大充実の沖縄県「獅子舞」取材!アメリカ兵獅子頭返還、糸で操る獅子舞...7団体をまわり発見した獅子舞の魅力とは?

2023年9月29日(金)~10月2日(月)まで、沖縄の獅子舞を取材した。沖縄では旧暦8月15日に十五夜祭というお祭りが行われる。本来であれば十五夜は29日なのだが、今年は金曜日なので土日でずらして開催する地域も多く、これは3日連続で滞在するしかないということで、この日程になった。沖縄全土で同時多発的に獅子舞が開催されるので、コロナ禍以来久しぶりの良い機会であるし、東京から沖縄訪問を決めた。

沖縄の獅子舞はまだまだ個人的に調査が不十分で、まだ滞在も2回目である。とにかく数多くの獅子舞を拝見したいという想いから、この時期を選んだ。実際に今回、勢理客、内間、仲西、首里汀良町、首里末吉町、今帰仁村謝名、首里真和志町を取材させていただいた。沖縄の獅子舞はなぜ十五夜に集まり、どのような特徴を持つのか?今回の滞在を記録的なアーカイブとして、ここで振り返っておきたい。

十五夜祭とは?

起源ははっきりとわかっていないが、部落の息災を祈願する行事として行われてきた。浦添市勢理客の十五夜祭を例に考えていこう。十五夜祭は都市化により変容してきて、現在では祈願行事や獅子舞がわずかに残るだけである。その運営組織は「若者(ワカムン)」であり、15.6~39歳までの男性が所属し、40歳になると指導役に回る。部落の組織とは切り離されてきた。総指揮者が若者頭(わかむんがしら)、書記会計役がナカビッサ、伝達役がカタヤービッサだ。この三役が中心となり、祭りが運営される。祭の演目はもともと獅子、踊り(ウドイ)、狂言(チョーギン)の3つに分かれており、月の出る頃から翌朝まで絶え間なく続けられた。

獅子に関するエピソードとして、十五夜前の8月1日、ワカムンジュリーの日から練習を開始した。8月12日にはウマヌジューチリという行事があり、面白いエピソードが伝えられている。獅子のたてがみ等に使用する馬の尾を部落内の馬から少しずつ切り取って集めたというのだ。戦後は馬が少なくなったため、県道を通る荷馬車や客馬車を停めて持ち主にお酒を振舞っている隙に、馬の尾を切り取ってくることもあった。十五夜の当日は早朝に7箇所の拝所を回ってから、夜は獅子御願によってお酒を供えて獅子を祈願したのち、供えられたお酒を全員で回し飲みした。その後、巻棒、かぎやで風節、長者の大王、獅子舞と進み、踊りと狂言と獅子の競い合いが延々続けられ、翌朝に獅子御願を再びして十五夜が終了となる。

これが伝統的なやり方であり、多少部落によって異なるだろうが流れは似ている所も多いだろう。勢理客のみならず、現在多くの部落でこれが簡略化されてしまっている。どこでも基本的に「昔は翌朝までやっていた...」という話はよく聞くが、今は遅くとも22~23時には終了のようだ。

沖縄の獅子舞取材  1日目 浦添市の獅子舞

2023年9月29日、沖縄県浦添市の獅子舞を取材した。国選択の無形民俗文化財に選択されている勢理客の獅子舞はじめ、仲西の獅子舞、内間の獅子舞を拝見することができた。途中から雨が降る中で傘を忘れ、機材を守りながら走って移動するなどかなりの強行スケジュールとなった。取材ができたのでその記録をここに残しておく。

勢理客の獅子舞

獅子舞の由来は400年くらい前にコーレー具志堅という人が伝えた。勢理客の獅子舞の特徴は豊富な芸種に細やかな芸があり、古い型をきちんと伝承していることだという。昭和48年に記録作成等の保存措置を講ずべき国の無形文化財として選択。昭和46年には浦添市無形文化財にも指定。勢理客獅子舞保存会によって継承保存されている。

獅子舞の芸種は11種類で、儀式的な「ジャンメー」と遊び的な「モーヤー」に区分されて異なった三味線の旋律がある。

 

