎており、最後の織笠稲荷神社の奉納の舞いまでついて歩くことにした。「気合い入れなくっちゃ!」「これもご縁だから」と担い手の方々は気合いを入れて舞ってくれた。隣町の獅子舞は海外にいくなどして活躍しているというが、自分たちはそれほどでもないという意識で行っているようだ。しかし予想に反して素晴らしい舞いを見せていただいた。

写真を撮影したので「これを後ほど送りましょうか?」と言ったがあまり反応が芳しくなかったので、最後に神社で獅子頭を納めるときに千円をお賽銭箱に入れたら喜んでくれた。お賽銭箱に向かうとき、蛇の絵が見えたので、今年は巳年だなと思い出した。「いい思い出になりました。もう町内の人だな」と慣れた感じで送り出してくださり、その場を後にした。さて、下北半島の先端、東通村へと車を進めることにする。


入口の獅子舞①屋固め

2025年1月3日15時から1時間ほど、家の祓い清めのための「屋固め」を見学。ここで初めて下北の獅子舞を拝見することができた。「屋固め」という行事は基本的に1月3日に実施すると決まっており、新築の家ができたりリノベーションが行われたりすると実施される。ただし、申告がない場合は実施しない。今回は地域おこし協力隊が入って入口地区にゲストハウスが昨年に古民家をリノベーションして開業されたので、実施に至ったようである。クラウドファンディングで建てられたゲストハウスだ。玄関を入ると民家の暖かい雰囲気の和室の空間が広がっていて、協力者のお名前が壁面に書かれていた。さて、屋固めが時間通り始まった。

屋固めの流れは基本的に権現舞の流れと同じであるが、少し長めに行われる。主に権現様が家の中にある柱を噛んで回るような所作や松明を燃やして足で踏み消す所作が盛り込まれていて、これは非常に驚いた。家の中で火を起こすことが逆に火伏せになるのだ。これはある種の呪術であろうが、火事の時に対処する感覚を身体的に養うという合理的な見方もできると感じた。下北には知られざる獅子の風習がまだまだありそうだ。

岩屋青年会の能舞 舞込み

その後、2025年1月3日17時〜22時の日程で、岩屋の集会所にて、岩屋青年会の能舞が実施された。演舞前の準備として、ビデオカメラが設置されていた。幕の内側から外の様子がわからないので、ビデオカメラで中継して進行の様子を幕の内側に伝えるという意図のようだ。幕の内側も見学させていただいた。楽屋のようになっていて、面が十いくつか紐で垂れさせてあって、担い手たちがその場で談笑していた。翁面は口の部分が紐で接合されており面の口が微妙に動く感じになっていて、12月が新しい面、1月が古い面を使っているらしい。面は基本的に古いので、誰が彫ったかなどはよくわからない。麺の内側の口周りが赤く染まっていたので「これは女性の口紅ですか?」と尋ねたところ、どうやら違うらしい。「最初っから赤かったんじゃないか」とのことだった。

さて、演舞はこのような流れで行われた。

権現舞
二 鳥舞
三 千歳
四 三婆
五 八嶋
六 忍
七 鈴木
八 拾番切
九 鞍馬
十 千秋楽

千秋楽は権現舞と似ているが歌が違う。ただいずれにしても、権現様に始まり、権現様に終わる。まさに神社の狛犬が阿吽であるかの如く、はじめと終わりを司るのがこの権現様という存在なのだろう。最終演舞を千秋楽と呼び、これは夕暮れを意味するという。非常に力強い2頭舞を拝見できた。歯を「カチッカチッカチッカチッカチッカチッ」と連続的に打ち鳴らし、2頭がピタッと噛み合う瞬間が本当にかっこよかった。ここでは2頭舞は非常に珍しいらしく、今回偶然にも拝見することができて本当に良かった。「足がドン!と地面を跳ねて舞うのが能舞の特徴。山伏が修行をするときの足取りの特徴を表しているとも言われています」とのこと。それを聞いて能舞を撮影をしているときに三脚がたまに揺れる瞬間があったが、あれは足取りが地面を強く蹴り上げるからだと思った。

演舞後の飲み会は24時まで参加した。興味深かったのは、岩屋の能舞の演目はどれも源氏とのつながりがあるということ。武士の世の中の始まりは源氏からであり、中世の面影を残す神楽の舞いは源氏にたどり着く。鞍馬、八嶋、鈴木など、いずれも源氏の武将を後世に語り継ぐものでもある。決して平家の物語ではなく、源氏の物語なのだ。そういえば秋田県阿仁の根子番楽は平家が没落後に各地に分散してその流れの中で伝えられたという説があり、山伏神楽や番楽全てが源氏系統であるというわけでもなさそうだが、いずれにしても源氏というキーワードは大きな気づきとなった。

「狐舞はよっぽど酒飲まないとあかんわな」ということで、良い頃合いに昔公開していた狐舞を少し披露してくださった。尻尾を股に挟んで毛を抜いて配って歩き、その毛をもらった人はそれを口元に当てるという強烈な内容だった。馬鹿騒ぎしている感じがとてもよかった。こういう下ネタの芸能は次々に途絶えているように感じるが、インドネシアのバロンダンスやレオクなどの芸能を一昨年訪れたときには健在だったし、一昔前は日本でも海外でも当たり前の演目だったように思える。こういう芸能の場は出会いの場でもあったわけだし、恥じらいや心の壁をとっぱらうものであるはずだから、僕はこういう演目はどんどん復活してほしいと思っている。集会所では舞いの公開をするだけでなく、普段の練習も実施しているという。

岩屋の能舞は鹿橋か田屋から習ったと言われており、似ているという話を聞いた(しかし、後に参考文献をあさってみると、東通村編集委員会東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年によれば、P529に「大利から伝えられた(中略)今では大利の舞とかなりの違いが出ている」と書かれているため、どれが事実かわからない)。また同紙のp530には「岩屋での口承では、この熊野修験が関西に戻るとき、能舞面など一式をあちこちで売ろうとしたが買い手がなく、岩屋まで来てやっと三両で売れ、それを旅費にした。後日、取り返しに来たが、領収書があったので、そのままになった」という。

岩屋の能舞の運営体制としては、青年会が組織されている。舞い手は得意な演目や動きから習い始めて、家ではDVDを見て練習する。「あれだけ長い舞をどうやったら習得できるんですか」と思わず聞いてしまうほどに習得に熱心である。青年会の周辺組織は年齢によって段階分けされており、子ども会、青年団、青年会、協力会と階段を上がっていく。子どもたちは小学生の頃から自然と舞いを覚える。「好きこそ物の上手なれという言葉もありますが、能舞が好きな人がどんどん上達するんだ」とのこと。「昔は厄年の42歳までが担い手を務めるが、今は人手不足で47歳くらいまでやる。それ以降は協力者として関わる」という。

また東通村編集委員会東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年, 529頁によると、「岩屋青年会は、昔は数え15〜40歳までの漁業権のある者、またはその子弟および貰い子で、12月の「もの決め」で加入が認められると、早速、内習いに参加するが、そうすればイワシ網を引くと半人分の分け前がもらえた。さらに、翌年の総会で正式承認されると、一人分が与えられた。規約に違反すると除名で、イワシ網の分け前ばかりか、漁業権までも失うことになったという」とある。つまり、能舞への参加が地域の漁業における経済的な恩恵につながっていたという事実もあるのだ。これはとても興味深い点だと思う。

森勇男『下北能舞ものがたり』11頁によると、「この青年会の「内習」は、「能舞」などの郷土芸能を習うだけが目的ではなかったということである。風俗・習慣など、部落の行事を主体に、部落共同体のさまざまな「掟」を体得するための修行団体であったわけである。だから部落の司やその家長たちは、後継者たちの考え方、在り方、いわゆる地域社会人としての日常生活に処する研修場として、青年会の「内習」に力を注いできたのである。(中略)考え方によっては、山岳信仰普及の一手段とされてきた「能舞」が、部落の長老や司から「内習制度」いう修練の「きまり」として取り入れられ、古くからの「部落制度」を守るための方法に置き換えられてきたとも見られるのである。娯楽というものがほとんどない、自然の厳しい北限のこの地で、青年たちのエネルギーの吐け口として、長老たちが考えだした生活の知恵でもあった。農漁閑期を利用した「内習」で青年たちを部落人としてしつけ、犯罪や不安のない体系作りをしたのである。(中略)手本といったものはなく、すべてが口伝えであり、身を持っての指導である。外の凍えとは別世界の、和やかな老若の人情、あたたかい雰囲気の中で、下北の冬はあけて行くのである」と。単なる郷土芸能の伝承にあらず、地域活動の伝承という側面も持っているのだ。

夜遅く24時を過ぎても、飲み会は続いた。日付が変わったあたりで僕はゲストハウスに帰るべく、帰路についた。車のフロントガラスは雪が凍って手でバリバリとそれを剥がさねばならなかった。凍てつく寒さの中で、この能舞はそれを跳ね返す暖かさを持っていると改めて感じた。

入口の獅子舞② 舞込み

ゲストハウスに宿泊した翌日、魚料理を白糠に食べに行くなどした後、2025年1月4日17時〜22時の日程で、入口かしわの館にて行われた入口の獅子舞を訪れた。元旦には門打ちという地域の家を一軒一軒回って短縮版の権現舞を行い、そして4日には舞込み(発表会)を行うというのが毎年の恒例となっている。今回はそのうち、舞込みの方である。演目はこのような流れだった。

一 鳥舞
二 籠舞
三 翁
四 三番
五 追分
六 鞍馬
七 ねんず
八 つきあげ
九 道化舞
十 虎ノ口
十一 権現舞

実際に拝見してみて、1演目あたりの時間が非常に長いと思った。平均的に1演目で30分は舞っているだろう。省略せずにしっかり受け継がれている証拠である。権現舞は屋固めの時と同様に非常に神がかっており激しいと感じた。途中、翁舞と道化舞が非常に印象に残った。翁舞は前半にイケメンが登場したと思ったら、後半に翁面を被っておどけ始めたので、そのギャップが素晴らしかった。翁は女子ども老人、年齢所属などの区分けなく、幕内に人々をさらうことを繰り返した。皆、いつさらわれるかとハラハラして、さらわれることに怯えるものも、笑い転げるものもいた。幕内に投げ込まれると、お菓子やお酒などをもらって出てきた。単に舞台鑑賞ではなくて客席との交流も魅力である。

道化舞はもはや漫才のようで、口が達者で笑いが起こって和やかな場となっていた。下ネタが登場した時に「コンプライアンスだから」というツッコミの言葉が登場して、地域のご年配の見物客たちを中心にどっと笑いがおきたのが印象的だった。急にカタカナ言葉が登場したから、それでみんな笑ったのだろう。実際は半分も聞き取れなかった。方言やその土地の言葉は、地域の人々の一体感を作り出しているようにも思えた。演舞後の飲み会の挨拶の時に、青年会の師匠にあたる方が「時代に沿って言葉を変化させている」とおっしゃっていた。「トラクターで耕すという意味の会話があって、昔はそのトラクターを「ヤタクタ」と言って笑わせてた。道理は皆じっと同じだけど、アドリブで笑わすんだ」という。ヤタクタは当時の人にとってどのような意味があったのか。崩し言葉にも聞こえるが、舞い手は流行りの言葉をすぐ取り入れられるらしく、ある意味そういう才能がある人が道化舞の役にふさわしいのだろう。

