オオサンショウウオの獅子舞登場!巨大な山車、ねぶたも。岡山県真庭市湯原温泉 はんざき祭り 2026

2026年8月8日、岡山県真庭市の湯原温泉ではんざき祭りなる祭りが開催された。はんざきとは半割きの意で、オオサンショウウオのこと。オオサンショウウオは体が半分になっても再生することから吉をもたらす動物として、はんざき様とされている。この地でオオサンショウウオの獅子舞が開催されるとのことで、現地に伺ってきた。

お盆始まりの休日、なかなかに道路が混んでいてバスが進まない。3時間遅れで大阪に到着。そこからスーパーホクトに乗り、超急ぎで、左用から普通の路線に乗った。

佐用から津山に向かう途中、電車の中で乗客は1両に30人ほどはいたが、ほとんどの人が携帯電話を触っていなかった。僕ともう1人くらいが触ってるだけ。後の人は何をしているかといえば、車窓に広がる青々とした里山の風景を眺めているか、あるいは淡麗を飲みながらうとうとされているおじさんもいた。

津山で途中下車をして、ホルモン焼きそばを食べた。スタミナ系の料理だが、さらに大盛りにしてもらった。店主も息子と思われる人物も大人しそうな方だったが、はい!大盛りの方!などと持ってくる時の雰囲気が良かった。それから、再び電車に乗り、中国勝山駅に着いた。ここで宿にチェックインしてからバスに乗り、湯原温泉へと向かった。谷あいの旭川に沿って上流へと進む。

湯原温泉は非常に穏やかな旭川に面して作られた温泉地であり、オオサンショウウオ研究班賞の地とも言われる場所である。実際にバス停に降り立つと、山と山の間にある谷あいの風景が清々しく夏色に染まった川の周囲に大人も子どももはしゃぎ自然に生息するアヒルと遊んだり、川に入ったりして暑気払いもしていた。それから温泉薬師での祭礼へと向かった。

はんざき祭りの本祭はこのような流れで行われた。

8月8日(土)
13:00~ はんざき・フォーラム2(湯原ふれあいセンター) 集え!「はんざき」大好き人間! はんざき最深研究発表と討論会
15:00~ 温泉薬師祭礼(温泉薬師堂)
16:00~ はんざき大明神祭礼(はんざき大明神)
17:00~ ☆カラオケ大会☆(予選) 
18:30~ 山車・道中ばやし お祭り広場入り 総踊り ※飛び入り参加大歓迎。
19:00~ 舞台パフォーマンス カラオケ大会決勝戦!
はんざき〇✖クイズ! オオサンショウウオ生息地指定100周年に向けて
20:30~ はんざき獅子舞、ハンザキねぶた お祭り広場入り お笑いLive「ザ・ピーチ」 岡山県住みます芸人・吉本興業所属 ☆江西あきよし (湯原温泉お笑い芸人番頭) ☆ハロー植田  (B'zものまね芸人)
21:00~ 花火 もちなげ
(HPより)

さて、湯原温泉に到着したのが15:15ごろだった。そこで温泉薬師に向かったがほとんどその祭礼は終了しており、数人が薬師に向かった拝んでいるような感じだった。そこから、ヨーグルト屋さんを見つけたので入ることにした。脇に流れる田羽根川には、オオサンショウウオが生息するという。ヨーグルト屋さんの窓からオオサンショウウオが見られることがあるようだが、今回は見られなかった。人家とオオサンショウウオの生息地が非常に近いのが魅力的である。


古式豊かなはんざき大明神祭礼

16時からは「はんざき大明神祭礼」が始まった。神主、僧侶の順に祈りを捧げた。最後に街や祭礼行事の重役たちが玉串奉天をするという多くの祭式と同様の流れであった。神仏の垣根を超えた祭礼のようである。林の中で祠に祈る姿は、観光化されたはんざき祭り全体から見れば異様な光景だ。しかし、古きものをしっかりと受け継いでいる姿が印象的だった。

その後、はんざきセンターに入った。ここで、オオサンショウウオの生態について学んだ。本物のオオサンショウウオが飼育されているほか、大きなオオサンショウウオの骨は標本などもあった。オオサンショウウオの所見は全く動かないということ。少し呼吸のために水中から外に向けて口をパクパクするような仕草が見られると、大きな歓声が上がった。オオサンショウウオの巣穴の再現などもあり、大きくて強い「ヌシ」であるオスが卵を守るのだと知った。

それから湯原図書館を訪れたが、あまりここでははんざき祭りのことを調べることができなかった。時間が10分くらいしかなかったのと、受付の方に尋ねても、資料はないですねとのこと。それから休憩スペースのfreewaterをいただき、砂湯にいってから、食事を取ろうとしたが、祭りの日だからか一人客お断りと言われまくり、結局夕食が食べられなかった。これはなんとかならないものだろうか。屋台飯は量が少ないので、いくら買い漁っても、あまり食べた気にならない。お祭り広場ではカラオケ大会が行われ、出演者と観客で賑わっており、90点台を出しまくりだった。

巨大はんざきの山車が動き始める

そんなことをしているうちに、巨大はんざきの山車である太郎と花子が動き出した。イボイボの再現などが非常に忠実だった。行列は先頭に太郎、そして、囃子、はんざき音頭の踊り手たち、最後尾に花子という順番であった。そこからお祭り広場へと入っていった。オオサンショウウオは手が可愛いことに気がついた。



それからお祭り広場では、踊りが続けられたのち、カラオケ大会の決勝戦が実施された。大阪から来た参加者もいたようで、この祭がどれだけ観光客誘致しているかを改めて実感した。95.3点などを叩き出した方もいて、素晴らしいなと。昨年に引き続き決勝に上がってくる小学6年生もいてこれも素晴らしいなと思った。それからオオサンショウウオのぬいぐるみを高く掲げて、歌っている出演者もいて、なんだか、オオサンショウウオだらけだなと。


それからオオサンショウウオを研究されている研究者が登場して、オオサンショウウオの◯ ×クイズが出てきた。10問以上正解しまくって、最終的に舞台に上がって最終問題まで正解した人が5人ほど。これもなかなかの難問で、オオサンショウウオのに噛まれた時に雷が発生した後にその口を離すか?などさまざまなクイズが出された。


はんざき獅子舞の登場

それから、クイズが終わろうとした終盤、突然後方から、太鼓と鉦の音。しまった!出遅れた!ついに待ちに待ったはんざき獅子舞の登場である。実際に拝見できたのがお祭り広場に入る前と入った後の2回のみ。

はんざきのねぶたの前方で、厄を払うかのように舞っていた。太鼓と鉦でとにかくガンガン囃し立てるようなリズム、獅子舞は一人立ちでひたすら激しく舞う。2頭一対の形で出てきた。おおよそ3分ほどだったであろうか。その短い舞は、ねぷたの登場と相まって、この祭りクライマックスを象徴しているように思えた。オオサンショウウオクイズから一転、リズムで盛り上がる身体知は時空を超えて、象徴的な記憶を作り出した。

獅子舞の担い手の1人であろう人物に「この舞に詳しい方はどなたかいらっしゃいますか?歴史とか舞い方とか、練習はどのようにしているかとか」と尋ねてみた。

顔をしかめた担い手は、あまり慣れない質問だったのが、端的に答えてくださった。「おそらくねぷたがで始めた頃からでしょう。今いる人の中で詳しい人は見当たらないですが、とにかく荒々しく舞うようにしてるんです」とつぶやいた。

本来、オオサンショウウオはゆっくりと動く生き物である。しかし、ガンガン鉦を鳴らしとにかく激しく舞い狂うオオサンショウウオの動きは不思議と、「そうあるべきなのではないか」と思えてきた。ゆっくり動くものをただゆっくりと舞わせても面白くはない。この獅子舞はどこまでも魅せることを意識しているように思う。

これは妙だなと思ったのが、獅子頭の造形である。はっきりとした目を描かずに、植物の蔓のような有機的な線を張り巡らせるようにして、獅子頭の造形が作られている。この造形はオオサンショウウオ自体もその目を含め、表情を捉えづらいのだが、その特徴がよく現れているように思う。胴幕は伝統的な模様のようであるが名前がわからない。




余韻を残して帰路に

さて、はんざき獅子舞の実態はよくわからないまま、祭は最終盤に。花火が上がって、それが10分ほど続いた。やはり花火を見ると、皆、固唾を飲んで空を見上げる。照明もアナウンスも消えた夏空に、ピュ〜〜〜〜バン!と空に華が咲く。花火はいつ見ても良いものだ。いつが最後なのか、今か今かと待ち続け、金色の大団円が描かれて終了となった。その後、祭り広場では、餅まきなどが行われたようだが、帰りの終バス(臨時の一便)のため、並びそうだったのが気になって、湯原温泉のバス停に向かった。

帰りのバスは暗い夜道を進んでいった。そして、中国勝山えきに着いた。コンビニで水とおにぎりを買って、宿に向かった。素晴らしい1日だった。暗い林業施設の横を身震いがするような思いで通り過ぎた。この素晴らしい真庭の森。国内の林業界の最先端を行く人々がこの街には住んでいる。昼には木材のペレット化、工芸品化なども進んでいてお店も見かけた。その最先端を走る人々。どうにもこの地域の人々は、宿泊といっても、鍵をかけないような都会ではあまり見られないような信頼の置き方をしている。しかし、観光業と林業に関してはなかなかに最先端を行っているような盛り上がり方をしている。

はんざき祭りに関しては、オオサンショウウオ(はんざき)一色だった。とにかくこのオオサンショウウオがこの街の観光と経済を一躍引き上げている。素晴らしい取り組みである。個人的には新しいはんざき獅子舞という獅子舞の形態を見ることができてとても面白かった。

さて、その翌日、真庭市の中央図書館を訪れて知れたことを振り返ろう。ラーメン定食(750円)をいただき、悪魔のビールを飲んでから、新しい発見とともに、帰路についた。

