人間が蛙に変身する物語、奈良県 金峯山寺「蛙飛び行事」を訪れた

2026年7月7日、奈良県吉野町金峯山寺で実施された蛙飛び行事を訪れた。この日は日帰りの奈良県。夜行バスで大阪について、そこから奈良に向かい、夜は大阪から夜行バス。日帰りのコンパクトな移動によってまとめてみた。やはり夜行バスは朝と夜の時間が有効に使えるのが良い。時と場合によっては今回のように、飛行機や新幹線よりも時間が有効に使えるように思うのである。

さて、まずは奈良の橿原市立図書館で文献を調べてから、吉野町に向かう。徐々に木々は青々としてきて、飛鳥の古都を偲ぶような風景が広がっていた。まだまだ夏とも言えないような曇り空。これから雨も降りそうな重い空気感の中、修験の行事は今、始まらんとしていた。

12時には吉野駅に辿り着いていた。吉野の山は急坂。現金をほとんど持ってきておらず、ケーブルカーに乗れず、機材を抱えて急坂のハードな道を登る。青々とした山々が徐々に遠くまで見られるようになってきて、ケーブルカーの頂上の吉野山駅に到着。そこからはさまざまな露店が並んでおり、paypayを使えるお店で、五平餅とあとで桜葉入りの団子も購入。柔らかくて非常に美味しかった。それから黒門と仁王門を越えると、今回の行事の舞台となる蔵王堂に到着した。吉野駅からは30分もかかからなかった。

到着と同時に、太鼓の音が聞こえてきて、どうやら太鼓台が出発したようだ。12時半に地蔵堂を出発した太鼓台をひたすら追いかけた。基本的には寺社仏閣や鳥居の前など要所要所で、「えーらいやっちゃー」「◯◯せよ!」などと叫びながら、太鼓台を上に押し上げて、カエルが手を振りまくるという箇所が何度もあり、その後に休憩という流れが何度も続いた。最初は勢い盛んだったが、徐々に疲れを見せる時もあった。

まずは勝手神社にいってそこからUターンして、今度は僕が歩いて来た道を戻り、ケーブルカーの吉野山駅へ。「観客は参道の隅に避けてください」「太鼓台に近づかないでください」などとしきりに担い手や警察の方々が声をかけて回っていた。狭いところを大きな構造物がUターンしたり移動したりするというのは、なかなかに難しいハンドリングが必要なのである。

少し雨が降ったりして、休憩が長くなってきたので、合間を見て見晴らしの素晴らしい茶屋で葛の素麺をいただいた。美味しすぎた。水がきれいだからか、ソーメンの味も清く澄んでいるように感じられた。

観客の様相も面白かった。カエルを見た瞬間に笑顔ハツラツとしてカエルのバンダナ被った人が、「あのカエルに頭噛まれたいねん」と言っていた。それから小さい女の子はカエルを見た途端に大声で泣き出した。お母さんが詳しく聞きだすと「カエルに噛まれるかと思った」と言う。獅子舞でもあるまいし、頭を噛むという所作はないはずなのだが、なぜか頭を噛むということが連想されるらしく大変興味深いと感じた。もしかすると、大口という特徴があるからかもしれない。

それから、カエルが蛇目を持つことに気がついた。蛇目は龍とか蛇の系統かと思ってきたけれど、どうやらカエルもこの系統なのだと知った。カエルの着ぐるみ頭だけ被ってる人もいた。ライブ配信してるのかもしれない。

15時ごろ、山伏行列もケーブルカーの吉野山駅を出発したようである。そして、太鼓台の出発の後、まもなく山伏行列も到着した。まずは蔵王堂の中で法要が行われていた。法要の途中でカエルが出てきて、蛙飛び行事の定位置の畳の上にずっと正座していた。おそらく30分近く正座をしていただろうか。かなり辛い時間であろうが、周りの観客(特にご高齢の女性)たちが「足つらそうね」などと口々に労わるような声掛けをしていた。

僕は15:12には蔵王堂前で場所取りをしていた。16時から蛙飛び行事なので、まだまだ時間があるのだが、それでもこの時間でもすでにかなり多くの人が場所取りをされており、最前列はすでに埋まってしまっていたので、2列目に陣取った。蛙飛びが行われる通路の正面に位置取りできて本当に良かった。

蛙に接近....!ずっと何時間も蛙の動きをされており、暑くて足が痛そうだ。踏ん張っておられる。山伏の験競べにより人間はカエルの身体を獲得しているようである。

蛙飛び行事のあと、帰ろうと思っていたのだが、あまりにも異様な空気が蔵王堂の周りに立ち込めていて、立ち去ることができずずっとその場にいた。どうやら結界が張られており、そこで大量の木の葉が集められ、祭壇が作られている。そこに蛙飛び行事を終えた山伏たちが参集してきて、法螺貝を吹き、太鼓を叩き、そして声を張り祈りながら、また違う行事が始まったのだ。「採灯大護摩供」という行事のようである。

まずは四方に弓を射て矢が放たれ、そして、最後に中心に1発放たれる予定だったが、最後の1発が不発だったので、とある一方向に射て終わった。担い手はあっと声を出していたのでおそらくわざとではなく不本意ながら外したのだと思うが、それをやり直すよりは他の一方向に射たというのは非常に興味深かった。どのようなルールのもとで実施しているのかということは気になった。それから剣によって魔を祓うような所作もあり、いずれも男女に関わらず、非常に太くて大きな声を上げた。

最後、巨大な竹に火をつけて、真ん中に山盛りにされた葉に火がつけられた。水をかけたり、板を割り入れたり、下の方から火を付加したりして、煙は天に昇るように深く混沌とした様相を呈しており、空へと昇っていった。徐々に赤々とした火に変わり、木枠含めてその葉を焼き尽くしていった。ある程度焼かれたところで、読経や法螺貝、太鼓が静まり、そして、山伏の一行は蔵王堂の方に帰っていった。

異様な光景を目の当たりにして立ちすくむ。このような山伏の行事が、カエルの行事の後に、ひっそりと実施されているのだ。煙にあたり険しい顔をしながらもその行事に粛々と真剣な眼差しで向き合う姿は、印象的だった。男性はもちろん女性も、そのような荒々しい業に向き合っている。山伏修験の生々しい姿をみて、心が震えるような思いがした。行事の後、暮れかかった吉野山の山道を下っていった。帰りはもうケーブルカーはやっていない。そこで、行きと同じように歩行にて下った。ヤバ武士修行の姿がシンクロしてきて、やはり帰りはこれが正解だと思った。吉野駅に辿り着き、そこから京都にむかい、軽食を食べて銭湯に入って、バスで東京に帰った。

蛙飛び行事とは何か

さて、文献で知れたことについて振り返っていこう。この「蛙飛び行事」は毎年7月7日に実施され、蓮華会の一幕として実施されるものである。太鼓台の巡行、そして、その後の蔵王堂前での蛙飛び行事の流れである。担ぐ形式ではあるが、乗っているのが蛙なので神輿のことではなく、「太鼓台」と呼んでいる。ちなみに神輿は違うものが巡行していたが、寺院の行事で出てくる「神輿」とはどういうことなのかは詳しく調べられていない。

流れはこのように執り行われた(行事ポスターより)。まずは大和高田市奥田弁天池にて行事を行い、その後、吉野町の吉野山に移動。太鼓台が出るという流れである。今回、僕が拝見したのは、吉野山からの行程だったわけである。

奥田弁天池にて
午前10時:蓮取り行事
正午:採灯大護摩供

吉野山にて
午後0時30分:蛙太鼓台出発(聚法殿前)
午後3時:山伏行列出発(ロープウェイ山上駅前広場)
午後3時30分:蓮華会法要(蔵王堂内陣)
午後4時:蛙飛び行事(蔵王堂前)
午後5時:採灯大護摩供(蔵王堂境内)

なぜ奥田から始まるのかといえば、蓮華桶の移動のためということもあるようだ。また以前は奥田で延年が催されたそうだが、現在は実施されていない。奥田から運ばれた蓮華は吉野で一本神輿に乗せられて、この蓮華輿が吉野の蔵王堂に練り込むのである。この時、周囲を賑わせるのが太鼓台であり、昔は朝から練り込んでいたそうだが、現在は勝手神社からケーブルカーの吉野山駅の間を賑わすようである。この時登場する青蛙は蓮華会の開催を賑わす存在である。

蛙飛び行事の由来

さて、奥深い由来についてもみていきたい。以下、吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(1)によれば、以下のことが書かれている。

「昔白河天皇の延久年間のこと、金峯山に参詣する修験者のなかに、平生から神仏をあなどり人の苦しみを喜ぶつまらぬ男があった。この男は「行者と俺とどちらが尊いか、悪いといわれる俺が山上へきても何のさわりもない。いくら行者でも仏の力でもこの俺にかなわないと見える」といって笑い、行者を侮辱した。するとたちまちあたりは真黒な雲に包まれ、その男は鷲の窟の上にさらわれてしまった。さすがの男も「今日から真人間にたちかえりますからお助け下さい」と後悔して助けを求めた。すっかり改悛したのを見た金峯山寺の高僧がかわいそうに思い、「お前を助けてやるがとても人間としては助けられないから、蛙にして助けてやろう」と、呪をかけるとその男は蛙になり、窟の上から救ってやった。それから蔵王堂に連れてきて、蔵王権現の宝前で祈祷したところ、その法力によってふたたび人間に立ちかえることができたという伝説があって、蛙飛びの行事はその実演であるというのである」

この話は、実際に蔵王堂前でのアナウンスでも放送された、現代の蛙飛び行事における比較的公式の物語のようである。非常に驚愕の技であり、山伏の法力や蔵王権現の威力を感じる物語である。ここで重要なのは、直接人間に戻すのではなく、一旦蛙の身体を経由して、人間へと向かう過程である。実際に蛙飛びを拝見して、暑い中で膝を擦って飛んでいる姿は非常に辛そうだったので、そのような身体を経由することがある種、人の世に戻るための訓練であるようにも思えた。実際の経緯については詳しく学んでいかないといけないところである。

由来として伝わる話は実はもう一つあるようだ。吉野町史編集委員会 『吉野町史下巻』(2)によると、以下のように記述される。
「なおもう一つ大和高田市奥田に伝説がある。それは、役小角の母刀良売が奥田の蓮池の堤で病を養っていた。夏のある朝刀良売が池中の社に詣でると、光輝いて池の蓮の茎が伸びて二つの白蓮が咲いた。そしてそこには金色の蛙が唄っていた。刀良売が茅を一本抜きとって蛙に投げると、蛙は片眼を射抜かれて水中深くもぐってしまった。その瞬間あたりを色どっていた五色の露も、一茎二華の白蓮も消えてしまい、蛙はみくい褐色にかわり一つ眼になって浮び上ってきた。刀良売は自責に堪えずついに重態におちいり、四二才をもって他界してしまった。母を失った役小角は発心して修験の道をひらき、吉野深山に入り蔵王権現を崇め、蛙の追善供養をおこなって母の菩提を弔うたという。毎年吉野から奥田にきて行者堂と刀良売塚に香華を献じ、蓮池の蓮を持ちかえり通りの峯通り祠(原文は「示→ネ」)堂に献じるのはこの蛙の供養であるという」

この蛙がなぜ登場するのか、そして奥田からなぜ蓮を吉野に持っていくのか、その答えがこの物語の中で示されているように思われる。修験道の開祖である役小角の話がここで登場するのだ。奥田は役小角の生誕地としても知られ行者堂がある土地だ。しかし、実際には作り話という説も強い。

そのほかには、このような話もある。白河法皇の病を治すため参内した高僧が、見苦しい装束を理由に追い出されるも、智謀を用いて門外から数珠と笠を操る不思議を起こした。その場所である戌亥の方角の礎の下を調べると虵(蛇)と蛙が埋まっており、高僧がこれを放つと法皇の病も治った。これが「吉野山の蛙飛びの会式」の由来とも言われる。しかし、後世の作り話とも考えられ、江戸時代にしっかりした縁起が伝わらなかったのは、蓮華会が勧進(人々に仏の道を説いて勧めること)を伴わず、あえて縁起を必要としなかったためと考えられている(3)。

