本当に素晴らしい祭りコンテンツとは?獅子舞マニアが祭りの世界の広さを知る

最近の祭り見聞録。

大規模な祭礼行事に出かけることが多い。獅子舞という括りだけでは盲点になりがちだった、祭りというものの全体感について、考えざるを得ない。

4月14日には岐阜県高山市「春の高山祭」、5月4日には岩手県奥州市「江刺甚句まつり」にいった。どちらも市民参加の気質がある祭りだ。高山祭には獅子舞大行列、江刺甚句まつりにはしし踊りの大行列がある。これだけすごいことしているのに、祭りの1コンテンツに過ぎない。はあ、世界は広いなとつくづく思うのだ。

単純な格好良さや美しさ、豪華さが魅せる祭りってのもある。獅子舞マニアになるということは、そういう全体的視野から見た立ち位置というのが見えずらくなり、獅子舞なら何でも面白いマインドになりやすい。一歩引いて見ると、多くの人が感動する祭りってその一部にすぎないんだって気づけた。

それにしても、最近訪れた祭りのシシは格好良かった。最後に残るのは、一歩ひいても素晴らしいと再確認できる感情や心しかないんだと思う。

高山祭の獅子舞大行列。

江刺甚句まつりの百鹿大群舞。

残すべきまつりとそうでない祭りがあるって話もある。時代に応じて変化してかないといけないし、人口減少が進んでいけば、さあ、村の祭りで子ども神輿と獅子舞どっち残すの?子どもの方が盛り上がるから子ども神輿?それとも、ご祝儀もらえて村の蓄えになるから獅子舞?とか、そういう判断につながっていく。

文化庁の予算づけも、結局自分たちの力で継続できない祭りを、予算かけてまで継続させる価値ってどこにあるんだろうみたいな話もある。人気で多くの人が残そうと思えば、しっかり残っていくもんでしょという厳しい意見もある。そういう中で、残る祭りって何だろう。各地域で長期的な視野の中で、どういう話し合いがされれば、OKなんだろうか。

冗長的だからなかなか受け入れられず、簡略化していく祭りはよくある。祭りなのか、イベントなのか。神事なのか、都市祭礼なのか、問うべき振れ幅もある。先日訪れた山形県天童市人間将棋」なんかは、イベントに近い祭りで企業スポンサーガンガン入って、有名な棋士読んで、集客してる感あった。これは求められている祭り感あった。

小さい村祭りみたいなものってどうなっていくのが良いんだろう。素晴らしさの価値基準とは?集客数、それとも地域の人々の想い、記事のビュー数...?よくわからない高揚感とか、祭りの帰り道に余韻に浸れるような祭りが良いかな。今日はいい1日だったってね。

まあここまで考えたときに、獅子舞マニアとしては獅子舞ばかり取り上げるけど、大衆的な視点で良い祭りは世の中にたくさんあって、やっぱり個人的な良かったよねっていう祭りと、世間的な視点を通して選りすぐったものを推すのと、違うもんだなと思う事もあるのだ。そこらへんとしっかり向き合っていきたい。

 

猿が乱入する獅子舞!?上岩橋の獅子舞 千葉県酒々井町 2023年

2023年4月2日、千葉県酒々井町で行われた上岩橋の獅子舞の様子をお届けする。

 

コロナ禍に実施することが叶わず、4年ぶりの演舞となった。当日はオボナス様(産土神)のお祭りで、五穀豊穣の獅子舞が演じられた。「水争いはオボナス様が背中合わせだから」などというエピソードがあり、オボナス様はある意味、争いごとを納得させる、全てを受け止めるというような地域信仰の中心にあるものだ。

地域内3つの神社(駒形神社菊名神社、大鷲神社)を巡った。これはすなわち、異なる氏子を繋ぐ獅子舞でもある。現地で行われた舞はとおし、親獅子、れいとろ、弓くぐり、白刃の5つだ。

とりわけ興味深いのは弓くぐりの演目。これは会津の彼岸獅子などで見たことがあるが、一種のサーカス性を感じる。つまり、動物調教の類いであり、この演目の歴史を遡れば、実際の動物を操り手懐けていたのではないかと思われる。そのような証拠はもちろんないが、三匹獅子舞の歴史が始まった室町時代ごろ以前の世界であろう。あとは弓という道具からして武芸的な要素も後々加わったと思われる。

また、弓くぐりに登場した獅子を真似してからかう、道化役の猿の存在が興味深い。

これもおそらく大昔を遡れば、猿芝居として実物の猿が登場していたに違いない。ひょっとこなどの道化役となんら変わりのない娯楽性を神事に取り入れることで、お客さんを楽しませるという風潮が始まったのだ。平和な時代に祈りよりも楽しみを。そういう江戸時代の人々の願いが手に取るように浮かび上がってくる。

この猿役は子どもにお菓子を配っていた。お菓子を配ることで、獅子舞に興味を持たせ、担い手を増やそうという町もある。上岩橋の場合はどうかわからないが、これもおそらく娯楽性の1つということだろう。

これからの獅子舞はどのように娯楽性を作っていくのか。お菓子をあげるのも手ではあるが、プラスアルファで何か必要な気もする。娯楽性がなければ人は集まらない。それがあってこその地域交流が成り立つのだと思う。

日本全国の獅子舞のルーツの1つ、伊勢大神楽の起源とその集団の特異性を考える

日本全国に獅子舞を伝え、その伝播の中心を担った伊勢大神楽。この芸能が各地の獅子舞の起源として語られることは非常に多く、その影響は計り知れない。2022年12月24日、三重県桑名市増田神社で行われた伊勢太神楽の総舞を拝見してきた。それとともに、桑名市立図書館で郷土資料の調査も実施した。そこでわかったことをここにまとめておく。