具体的には、ジャンメーが、以下のような演目で構成される。

1. ジャンメー:舞台の四方のお祓い
2. ホーイジャンメー:獅子が野原を這い回る
3. シラングィー:獅子が足や首筋のシラミを払う
4. タチシラングィー:立ったままシラミを払う

一方でモーヤーは、以下のような演目で構成される。
1. 二方(ニホー, 通称マーイクーイ):満腹の獅子が猿に見立てたマリでじゃれる
2. 四方(シホー):二方とほぼ同じ演技を四角で行う
3. バンクグーイ:獅子が幕内に獲物をねだる
4. タティティヌジェー:六尺棒によじ登ったのち抜き倒す
5. タティティヌボー:舞台中央に立てられた棒と戯れる
6. トーチヌジェー:舞台中央に横倒しにされた両先端にジェーを結んだ六尺棒と戯れる
7. トーチヌボー:舞台中央に横倒しにされた両先端にジェーを結んでいない六尺棒と戯れる
※チンシガキと呼ばれる演技もあったが、その内容は現在に伝わっていない。

 

勢理客の十五夜獅子舞では、公民館の横にある勢理客保育園の子どもたちが獅子舞を披露する機会があることも特筆すべきだ。この披露の機会を「しぃーしぃーカンカン」と言うらしい。保育園の生徒たちの獅子舞発表から十五夜祭が幕開けるという賑やかな始まりとなった。18時から30分も演舞があり、ものすごく元気な子どもたちがステージ上をピョンピョンと跳ねる姿が印象的だった。どこか身軽な獅子舞という感じだ。実際の大人の演舞に近づける形で子どもたちなりの舞い方を確立している風だった。昭和50年ごろからしぃーしぃーカンカンを行ってきたという。40年以上、年長組によって受け継がれてきたこの行事。今回は年長組5歳児21名により披露された。子供に獅子舞の魅力を伝える機会が十分に設けられている印象を持った。

今回きちんと拝見できた演目は、ラストのバンクグーイと獅子御願の2つだった。バンクグーイは太モモを高く上げて行進するようにハッハッハッハと動く所作が可愛らしくもあり、非常にハードに思えた所作だった。

勢理客の獅子舞保存会を率いる仲西さんに、獅子舞のことについてさまざまなお話を聞くことができた。獅子頭に使うデイゴの木は、まずなぜ多用されるのか?ということ。これは直径50cmとれる木材というのがなかなかない上に、縦横が交差するような木目になっており、縦に割れ目を作ってもパッカーンと割れてしまうことがないらしい。杉などとは大違いで、本土の桐の木のように、すぐには加工しても割れない作りになっているのである。

獅子御願の時の獅子

勢理客の獅子舞はあとかなり観客が多くて、賑わっている様子が伝わってきた。特に子どもが多い。子どもがおにぎりなどを食べたり走り回っている中で、神様が演舞をしているという風景はなかなか面白くて、静粛な儀式みたいなものとは対極的な場の在り方だと思った。公民館に入る時の靴箱がいっぱいで周囲に靴が散乱していて延々とそれが広がっていて、誰が誰のか収集がつかない感じになっていたのも良かった。誰のものかもわからない靴を踏んで中に入っていくのをみんな許容していて、ごちゃ混ぜでカオスな感じが良い。

実際に勢理客の獅子舞を拝見して、とにかく古い型を今に忠実に残している印象だ。十五夜祭も18時から22時過ぎまでかかっており、近隣では最も長い時間行っている。これは舞いの形態を今でも忠実に残している証しと言えるだろう。昔は夜7時から朝4時くらいまでぶっ通しでやっていたそうだ。公民館に巨大な飾り用の獅子頭が置かれていたのは印象的だったし、やはり子どもの頃からの教育が今の大人の素晴らしい演舞を作っているようにも思えた。