蛙飛びの古来の姿

平安時代の熊野行幸の時にはすでに、この修験道の験競べというものが存在したようである。その修験道の行法がこのように今日演じられるに至っているのだ。蛙の他にも、どうやら石を跳び上がらせたり止めたりする呪法、刀や炎の上を歩いても傷がつかない火生三昧法や消除火炎法、難所・渡河・沙汰などに西風を吹かせる秘法なども存在するようだ。また出羽三山の験競べ、とりわけ羽黒山の松例祭などでは烏飛の神事があり、兎に扮した少年を山伏がひっくり返す。このような小動物の姿をかりて護法づけをする験競べの中のひとつとして、蛙に化たり戻したりする呪法があり、それを現在、遊覧化して伝えるに至ったのが、今日の蛙飛び行事とも言える。

四時堂其診の著「滑稽雑談」(正徳三年序)巻十一には、江戸時代中後期頃、正徳3年(1713年)の蛙飛びに関する記述があるという。以前は旧暦6月9日に実施していたようである。6月9日の夜、蔵王堂で行法が行われたのち、それが終わると、「僧が蛙の姿をした人を招き寄きよせ祈り殺す。蛙の姿をした人は堂外で湯水をかけられ蘇生する」とある。これはある種の「験競の遺風」とする。祈り殺したのは鞍馬の蓮華会との関連性もある(4)。一方で、文化3年(1806年)の「諸国図会年中行事大成」では、「行法中に無意識の状態で五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりしている。やや激しさが減退した感があるが護法づけの要素があり、これこそまさしく蛙飛そのものである」とする(5)。

明治維新直後から昭和3年までは中断しており、昭和3年に復活した時は、夜に蛙飛びを実施したのは江戸時代の伝統であったろう。一方で、奥田に向かう際の鉄道の利用や、祈り殺し、そして人間の背丈ほど飛び跳ねる様子は影を潜めて穏やかな行事として復活したようである。


蛙に変身する感覚が正反対になった

古来、この蛙飛びで「蛙が人間になる」には、まず大導師や脇師などにより行法や秘文が授けられて変身した。しかし、現代ではこれが「蛙が人間へと戻る」ための変身法へと転換されている。ここに「演出」が加わっており、現在でも「奇祭」などと言われるが、江戸時代にはそれどころではない激しいほどの「奇態」が存在したようである。金峯山寺史編纂室『金峯山寺史』によれば、以下の記載がある(6)。

「江戸時代の蛙飛では行法によって無意識に五六尺も飛び上がったり、油を嘗めたりして行法が終われば正気に戻るのであり、あるいはまた秘文を授けられて正気を失い蛙の所作をするのである。それが復興後の近現代では偈文・呪・戒などを授けられて蛙から人間に戻るのである。これは後述する蛙飛の縁起と関連する問題であるが、復興にさいして多くの人々に呼びかける必要から合理的な説明ができる縁起が求められ、その内容にそった演出が考案された結果であろう」という。


なぜ蛙という動物なのか

さらに、なぜ蛙に化けるのかという観点において面白い記述がある。なぜ蛙が出てくるかといえば、蛙が「吉野山の地主神」という説もある(7)。
また、「さらに蛙飛び行事の所作をみると、「護法憑け」の要素もうかがえる。もともと古代人は土地の精霊の存在を信じ、それが人間界に出現するにあたって動物の形、ことに大きい形、醜悪な形をとったりすると考えた。人間は生命を終ると神に昇華するので、彼等はこれをうらやみ、人間の生活を妨げようとねらう。したがって神に昇華できないさまよえる霊物となる。この悪霊も善神の霊がつくことによって逆に悪霊を除き罪穢を祓(原文は「示→ネ」)ってくれる神霊となると信じた」(8)
蛙が飛び跳ねる所作は精霊の躍動と悪心から覚めて正気にかえることを意味するという。非常に興味深い話である。

文中引用・参考
(1)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453
(2)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P453〜454
(3)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P381
(4)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P369
(5)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P370
(6)金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P378〜379
(7)宮家準「修験道の祭とシャマニズムー吉野山の蛙とびー」、佼成出版社刊『大峯修験道の研究』所収
(8)吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P455

参考文献
吉野町史編集委員会 編集 『吉野町史下巻』(1972年発行, 吉野町役場 桝谷義一)P449〜456
金峯山寺史編纂室主幹 首藤善樹『金峯山寺史』(2004年, 総本山金峯山寺 五條順教)P366〜383

韓国の南北縦断!獅子舞をめぐる旅。ソウル 城南 河回 5日間

初めての韓国。久しぶりの海外での取材である。飛行機に乗った上空からセソン市周辺の入り組んだ海岸線を見たときに、日本になかなかない光景だと思った。そこから海を越えてすぐに仁川に入った。夕陽が煌めいており、その日の光が大きな空港の芝や開放的なガラス窓から室内へと届いた。暖かく包まれた光に、滞在への希望が重なった。

6月18日(土)の夜、仁川の入国のゲートをくぐった。地下鉄に乗ったら、もう20時を過ぎて辺りは暗くなっていた。電車に乗って驚いたのは網棚がないことと、椅子の硬さだ。日本とは時差違うところである。Hongik Univ.の駅で降りて、街に出た。日本よりも熱気がムンムンとしており、気温が少し高い印象である。道路の道幅は交通量が多い割に道幅が広く、右側を走り、そして、車同士はすれすれのところを走り、運転間隔や停車時間は短い。人々の顔立ちは綺麗め、化粧大国だからか美容に気を配っているように見える。プリクラの機械が充実しており、これは日本を超えているような気がする。韓国はクレカの支払いが一般的なので、支払いがクレカのみという場合もあって、面白いなと思った。とにかくこの辺りは、活気がある街だと感じた。セブンイレブンの品揃えも面白くてキムチご飯もある。若者たちは夜遅くまで街で集い楽しそうにしている。ひとまずコーヒー休憩してからゲストハウスに向かって、もう24時を過ぎたので寝た。



6月19日 ソウルの観光

次の日は基本資料の収集に徹した。食事は韓国のお粥、昼に餃子と麺、そして夜にビビンバを食べ韓国のお酒を飲んだ。この日の気温は非常に高く、バスをたくさん利用させてもらったが、停車時間が短すぎて、降りれなくて、優しい乗客のおかげでわざわざ僕のためにバスを止めてもらって、降りたこともあった。このあたりの時間感覚の違いも面白い。日本人はせかせか働いていると思われがちだが、喋るスピードも含めゆっくりなところもあると思う。

・国立民俗博物館
ここでは韓国の民俗文化を広く知ることができた。印象的だったのは壁に北青獅子舞の舞いが投影されて、それを見ながら来場者も体を動かせるコーナーがあったこと。日本でいう「太鼓の達人」をするかのように楽しんでいた。「上手く叩けて楽しい」のように「上手く体が動かせて楽しい」ような映像技術で、魅力的に感じられた。展示にプラスして、観客自身もその世界観に入れる仕組みは、映像技術の発達による技術革新によってなせる技だと感じる。また、その横には古いタルチュムのお面たちが飾ってあった。それから韓国のシャーマンの展示は非常に興味深く、これについては、またの機会にもっとリサーチしてみたいと思う。


・国立中央図書館
それから韓国で最も大きく蔵書数が多い図書館「国立中央図書館」で文献のリサーチをした。ここでは会員証を発行しないといけなかった。しかし、韓国の電話番号を発行していないがために登録が難しく、1日限定のビジター用のような会員証を僕のために発行していただいた。それから中に入って、228ページもある北青獅子舞の貴重な資料を紹介いただくことができた。図書館の方々には本当に感謝したい。ひとつの獅子舞に対して、これだけの資料が揃っていることに感動した。日本でも民俗芸能を残していくために、こういう熱量は必要だと感じた。

この日の夜は、韓国の友人と会い、とてもローカルな路地裏のお店に行って、食事をした。ビビンバを頼んだら野菜もりもりで小皿がたくさんあって、それを野菜とご飯と卵焼きとかを一緒にしてぐるぐるまぜて食べるところが、自分の食の好みと合っていて美味しかった。同時に、日本の韓国料理は相対的に韓国の現地のものよりも値段が高くて量が少ないということに気付かされた。

その後、散歩をするために川縁に向かうときに乗ったタクシーのおじさんに、興味深い話を聞いた。西江大橋や麻浦大橋あたりで、自殺者が増えているという。「最近、深夜まで仕事をして仕事に疲れて、そのまま川べりを橋に向かい、そして、その橋の上から飛び降りてしまうんだよ」。経済発展の裏側にある、過労者自殺。身震いするような話を聞いて、韓国の経済の裏側を覗いたような気がした。その後に川べりを歩き、友人に「あのあたりのことだよ」と橋を眺めながら教えてくれた。川縁では、たくさんのカップルが穏やかな時間を過ごしている。しかし、目の前にはすぐに水が押し寄せてきそうなほどに川が近い。日本の川は土手の歩道と川の間に茂みがあることが多いが、ソウルでは非常に歩道と川が近いような気がする。バッファーが少ない隅田川でさえもここまで川が迫ってくる感じはあまりない。

さて、船のように河岸に浮かぶ売店で氷とジュースを買って、川縁で行われる音楽家のライブを聴くなどした。若者たちは闇の世界の中でもウーバーを頼むなどして、食事を配達してもらって、公園のベンチで頬張りながらライブを聴いている。家ではなく公園にウーバーを頼んでいるのも初めて見た。さて、時間が遅くなってしまったので、その後にホテルへと向かった。


6月20日(2日目)ソウルで獅子頭職人と獅子舞を取材

この日は一日雨が降っていた。重要な取材がある日なので気を引き締めて向かった。

獅子頭職人インタビュー

まずは、獅子頭職人ウムデジン(음대진)さんへのインタビューである。ソウルの南の城南市にて、獅子舞や人形劇の制作や演舞をされている。知人を介して、れんさんという方が通訳についていただいたことで、今回オフィスで2時間ものロングインタビューが実現した。このオフィスは獅子頭作りの工房であり、また獅子舞の練習場でもある。学生に獅子頭作りを教えることもあるという。つまり舞うことと作ることの練習の場でもあるのだ。

練習所には4頭の獅子舞が置かれていた。北青獅子舞の系統だという。もともと北青獅子舞といえば、5色の胴幕の毛を持つが、ここでは5色の獅子舞を作っているというのだ。

創作獅子舞について

ーーこれらの獅子舞にはどのような意味がありますか?
動物としては基本的にはライオンを模しています。3年前に5色の獅子舞を作ることを決め、黄、黒、青、赤、白のうち黄色と黒色の2頭ができました。これらは5月から11月までの間、主要なお祭りで使うもので、伝統的な作り方です。冬の時期は比較的日程に余裕があるので、獅子頭制作の時間にあてます。残りの3頭も冬の時期に制作を計画しています。

胴体はトラックの網を胴体の基盤として、そこに毛を装着する形です。昔は魚網を使っていたようですが、漁村の文化という説もあるようです。現在は丈夫なトラックの荷台にかける網を使います。ミシンで布を縫い付けることもあります。長さはおおよそ2m60〜80と決められています。尻尾もついています。

ーー創作の獅子舞は、どのような場で演じられますか?
2頭はイベントで使います。現代的に作られた公演のための獅子舞です。また、その他に人形劇に登場する猪の獅子舞も作りました(奥の倉庫から何やら猪の獅子頭が登場!)。再利用の資源を使って紙でつくっています。大公演所で披露するもので、本来的には木を使うところを、プラスチックで補っている部分もあります。

公演のシナリオでは、お調子者で山の中で舞うという話で、その話の中で出てくるのが猪だったので猪を作りました。うさぎを食べる物語が北青獅子舞ではありますが、それを元にしたものではなく、全く新しい作り方です。北青獅子は人を食べていたこともあるけれど、それが教育に良くないから、人の人形に変わって、そこから、うさぎに変わりました。いろんな動物はうさぎを食べるイメージがあるので、そこから来ている話かもしれません。

赤い人形がおしっこする話も作りました。これも教育に良くないということで、(突起部をとり)穴から水だけ出る人形にしました。とった先っぽはどこかにいってしまいました。話の流れとしては蛇がたくさんの人を食べていくのですが、村で一番強いものが来て、おしっこをかけてその蛇を倒します。猪も蛇の話も人形劇の話ですね。