伊勢大神楽の縁起

伊勢太神楽の最初期の物語は、山本源太夫家に残されている『伊勢太神楽由来ノ抜キ書(1661年3月)』に遺されている。そこに記されている内容として、まず神楽の起源が述べられ、それは天岩戸神話の中の天宇受売命(あめのうずめのみこと)の「俳優(わざおぎ)」のことが記されている。「わざ」とは神のわざ(所作、行為、技)で神がのり移ったような振る舞いのことを表し、また「おぎ」は招くという意味である。転じて、「俳優」とは、神霊を招いておかしく振る舞いを演じて、なぐさめ、楽しませることをいうらしい。

その上で、白凰元年(762年)5月に大友皇子に襲撃を受けた大海人皇子は伊賀を経て伊勢国桑名にたどり着いた。第一皇子の高市皇子美濃国に派遣して大友皇子と戦わせたが大敗して、登保利(とほり)川で禊を行い、全将兵の祓いを行い、増田庄の霞ヶ岡に登って、伊勢神宮天照大神を遥拝して朝敵退治と宝祚万歳(皇位を表す「宝祚(ほうそ)」を歓迎すること)を祈願した。その後仮殿に入りまどろんでいた時に夢を見た。一つの星が天から降ってきて「我は天木綿筒(あめのゆうづつ)というものである。このたび天照大神の神勅により、助力するよう遣わされた。逆徒を征誅し、国土を安穏ならしめん」と告げた。語り終えると星は忿怒の形相をした猛獣へとその姿を変えて、天空へと飛び去った。夢から覚めると目の前に巨石があり、周囲3メートル以上もあった。それを叩いてみると轡の音がしてこれに力を得た大海人皇子は白凰元年(762年)8月27日に敵の軍勢を破って、大和に凱旋を果たして、無事に天武天皇として即位した。

これに感謝した天皇は、霞ヶ岡に天照大神、建御雷命、経津主命保食命の四神を祀り、「増田大明神」とした。また神麻続麻呂弗に天木綿筒飛行の像、中臣猿女・猿彦の面像を作らせ、古風の神楽や戯曲を演じさせ神慮を慰めた。これが伊勢大神楽の起源で、これ以降、増田神社神職は神麻続麻呂弗の後裔が務めている。ちなみに、伊勢大神楽の獅子は大海人皇子が夢に見た猛獣を象ったとされる。また、天木綿筒(あめのゆうづつ)とは宵の明星を「ゆうづつ」と呼ぶため、金星を神格化したものと考えられている。

どのような経緯で伊勢大神楽は生まれたのか?

元々伊勢大神楽の起源は、山田郷や高向などに御頭神事というものにあった。御頭神事では、獅子のことを尊び「オカシラサマ」と呼ぶ。これは東北の山伏が言うところの「権現様」であり、獅子頭そのものが神格化していることが特徴だ。増田神社ができる前、周辺には獅子舞関連の行事として家々を回る「門付け」や鏡餅などを獅子の口に入れて神饌献上品とするお初穂の「くくめ物」などが行われていたと考えられる。また、それらの獅子舞は元来、箕を2つ合わせて獅子頭の形を作り、祭りが終われば焼き払っていたそうだ。焼き払う理由は人間の厄を付けて村外れまで歩いてきた箕獅子を焼却することが厄払いになると考えられていたからだ。これは農村において獅子頭を自前で作る方法だった。ちなみに、三重県度会郡内二見町大字西では、平成に入ってからも蓑獅子が伝承されている。またいつの頃からか彩色が施され木製で作られたためこれを焼き払うことは勿体無いということで、橋の上で太刀で切り払うということになった。そして、数百年もすれば産土神の神躰ともなった。ちなみにこの原型に近い獅子舞として、長野県千曲市雨宮の天宮坐日吉神社の「雨宮の御神事」において、橋の上に獅子頭を被った男を4名連れてきて、橋の上からイモムシのように水面近くの八メートル分逆さ吊りにして、その厄を水に流すという行事もある。何れにしても、これらの原型の獅子舞のようなものを参考に伊勢大神楽は創作されたのだ。例えば、橋の上で太刀で厄を切り払う所作などは、伊勢大神楽で言うところの剣の舞や剣三番叟の原型であろう。また厄を払う火の神事が御頭神事に含まれることから、これは伊勢大神楽の竃払いや火伏せに繋がったとも考えうる。また、伊勢大神楽の源流の獅子舞として、伊奈冨(いのう)神社の獅子神楽や、椿大神社獅子神楽で、どちらも三重県鈴鹿市で行われる。

その一方で伊勢地方にたまたま放下芸のチャリ師がいて、偶然にもそれと結びついたことから非常に複雑な舞いが誕生した。放下芸の起源は、中国、または韓国と言われている。放下僧という僧侶たちが日本に持ち込んだ芸能のようで、古くは正倉院の弾弓の模様に描かれている。放下芸の役割は、まさにべちゃくちゃと与太を飛ばし、面白おかしく人々を笑わすチャリ師の存在が欠かせない。おっちょこちょいで間違いばかりのチャリ師であるが、それが本芸を引き立てることに繋がっている。

放下芸との結びつきが成功したことで、万歳や地狂言浄瑠璃などを取り入れることにも繋がった。結果として余興が大半を占める伊勢大神楽のような神楽が生まれるに至ったのだ。

