埼玉県秩父市・浦山における獅子舞の役割、人口が半減しても地域の結びつきは強い!?

昨日、秩父の浦山歴史民俗資料館を訪れた。google mapなどで獅子舞の展示をしている資料館を探していたところ、見つけたのがこの施設。獅子舞の展示についてなど、その時の様子を振り返る。

 

浦山歴史民俗資料館とは?

浦山地域は毛附、川俣、金倉、細久保、冠岩という5つの耕地からなり、合計の世帯人口が昭和30年の調べでは、440戸だったとのこと。これが平成24年の調べでは、64人と半数以下に減少してしまった。浦山ダムの建設や小中学校の閉校などの影響により人口流失が進み、地域の生活文化の保存や復元を目的に建設された施設だという。地域唯一の民俗芸能である獅子舞も例外ではなく、ダム建設により伝承の場が失われてしまったという。現在は、地域外の在住者がお盆や秋に訪れて獅子舞の継承を行なっているのが現状である。実際に現地を訪れた時に、地域の子供に遭遇。獅子舞の展示を怖がっていたものの、映像に興味を示したり、「獅子のお家はどこ?」と大人に質問していたのが印象的だった。

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秩父の獅子舞の特徴

埼玉県秩父市に伝わる獅子舞は、風流踊りに起源を持つ三匹獅子舞である。この獅子舞の特徴としては、一人立ちの獅子舞が3匹登場するところで、それぞれ太夫獅子、雄獅子、雌獅子の3頭1組となって行う舞いである。それぞれ3頭ともに獅子頭を被り、腰に太鼓をつけて打ち鳴らしながら舞う。この舞には花や剣などが登場し、五穀豊穣、悪霊退散、雨乞いなどの祈願の思いが込められている。現在、秩父市内に伝わる風流踊り系の獅子舞は11箇所に伝承されており、太田部、白岩、久長、黒谷、矢行地、日向、久部、田野澤、浜平、三峰、浦山という場所である。

 

浦山の獅子舞の特徴

起源は西暦1245年に遡るという。当時、天皇の勅令を受けた下総の角兵衛という人物が角兵衛獅子という獅子舞を考案したようで、それを全国に広めたとのこと。「浦山の獅子舞」もその正統な直伝を受け、伝わったという。現在は保存会により継承され、小学校等の協力もあり、今に伝わっている。

この浦山の獅子舞の特徴としては、特に勇壮活発で「荒獅子」とも呼ばれていることにある。大雄(たいゆう)、雌獅子(めじし)、男獅子(おじし)という3匹の獅子が登場し、大雄と男獅子にはそれぞれ角が2本あり、「真剣」という剣を顎下に抱えているのが特徴である。一方で、雌獅子は角が一本しかなく、真剣は持たないようだ。獅子の他には、花笠やささらも登場し、祭りの華やかさは一層引き立つ。また、服装に関して、裁着袴(たっつきばかま)に草鞋(わらじ)という出で立ちは、山道を歩き、激しい舞に耐えられるように作られたものであるとのこと。

また、この地域では演目を数える単位が「芝」であるというのが面白い。主となる演目が6つ(6芝)が伝わっているという。どことなく、名前のつけ方が東北のしし踊りと似ているのは気のせいだろうか。

・打ち揃え・・・本番前の音合わせ

・庭入り・・・舞場に入る舞

・大狂い・・・始まりの芝

・花懸り・・・花笠に懸る芝

・縄懸り・・・力強く縄に懸る芝

・幣懸り・・・幣束に懸る芝

・飛剣・・・真剣をくわえる芝

・剣懸り・・・祈願獅子舞

 

獅子舞が行われる祭り

①川施餓鬼

毎年8月16日の送り盆の日に、昌安寺で行われるお盆の行事である。獅子舞はこの日の午前中に練習が行われ、午後6時に本番を迎える。ここで披露されるのは「花懸り」や「縄懸り」などの芸能獅子と呼ばれる演目である。この別名としては「盆獅子」「夏獅子」という呼び方もあるようだ。

 

②丹生様・お諏訪様祭礼

毎年10月の第4金曜日に実施。他の2つとは異なり、神社で行う行事である。昼前に丹生様、昼後にお諏訪様を訪れ、鳥居前で「剣懸り」という演目を行う。道中、一行は笛を吹くという。この祭礼は大日如来縁日の前夜祭的な意味合いを持っているようにも思える。

 

大日如来縁日

毎年10月の第4土・日曜日に昌安寺と大日如来堂で「大日如来縁日」という行事が行われる。大日如来は干支が未(ひつじ)または申(さる)の人の守り本尊であり、大日講が100組もあるというのだから驚きである。この祭りにおいて、初日に「迎え獅子」という行事が行われる。ここで「祈願獅子」という獅子舞が披露され、そこで悪魔祓いの祈願を申し込む人もいる。2日目には、初日で悪魔祓いを申し込んだ各家を獅子舞が回るという流れになっている。

 

浦山の獅子舞の魅力とは?

この浦山の獅子舞の魅力は、まさに「獅子舞が地域存続の拠り所となっている」ことにあると思う。昭和から平成にかけて、ダムの建設等により、人口は半分以下に激減。その中で、獅子舞を存続させようと地域内外の人々がお盆と秋に集っているというのはすごいことである。獅子舞が地域を繋いでいるのだ。そして、その陰にあるのが、約100組・6~700名(平成24年現在)の大日講の存在であり、代表者は少なくとも祭りに出席する。この仏教と獅子舞との関係性が、それぞれうまく作用しあい、地域の存続につながっているという印象を受けた。

 

 

耳塚の正体とは?獅子舞との関連性を紐解く

奥羽地方などに広く伝わる、獅子舞の獅子が喧嘩をして耳を取られたという話は何を意味するのだろうか? 確かに、遠野物語のゴンゲサマなどに見られるように、獅子舞は耳を取るという発想が起こりがちであると思う。柳田國男『定本柳田國男12巻』(筑摩書房 1969年)を参考に、以下に記す。

 

耳を取られる経緯としては、村の獅子同士が争って、耳やら鼻やらを噛み切られて、その古戦場には獅子塚ができて、以後の獅子舞の侵入を防止したという話の結末に至ることもある。そういう場所には、耳塚やら鼻塚やら花塚やら耳取橋やら様々な地名が残るが、そこに住む人、通る人は今となっては、何のことやらさっぱり分からないという人が大半だろう。

 

日本の歴史を振り返ると、人間の耳を大量にとって埋めたという出来事が3回あった。その3回とは、神功皇后三韓征伐の際に作られた筑前糟屋郡香椎村大字濱男の耳塚の話と、八幡太郎義家が奥州征伐の後に河内国に築いた耳塚の話と、豊臣秀吉朝鮮出兵の後に現在の京都市東山区に作った耳塚の話だ。最初の2つについてご存知の方はかなり少ないだろう。結局、豊臣秀吉の耳塚の話がだけがなぜか有名になった。結局倒した敵兵の数を数えるのに、首を持ち帰るのは大変なので、耳をそぎ落として持ち帰ったということであろう。これを埋めたのが耳塚であり、朝鮮半島から人が訪れた際、その時討たれた子孫の者は特にこの場で涙するという。