内間の獅子舞

技の勇壮さと多彩さで知られている。獅子舞の由来は明治時代生まれの島袋順吉翁の調べによると、尚真王の時代(1477~1520年)に「茶貫軒丸(チャヌチヌチマル)」という内間グスクを中心に勢力を築いた人物が獅子舞を伝えたとされている。この獅子舞は雌獅子である。昭和46年には浦添市無形文化財に指定。昭和51年に結成された獅子舞保存会によって継承保存されている。内間の獅子舞の演目は、ザーミーメー(モーヤー)、マーイムタバー、ケーヤー、シラングィー、ボークーヤー、カジシヤー、ホーヤー、サールグァー(獅子が猿を追いかける)である。

内間の獅子舞を実際に拝見していて、ステージ背景の作りこみがしっかりしていて、良かった。拝見できた演目はザーミーメー(モーヤー)とボークーヤーだった。ザーミーメーは頭をくるっと回したり、尻尾を振ったりする非常に簡潔な舞いだと思った。ボークーヤーは非常に研究するのに重要な意味を含んでいると感じた。棒を獅子がくわえた瞬間、拍手が沸き起こった。なかなか棒をくわえず、獅子が棒をくわえた瞬間に拍手喝采が起こる感じが、会津の彼岸獅子の弓舞に似ていると感じた。彼岸獅子も弓をくぐろうとするがなかなか潜らない。くぐった瞬間は拍手喝采であった。これはおそらく手なづけるのに苦労した獣がやっと檻に収まるような感覚に近いように思われる。これは単なる直感であるが、広く捉えれば、自然の中で器用に生きる人間が自然を熟知していき、それとうまく共存することに成功するという比喩表現の証であろう。

ボークーヤーの場面

内間自治会の安里様に興味深い話を伺うことができた。安謝川沿いは位の高い人がもともと住んでいて、首里からの文化が流れて来やすかった。川沿いは位の高い人が住んでいて、そこに伝播の文化圏があったのではないかということで、これは地域に住んでいないとわからない感覚かもしれないとも感じた。易者に相談してからでないと王様は決定ができないという政治体制の中で、獅子舞を伝えた茶貫軒丸は易者だった可能性があり、その点は王家との結びつきを感じる。雄雌の分け方は隣町とともに行っており、町内で2つということはしていない。これは王家による雌雄の振り分けがなされた可能性が高い。また獅子舞と棒術が一緒に伝わっているのは興味深い。

昔は夜明けまで十五夜を実施していたが、今は子どもに配慮するということと、沖縄に移住者が増えて静かにしてほしいという苦情があるようになり、どこも警察が入ってくるようになってしまったらしい。うちなんちゅ(沖縄生まれの人)だけであれば、夜明けまでやってても良いものだが、移住者とは文化が違うのでどうしても縮小せざるを得なくなっている。文献によれば、棒術、踊り、獅子舞を延々と繰り返すようにして、夜明けを迎えていたそうだが、そのような機会は無くなりつつあるようだ。十五夜祭の縮小過程を知ることができたように思う。

公民館前には内間の獅子舞の石碑が建てられていた。浦添市教育委員会が獅子舞の石碑を建ててたようだ。棒術は獅子舞と同じ頃に始まったと言われている。三尺棒と六尺棒があり、演舞の形態には、1人棒、組棒、巻き棒などがある。組棒には三人棒、棒と素手やサイなどの組み合わせがあり、合戦棒(カッシンボー)と呼ばれている。この沖縄の棒術と獅子舞との関係性は大変興味深く、石川県の獅子殺しの棒振りの存在との類似性を感じざるを得ない。石川県には素手の演目がなかなかないので、この辺のバラエティの違いはある。逆に関東圏の三匹獅子舞には、獅子舞の前に棒術の使い手が登場するので、その点では類似性を感じる。

あと内間はエイサーがとっても良かった。衣装の長いハチマキとか、そういうのがかっこよかったし、小さい太鼓をリズミカルに器用に叩く感じがかっこよかった。心の奥底まで響いてくる感じと陽気さとが相まって、なんか自分がここに打ち解け込めている感覚まであって、とても嬉しかった。僕は沖縄の土地柄が肌に合っているみたいだ。取材をしていても皆嫌な顔ひとつしないので、取材がしやすくて、外の人を受け入れる寛容性みたいなものを強く感じた。

