2025年1月3日から4日の日程で、下北半島に滞在。日本最初の原子力船が生まれた地にして、日本最古の原始を残す地とも言われる下北半島の能舞と獅子舞を訪れた。
今まで八戸の鮫神楽などは訪れていたが、それより北にはなかなか行けていなかった。しかし、以前から国指定無形民俗文化財のリストを眺めていて、「下北の能舞」という芸能があることは知っていた。下北半島には能舞が国指定で、獅子舞が県指定、そして神楽もあるという3種類の芸能が根付いているようだ。いずれも全国に存在する獅子舞の芸能と近い権現舞を有している。県指定の「獅子舞」は能舞と同じくさまざまな演目を構成する総称的なものであり、そこに権現舞を含んでいるという形である。つまり、全国的には獅子舞といえば獅子頭と胴幕を被って舞うものと理解されるが、ここでは権現舞、翁舞、道化舞などさまざまな演目の総称として、「獅子舞」という言葉が登場する。また「能舞」と「獅子舞」の違いは拍子にあり、能舞は5拍子なのに対して、獅子舞は3拍子である。
今回は青森の地域芸能をinstagramに数多くアップされている吉田ゆかりさんと繋がり、各団体をお繋ぎいただき訪問が叶った。能舞と獅子舞の違いも知ることができた充実した2日間の滞在を振り返る。
三沢市織笠稲荷神社の獅子舞に遭遇
八戸駅近くで朝9時にレンタカーを借りて、下北半島へと向かった。路面は基本的にずっと雪や氷に覆われており、ハラハラしながらの運転となった。ゆっくりと車を走らせる。途中、三沢市で道端を歩いている獅子頭を被って歩く集団に遭遇した。すごい場面に偶然出くわしたものだ!今日は日程にも余裕があるのでぜひ見たいと思い、車を止められる場所を探して10分くらいうろうろしたのち、先ほどの獅子舞を走って追いかけた。
お囃子の音色の方へ向いていくと、玄関の前で待っている獅子舞を発見!横にいる関係者に「通りがかりの者ですが、見ていっていいですか?」と聞いたら、「うんいいよ」と言ってもらえて、ついて歩くことになった。そうして尋ねないといけないくらいに小さな村で関係者しかいない状況だったのだ。どうやら剣や鈴を持ってシャンシャンと鳴らし、優雅に舞う獅子舞だと思った。おそらくその舞の形態や所作を見るに、三重県の伊勢大神楽の影響を色濃く受けた神楽系の獅子舞であろう。玄関前でお米を受け渡す様子も見られて、五穀豊穣の予祝的な意味があるのかもしれないとも思った。また大太鼓と小太鼓を繋げて一人の人が背負っている姿が見られてこれは珍しいと感じた。
この地域の獅子舞は、朝から開始してお昼には終了するという。普段はお正月の他に9月の収穫後に行うようだ。僕がこの獅子舞と遭遇したのがすでに11時を過ぎており、最後の織笠稲荷神社の奉納の舞いまでついて歩くことにした。「気合い入れなくっちゃ!」「これもご縁だから」と担い手の方々は気合いを入れて舞ってくれた。隣町の獅子舞は海外にいくなどして活躍しているというが、自分たちはそれほどでもないという意識で行っているようだ。しかし予想に反して素晴らしい舞いを見せていただいた。
写真を撮影したので「これを後ほど送りましょうか?」と言ったがあまり反応が芳しくなかったので、最後に神社で獅子頭を納めるときに千円をお賽銭箱に入れたら喜んでくれた。お賽銭箱に向かうとき、蛇の絵が見えたので、今年は巳年だなと思い出した。「いい思い出になりました。もう町内の人だな」と慣れた感じで送り出してくださり、その場を後にした。さて、下北半島の先端、東通村へと車を進めることにする。
入口の獅子舞①屋固め
2025年1月3日15時から1時間ほど、家の祓い清めのための「屋固め」を見学。ここで初めて下北の獅子舞を拝見することができた。「屋固め」という行事は基本的に1月3日に実施すると決まっており、新築の家ができたりリノベーションが行われたりすると実施される。ただし、申告がない場合は実施しない。今回は地域おこし協力隊が入って入口地区にゲストハウスが昨年に古民家をリノベーションして開業されたので、実施に至ったようである。クラウドファンディングで建てられたゲストハウスだ。玄関を入ると民家の暖かい雰囲気の和室の空間が広がっていて、協力者のお名前が壁面に書かれていた。さて、屋固めが時間通り始まった。