それから師匠の飲み会の挨拶で印象的だったのは、「皆さん本当に少ない人数で努力したことは涙が出るほど感激しました。特にねんずはああ、素晴らしいなと。あとは消滅しそうな歌を朗々とやってくれたことに感激しました。歌を中心にもっともっと入口青年会は発展してほしいなと思います。」とのこと。また他の感想として「ねんずをしているところは少なくて、虎ノ口はここだけです。あとは鞍馬で(義経が僧の)上に乗るのは初めて観ました。そして、道化舞もやりたいけどできない地域も多いです」という声も聞かれた。珍しい演目もしっかり継承できているようである。

ねんず
虎ノ口
鞍馬

青年団、青年会、協力会という流れで受け継がれてきた。しかし、約10年前に青年団は途絶えてしまった。近年は人手が不足していて、若い人と年配の方の人数の逆転現象が起こっており、協力会の人数が多いという。昔は青年会の方が多かったらしく今よりも演目数が多かったというが、今では協力会の方が人数が多くなっている。特に人の勧誘はしていなくて、自然とこの人は青年会に入るという流れができているようだ。

獅子頭むつ市の菊池建設の大工が10年ほど前に彫ったらしい。「菊池」というお名前...どこか気になるのは、東通村編集委員会東通村史ー民俗・民俗芸能編』P529によると、能舞を下北半島一体に広めたと言われる目名不動院の菊池英一さんが1984年に亡くなるまで続けられた春祈祷の話が出てきて、菊池家が能舞の中心的な家柄であったことと何か関連性があるのではないかとも感じた。ところで今の入口の獅子頭は耳が立っていないが、かしわの館に飾ってある写真を見ると、昔は耳が立っていたという。これは今、村の神社に保管されており、「隠居獅子なので見せられない」とのことだった。それで僕が書いた本『ニッポン獅子舞紀行』(青弓社)を見せたときに、「この写真の(愛知県愛西市の日置八幡宮(へきはちまんぐう)の日本最古の年記銘付き)獅子頭と似ている」とのことだった。ここでは巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』P379「神楽も各々その特色をもっているが、総体的にみて八幡系即ち海の神の信仰と山伏系とみられる山の神信仰に分けられる」との記述が参考になるかもしれない。それから獅子頭(権現様)は「クマサマ」と言われているらしく、これは「動物のクマじゃない。熊野大社や熊野信仰との繋がりがある」という。熊野信仰は八幡信仰と繋がりが深いので、ここで、愛西市とつながる何かがあるのではないかと思った。

夜23時すぎ、権現様を2頭、神社にお返ししに行くのについていった。一列の行列となり、お囃子を鳴らしながら進んでいく。海風が冷たく、少し吹雪いていたので非常に寒い。それなのに、薄い着物を纏って堂々と歩いている。この地に住む人は寒さに強いと思った。神社の2つの鳥居を潜りながら、凍りついた急な石段を一歩一歩、社殿に向けて歩いていく。社殿の中には右隅の天井に張り付くように、神棚が設置されていた。ここに権現様を2頭お戻しした。神棚に戻すというのは獅子頭が神格化された神様としてのあり方だと思ったので、これは権現様らしいと思った。下北周辺は何故か雌の権現様が多いらしいが、この地域はさてどうなんだろうか。明確にオスメスについて答えを持っている人はいなかった。また、今は神社の神棚に権現様が納められているが、昔は獅子宿と呼ばれる地域の家で保管されていたという。これは別当の家だったそうで、下北には修験者がいない現代において、その役割の人物が地域にいないため、神社に保管されるようになったことがわかった。

それから、帰り道に担い手の方から興味深いお話を聞いた。「肉食は12月の練習の時から食べねえんだ。家族みんな食べねえようにしてる。4本足がだめなんだが、2本足もだめな地域はある。血が汚れなんだ。それから、魚は食べてもいい。」なるほど、ここにも四肢にまつわる禁忌が息づいている。この根本精神に関して語るのは、巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』379頁の一節だ。「わが身を清め、六根といわれる目、耳、鼻、舌、身、意を清浄にして舞うのである。舞人は即獅子であり超人であった。関係者はすべて神前で身を清め前精進、後精進各々七日に及ぶ禁欲精進料理で懺悔と練習に励むのである」と。

それから入口では昔から獅子舞は「ししまい」と発音せず「ししめ(ししめい)」などと発音していたという。これは下北の訛りである。下北の獅子舞は入口の他に、袰部(ほろべ)のみであり、この貴重な獅子舞についてもっと調べていきたいと感じた。入口では今回訪問した1月4日以外だと、他には4月と10月の第二日曜日午前中に長窪稲荷神社にて、舞いを公開しているそうである。

雪の道を帰路につく

入口の獅子舞の懇親会を遅くまで参加させていただいて24時を回り、そろそろ時間が...と思い、僕は八戸への帰路についた。明日の9時までに、レンタカーを返さないといけない。夜通し走り続けよう。標準タイムは2時間の道のりであるが、その倍はかかるだろう。下北半島の雪はそこまで多くないが、半島は海風を強く受ける。そして、路面がとても凍るのだ。

ここ数日、鼻が詰まることが多く、本当に下北半島の人々は厳しい自然環境、寒さに対して、耐性が強いと思う。力強い能舞を見ていると背筋がピンと伸びる感覚があるが、それはこの厳しい気象を生き抜く人々という印象も重ね合わせて見ているからかもしれない。夜の街灯は青く光るところもあり、どこか寂しさもある。本当に驚くほどに青い光だ。直線が伸びる木々に囲まれた道を走ると、北海道の広大な大地を連想することがある。下北半島の海の向こう側には北海道があるのだ。岩手県に比べると、かなり北海道に近い感覚があり、自然の景観がそう語りかけてくる気がする。

下北半島の付け根、三沢市を超えて、六ヶ所村あたりからものすごい雪が出てきた。人の背丈を超える雪の塊と出くわすことも多い。ただし、下北に比べるとそれほど凍っていないので走りやすさはある。八戸市内に入ったときには、すでに午前3時を過ぎていた。ネットカフェで仮眠をして、清々しい朝を迎え、レンタカーを返した。雪道での運転は今まででも数えるほどしかない。しかも、今季初めて雪を見た。関東では雪が降っていない。寒さに耐えながら、風邪をひきそうになりながら、この下北半島に向きあったことで何か芸能に対する新しい感覚が開かれたような気もした。「悠久の大地」「寂しさ」「美しさ」などという感覚が呼び起こされた。機敏な感性が働き、何かが欠けたら自分の体調が狂ってしまうようなバランスの中に気高く生きる感覚もある。そこにありがたみの心も温かさも芽生える。そういう感覚の中で、能舞や獅子舞を受け継ぐこと。ただ事実だけではない体感をもってして、それを記憶したいという想いが芽生えた帰路だった。

能舞はなぜ生まれたのか?起源と歴史

さて、2025年1月5日はレンタカーを返したのち、八戸の私立図書館で文献を漁ってから千葉県への帰路についた。まずは能舞の起源に関してである。

能舞の確立背景については、森勇男『下北の能舞と義経伝説』7頁によると、「修験道密教的行法に、その当時普及してきた猿楽や田楽、そして延年舞などが取り入れられた新しい芸能の分野として生み出された」という。そして能舞の素晴らしさというのは本田安次著『山伏神楽・番楽』(1971年, 3頁)によると、山伏神楽・番楽は「能大成以前の猿楽、田楽の辺土に散った遺風が、今に脈々と伝承されているものであるらしい」とのこと。南北朝時代以降に形成された室町時代以前の形を今に留める、600年ほどの歴史を有するとも言われるのである。

巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P384によれば、「下北の能舞は熊野権現紀伊半島・和歌山)が発祥の地といわれている。神楽や能舞の根拠地京都から高野山の熊野路へ、そして信州の善光寺周辺を経て羽前羽後(山形秋田)へ伝わり、やがて陸奥へ広まったとみられる。東北といっても日本海岸の北陸から山形、秋田、そして津軽下北と伝わったものであろうが、現在では発祥地紀伊や北陸にはその姿は無く山形、秋田の一部と下北半島東部一帯に残されているに過ぎない」とある。ただし森勇男『下北能舞ものがたり』17頁には越後のお米と下北のヒバ(檜)材・海産物を交換する経済交易を見るに、その流れの中で伝わったという内容が書かれており、また同紙49頁には「こうした船には必ず恐山に入山する山伏修験者の姿があり、船主の方も、海上安全祈願にのために歓迎した模様である」とも書かれている。また祭囃子に関しては巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P382によれば、半島のほとんどが京都の祇園囃子系といわれる。根拠地京都説は根強いが、それから非常にさまざまな経路を経て下北半島に至ったことがわかる。

さて、恐山に入山する山伏たちが、能舞を確立して伝播させる基点になったのは、目名不動院(目名三光院)という場所のようだ。『東通村の能舞』1984年, 3頁によれば「東通村目名の目名不動院(目名三光院)を中心にした山伏が1500年ごろから活動して能舞を伝えた」そうである。『東通村史ー民俗・民俗芸能編』524〜525頁によると、「師匠どころとされている大利、上田屋、鹿橋では、いずれも能舞を始めた時期が不明である。大利では火事で文書が紛失してしまったものか古文書がなく、言い伝えでもどこから伝播したか分からない。下北地方に能舞をもたらした修験と目されている目名不動院ともなぜか関係が薄く、その春祈祷の回村には参加していない。上田屋では目名不動院との関わりも深く、師匠どころとして他に与えた影響は大きいが、やはり能舞を始めた時期は定かではない。また、鹿橋でも同様だが、目名不動院、田名部大覚院との関係が深く、比較的早くに伝えられたのではないか」という。目名不動院に舞道具一式が現存して周辺では最も古いようだが、その年記銘がないという状況で、能舞の成立年代の特定は難しい。

東通村史ー民俗・民俗芸能編』516頁によれば、「「能舞」の呼称を最初に記録した人は菅江真澄(1759-1829)だった」という。「夷舎奴安装婢(ひなのあそび)」の文化6年(1809)7月13日条に糠部郡の能舞を思い出しての記述がある。秋田県南秋田郡五城目町に滞在中の記事だ。その後、同村史 533〜537頁に詳述されていることには、明治政府の神仏分離政策によって山伏たちが退転して、能舞は山伏から村落の若者組に継承されたようだ。

また、下北の獅子舞についてである。
東通村史ー民俗・民俗芸能編』517頁によれば「東通村には入口と袰部(ほろべ)に「岡獅子舞」と呼ばれてきた獅子舞がある。明治の半ばに、岩手県二戸郡一戸町の小鳥谷からやって来た野里藤蔵という人が伝えたという、山伏神楽である。むつ市東通村では二戸や三八地方を「オカ」と呼んでおり、そこから伝えられた獅子舞なので「岡獅子舞」と称したのである。一般には、能舞も獅子舞、一戸から来た山伏神楽も獅子舞、そこで、前者を「五拍子」の獅子舞、後者を「三拍子」の獅子舞、あるいは「岡獅子舞」と呼んで区別したのである」と期限が判明しており、伝来者の情報も明確だ。そういえば「岡獅子舞」は「おかまい獅子」と呼ぶこともあるようで、岩屋の演舞後の飲み会ではそう教えてもらった。

そして興味深いのは、この能舞や獅子舞が下北半島でどう盛んになったかについてである。
森勇男『下北の能舞と義経伝説』8頁によれば「能舞も元来は山伏修行者の修行中の「験くらべ」が基本であったと考えられ、山奥の修行の中身をお互い出し合って、より以上の研鑽を積んだものなのである」という。なるほど、競争環境がこれほどまでに質の高い舞いを生み出してきたのだろう。