仲西の獅子舞

公民館の場所に迷って、かつ今回急遽短縮バージョンとなってしまっていたため、公民館到着時にはちょうど獅子舞が終わってしまっていた。拝見できなかったのは残念だったが、今回連絡を取らせていただいていた又吉恭平さんに非常に多岐にわたる獅子舞のお話を伺うことができ、仲西の獅子舞の道具も拝見できたので、1時間程度の滞在だったがとても濃厚な時間となった。

昔から村神として受け継がれてきた仲西の獅子頭沖縄戦で焼失した。昭和37年に比嘉次郎氏によって復元され、獅子舞保存会によって伝承されている。この獅子舞は雄獅子である。
仲西の獅子舞の演目はマーイクーヤー、ケーヤー、ホーヤー、ジェークーヤー、ジュークーヤー、シランガチ、マーイムタバー、ボークーヤーとなっており、内間の獅子舞とも字ズラだけ見ると似ているように思える。

ここからは又吉さん談である。昭和53年、獅子頭を新調した。その時、戦後に作った獅子は燃やしたという逸話がある。神獅子が2頭あるとよろしくないということらしい。十五夜以外は出してはいけないと言われている。旧暦815日は平日でも日程をずらさないし、その点では伝統に忠実な印象だ。比嘉次郎さんという方が内間、勢理客、仲西全て作ったようである。かなり新しい獅子に見えるが、これは何回か禿げたので補修したそうだ。練習用の獅子頭は目がギョッとして作られている。獅子頭は雄である。

なぜ雄か雌かはわからない。又吉さんによれば、元来首里城の獅子舞が払い下げの時に、こっちは雄、こっちは雌と振り分けられたのではという説もある。ノロという霊的な女性がいる地域は獅子があることが多く、ノロ獅子頭を受け取りそれを村々に舞わせたという考え方もある。文化の伝播者がノロだったというのも面白いポイントだ。沖縄の神様は偶像崇拝ではなく、自然信仰の様なものだ。これを扱うのが神職としてのノロであったり、田舎のシャーマンとしてのユタであったりする。獅子加那志(ししがなし)というのは、獅子が愛おしいような意味合いで、王様に対してはウシュガナシだ。敬愛する一方で親しみがあるという愛しさの意味である。

また獅子頭の胴体は芭蕉リュウゼツランの繊維を使っている。その色は風水の陰陽五行から来ており、五色獅子であり、これは朝鮮半島の獅子舞とも類似している。汗がついたら洗うことができないので、干すしかない。

本日の十五夜ではマーイムタバーも演じられたそうだが、その棒の先端についているジェーは、将軍の軍配を模倣したものだそうだ。現在できる演目は4演目で、人気のない演目から廃れる傾向がある。内間同様に、昔の風習を長くやっているとクレームが入って短縮の傾向にあるようだ。コロナ前は2時間くらいしていたそうだが、今回は1時間のみで、20時には終了となった。武道の型から始まった獅子舞は王家から伝統的な獅子舞を受け継いでいる可能性が高いそうだ。武術と獅子舞との関係性が近い。

担い手は小学生から初めて、大きい獅子を扱えるのは高校生以上になる。上だと60代でもやることがあり、時間は長くできないけどきちんと技を持っている。仲西は町回りで家を一軒一軒は行わない。

沖縄の獅子舞取材  2日目 首里今帰仁の獅子舞

2日目も大雨だったが、首里今帰仁の獅子舞を取材することができた。なかなかの大移動になり、少しずつしか取材できなかったものの、その演舞形態や祭りの流れを把握するには十分な取材となった。

首里汀良町獅子舞

93012時半ごろ、首里汀良町(てらちょう)をぶらぶら歩いていると、獅子舞に出くわすことができた。2023年は十五夜祭が地域住民のみの開催となったので、町周りを少しでも目撃できたらという気持ちでちょっと通りすがりの通行人の延長で見学した。