 

しかし、これらのような耳塚はあまり大きくない場合もあるし、その塚の中を調べてみると、なぜか4尺の太刀が見つかることもあったそうだ。昔から土地の人はその場所を耳塚と思っていなかったという場合もある。それならば尚一層、耳塚の謎は深まるばかりである。また、耳塚の先型として、源頼義が作った六條西洞院の耳納堂は、古事談によれば敵だけではなく味方の遺物供養的な性格が読み取れなくは無いという。結局、耳塚といえば、朝鮮出兵の話を思い浮かべるというのは、後世の語り部の結果であってその由来は様々であるというわけだ。

 

ただし、小さなものを含め、耳塚が全国的に分布することを考えてみるに、何かその根源的な由来がどこかに存在すると考えることは自然である。柳田國男はこの点に関して、耳が単に持ち運びに優れ、簡単に物品のように扱うことができ、塚を築くために耳を取ったと考えるのは、動機として存しえないという内容を述べている。つまり、塚と供養とを結びつけるのは後世の人々の作り話という場合も多いようだ。

 

古代に遡れば、多くの耳取りは「神や精霊の占有物」を意味する標識法であり、耳は最も無害な家畜管理法とも言えるという。すなわち祭りの直前まで、動物を生かしておくことと識別することの両立を図ったということである。それが獅子舞の耳を取る話にも繋がってくるわけで、諏訪の御頭祭で鹿の頭が75頭供えられる際に耳裂鹿が混じっていたというのもこれで説明がつくのだ。それが結局、村の境とも性質が重なってくる(まれびと的思想等によれば神が入ってくる場所であり、悪疫も入ってくる場所?)というわけで、それが場所的にも獅子塚と一致するわけだ。耳取の生贄で神を祀った霊地が通りすがりの人にとっての神聖な場所となり、その崇敬が衰えると祭事が中断されて野生化する。その結果できたのが、今日の耳塚であり獅子塚であるというわけだ。

 

※獅子舞の鼻を撮影している自分は、鼻がチャーミングだからと撮影しているのだが、ここに史実的な根拠を耳塚鼻塚的発想で無理やり持たせることもできなくは無さそうである。

渤海使は石川県に獅子舞という芸能をもたらしたのだろうか?

渤海という国は面白い。渤海国は中国史において唐の属国と見なされ、渤海使遣唐使の一部だと考えられてきた歴史がある。さらに大きな歴史的事件が起こることなく、開国から消滅までの200年の歴史の中で比較的平和的な国家が保たれてきた。これらの理由から、歴史の表舞台からは姿を消している。日本人も中国人も、歴史上この国が存在したことを知らずに、歴史の授業でも数行しか触れられない。しかし、渤海と日本の交流は密接で、遣唐使よりも長く多数の交易を行ってきた歴史がある。渤海の毛皮と日本の繊維が主な貿易品だった。渤海にとって日本の繊維は防寒具を作るために必要で、日本にとって渤海の毛皮(虎や豹など)は高価で貴重なものとしていわゆるステータスの象徴のような形で1匹あたり8万円ほどで取引された。

 

渤海使が日本と交易していた時代は、まさに獅子舞が日本全国に伝播している時期である。612年に百済味摩之が伎楽の一部として獅子舞を伝来してのち、それが仏教の行道の獅子として日本全国に広まっていく過程で、大陸系の獅子舞といえば味摩之が伝えた伎楽の獅子ということがもう当たり前だと考えられているような気もする。しかし、その後も遣唐使遣新羅使渤海使などが日本に来ていたわけで、中国において獅子舞が盛んになったのは唐の時代なので、唐の時代に何らかの形で獅子舞が流入していたのではないかと考えたのである。

 

ただし、歴史の表舞台に立っている遣唐使から探るのはあまり得策とはいえない。石川県加賀市で獅子舞調査をしていて感じたのは、能登半島や加賀に寄港していた渤海使の人々が何らかの獅子舞のような芸能をもたらしたのではないかということ。実際に、上田雄『渤海使』(講談社学術文庫, 2004年)の記述では以下のようなことが書かれていた。

 

821(弘仁12)年に来日した第20回渤海使の王文矩(おうぶんく)らは、正月16日に朝廷の宴会に参加したようで、そこで打毬(だきゅう)またの名を毬杖(ぎっちょう)というスポーツの技を披露したとある。その内容は、騎乗して打棒で毬(まり)を打って、相手陣に入れることを競うゲームとのこと。唐や東アジアでは競技終了後に「打毬の舞」を上演するようになり、その舞楽が日本に「唐楽」として伝えられ、今も雅楽の演目として継承されているようだ。しかし、騎馬民族&狩猟民族ではなかった日本人の間で、この芸能はあまり広まらなかったようだ。しかも、獅子舞との関連性はあまり見られない(雅楽と獅子舞との繋がりはやや存在する)。ただ、少なからず渤海から日本に芸能が伝わった例があるということはわかった。

 

また、獅子舞のシシに関していえば、882(元慶6)年に裴頲(はいてい)という人物が渤海使として加賀国に来た時に、渤海客に饗応すべく、越前、能登越中等の国に命じて酒、宍(しし)、魚鳥、蒜(にら)などを送らせる指令が出されたそうだ。また、919(延喜19)年に裴璆(はいきゅう)という人物が来日した時に、滝口の武士に命じて在京している間は毎日鮮鹿2頭を用意したようで、肉食の渤海使に対して日本の狩猟関係者が必死に獲物を捕らえていたことが想像できる。当時は肉をぼたん鍋やステーキにして、蒜などを添えて食べたとのことである。

 

結局あまり大きな手がかりはまだ得られていないものの、渤海使が日本に何らかの芸能をもたらし、それが日本の芸能史の大きな役割を果たしていた可能性があり、それが見過ごされてきている可能性もある。そのように感じるのである。引き続き、渤海使の果たした役割について、文献資料やフィールドワークなどを通じて得られた見識をもとに明らかにしていきたいと考えている。

獅子頭は本物の動物の頭だった話

昨日は埋めてある豚の頭を土から掘り返して、それをモデル(半々さん)が持って、写真の先生(うつゆみこさん)が撮影をしているのを見学するワークショップに参加した。 とても刺激的だった。毎週続けていて、もう6回目とかで、まだまだやるらしい。