はんざき祭りとは

さてここからは資料によって知れたことを振り返る。『はんざき風土記』によれば、「昭和三十年頃に「はんざけ大明神保存会」というのが発会して夏祭り執行、祠堂修理、境内整備等を目標として、湯本小学校の秋期運動会の日に祭礼が執り行われて来た。(要項は後掲する)第十七回国体が岡山県で開催され山岳部の閉会式前夜祭が湯本校々庭で行われる事になり、地元有志の手で伝承の長さ10米余りの大はんざけの模型が町中を練りあるき、婦人会のはんざけばやしはんざき音頭が手ぶりよろしく踊られる等、大明神5も次第に有名になつて来た。近年では温泉場の年中行事である温泉まつり、はんざきまつりが盛大に行なわれるようになつた」とある(1)
この時にはすでに巨大な山車の形式が生まれていたようである。

明治31年から東京帝国大学教授の石川千代松氏が湯原温泉を訪れたことで、オオサンショウウオ研究は非常に進展する。民俗の保存にも熱意があったようで、大正十年にははんざき(はんざけ)大明神の土地の買取りもされたという。


はんざき大明神の伝説

ここからがなぜオオサンショウウオを祀ることになったのかの起源の話である。今の社がある一帯を竜頭の淵といったそうで、ここには大きなサンショウウオが棲んでいたという。人が近づくとパクッとひと飲みされてしまうということで非常に恐れられていたようだ。 それだけではなく、牛なども飲み込むほどであったという。

『はんざき風土記』(1967年)によれば、
「文禄の初年(今から凡そ三七〇年前)村人達が家を建てる手伝いをし棟木を上げていると、向うの道を六十六部が通りがかり大声で「今この下のふちに大サンショウウオが出ておるが、お前らは大勢おつても捕つて見せる者は一人も無いか、男の子はおらんか」と大声でどなったものだ。
するとこの中に三井彦四郎という浪人者がいて、「よし、よくも人を笑ったな。男の子がおるか、おらんか見せてやる」というよりも速く、腰に紐を結び短刀を持ち「我、此の紐を引かば、直ちに引き上げくれよ」というと共にふちに近づくと大サンショウウオは、たちまち彦四郎を飲みこんでしまった。気丈な彦四郎はサンショウウオの腹を断ち割って出て紐を引くと、村人達はすぐに引上げた。
見ると驚くばかりの大サンショウウオで、体の長さ三丈六尺(一〇米余)周囲一丈八尺(五米余)あつたという。
このことがあって後、毎夜彦四郎の家の戸をたたき泣き叫ぶものがあるので、出て見ると何もおらず、村人達は恐れて日暮になると戸を締めて外へは出なかったと、間もなくして三井彦四郎の一家は死に絶え、村内にも祟(たたり)があるようになつたので、産土神(うぶすな神、うちがみ、人の生まれた所を守る神)
国司大明神の境内に宮を造り祭ったのが、はんざけ大明神だと伝えられている。その後に国司大明神は明治三十年に八幡神社(在、町内禾津)に合祀され、境内の樹木もほとんど伐採されたが、はんざけ大明神だけは宮を改築し、現在その跡地に祭られている。お宮の戸をあけると、内側に見える古びたお宮が旧のはんざけ大明神である」(3)。

『ひととき』Vol.17 No.7(2017年7月号)によれば、
「元真庭市湯原支局長の浜子尊行さんによれば、こうした伝承が残るのもこの地の人が昔からオオサンショウウオと深く関わり、大切にしてきた証だろうという。
「この伝承が記された江戸時代の書物『作陽
誌』には、若宮を建てたとあります。若宮とは不遇のうちの死があった場合に建てられるとも言いますし、現在も残る大明神があるのは古墳の上。実際に何かあったのかもしれません」という(4)。大変興味深い話である。

オオサンショウウオの生態

漢字で書くと、大山椒魚。体の表面の「いぼ」から出る粘液が山椒の匂いに似ている、あるいは皮膚の色や形が山椒に似ていることからそう名付けられたそうだ。地域名称である「はんざき」、あるいは「はんざけ」の由来は山海名産図会、巻二に「性至て強き物にて、常に小池に畜ひ、用ゆべき時其の半身を截断の半を復、小池 へ放ち置けば自づから肉を生じ、元の全身となる故に作州の方言にハンザキといふ」とあるようだ。つまり本当かはわからぬが、半分に裂けても回復することから強壮の生き物として、崇められてきた背景もある。

世界最大の両生類であり、サワガニやカエル、魚などを主食とする。いきた化石と言われるほどに太古より生き続けてきた生物である。
「およそ二七〇年前スイス、エーニンゲンの始新世(およそ六〇〇〇万年前)の地層から全長一二〇糎もある大頭の大動物の化石が出た。この化石をスイスの当時有名な大学者でショウイクセリという医師が見て「これはノアの洪水の時に神の罰を受けて、おぼれ死んだ人間の赤子の死がいだ」と思つたのである。 それで、一時世界的の大評判となった」という(2)。
後に日本に渡ってきたこの有名なシーボルトが2匹のオオサンショウウオを持ち帰り、それが先の骨格と似ていることからこれは人間の赤子ではなくオオサンショウウオであったことが判明した。
もともと日本では日本書紀第十一巻仁徳天皇の時代の頃より文献での記述も見られる。
1952年に天然記念物指定。許可のない捕獲や飼育は禁止となる。1971年、研究発祥の地として「はんざきセンター」を建設。飼育と保護も進んでいる。


引用
(1)編集兼発行 湯原町教育委員会 おおさんしょううお保護対策協議会『はんざき風土記』(1967年)P5
(2) 編集兼発行 湯原町教育委員会 おおさんしょううお保護対策協議会『はんざき風土記』(1967年)P14。ノアの洪水は人類の堕落を怒って神が起こした大洪水のことで、ノアは妻子と全種類の動物のつがいを方舟に乗せてアララット山に漂着したために人類は絶滅しなかったという話。
(3) 編集兼発行 湯原町教育委員会 おおさんしょううお保護対策協議会『はんざき風土記』(1967年)P16
(4) 『ひととき』Vol.17 No.7(2017年7月号)、株式会社ウェッジ、2017年P23

参考文献
編集兼発行 湯原町教育委員会 おおさんしょううお保護対策協議会『はんざき風土記』(1967年)
『ひととき』Vol.17 No.7(2017年7月号)、株式会社ウェッジ、2017年
湯原町総務課『元気印新世紀湯原町』(湯原町, 2000年)
湯原町文化財専門委員会『湯原町の文化財』(湯原町教育委員会, 1997年)
生駒義博(編)『日本ハンザキ集覧』(津山科学教育博物館, 1973年)
山陽新聞社(編)『岡山の祭りと行事 上』(山陽新聞社, 1982年)
信用組合 1995年10月P34-35, 真庭信用組合 武田昌郎「はんざき祭り」

獅子舞が湯立をする!静岡県御殿場市 大阪の湯立神楽

御殿場の国指定重要無形民俗文化財。大坂の湯立神楽を拝見した。以前、湯立の獅子舞の方で、同系統の仙石原の湯立獅子舞を拝見したことがあったが、今回はその伝来元でもある御殿場の湯立のひとつを拝見させていただいた。

まずは富士岡駅に降り立った。富士山が見えたが、霞んでいてよく見えない。天使の梯子がかけられていて驚いた。6分ほどのところにある大坂浅間神社に。旗が2本立っており、参道の砂利がならされていて清らかな雰囲気を感じ、そこから少し石段を登るとそこには四方をしめ縄で囲んだ空間に湯釜が置かれていた。

17時から「みずごり」が始まった10人弱の男たちが上裸で拝殿に祈りを捧げてから裸足でダッシュをして、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱えながら、川べりにたどり着く。黄瀬川の川沿いで水を掛け合って、身を清める。それから、対岸の金刀比羅(ことひら)神社に祈りを捧げて、またダッシュをして、大坂浅間神社に帰還する。そしてまた拝殿に祈りを捧げるのだ。

逆席のパイプ椅子が並べられており前列に座らせていただいた。そこで18時からの演舞を待っていると、きゅうりの漬物、唐揚げ、鮭おにぎりなどが振る舞われた。鮭おにぎり以外はどうやら手作りのようだった。どれも美味しくいただいたのだが、これらは「クイヨケ」というものらしい。お祓いされた食物をいただき、夜の演舞を拝見するのだ。ちょうど晩御飯の心配をしていたので、大変ありがたかった。

それから18時になると湯立神楽が始まった。
境内には五徳の上に釜、そして、四方には忌竹が配置され、荒縄を張りシデを吊るす。また、神社の社殿方面の左には湯棚があり、幣束と湯たぶさ用の笹が束になっている。

この神楽の面白さは、舞の形式の奥深さにあると思う。
演目は以下の通りである。

①平舞・・・幕の舞・幣束の舞・鈴の舞・幕の舞

②剣の舞・・・幕の舞・幣束の舞・鈴の舞・幕の舞

③宮締め(宮の舞) ・・・幕の舞・幣束の舞・鈴の舞(井桁)・鈴の舞(三五三)・幕の舞

④釜締め(行の舞)・・・幕の舞・幣束の舞・行の舞・幕の舞
徐々に舞台は社殿前から釜のしめ縄の結界付近へと移動していく。

⑤宮締め(宮参り)・・・幕の井桁・幕の七五三・三本剣・宮参り・幕の舞
大松明に従って、それに誘導されるように獅子が社殿の周りを一周する時はとてもゾクゾクとした。

⑥釜締め(湯冷まし)
幕の井桁・幕の七五三・幣束の舞・三本剣・釜締め・湯冷まし・幕の舞
非常に面白かったのは「風」の字を書く場面。風によって火の勢いを鎮める、あるいはそれを倍増させるというもの?