屋固めの流れは基本的に権現舞の流れと同じであるが、少し長めに行われる。主に権現様が家の中にある柱を噛んで回るような所作や松明を燃やして足で踏み消す所作が盛り込まれていて、これは非常に驚いた。家の中で火を起こすことが逆に火伏せになるのだ。これはある種の呪術であろうが、火事の時に対処する感覚を身体的に養うという合理的な見方もできると感じた。下北には知られざる獅子の風習がまだまだありそうだ。
岩屋青年会の能舞 舞込み
その後、2025年1月3日17時〜22時の日程で、岩屋の集会所にて、岩屋青年会の能舞が実施された。演舞前の準備として、ビデオカメラが設置されていた。幕の内側から外の様子がわからないので、ビデオカメラで中継して進行の様子を幕の内側に伝えるという意図のようだ。幕の内側も見学させていただいた。楽屋のようになっていて、面が十いくつか紐で垂れさせてあって、担い手たちがその場で談笑していた。翁面は口の部分が紐で接合されており面の口が微妙に動く感じになっていて、12月が新しい面、1月が古い面を使っているらしい。面は基本的に古いので、誰が彫ったかなどはよくわからない。麺の内側の口周りが赤く染まっていたので「これは女性の口紅ですか?」と尋ねたところ、どうやら違うらしい。「最初っから赤かったんじゃないか」とのことだった。
さて、演舞はこのような流れで行われた。
一 権現舞
二 鳥舞
三 千歳
四 三婆
五 八嶋
六 忍
七 鈴木
八 拾番切
九 鞍馬
十 千秋楽
千秋楽は権現舞と似ているが歌が違う。ただいずれにしても、権現様に始まり、権現様に終わる。まさに神社の狛犬が阿吽であるかの如く、はじめと終わりを司るのがこの権現様という存在なのだろう。最終演舞を千秋楽と呼び、これは夕暮れを意味するという。非常に力強い2頭舞を拝見できた。歯を「カチッカチッカチッカチッカチッカチッ」と連続的に打ち鳴らし、2頭がピタッと噛み合う瞬間が本当にかっこよかった。ここでは2頭舞は非常に珍しいらしく、今回偶然にも拝見することができて本当に良かった。「足がドン!と地面を跳ねて舞うのが能舞の特徴。山伏が修行をするときの足取りの特徴を表しているとも言われています」とのこと。それを聞いて能舞を撮影をしているときに三脚がたまに揺れる瞬間があったが、あれは足取りが地面を強く蹴り上げるからだと思った。
演舞後の飲み会は24時まで参加した。興味深かったのは、岩屋の能舞の演目はどれも源氏とのつながりがあるということ。武士の世の中の始まりは源氏からであり、中世の面影を残す神楽の舞いは源氏にたどり着く。鞍馬、八嶋、鈴木など、いずれも源氏の武将を後世に語り継ぐものでもある。決して平家の物語ではなく、源氏の物語なのだ。そういえば秋田県阿仁の根子番楽は平家が没落後に各地に分散してその流れの中で伝えられたという説があり、山伏神楽や番楽全てが源氏系統であるというわけでもなさそうだが、いずれにしても源氏というキーワードは大きな気づきとなった。
「狐舞はよっぽど酒飲まないとあかんわな」ということで、良い頃合いに昔公開していた狐舞を少し披露してくださった。尻尾を股に挟んで毛を抜いて配って歩き、その毛をもらった人はそれを口元に当てるという強烈な内容だった。馬鹿騒ぎしている感じがとてもよかった。こういう下ネタの芸能は次々に途絶えているように感じるが、インドネシアのバロンダンスやレオクなどの芸能を一昨年訪れたときには健在だったし、一昔前は日本でも海外でも当たり前の演目だったように思える。こういう芸能の場は出会いの場でもあったわけだし、恥じらいや心の壁をとっぱらうものであるはずだから、僕はこういう演目はどんどん復活してほしいと思っている。集会所では舞いの公開をするだけでなく、普段の練習も実施しているという。