首里汀良町十五夜獅子舞はピィーという口笛の音とともにやってくる。お昼過ぎから町回りが始まった。町の各所に獅子舞の旗が立てられ、大人の獅子と子どもの獅子が2頭、連続で立て続けに舞って歩く。公民館から始まりその周辺の家に行く。玄関のドアを開けるとそこに獅子舞がいるのだ。獅子の頭が玄関から少し中に入ってきた時に、家の主人はご祝儀を獅子に咥えさせる。そうすると、獅子はスッと玄関前に引っ込みまた少し舞って終える。頭を激しく振る所作がとても印象的だ。雨が降ってきたので、獅子は一休みということで、建物の下で休んでいるようなので、食事に出かけた。沖縄ラーメンを食べて、それが終わって一息ついていると、なんとちょうど良いタイミングで獅子が舞いに来てくれた。獅子を受け入れる側の気持ちにもなれて本当に良かった。それにしても獅子舞の方々は本当に笛が上手だ。ピィーと良い音が出る。この音で、獅子舞が来たと気づく。太鼓はそこまで大きいものではないが、バシンと叩くとよく鳴る。

首里汀良町の獅子舞は、沖縄最古とも言われている。その始まりの演舞の型は空手の原型の「首里手(すいてぃー)」から発展したらしい。武術に近い獅子舞といえば、石川、富山に分布する加賀獅子であるが、それとも動きは異なっている。獅子舞は王様に見せるためのものだったので、七色と豪華になったと言われていて、戦前は14種類あったそうだが、今は6種類が継承されている。

ps. 首里汀良町内にある石の神様にお供え物が置かれているのをいくつか発見した。これは何だったのだろうか。

首里末吉町の獅子舞

もしかしたら、9/30は末吉町も十五夜祭かもしれないという直感のもと、首里汀良町の帰路に、末吉公民館に立ち寄った。川沿いにかけられた橋に、十五夜祭の横断幕が掲げられており、それが複数箇所に存在していたのは興味深かった。公共空間における最も宣伝面積が広い空間として橋のたもとが選ばれたということであろう。また、街路樹や電柱に十五夜祭のポスターが貼られており、獅子舞の旗も立っていたのでさらに確信にいたった。公民館につくと、獅子舞に使われる獅子頭や胴幕などが展示されており、お供物もしっかりされていた。しかし獅子舞関係者はいなかった。公民館前に座っている青年や屋台準備をしている方々に「獅子舞は町回りしてますか?」と尋ねてもよくわからないとのことだったので、その場を後にすることにした。十五夜祭は横断幕や横断幕によれば、確実に18時からは実施していそうである。そのような推測のもと、末吉町を後にした。

謝名の豊年祭

夕方那覇からバスで2時間半ほどで今帰仁村謝名に辿り着いた。知り合いづてでなーはー屋という約100年間4世代にわたって継承されてきた地域に愛される食事処の2階に泊まらせていただくこととなり、荷物を置かせてもらってから向かった。謝名の豊年祭は4年に一度開催される。しかも、コロナ禍で数年延期されたそうなので、かなり久しぶりの開催となった。

まずは謝名公民館に向かってみると、すでにそこは祭りの着替え場所になっていた。公民館にお電話して取材がしたいですと予めお伝えしていたので、ご挨拶に向かったのだが、「事務の方々はもう祭り会場のアサギというところにいますよ」と教えていただいた。その道順を教えてもらい向かった。提灯が夕暮れ空に映えており奥の方に続いていて、その先に祭り会場であるアサギがあった。大きなテントが貼られ、そこに会場が作られていた。

ご祝儀を3千円程度寄付した。芸能にお金を渡したのは初めてだ。3千円を渡すことでこれが祭りの運営資金になる仕組みだそうだ。全く僕はこの仕組みを知らなくて手ぶらで財布には1万円札のみで行ってしまって、恥ずかしくなった。コンビニで水を一本買って、1万円札を崩して、3千円を作ってそれをご祝儀として手渡した。封筒とペンは受付の人が手渡してくださった。その封筒にはご祝儀の文字、住所、自分の名前を書いて手渡した。ご祝儀を手渡すと祭りのプログラムの日程表とお菓子と飲み物とお礼状をいただくことができた。