ーー獅子舞のやりがいはどんな時に感じますか?
獅子舞を作るのは大変ですが、作った獅子舞で公演をした時に、お客さんの反応がわーっと返ってくる時にやりがいを感じます。日本の獅子舞のように頭を噛むということはしません。やろうと思えばやることもできますが、口が大きく開くわけではないし、日本のように頭を噛むことで幸せを招くような意味は特にないです。(ユーモアの一種で)韓国では突然、お客さんの荷物をつかんで、持っていくような仕草をすることもあります。

ーー近年、獅子舞に興味を持つ人はどのような理由ですか?
獅子舞をやりたい人はたまにいて、伝統的な民俗芸能の活動をしている人の息子や娘を専門学校に通わせるということが多いですね。ただ、パンソリなどの芸能の例が多く、獅子の専門学校というのはそれでも少ないです。獅子舞の演者や制作者として、それだけで仕事を経済的に成り立たせることは難しいからです。昔、私が高校生の時はそういう人もいましたが、今はほぼいないのが現状です。

ーー獅子舞に向いている人はどんな人ですか?
リズム感があり、動ける体力がある人ですね。

ーー韓国の獅子舞は昔、地域の村ごとにあることも多かったようですが、なぜ専門の団体による舞台公演へと変化したのですか?
経済的な問題があり、存続してそれを仕事として食べていくために、国際的な交流も含め、団体として公演することが増えました。村の中だけでやる場合、食べていくことを疎かにしてしまうこともあります。

実際に実演で獅子舞を少し見せていただいた。頭を振ると立髪がなびき、非常に生き生きとしたライオンを思わせた。

獅子頭作りについて

ーーいつ頃から獅子頭制作をしていますか?
20年くらい前から作っていますが、この時は販売用の獅子頭を作っていました。10年前からはチームを結成して、そのチームの獅子頭も作るようになり、また獅子舞の舞い手もしています。

ーー獅子頭を作り始めたきっかけは?
きっかけは獅子舞を舞える人がいる一方で、作れる人が少ないという意識があったからです。

ーー獅子頭制作はどのくらいの時間がかかりますか?
1頭作るのに1ヶ月くらいです。

ーー売る用の獅子頭を購入するのは、どのような方ですか?
獅子舞の伝統的な団体が舞う用に購入する場合や、芸術系の大学で教える用に先生が購入する場合などがあります。

ーー獅子頭の作り方の流れはどのようですか。
獅子頭の作り方は2パターンあります。木で作る、あるいは紙やスポンジで作るパターンがあり、木で作るパターンの方が難しいです。木で作る人はほとんどおらず、大体は紙やスポンジで作ります。

紙の方は型を作り、そこに和紙を重ね合わせて、水に溶かしたボンドや小麦粉を塗りながらも、それを15回くらい交互に繰り返します。穀物の粉であれば小麦粉じゃなくても大丈夫で、とうもろこしの粉を使っても良いです。麺を茹でるのと同じように、筆をあったかいぬるま湯につけて、それを塗りながらも紙同士をくっつけます。その後に木を彫って下顎を作ります。スポンジを使う部分もあります。上顎と下顎の材質は違いますが、歯打ちをしてもどちらかが壊れることはありません。それから、アクリル絵の具を使って、金の粉(金箔ではない)で表面を塗ります。コリドルという薬品を混ぜて塗ります。漆をつけて塗ることは昔はしていましたが、今は早く作ろうとすることが要因で、漆を用いることはほとんどないです。



ーー獅子頭は年間いくつ作りますか?
年間、3つくらいです。ちょうど3日前に注文が入ったところです。以前は年間、5〜6個作ることもありました。お客さんと単価のイメージが合わなかったら作らないこともありまして。そのほかに、教え子たちが作って売っていることもあります。

ーー獅子頭と胴体の値段はいくらほどですか?
獅子頭と胴体込みで、木のカゴのタイプが350万〜400万ウォン(35〜40万円)、紙のタイプが600万ウォン(60万円)ほどです。頭だけの注文もありますが、その場合は団体の経済力がない場合もあるので、その場合はこの工房に来て学んで作ることをおすすめすることもあります。1週間に1回、小学生が学びに来ています。また、夏と冬に成人以上の方に向けても教室を実施しています。

ーーウムデジンさんが制作する獅子頭の特徴はありますか?
獅子頭の鼻と口を他の人とは違うスタイルで作っています。注文しているお客さんが逆にこういうデザインで作ってくださいという場合も稀にありますが、そういうことはほぼありません。


ーー近年、獅子頭を作る人の増減はどうでしょうか?
減っています。その理由は、教育の場が少なくなっていることが挙げられ、伝統文化に触れようとする子ども、そして演者が少なくなっています。私が学校に通っていた時に演劇科が初めてできましたが、公演の団体を作る時に獅子舞がないチームも多く、獅子舞の道具を揃えるには単価が高く量が多いので、それらを揃えられるところも限られてきます。ただプロでなくても、一般の団体の人がみようみまねで作ることもあります。そのような中で、獅子舞を作ったり舞ったりする活動をしているのです。

ーー本日は長い時間、貴重なお話をありがとうございました。

インタビューは2時間以上に及んだ。ウムデジンさんの獅子頭づくりへの熱量は素晴らしく、弟子の方々へもスキルを教えるなど、積極的な伝承活動を実施されているようだ。韓国の丸型の顔の獅子頭は、日本でも佐賀県で同じような作り方があり、竹籠を使うパターンがある。韓国でも竹籠で作るタイプがあり、それはボンサンタルチュムなどにみられるとのことだった。日本と韓国のつながりも思わせるような非常に貴重なインタビューとなった。

また工房から次の取材場所まで車で送っていただいた。ソジュというお酒があることを教わり、またサムギョプサルもご馳走になり、非常に素晴らしい滞在となった。本当に感謝である。「30分無料マッサージ」などの言葉は、日本と韓国で同じような発音のような話題が出てきて、非常に面白かった。韓国も日本も、漢字の読みを母語に取り入れている点では、言語的なルーツが似ているのである。あと、韓国では自分の歳を聞かれた時に西暦で答えることが多いようで、生まれた年が1歳なので世界標準と比べるとプラス1歳でカウントするらしい。これは腹の中にいる時が0歳と考えることに由来するようだ。この辺りの文化の違いに関する会話も面白かった。

北青獅子舞見学 15時〜17時

その後は、国家無形遺産伝授教育館近くの劇場で、北青獅子舞(プクチョンサジャノリ)を拝見した。人に道を尋ねながら、会場に到着した。

まずは来賓挨拶、そして、ゲストとして招かれたタルチュムの演舞の後、北青獅子舞は最後の演目で登場。間に合って本当に良かった。韓国で最も伝統的で歴史が古く、そして格式が高く有名な獅子舞のひとつであろう。韓国の獅子舞といえば、仮面劇の中の獅子舞というのが多いけれど、ここでは獅子舞が前面に出てくるのだ。

演舞は道行きから始まる。これは伎楽の行道の獅子舞に由来するのだろうから、日本の大陸から伝来した2人立ち獅子舞とルーツが同じだ。それから一旦、獅子は舞台袖に引っ込む。次々と配役の者が舞台袖から舞台へと登場するような流れで、徐々に登場する役柄が増える。みんなで楽しみましょう!という雰囲気を感じる。それから最後に登場するのが獅子舞だ。奇妙で不思議な獅子舞であり、ウサギを食べた獅子舞が腹を壊して倒れるという物語である。舞い方はライオンのような動きを模している。非常に躍動感ある舞が印象的だった。






今回、連絡をとっていたパクウォンチュルさんにお会いすることができた。今年10月には日本の鎌倉で披露が決まっているという。非常に精力的な活動をされておられる。

北青獅子とは何か

さて、北青獅子舞(プクチョンサジャノリ)とは何か。その歴史は長く1500年以上とも言われ、仏教の伝来とともに流入したと考えられる。獅子舞についての最古の文献としての記録は、新羅時代の文人・崔致遠(858〜)が著した漢詩『郷楽雑詠五首(향악잡영오수)』であり、五首のうち第五首「狻猊」は獅子舞を描写したものと考えられているようだ。「遠く流沙を渉り万里を来たる」という描写から、白居易の漢詩「西涼伎」に影響され、また西域から来た芸能であることを彷彿とさせる。ただしこの獅子舞は当然ながら、現在の北青獅子舞の遠い祖系の話である。

北青獅子舞は地理的にいえば、元々は朝鮮半島東北部、厳境道北青郡内の三邑十一面(邑や面は行政区画)で演じられてきた民俗芸能である。北青邑だけでも、竹坪里獅子、東門外獅子、フピョン獅子、北里獅子、棠浦獅子など非常に多彩である。最も有名だったのは竹坪里の獅子だったとする話もある。それぞれ両班と下男のコクセー、医員、居士、コップチュ(背が曲がった人)、僧など、さまざまな登場人物がいたりいなかったりで、それぞれ地域性があるようだ。1930年ごろからは、北清邑にある南兵營の前庭に集まって獅子舞のコンテストまで繰り広げたと言われる。この時に自分の村の獅子を見事に見せるために、獅子の眼球にガラスをはめて頭を上げたときに月光と松明の光に反射して輝くような趣向を凝らした獅子遊びもあったようである(3)。

ただ、1960年代にはすでにこれらの朝鮮半島東北部の北青獅子舞は悉く実演されていない。それは、社会主義体制化で不都合な文化に対する排除の圧力が働いたためだろう。かつて旧暦の1月14日〜16日までの期間に北青獅子舞が実施された。この獅子舞は各家々を回り、それに対する祝儀は、村の公共事業に使われて、経済的な分配の役割も担った。また獅子の毛を持ち帰ると長寿になるという言い伝えもあった。しかし、現在は家回りなどの風習は途絶えた。その他、以前は松明を持った青年が期間の初日に、松明を振り回した格闘が行われて勝った村が豊作になるという言い伝えもあったが、それも実施されていない。マダン(幕)としての上演の部分だけ残っている状況である。1967年には韓国の重要無形文化財15号に指定されている。

北青獅子の体毛の色は茶色が最も有名で伝統的な色だが、そのほかにもあり、赤・黄・緑・青・茶色の5色となっている。五色獅子は北方系の影響を受けており、陰陽五行説の影響があると言われている。この毛を保管しておくと長寿になるという。もともと1頭獅子だったのが、現在は舞台化の影響で2頭一対で舞う形が多くみられるようになった。マダンにおける登場の役柄としては、哀怨声という舞いを踊る女、両班、コクセー、コップチュ、舞童、巫女、剣士、医者、僧侶、獅子などが登場する。舞台は両班とコクセーの掛け合いから始まる。それから次々と役柄が登場して、最後に、両班がコクセーに獅子を呼ぶことを促し、そして、獅子が登場する流れである。獅子マダンの流れは以下のようである。

・獅子使いのコクセーが獅子を呼び、2頭が登場
・獅子が舞い始める。
・コクセーが一頭の獅子にぬいぐるみのウサギを渡す
・ウサギを食した獅子は倒れる
・両班とコクセーが相談して僧侶を呼ぶ
・僧は般若心経を唱えるが、獅子は生き返らない
・医者が鍼を打ち、甘露水を飲ませると獅子は元気を取り戻す
・2頭の獅子が舞い出す、立ち獅子をする
・獅子、両班、コクセーなど群衆が皆で踊り出す




なぜうさぎを食べて倒れるのか

最も特徴的なのは、いわゆる「倒れる獅子」としての特質を持つことだ。兎を食して胃もたれを起こし、倒れて、医者の治療で回復すると言う筋書きとなっている。全体を通して見ると、威厳ある獅子が倒れることが象徴的なのはもちろん、僧の力では生き返らない場面は印象的であり、なぜか医療の力で獅子が生き返る点は興味深い。祭儀(クッ)だけではなく、そこに風刺的な観点が含まれることが、この獅子舞の大きな特徴である。ここには獅子の厄を祓う威厳のある姿が変容した過程を読み取れるのだろう。