初期の伊勢大神楽

元々四日市の阿倉川というところに神楽組が12組あり、これが伊勢大神楽の代名詞となっていた。しかし、現在では1組も現存しておらず、滅亡してしまっている。現在は山本市太夫の神楽の系譜が最も大きい一団となっており、この一団の初期の活動は伊勢内宮に大半の拠点がある伊勢御師の手代(営業上の代理権をもつ使用人)となり、伊勢神宮の当麻(神譜)や伊勢暦を渡すとともに、参拝できない人のために「代神楽」(大神楽の漢字表記は様々)として奉納の代役を務めるような役割を担った。伊勢神宮には宮中で行う儀式舞が存在するが、獅子舞はない。この儀式舞は各地を巡るようなことができないため、その役目を代神楽という形で清めの獅子舞に託したという経緯である。

 

コミュニティとしての大神楽

伊勢大神楽の本拠地になった太夫村は、現在の桑名市太夫町に位置している。この村のコミュニティづくりは非常に興味深い。まず樹齢400年の楠の大木が中心にあって、その周りに僅か数十戸の神職の家々がある。全て神職の家ということで、どこかの殿様(松平定綱?松平家重?)が「太夫村」と名付けたらしい。この土地を開拓したのは、山本十右衛門と山本市太夫の2名である。この2名が太夫村の庄屋職に任ぜられ住み始めたのが慶長6年(1601年)6月だった。十右衛門は御師職である師職の支配頭であり、甲信越、関東、奥羽を回壇して下行きと呼ばれた。一方で市太夫は神楽職の支配を任され、関西、北陸、中国を回壇した。師職は神楽ができるものを連れて歩き、神楽職は師職の神札を持って歩いたので、実際はその関係性が入り乱れる状況でもあった。

太夫村に移り住んで来る人々は、元々陰陽師だったとも言われている。1700年代の太夫村の太夫は6名であったが、1800年代には12名になった。この江戸時代の文化年間は太夫村に12組だけでなく、東阿倉川村に8組もいたので、合計20組が日本全国を回っていたことになる。太夫村に関して、伊勢大神楽を行う12組の長(親方)が住んでおり、その名前は「勢桑見聞略史 下巻(昭和21年)」によれば、山本源太夫、山本市左衛門、山本春太夫、山本弥市、山本宗太夫、森本五兵衛、森本治右衛門、加藤忠太夫、岡田孫太夫、石橋勘右衛門、安田彦左衛門、松井嘉太夫とある。

その後、明治初期に禁止令が出され、苦難の時代を乗り越えてきた。国家神道の俗化を防ごうという国家の思惑がもしかしたらあったのかもしれない。東日本の下行きは滅んだ一方で、西日本の上行きはその後に隠れた支持者を得て再び盛り返すことができた。また、神札に比べて神楽という技芸は規制が緩かった。それが現在、関西周辺を中心に行われる伊勢大神楽の分布の経緯である。神楽組は平成の初めに9組に減っており、2022年現在は5組になっているという。他の職業とともに神楽師を兼ねる人が現れるとともに、担い手不足が顕著になりつつあるのだ。それでもここまで継承が続いているということは必ず理由もある。

伊勢大神楽のテリトリー

考えてもみれば、有名社寺には檀那場というものがあり、信仰を広める遊行僧のような人々がいて、どこに訪れるかは各社寺のテリトリーによって大きく制約を受けるものだった。当然獅子舞たちもそれに則り、舞場を旅したと言うことになる。そのテリトリーには宿坊という不動産があって信者たちはそこで泊まって参拝の旅の疲れを休ませることができた。ちなみに1つの村に対して熊野本宮・新宮・那智、白山・立山高野山など多数の信仰が共存することはできた一方で、1つの信仰の中のいくつかの組が1つの村に共存するという場合はなかったという。

 

伊勢大神楽の今

今回行われたのは16演目のうち9演目であり、四方の舞、綾採の曲、水の曲(皿の曲含む)、献燈の曲、神来舞、玉獅子、剣三番叟、魁曲が披露された。いつもであれば12時半から15時半くらいまで行っているが、今回は14時半くらいで終了となった。終了後、伊勢大神楽講社の方にとても貴重なお話を伺うことができたので内容を振り返る。

「全部で40名ほどの担い手がいて、今回はコロナで縮小して25名が参加しました。いつもはこの担い手が5組に分かれて持ち場を回っています。今回の行事に関しては、8舞と8曲で合わせて16演目を行い、全てを厄払いするという意味で総舞と呼び大神楽を奉納します。元々は徒歩で関東の方に向かったので、12月24日くらいに家を出ないと元旦にたどり着けませんでした。だから、新年初めの舞という位置付けであり、終わる1年に対する感謝と待ってくださる方への安全、道中の安全などを祈年します。今では大晦日に出れば車で間に合ってしまいますので、徒歩で移動ということはありません。昔よりは旅という感覚は少なくなりましたが、それでも一年出っ放しです。12月中頃まで回っていますから、「旅する獅子舞」ですね。近年はコロナで縮小していましたが、徐々に楽しみを復活させる意図で、演舞も復活してきています。来年は担い手の継承について考え、力を入れていきたいです。」

ーー総舞の起源はいつからですか?

詳しい起源は分かっていないのですが、ある時代からみんなで総舞をするようになりました。いざ町回りをすると、失敗ができないので若手のホープを使ってあげられないことがあります。野球で例えるならいきなり四番は任せられなくて、代打などになってしまいます。それで、自分たちの神社で総舞をすることで「若手が活躍する機会を増やす」という考えもあるんです。

ーー(放下芸では)わざと失敗した時とわざと失敗していない時がありますよね。

元々、真剣に(意図して)失敗しているのは年配の人がしている場合が多いですね。

ーー若手の勧誘はどうされていますか?