東通村史ー民俗・民俗芸能編』528頁によれば「上田屋での聞き取りによると、他村に能舞の指導に出かけた師匠は、目名不動院に従って春祈祷に歩いた者が多かったという。この春祈祷は、旧正月から一ヶ月、二ヶ月とかけて、東通村全域とむつ市横浜町六ヶ所村などの集落を回って、春祈祷や能舞を行なう巡業回村だった。不動院とかかわりの深い幾つかの村から舞い手をピックアップした混成メンバーであることが多かったから、舞い手は互いにしのぎを削ったし、迎える側の若者たちは優れた舞い手を取り入れようと努めたので、能舞の普及と伝承に重要な影響を与えたそうだ」とある。目名不動院が能舞普及のハブになったことは明らかである。

東通村史ー民俗・民俗芸能編』522頁によると、昭和以降の動きについては「各伝承団体が協力して伝承に努めるために、昭和39年に東通村郷土芸能保存連合会(会長太田善之助)を結成した。連合会では毎年正月10日頃に郷土芸能発表会を催し、各団体が一番ずつ演じている」という。

能舞・獅子舞共通の豆知識

書く場所がなかったので、ここに記しておきたい豆知識がある。演目が始まる前に毎回、スプレーで水を畳に吹きかけて、その上で舞っているのが面白かった。滑らないようにしているのだという。擦って歩くから水がすぐに乾いて蒸発するらしい。それから共通は御祈祷料を紙に包んで、演目の度に舞台に投げるということ。推しの演舞には投げ銭をするという文化があり、千円ほどを紙に包んで投げるのである。祝儀あるいはご祈祷料は奇数が頭につく数字が良いと言われており、3000,5000,10000円などを出す人が多いらしい。僕は入口の夜の舞いの後、食事まで参加するとのことで、少しだけ包ませていただいた。

能舞を見て感じたこと

さて、今回下北半島の能舞と獅子舞を拝見して感じたのは、日本の端に奥が深い文化は生き続けるということだ。下北半島蝦夷地開拓まで、京都から最も遠い極北として、中世以降その立ち位置を保ってきたように感じる。芸能は簡略化したり、世俗化したりするのは常であり、残すということが疎かになりがちだ。しかし、能舞や獅子舞は観阿弥世阿弥以前の能のあり方を現代に伝える意味でも残すことに非常に忠実であると思う。その舞いの素晴らしさは修験特有の験くらべをはじめとした競い合いの文化によって高められ、また地域コミュニティの継承という欠かせない一翼を担うことで、繋がれてきたのである。日本全体で忘れられてきた郷土芸能そのものの役割や精神性を思い出してくれる点で、下北半島の能舞や獅子舞はさらに再考されていくべきとも感じる。

参考文献
森勇男『下北能舞ものがたり』(北の街社, 1973年)
畠山篤『能舞 <鐘巻>の復原』2015年3月, P9
森勇男『下北の能舞と義経伝説』1996年10月, 北の街社, P7~8
巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P379/P382/P384
東通村編集委員会東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年, 516〜517頁
本田安次著『山伏神楽・番楽』(1971年)

震災を経て獅子舞の役割を再考する〜宮城県女川町の獅子振りを取材

宮城県女川町の獅子振りを訪れた。東日本大震災から復活を遂げて10年以上経った今、女川はどのように変化したのだろうか。震災は地域のつながりや祈りを再考させ、現代の地域社会において、獅子舞が最も必要とされた場面のひとつだったようにも思える。

なにしろ、大震災の前後で人口が10分の1になってしまった集落もあるという。でも、獅子振りは今でも続いている。そこで獅子舞が担った役割とは何だったのか。そういう想いがあり、毎年女川を訪れている東京文化財研究所の久保田さんについて歩き、女川を訪れた。

まず元旦に東京から仙台の夜行バスに乗り、そこから電車で向かった。女川駅に降り立ったのは、2025年1月2日午前7時半。女川駅を降りると正面に朝日が昇ってきて、新しく整備された商店街とその広々とした道を照らし、ああ2025年も始まったなと心を新たにした。駅の周辺には津波に流されず残った鐘が「希望の鐘」として設置されていたり、震災の爪痕を感じるような場所が少なくなかった。


宮ヶ崎の獅子振りにまず訪れようと思ったが、山祇(やまずみ)神社にはすでに人がおらず、早めに獅子振りは終わってしまったらしい。ただ、その神社の境内に「女川いのちの石碑」があり、それは非常に興味深いものだった。「①非常時に助け合うため普段からの絆を強くする。②高台にまちを作り、避難路を整備する。③震災の記録を後世に残す。」を合言葉として、この石碑が作られたという。また「ここは津波が到達した地点なので絶対に移動しないでください。もし、大きな津波が来たら、この石碑よりも上に逃げてください。」と書かれていた。それを呼んだ途端に津波そのものが現実味を帯びて感じられた。この土地には、津波が本当に来たのだ。山祇神社のある小高い丘を発見した時、そのどこか歪にそそり立つ丘が、津波の激しさを物語っているようにも思えた。さて、それから宮ヶ崎の獅子舞取材を断念して、石浜に向かい途中で久保田さんと合流して竹浦まで伺えた時のことを振り返り、今回の獅子舞訪問の記録としたい。



獅子振りとはそもそも何か?

獅子舞ではなく獅子振り。この呼び方は宮城県女川町一体でよく呼ばれる。やはり上下左右に振るという動作が多いようにも思えるし、この動作が呼び名の起源なのではと思われるが、正式な由来は定かではない。もともと近場の宮城県石巻市にて継承されている「雄勝法印神楽」の春祈祷などの影響があって伝わったとされるが、その起源も明らかではない。

獅子振りは女川町の中では、竹浦、石浜、小乗、宮ヶ崎、大浦、女川、まむしなどで受け継がれている(大浦は近年途絶えてしまった?という噂もあり)。獅子振りの流れや構成はおおよそどの地域も同じである。大太鼓と小太鼓がまず打ち始め、歌を歌いながら進んでいく。途中で獅子が出てきて、玄関や窓から家に入り一階のリビングや神棚のある部屋をぐるりとお祓いして、最後の歌の締めを歌って終える。地域によっては後半にさしかかると、獅子あやしが扇子を振りながら獅子と対峙する場面がある。


石浜の獅子振り、住民が10分の1になっても継承

さて急いで石浜に向かうと、熊野神社の鳥居の前に3人ほど人がいる。これは獅子振りをするんだとすぐにわかったので、待っていた。そしたら、山の中にある神社から音が聞こえて、ああもう始まってしまったと。それならば町廻りからついていこうと思い直す。神社から担い手が降りてきて、すぐに仲良くなることができた。この石浜という地域は海沿いに水産関係の工場が立ち並ぶ。一軒の家を舞ったのちに、すぐに工場廻りとなった。あまりに敷地の面積が広いがために、途中曲が変化するタイミングで、室内の窓を開けて、曲の転換の合図を送るような場面もあり、その意思疎通が面白かった。早い時間帯なので鍵が空いてない箇所は玄関前で舞い、空いてて稼働している施設は中まで入って舞う姿も見られた。それが終わると町廻りで家を山側から一軒一軒順番に回っていった。最後は集会所にたどり着いた。ここで振ってからお昼になってお刺身やお寿司をいただき、交流が進んだのち、途中抜けさせてもらって竹浦へと向かった。

どうやら地域内外の人が集って獅子振りを継承しているらしい。おそらく地域外の方を受け入れる寛容さを持った地域なのではないかと思った。舞い手の方によると「昔と比べると軒数は10分の1ほど、純粋な地域の担い手の数は7〜8人になってしまった。実業団は無くなってしまったので、熊野神社の獅子振り保存会を作って、受け継いでいます」という。もともと石浜に実家があって震災を機に地域外に出てしまった人などに声をかけて、通いの人を受け入れることで、この獅子振りを継承しているようだ。「仙台の手前の七ヶ浜というところから通ってきてくれる人もいます」とのこと。

七ヶ浜から通っている方は実家で小さい頃から獅子舞を見ていたという。「小さいときは獅子見たら泣いで。うわーって言って、獅子いないからねえと騙されて頭を噛まれてさ。昔はそういうもんだから布団かぶって寝てるようにしてた。獅子きてもいないようにしておいてって言ってさ。近寄ってくると気持ち悪くなってドドドドドって走って、あれ、まだやってるよとか言って。またダーーーーーって走っていって。痺れが起きるくらいにおっかなくてダメだった。でも今は好きになったけどね。でも中学校ぐらいの時から、獅子ついて歩くの好きになった」とのことだった。そんなに恐怖感があったのに、今では獅子振りを盛り上げる担い手になっているのだ。「胴体が長い方が強い感じ、短いほどゆったりした感じがする。石浜は胴体が長い」とのことで、それも怖い要因だったのかもしれない。獅子の演舞には、安全祈願、無病息災などの意味が込められているらしい。

それにしても人が極端に少なくなった地域で、担い手の伝統をつなぐ意思がそれを強いものとさせていることが伺えた。実際に町の人数が少ないのでほぼ観客がいなくて伺った家の家主や工場のリーダーだけ出てくるという状態で、獅子振りが進んでいった。これは地域の観客が多い竹浦との違いでもあったが、それでもやはり担い手の活気は充分にあるように感じた。

さて、石浜の獅子振りの特徴を見ていこう。獅子頭は耳が立っているが、これは鹿耳だと言われている。昔岩手方面から伝えた人がいて、鹿耳の獅子頭を作ったようである。しし踊りとは違う展開である。雄勝では流木で作った獅子頭もあり、こっちの方が原型らしい。あとはここら辺は獅子頭の目玉が飛び出ている傾向がある。獅子振りの歌は、獅子が田植えをするような意味にもとれる一方で、長者さんがお金たくさん出してくれますようにという願いが込められているようだ。実際のご祝儀は1万円くらい出すところも多いらしく、全国的に比較してみると金額は高い印象である。

終了後に集会所で飲み会があった。そこで、担い手である21歳女性に話を聞いたが、お父さんがやってて自分も兄も獅子振りに参加するようになったという。太いバチは手作りによるものらしい。小さくて太いバットのような作りをしており、「この太鼓の音聞くとあがりますよね!」と言ったら「そうですね」と笑っていた。




竹浦の獅子振り、地域を繋ぐ復興の象徴「座布団獅子」

さて、それから竹浦へと向かった。こちらの獅子振りの大きな違いは「歌、法被を着ていない、地元の観客が多い」などであった。家に2度入れていただき、より地域と近いところで見学させてもらってとてもありがたかった。それだけではなく、地域の方に昔話を伺ったり、集会所にある「座布団獅子」という大事に保管されている復興にまつわる獅子を見せていただくこともできた。

竹浦の獅子振りは、昭和の頃はお正月の2日間、昼夜問わず続けて行われたらしい。「俺の家にはいつも23時ごろ獅子が来てたんだよ。そんで布団から起こされて、獅子見て寝るんだわ」という話もあった。しかし、いつしか昼夜ではなく昼のみになって、しまいに平成以降は1日に短縮されたらしい。どんどん獅子の時間は短くなっていったのだ。獅子の歌が短くなったことや、毎回、獅子を振ったあとに飲み会が行われて一軒あたりに1時間以上を費やしていたというから、驚きである。「夜に獅子を迎え入れた時には、酔い倒れてよその人が居間で朝まで寝ている姿も珍しくはなかった」という。祝儀をもらったら「昔はバスを一台貸し切って、1泊2日で山形に温泉旅行も行った」らしいが、「今ではおとなしくなった」とのことだった。釣船や漁師関係の人は2万円〜3万円、それ以外だとご祝儀は5千〜1万円を包むという。海に関わるひとは儲かるから、ご祝儀もたくさん出して、地域に貢献するようだ。それを後程、名前で書いて金額も整理するらしいので、そういう時の見栄のようなものもあるのだろう。

