2023年9月29日(金)~10月2日(月)まで、沖縄の獅子舞を取材した。沖縄では旧暦8月15日に十五夜祭というお祭りが行われる。本来であれば十五夜は29日なのだが、今年は金曜日なので土日でずらして開催する地域も多く、これは3日連続で滞在するしかないということで、この日程になった。沖縄全土で同時多発的に獅子舞が開催されるので、コロナ禍以来久しぶりの良い機会であるし、東京から沖縄訪問を決めた。
沖縄の獅子舞はまだまだ個人的に調査が不十分で、まだ滞在も2回目である。とにかく数多くの獅子舞を拝見したいという想いから、この時期を選んだ。実際に今回、勢理客、内間、仲西、首里汀良町、首里末吉町、今帰仁村謝名、首里真和志町を取材させていただいた。沖縄の獅子舞はなぜ十五夜に集まり、どのような特徴を持つのか?今回の滞在を記録的なアーカイブとして、ここで振り返っておきたい。
十五夜祭とは?
起源ははっきりとわかっていないが、部落の息災を祈願する行事として行われてきた。浦添市勢理客の十五夜祭を例に考えていこう。十五夜祭は都市化により変容してきて、現在では祈願行事や獅子舞がわずかに残るだけである。その運営組織は「若者(ワカムン)」であり、15.6~39歳までの男性が所属し、40歳になると指導役に回る。部落の組織とは切り離されてきた。総指揮者が若者頭(わかむんがしら)、書記会計役がナカビッサ、伝達役がカタヤービッサだ。この三役が中心となり、祭りが運営される。祭の演目はもともと獅子、踊り(ウドイ)、狂言(チョーギン)の3つに分かれており、月の出る頃から翌朝まで絶え間なく続けられた。
獅子に関するエピソードとして、十五夜前の8月1日、ワカムンジュリーの日から練習を開始した。8月12日にはウマヌジューチリという行事があり、面白いエピソードが伝えられている。獅子のたてがみ等に使用する馬の尾を部落内の馬から少しずつ切り取って集めたというのだ。戦後は馬が少なくなったため、県道を通る荷馬車や客馬車を停めて持ち主にお酒を振舞っている隙に、馬の尾を切り取ってくることもあった。十五夜の当日は早朝に7箇所の拝所を回ってから、夜は獅子御願によってお酒を供えて獅子を祈願したのち、供えられたお酒を全員で回し飲みした。その後、巻棒、かぎやで風節、長者の大王、獅子舞と進み、踊りと狂言と獅子の競い合いが延々続けられ、翌朝に獅子御願を再びして十五夜が終了となる。
これが伝統的なやり方であり、多少部落によって異なるだろうが流れは似ている所も多いだろう。勢理客のみならず、現在多くの部落でこれが簡略化されてしまっている。どこでも基本的に「昔は翌朝までやっていた...」という話はよく聞くが、今は遅くとも22~23時には終了のようだ。
沖縄の獅子舞取材 1日目 浦添市の獅子舞
2023年9月29日、沖縄県浦添市の獅子舞を取材した。国選択の無形民俗文化財に選択されている勢理客の獅子舞はじめ、仲西の獅子舞、内間の獅子舞を拝見することができた。途中から雨が降る中で傘を忘れ、機材を守りながら走って移動するなどかなりの強行スケジュールとなった。取材ができたのでその記録をここに残しておく。
勢理客の獅子舞
獅子舞の由来は400年くらい前にコーレー具志堅という人が伝えた。勢理客の獅子舞の特徴は豊富な芸種に細やかな芸があり、古い型をきちんと伝承していることだという。昭和48年に記録作成等の保存措置を講ずべき国の無形文化財として選択。昭和46年には浦添市の無形文化財にも指定。勢理客獅子舞保存会によって継承保存されている。
獅子舞の芸種は11種類で、儀式的な「ジャンメー」と遊び的な「モーヤー」に区分されて異なった三味線の旋律がある。
具体的には、ジャンメーが、以下のような演目で構成される。
1. ジャンメー:舞台の四方のお祓い
2. ホーイジャンメー:獅子が野原を這い回る
3. シラングィー:獅子が足や首筋のシラミを払う
4. タチシラングィー:立ったままシラミを払う