なぜこのような物語となったのか。金仁姫(2015)によれば、「権威ある存在を転倒させ、葛藤や矛盾の存在を顕在化させる。それを露骨に風刺し、笑いを誘う」として、韓国のタルチュムや獅子舞はこのような共通の主題を持つとする。そして、「胃もたれで倒れる獅子という設定を、タルチュムの他の素材同様、自然に理解することができよう。子どもに代わって兎を食べさせることになったというのも、演戯上の技術的必要もさることながら、もはや信仰の対象ではなく、笑いの対象になっている獅子に子どもの健康を祈る必要などないからではなかろうか」とする。(1)。

獅子はある意味、百獣の王から転化した霊獣であり、厄祓いをする強き存在のはずが、うさぎを食べただけで簡単に倒れてしまう。そこに韓国の獅子舞の醍醐味である、風刺やユーモアが隠されている。そのほか、獅子の転倒には演舞者の休息や、蘇生する時の喜びの倍増という説もあるようだ。僕が今回の取材の中で、獅子頭職人の方に聞いた話によると、「北青獅子は人を食べていたこともあるけれど、それが教育に良くないから、人の人形に変わって、そこから、うさぎに変わった。」という話も聞いた。徐々に儀式性のある獅子から、ユーモアあふれる演劇的な獅子への変容も感じる。


この北青獅子舞の拝観後、江陵の端午祭の夜の公演に伺おうとしたのだが、時間的にバスに間に合わなかったので、ソウルでもう一泊することにした。こういう時はチムジルバン(日本でいうところの仮眠所付き温泉センター)に宿泊させていただいた。

6月21日(3日目)河回仮面劇と釜山の観光

さて、ソウルからバスに乗り、安東を経由して、河回に向かった。何かと高いビルが立ち並ぶ光景が美しく、徐々に田舎の風景へとは変化していった。なかなかに素晴らしい光景が見られた。日本の夜行バスのように快適なバスで、2列シートと1列シート並列でゆったりめの席だった。

河回ではサバが有名のようで鯖の定食を食べた。お昼に食べた鯖が非常に美味しかった。マッコリ500円を頼んだらコップ一杯かとおもったら、意外と1リットルほどのボトルできたので、驚いた。昼食の時に飲み終わらなかったので、水代わりに鞄に持ち歩いて飲んで回った。安東焼酎は美味しいですよと昨日の獅子頭職人さんにお勧めしていただいていたが、今回は飲めなかったのでまたの機会にしたい。

・世界仮面博物館訪問
その後、世界中の仮面が展示してある博物館があるとのことで訪れた。これほど世界の仮面を網羅的に端的にまとめている博物館もなかなか珍しいと思う。日本の仮面のコーナーには能面、ナマハゲが大きく取り上げられており、弥十郎などのマニアックなものもあった。獅子舞を展示して欲しかった思いはあるが、世界的にどのような仮面の世界が広がっているのかがよくわかった。その中で、仮面先進国はインドネシアのように思われた。非常に多様で多彩な仮面が揃っているように感じられた。

・河回仮面劇見学 14時〜15時
開催日に関して「月、木、金?」と門の前に書かれていて、随分と焦ったが、これは伝統芸能体験がある日のようだ。無事に仮面劇は開催された。ここでは、獅子舞と似たような2つの動物が登場した。鳥のような鹿のようなシュジという仮面と、牛である。それぞれが非常に興味深い。おそらくシュジは日本の鹿踊りに顔が似ているが、1対の2頭が格闘して倒れるという場面となっている。また牛に関しては、牛を斧で殺して、その金玉をとり売りさばくという内容であり、仮面劇としてのユーモアに溢れている。いずれも獅子舞とは異なる気もするが、同じような気もする。その淡いをいく異形のものたちだ。金玉を売りつけようとしたり、機織りのおばあさんがいきなりチップを要求してきたり、会場との掛け合いが非常に多くて円形舞台の特徴がよく生かされている。

以下のような演目が披露された。

・住処の舞

・白丁(屠殺屋)の場

・婆マダン

・僧マダン:
女を欲しがる僧は女の放尿場面を見て、その後に放尿された土を持って、匂いを嗅ぐ。

・両班とソンビ(在野の学者)マダン

以上の劇ののち終了。最後は観客も輪に入って素晴らしい盛り上がりだった。

河回仮面劇の由来に関する物語。

上演前に次のような物語がスクリーンに流れた。英語なので、完全に訳せているか怪しいが、大まかなあらすじを書いておこう。「河回村はかつて暑すぎて乾燥した大地で、美しい村は荒廃してしまい、人々はそれを止めることができなかった。そこである男(Do-ryung Heo)は神木(サムシンダン)で山の神様(ソナン神?)に村を災害から守ってほしいと祈った。星が輝くある夜、光が彼の部屋に入ってきて、山の神様が現れた。山の神の怒りは好き勝手にする人と争う人がいて腐敗した村の現状に対する怒りだと諭して、それを悔いて12の仮面によって劇を行うことを勧めた。そうすることで村に平和が訪れるというのだ。これは夢であり、そこから覚めたその男は、次の朝、村長にその夢のことを話した。村長はそのことを村の人々に解いて回った。その男に心寄せるある女がいて、男は重要な仕事に就いたことを知った一方で、なかなか会えなくなることを心配した。男は月を眺めながら、深い思索にふけった。そして、力強くゆったりとした表情の両班など、さまざまな面を思い浮かべ、素晴らしい仮面を作ることの誓いを立てた。仮面が完成するまで誰にも姿を見られてはならないという決まりのもとで、とても忙しく仮面作りに励んだ。女はなかなか会えないことを悲しんで、病気になってしまった。そのようなことは知らず、男は仮面作りをした。女は男と幸せな日々を過ごしていたことを想い出して、山の神に新鮮な水の供給と男の仕事がまもなく終わることを祈った。男が仮面作りを始めて3ヶ月経った。新鮮な水に男の顔が映ってついに男は仮面を作り終えたと思った女は、ルールを破って彼の家に向かって塀を越えて近づいた。しかし、男は仮面作りを終えていなかった。もう少し辛抱していればよかった...男は血を吐いて即死した。そして女も悲しみのあまり自殺した。そのことを知った人々は男が作った仮面を被り、災害が起こらないように毎年踊った。12の面のうち3つはもう残っていない。9つの面は今、韓国国立博物館にある。2022年には仮面劇のひとつとして、ユネスコの無形文化遺産に登録された」。

河回仮面劇に登場するのは獅子か?

シュジは類感呪術を実施する。2頭が走り回ることによって、厄を祓い清める役割を担う。またこの2頭はオスとメスであり、格闘してメスが勝つとその年は豊作になるという。五穀豊穣であり多産祈願の性行為でもある。獅子使いのチョレンイはジュジを追い払う。

以下のような流れで実施される。
・ジュジ2頭が出てきて激しく走り回る。
・オスとメスの闘いが始まり、メスが勝つ
・メスとオスは重なり合い、性行為の動作をする
・獅子使いのチョレンイが登場してジュジ2頭を笑う
・2頭を起き上がらせて退場させる



基本構造としては前半に儀式的側面、後半に風刺やユーモアが登場する非常に変化に富む演目であると感じる。後半でチョレンイが登場してジュジ2頭を笑い、退場させる場面に、北青獅子舞と同様の権威の転倒が見られるのである。なぜ、性行為が象徴的に用いられ、それが風刺と笑いに転換される必要があったのか。それは河回のソナン神が15歳にして死んだ寡婦、もしくは処女の怨霊とされていることに関係しており、村に災いがある時、ソナン神の怒りをかったという解釈がなされる。その怒りの根源には「性的な欠乏」があったようである(2)。
これは非常に重要な観点であり、ジュジの他の演目には牛の金玉の購買競争、女の放尿に関心を持つ性癖の男の登場などの性的な描写はこのことが関係していると思われる。農村タルチュムである河回仮面劇は、両班の経済によって公演が成り立っていたこともあり、両班に対する直接的な批判ができないことも特徴だったようだ。そのような中で、ソナン神のこともあり、制欲の風刺やユーモアが採用されてきたという背景もあるとされる。

釜山の夜の街を散歩

韓国の列車は指定席があって、改札がない電車も多く、その辺りも面白かった。釜山は駅は空間設計が非常にゆったりとしており、とても素晴らしい集いの場が形成されていた。動画が流れてて駅の風景と調和しており、また広い空間に広場が配置されている。韓国を旅して感じることは都市空間の余白の作り方が、大胆でゆったりとしているという実感である。釜山駅を出るとすぐに若者の街が広がっていた。そこから夜の遊び場としてのネオンギラギラのバーが広がっていて、その一角にある、冷麺屋さんに入ったら、麺が透き通るようでさっぱりした味わいが素晴らしかった。


伝統的なチムジルバンに宿泊した。ここはソウルの東大門のチムジルバンに比べて比較的高齢の方が多く、昔からのお客さんなのではないかと思った。

6月22日(月)、次の朝の4時台には起きて、空港に向かった。釜山からのフライトの帰りの景色は非常に壮観だった。山と山の隙間に壮大なビルや住宅が幾重にも重なり、このようなダイナミックな展開のある風景は日本ではなかなか見られない。むしろ香港で見た景色にも近いような気がする。建築に思い切りがあるように思う。それは釜山に至るまでの列車の乗り継ぎで慶州についた時にも思った。それで2時間の飛行機は日本につき、日本の国土を眺めると、きめ細やかな土地利用が眺められた。ダイナミックな光景は少ないが、日本の美しさはこのようなきめ細やかな大地と人々の暮らしにあるのかもしれない。画像はソウルの大地と日本の大地。


改めて韓国の旅を振り返る

さて、ここまで滞在の様子を振り返っていたら非常に長大な記録となった。今回の旅から知れた韓国の獅子舞の今について、文献資料を読み返して知ったことを含めて、振り返っていきたい。

韓国の獅子舞の歴史と現在

韓国の古い獅子に関する記述のひとつに『三国史記』第32巻「音楽論」の記述が挙げられる。512年6月に異斯夫が山国、現在の鬱陵島を征服するときに舞う形ではないが木造の獅子を作り相手を脅して降伏させたという記述があるようだ。最古の獅子舞の記録としては『삼국사기(三国史記』が挙げられる。ここでは金丸、月顚、大面、束毒、狻猊という5つの曲による獅子遊びの伝承を確認できる。この本で紹介される詩によれば、砂漠を経てきたとその由来を明らかにしている。獅子舞が西域系統であることを明示しているのだ。また日本の信西古楽図にも、新羅狛という獅子舞の一種が描かれる。これらが朝鮮半島の獅子舞の原型を形成していたのだろう。

現在の獅子舞の多くは、タルチュム(タル=仮面、チュム=舞)の一幕に編成されて残っているものが多く、このような傾向の始まりは朝鮮王朝後期の17世紀に至るとも言われる。そのテーマは、おおよそ破戒した仏僧や民衆を苦しめる支配階級の両班の堕落像を語らせて、共同体意識を回復させることにあり、風刺性の非常に強い芸能となった。第一幕か最終幕で獅子舞が登場することが多く、本来的には場の祓い清めの役割があると考えられる。しかし、その一方で獅子は倒されたり殺されたりと威厳が薄く、祓い清めをするような存在へのイメージがなかなか繋がらない。これはタルチュム全体が支配階級の堕落像を語るというテーマを持っているのと同じ構造で、本来の地位と役割が転倒することに、対立や和解、そして克服、歓喜といったものを招き寄せる意義を見出している。

韓国の仮面劇に登場する獅子舞は8つある。北青獅子舞、河回獅子舞、水営獅子舞、統営獅子舞、鳳山獅子舞、康翎獅子舞、殷栗獅子舞の7つ。そして、統営獅子舞に関しては2種あり、「獅子の射殺」の場面が1930年代の記録にはなかったとされるが、それ以降に付加されたと言われている。金仁姫『風刺劇 韓国獅子舞の変容』(風詠社, 2015年)によれば、「現在の獅子マダンから狩人関連の部分を除外したものを統営A獅子舞、狩人関連部分を続営B獅子舞にして、両者を分けて取り上げる」とする。また、北青、鳳山、康翎、殷栗の4つは朝鮮半島北部に伝承していたものである。それが、朝鮮戦争頃を契機として、元演技者が韓国に逃れてきた。その中で改変もありながら、現代に生き続けている。