以前仙石原を見た時は、釜の上でクマザサをぶあっと重ね合わせていたが、ここではそのような所作はなく、ただ湯をかき混ぜていた。はじめてクマザサを重ね合わせてお湯が飛び散る(湯花)を受けたが、これはすごい効きそうな感じがした。身体の背筋がぞくっと伸びて、何かが切り替わるような身体感覚をいただいた。それからカメラが曇ったが、なんだか神聖な感じもして、少しの間曇ったままにしておいた。






⑦四方固め・・・幕の舞・幣束の舞・剣の舞・お払いの儀・幕の舞

舞が終わると、四方に張り巡らされたしめ縄に沿うように円を描き、担い手も参加者も交えた形で日本酒が振る舞われ、同じ碗で時計逆回りと時計回りとで2回分、まわし飲みに参加した。気温に影響を受けたのか少し生暖かかったが、比較的飲みやすくしっかりした味の日本酒だった。

竹が上方にいくに従って広がっている湯棚もなかなかに良かった。その他、獅子頭の目がカタカタと音を立てる瞬間があったのも面白かった。

大坂湯立神楽の歴史

その中でまず大阪には江戸時代の安永3年(1774年)の奥書として「伊勢神楽辻引傳書」なるものがあり、この神楽を萱沼儀兵衛という人物が伝えたという。それから旧二子村の名主家に残っている古文書には、明和8年(1771年)には太神楽の調子を吹き真似してた若者が祭礼で獅子舞披露を申し出て騒動となって、叱られることを恐れて仙石原に湯治にいって逗留した話なども残されており、神楽の流行ぶりが伺える話である。
かつて伊勢にも湯立があり、愛知の花祭などにも通ずるようだが、どのような経路で伝わったのかは詳細は定かではない。移動式御社である神楽の宮は伊勢大神楽にも似たような形式を持つ。御神体とも言える伝書をいれるという。

周辺に広がる湯立神楽など

全国に多数ある湯立神事の中でも、獅子が湯立をするのはとても珍しい。御殿場市には大坂、沼田、東山、北久原と4件の湯立神楽が存在するようだ。それから神奈川県の箱根町には、大坂、沼田と同系統であり内容が類似した古文書がある「湯立獅子舞」が仙石原と宮城野にある。
また、湯立は実施しないものの、沼田や大坂と形式が似ている神楽獅子を持つ北畑、そして神子舞をする須山なども近隣にあるようだ。

大坂の湯立神楽の基本情報

過去には演舞前に大坂浅間神社でオコモリがおこなわれ、精進潔斎していたようである。大坂の湯立神楽は御厨盆とされる7月23日〜26日の後の最初の土曜日に神楽の奉納が実施されている。また翌日曜日には家を回ったり辻切りをしたりするようだ。辻切り場所には草履に幣束を立てるという印があり、大変興味深いものがある。令和4年には国の重要無形民俗文化財として「沼田・大坂の湯立神楽」が指定された。

鷺が町中を練り歩く、古式豊かな鷺舞!島根県津和野町にて

島根の山に囲まれた小京都で羽を広げた鷺が優雅に舞った。2026年7月27日、島根県津和野町の鷺舞を拝見した。

津和野に降り立つと、まず源氏巻が有名なお店に立ち寄ってから、うずめ飯をいただいた。ここら辺では具材を下に敷いてご飯を被せるお粥的な食べ物があるらしい。それから津和野図書館でも短い時間であったけれど、たくさん調べ物をすることができた。

そこからすぐに鷺舞行事を執り行う「頭屋」へと向かった。流れとしては頭屋から頭屋へという順序で街を一周した。まずは頭屋の前で人が大勢集まっているのを発見!すかさず行ってみるとまもなく、門の中から鷺2羽や棒振り、諸役が出てきた。そして、通りに面して並び、まずは小堤や太鼓がなり何も進展がないまま、少し時間が過ぎた。それから、ここでの鷺舞は棒振りと鷺が同じタイミングで舞いはじめた。これは棒振りから鷺という流れで行われる祇園祭の鷺と異なるところで面白かった。





羽をブワッと広げた時の大きなものと接続するような広大さは、鷺舞ならではだ。どこか優雅な小京都の雰囲気がパッと広がった。木の建て方や堀に鯉がいることなども相まってとても優雅な気持ちになった。最後に雄鷺が羽をすぼめて雌鷺に寄り添い、肩に手をかけて終わるという流れがなんとも情緒を揺さぶられる。

だいたい3分半ちょっとの舞を各場所で繰り返していった。おおよそ同じ流れだった。御旅所では、鷺が休憩しているところ、神輿が出てきた。


神輿の行列が始まると鷺もついて歩いた。目的地は弥栄神社。ここでの舞が非常に良かった!17:30過ぎ、山に日が隠れてくるタイミングで、鷺が羽を広げ、太陽と呼応しているような美しい光景が広がった。



頭屋前(町民センター) 16:00頃 出発 > 沙羅の木前 16:05頃 > 古橋酒造前 16:15頃 > 高津屋伊藤博石堂前 16:25頃 > 郵便局前 16:35頃 > 吉永米店前 16:40頃 > お旅所 16:45頃 > 弥栄神社 17:30 > 頭屋前(町民センター) 18:20頃

最後の頭屋前での演舞をチラッと見届けてから、広島への最終電車に飛び乗った。帰りの電車に乗っている時、夕暮れの窓越しに田んぼの上を飛ぶ白鷺を観た。とても優しいはばたきを見せながらどこかに飛んでいった。


津和野の鷺舞とは?基本的な構成

津和野の鷺舞とは、弥栄神社に伝わる民俗芸能であり、毎年祇園祭りの7月20日(ご神幸の日)に町内11ヶ所、27日(ご還幸の日)に町内9ヶ所にて、舞う場所が定められている。鷺舞行列が動く箇所と、神輿の行列に加わる箇所がある。日本の中でも有数の古くからの歴史ある鷺舞が残り、国の重要無形民俗文化財およびユネスコ無形文化遺産(風流踊)とされている。

舞方は棒振、鷺、羯鼓の2名ずつ、合計6名。その後方に、太鼓、鉦、鼓、笛が並び、また警固が舞方の両側に位置する。羯鼓が体を左から右に回す動作を繰り返すのは「シテデン」という動作で、田楽からきた「四天師」の語の訛りとのこと。鷺頭の作りは上半分は桐材、下半分は竹製で作られたもので、中間部分で接合したようだ。雄はクチバシを閉じ、雌はクチバシを開ける。ここが雌雄の見分けの重要な点である。棒振りは竹の棒に青と赤の紙を巻きつけたものを持つ。

また、行列には以前、小笠鉾や大笠鉾がついていたものと見られるが、終戦後は人手不足もあり頭屋に立て付けたままになっている。矢富厳夫『鷺舞と津和野踊り』(1973年, 津和野歴史シリーズ刊行会)P7によると、「鷺舞は、平安期においては、笠鉾の一種で、鷺鉾を作り、はじめは手にもつものであったらしい」とある。もともとは笠の先に鷺がついており、田植えの時などに舞う田遊びの一種であったようだが、そのうち鷺舞が傘から離れて人間が頭にかぶるものになった流れのようである。

鷺舞の歴史

津和野弥栄神社に伝わった鷺舞は、元来京都祇園会の式典としてあったものを戦国時代に中国地方で勢力を持っていた大内氏が、自領山口を西の京都として繁栄させるべく、まず京都の八坂神社を分祀して山口祇園会に鷺舞を取り入れたのである。
天文11年(1542年)津和野城主吉見大蔵正頼が大内義興の息女を迎えた時に、疫病鎮護のために山口祇園会の鷺舞を自領に取り込む形で津和野の鷺舞が始まったようである。その後の関ヶ原の戦いで、吉見氏は西軍に属したために慶長5年に津和野を追われて、その後の坂崎出羽守も千姫事件により断絶。そのような不安定な時期に鷺舞は中絶していたものの、亀井政矩が元和3年(1617年) 因州鹿野城から転封。神社仏閣の荒廃を修復するなど、津和野藩全体が復興。二代藩主越政の時に寛永20年(1643年)、野村仁左衛門(あるいは柴屋彦吾)と坂田兵左衛門に命じて京都に上らせ、本場の祇園八坂神社の鷺舞を伝習させて復活させた。これ以来、津和野の鷺舞は今日まで継承されているのだ。一方で発祥元の京都はその後に断絶してしまい、昭和期に津和野から逆に伝えられて再興。このように津和野と京都は、途絶えたらお互いに教え合うことで、伝統がつながれていった歴史がある。ここで私見を挟むのは恐縮だが、これは素晴らしい関係性である。そういえば、弥栄神社は城から鬼門の方向に、位置しているようだ。

鷺舞とは何か?

山口の鷺舞には歌詞がなく、囃し手のみの奏楽で舞う。一方で津和野の鷺舞は歌詞がある。
歌詞は以下の通りである(1)。

端の上に下りた鳥は何鳥
かわささぎの
かわささぎの
ヤアかわささぎ
鷺が橋を渡した
鷺が橋を渡した
時雨の雨に濡れとうり とうり

「「津和野町史」の編者は、鷺が舞う発生は空也上人の念仏踊から来ているところが濃いと考えられる。空也上人が宮中に参内した際、時雨に逢うが、この時空から鷺が降りてきて、翼を並べて傘となって雨を覆ったという縁起によるところが強いと思う。と空也上人の念仏踊から発生したものと説いている。何れにせよ、室町時代祇園会図などからみる鷺舞は、鷺の頭に小さい傘をつけていたり、錦蓋の上に装飾してある傘を頭につけた鷺などからみると、鷺が翼を並べて橋を渡し、時雨の雨に濡れじとて雨を覆う姿が想起されるのである」とある(2)。
これは面白い。祇園祭の鷺舞は頭に傘をつけるが、その意味がここでわかるし、歌の意味もわかるというものだ。



引用
(1)矢富厳夫『鷺舞と津和野踊り』(1973年, 津和野歴史シリーズ刊行会)P80
(2)矢富厳夫『鷺舞と津和野踊り』(1973年, 津和野歴史シリーズ刊行会)P84

参考文献
矢富厳夫『鷺舞と津和野踊り』(1973年, 津和野歴史シリーズ刊行会)
沖本常吉『津和野町史第3巻』(1989年, 津和野町史刊行会)

Ps. ギザギザ舞
その他にも『鷺舞と津和野踊り』の中に、益田の石勝神社の「ギザギザ舞」に関する記述があった。ギザギザと名付けられるビンザサラを鳴らして舞を舞うので、ギザギザ舞と呼ばれているようである。神事に供される田楽の一種とのこと。興味深い芸能である。

新しい獅子舞との出会い、未分化な芸能の形。福島県いわき市 御宝殿熊野神社 祭礼

この珍しい祭礼の姿は現代の我々に何を伝えているのか、古い祭礼の姿か、もしくは地方の固有な芸能分化の姿なのか。2026年7月20日、福島県いわき市の御宝殿熊野神社の祭礼を訪れた。