元々はパイプがあるわけではないので、門を開けて待っているだけです。興味を持ってくれたら、メールを送ってくれる方もいます。東京藝大など様々な大学で就職できるような案内も出しており、来年は東京大学の方も入ってくれることになっています。高学歴の方は普通の仕事でない何かを目指した時に、神楽がかっこ良いなとなるみたいです。賢い子ばかり入ってくれました。

ーー東大の方とかどういうことに興味を持って入ってくださるのでしょうか?

学者志望の方が多いんですよ。民俗学とか宗教学とか。学問をつき詰めて行った時に、お金とか権力に興味がない場合、知識で生きていくことが無意味であることに気づくんですよ。教養は世の中のために使っていくということですから、教養に変換できることを探しているんですよ。それで学者脳の人が実践しているというところが面白いところですね。喋るのは学者でもできるけど、芸に変換するのは神楽師しかできないとのことです。

ーー手先が器用など子どもの頃から何か秀でている方が来るのかと思っていましたが、そうでもないのでしょうか?一から練習して芸を身につけるみたいな感じですか?

そのような子はなかなかいないですね。いたとしたら、サッカーとか野球をやるんじゃないですか。みんな運動神経が良い人なんて少ないです。入ってきて無骨の状態で覚えるから魅力的で格好良くなれるのかもしれません。

ーー剣三番叟など、よく失敗して怪我をしてしまうこともあるんでしょうか?

たくさんありますね。私も練習してて怪我しますし、ここに傷があります。

ーー練習は旅しながら練習しているのですか?練習日と町回りと日を分けるのですか?

いやいや、朝から12時間町回りをして、帰ってきてからちょっとでも明るいうちに稽古をして、終わったら明日配るお札を準備して、夜寝るのは12時くらいです。朝は先輩の洗濯物を干して...と生活自体が大神楽師なんです。タイムカードを押している時だけは大神楽師という感覚の人はすぐに辞めてしまいます。こういう暮らしをしたかったという人が残ります。

ーー旅する暮らしのようなところに興味を持ったのですが、宿はお得意さんがあるんですか?

面白いのは神楽を昔から泊めてくださっているお豆腐屋さんとか醤油屋さんとかが、神楽を泊めているということで町で評判になって、そこが後に宿やホテルになるという場合も多いです。

ーー近年、舞う場所の変化はあるんですか?

丸々舞う場所がなくなるということはなくて、地方の過疎化が進行して都市部に移って住宅ができてというあの変化とともにあると考えていただくのが良いでしょう。基本的に舞い始めたところはずっと回っていきますが、地方が過疎化して人がいなくなったら舞うことができなくなります。舞場に関しては、こういう社会的な変化とともにあるという感じですね。

 

伊勢大神楽の16演目

1.鈴の舞

鈴クシロ(腕輪)、五鈴鏡、六鈴鏡などを使用し、清々しい音色によって、鎮魂(みたましずめ)の呪力を発揮する。振りは単純でゆっくりと優雅に舞うことが特徴。

 

2.四方の舞

御頭の呪力により、天地四方を清める舞。御頭につけてある白い紙(麻・ぬさ)は神職が使う祓麻(はらいぬさ)と同じ役割があり、それを左右左と振ることで四方を清める。最も古くて荘厳な舞の1つである。また鳥兜を被った猿田彦がササラを鳴らしながら獅子を誘い出す場面があり、まどろんでいる獅子は笛(鶏の鳴き声)によって起こされる。

 

3.跳の舞

「産霊(むすび)」とは、神道における観念で、天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働きのこと。産霊の法を使い疲れ果て眠っている獅子に、霊妙なはたらきで物事を成就に導く働きをする「奇魂(くしみたま)」をしずめ生気を蘇らせるのが、跳の舞の役目。つまり、奇魂の鎮魂の舞である。

 

4.扇の舞

扇は末広で発展を意味して縁起が良く、同時にこれが幸いをもたらす恵みの魂「幸魂(さきみたま)」を表徴している。猿田彦は扇をひらひらさせて獅子にじゃれかかり、獅子はその扇を得ようと必死に修練する。結果、獅子はこの扇を得て狂喜乱舞するに至る。

 

5.綾採(あやとり)の舞

大神に捧げる紙衣を織り成す緯糸経糸の筬(おさ)という、機織りを行う際に経糸に通された緯糸の目を詰める作業に使用する櫛状の道具の杼(ひ)の通いを表すものである。西洋に伝わるジャグリングのデビルスティックという芸と同じ所作である。元々、ジャグリングは日本の太神楽と深い関係があり、近代ジャグリングの父であるエンリコ・ラステリ(1896~1931)は20世紀初頭にロシアで大神楽の芸を身につけたタカシマという日本人に出会いジャグリングを完成させたと言われている。つまり日本の大神楽の曲芸がジャグリングという名前に変わり、それが日本に逆輸入された可能性が高い(因幡伝統文化遺産活用事業実行委員会『伊勢大神楽 加藤菊太夫とその先祖』(平成24年3月)より)。

 

6.水の曲

水を主宰どる神々をたたえ、感謝の誠を捧げる曲。とりわけ農事に関係した悪疫、水難、旱天などの災害を防ぎ、五穀豊穣を願う。竿によって高々と徳利や皿をつき上げる。

 

7.吉野舞

大海人皇子が吉野にひそまれたことにちなんで、吉野舞と名付けられた。天岩戸神楽の故事を称え、神々の鎮魂しずめの神楽舞である。

 