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豚の頭と聞いて思い浮かんだのは、獅子頭のことだった。もともと柳田國男の『獅子舞考』等で言われているように、日本古来の獅子舞(とりわけしし踊りの部類)は「獅子=動物=人間」という関係性が見られる。どういうことかというと、例えば獅子頭を埋めることによって村境で悪疫の侵入を防ぐという考え方、あるいは海や山の怒りを鎮めるという考え方が伝わっている地域が日本全国にある。それは元をたどれば動物(鹿や猪、熊など)を埋めたことは明らかで、死者分割譚や人身御供の観点から言って起源は人間を埋めたことすらも想像される。人間を埋めることの無慈悲さと非合理性、形式化などからして、徐々にそれが薄まり、人間→動物→獅子頭と周縁化・外部化が行われた結果であろう。首塚、胴塚、手塚、耳塚などが日本全国に見られることから、埋めるという行為は対象物を分割させて埋めたというのは明らかだ。このようなことを考えてこのワークショップに参加したら、まさにその過去の紐解き、再現に繋がった。

 

それはともかく、実際のワークショップで得た新鮮な気づきについても触れておく。土に埋められた豚の頭を掘り返すという行為について、恐ろしさはあまりなかった。なぜなら、あまり肉がついていなかったからだ。肉がついていればそれだけリアルで恐ろしかったに違いない。豚以外にも、鳩などの動物が埋められていたが、それらはリアルだったのであまり掘り返せなかった。また、肉はトロトロのソースのように溶けていくことがわかった。そして、異臭はすごく、ダニが湧いていた。匂いがうつるので、家に帰ったら洗濯とシャワーは必須だ。思ったより豚の骨の部分というのは小さく細かった。肉の分量はとても多いとわかった。土に埋められた人間や動物および獅子頭を掘り返すという習俗は日本にはあまり見られないが、例えば、インドネシアスラウェシ島のトラジャ族は死んだ人間の墓を掘り返してドレスアップを行い、死体洗い祭りを行う。これは先祖との繋がりを再確認するために行われるが、今回のワークショップは動物·自然との繋がりを再認識できるものだった。まさに死体洗い祭りの再現を見ているような気分だったのだ。

 

このようなワークショップの面白さはアナログ回帰という時代性もあるだろう。パソコンと携帯ばかりを見て土を踏みしめず道路を踏みしめる私たちの病を直す処方箋になりうると思う。自分の原点でもあり、多くの人の原点でもある自然と人間の関係性を問い直す行為なのだ。モデルさんと写真家さんの呼吸が整った時に良い写真は撮れる。それはどこか猟師が山に向かう感覚と似ているとも感じた。気を引き締めて自然に相対する感覚を感じたのだ。自然と遊び戯れるのだけれどどこか引き締まっている。豚の首は微笑むだろうか、もっと撮ってくれとプライドをくすぐるような思いになっているだろうか。ただ恐れそれを避けるのはおそらく我々にとって自然が遠すぎて、それゆえに理解できない結果なのだろうとも思う。そこに問題があるのではないだろうか。知らず知らずのうちに環境問題は進行しているように、自然に向き合いもっと考えていかねばならない。モデルさんのポージングを見ていて様々に工夫し戯れる様を見ていてそう感じたのである。

 

獅子舞という芸能の分野における、動物と人間の関わりについてもう一度整理しておこう。獅子舞の始まりは、東アジアに広がっている大陸系のものだと動物の霊力を身体に取り込み自分の地位を高める、あるいは守ってもらうという意味合いがとても強い一方で、 日本古来のシシの踊り(獅子舞に近いもの)は、動物の供養やその動きを真似て自然に対する敬意を表するというような意味合いが強いと思う。日本には敬語があるように自然に対して少しへりくだっているようにも感じる。大陸の方から渡ってきたものと似ているようで全く違う部分だ。現在の獅子舞は、 演舞によって獅子を殺し厄を払う、あるいは獅子に悪疫を退治してもらうという2つのパターンが存在しており、獅子を殺す発想の繋がりとして獅子を穴に埋めるという行為も存在するのだと思う。

 

その時の感覚は、自分ばっかり食べてないで神様にも食べていただこうという意味の贄なのか、大事なものは差し出さないと怒りが収まらないという発想なのか、霊化した生き物強さを借りるということなのか、厄を宿して埋めてしまえという考えなのか、寺社仏閣いずれかに対する圧力なのか、埋めるという死が守り神を作り出すということなのか。本当に千差万別の解釈が存在するのだ。今回のワークショップは定期的に開催しているようで、定期的に地底にいる動物の神様を掘り起こし戯れることで動物・自然との繋がりを再確認するものかもしれない。これは獅子頭を埋めるという習俗すらも薄れてしまった現代においてその時の感情を再現する手がかりになりうるだろう。

置賜地方の獅子舞、百足獅子の系譜を探る

山形県置賜地域は、明治初期の旅行家·イザベラバードが「東洋のアルカディア」や「エデンの園」と称えたほど豊かな暮らしと農村が広がっている地域だ。東北で唯一この地を称賛したのはなぜだったのか。おそらく中央政権の力が及びきらず民衆の力が強い土地だったのではないかと思えてきた。僕は山形から米沢行きの電車に乗り、赤湯で乗り換えて長井に向かった。印象的だったのは、空を映す青々とした水田と列車から見える徐々に開けて行く米沢盆地の雄大な眺めだった。

 

この地は古くからの交通の要衝であり、陸路と海路で様々なものや情報、文化が伝えられたのだろう。置賜地域の獅子舞は、富山由来の百足獅子が見られる。また、山形の獅子舞の特徴からして、海側に近づくにつれて天狗の登場する獅子舞が多くなることからも富山県や石川県周辺との交流は明らかである。石川県で獅子舞を取材している僕は、まずこの点に興味を持ち、置賜地域を中心に山形県の獅子舞の取材を始めた(2021年5月22日の記録)。

図書館での調査(山形県立図書館)

安彦好重『出羽の民俗芸能』(みちのく書房, 1997年)によれば、山形県内には百余組の獅子舞があり、しし踊りに近い頭をかぶるものもある。また、神事神楽の中の獅子もある。県内で最も獅子舞が多いのは、長井市白鷹町で合わせて54組伝えられている。次に多いのが鶴岡市の23組、その次が酒田市の19組で、庄内の最上川流域と続いている。長井は黒獅子だが、海岸沿いになると獅子の先払いの形で天狗が登場する「天狗舞」が多くなる。

佐藤源治『獅子と獅子舞』(獅子玩具館, 1991年)によれば、長井市の獅子舞は飯豊町、小国町にも及び、一部獅子舞ではなく「獅子振」と呼ぶ地域がある。本家と言われるのが宮の獅子舞で、獅子連中は約20名、曲目は千鳥、六法、おみ坂下り、警固がかり、橋渡り、獅子とめ破り、お神酒などである。獅子の下顎を掴んで制御する場面はあるが、力比べのようなものはない。小出の獅子は宮と同じくらい古いと言われ、獅子と警固の格闘が迫力がある。