特急ときわに乗って、常磐線を北上した。夏空に入道雲。まさに、夏一色という感じの風景だ。途中、高萩を過ぎてから海岸線もチラチラと見え出して、果てしなく広い田畑も眺められた。この電車は東海道新幹線などと比べれば非常に空いているのが良い。三連休の最終日なのに、半分も席が埋まっていない。贅沢な一席、ありがたいことに思える。

さて、勿来で降りて各駅停車で一駅。植田駅で降りた。5分歩くだけで汗が滝のようで、タオルと帽子を忘れたことを後悔する。それから鮫川を超え、駅から徒歩20分ちょっとで、御宝殿熊野神社に着いた。僕が着いたのは参道の中間点のようである。屋台がまばらに並び、徐々に賑やかになりつつある。すらっとした直線の山道の先に拝殿があり、その左脇に堂々たる白い役馬が繋がれている。そこから始まったのが、鉾立神事だ。

海と山の競り合い「鉾立神事」

さて、拝殿前で神事が始まるのを待っていると、いきなり、2本の鉾が青年によって担がれて、だだー!と拝殿前に走り込んできた。この猛暑の中、ものすごい勢いである。これから始まると思っていたのだが、この走り込みこそが、この神事の真骨頂のようである。

この鉾はもともと参道に立てられており、それを倒して、青年が二手に分かれて、鉾を持ち待機。合図とともに参道を走り抜けて社殿の前に再び鉾を立てる。鉾には白と赤で対照的な2本が配される。赤は太陽であり、海岸部を表し、その中には3本足の烏を描く。一方の白は月であり、農村部を表し、その中にはウサギを描く。これは稚児田楽で登場する露払いの道具と同じである。どちらの鉾が早く立てられるかを競い合い、早く立てた方が豊作または豊漁となるそうである。今回は社殿に向かって左側の白い鉾、つまり農村部の方が早く立てられていた。真意のほどはどうなのか。いずれにしても盛り上がっていたのでとても楽しそうであった。もともとは、長子地区によって担われた行事であり、赤の鉾は小浜、岩間、佐糠、錦須賀、関田須賀、米倉など。白の鉾は大蔵、長子、窪田、沼部、関田、山田などが担った。前者が漁業集落、後者が農業集落とのことである。

この神事後に、担い手たちはお昼休憩に入った。そこで、僕もせっかくいわきに来たのだから...と、魚が美味しいお店を探した。丸三屋というお店に入ったところ、海鮮丼が美味しすぎた。


熊野、新潟とつながる壮大な田楽

それから、神社に戻り、稚児田楽となる。順序としては、宮司宅前、高橋家、神社の櫓の前、神社の社殿前という順序である。高橋家の後に神社にたどり着くと、すぐに舞わずに休憩となっていた。どうやら、子どもたちの熱中症対策かもしれないと思った。瑞々しいスイカもここで振る舞われていた。

この田楽は古くは「麦祭り」と言ったという。田楽童子を「ざらっこ」と呼び、8名で構成される。この8名は4名ずつ向かい合って並び、先頭の露払いは東側が烏、西側が兎が描かれた木の棒を持つ。これは「東は海、西は山で、烏は海を、兎は山を代表するといういわれと一致する」(1)という。舞は4種あり、「総めぐり」「親と子の取替え」「組み打ち」「親は親、子は子」を基本とする。全体として、海と山が交わるような舞様の様に思える。

この田楽は稚児田楽の一種で熊野の那智の田楽に類似するようである。無論、熊野信仰の関係があろう。伝来は熊野、あるいは新潟からと言われている。田楽は神社の前に高橋家で舞われるが、これはどうやら田楽の起源と関係があるようだ。高橋家の前の居住者であった二階堂家の祖先は新潟から移り住んできたようで、田楽も伝えたとのこと。しかし、二階堂の祖先は熊野権現を紀州から勧請してきた「大善坊」という人物の第一の従者であり、田楽と関係がないという話もある。真偽のほどはよくわかっていない。

びんざさらの板には代々の田楽童子の名前が記されており、江戸時代の文化、文政、天保の頃の奉仕者の名前が記されているという。それよりは少なくとも歴史が古いことは分かっているようだ。それにしても稚児による田楽は県内はもちろん、全国的にも珍しいという。また、この田楽には獅子がついてきたが、ただそれを持ち抱えるだけであって、舞うことをしなかった。おそらく胴幕をつけているのでかつては舞っていたものと思われる。真偽の程はわからない。





獅子舞、霊魂発動の踏み鳴らしの四舞

神社の櫓の前の田楽の後、獅子舞が実施される。この獅子舞は、風流の獅子舞であり、「白鷺舞」「青龍舞」「雌雄鹿舞」「大獅子舞」の4つである。基本的に舞の構成は似ており、櫓の四隅で3回首を振り、3回飛び跳ねるという動作を3回繰り返す。この踏み鳴らし行為は霊魂の発動を目指すものと解釈される。囃子は太鼓と笛、そして、田楽童子が大声で掛け声を唱え盛り上げる。

以下、それぞれの演目について、いわき市暮らしの伝承郷『平成15年度第3回企画展「祈るところ 祭るかたちー御宝殿熊野神社の祭礼ー」』2004年P10を参考に、加筆しながら振り返る。

白鷺舞
白い布を羽根に見立てているのが特徴的。この白い布は割いて分け合うと、マムシ除けになると言われている。白鷺の頭をつける。神招きの舞という。

青龍舞
竜の頭、そして唐草模様の胴体と尾を纏う。悪魔祓いの舞とされる。

雌雄鹿舞
もっとも長い時間舞う。はじめは雄の鹿のみが首を振り飛び跳ねながら舞台を3周する。その後に雌の鹿が登場して、ともに舞台を3周する。その後、雄の方は眠りにつく。雌は舞台を一周して退場。雌がいないことに気づいた雄は荒々しく舞って、舞台を3周して退場。角ありが雄、角なしが雌。子孫繁栄と豊作祈願の舞とのこと。



大獅子舞
獅子頭を被って扇子を持つ一人立ち獅子舞。舞台を3周は他の舞と同じだが、どうやら一段高い土台の上でポールの周囲を回るようだ。社殿の方から初めて3方向に3回お辞儀をするような所作はあり。鹿の時のように、3回飛び跳ねる姿は見られない。お辞儀をするような所作は天下泰平を念じるもので、扇子で仰ぎながら実施する。祝儀の舞とのことであり、豊年予祝としての呪術が込められているという話もある。

大獅子舞が舞っていた時間はおおよそ1分ほど。トリの演舞としては、あっという間だった。ひたすら礼を尽くすというか、ぺこりぺこりとして終わるような演舞だった。その分素朴さがあり歴史と伝統があるようにも感じられた。

その準備の際に、風流道具が収められた箱を境内の櫓へと運ぶ。この時、青竹で叩くという風習があり、これは魔除け、あるいは道具に魂を入れるなどと言われる。

全体として舞方は非常にシンプルで素朴である。四つの舞が3つの首振りや飛び跳ねなどを持ち、4方向あるいは3方向という舞い型をするのは数字の規則性がある様に思えてならない。「白鷺舞」「青龍舞」「雌雄鹿舞」「大獅子舞」とさすなわち、白虎、青龍、朱雀、玄武になぞらえた配置なのではないか?とも思われるが、事実は定かではない。


祭礼は突然の終幕へ

この獅子舞の後に、先ほどの稚児田楽がおこなわれた。その後、あんなに晴れていたのに、突然雨が降り出した。神輿を出そうとした瞬間の雨には本当に驚いた。神輿に青いビニールシートを被せて、拝殿前を一周したものの、それから奥に入ってしまった。神輿を出した時に、社殿の入口に青竹が横方向に渡されて、担い手たちはその竹をひたすら叩いていた。これは後から文献により分かったことだが、どうやらご神体が神輿に移される間に、悪霊や邪気を祓うという意味があるようである。これは自分の身体感覚として、とてもよくわかるような気がする。重要な局面において例えばとても素晴らしい思い出を文章に起こしている時など、雑音を打ち消したいと思うのは必然だ。あれと同じような感じかもしれないなと思った。どうやら、通常であれば神輿が出る時と同様に、神輿が社殿に帰ってくる時にも竹で叩くという。

ただ、今回は関係者によると、豪雨による祭礼中止ということのようだ。神輿が出ていくまでは拝観できた。ここまで無事に天気が保ってくれたことに感謝だ。それから、見物客の知人と再会したこともあり、車に乗せていただき、いわき市まで送っていただいた。そして、そこで、貴重な郷土資料を拝見して、資料の豊富さに驚いた。さまざまな文献にちょこちょこと登場する御宝殿熊野神社の祭礼。驚きの登場頻度である。それから、駅ビルでメヒカリの揚げ物とレモンサワーをいただいてスーパーで炭水化物を買い、いわき駅から帰路についた。今回も非常に充実した短期取材であった。






祭礼の総括的な話

御宝殿熊野神社は大同2年(807年)に、紀州の熊野新宮を勧請したという。当初は長子に仮宮を建てたが、3羽の鴉が仮宮から飛び立ち、御宝殿に止まったので、ここを新宮として遷座したらしい。
この祭礼には2つの獅子が出る。田楽に帯同する獅子と、櫓の上で舞う風流の獅子である。田楽に帯同する獅子の古いものは現在、神社に保管されている。これには何やら謂れがあるという。「紀州より分霊を勧請する際、行列が進まなくなったので占うと、一晩で獅子頭を作り、案内させろとのお告げがあった。そこで頭を作ったが、完成間近で夜が明けてしまった。そのため、この獅子頭の鼻の穴は片方しか開いていないという」(2)

この田楽と獅子風流という括りにも触れねばならない。この祭礼を見ていてよく思うのが、国指定になっているのが田楽と獅子風流のみであるが、そのほかにも様々な行事の流れがあってひとつの祭礼を形成しており、単なる分類法によって括れない魅力がある。本田安治の芸能分類的な言い回しを越えて。結局のところ一連の行事の中にある未分化なものととして、鉾立神事、稚児田楽、そして、獅子舞と呼ばれる櫓上の芸能などが大きな見どころとして現れてくる。