韓国の獅子舞と東アジア

注目すべきは、朝鮮半島における、ここ100年間の動きである。村から舞台へという転換点であり、それには政治が大きく関わっている。今回、拝見した韓国の獅子舞はどれも公演という形をとり、舞台上での演舞であった。北朝鮮の芸能がどんどん南下して、韓国に定着した。村での一致団結の要因をなすものとして、獅子舞をはじめとした祭礼が政治的に追い出された形である。もともとはプクチョンサジャノリ(獅子遊び)と呼ばれていたものだが、北青の人々が南下して伝えたので、文化財名称では北青を付け加えて、「北青獅子遊び」となった。1960年代半ば以降は、北朝鮮ではこの芸能は見られなくなっている。もちろん1960年代に急に韓国に伝わったわけではなく、1930年代にはすでに北朝鮮から獅子頭を購入した記録があるなど、もっと昔からの伝授はあったようだ。この時の獅子頭は国立民俗博物館に展示されているのを拝見した。

日本の歴史を遡るに、明治以降の獅子舞の歴史は減少の一途であるという理解が概ね正しいと思う。ただ、明治、大正、昭和と、ここ100年で天皇即位と共に、お祝いムードの中で全国的に獅子舞が急増した出来事もあった。これは政治的に奨励されたということだと考えている。明治時代の廃仏毀釈を考えると、明治時代の日本は非常に厳しい宗教弾圧、殊に仏教に対して強い政策をしてきた。もちろんそこで途絶えた獅子舞もある。しかし、日本の獅子舞は平安時代以来、仏教から神道へと遷移していった。そして800年以上の時を経て、明治時代の廃仏毀釈の際に壊滅を逃れた獅子舞もあったように思う。この北朝鮮と日本の獅子舞に対する政策は、非常に対照的であり、どのような手法を使って国を統治するのかというそれぞれの手法を示しているように思う。

同様に、中国や韓国の政策も獅子舞をある程度は保護してきた部分があったように思う。中国は広過ぎるので、北朝鮮ほどの規律を持って、祭りを規制していないようにも思える。ただし、地域芸能としてというよりは、プロフェッショナルな技を持つ舞い手たちによって支えられている。古い形態の獅子舞はあまり残っておらず、新しい獅子舞が多い印象だ。大会に出れば賞金を得られるし、獅子舞によって経済を得るという考え方がある。これは韓国も似ているところがある。19日に韓国の友人とソウルでご飯を食べた時も、20日に獅子頭職人にインタビューをした時もそうだったが、よく「経済」というワードを聞いた。村祭りとしてのパフォーマンスは、舞台上にある種、その形態を国家無形文化遺産として保存することによって、継承に成功したパターンなのだろう。「伝承館」を持つことも多く、そこを拠点として活動する。一年のうちでも、祭りの日に限ることなく、そのほとんど毎月の活動を、韓国や海外を含めた舞台上での公演という形で、成り立たせていることもある。

故郷を離れても継承する意義

今回の滞在を締めくくるのに、ソウルで出会ったある研究者がおっしゃっていた言葉を紹介したい。その研究者が考える韓国の獅子舞は、どこまでもリアルを突きつけてくる。獅子舞を継承するとはどういうことなのか。

「近代化が進む中、韓国で獅子舞をすることは、ある意味「diaspora(故郷を離れた人)」の側面があると思います。実際にはどのようなものだったのかわからないけれど、おじいちゃんなどから聞いた話を元に舞っています。だから、(朝鮮半島の)南に移動してきた人の思い出で出来上がった芸能だと思って見るんです。中には作られた伝統もあると思います。だから、歴史的な根拠も確認していかねばなりません。(朝鮮半島の)北では政治的なところがあって、全く実施していないです。中国の文化大革命と同じことです。でも日本は芸能そのものですよね、地域に根付いた感じがします。韓国は全て文化財に指定されて全て舞台芸能になった。だから形式的なものは残っているけど、精神はどこまで残っているのか。疑問に思うところもありますね」

韓国の獅子舞にとってここ100年は激動の時代だったのではと感じた。そして、この100年を研究したいと感じた。厄を祓うという本義を考えたときにそれを意識して現在、実施している人はいるのか。そのような失われゆく芸能の本質的な意義を問うような素晴らしい対話だった。「保存をする」とは何をどう保存することなのか。しかし、韓国の獅子舞を拝見していると、時に観客を魅了するようなダイナミックな動きを見せ、一方で、どこか観客を巻き込むように参加を促し、観るものを楽しませていた。伝統的な故郷の獅子舞は新たなる舞台でもしっかりと輝きを見せていた。

この話を聞いた時に、僕はふと北海道の獅子舞のことを思い浮かべた。北海道では、明治時代の開拓によって本州などから移住してきた人々によって芸能が形づくられたところがある。故郷の獅子舞を継承することで、故郷を思い出すとともにそれを心の拠り所としてきた。実際はこの故郷を思い出すための心の拠り所として、故郷の獅子舞を超えるくらいにしっかりと伝承されている場合もある。しかし、その一方で、獅子舞の由来や本義が遡りにくくなってきており、世代が交代するに従って、なぜこの獅子舞を継承するのか?について知らない人も多いように思うのだ。その現象が韓国でも沸々と生じているように感じられた。しかし、依然として北海道の獅子舞は輝きを放っていることは事実で、昨年は担い手が100人を超え子ども達がたくさん参加する活気ある獅子舞もある。韓国の次の100年はどのような動きが見られるのか。それにしても、気づきの多い旅であった。

引用
(1)金仁姫『風刺劇 韓国獅子舞の変容』(2015年1月, 株式会社 風詠社)P50
(2)金仁姫『風刺劇 韓国獅子舞の変容』(2015年1月, 株式会社 風詠社)P82
(3)전경욱, 『북청사자놀음』, 2001, 화산문화P44

参考文献
金仁姫『風刺劇 韓国獅子舞の変容』(2015年1月, 株式会社 風詠社)
저자 조성현 박원철『2024년 우수 이수자 역량강화 사업 북청사자놀음 반주음악 및 사자춤 기교연구』(2024)
전경욱, 『북청사자놀음』, 2001, 화산문화

埼玉県三郷市 戸ヶ崎の獅子舞に再訪

2026年6月7日、埼玉県三郷市の戸ヶ崎の獅子舞に再訪。三匹獅子舞(1人立ち三頭立て獅子舞)の形態だ。大獅子・中獅子は雄の獅子で、女獅子は雌の獅子を表す。もともとは7月に開催されてきたが昨今の温暖化により、開催時期が前倒しになった。この獅子舞、朝の8時から夜の20時まで、3日間獅子舞をする。延々としているので、本当に担い手の体力がすごいと思う。

僕は以前、昼の演舞は訪れたことがあったので、今回は3日目の最後に関心を持ち訪れた。今回は3日目の最後、笹廻り、綱掛りの演目を拝見できた。笹廻りは大きな笹のまわりで獅子が舞う。また、綱掛りはたくさんの担い手が綱引きのような格好で張り合い、真ん中あたりに獅子がいて、最後の方で獅子がその綱を乗り越える場面がある。結界系の演目であろうが詳しい由緒はよくわからない。

おばあちゃんが孫の演舞をとても応援する姿がとても良かった。お札を山のように投げ込んで、ふわっと浮いて、横にいる担い手たちがひたすら回収するということをしていた。子どもが教習とバイトの合間をぬって、少しでもみにきてくれて良かったと中年女性が話しているのもみた。男だけではなく、女性も観客の立場から盛り上がっている印象だ。

また、落ちてしまった羽を大事そうに服に身につける担い手もいた。羽を子どもが嬉しそうに持っている姿。それから、お捻りでもらった小銭を大獅子の足に何回か打ちつけるシーンもあり、興味深かった。こういう一つひとつの出来事が印象深く、この村の獅子舞の醍醐味であると思う。


笹廻りの場面


綱掛りの場面

ヘビやタコが登場する神楽!栃木県宇都宮市「二荒山神社宮比流太々神楽」を訪れた

気温30度を上回る灼熱の中、蛇はぐるぐるとくねった。なぜ5月末なのにこんなに暑いんだ!?夏空を見上げて、天照大神の太陽神の降臨の威力が凄すぎると思った。2026年5月31日、栃木県宇都宮市の「二荒山神社宮比流太々神楽」を訪れた。この地に伝わる蛸と蛇の舞を拝見すべく、早起きして宇都宮に降り立った。宇都宮は直線の大通りが長く伸び、どこか区画の存在を強く感じる町だが、少し道を逸れると餃子通りが広がっていたり、雑味のある小道が広がるのが面白い。

さて、駅からの直線道路を進むと道路沿いに大きな鳥居と拝殿へと続く急な石段が見えてきた。宇都宮二荒山神社である。宇都宮二荒山神社は「ふたらやま」である。一方で、日光の二荒山神社は「ふたらさん」なので、その点が違うことをのちに訪れた栃木県立図書館の郷土資料室の方に教えていただいた。さて、神楽殿では舞われたのは、午前は5座、午後は3座だった。それぞれを振り返っていきたい。

・10時〜12時
国定めの舞
鈴を鳴らして神楽殿を祓い清める舞。
この演舞は到着が少し遅れてしまったことによって、拝見できなかった。

猿田彦の舞
天孫降臨の道案内をする猿田彦。10時10分にはついた頃には次の猿田彦の舞が終わるところだった。この地の猿田彦は全身オレンジ色で、派手で、とてもかっこいいなと思った。

二神の舞
天津神と国津神がお互いの名を問うて、名乗り合うという演目。天地が融合して万物が生成されることを言う。これは天地和合であり天地未分であると考えれば、これは岩手県の早池峰神楽などで見られる「鶏舞」のような役割があるようにも感じた。

八幡の舞
「鈴とり鬼」とされる舞。鈴を振り踊る鬼(第六天の悪魔王)を八幡(八幡麻呂)が弓矢で退治する舞である。八幡系の舞は武神であり、やはり弓矢のモチーフが登場する。弓は「神通の弓」、矢は「方便の矢」とされており、これも八幡が応神天皇由来であることを思わせる。第六天魔王は仏教修行を妨げる悪魔とされており、歴史上の人物でいうところの織田信長が自らの仏教勢力との敵対する姿を第六天魔王と名乗ったことが思い出される。

鬼女の舞
これは非常に物語に入り込むような舞だ。恋焦がれた男がいた女が、結ばれることなく死に、鬼となりその男と再会するが、自分が鬼であることを隠せない。しまいに、鬼の姿をあらわにした女は、その場に現れた鍾馗に殺されてしまう。非常に悲しく切ない物語だ。女は鬼女としての鬼面と美しい姫の面を使い分ける変面的な立ち回りが非常に見どころだと感じた。これは昨年に石見神楽の佐野神楽社中の演目「有明」は女が徐々に面を変えて化け猫に変身する様を演じるが、あの演目を非常に思い出した。

さて、ここから昼休憩となった。
餃子通りに繰り出して一時間で餃子を食べようとしたが、日曜お昼であまりにも並んでいて、悟空なんかは人気すぎて40組以上待っていたので、比較的空いているキャロルに入って、餃子、ラーメン、ご飯のセットをいただいた。それで急いで、13時の演舞に間に合うことができた。

・13時〜15時
岩戸の舞
午後の最初の演舞は、岩戸の舞。これはもう全国の神楽で演じられる超重要演目であり、岩の影に隠れた天照を地上に連れ戻すべく、神楽を奏して賑わす。これぞ、神楽の起源というべき演目である。岩の造形のゴツゴツ具合がとても良かった。ここでは肝心の天照大神を偶像化せずに登場させていない点が非常に興味深かった。登場する役柄としては、猿田彦、岩戸の二神、鈿女、手力男命である。

恵比寿の舞
恵比寿神、またの名を事代主神。ひょっとこと道化とともに釣りを楽しんでいると、うなぎや鯛が釣れて、最後に大蛸が釣れる。道化は大蛸と相撲をとって、その勝負に勝ち、最後は踊る。漁民文化に根ざした非常に愉快な舞。鯛を釣るという所作はよく見るが、大蛸が登場して、そこと相撲を取るというのが非常に珍しくそして面白く感じられた。

お蛇の舞
さて、今回最も楽しみにしていたのがこの演目である。お蛇の舞の読み方は「おろちのまい」だ。八岐大蛇伝説を題材としており、これは出雲の奥山に住む蛇のことである。脚摩乳(アシナヅチ)には8人の娘がいて、毎年お蛇が降りてきて攫われること8年目。とうとう稲田姫の出番が来てしまう。須佐男命はそこで濃いお酒を用意して、お蛇に飲ませてその隙に退治する物語。斐伊川の氾濫に対する人身御供を思わせる話の構成である。