2011年3月11日の東日本震災後、獅子振りの道具は全て流されてしまった。「直前まで船で沖まで出ていたから本当に危なかった...」と振り返る方もいた。震災後最大で半年間、一時避難として、秋田県仙北市のホテルに泊まっていた住民たち。そこで70代女性2人が生み出したのが座布団獅子だった。座布団を折り畳み、安全ピンで留めて、コーヒーの空き缶2つを差して目として、口は紙を挟み込み、耳はホテルの館内用スリッパを取り付けた。また、防災用品の中にたまたま和柄の布があったので、これを胴幕としたようである。お2人は裁縫の技術があったこともあり、この獅子舞が生まれた。それにしても身の回りにあるもので生み出した座布団獅子の創意工夫には本当に驚かされる。この座布団獅子は非常に人気を呼んで、後にアジア各地やアメリカから留学生が見学に来て、新聞報道されて瞬く間に有名になった。この獅子は地域住民同士を繋げたのだ。この座布団獅子の誕生はとても象徴的な出来事だった。地域住民にその話を聞いてみると、「座布団獅子は(復興の)原点を感じます。地域にとってなくてはならない結束のためのものです。太鼓や笛の音もいいですよね」とのことだった。


2012年に竹浦はHERMESの支援で、宮本卯之助商店で獅子舞道具を新調。竹浦の方が宮本卯之助商店の職人さんと結婚した関係で、東京での縁もできているようである。それから女川町全体で日本財団の支援もあった。日本財団は8億円を芸能復興に充てた。その時に記念として女川の獅子振りはなんと東京の六本木ヒルズで公演も実施した。翌年2013年のお正月には、新しい獅子頭で獅子振りが復活した。2015年3月1日には、イギリスのウィリアム王子が女川町を訪れて、その復興の様子を見学され、竹浦の獅子振りと太鼓の演奏を楽しむ姿も見られたという。

竹浦の獅子振りは震災後、非常に大きく復活を遂げ、地域内外で活躍を見せている。竹浦の担い手は金髪の人が多かったように思うが、やんちゃ仲間の祭り魂が大きく地域に貢献しているように思う。親兄弟の繋がりで小さいころから獅子振りに慣れ親しんでいるとすぐに太鼓も獅子も溶け込みやすい。竹浦ではこの太いバチを思いっきり叩いて、木の破片が少しずつ飛び散るほどの力強い女性の担い手もいた。どの地域も必ず女性の担い手がいて「みんなを盛り上げてくれるんだ」みたいな話を伺えてとても興味深かった。獅子振り大好きな人が集まって、団体の垣根をなくした有志の会を結成。夏の盆踊りのタイミングで、演舞を合同で披露したこともあった。何かあった時に協力しながらやっていこうということで、継承に向けて女川全体で集まりができてきているようだ。小太鼓は皆一緒で、笛は違う。笛はワンフレーズずつで繋いた。参加者は「今までは自分たちの地区のしか知らなかったけど、(獅子やお囃子の)違いもすごくよくわかって勉強になりました」とのことだった。2023年1月には、小学生による獅子振り隊という組織も編成されたらしい。地域の方から小学校に獅子頭が寄贈されて、それを使って子どもが校内や地域の商業施設などで舞っているようである。獅子振り継承に向けて非常にたくさんの工夫があることが伺えてよかった。


女川の獅子振りの組織について

さて、ここからは女川の獅子振りの総括に入るとしよう。石浜も竹浦も金髪率が高かったが、若者のヤンチャな人含めて、祭りの盛り上がりができているようにも感じた。女川の獅子振りの担い手はもともと実業団を主体として運営されてきた。これは企業のスポーツ組織でよく聞かれる実業団ではなく、地域の団体である。ただしこれが近年、保存会が立ち上がり、共同での運営に変わった。実業団だと地域活動をさまざまに担い、年齢層も30〜40代が多いらしいが、これが保存会となると獅子舞に特化して保存・継承していこうという目的がはっきりする。また、近年はまむしと呼ばれる獅子振り団体も立ち上がったそうだ。もともと有志による団体だったが、それが地域の民俗芸能として定着したという。女川には全域的に、獅子振りを継承していこうというムードが高まっているように思われる。


空間認識、獅子振りしやすい家?

また、今回の女川の獅子振り見学を経て、最も興味深かったのは「建物や空間に対する意識」である。津波の来た土地だからこそ、新しい住宅地と昔からの住宅地の境目がはっきりしている。同じような作りの家が断続的に軒を連ねており、これが復興後の新築の家だということはすぐにわかる。しかし、今も昔も変わらないのは、玄関やその脇の大きな窓から獅子振りの獅子が家の中に入るということだ。昔は大きな窓の目の前に縁側があったのだろうが、今は仮説的なベンチのようなものが置かれている場合も少なくない。そして例外なく、この窓が広くて開放的である。獅子は家の空間をお祓いして、そこで祓った厄をこの窓から外に放り投げるような瞬間がある。窓から可愛らしい獅子頭の顔が覗くようなこともあり、とても印象的な場面だ。

そして、獅子が家の中に入ってくるということはそれだけ空間が必要なわけで、大きい家だと神棚のある家が13畳ほどあるという。この神棚には花のようなマークの紙が必ず貼られていて、これは太陽を表すという。またそこに緑色の色も入っており、これはお米とか収穫を表すのだとか。装飾が豪華で紅葉の枝も使われており、それに飾り付けがされている。

竹浦では一家団欒のような場で座布団に座り、獅子が入ってきて体を揺すり、そして出ていくまでの一連の流れを見学させてもらうこともできた。円を描くように一階部分のリビングや神棚の部屋をぐるりと回ることが多かった。その回る途中に、家主や家族、その友人や親戚たちは頭をお祓いしてもらう。頭を噛むと言うよりは口を大きくあけてそれを頭上で左右に揺らすので、左右の肩から頭にかけて全てをお祓いしてもらうような感覚なのだと言う。この一連の流れを家の中に招待いただいて2回経験させてもらえてとても感激した。獅子舞及び獅子振りと呼ばれる芸能はやはり空間の浄化、祓い清めの役割があるという原点の深い意味を再確認できた。


あとは石浜の獅子振りでは昔、家の中の高い梁の部分に悪魔がいると信じられ、肩車をして獅子をふるという話もあったが、今では少ないようでこれも家の空間が変化しているということかもしれない。今回の滞在ではこの舞いを拝見できなかったので、またいつか見てみたいと思った。

女川の獅子舞まとめ

今回の訪問を通じて、震災を経た獅子舞から、獅子舞そのものの役割を考える貴重な機会になったと改めて感じる。震災後の獅子舞の役割、それは座布団獅子が象徴していたようにも思う。とにかく舞うことで地域が元気になる。これからも頑張ろうと心新たにできる。獅子舞はそういう大事な役割を担っているように思える。六本木での演舞、ウイリアム王子の訪問、数々の活躍の先に、獅子振りは復活を遂げた。小学校での演舞団体設立などの工夫も見られ、これらは震災を乗り越えてきた証でもある。

また震災後を考えた時に津波の存在をどこか脳裏に掠めながら暮らすため、空間の認識が変わったように感じる。どこまでが安全、どこまでが危険という考え方である。その中で新しく建てられた高台の新しい家。しかしながら、昔とほとんど変わりのない庭が広くて縁側に近い窓と座る場所があった。変わることのない獅子舞に優しい空間設計は、この土地そのものが持つ気質のような何かを表出しているようにも思えた。

帰りがけに高台に登って町を見渡して、「止まってる列車があのあたりまで流れていってしまったんですよ」なんて話を聞いて、当時の様子を今でも恐ろしげに思い浮かべながら、夜の真っ暗な海を眺めた。街は非常に綺麗になった。そして、10年で大きな復興を遂げた。大きな濁流に翻弄されながらも、その中にあって変わらない伝統が、この地で脈々と受け継がれている。震災は街を押し流した一方で、変わらないものを残った人々に提示した。獅子舞の役割はこの女川から語られるべきかもしれない。そのような気づきを持ちながら、18時ごろ帰りの電車に乗って女川駅を後にした。

なぜ延喜・天暦の時代に、獅子舞は増加したのか

獅子舞の起源を深く掘っていくと、不思議な事実にぶち当たる。それが、900年代に獅子舞が増加しているという事実である。延喜天暦の時代は「延喜・天暦の治」と呼ばれ、理想的な時代として考えられてきた。延喜年間は901年から923年までであり、醍醐天皇の治世である。また、天暦年間は947年から957年までであり、村上天皇の治世だ。この2つの治世はでは天皇親政が行われ、律令国家から王朝国家への過渡期となった時代である。王朝文化の最盛期にもなった理想の時代として後世の人々に語り継がれている。

この考え方は10世紀後半に出現し、11世紀に広まったとされている。鎌倉幕府の成立と後白河法皇崩御の際には九条兼実が延喜天暦の古風が失われたと嘆いたし、のちに後醍醐天皇は延喜天暦を手本として「建武の新政」を開始した。室町幕府を立てた足利尊氏は「建武式目」にて「遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ」と理想的な時代として語っている。時代を経て明治維新の原動力となり、皇国史観の考え方にも影響を及ぼした。この考え方は結局のところ簡潔に言うとするならば、「天皇を中心とした超国家主義体制」なのである。これは第二次世界大戦大東亜共栄圏の思想の裏付けにもなるような恐ろしい思想でもある。

ただ一方で、この延喜天暦時代には、平和ながらに日本文化が花開いたという側面もある。仮名文字が発達し、女流文学が発達した。確かに国風文学作品の年代を整理してみても、醍醐天皇以降、国風文化は開いた感じがある。

905年: 紀貫之らが『古今和歌集』を編纂

927年: 『竹取物語』、『伊勢物語』が成立

935年:土佐日記

954年〜974年:蜻蛉日記

996年〜1001年:枕草子

1008年:源氏物語

1020年〜1059年:更級日記

さて、このような時代に起源説を置く獅子舞が実は多いのである。

まずは栃木県の獅子舞の開祖とも言える天下一関白神獅子舞だ。天下一関白神獅子舞に伝わる「天下一神獅子由来之巻」という巻物によると、平安時代の延喜12年(西暦912年)に遡ると言われる。実際に三匹獅子舞が普及したのはおそらく江戸期以降なので、明らかにこの歴史は古いと感じる。それで詳しく調べてみると、「天下一神獅子由来之巻」は明治時代のようだ。明治期は神社の取り調べが活発で、それらを背景として自らの地域の獅子舞の権威付けと由緒正しい物語が必要とされ、それがどんどん具体性が増して長文の巻き物になっていったようである。その中で、明治維新の原動力ともなり理想的な時代とされる延喜天暦のうち延喜の時代に始まったと書かれたのだと推測される。