また、この祭礼で興味深いのは、竹の存在である。鉾が走ってくる時に、石の囲いを竹で叩く場面があったり、あるいは風流獅子舞の入場と退場の時に、それぞれ道具箱を青竹で叩くという行為が見られた。また、神輿が社殿から出るときに横に通した竹をひたすら細かい竹の棒で叩くという姿が見られた。この祭礼には少なくとも3回以上は青竹で叩くという場面が見られる。これは非常に不思議な光景だった。何かと青竹が使われるのである。このことについて地域の方に伺ったところ「魔除けですよ。竹は身近な素材なのかもしれません」などとおっしゃっていた。

そういえば竹で思い浮かんだのはささらのことだ。ささらは竹で作られている楽器で、この祭礼では稚児田楽の楽器として登場する。この音を聞いていると、何やらカエルが鳴いているようでげーろげーろと遠くに鳴いているような感じがした。一般的には、ささらの音をカエルの鳴き声とする説もあるようだが、ここの田楽のささらは特にそのような感じがした。高い木々に囲まれた境内だからこそ、遠くまで響くような感覚があったからかもしれない。それで帰りの電車の道中、蛇足ではあるが、龍ヶ崎市駅の電車の発射音がカエルの歌でゲロゲロゲロゲログワッグワッグワッと言っているのに気がついた。龍ヶ崎のつく舞の影響か?などと推測するがよくわからない。

引用
(1)いわき市史編さん委員会『いわき市史 民俗編』(1972年,いわき市)P417
(2) いわき市暮らしの伝承郷『平成15年度第3回企画展「祈るところ 祭るかたちー御宝殿熊野神社の祭礼ー」』2004年P7

参考文献
いわき市史編さん委員会『いわき市史 民俗編』(1972年,いわき市)P415〜418
いわき市暮らしの伝承郷『平成15年度第3回企画展「祈るところ 祭るかたちー御宝殿熊野神社の祭礼ー」』2004年, P1〜12
御宝殿熊野神社田楽保存会『御宝殿の稚児田楽・風流.』1979年
高橋秀雄、懸田弘訓『祭礼行事〈福島県〉』(桜楓社, 1993年)P69〜71

雨蛙の舞「つく舞」の深淵に触れる。千葉県野田市にて

柱の上で蛙が舞う。人々は今年も広場に集い、その技に魅せられる。2026年7月18日、千葉県野田市にてつく舞を拝見した。久しぶりの野田市。駅を降りると、夕暮れの風が心地よく、優しく吹いてくる。まずは図書館に向かった。図書館では文献を探り、つく舞の資料もなかなかに豊富であることに驚く。郷土史家に愛されてきた芸能なのだと感じる。

そこから須賀神社を目指す。すでに19時をすぎていたので、神社からもう出発した行列に行き当たる。太鼓の音が2方向から聞こえる。神社から出発した行列と、その行列が今から向かうキッコーマンの駐車場である。冥界へ誘うかのように思える暗い雰囲気の提灯がにたくさん照らされて、蛙の装束を見にまとうジュウジロウが進んでいく。向かう先は巨大な駐車場。そこには家族連れの非常にたくさんの人々が集まり、太鼓や踊りの演奏が待ち受けていた。それらが終了して、行列はつく柱の麓に辿り着く。


つく舞はいつの間にか始まっていた。そろりそろりとジュウジロウが昇り始めていたのだ。ジュウジロウの所作は非常にハラハラとするものだった。柱のてっぺんにある醤油樽の上で逆立ちをしたり、その上に立ち上がり、弓を四方に弾いたりした。



最も盛り上がったのが、つく柱から綱を伝って、下の方へと降りる時。両手を離してもなお、バランスを取っていた。それからぐるりと鉄棒をするかのように逆上がりを始めた。一度中腹まで降りたはまた昇り始めたなかなかにクレイジーな瞬間である。それから、再び一気に降りて終了となった。


終了後、行列は再び神社へと向かう。夜も更けてきたその道中、提灯が道を薄暗く照らす。須賀神社では整列して、三本締めをして終了となった。帰り道で、キッコーマンの薄暗く巨大な工場がそびえているのが見えた。この企業が祭礼を支えている、地域の集いの場を作っているということも感慨深く感じられた。アーバンパークラインに乗って帰路についた。短い時間ではあったが、非常に興味深い行事だった。




つく舞とは何か

ここからは、文献を通じてわかったことを振り返る。つく舞の「つく」とは柱のことのようで、その表記は「津久、尋撞、都久、突柱」などと一定しないようである。「つ」は津であるなら船着場隣、「つく」は「ちく」の訛りとすれば竹とする説もあるようだ。ただ、つく柱は杉で作られたという話もある。また、この柱を神の依座(よりまし)とする説もある。

つく舞とは、雨蛙のことだと表現するが、これが千葉県旭町のエンヤーホーとなると、蛙ではなく、「昇り獅子」である。そう考えると、蛙と獅子の近さを感じる。つく舞といえば、茨城県龍ケ崎市のものと、千葉県多古のしいかご舞、旭町のエンヤーホーが近いものである。多古では雨蛙をマンジュウと呼ぶ。そのほか、廃絶となった例として、千葉神社、夷隅郡万木の三光寺、葛飾八幡宮、布川大明神、市原市の五井などでも継承されたようだ。その伝承経路についてはこのようであった。それから柱の上に登るのは野田、龍ケ崎、布川が蛙、多古は猿、旭は獅子となっている。また、秋田県南秋田郡天王町(現潟上市)のくも舞は古い散楽の形態にも近い演舞を伝える貴重な舞である。

つく舞の起源と歴史

つく舞の古くは散楽をルーツとしており、西域(中央アジア)からシルクロードを伝って中国に伝来した雑多な芸能たちである。中国の漢の時代に、西域・都盧 (とろ)国から伝わった話もある。「百戯」「雑戯」などとも呼ばれた。また、チベットで正月2日に行われた飛降式の神縄ムタクや紀元前数百年のインドのチャンダーラの祭礼に登場する「縁橦戯」との関連性も言われている。これが日本には奈良時代に伝来して、国家の保護のもとに行われており相撲節会などに演じられていたが、民間に伝わったものも多くあったようだ。この時につく舞の原型となる竿のぼりも含まれていた。正倉院宝物の「墨絵弾弓」や「信西古楽図」などにも描かれている。散楽を演じる散楽衆は放浪の旅をしながら大道芸をするように芸を披露した。のちに一部は神社の祭事として残り、その一方で西洋のサーカスに融合されて姿を消したものもあった。祇園祭礼との関連性も大いにあり、つく舞の系統が7月に多いのもその所以だろう。夏はちょうど水が欲しい時期で、雨乞い祈願も必要であった。祇園祭では賀茂川で神輿を洗うし、天にも昇るような高い山鉾が街を練り歩く。祇園祭の地方的展開として、農村の五穀豊穣の予祝行事としての位置付けなども生まれていったのだろう。

野田のつく舞の意味と歴史

野田のつく舞は高い柱を立てて、柱の頂上から地上に綱をひき、雨蛙に扮した男(ジュウジロウ)が柱を登り、綱を伝って地上におりる雨乞いの舞である。つく柱の構造も面白く、柱の頂点は十字に組み、くつわという金具をつけて、頂点には醤油樽を置く。雨蛙が頂点に登ると、破魔弓を四方に打ったり、逆立ちしたりしてから、綱渡りをして下降する。この姿は雨蛙を飲み込もうとする大蛇がくつわに邪魔されて食い尽くすことができず、悶える姿を表しているとも言われる。これが「龍が雲を呼び雨を降らす」という雨乞いの意味に通じる。

野田のつく舞に関して「愛宕神社年歴」によると「享保二年(1802)夏旱魃飢饉の際、雨乞いのため野田町及び山崎村で式を行ない、文政元年の愛宕神社祭礼に始めて津久舞をなし」とあるそうだ。山崎村の重次郎が2台に渡ってつく柱登ったそうで、それが「ジュウジロウ」の由来となっている。一時期は茨城県龍ケ崎市から鳶職人を招いて継承した時期もあったという。

また佐藤真『野田郷土史』によれば、「日本国有の民俗というよりは、支那(中国)の祝賀遊戯から端を発した縄遊びの類であったものが、中世以降、房総の戦国武将(主として土岐・千葉両氏)が、主護神として尊崇した妙見尊(北斗菩薩、国土を守り災害貧窮を救うとされている)を祭る土俗(戦捷祈願、五穀豊穣、国土安泰を祈る)として附属して来たもののようである(妙見実録千集記)」とある(※)。妙見信仰は妙見尊、妙見菩薩、妙見大士などを祀るもので、これらは北斗七星の名である。これらが国土を擁護するという信仰だ。これは鎌倉時代以降、特に常総の武家が守護神として尊崇した信仰である。その信仰の始まりは、土岐氏が国土安泰を念じ戦勝を祝す目的で、上総国(夷隅郡国吉町)の万喜城(万騎城)で祭ったのが始まりという説もある。しかし、実際にそこまで妙見との関わりは薄いのではないかという説もありなかなか実際のところが見えてこない。

また、野田の醤油醸造家総本家の茂木家の始祖は美濃土岐の一族で、上総国万喜城主の後裔であったそうだ。この辺りも醤油樽とつく舞との関係性を読み解くヒントであり、なぜこの地につく舞が継承されているかという点に関して、城主の影響を非常に受けて発展したことを再確認させられるのである。

引用
※ 佐藤真『野田郷土史』(1980年, 歴史図書社) p173

参考文献
佐藤真『野田郷土史』(1980年, 歴史図書社)
橋本裕之『つく舞考』(2002年, 岩田書院)
編集・発行 龍ケ崎市歴史民俗資料館『企画展「利根川流域のつく舞」(財)龍ケ崎市文化振興事業団』(1994年)

京都・祇園祭2026、鷺舞や蟷螂山などを振り返る

祇園祭の奥深さを感じたい。やはり、日本のさまざまな祭りのルーツを考えるうえでも、祇園祭は重要な視点をもたらしてくれると思う。2026年7月16日〜17日、京都の祇園祭を訪れた。今回、メインで訪れるのは、まずは蟷螂(カマキリ)を山鉾の上に頂く蟷螂山。これは静岡、小田原とのつながりあり。そして、もともとは鷺舞のルーツであり、津和野からの逆輸入で復活した鷺舞である。いずれも個人的に重要なテーマだ。それに加え、いくつか興味深い山鉾に出会った。祇園祭の振り返りとしては非常に偏りのある記事だが、ぐっと入り込むと面白いというような、祇園祭の姿を振り返る。