白鷹町教育委員会『しらかたの獅子舞』(1990年)によれば、百足獅子で最大なのは、西村山郡朝日町宮宿の豊龍神社の豊龍獅子舞である。長さ10メートル幅4メートルの幕に5~60人が入って寝ることになっている。置賜地方の獅子舞は笛太鼓のメロディー及び舞い方で大きく2つ又は3つの系統に大別される。1つ目が鮎貝八幡宮系の「七五三獅子舞」、2つ目が長井聰宮神社系で「蛇頭」と呼ばれる獅子舞、3つ目が長井聰宮神社系とも似たメロディーの浅立系の獅子舞である。獅子幕によって分類するならば、主流は波模様と飛沫が染め抜かれた長井聰宮神社系、そのほかには水玉だけの長井草岡、縞を染めた浅立、背中の縞だけの飯豊手の子、唐草模様の川西町小松などがある。獅子頭の特徴によって分類するならば、鮎貝八幡宮系の唐獅子系と長井聰宮神社系の蛇頭である。

図書館での調査(長井市立図書館)

「長井のひとびと」編集委員会『特集 おしっさま』(平成9年3月)によれば、長井市の百足獅子は2人立ちの獅子から枝分かれして発展したと考えられる。発生源は謎だが、上からではなく下からつまり民衆から沸き起こった獅子と考えられる。その証拠に、箕を2枚使った獅子頭と蚊帳の獅子幕を使用したと考えられるからだ。

 

百足獅子の出現背景は、獅子を大きくしたいという気持ちがあったはず。大きくするということはそれだけ獅子の威力を強めると共に、共同体の多くの人が参加できる獅子舞であった。つまり、この本によれば「共同体総合参加型の獅子」と呼んでいるそうだ。また、大人に肩車された獅子児たちが獅子めがけて突進して獅子の頭を叩いてからすぐ自分の頭を叩く。これは獅子の霊的な力を自らに取り入れようとしていることが推測できる。無論、百足獅子に参加することは霊的な力にあやかりたいという気持ちの現れだろう。ここで考えうる百足獅子の成立年代として、民衆社会が社会的経済的文化的な成熟が必要なことを考えると遡れたとしても中世後期まで。多くは江戸時代以降の成立と考えた方が良さそうとのこと。

 

また、もうひとつの出現背景として、水への信仰との関わりがあり、獅子を蛇に向かわせるために、むかでに至ったという説もあるという。関東各地で蛇体を藁などでつくって大勢で担いで雨乞いなどを行うのと似ている。また、この百足獅子と発想が似ている存在として、北陸中部の「蛇獅子」「へんべとり」などがあり、蛇は邪に音で繋がることから邪を退治する表現のようだ。

 

置賜地域の獅子舞は加賀の獅子殺しの舞ほどには負の性格が強くはないが、「角力や口取り」という役の者が獅子を押さえ込むことで獅子をコントロールするという発想とのこと。角力が登場する背景としては、草相撲が盛んな土地柄であり、この天狗などの怪しげな霊力を持つものではなく非常に民衆に近い存在が獅子をコントロールするのだ。

 

百足獅子に2つの形態がある。1つ目は「素手型」で、獅子の幕のなかで素手で支えるという型で、置賜地域は全てこれだ。2つ目は「枠入れ型」であり、幕のなかに竹や木枝、パイプなどを入れて身体を作る型である。少ない人数で大きく身体を作るために開発されたのが後者で、前者の方がより昔からある形態のようだ。

 

第31回 長井黒獅子まつり

角力(警護)のかっこよさ半端ないというのが、はじめの印象。基本的には金三千円から一万円がご祝儀の相場。鳥居をくぐり、会場の回りをパクパクしながらご祝儀をもらいながら回る。後半は角力との力比べ。獅子が角力をけしかけるが動じない。最後は角力が横から獅子頭をわしづかみにして、獅子は暴れまわり、最後に拝殿に獅子の首を供えて終わる。これは確実に実際の狩猟を模していると感じた。最後の最後は鎮魂で終わるんだなと思った。東北の供養系の芸能の影響だろうか。とても東北らしいと思った。以下、Youtubeライブ配信の解説で聞いた様子を交えながら振り返る。

 

日程

17:00~ 開会セレモニー
17:30~18:25 第1部(五所神社, 八雲神社 交代制演舞)
18:45~19:10 第2部(白山神社, 皇大神社 同時演舞)
19:30~19:55 第3部(聰宮神社 演舞)

 

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以下、ながい黒獅子まつりのYoutubeライブでわかったこと。

(獅子宿の渋谷さん、とってもお詳しい!)

 

長井の黒獅子の特徴

長井の黒獅子の特徴は顔を覆うようなたてがみ、飛び出した目玉、口が90度以上開く、大きな歯うちを行うということである。鼻ひげはヒマラヤなどに住むヤクの体毛、それが振られるたびに厄払いが行われる。獅子の髪はだんだんと黄色くなっていく。お祭りの時の太鼓の三つ巴のマークは、お祭りの家紋で神社のお祭りであることを表している。幕を広げて下につかないようにするのが大変。人が少ないほど幕が擦れるので、気を使う。6人だと大変。わらじの履き方を見ると、ベテランか新人かがわかる。わらじに使う稲も、丈の長い品種を植えて手刈りで仕込む。警護は獅子舞が上手で品格があるふさわしい人が選ばれる。相撲を取って前の人に勝たなければやらせてもらえない。提灯は田楽提灯を見ることができるが、「下馬下城」という文字が書かれている。殿様でさえも馬から降りねばならないという意味で、聖なる行列を邪魔してはいけなということのようだ。獅子が警護に絶対服従だ。獅子がちらっと見返すのは歌舞伎の見栄の影響かもしれない。激しい歯打ちの後は、獅子も欠損が目立つ。柳が一番丈夫で作りやすい。歯打ちの回数は神社によって異なる。聰宮神社系統だと、何もなし(1回)、お神酒(2回)、ご祝儀(3回)となっている。近頃は毎年、祭りの日に雨が降る。水神様、雨乞いの獅子というのが関わっているのかもしれない。獅子は波模様であるように、獅子は八の字を書いて進む。洪水というマイナスの力を信仰によってプラスに転じるということを意味している。女性が笛に参加するようになったのが平成になってから。少子高齢化と担い手不足の影響だ。アスファルトの上での獅子舞は、わらじがすぐにボロボロになってしまうので大変。境内に火を灯すのは、火渡りなどから分かるように、山伏由来である。篝火には周辺を清めるということと、目印という意味もある。獅子舞はベテランかわかるのは、足捌きの動き。獅子幕の中では様々な攻防があり、フォーメーションの入れ替わりなどがある。男性の荒げる声、規律を保つという感じ。太鼓を支える台が重い、現在は車輪をつけているが、昔は背負っていた。お腹に響く、和太鼓の音。赤ちゃんがお腹の中にいたときに一番近い音のようだ。牛の革を使っている。獅子頭はお歯黒の場合がある。これはお神酒を拭き取る際などに擦れて金の部分が剥がれた場合と、女性のお歯黒を表現した場合とがある。中で獅子振りが交代する場合があり、それも右回りと左回りとがある。長井市は黒獅子が基本で4箇所あったしし踊りはなかなか継続が難しくなっている。黒獅子は文化祭などを通して、子供が獅子舞に触れる機会などもできているようだ。今まで渋谷さんは獅子頭を200体くらい掘ってきたとのこと。その中で、今回登場するのは、五所神社の新調した獅子頭や、聰宮神社の獅子頭などである。獅子頭を滑らせるように動かして、上下させないのは蛇が由来であるからだ。雨が降ると幕が重くなって、口が閉じなくなることがある。原始的な脱水方法ということで警護棒に幕を巻きつけて、水を絞ることがある。また、幕の中に入る人の装束が白いのは修験道の死装束を意味する。祭り後の幕洗いで罪穢れを流してしまうという意図である。化粧回しは菊の御紋である。警護は特に、日頃見ることのない男性らしさがよく見え、格好よさを感じる。祭りの季節は太鼓の音が神社から聞こえてくる。