岩屋の能舞は鹿橋か田屋から習ったと言われており、似ているという話を聞いた(しかし、後に参考文献をあさってみると、東通村史編集委員会『東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年によれば、P529に「大利から伝えられた(中略)今では大利の舞とかなりの違いが出ている」と書かれているため、どれが事実かわからない)。また同紙のp530には「岩屋での口承では、この熊野修験が関西に戻るとき、能舞面など一式をあちこちで売ろうとしたが買い手がなく、岩屋まで来てやっと三両で売れ、それを旅費にした。後日、取り返しに来たが、領収書があったので、そのままになった」という。
岩屋の能舞の運営体制としては、青年会が組織されている。舞い手は得意な演目や動きから習い始めて、家ではDVDを見て練習する。「あれだけ長い舞をどうやったら習得できるんですか」と思わず聞いてしまうほどに習得に熱心である。青年会の周辺組織は年齢によって段階分けされており、子ども会、青年団、青年会、協力会と階段を上がっていく。子どもたちは小学生の頃から自然と舞いを覚える。「好きこそ物の上手なれという言葉もありますが、能舞が好きな人がどんどん上達するんだ」とのこと。「昔は厄年の42歳までが担い手を務めるが、今は人手不足で47歳くらいまでやる。それ以降は協力者として関わる」という。
また東通村史編集委員会『東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年, 529頁によると、「岩屋青年会は、昔は数え15〜40歳までの漁業権のある者、またはその子弟および貰い子で、12月の「もの決め」で加入が認められると、早速、内習いに参加するが、そうすればイワシ網を引くと半人分の分け前がもらえた。さらに、翌年の総会で正式承認されると、一人分が与えられた。規約に違反すると除名で、イワシ網の分け前ばかりか、漁業権までも失うことになったという」とある。つまり、能舞への参加が地域の漁業における経済的な恩恵につながっていたという事実もあるのだ。これはとても興味深い点だと思う。
森勇男『下北能舞ものがたり』11頁によると、「この青年会の「内習」は、「能舞」などの郷土芸能を習うだけが目的ではなかったということである。風俗・習慣など、部落の行事を主体に、部落共同体のさまざまな「掟」を体得するための修行団体であったわけである。だから部落の司やその家長たちは、後継者たちの考え方、在り方、いわゆる地域社会人としての日常生活に処する研修場として、青年会の「内習」に力を注いできたのである。(中略)考え方によっては、山岳信仰普及の一手段とされてきた「能舞」が、部落の長老や司から「内習制度」いう修練の「きまり」として取り入れられ、古くからの「部落制度」を守るための方法に置き換えられてきたとも見られるのである。娯楽というものがほとんどない、自然の厳しい北限のこの地で、青年たちのエネルギーの吐け口として、長老たちが考えだした生活の知恵でもあった。農漁閑期を利用した「内習」で青年たちを部落人としてしつけ、犯罪や不安のない体系作りをしたのである。(中略)手本といったものはなく、すべてが口伝えであり、身を持っての指導である。外の凍えとは別世界の、和やかな老若の人情、あたたかい雰囲気の中で、下北の冬はあけて行くのである」と。単なる郷土芸能の伝承にあらず、地域活動の伝承という側面も持っているのだ。
夜遅く24時を過ぎても、飲み会は続いた。日付が変わったあたりで僕はゲストハウスに帰るべく、帰路についた。車のフロントガラスは雪が凍って手でバリバリとそれを剥がさねばならなかった。凍てつく寒さの中で、この能舞はそれを跳ね返す暖かさを持っていると改めて感じた。
入口の獅子舞② 舞込み
ゲストハウスに宿泊した翌日、魚料理を白糠に食べに行くなどした後、2025年1月4日17時〜22時の日程で、入口かしわの館にて行われた入口の獅子舞を訪れた。元旦には門打ちという地域の家を一軒一軒回って短縮版の権現舞を行い、そして4日には舞込み(発表会)を行うというのが毎年の恒例となっている。今回はそのうち、舞込みの方である。演目はこのような流れだった。
一 鳥舞
二 籠舞
三 翁
四 三番
五 追分
六 鞍馬
七 ねんず
八 つきあげ
九 道化舞
十 虎ノ口
十一 権現舞