宇都宮二荒山神社では、なんといっても、この大蛇の造形そのものが非常に愛らしくおおらかである。大きな頭、大きな体をゆっくりと歩きのその外歩く蛇はまるで、2本足の恐竜のようである。わかりにくいような細くてひょろっとしたヘビではなく、大きくておおらかな蛇だと感じた。お酒を飲んで酔っ払ったところを須佐之男命が剣で退治して稲田姫を守る物語は他と同じだ。それにしても炎天下の中、このような分厚い着ぐるみのような大蛇を纏って演舞した演者には本当に感謝したい。それから道化のお酒を運ぶ姿が、足のふらつき具合がとても良い塩梅で、思いがこもっていて、素晴らしい身体所作だと感じた。

さて、演舞が終わり、餅まき(餅の手渡し50個ほど)があり、本日の神楽は終了となった。
その後に栃木県立図書館で資料を調べてから、また宇都宮の街に餃子を食べに繰り出した。17時前だったので、餃子のみんみんが並ばなくて入れたのはかなり良かった。やはりみんみんはパリパリで小ぶりなところに、手軽さがあり、「宇都宮餃子といえばこれだ」と思わせる風格があった。

全体を通して感じた楽しませる心

今回、8演目を拝見して感じたのは、埼玉県の鷲宮催馬楽神楽のような古風を今に留める太神楽というよりも、純粋に人を楽しませたいという気持ちが強い神楽なのだと感じた。娯楽要素の強さを感じたのだ。道化役の登場箇所が多かったり、大蛸や大蛇のような役が非常にユーモラスで親しみのある着ぐるみのような造形として登場していた。あと、演舞中に岩の上に凧と蛇が置いてあっておそらく陰干しされていたのかもしれないが、その姿が可愛らしかった。

そして、演目の合間の幕間に突如MCのような繋ぎ役が登場して、「今日は3万5千人の観客の皆様にお集まりいただきありがとうございます」という誇張表現で笑わせてくれたのに始まり、10分ほどの演目の紹介もあった。その合間に昔話もたくさんお話があった。「この地域には昔ワンワン(野良犬)がそこら辺を徘徊して、それを踏んじゃってがっかりしたこともあった。そんな中で唯一の楽しみはサッカー。ご飯を食べるときに白黒テレビを観ながら今日はこんなことがあったんだよと話していたんです」などと思い出をしてくださった。

神楽は誇張することで囃すという役割があり、これは国家のような大きな力の存在を成立させる条件とも思う。それがこの神聖なる神楽殿にて神に捧げられているという事実もまた興味深い。宇都宮という栃木県という地方都市の中心の街で、このような大きく囃す芸能が息づいていることが何か必然性のようなものを感じてそれがまた面白いと思った。


宇都宮二荒山神社、神楽の歴史

さて、ここからは栃木県立図書館で調べた資料や、WEBなどを検索して資料を集められた情報を振り返る。この二荒山神社の神楽は「太々神楽」に属する。今年4月には山梨岡神社の太々神楽に訪れたが、あの形式とも近い神楽だ。江戸を中心として、その周縁に伝播した一様式と考えられる。
宇都宮市教育委員会『宇都宮の伝統文化 二荒山の祭礼』, 平成24年度 宇都宮市伝統文化映像記録作成事業資料(2013年3月, 宇都宮市教育委員会)によれば、二荒山神社の太々神楽は江戸時代中期に始まったようで、江戸の神田流から教わったと伝えられており、「宮比流」と称するようである。

毎年、1月、5月、9月と4ヶ月刻みで、境内の神楽殿にて披露されている。もともとはこの年3回の演舞は28日に実施していたようだが、今回訪れたのは日曜日31日だったので、近年は土日に日程がぞれているのだと思われる。全ての演目は18座あり、そのうち7〜8座を毎回披露するようだ。面は全部で39面あり、江戸時代終わり頃から明治時代に活躍した仏師の高田運春の墨書きがあるものもあるという。非常に古い麺も残っているのである。宇都宮市指定無形民俗文化財となっている。


<参考文献>
宇都宮市教育委員会『宇都宮の伝統文化 二荒山の祭礼』, 平成24年度 宇都宮市伝統文化映像記録作成事業資料(2013年3月, 宇都宮市教育委員会)
栃木県教育委員会『栃木県の民俗芸能ー栃木県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1998年, 栃木県教育委員会) P12〜15
尾島利雄『栃木県民俗芸能誌』(1973年12月, 錦正社)P50〜51
栃木県教育委員会事務局文化課『栃木県の民俗芸能』(1985年, 栃木県教育委員会)P21〜22

獅子舞の熱狂と多様さ!富山県 新湊・射水の獅子舞を訪ねる

全国の中でも、これほど獅子舞に情熱を持って取り組んでいる地域は珍しい。毎度のことそう思わせられるのは、富山県新湊の獅子舞だ。その伝承力、根強い人気...。祝儀は多ければ一軒、50万円を越える。他県にとってはイベントで招くにも躊躇するほどの高額...富山の獅子舞は、その金銭的土壌が違う。

2026年5月14〜16日、富山県射水市の獅子舞を訪れた。今回の収穫は、どこか似ていると思っていた新湊の獅子舞が、実はそれぞれいろいろな違いが見えてきたということ。非常に重要な一歩となったように感じる。今回も射水市の久宗獅子舞工房のご案内もあり、たくさんの獅子舞を訪れることができた!実際に訪れた獅子舞を振り返っていこう。

5月14日(木)

六渡寺の獅子舞

庄西コミュニティセンターでの演舞のため、18時半には場所取りを始めた。実際に演舞が開始されたのは20時過ぎ。相変わらず、六渡寺はすごい熱気に溢れている。六渡寺といえば、松明で獅子を誘き出すヨソブリ舞である。「よそぶり」は漢字で書くと、「夜叟振」。そのまま読むと「夜に古老が振る」という意味らしい。この演目は非常に人気があり、新湊のさまざまな獅子舞に取り入れられた。古老というのは、人間の年齢を想起させるものというよりは、天狗のことをそのまま表した言葉なのではと思う。

前回、一年前と訪れた時の感想はどこまでも似ていたが、今回はやや演舞場所がコミュニティセンターの入り口から少しズレた場所だったので、相変わらず撮影に苦労した。この六渡寺の獅子舞というのは、日本の数ある獅子舞の中でも特に撮影が難しい獅子舞のひとつだろう。なぜなら、松明が灯る瞬間を境としてその前後の時間で、明るさやスピードの緩急があるため、F値、ISO感度、シャッタースピードの調整が必要である。さらには、非常に暗い夜間撮影であるため、ISOを5万くらいまで上げていく必要がある。カメラの性能と撮影技術が噛み合ってこそ、初めて撮影できる獅子舞であろう。

見物客の中の舞い手経験者に話を伺った。

「天狗は何歳から何歳というような制限はないけど、ある程度の腕を磨いていかないと、一発に最高やね〜!という風に、できるような役割ではない。今でこそ、ここで舞えるのは上手い人。でもこのコミュニティセンターで舞うのは昔はおまけで、祝い花にエース級が登場した。でも祝い花の軒数が少なくなっていった。祝儀は基本10万円。社長さん達がはずむと、20万、30万、50万と上がってくる。お祝いがあって、新築や子どもが生まれたとか、そういう時に祝儀がはずんだ。ただ、最近は祝いがあっても獅子舞を呼ばないことも増えた。それだけでは物足りない若い衆の出番を確保するために、このコミュニティセンターで舞うようになった。今ではここが恒例になって、非常に盛り上がってきている。ちなみに、公民館は町ごと、コミュニティセンターは小学校区ごとで整備されている。このコミュニティセンターは、建物の屋上に上がれるし、津波の時にも対応できる避難場所にもなっている」とのことだった。

5月15日(金)

東古新町の獅子舞

朝7時にこの町を訪れると、公民館前に人々は集まり始め、談笑をしていた。そして、神社に移動。そこで、宮参りの獅子舞が始まった。全員で舞っていたけれど、それから徐々に、天狗と獅子の対決に。天狗が薙刀をカン!と地面に叩きつけると、他の者たちは霧散し、一対一の対決になったところに所作の妙を感じた。それから町回りが始まった、港の朝は早い。拝見してて思ったのは、まず、女性に活気があったように感じる。そして留守の家の前でも簡単に舞っていたのが良かった。

その後、この町に21時ごろに再来した。そして、獅子舞というものの価値観を反転させるような価値観と出会った。天を仰ぎ見るように松明を揺らす天狗は、突然、獅子に襲いかかって、獅子頭の持ち主の足にその松明を擦り付けるのである。地域の人曰く「べちゃっと」付けるのである。一瞬どころではない、10秒くらいあっただろうか。当然の如く、舞い手が火傷をする。ただの火傷ではない、足の皮が大きく剥がれてしまうほどである。僕はそれを直視することができない。それが男としての勲章のようなものなのかもしれないとも思う。
しかし、自分だったら、そんなことは絶対にしたくはない。火傷は誤ってしてしまうことはあっても、自分から進んでそれをするものではないからだ。僕は直視できなかったが、足の皮ばべろっと剥がれる。火傷した箇所はただれて、後遺症が残る可能性があるし、ましてや火が衣服に燃え広がる危険性もある。しかし、その姿を見て「当たり前だ」とか、「よくやった!よし!」などと言って、みな褒めるのである。これは血肉沸きおどる原始の狩猟採集時代、あるいは戦国時代の戦乱の世にあって死が非常に近い人々の記憶をとどめているようにも感じられる。どこまでも冷徹であり恐ろしい。それがこの激しく荒々しい港町の獅子舞の気質として立ち上がっている。このような獅子舞は初めて見た、衝撃が強すぎて、しばし、放心状態となった。「この地域が一番荒い。皆すすんで、松明の火に向かっていってる、それがかっこいいという考え方なんだ。布を固定するために、針金を巻いとるからその跡がつく。パンツは当然のように水に濡らしとると思うけど、それでも熱いと思う」という話も聞いた。僕はこの価値観を自分ごととして考えることはできなかったが、文化として尊重したいと思う。


南長徳寺の獅子舞

朝の8時台は南長徳寺を回った。この地域の獅子舞は幕末から実施されており、その分歴史が古いとされている。街の軒数が多いので、街回りをする時のリズムが速くなっていったという話もある。その中でも、サンバサがかっこよかった。

夜は20時ごろに再来して、新婚での演舞を拝見した。祝儀の口上が大変興味深かった。「前から見ると有村架純、横から見ると、後ろ姿は...」と芸能人に例える。昔は藤原紀香が出てきたそう。今は、有村架純、広瀬すず、橋本環奈の3人を出す町内が多いとのことだった。特に橋本環奈はよく出てくるようである。橋本環奈は結婚のドラマでブライダルに来る人をどんどん奪っていくモテの象徴的なところがある。男への褒めは「プロレスラーのなんちゃらかんちゃら」とストレートに褒めずにマニアックな方向性。「変わったことを言いたかったみたいな感じかもしれない」と言う方もいた。個人的には、口上を述べる者とそれを受け取る者との、男同士のいじりの雰囲気も感じた。それから、男の演者同士が呼ばれてキスをして、新婚夫婦がそれに続いてキスをした。「キスをしやすくする工夫」のようである。なかなかディープな獅子舞であった。立山や庄川はわかるとして、地名として「カムチャッカ半島」が出てきたのも驚いた。夜の営みを「ダンクシュート」と例えていた。このように、花のお礼の口上が非常に珍しく工夫に満ちていた。しかも皆暗記して、それらを叫ぶのがさすがだと思った。


二の丸本町の獅子舞

居酒屋たかじんでの演舞を拝見。もともと獅子絵田の獅子舞を拝見するために向かったが、17時半につき、そしたらその前の団体の演舞が実施されていた関係で、拝見できた。ここはその名の通り、お城と城下町のあったところである。今回の花では、なぜかかなり疲れていらしたが、お亀が登場する舞いが見られて良かった。獅子頭がどこか、小川寺の獅子舞の獅子頭に似ているような気がした。非常に古い型を今に残している可能性もあるかもしれない。