 

五所神社(寺泉)

五所神社は突き出すような見返しが特徴である。大きな「歯うち」が印象的で、その空間を祓い清めるという意味があるようだ。獅子に対峙する警護は警護と副警護がいる。五所神社の警護は裸足なのが痛そうだ。角力(すもう)ともいう。中の人が見えないように口幕を内部につけるのが一般的だがお神酒を入れるために、口幕はつけないとのこと。警護は高いところから見るのは失礼だということで、病院の窓から見ていた患者を引きずり出したという逸話もある。警護の棒は、獅子舞の足を叩いたり幕からぽこっと山になったように見える頭をぽこんとたたくこともある。獅子頭は軽くて6.5kgとのこと。提灯持ちの背中には、出羽三山の版が押されている。幕の模様は荒波が見え、野川を竜神となって下ってくるということを表現しているとのこと。染屋さんによって染め方が少し違うようだ。「警護がかり(警護に襲いかかるという意)」は獅子と警護の力比べだ。獅子の急所と言われる、首のたるんだところを掴まれると動けなくなってしまう。口を開けて喘ぐような仕草をするところもある。獅子が足を開いて踏ん張る。最初の一回めでは、獅子は神社に入りたくないこということで、逃げてしまう。その後、五所神社の氏子の総代の方々が集まりだす。2回目の警護がかりで獅子は神社に入る。首が祭壇に供えられる。

 

八雲神社(久野本)

マスクは黒く垂れ下がった模様。中津川のおおたさんの獅子頭五所神社のたてがみに比べてクリーム色。だんだん短く風化していく。口幕が付いている。手で裂いたものを財布に入れておくとご利益がある。鳥居を潜りたくない、臆病。それで警護のなすがままに従っていくということがある。顔も五所神社と違い、目力が強く緊張感がある。とても幕がながく、菊の紋が入っている。獅子の顎に手を入れている。持ち方が特徴的。こちらは五所神社と違って裸足ではなく、白足袋を履いている。警護棒を獅子に咥えさせるというシーンもあった。これは珍しい。正面から警護を睨む。最後の歯打ちで魂が抜ける。

 

白山神社皇大神社(小出)

お囃子の人がとても多く、女性が多い印象。ここもかなり幕が大きい。雨が降ってきた。幕が重そうだ。幕さばきを行う後ろの舞い手に対する負担が大きい。途中から、ステージ方面から皇大神社の獅子が参上。2対の獅子が同時に舞っている。動きをシンクロさせるのはなかなか難しい。ご利益も2倍である。家で神社の獅子を迎えるという迎え獅子が始まりで、2対一緒に出るようになったといういわれも伝わっている。遊び足りないという風に、後ろを振り返りながらゆっくりと人事にはいっていく。獅子舞の影が魂のように見える。幕を引きずるように終わるというのが独特の終わり方。小出の獅子振りというのは、長井市の指定無形文化財である。

 

④聰宮神社(宮)

辺りは真っ暗になり、篝火が目立つようになってきた。移動の速度が速くて勢いのある獅子舞だ。幕の中で、かなり密になっている様子。警護は新しい人になった。恰幅が良くて、草相撲の優勝者という起源を感じさせる。だいぶ力のこもった獅子振りになっており、緊張すると獅子頭が斜めに曲がってしまう。尻尾を持つ役割は大変で、置いて行かれる時もある。聰宮神社の獅子は幕の人数がとりわけ多く、六町の合同で行っているようだ。警護係の時に獅子の中の人が足がくっついていて綺麗である。聰宮神社の足元は以前は雪駄だった。すんなり警護に導かれるでもなく、「おみさかのぼり」で階段をのぼる。後ろを振り返りながら、徐々に階段を登っていく。聰宮神社は様々な神社が合祀して、聰宮になった。聰宮神社は長井小学校の校歌にも登場する。

 

ながいの獅子舞は総じて、まず迫力がある。大人数で行っているからだろう。その分、共同体に開かれている印象もある。そして、中央のお祭りが白つつじ公園であるということで、横のつながりもできやすい。警護の迫力は相当で、プライドも大きいように感じる。伝統を感じる獅子である、そして獅子頭がとてもユニークだ。鼻毛をつけるのはユーモアだと聞いたことがある。ヤクの毛を使うというのは興味深い。それにしても、コロナ禍で工夫してこのように開催できたのはとても良かった。

 

 

日本最古級の獅子舞は田楽との結びつきが強かった?浅草三社祭の「びんざさら舞」を考察

柳田國男の『獅子舞考』を読んで以来、獅子舞と田楽の関わりについて気になっている。喜多村信節の『筠庭雑考(いんていざっこう)』では、田楽で舞う獅子舞について、西域亀茲国を経由して輸入したものだと述べているが、日本の獅子舞はこの田楽法師の漂白性に背中を押されるように日本全国に伝わったのではないかとも言われているのだ。今回は田楽と獅子舞との繋がりを知るべく、2021年5月15日に行われた三社祭にて見学した浅草神社(拝殿・神楽殿)のびんざさら舞(田楽の一種)から分かったことを以下に記す。

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ささら舞の様子(photo by Yukimasa Inamura)

びんざさら舞の流れについて

びんざさら舞はささら舞と獅子舞とで構成される。当日の流れとしては、11:00頃に拝殿にて獅子舞とささら舞の演舞を行い、その後、神楽殿にて11:30よりささら舞を再び演舞するという内容であった。神事・びんざさら舞は神官以外が行う唯一の神事であり、降神の儀の後に行われる。獅子舞とささら舞の演舞内容は以下の通りである(台東区教育委員会発行の神事びんざさら舞保存会のパンフレット及びびんざさら舞の司会者による説明を参考に記す)。

 

<獅子舞>

東西南北をそれぞれ向き、太鼓と笛に合わせてゆっくりと舞う。この舞を四方固めの舞とも言う。浅草神社のびんざさら舞はなんと日本で最も古い獅子舞の形態を今に伝えると言われ、京都の岩清水八幡宮と八坂神社に並ぶと言われている。獅子頭自体は新しく新調されているように見えたが、舞いに関しては最初期の獅子舞の形態を今に伝えるということだろう。雌の獅子頭は青色で白髪で毛深く、白い毛の付いた尾を持ち、頭には擬宝珠(ネギの花の形をした飾り)が乗っている。一方、雄の獅子頭は緑色で茶髪でやや薄毛であり、茶色の毛の付いた尾を持ち、頭には一角獣のような長い角が付いている。演目は以下の通りである。