一方でモーヤーは、以下のような演目で構成される。
1. 二方(ニホー, 通称マーイクーイ):満腹の獅子が猿に見立てたマリでじゃれる
2. 四方(シホー):二方とほぼ同じ演技を四角で行う
3. バンクグーイ:獅子が幕内に獲物をねだる
4. タティティヌジェー:六尺棒によじ登ったのち抜き倒す
5. タティティヌボー:舞台中央に立てられた棒と戯れる
6. トーチヌジェー:舞台中央に横倒しにされた両先端にジェーを結んだ六尺棒と戯れる
7. トーチヌボー:舞台中央に横倒しにされた両先端にジェーを結んでいない六尺棒と戯れる
※チンシガキと呼ばれる演技もあったが、その内容は現在に伝わっていない。
勢理客の十五夜獅子舞では、公民館の横にある勢理客保育園の子どもたちが獅子舞を披露する機会があることも特筆すべきだ。この披露の機会を「しぃーしぃ
今回きちんと拝見できた演目は、ラストのバンクグーイと獅子御願の2つだった。バンクグーイは太モモを高く上げて行進するようにハッハッハッハと動く所作が可愛らしくもあり、非常にハードに思えた所作だった。
勢理客の獅子舞保存会を率いる仲西さんに、獅子舞のことについてさまざまなお話を聞くことができた。獅子頭に使うデイゴの木は、まずなぜ多用されるのか?ということ。これは直径50cmとれる木材というのがなかなかない上に、縦横が交差するような木目になっており、縦に割れ目を作ってもパッカーンと割れてしまうことがないらしい。杉などとは大違いで、本土の桐の木のように、すぐには加工しても割れない作りになっているのである。
獅子御願の時の獅子
勢理客の獅子舞はあとかなり観客が多くて、賑わっている様子が伝わってきた。特に子どもが多い。子どもがおにぎりなどを食べたり走り回っている中で、神様が演舞をしているという風景はなかなか面白くて、静粛な儀式みたいなものとは対極的な場の在り方だと思った。公民館に入る時の靴箱がいっぱいで周囲に靴が散乱していて延々とそれが広がっていて、誰が誰のか収集がつかない感じになっていたのも良かった。誰のものかもわからない靴を踏んで中に入っていくのをみんな許容していて、ごちゃ混ぜでカオスな感じが良い。
実際に勢理客の獅子舞を拝見して、とにかく古い型を今に忠実に残している印象だ。十五夜祭も18時から22時過ぎまでかかっており、近隣では最も長い時間行っている。これは舞いの形態を今でも忠実に残している証しと言えるだろう。昔は夜7時から朝4時くらいまでぶっ通しでやっていたそうだ。公民館に巨大な飾り用の獅子頭が置かれていたのは印象的だったし、やはり子どもの頃からの教育が今の大人の素晴らしい演舞を作っているようにも思えた。
内間の獅子舞
技の勇壮さと多彩さで知られている。獅子舞の由来は明治時代生まれの島袋順吉翁の調べによると、尚真王の時代(1477~1520年)に「茶貫軒丸(チャヌチヌチマル)」という内間グスクを中心に勢力を築いた人物が獅子舞を伝えたとされている。この獅子舞は雌獅子である。昭和46年には浦添市の無形文化財に指定。昭和51年に結成された獅子舞保存会によって継承保存されている。内間の獅子舞の演目は、ザーミーメー(モーヤー)、マーイムタバー、ケーヤー、シラングィー、ボークーヤー、カジシヤー、ホーヤー、サールグァー(獅子が猿を追いかける)である。
内間の獅子舞を実際に拝見していて、ステージ背景の作りこみがしっかりしていて、良かった。拝見できた演目はザーミーメー(モーヤー)とボークーヤーだった。ザーミーメーは頭をくるっと回したり、尻尾を振ったりする非常に簡潔な舞いだと思った。ボークーヤーは非常に研究するのに重要な意味を含んでいると感じた。棒を獅子がくわえた瞬間、拍手が沸き起こった。なかなか棒をくわえず、獅子が棒をくわえた瞬間に拍手喝采が起こる感じが、会津の彼岸獅子の弓舞に似ていると感じた。彼岸獅子も弓をくぐろうとするがなかなか潜らない。くぐった瞬間は拍手喝采であった。これはおそらく手なづけるのに苦労した獣がやっと檻に収まるような感覚に近いように思われる。これは単なる直感であるが、広く捉えれば、自然の中で器用に生きる人間が自然を熟知していき、それとうまく共存することに成功するという比喩表現の証であろう。