獅子絵田の獅子舞

18時半ごろから開始、とにかく素晴らしい演舞だった。「新湊で最も演舞が上手な団体はどこか?」と尋ねると、真っ先に名前が上がる団体である。やはり、演舞に品があって、入場前に円陣を組み、祝儀をもらった花の演舞であっても宮参りの時のように整列して、そこから入場するように演舞が始まる。松明の時は、その火を獅子にあたるすれすれのところまで持っていって、そこで避けさせているようにも見える高等技術が見られた。また、天狗4名、松明8本を使った大廻りの舞も、かなり迫力があって素晴らしかった。居酒屋たかじんの前は非常にお客さんで賑わっており、とても盛り上がりだった。獅子絵田の松明の使い方はふわっとしている感じが上手という話もあった。子どもの人数が多いそうで、20人以上で、選抜で数人が選ばれて舞うという競争環境がこの豊かで洗練された演舞を実施している可能性がある。烏帽子かぶっているサンバサになれる子は相当うまいのだろう。

ヨイヨイという演目は新しく、獅子絵田が発祥とされている。隣の自治体である高岡の獅子舞競演会に呼ばれた際に、演目を新しく追加するという流れもあるようだ。獅子絵田は曳山を持たなかったという歴史もあり、その関係で、獅子に対して人もお金もしっかり集めて時間をかけて技術を磨いてきた歴史がある。ところで、この獅子舞の名前は土地名から来ているそうだ。「西神楽川」の曲折する所を整地、明治8年にその西側を「獅子絵田」と名付けたらしい。この名付けからもわかるように、芸能が非常に盛んな土地である。


江柱の獅子舞

22時ごろに訪れた。ここは獅子絵田の隣町であって、非常に獅子舞が盛んなところである。どこか、川を想起させる土地名だ。今回は花を拝見できた。演舞の途中に、獅子の尻尾付近を担当している人が川に落ちた。皆べろんべろんに酔っ払っているので、獅子含め皆ふらふらなので、こうなるのも無理はない。獅子頭は普通に演舞していて、お囃子も止むことはなく、淡々と続いていたが、獅子の後ろの方が何やら騒がしい。船と獅子が舞う歩道の隙間に落ちてしまったらしいのだ。しかし、さすが、水とともに暮らす人々だ。すぐに這い上がってきて、びしょびしょのまま、歩道に寝転がった。無事に上がってきて、皆、担い手の男も見物の女も歓喜し、「いやさーいやさ!」の歓声が止まなかった。そういえば、見物客の会話を聞いていると、どうやらすでにこの演舞の前に、川に落ちた人がもう一人いて、何かの拍子に血だらけになったと。それで家に帰ったという話をしていた。非常に恐ろしい出来事である。ところで、この地域も見せ方が非常に上手だと思った。演舞の最後に、六斎念仏の獅子でよく見るような長くて細長い髪を組み合わせた紙の束ををふわっと獅子に振りかけ、そして細かく刻まれた祝いの紙が宙を舞った。


奈呉の獅子舞

最後の最後で、22時半ごろに少し演舞を拝見できた。古い獅子頭が個人家に飾られており、窓越しに拝見できた。この地域は歴史が古い。江戸時代からの歴史がある。漁師が多くて漁師文化が濃い町でもある。東古新町ほどの荒さでもないが、「天狗が松明を獅子に投げ捨てて急に来るので獅子はそれを避ける」という話も聞いた。また、奈呉町の獅子舞は「オーベッサン」の演目を生み出した町であるという噂もある。「もともとは不漁の時しかやらない演目で、漁師に対して敬意があるので漁師の家の時に舞う。繁栄の意味で弓矢を打って、魚を弱らせたりする。そして、鯛をとる」とのこと。誇りとプライドを持っているという印象である。


5月16日(土)

三ケ錦町の獅子舞

ここの獅子舞の初見として、「街の獅子舞」という感じがした。三ケはよく新築の住宅が立つエリアのようだ。新湊の荒々しさと比べると、どこか整った雰囲気を持った獅子舞であるように感じる。しっかりと獅子舞も教えられている。回る家の軒数がとても多いので、バスで移動して先々で披露していく。非常に興味深かったのが、そのご祝儀の徴収制度で、500円を払い町内で回収して、そこの町ごとで大きなお金を作り、獅子舞を呼ぶというシステムのようである。これは軒数が多いからこその仕組みかもしれない。また、獅子舞の練習に行くと、ラーメンの無料券がもらえるという仕組みがあるらしい。これは非常に画期的で、商工会が獅子舞団体との連携をしているからこそできることなのか?とふと思った。

今回は町回りの獅子舞と、コミュニティセンターでの昼の演舞を拝見できた。コミュニティセンターでは屋台が立ち並び、輪投げなどの子ども向けの遊びも軒を連ねた。また、ステージではよさこいや歌の披露などがおこなわれ、その最後のトリとして獅子舞が登場した。ここでは、子ども獅子と大人獅子の2頭舞となった。花笠の子ども達もいたので、かなりの数の子どもが関わっている様子が窺えた。5年間の獅子舞講座の成果として、今回、演舞が実現したわけである。

終了後に、獅子舞の団体の方にお話を伺えた。
ーー今回、小学校何年生が舞いましたか?
小学校2〜4年生です。

ーーみんなどんなきっかけですか?
5年前から実施している「獅子舞講座」がきっかけですね。最初から子獅子を復活させるのが目的のひとつで、5年目にしてようやく揃いました。胴幕のお尻から2番目、3番目は兄弟で、その親が獅子舞講座で太鼓や笛をやっていたんですけど、子どもの方も練習に来るようになってくれました。そのようなこともあり、獅子舞をする4人が揃ったんです。5年前は子どもがなかなかいなかったんですが、徐々に子どもが増えてくれました。

ーーみなさんどこから参加しているのですか?どのように知ってくれましたか?
立山町から参加してくれる子もいるんです。獅子舞講座のチラシを見て、連絡をくれました。もともと獅子舞が好きだけど、加わりやすいところということで、遠方からでも連絡をしてきてくれたんです。
ーー素晴らしいですね。お話を聞かせていただきありがとうございました。

素晴らしい取り組みである。「子ども達がまた大人の獅子舞の担い手になってくれたら」という気持ちもあるそうで、新しい次世代への継承の取り組みとなっている。

庄東の獅子舞

この獅子舞は、新湊と六渡寺の中間に位置する。それゆえに、どちらもの影響を受けているとも言われる。比較的、噛みが激しいという話もある。確かに、餅つき舞などは、もう六渡寺そっくりにも感じた。流れ的には六渡寺方面から伝来。もともと川がなかった。小矢部川が氾濫していて、その流れを分けるのに、庄川を作ったという話がある。それが庄西と庄東となった。氷見の方からの流れを汲んでいるという話もある。

演舞後に担い手に話を伺うことができた。
ーーこの町ならではの演舞の特徴は?
他の周辺の獅子舞は獅子殺しをしてから、生き返らせてということがメインです。ただここは六渡寺を意識してか、松明を持って獅子を誘き出す大廻りの演目をメインにしています。他だと獅子が太鼓の回りを回るけれども、戦うひとつの道具みたいになって松明を使うんです。

ーー何時から何時の演舞ですか?
朝6時くらいから始めて、街回りは夕方までで終わらせて、18時くらいから「本花」(本格的な祝儀の舞)として、呼んでもらえたところにいきます。

ーー長いところはどのくらい舞いますか?
40分くらいです。寿司屋の旅館でも花があります。賑やかしくなるように意識しています。

今回の訪問のまとめ

富山県の獅子舞を見ていると、工夫して獅子舞をとにかく盛り上がるものとして完成させ、人々を熱狂の渦に巻き込んでいる。この手法は天下一であり、なかなか他の地域が真似できることではない。富山が獅子舞王国と言われるのもわかるし、その火種のひとつであるのだろう。歴史的な深みというよりは、新しいことへの挑戦に振り切っているところもある印象。

それぞれの獅子舞の特徴がわかってきたのは大きな収穫であった。それから、血肉わき踊る熱狂の渦は、祭りに身を擲つというある種の没頭感によって作られることは実感として強く感じた。祭りなくして、この土地を語ることはできない。そういう完成度の高い獅子舞文化が醸成されているのである。土地柄、手の器用な大工さんが多かったから、獅子頭も手に入りやすく作りやすいという環境があったそうだ。獅子頭の寄付ということも大いにあったのではないかと想像する。

獅子絵田とその隣の江柱は上手だという話は聞いた。あと、今回は拝見できなかったが、西新町には蛇のようにグネグネ動ける、「蛇の関節」を持つ柔軟な身体の持ち主がいて、素晴らしい舞い手がいるらしい。まさに、伝説の人である。コロナ禍以降に始まった越中祭り青年会も立ち上がり、年に一度の課題共有の会を実施しているようだ。これからも発展していくことだろう。

獅子舞の胴体「蚊帳」はどう作る?富山県の染色工房「山本染業」、伝統継承と現代を生き抜く知恵

獅子舞の胴体部分、「胴幕」を染める職人を探していた。なかなかタイミングが合わず、東北の有名な染色工房でさえ、「2年に1度くらいしか作りません」というお返事をもらったばかりだった。やはり獅子舞が盛んな地域でないと、そのような工房は見当たらない。そこで訪れたのが富山県だった。

2026年5月14日、富山県の獅子舞の胴幕づくりを手掛ける山本染業を訪ねた。明治42年創業の歴史あるお店で、胴幕に挑戦を始めたのは3代目から。30~40年前のことだという。現在代表を務めるのは4代目の山本剛士さん。全国でも稀なほど、獅子舞の胴幕作りを熱心にされている山本さんに伺った貴重な話を振り返る。

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蚊帳作りの流れ

富山県では胴幕のことを「蚊帳」と呼ぶ。工房を訪ねると、綺麗な蚊帳の見本と、新しく作っている途中の蚊帳を拝見できた。

ーー本日はよろしくお願いします。蚊帳作りの工程はどのような流れですか?

山本さん:工程としたら、まず「下写し」。下写しは、この見本の図にトレーシングペーパーを載せて、図柄を写し取って、その後、トレーシングペーパーの図案を生地に写し取る「本写し」。それから「糊置き」と「染色」。色を染めて乾燥したら、水元の不純物を洗い落とす。「縫製」は細かいこと言ったら、柄合わせや芯の取り付けもある。

 

<蚊帳作りの手順>

①下写し:見本の図をトレーシングペーパーで写しとる
②本写し:生地にその図を写しとる
③糊置き:写し取った図柄の上に筒を使用し糊を置く
④調色:粉末染料の配合をし、染料(液体)を作る
⑤染色:色を染める
⑥色止め:溶剤を塗布する
⑦水洗い:不純物や溶剤を洗い流す。
⑧乾燥:生地を張り場に吊って、乾燥させる
⑨縫製:縫い合わせ、柄合わせ、握りや裏地の取り付けもある

 

ーー大体全部でどれくらいの時間かかるんですか?

山本さん:フル稼働でやったら、2週間ぐらい。乾きの問題もあって、なかなか乾かなくて時間がかかるのは、雨の時。梅雨の時は本当に乾かんからね。

蚊帳作りの様子

ーー現在取り組んでいるのは、どのような工程なのですか?
山本さん:これはほんまの下絵やもんで、そこに糊(のり)を置いていく。洗ったら取れるこの茶色い部分が、染色の時に色が染まらないところ。

生クリームを絞るのに似ている、「筒描(つつがき)」をされていた。「やっぱり歴が長い人は上手やわ。キメが細かくて、手がブレずに置ける。昔は型がなかったもんだから、みんなこう手で置いてやっとったんやね」とのこと。

ここで使っている糊は「防染糊」というそうで、「ピーナッツバターみたいですね。なんか美味しそうに見えます(笑)」なんて盛り上がったのだが、どうやら染色の前に、色の浸透を防ぐ目的があるようだ。

「材料屋さんから仕入れているもんで厳密に原料は分からんけど、米ぬか、もち米、石灰、などが入っています。それらを混ぜたら、こういうふうに黄色くなるんです」とのことだった。

その後、糊の上から、ふるいにかけた細かい砂を撒く姿が見られた。

「この砂かけるのは、何のためにやっとるか言うたら、この糊のブツブツの上に染める時に色持っていった時に、フジツボみたいな感じの表面だと、そこに染料入っちゃう。あと、糊は餅からとるから、硬くなって、バリバリ割れていく。砂をかけるのは、それらを防ぐため。お店によってもやり方が違うかもしれん。おがくずを使う人もおるし」とのこと。表面がとても美しく綺麗な仕上がりになっていた。

砂を撒いた状態

形を整えると美しい表面に

ーー蚊帳作りで一番難しいところ、「ここを乗り越えたらいいものができるぞ」みたいな工程ってあったりするんですか?