実際に拝見してみて、1演目あたりの時間が非常に長いと思った。平均的に1演目で30分は舞っているだろう。省略せずにしっかり受け継がれている証拠である。権現舞は屋固めの時と同様に非常に神がかっており激しいと感じた。途中、翁舞と道化舞が非常に印象に残った。翁舞は前半にイケメンが登場したと思ったら、後半に翁面を被っておどけ始めたので、そのギャップが素晴らしかった。翁は女子ども老人、年齢所属などの区分けなく、幕内に人々をさらうことを繰り返した。皆、いつさらわれるかとハラハラして、さらわれることに怯えるものも、笑い転げるものもいた。幕内に投げ込まれると、お菓子やお酒などをもらって出てきた。単に舞台鑑賞ではなくて客席との交流も魅力である。
道化舞はもはや漫才のようで、口が達者で笑いが起こって和やかな場となっていた。下ネタが登場した時に「コンプライアンスだから」というツッコミの言葉が登場して、地域のご年配の見物客たちを中心にどっと笑いがおきたのが印象的だった。急にカタカナ言葉が登場したから、それでみんな笑ったのだろう。実際は半分も聞き取れなかった。方言やその土地の言葉は、地域の人々の一体感を作り出しているようにも思えた。演舞後の飲み会の挨拶の時に、青年会の師匠にあたる方が「時代に沿って言葉を変化させている」とおっしゃっていた。「トラクターで耕すという意味の会話があって、昔はそのトラクターを「ヤタクタ」と言って笑わせてた。道理は皆じっと同じだけど、アドリブで笑わすんだ」という。ヤタクタは当時の人にとってどのような意味があったのか。崩し言葉にも聞こえるが、舞い手は流行りの言葉をすぐ取り入れられるらしく、ある意味そういう才能がある人が道化舞の役にふさわしいのだろう。
それから師匠の飲み会の挨拶で印象的だったのは、「皆さん本当に少ない人数で努力したことは涙が出るほど感激しました。特にねんずはああ、素晴らしいなと。あとは消滅しそうな歌を朗々とやってくれたことに感激しました。歌を中心にもっともっと入口青年会は発展してほしいなと思います。」とのこと。また他の感想として「ねんずをしているところは少なくて、虎ノ口はここだけです。あとは鞍馬で(義経が僧の)上に乗るのは初めて観ました。そして、道化舞もやりたいけどできない地域も多いです」という声も聞かれた。珍しい演目もしっかり継承できているようである。
青年団、青年会、協力会という流れで受け継がれてきた。しかし、約10年前に青年団は途絶えてしまった。近年は人手が不足していて、若い人と年配の方の人数の逆転現象が起こっており、協力会の人数が多いという。昔は青年会の方が多かったらしく今よりも演目数が多かったというが、今では協力会の方が人数が多くなっている。特に人の勧誘はしていなくて、自然とこの人は青年会に入るという流れができているようだ。
獅子頭はむつ市の菊池建設の大工が10年ほど前に彫ったらしい。「菊池」というお名前...どこか気になるのは、東通村史編集委員会『東通村史ー民俗・民俗芸能編』P529によると、能舞を下北半島一体に広めたと言われる目名不動院の菊池英一さんが1984年に亡くなるまで続けられた春祈祷の話が出てきて、菊池家が能舞の中心的な家柄であったことと何か関連性があるのではないかとも感じた。ところで今の入口の獅子頭は耳が立っていないが、かしわの館に飾ってある写真を見ると、昔は耳が立っていたという。これは今、村の神社に保管されており、「隠居獅子なので見せられない」とのことだった。それで僕が書いた本『ニッポン獅子舞紀行』(青弓社)を見せたときに、「この写真の(愛知県愛西市の日置八幡宮(へきはちまんぐう)の日本最古の年記銘付き)獅子頭と似ている」とのことだった。ここでは巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』P379「神楽も各々その特色をもっているが、総体的にみて八幡系即ち海の神の信仰と山伏系とみられる山の神信仰に分けられる」との記述が参考になるかもしれない。それから獅子頭(権現様)は「クマサマ」と言われているらしく、これは「動物のクマじゃない。熊野大社や熊野信仰との繋がりがある」という。熊野信仰は八幡信仰と繋がりが深いので、ここで、愛西市とつながる何かがあるのではないかと思った。