8.手まりの曲

手拍子に合わせて神楽歌を歌い、手毬を巧みに使い分ける爽快な曲。バチと鞠、扇と鞠が一つになって付かず離れずという芸を見せ、4つの魂(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)の運行を表現している。

 

9.楽々(ささ)の舞

猿田彦と獅子は祈年の紙垂がつけられた笹(忌竹)を掲げ、田畑のあぜ道でどこからともなく襲いかかってくる悪霊や災厄を払いのけ、それらを見張る番をする。

 

10.傘の曲

日本傘の上に毬、茶碗、穴あき銭、桝などをなんでも乗せて回転させる。これは事理運行を意味している。最後に桝を回す理由は繁昌を願うため。

 

11.剣の舞

天地四方の邪気を切り払う悪魔払いの舞。獅子神楽の基本形であり、早い段階から採用されてきた。

 

12.献灯の曲

大神から受ける恩徳、ご加護、また恵み深い賜物をかしこみまつり、12個の茶碗を積み上げて献灯になぞらえる。献灯には不浄を焼き払う効果がある。

 

13.神来舞(しぐるま)

一年の払いをするため、笛の曲目は1~12月までの12曲があり、舞う方向は12通り、踏足は365歩と定められている。右手に鈴、左手に白幣(はくへい)を持ち、美しくしっとりと舞う。太神楽の舞の中では最も古くて歴史がある。

 

14.玉獅子の曲

玉は円満無欠であり、太陽であり太陰でもある。つまり、見る人によって様々な象徴として捉えることができる。善良な翁は玉(大神の和魂)を持っており、心が豊かである。しかし、獅子は玉が欲しくて翁にじゃれかかり、玉を取ってしまう。翁は玉を返して欲しくて、あの手この手を尽くす。獅子舞と放下芸の融合によって生まれた最も人気な演目のひとつで、子供たちに喜ばれやすい。

 

15.剣三番叟

数本の剣を使い分けて、上下四方八方の邪気を払い避け、正しい御霊を振り起して、気分を良くして験を祝う。戦前までは真剣を使っていた。

 

16.魁曲(らんぎょく)

最後を飾る圧巻の演舞。「花魁道中の曲」を縮めて魁曲と名付けられた。千変万化の妙を尽くし、次々に場面が展開される早業とアクロバティックさが魅力だ。

 

<参考文献>

鈴木武司『伊勢大神楽』(1992年)

田吉雄『伊勢大神楽』(1969年)

野津龍『伊勢大神楽ー成立と地方伝播』(2010年)

佛教大学アジア宗教文化情報研究所『国指定重要無形民俗文化財 伊勢大神楽』(2008年)

因幡伝統文化遺産活用事業実行委員会『伊勢大神楽 加藤菊太夫とその先祖』(2014年)

 

【2022年12月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺下福田町犬澤(追加)

石川県加賀市にて、本作りのための獅子舞に関する追加ヒアリングを実施した。今回の対象地域は大聖寺下福田町犬澤(いんのさわ)である。

 

12月22日 16:30~

まずは宮地弘晃さん(71)に農作業途中、納屋にて時間をいただきお話を伺った。

 

獅子舞の歴史

獅子舞が途絶えてもう10年以上は経っている。昭和59年(1984年)の息子が高校1年生の時(2000年)はまだ獅子舞をしていたが、30歳の時(2014年)にはすでに獅子舞をやめていた。その間のどこかで途絶えたと思われる。途絶えた理由は担い手不足だった。隣の下福田町山岸のように生涯現役といって8軒でも獅子舞を継承している場合もあるが、犬澤は若者がいないので辞める決断に至った。20軒ほど家があったが、今は17軒に減っている。どこからいつ獅子舞を習ってきたのかはわからなくて、どこかに伝えたという記憶もない。若い時に獅子頭を新調した気がする。

 

祭りの様子

祭りの日は3月21日と8月21日と決まっていた。下福田町は昔、山岸も東組西組も同じ日に祭りをしていたので、太鼓の音が聞こえてきたことを覚えている。祭りの当日は親方の家(年長者)に13時ごろ集合してから、地域の端の家から回り始めて、最後はお宮さん(神社)で17ごろ終わった。そこから盆踊りの準備をして、夜は盆踊りを楽しんだ。あとは社務所で飲むこともあった。普段買い物に行く上福田町の山田食品に獅子舞を舞いに行ったこともある。

 

結婚式の獅子舞

「こんでもええ」と言っていたけど、結婚式には獅子舞が来てくれた。式場か家かどちらかに来た。ご祝儀を渡したら、いつも通りの舞いをしてくれた。犬澤の人が結婚したら、必ず獅子舞を舞いに行くというのが恒例だった。祭り以外で獅子舞をしたのは結婚式の時だけだった。

 

舞い方

舞い方は手首を返すような仕草があり、雌獅子だったのでゆっくりとした動きだった。5人で演じ獅子舞の中に入ったのは3人である。あとは太鼓2人と獅子頭の交代要員が必要で6人で、笛をする人はいなかった。獅子頭は少し大きいサイズだと感じている。獅子舞をしていたのは玄関の前で行っていた。道は狭いが玄関まで入り込むことはなく、あくまでも玄関の前で行った。

 