山本さん:やっぱり、今の糊工程。この工程でちょっとでもずれないようにしないといかんし。この仕事はずっと立ちっぱなしやから、休憩もできん。ゆっくりやったら乾いてしまう。だからこの作業が一番しんどいかな。絵になるのは、色を染める工程だけど、それと比べると、始めたら一気にやんないといけない。

蚊帳の素材の選び方

ーー蚊帳はどのような素材で作るのですか?

山本さん:歴史的には、昔は綿ばかりで麻はあまり見かけなかった。30,40年ほど前からは麻が主流になってきた。ここ最近は麻を扱う業者さんがめっきり少なくなって入荷が不安定なので、当店では綿にしている。

麻は軽くて繊維自体が長いもんで、引っ張る時の強度がある。同じ薄さの綿と比較して、擦れ強度はどうなのかと思う時もあるかな。現在、麻は多分、引き染めじゃないと染められない。引き染めで染めると裏まで染料が透るので色の深みがある。

綿は綿花を細かく紡いで、撚り(より)をかけることによって作る。綿の場合は、最近はプリンターでやろうと思ったら染められる。両面でインクジェットを使って、染められるんじゃないかな。だからあと何年かしたら、手でやるところは少なくなっていくやろな。

あと、富山県の獅子舞は松明に火をつけて、天狗が獅子と舞う団体もあるから、その炎の影響で、化学繊維で作ると溶けてしまうことがあるから、現在当店では、そういう素材は取り扱っていない。

綿製の蚊帳

山本染業の蚊帳づくりのコツ

ーー1年間で、どれくらい蚊帳を作りますか?
山本:多い時で数えたら18、今は10くらいの時も多い。今年は今作っているのが、4つ目かな。

ーー蚊帳ってどれくらいのサイクルで新調したりするもんなんですかね?
もう30年超えとるものもあれば、早いところで5〜10年。やっぱり使い方次第かね。やめてる人たちも多いし、あと補修、補修でやっとるとこも...。あとは限界が来て、作り替えということもある。まだ使えるものは使えると思うんやけど、それでも新調する場合もあるし。舞う人がいなくなって、蚊帳が小さくなったところもある。

ーー普段、蚊帳作りをどこから頼まれますか?

山本さん:仕事お願いしてくれるのは、ほとんど9割以上は富山県の団体から。たまに違う県、例えば和歌山県や北海道からも連絡がある。北海道だったら富山型の蚊帳もあるけど、和歌山は全然違った。県外の地域では蚊帳のことを油単(ゆたん)って呼ばれることも多い。

さまざまなお仕事の展開

ーー蚊帳作りの他に、どんな仕事をされていますか?

山本さん:神社や仏閣の幕、一般家庭の幕、法被、店舗のれんとか...。すごい人は学校にかかっている「どこどこインターハイ出場」っていう懸垂幕を作る人もおって、うちらはそこまでやってないもんで、ただ、これからそういう仕事も考えていかなと思ってて。

 

その他にも、さまざまな体験やグッズ展開をされているようだ。

・大漁旗の布

大漁旗については、染色体験用に制作したデザイン。実際に染めを体験してもらうために用意したもので、仕事の幅を広げるため、染物ワークショップの取り組みにも力を入れているとのこと。

・斜めがけバック

バッグについては、もともとクラウドファンディングを活用して制作・販売したもの。斜めがけのスタイルで、蚊帳の毛卍紋がついている。

・額装だるま

また、だるまについては、「額装だるま」と呼ばれるもので、額縁の中にだるまを描いた作品らしいです。商売繁盛の願いが込められている。このような新しい取り組みをされている染め工房も少ないと思うので、貴重な取り組みだと感じた。

このように獅子舞の蚊帳を染めつつも、多岐にわたるグッズの展開をされているとのこと。時代の流れも考えながら、生き抜く歴史ある工房の今を知ることができた。

 

▼グッズに関しての詳細はこちら

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▼山本染業ホームページはこちら

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平安時代に遡る優雅な舞い!神奈川県大磯町 国府祭 「鷺の舞」を訪れた

非常に歴史が古い伝統的な鷺の舞があるという。2026年5月5日、神奈川県中郡大磯町にて、相模国国府祭が開催。そこで実施された県指定無形民俗文化財・鷺の舞を訪れた。国府祭は「こうのまち」と読む、非常に珍しい読み方である。それから、鷺の舞には鷺、龍、獅子が含まれる。この辺りも非常に興味深いところである。

この祭りのは旧相模国内の6つの神社が合同で行う祭り。大磯町の六所神社、寒川町の寒川神社、二宮町の川勾(かわわ)神社、伊勢原市の比々多(ひびた)神社、平塚市の前鳥(さきとり)神社、平塚市の平塚八幡宮が参加する。この6社を「類社」と呼ぶ。この祭りの舞台は、大磯町の神揃山と大矢場(馬場公園)である。

さて、大磯駅からバスに乗って、馬場公園に着いたのは13時半ごろ。非常に多くの人でごった返しており、屋台も軒を連ねるように多い。ここは人口が多い街なのだということを改めて気付かされ、神輿が次々と入御してくると、人をかき分けるように動画や写真を撮影した。

13時50分、15時30分の2回、鷺の舞は実施された。これは神輿の入御、そして神輿の出御に合わせたものである。最初の演舞の際は、船から見て斜め右から、次の演舞は船から見て斜め左から撮影をした。いずれも方向によって見える雰囲気が異なる興味深い舞だと思った。拝見してみて感じたことはとにかくゆっくりである。平安貴族の時間の流れの緩やかさを思い浮かべる。そして、比較的動きも複雑ではなく、手と腰の上下動や回転によって、所作が繰り出されていく。また、すくっと立った瞬間の異形さはどこか奇妙さを感ずるものであり、舞楽の仏の舞のような少ない動きで多くのことを語るような雰囲気がある。鷺、龍、獅子はいずれも同じ動きをしていたと後から知ったが、全くそれに気づかないくらいにその造形に対して意識が向くように思う。

鷺の舞

龍の舞

獅子の舞

さて、鷺の舞を拝見したのちに、大磯町立図書館 国府分館で資料を調べた。そして、帰り道にアイスを食べて帰った。もう夏のような気候である。暑いし連日の取材で疲労も溜まっていたので、あっさりした取材に留めておいたが、今回の訪問の核となる鷺の舞が拝見できてよかった。帰り道、次々と神輿が僕のことを追いかけてくるように後ろから複数の行列が迫ってきてびっくりした。僕に何かを語りかけるように、たまたま帰路が同じである神輿がついてくる。狭い歩道を馬が歩いていてびっくりした。車に対してたくさん手を振っていた。帰りは平塚駅から東京へと帰路に着いた。平塚駅近くにバケツでメダカを買う商店があり、近所の子供達が集まってきて机を囲んでしゃべっていた姿が印象的だった。さて、今年のゴールデンウィークの取材もここにて完結である。

鷺の舞とは何か?

ここからは図書館で調べたことについて振り返っていきたい。鷺の舞は又の名を「祭場警護の舞」あるいは「悪魔払いと警護する舞」という。5月5日の国府祭、9月第1日曜日の六所神社例大祭櫛魂祭で奉納される。また、12月31日の除夜詣では笛と太鼓のみで「流し」の演奏を実施する。日本全国において舟形舞台で舞う鷺の舞は、この六所神社の鷺の舞(神奈川県大磯町)と、五所八幡宮の鷺の舞(神奈川県中井町)の2地域のみとも言われている。

国府祭においては、馬場公園で祭式の一部として奉納される。鷺、龍、獅子を続けて舞い、その総称として「鷺の舞」と名付けられている県指定無形民俗文化財の芸能である。鷺と龍と獅子は格好は違えど、同じ舞い方をする。獅子の舞はところどころで歯打ちが入る。いずれも非常に古風で優雅に舞う。

国府祭では各社の神輿が入御する時から、歓迎の曲「流し」が演奏されて、6社全てが到着したら鷺の舞の披露という流れになる。鷺の舞の披露の際には「舞路(まいじ)」という曲が披露される。鷺の舞は「天下泰平」、龍の舞は「五穀豊穣」、獅子の舞は「災厄消除」を祈願するものである。囃子方合わせて5名で実施される。各社の神輿が出御するときも、「流し」が演奏される。

鷺は左右一対で口開き(雄)と口閉じ(雌)の阿吽の状態で頭がある。これはかつて舟形舞台が2艘あったことが由来。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P369によれば、「古文書などによって、舟形舞台は二艘あったことが確認されているが、いつの時代まで二艘の舟形舞台があったのかが不明である」と書かれている。現在では、雄か雌かがその時々で舞うことになっている。また、鷺の頸には御幣がつけられ、羽は金属板で波型の装飾が施されている。2本の扇を持って舞う。

また、龍と獅子も、鷺と同様に雄雌で作られている。龍は左右一対で口開き(雄)と口閉じ(雌)の阿吽の状態で、御幣(呼び方は合っているか?)を持つ。また、獅子は宝珠が雌で、角が雄であり、角と宝珠は金色、頭の全体は赤、杉で作られている。そして胴幕は木綿製で全体が緑色であり、白色の唐草模様が描かれる。

鷺の舞

龍の舞

獅子の舞

鷺の舞の由来と歴史

この鷺の舞の始まりについて、鷺の舞実施時に保存会の方が配布されていたパンフレットをもとに振り返ろう。大化の改新の時に、地方に国・郡の制度が定められて、国府が置かれて、国司が京都から派遣された。国司は年に一度、国中の有力な大社や豪族を国府に招いてもてなし、天下泰平と五穀豊穣を祈願したという。神奈川県大磯町の国府祭は、少なくとも平安中期には実施されていたとも言われている。

鷺の舞の由来は平安時代において、京都では貴族が来賓を招く時に、酒宴を開くとともに、庭先の池に船を浮かべて舞いを披露して歓迎の意を表して、もてなした。この歓迎法が国司によって、京都から相模国にもたらされたようである。

演者は国司とともに同行して、舞太夫家として代々、国府祭の鷺の舞に仕えてきた。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P369によれば、「もともとは、六所神社の管轄下にあった神事舞太夫の伝える芸能であったが、神事舞太夫が途絶えたため、同じ芸能が伝えられていた中井町の五所八幡宮の伝承者が一時期引き継ぎ、平成8年(1996)からは六所神社の鷺の舞保存会が上演するようになった」とある。

舞太夫が途絶えたのはいつ頃のことか判然としていない。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P387によれば、昭和30年ごろには舞太夫が一人になってしまったという記録はあるようだ。もともとこの舞太夫は呪芸に達者な人であったようで、神託神楽の継承者でもあったようだ。しかし最後の一人も昭和34年に国府祭に出かける際に輪禍(交通事故)で亡くなり、おそらくここで途絶えてしまったのではないかと考えられる。そのような危機を乗り越えて、担い手の主体が変わりつつも、現代まで継承されてきたようである。

また、舟形舞台は祇園祭との関わりで論じられることもある。大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年)P395によれば、「永田衡吉の『神奈川県民俗芸能誌』や、植木行宣の先行研究(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告3『祇園囃子の源流に関する研究』田井竜一編、平成二十年十二月十日)などによると、六所神社の鷺の舞は扮装に趣向を求める風流であり、舟形舞台も「山鉾の芸能の流れに立つ伝承」(植木、前掲書、79頁)とあり、先行研究の中では、祇園祭り関係で論じられるものである」という。

参考文献

大磯町教育委員会『国府祭 相模国府祭調查報告書』(2020年3月, 大磯町教育委員会)
永田衡吉『かながわの祭と芸能』(神奈川合同出版, 1977年)
相原純『写真集 神奈川のまつり』(1972年,  萬葉堂書店)