夜23時すぎ、権現様を2頭、神社にお返ししに行くのについていった。一列の行列となり、お囃子を鳴らしながら進んでいく。海風が冷たく、少し吹雪いていたので非常に寒い。それなのに、薄い着物を纏って堂々と歩いている。この地に住む人は寒さに強いと思った。神社の2つの鳥居を潜りながら、凍りついた急な石段を一歩一歩、社殿に向けて歩いていく。社殿の中には右隅の天井に張り付くように、神棚が設置されていた。ここに権現様を2頭お戻しした。神棚に戻すというのは獅子頭が神格化された神様としてのあり方だと思ったので、これは権現様らしいと思った。下北周辺は何故か雌の権現様が多いらしいが、この地域はさてどうなんだろうか。明確にオスメスについて答えを持っている人はいなかった。また、今は神社の神棚に権現様が納められているが、昔は獅子宿と呼ばれる地域の家で保管されていたという。これは別当の家だったそうで、下北には修験者がいない現代において、その役割の人物が地域にいないため、神社に保管されるようになったことがわかった。
それから、帰り道に担い手の方から興味深いお話を聞いた。「肉食は12月の練習の時から食べねえんだ。家族みんな食べねえようにしてる。4本足がだめなんだが、2本足もだめな地域はある。血が汚れなんだ。それから、魚は食べてもいい。」なるほど、ここにも四肢にまつわる禁忌が息づいている。この根本精神に関して語るのは、巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』379頁の一節だ。「わが身を清め、六根といわれる目、耳、鼻、舌、身、意を清浄にして舞うのである。舞人は即獅子であり超人であった。関係者はすべて神前で身を清め前精進、後精進各々七日に及ぶ禁欲精進料理で懺悔と練習に励むのである」と。
それから入口では昔から獅子舞は「ししまい」と発音せず「ししめ(ししめい)」などと発音していたという。これは下北の訛りである。下北の獅子舞は入口の他に、袰部(ほろべ)のみであり、この貴重な獅子舞についてもっと調べていきたいと感じた。入口では今回訪問した1月4日以外だと、他には4月と10月の第二日曜日午前中に長窪稲荷神社にて、舞いを公開しているそうである。
雪の道を帰路につく
入口の獅子舞の懇親会を遅くまで参加させていただいて24時を回り、そろそろ時間が...と思い、僕は八戸への帰路についた。明日の9時までに、レンタカーを返さないといけない。夜通し走り続けよう。標準タイムは2時間の道のりであるが、その倍はかかるだろう。下北半島の雪はそこまで多くないが、半島は海風を強く受ける。そして、路面がとても凍るのだ。
ここ数日、鼻が詰まることが多く、本当に下北半島の人々は厳しい自然環境、寒さに対して、耐性が強いと思う。力強い能舞を見ていると背筋がピンと伸びる感覚があるが、それはこの厳しい気象を生き抜く人々という印象も重ね合わせて見ているからかもしれない。夜の街灯は青く光るところもあり、どこか寂しさもある。本当に驚くほどに青い光だ。直線が伸びる木々に囲まれた道を走ると、北海道の広大な大地を連想することがある。下北半島の海の向こう側には北海道があるのだ。岩手県に比べると、かなり北海道に近い感覚があり、自然の景観がそう語りかけてくる気がする。
下北半島の付け根、三沢市を超えて、六ヶ所村あたりからものすごい雪が出てきた。人の背丈を超える雪の塊と出くわすことも多い。ただし、下北に比べるとそれほど凍っていないので走りやすさはある。八戸市内に入ったときには、すでに午前3時を過ぎていた。ネットカフェで仮眠をして、清々しい朝を迎え、レンタカーを返した。雪道での運転は今まででも数えるほどしかない。しかも、今季初めて雪を見た。関東では雪が降っていない。寒さに耐えながら、風邪をひきそうになりながら、この下北半島に向きあったことで何か芸能に対する新しい感覚が開かれたような気もした。「悠久の大地」「寂しさ」「美しさ」などという感覚が呼び起こされた。機敏な感性が働き、何かが欠けたら自分の体調が狂ってしまうようなバランスの中に気高く生きる感覚もある。そこにありがたみの心も温かさも芽生える。そういう感覚の中で、能舞や獅子舞を受け継ぐこと。ただ事実だけではない体感をもってして、それを記憶したいという想いが芽生えた帰路だった。