①雌獅子舞:子孫繁栄と悪疫退散の祈願を込めて舞う

②雄獅子舞:家内安全と商売繁盛の祈願を込めて舞う

③雌雄獅子舞:子孫繁栄や夫婦和合を祈願する「つるみ舞(つるみの舞)」という

 

<ささら舞>

ささら3人(3挺)小太鼓2人(2個)で向かい合って笛に合わせて舞う。五穀豊穣を祈願する舞いで、似た舞形として奈良の春日大社紀州熊野那智大社、近江の日和大社、東北の毛越寺の4箇所に伝承されているという。

①種蒔:農耕の種蒔をする形

②肩揃:肩を揃えて田植えする形

③鶫間口:鶫(つぐみ・武蔵国における旧名は「鳥馬」)が害虫を捕らえ食う形

④蹴合:蹴り合う所作を3回した後に拝殿を一巡する、軍鶏が喧嘩をする所作で豊作の喜びや青春の跳躍を表す形

浅草神社におけるびんざさら舞の始まり

628(推古天皇36)年3月18日、宮戸川(今の隅田川)の河口付近を浅草浦と言い、そこで檜前浜成、竹成と言う漁民の兄弟が漁をしていたが、雑魚一匹獲れなかった。しかし、そうこうしているうちに、一寸八分(5.454cm)の金無垢の御神体が網の中に入ってきたという。それを土地の文化人である土師真仲知師に見ていただいたところ、聖観音像としてということでお祀りしたのが浅草寺の始まりとのこと。

この聖観音像出現時に、お祀りするために草庵造りをした。それを手伝った草刈童子(土地のお百姓)10人が、草庵の周りを踊ったのが、びんざさらの始まりとのこと。その時の子孫が今でもびんざさら舞を踊っているというわけだ。

三社様(浅草神社)の祭礼という形での始まりは、鎌倉時代後期のこと。1312(正和元)年、花園天皇の時代にご神託があり始まったと江戸時代後期の書物『東都歳時記』には書かれている(戸田茂睡による江戸時代前期の仮名草子『紫の一本』にも書かれている?)。また、装束や楽器の形態的に起源は室町時代のものが多いようで、網野宥俊『浅草神社の今昔』(浅草観光連盟 浅草文庫・1978年)によれば、「恐らくは室町時代以降と服装の上から考えられる」と書かれている。

江戸時代、びんざさら舞は祭礼日の3月17日・18日、6月15日に奉納されていたとのこと。3月は今とは違って、観音堂浅草寺本堂)の前で行われたようだ。明治時代の神仏分離令が出されるまでは浅草寺浅草神社は同一だったのだろう。また、当時の芸能従事者の地位は高く、獅子役の人々に1人5畝歩の畑地を御朱印地(年貢諸役を免除した土地のこと)として徳川家より下賜されたり(これに関しては獅子役の家系を引き継ぐ斎藤氏所有の1847年の文書が残っている)、装束を纏うと「従4位の下」の待遇を受けたとのこと。1956(昭和31)年11月に東京都から民俗無形文化財、2015(平成27)年に国の選択民俗無形文化財に指定されて、今に至る。

 

この浅草神社のびんざさら舞から読み取れるのは、恐らく日本文化伝播の中心地・京都よりびんざさら舞が伝わったという事実。そして、これらが推古天皇の時代に遡るほどに古い形態であるという事実だ。獅子舞が大陸から伝わったのが612年だから、たったの16年で京都から浅草まで伝播していた可能性がある。ただし、この推古天皇時代の628年という観音堂建立年に獅子舞がびんざさら舞に符合していたのかは更なる真相解明が必要である。また、この起源から鎌倉時代後期までの約700年が空白の時代であり、この大きな空白をどう考えるのかが肝になるだろう。鎌倉後期といえば日本の資本主義経済の起源とも言える時代であり、商業主義とともに神事が祭礼化された時代であるとも言える。この時代以降は実際に全国的にも獅子頭の現存数が極端に増えているし、祭りの中で獅子舞が行われる機会も多くなっただろう。しかし、それ以前は祭礼無くしてどの様に伝承できたのか。そこには大きな謎があるようにも思える。それにしても浅草は第二次世界大戦で戦火に遭っているので、獅子頭やら装束やらが皆新調されていて、舞は古いのに、道具は新しいというのがやや勿体無いような感じがする。それにしても、あのゆったりとした動きはまさに日本古来の舞であろうということは一目瞭然であった。今後も、空白の700年を中心に様々な調査をしていきたいと感じた。

 

Ps. 2021年6月7日追記

浅草神社に近い鳥越神社で昨日、鳥越祭りが行われたのだが、そこで登場する千貫御輿というかなり大きくて重い御輿が展示されており、その左右に獅子頭が配置されていた。その獅子頭は渦巻き模様が立体的で尖っていたことと黄金に輝いていたことは異なるとして、一角獣と擬宝珠という対になっていたのは浅草神社のびんざさら舞と共通しており、大変興味深かった。鳥越神社も浅草神社同様にかなり創建が古く、651年と言われている。古来の獅子舞の形式を今に伝える古社の1つだろう。ただし、鳥越神社においては現在獅子舞が行われていないようで、獅子頭が御輿庫の中で御輿の両端を守護するという形しか見られなかった。浅草神社と鳥越神社の獅子頭の関連性はまだ謎なので、今後の検討課題である。

飛騨高山獅子舞考

飛騨高山エリアの獅子舞文化に興味を持った。発端は毎年5月10日に行われる飛騨側の北アルプス開山祭である播隆祭で鶏芸(とりげい)と呼ばれる芸能と獅子舞がセットで披露されるということを聞いたからだ。鶏芸とは鳥の羽を頭にくっ付けて踊る芸能らしいが、この様相がまるで関東の三匹獅子舞そっくりに見えてきた。この鶏芸なる芸能は獅子舞との関連性が深く、その歴史を紐解くことに繋がるかもしれないと直感的に感じた。そこで、5月10日の本番に合わせて、飛騨高山を訪れた。

 

日程は以下の通りである。

5月9日

10:00-11:30 飛騨古川まつり館
11:30-12:00 飛騨の匠文化館
14:30-16:00 千光寺(両面宿儺)
18:00-18:30 うま宮(食事処)
19:00-20:00 高山市図書館

5月10日
10:00-11:15 奥飛騨温泉郷村上神社 播隆際
13:30-14:30 高山市図書館
16:00-17:00下呂狛犬博物館(すでに閉館)