16日の夜、新幹線で飛ぶように走り、京都に着いたのが20時ごろ。祇園の街に繰り出すと、そこは屋台と山鉾と見物客でごった返していた。若い人が非常に多く、子どもから20代と思われる人々が友達や恋人と訪れる姿が非常に多くみられた。なかなか前に進むことができないが、なんとか人垣をかき分けて、一方通行にも屈することなく進み、通っ回りもしながら、蟷螂山の会所にたどり着いた。そして、蟷螂山でのカマキリの造り物の試験運行を少し拝見した。

宵祭りの蟷螂山

どうやら、カマキリの背面の蓋をパカっと開けて中を覗きながら、何かを調整している。配線を組み直すなど、その配列を確認しているのだろうか。途中、カマキリの目が光ったり、腕が動いたり、羽が動いたりすると、周囲の見物客から歓声が上がった。皆動画を撮りまくりである。カマキリが山鉾の上で動くというのは非常にシュールな光景である。カマキリを調整する技術者もなかなか面白い仕事をしているなと思う。「おれ、蟷螂山推しなんだよね」と20代くらいの男性が横で話していた。京都の人はどうやら、蟷螂山の由緒に関する話を学校か何かで教わるのかもしれない。「あ、あれやったよね」みたいな思い出話も聞かれた。

この蟷螂山の起源は1376年町内在住で南北朝の戦いで南朝に属して八幡男山にて、10数槍を受けて手傷を負い、壮絶な戦いの末に討ち死にした四條隆資卿に由来する。蟷螂山はこの人物の25周忌の際に、元の滅亡で渡来した陳外郎大年宗奇が施主として御魂鎮めをして四条家から払い下げられた御所車に蟷螂を乗せて、からくり仕掛けをして山鉾巡行に初参加したことに始まる。蟷螂の発想は中国梁時代の昭明太子詩文集『文選』の故事「蟷螂の斧」の「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」が元になっている。この故事に絡め、四條隆資卿の勇敢な姿が蟷螂の生態に重ね合わされて製作されたものという。

江戸時代には蛤御門の変の大火で焼けてしまい、焼け残ったものは売却されたがその売却に賛成したものが急死したり行方不明になったりしたため、1876年(明治9年)に錫のおみき徳利を新調して再び山の祭祀を開始。完全に山鉾としての蟷螂山が復活したのは実に100年以上経過した1981年のことだったという。苦難の末に立ち上がる姿は、大きな苦労を乗り越えた住民の力を感じる。この蟷螂山は後世において、静岡の山名神社天王祭舞楽や、小田原の外郎家の展示へと影響を与えた。外郎家は現在、小田原でお菓子のういろうを売る老舗として存在し、そこでも蟷螂山の蟷螂を展示する(詳しくは過去のブログにて)。

優美な街を巡る鷺舞

その後、21時からの最終演舞に間に合った鷺舞。祇園会(ぎおんえ)鷺舞講によって継承される。南座の前の道路に四方に笹が張り巡らされ、その笹と笹とを繋ぐようなしめ縄のような紐が張られて、その中で、鷺舞が実施された。

その演舞構成は3段構えであり、まず赤熊の演舞、そして赤熊を被らない棒振りの演舞、そして最後に2頭の鷺による演舞という流れであった。笛、太鼓、鼓、鉦の囃子に合わせて舞が行われる。棒振りは壬生狂言の結願の夜に演じられるものとほぼ同じ姿。赤毛のシャグマを被り、顎から下は白布。悪霊祓いの呪術である。鷺は造形がなかなかに面白く、鷺の頭には赤い小さな傘が乗っている。

 

鷺舞の歌はこの通り。

「橋の上に降りた鳥は何鳥

かささぎの かささぎの

ヤァーかささぎの

さぎが橋を渡した
さぎが橋を渡した

時雨の雨にぬれじとて」

 

京都の鷺舞はもともと京都の祇園会で行われていたものである。「白鷺舞」とかつては呼ばれており、西陣の大舎人町が祇園祭に出した笠鷺鉾に登場した舞であった。室町時代の永正17年(1520年)頃に大内氏によって京都の祇園会を模したものを山口に移したことをきっかけとして鷺舞も伝来。そしてその後に天文11年(1542年)に山口から津和野に伝来して、今日名高い津和野の鷺舞へと発展するわけである。大元の京都の鷺舞は笠鷺鉾はどうやら、応仁の乱以後に途絶えたようだ。これは応仁の乱以後の再興の時に、大舎人が神役につかなかったことが関係しているという。ただ、昭和31年(1956年)頃に津和野から逆輸入することで、復活して現在に至る。

しかし、津和野と京都で造形は異なっており、その際たる例が京都の方には鷺の頭に小さな傘が乗ることである。室町時代に描かれた土佐光信の「月並祭礼図屏風絵」にも京都の鷺舞の頭の上に傘が乗るようだ。つまりこれは「笠鷺」であり、先述の笠鷺鉾に付属していたものと理解されるのだ。山岸徳平博士は笠鷺は「中鷺」のことであるとしたそうで、頭部の羽毛がやや長くて冠状をした形をしていることに由来するそうだ(1)。津和野や浅草寺のものは白鷺で、これとは異なるようである。上記の鷺舞の歌にも「かささぎ」という文言が出てくる。津和野ではこれが「かわささぎ」となっており、その言葉は変化している。

もともと祇園祭が厄神焼却的な意味のある祭りであったから、鷺舞を舞うことが厄を祓うことにつながっていた。折口信夫の「日本芸能史ノート」では「もともと鷺そのものが田を荒す害鳥である。従ってこれを懲らしめなければならぬ。それが段々と変つて鷺が主体となり祝福に来るものとする神道固有の二重の連想がここに現れてゐる」という言及があるそうで、鷺舞には田を祝福して農作物の豊穣を祈る願いが込められていると理解されるようだ(2)。ここに獅子舞の起源とも重なるような思想があるように思える。また、祇園会特化の話ではないようだが「鷺舞はつまり鳥舞(鳥の物真似)の一つである(中略)だがまだ人間が鷺に化けたといふより、傘鉾の面影がある。鷺を冠ると、羽がある筈だと合理化して、大きな羽をつけた(中略)田遊びには実物とすとれんじやあとの対抗運動が出る」とする(3)。ここに、棒振りを害鳥との対抗運動の位置付けとして捉えた思考がある。ちなみに山口の祇園会には棒振りがなく、鉄砲を持つ男が鷺を追いかけていくが逃がされる場面があり、害鳥であるとともに悪霊退散の要素?を孕むという見方もある。

また他の話としては山口祇園会では祇園神が池の上に浮かぶ鷺を見たことで念願成就したとか、鷺舞の歌に見られるようにこの鳥は橋渡しの役を担うもので天の川に橋を渡して彦星を渡らせたというようなロマンチックな話もある。これは京都の四条の川が非常に渡るのが困難であり、「鉾や神輿を渡すこと」を考えた時に、橋をうまく渡す鳥として鷺の舞が実施されたとも解されるようである。また祇園祭では中国の故事に由来する鉾は多いが、鷺に関しては中国では喜鳥とされて縁起が良い鳥とも言われるようである。また雨をさらい晴天をもたらすとも考えられるようだ。

山鉾の巡行、数々の鉾を知る

次の日は9時過ぎから、祇園四条から河原町、新町にかけて、山鉾の巡行が行われた。

かなりの猛暑の中、大勢の見物客が相変わらず、沿道に詰めかけた。一方通行の道にはまったら、遠回りして辿り着かねばならない。やはり、月鉾や雞鉾のような巨大な鉾にまずは感動した。これほど大きい構造物を引いて歩くことができるということにまず感動する。

 

・蟷螂山

それから、昨日夜に開所にあった蟷螂山が無事に稼働していることにも感動した。「あれ、カマキリだ!」「かわいいね」などと口々に言って、動く瞬間にわ!っと歓声が上がる瞬間もとても良かった。それから何より、外国人観光客が笑顔になりながら、スマホでビデオを撮っている姿がかなりみられてそれがとても誇らしい気持ちになった。「日本人はまたシュールでおもろいことしているよ」みたいなことを考えてそうな顔だった。

・雞鉾

祇園祭編纂委員会, 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(1976年, 筑摩書房)P82によれば、「この鉾は天の岩戸の常世の長鳴鳥に因むとも、また中国古代堯の時代に天下がよく治まり、訴訟用の太鼓(諫鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという伝説から取材したとも言われている。鉾頭は銀赤だんだらに塗り分けた三角枠に金銅円板を挟み、三つの角を黒く染めた苧の房束で結んだもの。太腸と黒雲であるともいい、また諫鼓の中の鶏卵だとの説もあるがはっきりしたことはわからない」とある(4)。
また若原史明『祇園會山鉾大鑑』によれば、「圖の如く各一邊の長さ一尺三寸巾五分程(王が壬)の竹二枚合せに爲し高さ九寸の三角形に組み合せ、竹には銀色と朱色に斜線だんだらに塗るその稜角三ヶ所(原文の所は旧字)に紺色の緖を結び付く中央の圓形は又(原文の又は旧字)卵形とも見られるものにして銅の薄板に兩面金箔置となしたもので、その三角形は天地人の三つを表し圓板は鷄卵紺緖は雲を表徴したるものなりと傅承されてゐる」ともいう(5)。

これは非常に興味深い。「鶏のようには見えないけれど、鶏の鉾らしいね」と見物客の会話があったが、鶏卵がこの頂点に配されているということかもしれないというのだ。これは天地混沌を表すといい、鶏卵の解釈らしさがある。これは早池峰神楽の鶏舞を取材したときに出会った「鶏卵舞」の概念と近いものが見出される。三角形はまさに天地人を表す。この奇妙な構造は、まさに年代の古い解釈が追いつかない発想を感じる。そのほか、船の中にも鶏の造形を飾るそうである。「祇園社記」には永禄三年(1560年)の記録あり、「庭とり鉾」として、室町時代には既に存在していたと考えられ、応仁の乱後の再興したものだろう。