能舞はなぜ生まれたのか?起源と歴史
さて、2025年1月5日はレンタカーを返したのち、八戸の私立図書館で文献を漁ってから千葉県への帰路についた。まずは能舞の起源に関してである。
能舞の確立背景については、森勇男『下北の能舞と義経伝説』7頁によると、「修験道の密教的行法に、その当時普及してきた猿楽や田楽、そして延年舞などが取り入れられた新しい芸能の分野として生み出された」という。そして能舞の素晴らしさというのは本田安次著『山伏神楽・番楽』(1971年, 3頁)によると、山伏神楽・番楽は「能大成以前の猿楽、田楽の辺土に散った遺風が、今に脈々と伝承されているものであるらしい」とのこと。南北朝時代以降に形成された室町時代以前の形を今に留める、600年ほどの歴史を有するとも言われるのである。
巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P384によれば、「下北の能舞は熊野権現(紀伊半島・和歌山)が発祥の地といわれている。神楽や能舞の根拠地京都から高野山の熊野路へ、そして信州の善光寺周辺を経て羽前羽後(山形秋田)へ伝わり、やがて陸奥へ広まったとみられる。東北といっても日本海岸の北陸から山形、秋田、そして津軽下北と伝わったものであろうが、現在では発祥地紀伊や北陸にはその姿は無く山形、秋田の一部と下北半島東部一帯に残されているに過ぎない」とある。ただし森勇男『下北能舞ものがたり』17頁には越後のお米と下北のヒバ(檜)材・海産物を交換する経済交易を見るに、その流れの中で伝わったという内容が書かれており、また同紙49頁には「こうした船には必ず恐山に入山する山伏修験者の姿があり、船主の方も、海上安全祈願にのために歓迎した模様である」とも書かれている。また祭囃子に関しては巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P382によれば、半島のほとんどが京都の祇園囃子系といわれる。根拠地京都説は根強いが、それから非常にさまざまな経路を経て下北半島に至ったことがわかる。
さて、恐山に入山する山伏たちが、能舞を確立して伝播させる基点になったのは、目名不動院(目名三光院)という場所のようだ。『東通村の能舞』1984年, 3頁によれば「東通村目名の目名不動院(目名三光院)を中心にした山伏が1500年ごろから活動して能舞を伝えた」そうである。『東通村史ー民俗・民俗芸能編』524〜525頁によると、「師匠どころとされている大利、上田屋、鹿橋では、いずれも能舞を始めた時期が不明である。大利では火事で文書が紛失してしまったものか古文書がなく、言い伝えでもどこから伝播したか分からない。下北地方に能舞をもたらした修験と目されている目名不動院ともなぜか関係が薄く、その春祈祷の回村には参加していない。上田屋では目名不動院との関わりも深く、師匠どころとして他に与えた影響は大きいが、やはり能舞を始めた時期は定かではない。また、鹿橋でも同様だが、目名不動院、田名部大覚院との関係が深く、比較的早くに伝えられたのではないか」という。目名不動院に舞道具一式が現存して周辺では最も古いようだが、その年記銘がないという状況で、能舞の成立年代の特定は難しい。
『東通村史ー民俗・民俗芸能編』516頁によれば、「「能舞」の呼称を最初に記録した人は菅江真澄(1759-1829)だった」という。「夷舎奴安装婢(ひなのあそび)」の文化6年(1809)7月13日条に糠部郡の能舞を思い出しての記述がある。秋田県南秋田郡五城目町に滞在中の記事だ。その後、同村史 533〜537頁に詳述されていることには、明治政府の神仏分離政策によって山伏たちが退転して、能舞は山伏から村落の若者組に継承されたようだ。
また、下北の獅子舞についてである。