飛騨高山の獅子舞

高山市図書館でわかったこと。高橋秀雄他『岐阜県の祭礼行事』(おうふう,1992年)によれば、岐阜県の多くの獅子舞(とりわけ美濃)は伊勢大神楽がもとになっており、一部飛騨では獅子退治の金蔵獅子などが入ってくる。一般には獅子の神格性による悪魔払いが行われるのだが、金蔵獅子は「金蔵」が獅子を退治するという珍しい筋書きである。男神の金蔵と女神のお亀が様々な滑稽な演技を繰り広げた末に獅子が退治されるというのだ。これは害獣を退治するという志向の強さが芸能に反映された形だろう。獅子退治という意味では、天狗が獅子を退治する天狗獅子もあるようだ。また、前獅子と後獅子とが肩車の状態で演じたり碁盤の上に乗ったりする曲芸的な小雀獅子などもある。

金蔵獅子に関して、中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)によれば、701年という大宝年間に新羅の僧・隆観が伝え今に至る。日本三大曲獅子の1つと呼ばれているようで、獅子舞が大陸から伎楽の形で百済から伝わったのが612年だから、それから100年足らずで飛騨の地にまで獅子舞が伝わっていたことが非常に驚きである。百済の滅亡が660年で新羅朝鮮半島統一が676年だとすれば、百済の獅子舞文化も新羅へと移行しているはずだ。加えて、文武天皇時代(683-707年)に飛ぶような素晴らしい馬が生まれて献上した国として「飛騨」という名前が誕生したことからして、中央との交流も活発であったことがうかがえる。何はともあれ、飛騨の獅子舞はとにかく歴史が古いということは確かだ。

また、ふるさと神岡を語る会『神岡の獅子』(2008年)によれば、高山市の隣の神岡の獅子舞の分布が事細かに調べられており、大部分は富山県との境の猪谷などから江戸から明治時代に伝えられたことがわかった。なぜ高山側との交流が極端に少なかったのか、疑問が残る。

ところで飛騨の匠文化館では、飛騨の匠に関する展示をみた。ここで、獅子頭が展示されていてはっとした。飛騨の地には木材が豊富にあり、腕のたつ職人もいて獅子頭という工芸が成立している。祭りあるところに職人ありとはこの事。まさに産業と祭りが連動している様を実感することができた。飛騨の匠は柱ごとに自分の印を刻み、誇りとしていたようだ。ひとつとして同じ印はない。誇り高き技術から工芸がどんどん発展していったことがわかる。

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鶏芸と獅子舞の関係性とは

飛騨古川まつり館で古川祭の展示を見ていて、闘鶏楽と獅子舞が並んで飾られていた。鶏芸は地方の中心地(飛騨古川等)で行われる祭礼においてやや形が変わり、「闘鶏楽(鶏闘楽)」として今に伝えられていることがわかった。鉦と太鼓でリズムを奏でて、御神霊を慰めるもののようだ。スタッフの方によれば、鶏は平和の象徴というようなイメージがあるというお話をされていた。また、この地域の獅子舞に関して、胴体部分の呼び方がカヤでも幌でもなく「油単」であったことに興味を持った。油単といえば、箪笥(たんす)や長持などにおおいかぶせる布を思い浮かべる方も多いと思うが、なぜこのような名前になったのだろうか。疑問はつきない。油単の模様が鶏のトサカに見えるのは僕だけだろうか。さらに興味深いのが、鶏芸で使われる山鳥の雄の羽を「シャゴマ」と呼ぶのだが、石川県加賀市橋立で見た金沢方面から伝わった獅子殺しの獅子舞では獅子と対峙する舞い手が「シャガ(シャンガ)」と呼ばれる毛を付ける。羽と毛と言うことで素材は違うものの名前が類似しており、双方に何らかの関連性があるだろう。

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高山市図書館でわかったこと。高橋秀雄他『岐阜県の祭礼行事』(おうふう,1992年)によれば、闘鶏楽の起源について、建久2年に源頼朝鶴岡八幡宮への遷座に際して、京の伶人(音楽を奏する人)である多好方に宮人の曲を唱えさせたところ、この恩賞として建久4年に飛騨国荒木郷の地頭職に任じられたことに始まる。鉦と太鼓を打つ芸であるが、頭にシャゴマという山鳥の羽をつけることから、鶏闘楽とか闘鶏楽とか鳥毛打ちなどと呼ばれるようだ。

北アルプスの開山祭「播隆祭」で鶏芸を取材

北アルプスの開山祭である播隆祭を取材させていただいた。これは自然に対する敬意や登山の無事を願い行われるもので、地域の若連中、観光協会、村連中、山岳関係者などの出席のもと行われた。普段であれば観光客含め200人ほどが集まるお祭りだが、今回は新型コロナの影響により、地域の方々を中心に少人数で開催。メディア関係者は20人ほどが集まった。

 祭りの流れとしては午前10時に開始。宮司入場に始まり、播隆碑の御開帳や、玉串奉奠などが行われた。播隆碑だけでなく、その後ろにそびえ立つ山々にも敬意を払い、玉串を左右に揺らしているのが印象的だった。その後に宮司が退場したあと、鶏芸、獅子舞(へんべとり)、小学10名による若太鼓が行われ、一通りの行事が終了。玉串奉奠がやや簡略化されたことにより、午前11時過ぎにはお祭りが終了した。獅子舞は獅子が蛇を食べる動作があったのがとても印象的で飛び跳ねるなど激しい動作が多く見られた。

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 終了後に奥飛騨温泉郷観光協会の方に鶏芸の由来について調べていただいていた文書のコピーを頂いた。そこには、村上天皇(在位 946-967)が鶏芸を伝えたと書いてあった。あまりに古い歴史に驚いた。940年の平将門の乱が終わった後、平穏な人生を送っていた村上天皇は、政治にはあまり関わらず文化面での貢献を多数行ったとのこと。村上天皇が福地(村上神社近くの温泉街)を訪れたときに、「鶏芸·へんベとり·ぼたん獅子」を伝えたようだ。福地にはその名残として、「天皇泉」があり、村上天皇を祀ったと言われる「村上神社」は大字福地字村上にある。いまは、大字村上に位置するということである。なるほど、村上神社の村上とは、村上天皇だったのか。それにしてもこの地の鶏芸・獅子舞の歴史は特筆すべきほど古い。都から一見遠く北アルプス麓の秘境の地·村上に平安中期にはすでに鶏芸・獅子舞が伝わっていたとはびっくりである。

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両面宿儺から獅子舞を考える

高山市図書館でわかったこと。中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)という本を読んだ。そこで、以下の内容が書いてあった。両面宿儺の両面とはすなわち、大和朝廷から嫌われ災厄をもたらすと考えられた一方で、飛騨では民衆を助けた英雄になっているということ。このことから、自ずと獅子舞との共通点が見出だせる。獅子舞も獅子が災厄をもたらす場合と、厄を祓う場合とがある。前者は飛騨地方においては、金蔵獅子、天狗獅子、数河獅子などだ。後者の場合は数多くあり、今回播隆祭で見たへんべえとりという獅子舞もその一種だろう。これは何か両面宿儺との共通性があるかもしれない。