そのほかにも、延喜天暦の時代に始まったのが、谷保天満宮 例大祭 獅子舞(東京都)でこれは天暦年間と言われており、福地温泉村上神社 へんべとり(岐阜県)も天暦年間である。どこまで創作でどこまで本物の話なのか。それは定かではないが、この2つの事例はおそらくほぼ間違いないのではと考えている。谷保天満宮国府が置かれた府中に近い地理関係だし、村上神社のある飛騨高山は古い時代から朝廷とのつながりがあり飛騨とは、飛ぶような素晴らしい馬が生まれてそれを献上した国という意味である。村上天皇の時代にこのような平和を体現する獣としての獅子舞を出現させた可能性は大いにあるのだ。

ちなみに「日本獅子舞之由来」という巻物が関東一円の三匹獅子舞に伝わっており、高水山(東京都)や浦山(埼玉県)などに伝わっているが、これは1245年という後嵯峨天皇の治世がよく登場する。これは武士の時代であり、石清水八幡宮の文言も出てくるので、延喜・天暦の治よりは武家の時代という感じもある。これは先述の獅子舞との対立関係があるのだろうか。いずれにしても獅子舞は政治性を帯びるし、歴史はどんどん書き換えられていくのだろう。謎深い獅子舞の起源説について、もっと深掘っていきたい。

千年以上の歴史を誇る獅子舞、新しいヒーロー(担い手)を募集!東京都国立市・谷保天満宮の獅子舞

長い年月を受け継がれてきた獅子舞にはそれなりに理由がある。しかし、ここ数千年を見ても類を見ないほどに、現在、日本の地域コミュニティは変革を遂げている。しがらみからの開放という大きな自由を手に入れようとする若者たちがその最たる例である。その一方で、地域の画一化された風景、商業施設の波、チェーン店による個人商店の駆逐などは、地域のアイデンティティの問い直しという課題を突きつけてくる。「地域の何が誇りなんだ?故郷ってなんだ?」と問われているようだ。そんな時、地域の姿そのままの野生を保ち受け継がれる獅子舞のような民俗芸能、あるいは祭りこそが応答できる救世主なのかもしれない。

谷保天満宮の獅子舞の練習を見学

東京都国立市谷保天満宮の獅子舞は平安時代村上天皇の時代からつながる非常に古い歴史があり、それを今に伝えている。非常に魅力あふれる獅子舞なのにもったいないと思い、取材に伺うことにした。今年9月開催の例大祭の時に獅子舞を拝見したが、かなり長い舞いを忠実に継承されている印象だった。どうすればこの獅子舞は継承されていくのだろうか。2024年12月21日(土)、谷保天満宮の獅子舞の練習会&忘年会に伺った。

毎月第3土曜日の夜、20時から練習を行っているという。9月15日に獅子迎えの儀をして獅子を練習所に持ってきて、獅子の神主さんがお祓いしてから16日から本番まではしっかりとした練習期間になる。獅子舞の練習といえば、祭りの直前の2週間から1か月くらいで詰めて実施するのみが多いが、年間を通して毎月練習を実施するのは素晴らしいと思った。年間を通して獅子舞を考えながら生活することになるのだ。

まず最初の30分は練習の見学をした。畳の上に座って、歌詞の本に書かれた歌詞を忠実に、練習は進んでいった。雌獅子隠しや挿入歌としての岡崎の節は他の獅子舞と同様に残っていた。歌詞が全体的に情景描写が多いなと思った。「庭の柳が...」「鎌倉の由比ヶ浜が...」「やまがらが...」などである。担い手によれば、「獅子舞は京都の方から伝来したとも言われていて、息遣いが踊りと連動しているので、歌っている人が昔はおそらく体力自慢で舞っている。伝聞で書いたのだから、なんの歌なのかもわからない」とのことだった。またこれは旅人が歌った歌に思えるとのこと。なるほど、この歌の謎もどんどん解明されていくと良いと思った。

今回は獅子頭をかぶらない形での練習となった。獅子頭は一番新しいものでも200年の歴史があり、普段は他のところに保管しているようだ。1812年に火事があってその後に制作してもらったらしい。相当な歴史である。獅子頭の頭頂部のトウテンコウの羽の調達について、業者を見つけたいというお話もされていた。

雌獅子の後継者を募る

さて、練習が終了してから、忘年会と称した飲み会が始まった。飲み会の挨拶では開口一番、「後継者を見つけてください」とのお言葉。やはりみんな必死になって考えているようだった。周りの知り合いに勧誘するが、子どもは同意しても、なかなかそれに乗り気になってくれる親が出てこないという。とにかく谷保天満宮の獅子舞はきつさがある。長い期間担い手として携わり、獅子舞を受け継ぐものだから根気が必要だ。まず怪我をしてはいけないから、たとえば誘われてもサーフィンやスキー、旅行にいけないなど、何かしら普段の生活に制約を設けて普段の生活を送らねばならない。練習の前日に奥さんと夜の関係を持つと体力の消耗が激しいなど、家庭にも制約がでてくる。また、今は勤め人が多いから出張になると大変である。昔は長男はずっと地域にいるという感覚があったから、誘いやすかったのだという。

普通、担い手になる人は、谷保天満宮の氏子の地域の人が先祖代々から受け継いで、親もやっているから自分もやるというように世襲で獅子舞をしていく。だから、自分にほとんど選択権はなく、「この地域に生まれたから、獅子舞をやるのが当たり前」というのが従来の考え方だった。「男気としがらみで獅子舞をしたいたので、我慢しかない。親に言われたことは従わなきゃいけないと言う風潮があったが、今の人は割り切っている。獅子舞始めたら雌獅子、小獅子、大獅子で3年ずつスライドしていくから少なくとも10年、今では20年くらい、獅子舞を続けていかないといけない」とのことだった。

担い手になると、なかなか抜けることはできない。天狗役は天狗をずっと務める。獅子舞の頭をかぶれるのはたったの3人。雌獅子、小獅子、大獅子という風にスライドしていく。大獅子の人が引退したら、小獅子の人が大獅子を務め、雌獅子の人が小獅子を務め、雌獅子の新しい担い手を新しく募集するという流れだ。雌獅子は獅子頭が比較的軽く、踊りもゆっくりで雌獅子隠しの時は止まっている時間も長い。獅子がスライドしていくにつれて、舞いが徐々にハードになっていく。

あと興味深い話としては、谷保の人々は「人の目を見て話さない」という。担い手によれば嫁いできた奥さんが自分のことについて「目を見てない」と言われて「ああそうか」と思ったらしい。「だから自分たちは目を見て身振り手振りをしっかりして、担い手を勧誘しないといけない。やっぱりここは田舎っぽいところがあるんですよ」と言われて、なるほどなあと思った。岩手県に取材に行った時に口がこもっててなかなか聞き取れないおっちゃんがいたけど、やはりそういう人の心を開がないといけないし、そこら辺は地域性なのかもと妙に納得した。その一方で、谷保の盆踊りの女性の担い手は「そこまで(コミュニケーションで)困ったことないよ」という話も出てきて、これは主に男性の話なのかなと思ったけれども、多少認識の差はあるようだ。

広い地域から担い手募集、新たなヒーロー求む!

谷保といえば国立市で田舎に比べれば人口はまだまだ多いけれども、それでも担い手が不足しているのはやはり以上のような背景があるからだろう。従来なら氏子地域から獅子舞の担い手を輩出していたようだが、今では地域外の国立市という範囲で担い手を募集するという方針に切り替えたようだ。19年獅子舞の担い手をされていて、数年前に大獅子から引退した竹内さんは、「自分がはじめて氏子の地域外から獅子舞の担い手になった」という。もともと獅子舞の担い手と知り合いで、「谷保天満宮の祭りには神輿や万灯行列の方で関わってきたが、獅子舞にもぜひ関わってほしいと誘われて」という流れで、担い手になったようだ。やはり友人のつながりで担い手になるというのが、やはり入りやすいに違いない。

担い手になった時は「自分はヒーローになる」という気持ちで入ったという。「これも自己満足の世界なんだけど、でもやっぱり地域の人に認められたいし、取材してもらって大きく取り上げてほしい」とも語ってくださった。大獅子になるのは名誉なことで、「目立ちたい」「自分が1番になりたい」って気持ちで取り組んでいたのだという。「いつでも完璧にこなせることはなくて、毎回反省点ばかりです。雌獅子隠しの時に霧ができて、雌獅子が隠れる時の動作が複雑で難しい箇所」らしい。19年担い手を続けてきても課題はあるという。でもそれこそが獅子舞を続ける上でのやりがいになっているようにも聞いてて感じられた。

結局、自分たちは担い手獲得に向けて焦っていても、地域全体に担い手不足ということが伝わっているわけではなくて、その辺の差があることもわかってきた。谷保天満宮の獅子舞は格式が高く、やはり担い手になるには思いきりが必要。その分、完璧にこなさないといけないという責任も生じてくるようだ。やはり1時間以上の長い舞いにもなるわけで、生半可な気持ちで挑戦できるわけではない。しっかりと覚悟を持ってやらねばならない。その分、担い手獲得のハードルは高い。

飲み会の席を見渡す限りだと、少なからず担い手はいるようだが、「雌獅子の担い手に該当する人がなかなかいない」とのことだった。なるべくであれば20代から30代の若い担い手になってほしいよう。やはりこの獅子舞は完璧を目指していると思ったし、古式に則った1000年以上の歴史を受け継ぐってこういうことなんだと思った。

「獅子舞をすることでかっこいい!というモチベーションに繋がると良いのだけど」という声もあった。「たとえば、獅子舞の担い手は地域の飲食店にタダで入れるようになるとか良いよね。地域の人がお金出し合って、タダでご飯食べたり飲めたりできるのが良さそう。やっぱり地域のヒーローだから」とのこと。なるほど、これも大事だと感じた。

これからのアクションとしては、国立市無形文化財ということも大いに活用して、市の広報などで担い手募集の記事を書いてもらったり、交通量の多い道路に面した担い手の家に募集の貼り紙を貼ったりと工夫して担い手獲得に向けて動くようだ。また、議員さんにも声かけをしたいとのこと。また、夏に盆踊りが盛況だったので、そのスペースを使って15分でもいいから舞うことでアピールになるのではないかと。あとは会社員ではなく自営の商店街の人を国立で探していくそうだ。国立の南と北では暗黙の境界線のようなものがあって気質が違っていて、北の方からも協力を得る広がりが必要だという思いも伝わってきた。あるいは国立市のスポーツ協会に問いかけるのも良いかもしれない。

「いまは一人一人の勧誘に頼るのも限界がきているので、広く告知していきたいんです」。以前は明治神宮の鳥居の前でも演舞したことがあるというが、誘われたら谷保天満宮例大祭以外でも積極的に演舞していきたいという。僕としても獅子舞イベントの開催や書くことを通して何か発信できる機会を増やしていけたらと感じた。ぜひ担い手に関心を持った方は、ご連絡いただきたい。

谷保天満宮の獅子舞
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獅子頭制作21日目

茨城県石岡市での獅子頭制作も21日目。本日の工程は、ひたすら耳を彫るというものだった。以前に組んでいた耳の木組みが、継ぎはぎになってしまっていたので、先生が太めの木で新しく組んで作ってくれていた。

耳を彫るのはなかなかに技術がいる。表面を彫ってから裏側に行くのが通常だが、はじめから、裏側をどんどん彫り進めてしまっていた。表面を削るだけの面積があるか心配になるような時もあった。全体として曲線を描くように彫るのだが、どこかを削ればどこかを削れなくなるっていう感覚があった。

手順としては、大まかにノコギリで直線的に切ってから、それを丸くなるようにノミや小刀で徐々に削っていく。丸いノミがあると削りやすいが、僕は普通のノミしか持っていないのでちまちまと削っていく。中心線を意識して彫ることが大事だ。

あと、受講生が制作した木製のストッパー付きの台を貸してもらったが削ったり切ったりしやすかった。2000円ほどで材料を揃えて作ったようだが、これを手作りできるのはすごいと思う。

今日はいつも教わっている先生が2年がかかりの祭礼用の大きな獅子頭を受注したようで、それに専念するために、教室は本日までとのことだった。巻き毛のあたりから熱心に教えてくださり、やはり彫り方の大胆さとか、形の格好良さが際立ってたので、まだまだ学びたいことはあるがこればかりはしょうがない。亀の歩みではあるが、素晴らしい獅子頭を完成させられるよう、精進していきたい。

香港にて10年に1度の大祭「厦村郷太平清醮」を訪問、日本と比較して見えた香港の獅子舞の魅力とは?