『東通村史ー民俗・民俗芸能編』517頁によれば「東通村には入口と袰部(ほろべ)に「岡獅子舞」と呼ばれてきた獅子舞がある。明治の半ばに、岩手県二戸郡一戸町の小鳥谷からやって来た野里藤蔵という人が伝えたという、山伏神楽である。むつ市や東通村では二戸や三八地方を「オカ」と呼んでおり、そこから伝えられた獅子舞なので「岡獅子舞」と称したのである。一般には、能舞も獅子舞、一戸から来た山伏神楽も獅子舞、そこで、前者を「五拍子」の獅子舞、後者を「三拍子」の獅子舞、あるいは「岡獅子舞」と呼んで区別したのである」と期限が判明しており、伝来者の情報も明確だ。そういえば「岡獅子舞」は「おかまい獅子」と呼ぶこともあるようで、岩屋の演舞後の飲み会ではそう教えてもらった。
そして興味深いのは、この能舞や獅子舞が下北半島でどう盛んになったかについてである。
森勇男『下北の能舞と義経伝説』8頁によれば「能舞も元来は山伏修行者の修行中の「験くらべ」が基本であったと考えられ、山奥の修行の中身をお互い出し合って、より以上の研鑽を積んだものなのである」という。なるほど、競争環境がこれほどまでに質の高い舞いを生み出してきたのだろう。
『東通村史ー民俗・民俗芸能編』528頁によれば「上田屋での聞き取りによると、他村に能舞の指導に出かけた師匠は、目名不動院に従って春祈祷に歩いた者が多かったという。この春祈祷は、旧正月から一ヶ月、二ヶ月とかけて、東通村全域とむつ市・横浜町・六ヶ所村などの集落を回って、春祈祷や能舞を行なう巡業回村だった。不動院とかかわりの深い幾つかの村から舞い手をピックアップした混成メンバーであることが多かったから、舞い手は互いにしのぎを削ったし、迎える側の若者たちは優れた舞い手を取り入れようと努めたので、能舞の普及と伝承に重要な影響を与えたそうだ」とある。目名不動院が能舞普及のハブになったことは明らかである。
『東通村史ー民俗・民俗芸能編』522頁によると、昭和以降の動きについては「各伝承団体が協力して伝承に努めるために、昭和39年に東通村郷土芸能保存連合会(会長太田善之助)を結成した。連合会では毎年正月10日頃に郷土芸能発表会を催し、各団体が一番ずつ演じている」という。
能舞・獅子舞共通の豆知識
書く場所がなかったので、ここに記しておきたい豆知識がある。演目が始まる前に毎回、スプレーで水を畳に吹きかけて、その上で舞っているのが面白かった。滑らないようにしているのだという。擦って歩くから水がすぐに乾いて蒸発するらしい。それから共通は御祈祷料を紙に包んで、演目の度に舞台に投げるということ。推しの演舞には投げ銭をするという文化があり、千円ほどを紙に包んで投げるのである。祝儀あるいはご祈祷料は奇数が頭につく数字が良いと言われており、3000,5000,10000円などを出す人が多いらしい。僕は入口の夜の舞いの後、食事まで参加するとのことで、少しだけ包ませていただいた。
能舞を見て感じたこと
さて、今回下北半島の能舞と獅子舞を拝見して感じたのは、日本の端に奥が深い文化は生き続けるということだ。下北半島は蝦夷地開拓まで、京都から最も遠い極北として、中世以降その立ち位置を保ってきたように感じる。芸能は簡略化したり、世俗化したりするのは常であり、残すということが疎かになりがちだ。しかし、能舞や獅子舞は観阿弥・世阿弥以前の能のあり方を現代に伝える意味でも残すことに非常に忠実であると思う。その舞いの素晴らしさは修験特有の験くらべをはじめとした競い合いの文化によって高められ、また地域コミュニティの継承という欠かせない一翼を担うことで、繋がれてきたのである。日本全体で忘れられてきた郷土芸能そのものの役割や精神性を思い出してくれる点で、下北半島の能舞や獅子舞はさらに再考されていくべきとも感じる。
参考文献
森勇男『下北能舞ものがたり』(北の街社, 1973年)
畠山篤『能舞 <鐘巻>の復原』2015年3月, P9
森勇男『下北の能舞と義経伝説』1996年10月, 北の街社, P7~8
巖浩『下北半島の歴史と文化を語る会』1978年, P379/P382/P384
東通村史編集委員会『東通村史ー民俗・民俗芸能編』1997年, 516〜517頁
本田安次著『山伏神楽・番楽』(1971年)