船の上で肩車して獅子舞!?アクロバティックな「船上継ぎ獅子」、愛媛県今治市大西町九王にて

愛媛県今治市越智郡大西町九王(くおう)。この地には、船上継ぎ獅子なる獅子舞があると聞いていた。ただでさえバランスのとりにくい船の上で、肩車をしながら獅子舞をするという。聞いただけでもハラハラするような獅子舞が存在するのだ。以前、今治市内で行われた「おんまく」という夏祭りで、いくつかの団体が獅子舞を演舞しているのを見た。しかし、この時継ぎ獅子の頂点に立つ獅子児(ししこ)が獅子頭を被っている団体が偶然か知らぬがひとつもなかった。獅子頭を被った継ぎ獅子が見られなかったこと、そして、船上で行われるというレア感に惹かれて、僕は松山行きのフライトをとった。

余裕のある滞在、三津浜に立ち寄る

飛行機の中では、「右手に富士山が見えます」というアナウンスが入った。すっきりした晴れの日に、まずは松山に前日入りした。松山空港を降り立って、1日目は三津浜まで1時間歩き、暇つぶしをした。港町の生活感あふれる港町の風景はかなり魅力的に思えた。カメラを向けることが後ろめたくなってきて、柔らかく風景に接触できるようなカメラがあるといいのにと思った。船べりにもたれかかる船頭、のんびりと道端を歩く猫、それらすべてが自分にとっては素晴らしい風景だった。伊達という食事処で、三津浜焼きを食べた。入るなり地元の若者とおじさんが飲み友みたいに5人ほど話に花を咲かせていて、自分の入る隙はなかった。しかし、その横のカウンター席に座らせてもらい、店主と思われるおばあちゃんに話しかけてもらった。「どこからきたの?どこに泊まるの?」矢継ぎ早に質問が飛んできて、隣の30代くらいの若者ともその流れで話をするようになった。とても生き生きしていてテンションも高くて怖気付いたし、地元ノリが羨ましくも感じられてなんだか虚しくもなったが、暖かい気持ちにもなった。旅先の食事処は、こういう場所を選ぶべきなのだ。その夜はバンビーズというネカフェに泊まった。塩バターとキャラメルのポップコーンが食べ放題でとても綺麗なネカフェで大満足である。

翌朝に祭りは始まった

翌日7時には三津浜駅まで歩いて、それから波方駅で降り、そこから30分歩いて、祭礼のスタート地点である龍神社に向かった。ここから9時ごろに獅子舞が始まり、船上継ぎ獅子は9時20分ごろ。初見で印象的だったのが、船の上での継ぎ獅子は非常に盛り上がった。海岸沿いにはたくさんの地元民やカメラマンが詰めかけ、場所を取り合うという状況。その中で、アクロバティックな獅子舞が進んでいく。最も難しい四継ぎ獅子は途中で力尽きて子どもが下の大人たちのところに飛び降りるみたいなハラハラするシーンもあった。人間の高いところに届きたいという欲望のようなものを感じたし、技芸はどんどん難しいところを目指してしていくという実感を得た。海上での演舞の最後に、紅白の餅まきをしていて、海に投げられてしまった餅たちを全身ずぶ濡れになりながら取りに行く子どもたちがどこか微笑ましかった。

獅子舞をラストまで追いかけた

それから海岸を上がって、道を歩きながら獅子舞が行われた。狭い道を獅子が左右に大きく目一杯舞い歩く姿が印象的だった。最後は九王地蔵堂に到着。ここではおそらくフル演舞だったのだろう。1時間以上はさまざまな舞いが繰り広げられた。終了したのが11時半ごろだ。獅子舞は午前中約2時間半ほどの演舞と練り歩きであった。神輿は龍神社から少し歩いて船に乗るでは同じだが、そこから富山八幡神社へと移動するため、会場での演舞以降は、獅子舞と経路が異なり見られなかった。ただ、最後獅子舞が終わって国道15号線沿いを歩いていると、腰掛けて休んでいる神輿の大群と出会うことができた。結構広い範囲が氏子の区域なんだと思った。

それから、他にも天神社など15号線沿いの神社を見て回ったのだが、もうすでに獅子舞が終了しているような様子だったので、そのまま通り過ぎた。鉄板焼きを食べて、図書館に籠って継ぎ獅子の資料を読み漁った。冊数は多いが、内容がシンプルすぎる印象で、継ぎ獅子の調査研究はもっと進んでほしいとは思った。それから、大井八幡大神社に立ち寄り、大西駅から電車に乗って松山駅で降りて、じゃこてんうどんを食べてから、松山市駅から夜行バスに乗って帰路についた。今回の旅はどこか余裕のある旅だった。その分、道端の小さなものに注目するような機会にもなったし、業務的な要素は薄く、心の豊かさと向き合う良い機会となった。忙しない道場の中に、レタリングの面白い良い看板とか、庭木や鉢が充実している店先とか。自分の暮らしへの妄想が広がっていく要素もあった。継ぎ獅子も船上継ぎ獅子は人気だから多少の観光地化も免れないとは思っていたが、案外アクセスが困難だし地元の人も多くて、素朴な風景として一連の流れを捉えることができた。見応えある演舞と素朴さを両立することは案外難しいようにも思うので、そういう意味で素晴らしい獅子舞の形を観ることができた。

九王獅子連とは?