ボークーヤーの場面
内間自治会の安里様に興味深い話を伺うことができた。安謝川沿いは位の高い人がもともと住んでいて、
昔は夜明けまで十五夜を実施していたが、
公民館前には内間の獅子舞の石碑が建てられていた。浦添市教育委員会が獅子舞の石碑を建ててたようだ。
あと内間はエイサーがとっても良かった。衣装の長いハチマキとか、そういうのがかっこよかったし、小さい太鼓をリズミカルに器用に叩く感じがかっこよかった。心の奥底まで響いてくる感じと陽気さとが相まって、なんか自分がここに打ち解け込めている感覚まであって、とても嬉しかった。僕は沖縄の土地柄が肌に合っているみたいだ。取材をしていても皆嫌な顔ひとつしないので、取材がしやすくて、外の人を受け入れる寛容性みたいなものを強く感じた。
仲西の獅子舞
公民館の場所に迷って、かつ今回急遽短縮バージョンとなってしまっていたため、公民館到着時にはちょうど獅子舞が終わってしまっていた。拝見できなかったのは残念だったが、今回連絡を取らせていただいていた又吉恭平さんに非常に多岐にわたる獅子舞のお話を伺うことができ、仲西の獅子舞の道具も拝見できたので、1時間程度の滞在だったがとても濃厚な時間となった。
昔から村神として受け継がれてきた仲西の獅子頭は沖縄戦で焼失した。昭和37年に比嘉次郎氏によって復元され、獅子舞保存会によって伝承されている。この獅子舞は雄獅子である。
仲西の獅子舞の演目はマーイクーヤー、ケーヤー、ホーヤー、ジェークーヤー、ジュークーヤー、シランガチ、マーイムタバー、ボークーヤーとなっており、内間の獅子舞とも字ズラだけ見ると似ているように思える。
ここからは又吉さん談である。昭和53年、獅子頭を新調した。その時、
なぜ雄か雌かはわからない。又吉さんによれば、
また獅子頭の胴体は芭蕉やリュウゼツランの繊維を使っている。
本日の十五夜ではマーイムタバーも演じられたそうだが、
担い手は小学生から初めて、
沖縄の獅子舞取材 2日目 首里と今帰仁の獅子舞
2日目も大雨だったが、首里と今帰仁の獅子舞を取材することができた。なかなかの大移動になり、少しずつしか取材できなかったものの、その演舞形態や祭りの流れを把握するには十分な取材となった。
首里汀良町獅子舞
9月30日12時半ごろ、首里汀良町(てらちょう)をぶらぶら歩いていると、
首里汀良町十五夜獅子舞はピィーという口笛の音とともにやってく
首里汀良町の獅子舞は、沖縄最古とも言われている。
ps. 首里汀良町内にある石の神様にお供え物が置かれているの
首里末吉町の獅子舞
もしかしたら、9/30は末吉町も十五夜祭かもしれないという直
謝名の豊年祭
夕方那覇からバスで2時間半ほどで今帰仁村謝名に辿り着いた。
まずは謝名公民館に向かってみると、
ご祝儀を3千円程度寄付した。芸能にお金を渡したのは初めてだ。3千円を渡すことでこれが祭りの運営資金になる仕組みだそうだ。
豊年祭ではさまざまな演目が繰り広げられた。演目の最初に必ず、
また会場にいると、おばあさんがお菓子を回し始めたり、
途中、会場を抜けて、提灯をまた辿っていくと、
それから演目の最後に操り(あやつり)獅子を見た。かなりシンプルな演目で、
沖縄では2人立ちの獅子舞が一般的な中、唯一3例あるのが、操り獅子である。それは名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味に伝来している。獅子の頭部と臀部に一本の糸を結びつけ、舞台天井の竹や棒に渡して、舞台裏から操る仕組みとなっている。