担い手

獅子舞の組織は若連中と言って、高校1年生から35歳まで関わることができる。基本的には各家の長男が入ると決まっていて、次男は入らない。養子の場合も入ることがある。学生にとって祭りの日は春休みと夏休みの期間だが、社会人にとっては仕事を休んで祭りに参加するのが恒例だった。社会人というのは、農業をする人もいたが、サラリーマンの人もいた。大学生は遠いところに行った人も、祭りの時に帰ってきた。35歳で卒業する担い手がいる年は、鹿児島や北海道(雪まつり)などに遠方まで旅行に出かけることもあった。遠方まで旅行に行けたのは、ご祝儀が高くて1万円と決められていたからだ。20軒の家があったので、1回獅子舞をすると約20万円入ってくる計算になる。その半分を貯蓄に回し、もう半分で大聖寺の料理屋に行って飲み会に使っていた。そういうわけでお金も貯まるので、年によっては遠方まで旅行に行くこともできたわけだ。

 

練習

獅子舞の練習は新入部員がいる時は祭りの10日~20日前、いないときは3日前から行った。新入部員が入るのは春祭りの方である。一番年長の担い手を親方と言い、犬澤は公民館がないので自分の農作業の小屋を練習場所として提供していた。

 

17:00~

さらに獅子舞の由来のお話が聞けるかもしれないということで、出嶋藤治さん(85)を紹介いただきお話を伺った。

 

昔、4月の大聖寺の桜まつりの時に、大聖寺神明町大聖寺中町の本陣に行って獅子舞をして、お小遣い稼ぎをしていたことがあった。この時は車がなかったので、自転車の荷台に、箱に入れた獅子頭を乗せて、大聖寺の街中まで繰り出した。加賀神明宮の近くの川のほとりに自転車を置いて、獅子舞を舞って回った。その当時は3月、4月、8月に獅子舞をしていて、10人くらいの担い手がいた。村には19軒の家があった。

 

 

現代における獅子舞の住処

獅子舞をはじめ、麒麟や龍、鳳凰、亀など想像上の生き物の住処がなくなってきている。これはどのような事態として捉えるべきなのか。

これらの生き物は全て家畜化されていない動物をモチーフとしていることは重要なポイントだ。最も主要なモチーフを取り上げると、獅子はライオン、麒麟は鹿、龍は蛇、全て野生の生き物である。そしてこれらを作り上げたのが、全て「定住農耕民」であったことは重要だ。狩猟民でも遊牧民でもなく、これらの生き物たちを作り上げたのはあくまでも定住型の農耕民であったのだ。つまり農耕の生活様式がこのような生き物の創造に繋がったことは、暮らしや気候、風土などと合わせて考える必要がある。

それに加えて、例えば狩猟民がいつも狩りの対象として現実的な動物を見ている一方で、農耕民はそのような動物を生で見る機会がなく加工された肉ばかりを見ているということが大きな要因にも思える。農耕民は伝聞により生き物の姿を常に妄想し、その強い体躯を想像して、新しい生き物を創造していったのだろう。そして、この生き物たち、獅子や龍、麒麟などが本当に存在すると信じて疑わなかった。その想像力こそが人々の心の中に獅子舞の住み着く余地を作っていたのかもしれない。

これを脳科学の視点から掘り下げると、人間の本能である「性」や「飢え」「争い」などと動物の本能的なイメージがリンクして、夢に現れるということもある。これは猫や犬のような現実的な動物が個人的な体験と結びつくのに対して、獅子や麒麟のような想像上の生き物は民族とか人類とかもっと幅が広くて深い無意識の中から生まれた生き物であると言える。このような深い無意識を帯びた人は現代では非常に少なくて、例えば犯罪者のような苦しみを味わったような人々の心に住み着くという場合もあるだろう。

それでは獅子の形態の変遷を見ていこう。狩猟採集時代に写実的だったライオンは、エジプトにおいて半人半獣のスフィンクスのような形で構想された。これはもっと素朴な村単位の信仰において、頭は動物で体が人間であり、その動物は血族とつながるというトーテムの思想とも重なる。それが、インドでは仏教と結びつき、神様の乗り物となった。ここで人間と動物との力関係が変化して共生→支配という構図に変わる。中国に至ると完全な霊獣として写実性はほとんどなくなる。

この過程は人類が狩猟民から農耕民や牧畜民へとその生活スタイルを変化させた歴史にも重なる。支配者を生むという組織化の過程の中で倫理的な方向づけをするのが強力な想像上の生き物の存在だったのだ。龍はカオスの象徴だからそれを殺すことが秩序の生成だと考えられていたり、安らかに治まっている時代には他の動物に危害を加えることの無い麒麟が現れたり。想像上の生き物が人間社会のまとまりを作っていた側面は少なからずある。産業を生み出すこと、科学が進歩すること、文明を創ること、それらはまずこの精神面での改革から始まり、それらが技術的な確信を刺激したと言っても過言ではない。人間よりも強い生き物、現代でいえばゴジラとかキング・コングとか、その類いのものが実は切望されている。しかし、近代の合理性によってその住処は限りなく少なくなっているというのが現状であり、このようなSFの世界から再び関心が高まっていくと面白いなと感じている。

参考文献

江上波夫他『夢万年ー聖獣伝説』昭和63年4月24日

 

獅子舞界のドン・キホーテ、伊勢大神楽の暮らしの実態、民俗芸能研究の可能性について。

新型コロナウイルス、人口減少、高齢化、担い手不足、娯楽の多様化、、様々な問題が、民俗芸能の衰退を促している。その中で、東京ドキュメンタリー映画祭で上演された伊勢大神楽の記録「それでも獅子は旅を続ける」は、400年変わらず受け継がれている芸能のありのままの姿を映し出していた。2022年12月13日、上映と監督によるトークを観てきたのでその時に感じたことを振り返る。


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伊勢大神楽の歴史は獅子頭の年代から言えば室町時代太夫村の歴史から言えば近江から人々が移り住み芸能を徐々に始めたとされる約400年前に遡る。激動の時代をどう生き抜いてきたのだろうか?