日本の外に出ることで、逆に日本の国内について知ることができる。獅子舞文化も無論、そうだろう。東アジアの文化の中にある日本の獅子舞と捉えれば、いままでの謎も解明するかもしれない。そんな中で、一歩踏み出しやすい海外として、香港は大きな選択肢となりうる。中国はコロナ禍以降、ビザや手数料で万単位のお金を支払わねばならず、高い航空券代と合わせて、訪問が困難な国になってしまった。

獅子の故郷でもある、中国。そこに最も近いところに香港がある。香港はビザなし滞在ができ、香港エクスプレスで3万円ちょっとと、航空券もかなり安い。そしてなんといっても、今回、祭りを長年訪ね歩くジャーナリストともいうべき横山克恵さんと石川県加賀市でつながり、そして、今回、香港の10年に一度のお祭りである厦村鄉甲辰年太平清醮をご紹介いただいた。10年に一度という希少性があり、獅子舞も登場するとのこと。もっとこのお祭りを深く知りたいと思い、2024年11月10日〜13日の日程で現地を訪れた。10日は観光、11〜13日は祭り見学という日程となった。現地での滞在の様子を振り返る。

11月10日 香港を観光した日

祭り前夜にして、個人的に観光を楽しんだ1日であった。
訪れた場所について振り返ろう。

・チョンキンマンション(両替)
・朝食
・香港文化博物館
萬福寺
・モンスターマンション
・香港中央図書館
・夕食

萬福寺

香港国際空港について最初に感じたのは、甘い匂いがするということだった。食文化の違いだろうか。両替、オクトパスカード(Suica的なもの)の発行など、諸々手間取った。3時間空港にいて、やっとバスに乗って香港の市街地に向かう。山はこんもりとしており木が少ないところは荒々しく、島を渡っていく感じは日本のしまなみ海道のゆったりした波の小さな風景と重なるものがある。徐々に市街地に入ると、非常に高いビルが左右にそびえる。海に浮かぶ船はゆったりとしていたので、市街地とは対照的な時間の流れを感じる。

香港国際空港に再現された九龍城

2階建てのバスに乗ると、都市体験の幅が自由になれる気がする。大きく揺られながら、高い視点で移動が行われる。バス停で降りる時はあらかじめ出口付近まで降りていかないと降りられない。日本は「停車してから席を立ってください」というのが多い気がするのでその点では新鮮である。日本は建物も交通機関も高さ制限があるから、そこら辺が生活の視点をより不自由にさせているのかもしれないとも思う。

鰂魚涌の複合高層ビル「モンスターマンション」

建物の高さは異様であり、化け物にしか思えない。現実と非現実の狭間を生きているようにも思う。窓から地元民の生活が見える。洗濯物の干し方が独特だったり、竹とビニールシートで窓際を覆うようにして補修をしている家もある。画一的な設計のマンション、あるいは団地に多くの人が入居している。この背景には家賃の高騰やそれに伴う公共住宅の整備が進んでいることも要因として考えられるかもしれない。一戸建てが少ないということは、個人の住宅設計・改修の自由というのは、どこまで確保されるのか謎である。

食事に関しては比較的辛くない。日本人好みの味が多いと感じる。中国の奥地(雲南省貴州省)あるいは東南アジアのどの国に行ったときよりも優しい味だ。昼の食事ではお冷が出てきたと思ったらお湯だったこと、そして、テーブルの横に引き出しがあってそれを開けると長くて太い箸、フォーク、スプーンが出てきたことには驚いた。注文票で食べたいものをチェックして書く紙は、中国や台湾と同じだと思った。注文をとる速度は極めて早く、「これが良いですか?」などと聞いてくるので迷う間も無く食べるものが決まる。基本なんでもスピードが速い。例えばエスカレーターは日本の2倍速くらいのところもある。セブンイレブンでソイミルクを買った時は店員が在庫整理をしながらレジをしてるもんだから、はいはい!みたいなそっけない感じでよそを向きながら仕事をしていて、レジの会計が終わったのか終わってないのかよくわからない感じで進んでいってついつい「会計は終わりましたか?」と聞いてしまったのは面白かった。

獅子舞取材という点では、香港文化博物館と香港中央図書館に行けたのはよかった。博物館では無形文化財(非物質文化)の展示をしていて、中国伝来の獅子舞やその他の芸能の多様さを感じた。鳥取麒麟獅子舞は日光東照宮麒麟を模したという文献も過去に読んだが、おそらく中国の麒麟舞にヒントを得たものなのではないかとも思えてきた。香港の麒麟舞はここ200〜300年の歴史の中で継承されてきた芸能で、客家の移住者たちの文化である。また佐賀県の琴路の獅子舞に見られるような顔が平べったい噛めない形の獅子舞は、中国でも存在しておりこちらが祖型と思われ、中国では「鍋蓋のようだ」と呼ばれているという。展示してあったものには額に鏡が貼ってあり、それがどこか呪術的で印象的に思われた。また、香川県西部で盛んな猫獅子の形態について。中国でも猫型の獅子というものがあるが造形は全く異なる。普通の獅子頭よりも小さく、色とりどりの糸が束ねられたポンポンのような装飾が施されている。やはり西日本の獅子舞文化には、少なからず中国の獅子舞文化が大いに影響をもたらしていることを実感できた。

また、獅子舞や麒麟舞だけでなく、鶏舞、鶴舞鳳凰舞など多種多様な動物の舞いが存在することを知った。東京都の下平井の鳳凰の舞は、日本に唯一の鳳凰舞とも言われる(担い手談)が、中国にある写実的な鳳凰舞を人間に見立てて擬人化して表現したものなのではないかと思えてきた。香港、そして中国から日本の獅子舞を知るという流れはとても面白い。中華圏には木彫りの獅子舞がほとんど残されていないので、柳田國男の京都-地方比較に見られる方言周囲論的な視点に立てば、中央(中国)と周辺(日本)という構図が見られ、日本にもしかしたら祖型が残されているという予感もある。特に麒麟舞あたりは日本では今でも木彫りだからもしや?とも思う。外に出ないと内側のことはわからない。

香港文化博物館の非物質文化(無形文化)の展示

夜の香港の町を徘徊し、夕食を食べてホテルのチェックインへ。口コミ評価が高く、安い宿にした。安宿は、油麻地からチョンキンマンションあたりに集中している。沢木耕太郎のノンフィクション『深夜特急』にもチョンキンマンションが出てくるが、ひとまず、口コミ評価が高いところがなかったので油麻地の方にした。

11月11日 祭りの始まり

厦村鄉甲辰年太平清醮。10年に1度の記念すべき大祭だ。僕はこの祭りを訪れるために今回、香港に来たと言っても過言ではない。地元の人しか祭りの情報は知らない。現地でお祭りの活動をされていてその道に詳しい横山さんの案内で、この地を訪れることができた。

太平清醮は1週間にわたって行われる壮大な行事であり、驚くべきはその規模である。14村がひとつになり、この厦村鄉が形成されている。本日はそれぞれの村の神様がまずこの地に集う。そして、神様と共にやってきた、龍、獅子舞、麒麟などが次々と繰り広げられる。そして龍に魂を入れ、恐ろしい獣へと変貌を遂げ暴れ回る。そして、最後に厳粛な式典が行われ、もろもろのゲストが招かれるという流れだった。

この祭りは諸々厳格なことがある。それは肉や魚の持ち込みが禁忌とされており、パンに少し入っているとかでも許されない。しかし、海と接していて特産物とされる牡蠣だけは食すことが許されており、祭りの日の屋台には、40香港ドルで買える牡蠣の天ぷらがある。そのほかにはさつまいもの天ぷらなども見かけた。また、干支によっては会場に入れない観客もいて、例えば11日は酉年生まれがだめ、13日は亥年生まれはだめなどとのこと。お祭りは村人から代表者を決めて、その人が色々な儀式を道士と行うが、この村の一番の代表者との相性の問題らしい。日本以上に干支に対して敏感なのだということを知った。

そしてこの厦村郷太平清醮は香港で2番目に規模が大きな太平清醮と言われており、何かと桁が違いすぎる。まずこの祭りのために非常に大きな竹の建造物を制作する。劇場の仮設小屋のようなものだ。建物を建てて祭りが終わればすぐに壊すということをする。これは建築士が行なっているというよりかはもはや祭りの時に竹の建物を建てる職業が存在するらしい。中央の柱から三角型に裾野を広げていく方式だが、最終的には中央の柱を取り除き、そこを大広間として式典(儀式)などを執りおこなう。この建物、芝居小屋にも近いところがある。またこの建物やその周囲に取り付けられた花牌という巨大広告も見どころだ。大きく文字を書いたり、電球やキラキラした紙で光らせたりという目立つ外観が特徴的だ。竹で固定する枠などを使って作っているものの、先ほどの竹の建築とは違う流れで後世に広がったという。花牌はお祭り以外でも、以前は結婚披露宴やお店の開店などでも発展していたそうだ。以前は高い建物も少なかったのでこのような大規模建造物や花牌があると、遠くからでもよく目立つ。祭りをしていることを遠くまで知らせることができるのだ。それから竹の建造物の周辺の道にも大きな竹の看板が立ち並びその長さ1kmほどもあるだろう。日本では考えられない規模である。

その竹の構造物の内部と周辺には様々な張り子で作られたものがずらりと並んでおり、内部には地獄の様子を表現した人形たちや獅子舞、馬、そして、外部には巨大な地獄の番人や無常、大士王などが吊るされ置かれている。観音菩薩の化身である大士王のお腹の部分に小さな観音菩薩がいて、それをはるかに大きな大士王が聳え立ち存在感がある。知り合いの無常の研究者によれば、舌を出しているのは首吊り死体の様子を表すからだと一般的に言われているらしい。これらは祭りが終われば全てお焚き上げになるという。保管するのではなく、燃やすことでまた10年後に作ることになる。そのサイクルこそが無形文化の伝承であり、技術の継承でもあるのだろう。この祭りのためにどれだけ多くの人がどれだけの労力を払ってきたかがよくわかる。

さて、厦村鄉太平清醮の紹介が少し長くなってしまったが、本日の振り返りも行おう。香港の油麻地から電車で30分ちょっとの場所に天水圍という駅があり、そこから徒歩20分ちょっとで会場にたどり着く。メイン会場は廈村郷鄧氏宗祠前の広場であり、大きな門が目印である。会場に到着すると、各所に設置された「神」という文字が書かれた祠のようなものに、道士様と地域の方々が祈りを捧げていた。祭りはすでに開始していたようだ。「神様を正面から撮影してはいけないよ、特に道士様が神様と儀式をしている時はね」とのこと。実際にそうしてしまうカメラ小僧のような人はいるものだが、これは本来だめらしい。脇から撮影するのが本来の撮影マナーのようだ。