この芸能の始まりは、首里への奉公人、あるいは江戸上りや薩摩上りなどの随行人、中国へと渡った役人がそれぞれ持ち帰って、琉球独自のスタイルにアレンジしたものと考えられる。琉球の獅子はもともと中国寄りであるが、操り人形は江戸や大阪にもあったわけで、これを取り入れた可能性はある。ただわかっているのは、本部町伊豆味の操り獅子は大正期に今帰仁村謝名から伝わったということのみである。
首里・那覇からの寄留人(脇地頭)の影響か、または地元間切役人の奉公先が首里の殿内や御殿であることから、これらの人々が芸能の伝播者になった可能性は高いが、真相は定かではない。豊年祭の際は、謝名のウプシマの神アサギのミャー(庭)に豊年祭用の舞台を設置して、その舞台にさらにアヤーチ(操り獅子)が踊る台が置かれる。
道ジュネーは17時から行っていた。
沖縄の獅子舞取材 3日目 首里真和志町の獅子舞
3日目はシンプルに1つの町に特化して、じっくりと取材を進めていこうということで、真和志町の演舞に最初から最後までついて歩かせていただき、飲み会にも誘っていただいた。本当に貴重なエピソードまで伺うことができ大収穫の1日だった。
首里真和志町の獅子舞
10月1日は夕方16時半から夜の20時過ぎまで、
それがなぜ今に復活したのか。長い間復活の議論があったというが、
首里真和志町の獅子舞のルートは以下のようであった。3部構成で
17:00〜道ジュネー(町回り)
19:00〜真和志クラブにて演舞
その後飲み会
まずは首里城 園比屋武御嶽石門前演舞から始まった。守礼門近くで、比較的首里城の入り口に近いところでの演舞である。まずは石門に対して拝み、そして棒術を披露してから獅子舞の演舞が行われた。多くの地元の人や観光客が円になって、獅子舞を見つめていた。演舞後は獅子に頭を噛んでもらう時間があったが、獅子があまりに大きすぎるのか、激しすぎるのか、観客が緊張しているのか、自ら進んで頭を噛んで欲しいという人が見つからず、まずは子どもの頭を噛んでいた。時にはギャーと泣き叫ぶ子どももいて、怖い子どもには怖いよなということを改めて感じた。20分ほどの短い時間ではあったが、首里城という世界遺産が近くにあることは、獅子舞を多くの人に見てもらうのに非常に良い場所だとも感じた。
道ジュネーでは、
家周りの時に玄関先で封筒に包まれたご祝儀が獅子の口に入れられ
最後の演舞は、真和志クラブで行われた。公民館のような場所であり、獅子頭などの獅子舞道具もここに保管されている。18時半ごろに到着して最終演舞に向けて、準備が進められた。プレモルをもらって、すでに飲み会状態のような感じになってきた。演舞後に食べる食事もずらりとすでに並べられている。庭にビニールシートを敷いていたが、これは客席ではなくて、雨にぬれても獅子が演舞の際に滑らないような工夫だろう。それでライトがピカッと当てられて獅子が演舞を始めたのが19時ごろだ。まずは年長者がスタンダードなものを演舞してから、若手がマリを加える演目を披露した。2演目で終了となった。それぞれ非常に迫力がある素晴らしい舞いだった。
最後にアメリカから獅子頭が返還された話について触れておこう。
こちらの写真は右がアメリカからの獅子頭。左がその姿形がわからず作られた新しい獅子頭(地域の断髪屋作)どちらも立派な神獅子である。断髪屋(散髪屋)が獅子頭を作る場合も多く、昔の人は器用だからプロでなくても獅子頭を作れたそうだ。獅子頭へのお供物はヤマグスク饅頭、うちゃぎというお餅、
沖縄の獅子舞総論
2日は那覇市立博物館に立ち寄ってから、那覇空港から福岡空港への移動となった。次の滞在地・タイに向けての移動である。今回の9/29〜10/2の滞在を経て、
参考文献
沖縄県教育庁文化課『沖縄県文化財調査報告書148集 操り獅子調査報告書』(沖縄県教育委員会, 2009年3月)p5-19.p117-p128
浦添市史編集委員会『浦添市史第三巻資料編2 民話・芸能・美術、工芸』(浦添市教育委員会, 1982年3月)p248-252, p264, p274-275