 

やはり、継承の問題は根深い。旦那場が少なくなり他の社中がどんどん辞めていく。しかし、その中で、山本勘太夫社中は9から11人という大所帯で年間100日以上旅を続けている。まさに旅する仕事人の姿が印象的だった。舞いだけでなく日常生活そのものが無形文化財だというお話も出てきた。

 

朝5時の朝ごはんを食べたら神社で総舞をしてから、門払いが始まり、日が暮れる18時まで続けていく。苦しさはあるけれど、合間にヒルヤドがあってご当地の美味しいものをたくさん食べられ、一服する楽しみもある。ただ、近年はコンビニ弁当も増えて、なかなか家に招かれることも少なくなったようだ。迎え入れる側にも相当な負担がかかることはやむを得ない。 

 

なぜ獅子は旅を続けられるのか?

印象に残ったのは山本勘太夫社中が「伊勢大神楽ドンキホーテ」と自称していること。他の社中よりも質より量を重視して、旦那場を新規開拓しているそうだ。休憩して舞ってだらだらとするよりは効率よく回らねばならない。それは近年、ご祝儀の上がりが少ないという事情も関係しているらしく、とにかく数多く回らねばならない。近年新規開拓したのが福井県の美浜らしい。それまで他の社中が回っていたがそこの継承が途絶えた関係で新しく門祓いをすることになったのだとか。海側を開拓していなかったこともあり、ロケーションが魅力的とお話されていた。

 

これはまさに僕がテーマとしている獅子舞の生息可能性の話と関連がある。アレクサンドロス大王やらチンギス・ハーンが大陸を横断して領土を拡大したように、獅子舞もその領土拡大を試みているようだ。それは獅子舞という文化が根付くかどうか?という話でもある。

 

獅子的な精神というのは、伊勢大神楽の場合、お祓いのありがたみというあわい感覚に加えて、放下芸を楽しむという娯楽的な要素を強く含んでいるように思う。とりわけ子供が獅子に噛まれて泣いたり、ワイワイと騒ぐ様子が印象的である。この獅子舞の精神を受け入れた地域が獅子舞の生息地でもあるのだ。これは新規開拓をしたいからとか、ロケーションが良いからとか、多分に担い手の好みや都合によって決まることもあるという気づきも得た。

 

今回、映画を拝見してみて、総じて自分にとってはかなり既知の事実が多かったようにも思えた。コロナ禍においてマスクをしながら笛を吹かなきゃいけないとか、本当は自粛しなければならないけど逆にお祓いしないと何かあったら逆に自分たちのせいになる感覚とか。その時代ならではの細かな違いはある。もちろん、活動の推移を記録、アーカイブすることには意味がある。ただ舞いが継承され毎年変わらず同じルートで回ろうという変化を極力拒もうとすることが伝統の本質でもある。だから、革新的な気付きや驚きのようなものがあまり生まれないのかもしれないとも思った。映画を観る前日の夜に、チェンソーマンを見て度重なる良い意味での裏切りに感動しっぱなしで面白かったのとはどこか対象的だ。それでも、ただひたすら丁寧な愚直な取材が持つ意味というのは少なからずあるとは思う。

 

民俗芸能を民俗学文化人類学の分野で研究することはひたすら単調で尊い行為だと思う。一方で獅子舞そのものではなく、獅子舞がいる暮らしとは何かを1回抽象化させて、そのメソッドのようなものを取り入れた新しい暮らしを構想するような研究のあり方も個人的には面白いように思う。都市研究やら地域研究に生かされるべき話のようにも思えるし、全く別の分野にポーンと持っていった方が得られる気付きも大きそうだ。幸い伝統文化は縛りとも捉えられる一方で、繋がれる本質的理由みたいなものがあって、それが土地の風土とも関わってきて。それを読み解くことも意義深い研究なのではないかとも思えてきた。

雨が降らねば切腹する壮絶さ、なぜ獅子頭は苔で作られた?雨乞いの真相に迫る

獅子頭はなぜ、苔で作られたのか?

その一風変わった獅子頭が最近、千葉県千葉市の聖宝寺で発見された。明治時代に雨乞いで使われた獅子頭とのこと。

レトロで美しい旧生浜町役場庁舎を管理するNPO法人ちば・生浜歴史調査会の15周年を記念して行われた「椎名崎の雨乞い・雨降りガッコ展」という展示で、この獅子頭が公開された。その噂をTwitterで知り、獅子頭の魅力に惹かれて、早速、現地に行ってみることにした。

旧生浜町と雨乞い行事

生浜町は生実町と浜野町の生と浜をとってつけられた地域名である。元々、半農半漁の地域で東京湾と山とに接している。今回、千葉市有形文化財で90年前に作られた旧生浜町役場跡で展示が行われ取材をさせていただいた。椎名崎町から見て山側の隣町である、椎名崎町の獅子頭が展示されていた。ここでは今から130年前、明治27年まで雨乞いのお祭りが行われていた。それに関する祭り道具が発見されたとのことで、それにまつわる展示である。

展示が開催された背景

近年、椎名崎町にある真言宗の聖宝寺のお寺の庫裏に獅子頭がしまってあったのが発見された。ミカン箱数個にしまわれており、埃まみれだったので、捨てる可能性もあったとのこと。実は素晴らしい宝物が出てきたことを後々知ることになるのである。

この獅子頭が出てくる十数年前、地元の椎名小学校の創立140周年の時に、古老から「子供の頃に雨乞いがうちの庭先に来た」という話が出てきてものの、道具が見つからなかった。そこで、泣く泣く道具から舞い方から全てを一から作り上げて、オリジナルの舞いを創作したという。郷土の慣習の再演で郷土愛を目的としたものであった。それから十数年の時が経ち、獅子頭が発見されたことは、当時の関係職員が大いに喜んだのであった。