・月鉾

それからこの鉾には、鉾頭に三日月が付いている。そのため「月鉾」と呼ばれているそうだ。夜の世界をおさめる月読尊。破風蟇股には兎が彫られている。

・長刀鉾(なぎなたほこ)

江戸時代の天保の頃までは真剣が使われてきた。屋善七の作といわれ、龍、虎、豹などの猛獣類から山鳥、蛇、さてはなめくじまで多くの動物の文様がほられている。

鉾頭の長刀は正面が八坂神社や御所に向かないよう組立ての際、南向きに取りつけられているそうだ。

祇園系の祭りの起源

山城国のこの京都盆地の山麓部に朝鮮の高句麗からの渡来人たちが居住しはじめた6世紀後半ごろの話。高麗人の祀る社として八坂神社が登場したのもこの後の時期である。社殿建立も含めて、八坂神社の神殿創祀を656年と見る説もある。祭神は素戔嗚尊。農耕文化の伝来とともに、雷雨をもたらす神として祀られ、そしてそれが「御霊」信仰につながるのだ。これは単なる政治的敗残者の例ではなく、災厄と関わる厄神としての性格を持った。牛頭天王との繋がりがそこで見えてくる。新羅には牛頭山と言う山もあるように、かつては殺牛の儀式を実施していた風習となんらかのつながりがあるのだろう。牛頭天王を祀ったのは元祇園と呼ばれた四条大宮西の梛神社であり、この信仰を八坂神社に取り入れたことで、神格が変化し、現在の祇園祭の拠点ともなる八坂神社が成立した。祇園社としての八坂神社の誕生は 貞観18年(876年)とも言われる。しかし、祭礼自体は民衆信仰に根ざしたため、この神社の社殿とは他のところで、貞観11年(869年)に疫病流行の際に、牛頭天王の祟りということで66本の鉾を立てて御霊会を行ったところに始まっている。その背景には平安京の都市発展の裏側で、過剰な森林伐採と鴨川の氾濫の問題を抱えていたためである。都市祭礼の発生の視点でも非常に興味深く、そして鉾誕生の意味を語る話である。山鉾の装飾が華美になり、祇園囃子などが加わったのは足利義政の東山時代以降とも言われる。思えば、動物の芸能は比較的、祇園祭系統に多い。これは風流として、工夫を凝らし、行列を華やかに、賑やかにした結果として現れてきたことを物語ってもいるのだろう。

それにしても非常に迫力ある祭りだ。日本の代表的な祭りである三代祭に入る意味も非常に体感できたように思う。まるでビルが動く山鉾の行列、そして次々と登場する動物仮装の数々。その歴史は京都という都市の成立とも関係する壮大なものである。何度も通わねばわからない魅力がある。2度目の祇園祭探訪で、そのことがしみじみ感じられた。

現在では人々がくつろぐ鴨川


(1)加藤隆久「鷺舞考」『神道史研究第16巻第5・6號』(1968年, 神道史学会)P65を参考に執筆。
(2)加藤隆久「鷺舞考」『神道史研究第16巻第5・6號』(1968年, 神道史学会)P62
(3)加藤隆久「鷺舞考」『神道史研究第16巻第5・6號』(1968年, 神道史学会)P64〜65

(4)祇園祭編纂委員会, 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(1976年, 筑摩書房)P82
(5)若原史明『祇園會山鉾大鑑』(1982年, 八坂神社)P206

 

参考文献
祇園祭編纂委員会, 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(1976年, 筑摩書房)
下中直人『世界百科事典 11』(1988年, 平凡社)P191
佐和隆研・奈良本辰也・𠮷田光邦ほか『京都大事典』(1984年, 淡交社)P429

加藤隆久「鷺舞考」『神道史研究第16巻第5・6號』P43〜72(1968年, 神道史学会)
若原史明『祇園會山鉾大鑑』(1982年, 八坂神社)
牧野修也『変貌する祭礼と担いのしくみ』(2021年, 学文社)
株式会社青龍社(ぎをん編集室)『ぎをん・234号』(2018年, 祇園甲部組合)P31〜32
蟷螂山保存会『蟷螂山の縁起と復元課程』(1980年)

人間が蛙に変身する物語、奈良県 金峯山寺「蛙飛び行事」を訪れた

2026年7月7日、奈良県吉野町金峯山寺で実施された蛙飛び行事を訪れた。この日は日帰りの奈良県。夜行バスで大阪について、そこから奈良に向かい、夜は大阪から夜行バス。日帰りのコンパクトな移動によってまとめてみた。やはり夜行バスは朝と夜の時間が有効に使えるのが良い。時と場合によっては今回のように、飛行機や新幹線よりも時間が有効に使えるように思うのである。

さて、まずは奈良の橿原市立図書館で文献を調べてから、吉野町に向かう。徐々に木々は青々としてきて、飛鳥の古都を偲ぶような風景が広がっていた。まだまだ夏とも言えないような曇り空。これから雨も降りそうな重い空気感の中、修験の行事は今、始まらんとしていた。

12時には吉野駅に辿り着いていた。吉野の山は急坂。現金をほとんど持ってきておらず、ケーブルカーに乗れず、機材を抱えて急坂のハードな道を登る。青々とした山々が徐々に遠くまで見られるようになってきて、ケーブルカーの頂上の吉野山駅に到着。そこからはさまざまな露店が並んでおり、paypayを使えるお店で、五平餅とあとで桜葉入りの団子も購入。柔らかくて非常に美味しかった。それから黒門と仁王門を越えると、今回の行事の舞台となる蔵王堂に到着した。吉野駅からは30分もかかからなかった。

到着と同時に、太鼓の音が聞こえてきて、どうやら太鼓台が出発したようだ。12時半に地蔵堂を出発した太鼓台をひたすら追いかけた。基本的には寺社仏閣や鳥居の前など要所要所で、「えーらいやっちゃー」「◯◯せよ!」などと叫びながら、太鼓台を上に押し上げて、カエルが手を振りまくるという箇所が何度もあり、その後に休憩という流れが何度も続いた。最初は勢い盛んだったが、徐々に疲れを見せる時もあった。

まずは勝手神社にいってそこからUターンして、今度は僕が歩いて来た道を戻り、ケーブルカーの吉野山駅へ。「観客は参道の隅に避けてください」「太鼓台に近づかないでください」などとしきりに担い手や警察の方々が声をかけて回っていた。狭いところを大きな構造物がUターンしたり移動したりするというのは、なかなかに難しいハンドリングが必要なのである。

少し雨が降ったりして、休憩が長くなってきたので、合間を見て見晴らしの素晴らしい茶屋で葛の素麺をいただいた。美味しすぎた。水がきれいだからか、ソーメンの味も清く澄んでいるように感じられた。

観客の様相も面白かった。カエルを見た瞬間に笑顔ハツラツとしてカエルのバンダナ被った人が、「あのカエルに頭噛まれたいねん」と言っていた。それから小さい女の子はカエルを見た途端に大声で泣き出した。お母さんが詳しく聞きだすと「カエルに噛まれるかと思った」と言う。獅子舞でもあるまいし、頭を噛むという所作はないはずなのだが、なぜか頭を噛むということが連想されるらしく大変興味深いと感じた。もしかすると、大口という特徴があるからかもしれない。

それから、カエルが蛇目を持つことに気がついた。蛇目は龍とか蛇の系統かと思ってきたけれど、どうやらカエルもこの系統なのだと知った。カエルの着ぐるみ頭だけ被ってる人もいた。ライブ配信してるのかもしれない。

15時ごろ、山伏行列もケーブルカーの吉野山駅を出発したようである。そして、太鼓台の出発の後、まもなく山伏行列も到着した。まずは蔵王堂の中で法要が行われていた。法要の途中でカエルが出てきて、蛙飛び行事の定位置の畳の上にずっと正座していた。おそらく30分近く正座をしていただろうか。かなり辛い時間であろうが、周りの観客(特にご高齢の女性)たちが「足つらそうね」などと口々に労わるような声掛けをしていた。

僕は15:12には蔵王堂前で場所取りをしていた。16時から蛙飛び行事なので、まだまだ時間があるのだが、それでもこの時間でもすでにかなり多くの人が場所取りをされており、最前列はすでに埋まってしまっていたので、2列目に陣取った。蛙飛びが行われる通路の正面に位置取りできて本当に良かった。

蛙に接近....!ずっと何時間も蛙の動きをされており、暑くて足が痛そうだ。踏ん張っておられる。山伏の験競べにより人間はカエルの身体を獲得しているようである。

蛙飛び行事のあと、帰ろうと思っていたのだが、あまりにも異様な空気が蔵王堂の周りに立ち込めていて、立ち去ることができずずっとその場にいた。どうやら結界が張られており、そこで大量の木の葉が集められ、祭壇が作られている。そこに蛙飛び行事を終えた山伏たちが参集してきて、法螺貝を吹き、太鼓を叩き、そして声を張り祈りながら、また違う行事が始まったのだ。「採灯大護摩供」という行事のようである。

まずは四方に弓を射て矢が放たれ、そして、最後に中心に1発放たれる予定だったが、最後の1発が不発だったので、とある一方向に射て終わった。担い手はあっと声を出していたのでおそらくわざとではなく不本意ながら外したのだと思うが、それをやり直すよりは他の一方向に射たというのは非常に興味深かった。どのようなルールのもとで実施しているのかということは気になった。それから剣によって魔を祓うような所作もあり、いずれも男女に関わらず、非常に太くて大きな声を上げた。

最後、巨大な竹に火をつけて、真ん中に山盛りにされた葉に火がつけられた。水をかけたり、板を割り入れたり、下の方から火を付加したりして、煙は天に昇るように深く混沌とした様相を呈しており、空へと昇っていった。徐々に赤々とした火に変わり、木枠含めてその葉を焼き尽くしていった。ある程度焼かれたところで、読経や法螺貝、太鼓が静まり、そして、山伏の一行は蔵王堂の方に帰っていった。