両面宿儺というのは、考えてみれば非常に興味深い存在だ。飛騨の中では、「両面宿儺」が出てくるのは、丹生川村という場所のみ。村内には千光寺の他にも、宿儺が作ったとされる「善久寺」や、宿儺が手下とともに住んでいた「宿儺窟」などの史跡が残されている。地形からして鍾乳洞や水の清らかさ、動物の豊富さなどの観点からしても狩猟民族が住むには適した場所。縄文から脈々と続く暮らしの中に、この宿儺というリーダーが誕生したと思われる。この地で語り継がれてきた伝説は、日本の国誌とも言える日本書紀に登場するのだが、なぜ農耕に適さず都の社寺仏閣に職人が駆り出されるという産業形成からしてあまり重要とみなされてこなかったこの土地が、宿儺の一件で特筆するほどに取り上げられたのか。それは、難波根子武振熊と大和朝廷の武勇を誇示するために引き合いに出されるほどに、宿儺が強い勢力であったことを示しているとも言えるだろう。飛騨史学会『飛騨史学 第6巻』(1985年)によれば、宿儺の乱以前に飛騨に古墳は存在しなかったようで、飛騨の人物が中央の文献に初めて登場したのがこの宿儺だった。宿儺以前と以後では、飛騨の歴史の捉え方が大きく異なってくる。

両面宿儺は漫画・アニメ「呪術廻戦」に出てくるキャラクターとしてもお馴染みだ。『日本書紀仁徳天皇65年の条では、以下のように書かれている。「六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくまのみこと)を遣わしてこれを誅した。」つまり、とにかく異形の神である。科学的には実際にそのような2つの身体を持った人間が生まれうるという話もあるが、これは精神性を身体的に描写したのかもしれないし真相はわからない。

千光寺で両面宿儺の石像を観る

両面宿儺の石像は、宿儺堂にて土日祝日のみ公開されている。両面宿儺の石像は暗い土蔵の建物の中に神聖な雰囲気で立っており、その文字通り顔が前後に2つと手足が4本ずつと異形であった。手の形が裏面だけ仏様に似た様相だった。この像を左回りに回るよう順路が設定されていた。タイのお寺に行った時にも左回りで仏像を拝んだことを思い出した。御朱印やらお守りも販売されていて、やはり「呪術廻戦」の影響もあり認知も高まっているように見える一方で、山奥という立地からか商業の波に雰囲気を飲まれるということもなく、厳かな雰囲気を保っているようにも感じた。

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それから9日には高山市街で夜ご飯として飛騨牛肉入りのうどんを頂いた。大盛りご飯と、漬物4種類まで頂きとてもおいしかった。ご飯はふっくらしていて美味しく、漬物は地の野菜を使用しており、有名な赤かぶなどが使われていた。うどんに入っていた卵が3Lと規格外のもので、大きめで黄身の味は食べたことのない味だった。印象的だったのが店内に飾られていた干からびたカボチャ。振るとマラカスのように音が鳴る。これが、どこか両面宿儺に見えてきて、ちょっとびっくりした。(夏に収穫できる細長い「宿儺かぼちゃ」というものがあるそうで、もしかするとこの品種かもしれない。)

両面宿儺から鶏芸を考える

中村健吉『両面宿儺 飛騨の国におけるその存在とその意味』(平成5年)にはまだまだ興味深い内容が書かれている。両面宿儺と似ている伝説で、北アルプスの反対側に位置する信州安曇野には異形の鬼·八面大王の伝説がある。時代設定は両面宿儺が377年に対して、八面大王が800年ごろと食い違っているものの、先程のべた両面性を有するストーリーがあるなどの共通点も数多く伝わっているのだ。この話を読んで僕が特に着目したのが、「討伐に尽力する存在」として前者が「八幡宮と鳩」、後者が「観音様と山鳥の羽」とある。これは個人的に今までの話の流れからいくと、鶏芸の被り物の鳥毛を連想させる。これも何か共通性があるかもしれない。ここで獅子舞と鶏芸と両面宿儺の信仰がトライアングルで結ばれた。相互に様々な関わり合いを持ち、発展・継承されてきたということかもしれない。

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狛犬から獅子舞を考える

なぜか飛騨では狛犬の話をよく聞く。狛犬研究をされていた上杉千郷さんの影響だろうか。しかし、合掌村の狛犬博物館にいこうとしたが、受付まで来て、「もう7年くらい前に無くなりました」とのこと。なぜ狛犬博物館は消えたのか?獅子舞との関係性が深い狛犬のことを調べようと思っていたのに..。昨日飛騨古川に行ったときにも狛犬博物館がなくなったと言っていた。なぜ狛犬博物館は消えていくのだろうか。下呂の方は、受付の方曰く賃料が高かったのかな?ともお話しされていた。今では、合掌村の一角の萬古庵に一部残されているのみだそうだ。それで、下呂に何かしら爪痕を残したいと思い、駅前の酒屋で「飛騨のどぶ」というどぶろくを飲んだ。どぶろくは神前に供えられるにごり酒で、とても美味しく味わった。一時期は酒税法の関連で禁止になったこともあったそうだが、飛騨の地では脈々と濁り酒が作られている。このお酒はおそらく稲作伝来の同時に作り初めた日本でもかなり古い部類のお酒である。という感じで、飛騨における狛犬と獅子舞の関係性を考えるにはまだ材料が少ない。

飛騨獅子舞考と今後の検討課題

飛騨の獅子舞を概観してみて、とにかく古いという印象を強く感じた。また、狩猟民族とのつながりを感じさせる鶏芸や両面宿儺という存在と、早期に中央から伝えられた獅子舞。これらを相対的に考えることで、獅子舞をはじめとする芸能の古層が明らかになるということが分かった。今後の検討課題としては、鶏芸が獅子舞に変化したりまたその逆パターンがあったりしたらそれはぜひ取材してみたい。大陸から伎楽としての獅子舞が伝来する前のシシといえば、狩猟習俗と密接に関わっていたことは言うまでもなく、それならば鶏芸のように山鳥の羽を頭につけて踊るような芸能が獅子舞文化を受け入れる土壌となった、あるいはその原型の一つとなった可能性だってあり得るわけだ。そこをまずはより取材を重ねて探求していきたい。また、両面宿儺と類似している八面大王と山鳥の羽との関係性も興味深いので、八面大王に関しても調査を進めていきたい。

最後にコロナ禍において、今回取材をするべきか否かの判断は迷ったが、自分が取材をすることで、少しでも地域の方が芸能を続けるモチベーションに繋がり地域の大事な精神的支柱を担う祭りが伝承されていくのであればそれは嬉しいことだ。コロナ禍で2年も祭りができなくて存続の危機に瀕している祭りは多い。この中で祭りを行う勇気に賛同したいし、自分も取材することで応えたい。それが今の心境である。