今回の展示は、この椎名小学校の件同様に郷土愛を目的として、NPO法人ちば・生浜歴史調査会が企画したもので、団体の15周年の記念すべき展示でもある。

獅子頭とのご対面

獅子頭の特徴としては、雨乞いのために水の象徴としての龍を模したものであろう。また目が蛇の目のデザインであることから、富山県や石川県などの獅子頭に見られる蛇信仰との共通性も垣間見られる。雄には角と耳があり、雌には耳のみが取り付けられており、取り外しも可能な状態だ。顔の木材は杉板で、松の苔を貼り付け、鼻髭は「ウゴ」と呼ばれる海藻が使われている。また、雄獅子には角と角の間に、宝珠があり、梵字で何か書かれた跡がある。また、雨降りガッコの祭礼行列には獅子舞の他に、山伏、天狗(猿田彦)、鉄棒、拍子木、警護、神主、笛、歌唄いなど様々な役の人々が参列したとされ、その道具も展示されていた。

それにしても、どうして獅子頭に苔が生えているのか?これは大いに謎であるが、NPOの方にお話を伺うと「獅子頭が作られた時から生えていたでしょう」とのこと。確かに湿気が多いところで後々自生したとも考えにくい。かなりきれいに手入れされたような生え方をしている。NPoの方は「龍の髭や鱗のような模様にしたかったのでは?」という推測もされていた。個人的には苔というのはやはり瑞々しい環境で育つわけだから、雨が必要なわけで雨乞いの願いとともに苔がつくのも理にかなっていると思った。ただ、真相は結局よくわからない。

そして、この獅子頭を見る限り、雄雌一対の獅子である。雄は幕が青くて、雌は幕が赤い。雌の幕の方は展示することが叶わなかったそうだが、そのような違いがあることがわかった。今となってはトイレが男は青、女は赤となっているし、少し前まではランドセルもこの構成が当たり前だった。唐獅子系だとこの雄雌一対の獅子頭というのがよく見られる。例えば、その典型として山形県酒田市獅子頭は雄雌一対で彫り、飾るというのが当たり前である。しかし、関東地方では三匹獅子舞が広域に渡って広がっており、雄雌一対というのはほとんどない。だから謎が深いのだ。通常、三匹獅子舞では雄2頭が雌1頭取り合うという演目が多く見られるが、どうやら今回の獅子舞では雄龍が霧の中に居る雌龍を探して、探し当てた時に歓喜するという内容のようだ。最後のシーンでは、雲が出てきて雨が降ってきて「もう帰ろう」という場面で終わる。関東地方を中心に分布する三匹獅子舞や東北地方を中心に分布するしし踊りとも歌の内容は少しずつ似た箇所がある。

雨乞いは実現されたのか

水道が整備されていない時代において、雨が降ることは農作物の生育や普段の日常生活に欠かせない水を確保するという観点から重要なことだった。

元々、この雨乞いに使われた獅子頭は「箱を開けて虫干しをするだけでも雨が降る」と言われており、それを身につけて踊ることはさらにその効力を高めるものであったことが推測できる。まず雨乞いを始めるプロセスとしては、この地域では水田が干上がるほどに雨が降らないという状況がまずあって、そこで村中で話し合い、雨乞い祭りの実施を決めるという流れだったようだ。雨乞いの祭りが始まると、7日間の「みそぎ」の行として斉戒沐浴(さいかいもくよく)をして身を浄め、祭り当日に雨乞い祈願の舞いをするという。その祈願の舞いは明治27年には椎名神社境内、椎名崎区長宅、白旗神社、高梨家で行われ、高梨家ではお酒などを飲んだとされる。つまり、この年には、町内全域にわたる門付けが行われておらず、明治27年以降、雨乞いは虫干しを少し行う程度だったという。

また、 雨乞い祭りをしても雨が降らないときは、 神主が切腹したという話も残っているというから、雨がどれほど人々に望まれていたのかがわかる。実際に明治27年の天気が現在まで記録として残っているという。どこまで雨が降らなければ、神主は責められたのかという視点も重要なポイントである。雨乞いの祭りが行われたとされる明治27年は、6月の降水量が16.2ミリ、7月は5.9ミリだったそうだ。特に7月8~22日までは降水がなかったとされ、非常に苦しい生活を強いられていたことだろう。雨乞いのための獅子頭の虫干しが行われたのは7月20日、21日だったが、それでも雨が降らなかった。そこで、ついに23日に千葉県警察署に雨乞い祭りの許可を得て、27日と28日に舞を奉納したという流れである。おそらく警察に許可を届け出た23日には一発目の雨が降ったと思われるが、その後、舞いの奉納をしたという流れだったのだろう。

貴重な獅子舞に気づいてほしい

今回の展示を担当されたのはNPO法人ちば・生浜歴史調査会の方々だ。専門的な知識がない中で、獅子舞の作りを明らかにするべく設計図を描いたり、展示方法が直射日光に当たらないようにする配慮などその保存方法についても試行錯誤されているのが印象的だった。地域の方々は大したことがないとよく言うけれど、この獅子舞に関しては本当にものすごく珍しく個性的で魅力的だと感じた。まだまだ確認できていない資料も埋もれているとのことで、この獅子舞の研究が進展していくことを楽しみにしたい。

参考文献

貝塚博物館紀要 第2号 昭和42年度

椎名崎の雨乞い・雨降りガッコ展 パンフレット