ひと通り会場内を祈り終わると、次は厦村郷全体の信仰の対象となっている神様をお迎えする。それが沙江天后古廟に祀られる海の神様であり、そのお迎えに立ち会うことができた。徒歩で行くと46分かかるらしく、お囃子隊のトラックに乗せてもらった。非常にありがたい。風に吹かれ揺られながら進んでいく。バーンバーンとシンバルのような音が響き渡る。移動は車だと10分ほどである。神様の廟に着くと、装飾が荘厳で赤い光に照らされており、どこかおどろおどろしい印象を受ける。今回の海の神様は、人形型でしかもお神輿のようなものにのせるようなので、非常に格式の高さが伺える。

厦村鄉全体の神様がメイン会場の中心に飾られたのち、山で降雨などの祈りが捧げられてから、今度は各村々から神様のお迎えが行われる。赤い紙に神様の名前が書かれており、それを串に貼り付けて芋に挿すというものと、人形型のものがある。

神様のお迎えの段階で、東三頭村から獅子舞が出た。メイン会場から徒歩10分ちょっとのところから始まったのでそれも拝見できた。黒白黒の3頭であり、頭頂部に角があり、植物の葉が付けられている。今回の滞在で初めての獅子舞見物である。厦村鄉各村々の神様のお迎えが終わると、登場するのが、このメイン会場がある村の神様である。

会場ではたくさんの出し物が行われている。新生村のピンクの衣装を着た担い手たちが一際目立っていた。勢い溢れる武闘者と龍舞、そして龍に乗る獅子舞がキビキビと動いていた。その場の空気が沸いているように思えた。

本日の後半のクライマックスは、龍に魂を入れる儀式だった。赤い紙が目のところに入れられている龍がやってくる。その赤い紙を取って、顔の各所に筆入れをするというのが魂を入れる儀式の内容だった。徐々に龍は震え始め、そして白い息を吹き、そして天を仰ぐ。フゥーーー!という観客の歓声が上がり、自分もそれに乗って声を出してみる。完全に魂が入った龍はまるで獣だった。恐ろしく上下に揺れ動き、白い息を吐きまくり、会場中を舞いまくる。これぞまさに香港の大規模祭り。感動しっぱなしだった。この龍によって道士も村人も観客はひとつになった。

この日の行事は夕方に概ね終了。その後、香港の中心部の方に戻った。夜は19時半から横山さんにお誘いいただき、蛇料理を食した。蛇の血を台湾で飲んだことがあるが、実際に肉を食べたのは初めてである。今回、サービス業系の労働組合の集まりで10人1組となり円卓を囲み、大量の蛇料理をいただいた。僕だけ労働組合員ではなかったが、かなりディープな集まりに誘っていただき感謝である。セキュリティつきのビルの2階にある空間に机が5〜10ほど並べられ、そこで蛇料理を食べた。普段ここは飲食店として営業している場所ではないだろう。そこにシェフを呼んで調理してもらっている形だ。予算は6000円弱。日本の少し高めの飲み会と同じくらいの値段だ。しかし、出てきた品々は高級で、1万円出してもなかなか食べられない内容だった。蛇のスープにはじまり、おこわに終わる、約10の品々。そのうち5品ほどに蛇が入っていた。蛇の炒め物、蛇のスープ、などなど。蛇の味は鶏肉のササミに近いと思った。本当にたらふく食べられて、よかった。最後にお土産としてカレンダーやご祝儀袋、タオルなどをいただいた。カレンダーは持ち帰りが難しかったが、お土産まで大盤振る舞いである。ほとんどの労働組合のメンバーとは、広東語が話しできないため、深い会話ができなかったが、日本人である僕を暖かく迎え入れてくれて、おかわりを率先して継いでくれたりした。香港の方々はこういう受け入れ精神が素晴らしいと思った。満腹となり、宿への帰路についた。

11月12日 村巡りの日

今日は朝から歩きっぱなしの日だった。合計17kmの道のりを30度の炎天下の中歩く。いわゆる村巡りの日である。相当に暑い。道士様と村の代表が先頭を歩いて、村の重要な場所を回っていく。公所と書かれているところはいわゆる集会所で、あとは廟と言われるものも回る。廟には14の村ごとのものと、郷単位のもある。全部回りきるには相当な時間がかかり11月12日、14日、15日と膨大な時間を費やさねばならない。

12日の村巡りの行程は以下のようであった。
(#は訪れられなかった祭事)

 

20241112廈村太平清醮行香

 

廈村市
#鄧氏宗祠 友恭堂 廈村市57號 (今年沒有拜祭)

 

錫降圍
0927 楊侯宮 神廳 鍚降圍51號B 廈村:楊侯
0937 圍門 錫降圍 廈村:金輪如意趙公元帥之神位,土地

 

祥降圍
0949 武帝寶殿 神廳 祥降圍35號 廈村
0957 圍門 祥降圍10號C旁 廈村:土地
#長春不老之神 細葉榕 祥降圍22號旁 廈村 (今年沒有拜祭)
#土地 祥降圍22號西面 廈村 (今年沒有拜祭)

 

新圍

1003 楊侯古廟 西頭廟 新圍229號 廈村:楊侯,車公,土地,天后之神位
#1033 井神 古井 維新堂旁 新圍40號 廈村 (今年沒有拜祭)
1014 圍門 新圍53號旁 廈村:土地

 

錫降村
1031 神廳 錫降村16號C 廈村:本村土主福德正神之神位

 

巷尾村
1045 土地 細葉榕 巷尾村18號旁
*1053 合義堂 巷尾村10號 廈村 (今年新增)

 

羅屋村
*1102 成慶堂 羅屋村55號 廈村 (今年新增)
1110 土地 細葉榕 羅屋村34號旁 廈村

 

東頭村
1120 楊侯宮 東頭廟 東頭村 廈村
1128 本境社稷神位 楊侯宮旁 東頭村 廈村 (青松唸經, 但緣首沒有上香)
1130 燕寧堂 東頭村59號 廈村
1140 圍門 東頭村1號旁 廈村 (青松唸經, 但緣首沒有上香)

 

緣首乘車!

 

鳳降村
1203 土地 鳳降村洗手間旁 廈村
1210 胡成光祖家祠 安定堂 鳳降村1號 廈村
*1216 井神 古井 鳳降村61號旁 廈村 (今年新增)
*1222 鳳降村公所 鳳降村21號旁 廈村: 關帝 (今年新增)

 

緣首乘車!

 

1257 天后古廟 沙江村 廈村

 

緣首乘車!

 

輞井圍
1332 玄關帝廟 輞井圍 屏山
1345 圍門 輞井圍 屏山:土地公公
1349 神廳 輞井圍
1356 裕安堂 輞井圍46號: 關帝
#土地 裕安堂 輞井圍46號 (今年沒有這個土地)

 

沙洲里村
1637 白沙仔土地公公 沙洲里村村公所旁 屏廈路 廈村

 

この日程を見たらわかるように、非常に細かい。そして途中は基本的に歩きなのだが、道士様と村の代表たちは途中、時間を稼ぎ、貸切のバスに乗ることもある。昔はバスに乗ることはなかったそうだが、いまでは道士様や村の方々が道中に安全に移動できるよう、バスを手配するようである。そのため、観客は相当な早足で歩いて回らなければならず、世界6大マラソンなどに出場している健脚な強者たちが観客の先頭集団をずんずん歩いていき、バスと同着ぐらいで頑張って踏破していく。まるで競歩かマラソン大会だ。

回る廟や公所は必ずつまめる軽食、つみれ、胡麻団子、クッキー、フルーツ、ケーキ、飲み物などが配布される。そのラインナップは場所によって異なる。基本は村人優先で村人が摂ってから、観客が後に摂る。それでも大量に余るぐらいなので、食べ放題レベルにたくさん飲食ができる。しかもどれも美味しい。飲み物は甘いものが多く、緑茶のアップルジュース、菊の花ジュースなどもあった。その光景はまるで給水所だ。みんな早足でそれらを掴み取り、歩きながら食べ飲みしている人もいるくらいだ。あまりにも歩く距離と速さが尋常でなく、途中公共バスに乗り込んで移動する箇所もあった。もちろんそういう公共交通に頼る人もたくさんいた。これらの食べ物は基本的に町内会費によって賄われるが、村によっては不動産を持っていてそれによって儲けている場合もあり、その地域ごとに貧富の差があるとのことだ。とりわけ不動産収入を自治会が得るというのは日本ではなかなかないことなので驚いた。

村巡りの順番は、まず近隣の村から呼び寄せた地域外にある青松觀という道教寺院の道士様と地域内の村の代表が儀式をして回る。これは宗教性を帯びたものではなく、地域の土地神様を祀る信仰である。村の代表はピンク色の巻物のようなものを持っており、そこには村人全員の名前が書かれている。それを毎回廟の前で持って祈る。道士様は赤色にカラフルな襟をつけた豪華な衣装に身を包み、村の代表たちは赤い服を着て、末席のスタッフたちは黄色と紺色の衣装を着ている。

香港では村の代表の決め方が大変興味深い。10名選ばれるが、これは立候補者がポエという半月型の木片を2つ投げてそれを10回繰り返して、表裏の組み合わせが1番多かった者が多かった順に10名選ばれるということもある。年齢に制限はなく、子どもも参加していた(学校のためお休みの日程が多かった)。村の決め事は徹底的に占いが持ち込まれる。そのほかにも、祭りの何年に1回というのは、このポエによって決められる場合もある。今回の祭りは10年に1度であるが、これはポエの数の巡り合わせの結果のようだ。60年に1度のような祭りもあるけれど、これはなかなかポエによる巡り合わせが決まらずに、20、30とどんどん数を足していった結果として60という数字が決定されたという。

政治的な決め事は話し合いによってはなかなか決まるものではなく、誰かに配慮すれば誰かに配慮できないというような場合も発生するものだ。これは多数決による罠でもあるだろう。しかし、そこに占いを持ち込むことで、すんなり解決され、「神様がおっしゃるのだから従います」という平穏につながる。これこそ、もしや日本における卑弥呼やトヨによる占い統治の本質なのでは?という壮大なスケールの時間軸で頭が回転してきて、なかなかに面白い話を聞かせてもらった。

さて、8時半ごろに始まったこの村巡りは、一通り終わったのが、18時ごろだった。最後、15時に行くはずだった最後の沙洲里村への到着はなんと17時になった。その前の村を出てから本当は車で向かうはずだったらしいが歩きに変わったため、ひたすら数時間歩き続けて日焼けしながら歩いてくる様子は印象深かったし、とうとう、やっときたか!となった。遅れは2時間。観衆の僕らも待ちくたびれて公所のテレビを見たり、眠そうになりながらも談笑して待っていた末に来てくれて、やっとこさ本日の締めくくりとなった。

ひと通りの村巡りが終了後に、それから20分ほど歩き、30香港ドルのおいしい麺を食べてまたその道を戻り、最後に20時からの儀式を見て終えた。仏教の読経のような、教えを諭されているような感覚があった。ひたすらお祈りしてるのを見ていた。またその舞台の横では、でくまわしの人形劇が行われており、裏方がどうやって音を出し、歌を歌うように会話し、人形を操っているのかを見ることができたのは面白かった。その後、帰路についた。ただひたすら歩いた1日であった。