異様な光景を目の当たりにして立ちすくむ。このような山伏の行事が、カエルの行事の後に、ひっそりと実施されているのだ。煙にあたり険しい顔をしながらもその行事に粛々と真剣な眼差しで向き合う姿は、印象的だった。男性はもちろん女性も、そのような荒々しい業に向き合っている。山伏修験の生々しい姿をみて、心が震えるような思いがした。行事の後、暮れかかった吉野山の山道を下っていった。帰りはもうケーブルカーはやっていない。そこで、行きと同じように歩行にて下った。ヤバ武士修行の姿がシンクロしてきて、やはり帰りはこれが正解だと思った。吉野駅に辿り着き、そこから京都にむかい、軽食を食べて銭湯に入って、バスで東京に帰った。

蛙飛び行事とは何か

さて、文献で知れたことについて振り返っていこう。この「蛙飛び行事」は毎年7月7日に実施され、蓮華会の一幕として実施されるものである。太鼓台の巡行、そして、その後の蔵王堂前での蛙飛び行事の流れである。担ぐ形式ではあるが、乗っているのが蛙なので神輿のことではなく、「太鼓台」と呼んでいる。ちなみに神輿は違うものが巡行していたが、寺院の行事で出てくる「神輿」とはどういうことなのかは詳しく調べられていない。

流れはこのように執り行われた(行事ポスターより)。まずは大和高田市奥田弁天池にて行事を行い、その後、吉野町の吉野山に移動。太鼓台が出るという流れである。今回、僕が拝見したのは、吉野山からの行程だったわけである。

奥田弁天池にて
午前10時:蓮取り行事
正午:採灯大護摩供

吉野山にて
午後0時30分:蛙太鼓台出発(聚法殿前)
午後3時:山伏行列出発(ロープウェイ山上駅前広場)
午後3時30分:蓮華会法要(蔵王堂内陣)
午後4時:蛙飛び行事(蔵王堂前)
午後5時:採灯大護摩供(蔵王堂境内)

なぜ奥田から始まるのかといえば、蓮華桶の移動のためということもあるようだ。また以前は奥田で延年が催されたそうだが、現在は実施されていない。奥田から運ばれた蓮華は吉野で一本神輿に乗せられて、この蓮華輿が吉野の蔵王堂に練り込むのである。この時、周囲を賑わせるのが太鼓台であり、昔は朝から練り込んでいたそうだが、現在は勝手神社からケーブルカーの吉野山駅の間を賑わすようである。この時登場する青蛙は蓮華会の開催を賑わす存在である。

蛙飛び行事の由来

さて、奥深い由来についてもみていきたい。以下、吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(1)によれば、以下のことが書かれている。

「昔白河天皇の延久年間のこと、金峯山に参詣する修験者のなかに、平生から神仏をあなどり人の苦しみを喜ぶつまらぬ男があった。この男は「行者と俺とどちらが尊いか、悪いといわれる俺が山上へきても何のさわりもない。いくら行者でも仏の力でもこの俺にかなわないと見える」といって笑い、行者を侮辱した。するとたちまちあたりは真黒な雲に包まれ、その男は鷲の窟の上にさらわれてしまった。さすがの男も「今日から真人間にたちかえりますからお助け下さい」と後悔して助けを求めた。すっかり改悛したのを見た金峯山寺の高僧がかわいそうに思い、「お前を助けてやるがとても人間としては助けられないから、蛙にして助けてやろう」と、呪をかけるとその男は蛙になり、窟の上から救ってやった。それから蔵王堂に連れてきて、蔵王権現の宝前で祈祷したところ、その法力によってふたたび人間に立ちかえることができたという伝説があって、蛙飛びの行事はその実演であるというのである」

この話は、実際に蔵王堂前でのアナウンスでも放送された、現代の蛙飛び行事における比較的公式の物語のようである。非常に驚愕の技であり、山伏の法力や蔵王権現の威力を感じる物語である。ここで重要なのは、直接人間に戻すのではなく、一旦蛙の身体を経由して、人間へと向かう過程である。実際に蛙飛びを拝見して、暑い中で膝を擦って飛んでいる姿は非常に辛そうだったので、そのような身体を経由することがある種、人の世に戻るための訓練であるようにも思えた。実際の経緯については詳しく学んでいかないといけないところである。

由来として伝わる話は実はもう一つあるようだ。吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(2)によると、以下のように記述される。
「なおもう一つ大和高田市奥田に伝説がある。それは、役小角の母刀良売が奥田の蓮池の堤で病を養っていた。夏のある朝刀良売が池中の社に詣でると、光輝いて池の蓮の茎が伸びて二つの白蓮が咲いた。そしてそこには金色の蛙が唄っていた。刀良売が茅を一本抜きとって蛙に投げると、蛙は片眼を射抜かれて水中深くもぐってしまった。その瞬間あたりを色どっていた五色の露も、一茎二華の白蓮も消えてしまい、蛙はみくい褐色にかわり一つ眼になって浮び上ってきた。刀良売は自責に堪えずついに重態におちいり、四二才をもって他界してしまった。母を失った役小角は発心して修験の道をひらき、吉野深山に入り蔵王権現を崇め、蛙の追善供養をおこなって母の菩提を弔うたという。毎年吉野から奥田にきて行者堂と刀良売塚に香華を献じ、蓮池の蓮を持ちかえり通りの峯通り祠(原文は「示→ネ」)堂に献じるのはこの蛙の供養であるという」

この蛙がなぜ登場するのか、そして奥田からなぜ蓮を吉野に持っていくのか、その答えがこの物語の中で示されているように思われる。修験道の開祖である役小角の話がここで登場するのだ。奥田は役小角の生誕地としても知られ行者堂がある土地だ。しかし、実際には作り話という説も強い。

そのほかには、このような話もある。白河法皇の病を治すため参内した高僧が、見苦しい装束を理由に追い出されるも、智謀を用いて門外から数珠と笠を操る不思議を起こした。その場所である戌亥の方角の礎の下を調べると虵(蛇)と蛙が埋まっており、高僧がこれを放つと法皇の病も治った。これが「吉野山の蛙飛びの会式」の由来とも言われる。しかし、後世の作り話とも考えられ、江戸時代にしっかりした縁起が伝わらなかったのは、蓮華会が勧進(人々に仏の道を説いて勧めること)を伴わず、あえて縁起を必要としなかったためと考えられている(3)。

蛙飛びの古来の姿

平安時代の熊野行幸の時にはすでに、この修験道の験競べというものが存在したようである。その修験道の行法がこのように今日演じられるに至っているのだ。蛙の他にも、どうやら石を跳び上がらせたり止めたりする呪法、刀や炎の上を歩いても傷がつかない火生三昧法や消除火炎法、難所・渡河・沙汰などに西風を吹かせる秘法なども存在するようだ。また出羽三山の験競べ、とりわけ羽黒山の松例祭などでは烏飛の神事があり、兎に扮した少年を山伏がひっくり返す。このような小動物の姿をかりて護法づけをする験競べの中のひとつとして、蛙に化たり戻したりする呪法があり、それを現在、遊覧化して伝えるに至ったのが、今日の蛙飛び行事とも言える。

四時堂其診の著「滑稽雑談」(正徳三年序)巻十一には、江戸時代中後期頃、正徳3年(1713年)の蛙飛びに関する記述があるという。以前は旧暦6月9日に実施していたようである。6月9日の夜、蔵王堂で行法が行われたのち、それが終わると、「僧が蛙の姿をした人を招き寄きよせ祈り殺す。蛙の姿をした人は堂外で湯水をかけられ蘇生する」とある。これはある種の「験競の遺風」とする。祈り殺したのは鞍馬の蓮華会との関連性もある(4)。一方で、文化3年(1806年)の「諸国図会年中行事大成」では、「行法中に無意識の状態で五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりしている。やや激しさが減退した感があるが護法づけの要素があり、これこそまさしく蛙飛そのものである」とする(5)。

明治維新直後から昭和3年までは中断しており、昭和3年に復活した時は、夜に蛙飛びを実施したのは江戸時代の伝統であったろう。一方で、奥田に向かう際の鉄道の利用や、祈り殺し、そして人間の背丈ほど飛び跳ねる様子は影を潜めて穏やかな行事として復活したようである。


蛙に変身する感覚が正反対になった

古来、この蛙飛びで「蛙が人間になる」には、まず大導師や脇師などにより行法や秘文が授けられて変身した。しかし、現代ではこれが「蛙が人間へと戻る」ための変身法へと転換されている。ここに「演出」が加わっており、現在でも「奇祭」などと言われるが、江戸時代にはそれどころではない激しいほどの「奇態」が存在したようである。金峯山寺史編纂室『金峯山寺史』によれば、以下の記載がある(6)。

「江戸時代の蛙飛では行法によって無意識に五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりして行法が終われば正気に戻るのであり、あるいはまた秘文を授けられて正気を失い蛙の所作をするのである。それが復興後の近現代では偈文・呪・戒などを授けられて蛙から人間に戻るのである。これは後述する蛙飛の縁起と関連する問題であるが、復興にさいして多くの人々に呼びかける必要から合理的な説明ができる縁起が求められ、その内容にそった演出が考案された結果であろう」という。


なぜ蛙という動物なのか

さらに、なぜ蛙に化けるのかという観点において面白い記述がある。なぜ蛙が出てくるかといえば、蛙が「吉野山の地主神」という説もある(7)。
また、「さらに蛙飛び行事の所作をみると、「護法憑け」の要素もうかがえる。もともと古代人は土地の精霊の存在を信じ、それが人間界に出現するにあたって動物の形、ことに大きい形、醜悪な形をとったりすると考えた。人間は生命を終ると神に昇華するので、彼等はこれをうらやみ、人間の生活を妨げようとねらう。したがって神に昇華できないさまよえる霊物となる。この悪霊も善神の霊がつくことによって逆に悪霊を除き罪穢を祓(原文は「示→ネ」)ってくれる神霊となると信じた」(8)
蛙が飛び跳ねる所作は精霊の躍動と悪心から覚めて正気にかえることを意味するという。非常に興味深い話である。

文中引用・参考
(1)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453
(2)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453〜454
(3)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P381
(4)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P369
(5)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P370
(6)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P378〜379
(7)宮家準「修験道の祭とシャマニズムー吉野山の蛙とびー」、佼成出版社刊『大峯修験道の研究』所収
(8)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P455

参考文献
吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P449〜456
金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P366〜383