それでは改めて、今回の獅子舞の基本情報について触れよう。龍神ヶ鼻にある龍神社がスタート地点となった。龍神社はもともと、神武東征の際に、激しい風波にあって龍神の助けで九王の浜に何を避けられたことから竜神を祀ったことに始まる。かつて江戸時代に龍神社は松山藩の雨乞の祈祷所としての性格を持っていた。ここで演じられる継ぎ獅子は今治市越智郡で特徴的な曲芸的な立技を披露する獅子舞のことである。もともと龍神社の祭礼は旧暦9月7日であったが、1932年(昭和7年)から5月20、21日となった。近年は休日に合わせて5月第3日曜日に行われているようだ。

ここでは神輿の海上渡御に供奉するという形で、シシブネが出て、獅子舞が海上で舞われる。この「船上継ぎ獅子」と呼ばれる獅子舞は江戸時代末期に始まったと言われており、約200年の歴史があるとされるシシブネは小型漁船2隻をつなぎ合わせ、座板をその上に乗せて接着して、ゴザを敷いて四方には斎竹(いみだけ)を立てて、注連縄を張った作りとなっている。これを手漕ぎするとともに、途中から動力を積んだ漁船が引っ張るという形で海上へと進んでいく。

獅子の基本動作

獅子舞は基本動作が2つあってそれを「曲(きょく)」と「練る」というそうだ。曲は獅子頭を上下させる動きで、練るは獅子頭を左右に動かしながら、足を前に蹴上げて舞う動きである。

演目としては、「①練る、②ダイバ(提婆):天狗が笹と刀で悪魔祓い、③立ち芸:二継ぎ、三継ぎ、四継ぎ、④もちつき、⑤スリガネ:少年が三番叟を踏む、⑥オヤス:お多福面をつけた少年が油単の穴から顔を出す、⑦マエギ:獅子頭持ちと油単持ち2名で演舞、獅子が脇差を咥えて舞う等の所作あり」などがある。

かつては五継ぎ獅子、六継ぎ獅子もしたことがあるそうだが、今では四継ぎが人数的に精一杯であり、昔は高すぎると上に乗った大人を受け止めきれずに入院者が出たという話も残されている。四継ぎ獅子の場合、一番下をダイ(台)、ダイの肩に乗る者をナカダイ(中台)、その上をコウツカイ(子使い)、最も頂点に立つ少年をシシコ(獅子子)と呼ぶ。五継ぎの場合はナカダイ(中台)が2名となり、三継ぎの場合はナカダイ(中台)が0人という考え方になる。

他の地域との繋がりは?

個人的に面白かったのが、練り歩きの時に二継ぎ獅子、つまりカタグルマ状態に似たような感じで大人が子どもを背負って、練り歩いている場面があったが、これは石川県加賀市田尻町の獅子舞で見たことがある。神社から公民館へと移動する際に、肩車で担がれた青年団の重役が意気揚々と歩いている姿を見た。加賀方面には棒振り文化があるから、田尻町における獅子と対峙する棒振りが、今治におけるシシコという対応関係として似たものがあるのかもしれないと思ったが、完全に推測の域を出ない。

またマエギという演目は完全に伊勢大神楽から取り入れられたように思われる。伊勢大神楽で言うところの剣の舞のような所作であることに驚いた。ダイバと呼ばれる天狗も、伊勢の猿田彦のような感じがする。そもそも継ぎ獅子の歴史を辿ると、江戸時代中期ごろに伊勢大神楽から習った説が濃厚で、それをより高く高くしようと継ぎ獅子というアクロバティックな舞いへと独自の変化が生まれたわけだ。

 

◯主要参考文献

愛媛県生涯学習センター『昭和を生き抜いた人々が語る 愛媛の祭り(平成11年度地域文化調査報告書』平成12年3月

◯その他の参考文献

大西小学校『小学校3・4年生副読本 大西のくらし』昭和43年4月初版発行 P61.62

近藤福太郎『大西の文化財』大西町史談会、平成16年1月 p16

愛媛県歴史文化博物館『平成十二年度企画展 愛媛まつり紀行ー21世紀に伝えたい郷土の祭礼』平成12年7月p34

押岡四郎『愛媛民俗伝承の旅 まつりと年中行事』愛媛新聞社 平成11年4月 p76

※基本的に文献は多いが少しのコメントが載っている程度なので、全体的に継ぎ獅子の調査を進めねばと個人的には思っているところだ。