11月13日 地域外からお祝いが来る日

香港最終日。廈村の外から来るさまざまな出し物を迎える日だ。龍や麒麟、獅子舞などいままで見たことのないデザインのものが多くみられた。位の高さは龍、麒麟、獅子の順番。獅子が龍にお辞儀することはあっても、龍が獅子にお辞儀することはない。しかし、近年は龍が大胆に深々とお辞儀をしている場合があって、後ほど精進料理を横山さん含め10人ほどと一緒に食べに行った時に、年配の祭り鑑賞者は「あれは伝統とは違うかもしれない」などという話をする方もいた。それから、郷の外からさまざまなお祝いの者が訪れた時、獅子舞同士の挨拶のようなものが面白かった。獅子舞同士が口と口をつけて接吻をするような格好になりお互い頭を振るわせるのだ。そうすると、口の中でどうやら担い手同士が名刺のようなもの(何かは不明)を受け渡しているようなのだ。その何かを口に咥えた担い手はそのまま挨拶の舞いを軽くしてお互いに感謝を表現して受け入れるのである。それで迎えられた村の外の人々は広場や廟などで祈りや舞いを繰り返し、奥の方に進んで休憩に入る。9:30から12:30くらいまでの時間帯で、大半のお出迎えは終了する。

お饅頭などの食べ物がお供えされる

さて、ここで食事の話を挟んでおこう。本日は大盤振る舞いするような各種飲食物の配布はなかったものの、朝から「平安」の文字が書かれたお饅頭が配られた。中には白餡のような甘いあんこが入っていた。ずっと何時間も配り続けていたので、おそらく何千何万個もの在庫を抱えていたのだろう。赤いレジ袋のような簡易的な袋に、このお饅頭が2つセットで入れられており、これは温めないと食べられませんと書かれたケースに入っていて、お土産用に配布された。そのほかに最初わずかながらに温め済みのものも配布され、偶然にもこれを食べることができた。ホクホクしてて、本当に美味しかった。

食事にも厳格な禁忌が存在しており、それは食事においてもそうである。儀式に参加する村の人々は、儀式までの1週間、肉や魚を口にしてはいけないと先ほど述べたが、実際にお昼に食べるのはひたすら精進料理だ。実際に祭り会場から徒歩数分のところに厦村が運営する精進料理のレストランが存在する。外見は高級で、実際に出てくるものも量が多く、そして非常においしく、そして安いという三拍子が揃っている。僕は麻婆豆腐を頼んだが、案の定、肉は入っていなかった。58香港ドルで、厚切りレモンが3つも入っているレモンティーもついてくる。これはミルクティーも選べたがいずれもHOTで、COLDにするには5香港ドルを加算して払わねばならない。おそらく氷代であろう。

それから午後の時間帯になり、徐々にお見送りへとシフトしていく。お出迎えに比べればお見送りは比較的シンプルなようにも思え、廈村郷の門の前で3回礼をして徐々に帰路につくという流れである。最終的には16時くらいにお出迎えの列はなくなり、終了した。

いや、終了したかと思いきや、廈村の門の先にある大きな広場で獅子舞が始まった。この光景は、今回の滞在中で最も緊迫した印象的なシーンのひとつとなった。広場の中心に椅子が置かれ、その上にはお酒が入ったおちょこのような?陶器。そして、みかんが2つと生菜(中国のレタス)がある。そして、その椅子の周りには剣が3つ三角形に組まれており、ある種の結界が貼られているように見える。またその剣の結界の外側には円を描くように5つほどみかんが配置されている。その前に獅子が現れる。最初は初心者なのか、比較的ぎこちない舞いが続く。まずはみかんを咥えて観客の方にポーンと放り投げるというのが繰り返され、それで5つのみかんはなくなる。そのみかんの放り投げの途中から担い手が交代となる。2度交代して、3人目の担い手が獅子頭を持ち始めた時、獅子の雰囲気が大きく変わったと思った。躍動感やメリハリが格好良くて、脚を振り上げた獅子はどこかカンフーの達人にも思えた。それから剣を咥えて取り除き、それを担い手に渡すという所作が3度繰り返されて、ついに獅子は最後の砦である椅子にたどり着く。まずは上を向いてお酒をぐいっと飲み干して酔っ払って地面にへたり込む。しかしそこから回復した獅子は勢いづいて、さらに激しさが増し、みかんを口に含んでは2つ吐き出し観客に向けて放り投げ、そして最後に生菜を口に含んでバラバラにして3度地上に向けて放り投げた。それから、少し動いて終了!となった。都度都度、クラッカーの紙吹雪が沸き起こり盛り上がっていたが、これはアクロバティックというよりかはむしろ呪術性、儀式性の高い、極めて厳粛な行事のように思われた。それは結界の貼り方と所作の手順の細かさなどに現れていると思った。

さて、獅子舞の後、ぼくらは横山さんに連れられて、食事会場に祭りの食があるから食べに行こうと誘ってくださり向かった。その食事の名前は盆菜(ぷんちょい)と言った。見かけはおでんのようであり、煮物のようでもある。長寿の印とも言える亀の形をしたタロ芋が1番上に乗っていて、その下に湯葉、大根、白菜、栗、牡蠣、キクラゲなど盛りだくさんの野菜などが入っていた。海の生き物の中でも牡蠣のみは特例で、特産品ということで祭りの食の中に加えられている。それから、ほかには牡蠣の天ぷらやコーラ、本日は雨が降ったり止んだりということで予想よりも観客が少なかったのだろうか。大量の余まりがあったので、10人前を3人で食べ始めるという途方もないことを始めた。途中からシェア食で半端な人数がこちらのテーブルに集まってきた。それにしても軽く数百人がたらふく食べられる大鍋が用意されている。うーんここまでお祭りで大盤振る舞いできる地域は日本に存在するだろうか。廈村は古くからこの土地に住む一族が財産分与せずに一族の長が不動産の管理を続けるために、不動産収入が非常に富んでいて、これだけ大盤振る舞いするだけの余裕がある人もいるようだ。財産分与しないというのは日本とは状況が異なり興味深い。その代わりとして、祭りが富の再分配的な機能を持っていると考えることもでき、そのお金の動きが大変興味深くもある。

さて夜は村人の名前を食事会場近くの仮設壁に貼り出すらしい。しかし、僕はもう香港国際空港から帰路につかねばならなかったので、17時前には会場を後にした。この儀式は20時から始まるとのことだったので、話だけは聞いておいた。仮設壁に貼り出す名前を確認する作業を一人一人がやり、それに明かりを灯すという儀式があるという。この時、儀式を執り行う代表との相性の問題で猪の干支に生まれた人は会場に入れない。そのくらい厳格で伝統が受け継がれている儀式なのだ。会場内でチェックが行われるわけではないので、観衆は各自、自己判断ということになるのだろう。

夜19:50に香港国際空港発の飛行機で羽田に帰った。本当に素晴らしい滞在だった。窓から見る香港やその周辺のマカオや深圳の夜景は、ビルが高い分、非常に迫力のあるものだった。ひとつひとつの光の粒の先に暮らしがあり、大きな経済を支えている人々がいるのだ。豊かな獅子舞文化もそれを背景として育まれているのだろう。

香港の獅子舞所感

さて、ここらへんで香港での滞在のまとめに入ることにしよう。帰りの飛行機に乗りながら、僕は旅を振り返る。香港は日本よりもはるかに小さな国だが、経済的に富み、都市空間としては非常に過密で建物やバスの高さは高く、民俗芸能の入り込む余地がなさそうであるが、実はそういう場所とは違う田舎に、ゾーニングされたように素朴な信仰は生き続けている。川や大きな道路を境界として、大規模ベットタウンのすぐ脇に、今回3日間通った廈村という土地がある。

ここに息づく祭りはとにかく規模が大きく、鳴り響く鉦や太鼓、ラッパの音は凄まじく、会場を訪れた赤ちゃんがヘッドホンをしなければならないという事態が発生するほどに音が大きい。電飾によって会場は光り輝き、すべてがカラフルである。龍、麒麟、獅子舞は装飾性に富んでおり、ひとつも同じものがない。ただし、お囃子の音色や舞い方はほぼ同じである。ここに香港あるいは中華圏と日本との違いがあると思う。広州の仏山の流派の大流行、そして、マレーシアへの教授と逆輸入などの歴史から、獅子舞の現在の舞い方は形成されている。また、そこには武闘と獅子舞とが同時多発的に発展してきた背景がある。

多様性の裏側にはプライドのようなものがあって「自分は他人とは違う」という考え方が潜んでいるように思う。日本の獅子舞にはその傾向がある。しかし香港はブルースリーに代表されるように武闘の発展があり、そこに獅子舞の興隆の背景があって、競い合ったり牽制したりして混ざり合いながら感動を分かち合っている感覚がある。そこには最後に見た演目のような儀式性もわずかながらに感じるが、その要素は薄い。獅子頭を竹と紙で制作していて今は木彫りでないという点からしても日本よりも全体的に「手軽に」獅子舞を生み出している感覚がある。龍、麒麟、獅子舞たちの舞い方やお囃子が似ているというのも当たり前なのかもしれない。村同士の共通の所作を分かち合い、それを通して一体感を味わっている。どこまでも手軽にそれを共有しあっているように思える。多くの人が繋がり、感動する先にある最果ては、こういう大規模祭りの風景なんじゃないか。そう思えた感覚もあった。ああ、生きているなあ、獅子舞してるなあという実感。祭り後に倒れ込む担い手たち。広場という開放性。他の村との同志感...。ただひたすら、いまという時間を生き、ふざけ合い、無我夢中で獅子を振り舞わす。

それは道士様や村の代表が行っていた神様をお迎えする時の儀式など、村と祭りの核心部分を担う部分とは対照的に、大きな賑わいを生み出していた。伝統を守ることと、多くの人に開くこと。どちらも大事であり、そのバランスも考えた滞在でもあった。

獅子頭制作20日目

茨城県石岡市での獅子頭づくり。本日の工程は、舌と耳の部材を貼り合わせることと、獅子頭の表裏をヤスリで磨くこと、そして、塗り材料をもとめて酒井塗装店に行くということだった。

部材の貼り合わせはF型クランプを6つも使った。ノコギリで切って、ボンドで貼り合わせるということを繰り返す。それらによって耳と舌の原形を作っていった。ノコギリは縦に長い部材を縦に切るとか、小さい部材を切るとか、そういう時がなかなかに大変で、支点をどこにおくのかに頭を悩ませた。舌の部分は凹凸で部材を噛ませるところがあり、ノコギリでの切断には1ミリも狂いのない正確さが必要だと思った。こんな構造で獅子頭が作られていたとは驚きである。


また獅子頭を磨いていたら、削り過ぎてしまって鼻横あたりに穴が空いてしまったので、おがくずをいただき、その穴を埋めた。獅子頭の厚さがどれくらいか感覚を掴むのはなかなかに難しい。

獅子頭作りののち、獅子頭作りのメンバーの方に案内していただき、石岡の獅子頭職人がよく通っているという酒井塗装店に伺った。近いうちに始まる塗りに備えて、塗料などを揃えた。購入したのはこちら。

カシュー(赤・黒)、カシュー下地、カシューうすめ液、ハケ、マスキングテープである。全部一通り揃えても4300円程だったので、安いものだ。カシューは本格的な漆に比べれば安いし、金箔も買ってない。とにかくコストパフォーマンスを良いものを選んでいただき感謝だ。

本日は獅子頭作りの運営をされている幹部の方々のLINEグループの名前がキャンディーズだと知った。お堅い名前よりもアイドルの名前がよかったのか。名前聞いただけだとファンクラブの話かと思った。