豊年祭ではさまざまな演目が繰り広げられた。演目の最初に必ず、担い手の紹介をする。その時、親子の場合は誰々、誰々の長男、誰々の次男という風に紹介していく。子どもの名前を言わずに親の子であることを強調する。これは親を敬うという気持ちが強い地域性を表しているのかもしれないと思った。あるいは「〇〇のお嫁さん」「千葉県から引っ越してきた〇〇さん」という風に紹介することもあった。

また会場にいると、おばあさんがお菓子を回し始めたり、カメラで撮影していると声をかけてくれたりと、何かとフレンドリーで親しみやすい方が多いように感じられた。各演目、何人かおひねりが飛ぶ。

途中、会場を抜けて、提灯をまた辿っていくと、少し小高いところに鳥居と社があった。その社の中には祭壇が設けられており、台湾石門地区で拝見した祭壇に似ていると直感した。また、大きな軍配団扇もその脇に立てかけられており、その模様は太陽と月の模様が描かれていた。ここにも太陽と月の信仰が宿っていたかと興奮した。太陽と月のモチーフは日本全国に存在する芸能の根底を流れる光と闇の思想であろう。帰りは暗闇の中を石段を降り、満月の月を眺めながら祭り会場のアサギへと戻った。

それから演目の最後に操り(あやつり)獅子を見た。かなりシンプルな演目で、左の雌と右の雄がマリに向かい合ってじゃれあっていて、それが途中からヒートアップするという流れだった。雄と雌で少し動きが違うことも興味深かった。シンプルすぎるくらいにシンプルでもっと長めでも楽しめるのにとは思ったが、やはりその形態はとても特異であり興味深かった。終わった後、獅子に触りたい人は触って良いよという時間が設けられ、子どもを中心として賑わった。獅子は竹を土台として作っているらしい。顔は硬い素材の紙だという。やはりかなり生き物感が強い。

沖縄では2人立ちの獅子舞が一般的な中、唯一3例あるのが、操り獅子である。それは名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味に伝来している。獅子の頭部と臀部に一本の糸を結びつけ、舞台天井の竹や棒に渡して、舞台裏から操る仕組みとなっている。

この芸能の始まりは、首里への奉公人、あるいは江戸上りや薩摩上りなどの随行人、中国へと渡った役人がそれぞれ持ち帰って、琉球独自のスタイルにアレンジしたものと考えられる。琉球の獅子はもともと中国寄りであるが、操り人形は江戸や大阪にもあったわけで、これを取り入れた可能性はある。ただわかっているのは、本部町伊豆味の操り獅子は大正期に今帰仁村謝名から伝わったということのみである。

首里那覇からの寄留人(脇地頭)の影響か、または地元間切役人の奉公先が首里の殿内や御殿であることから、これらの人々が芸能の伝播者になった可能性は高いが、真相は定かではない。豊年祭の際は、謝名のウプシマの神アサギのミャー(庭)に豊年祭用の舞台を設置して、その舞台にさらにアヤーチ(操り獅子)が踊る台が置かれる。

道ジュネーは17時から行っていた。いままでは途中で踊ったりしていたが、今回は歩いただけだった。アサギから大通りまで行って帰ってくるコースだった。豊年祭のステージも本当は30演目以上時間あったが、19演目に短縮された。操り獅子はマリを奪い取るではなく遊んでいる。右側がオスで左側がメス、右の方が激しい。お宮に普段は保管されている。戦争中に作られた異物の様な鳥居のある場所も残されている。

沖縄の獅子舞取材  3日目 首里真和志町の獅子舞

3日目はシンプルに1つの町に特化して、じっくりと取材を進めていこうということで、真和志町の演舞に最初から最後までついて歩かせていただき、飲み会にも誘っていただいた。本当に貴重なエピソードまで伺うことができ大収穫の1日だった。

首里真和志町の獅子舞

101日は夕方16時半から夜の20時過ぎまで、ついて歩かせていただき、非常に貴重な取材機会に恵まれた。この地域の十五夜獅子舞は長い間途絶えていた。少なくとも25前には実施していなかったという。もともと真和志町の獅子は雌で、雄は隣の池端町であった。この辺は首里城のお膝元で王朝から直接獅子頭を送られたようで、文献にはこの事実だけ書かれている。しかし今池端町は獅子舞をしておらず、獅子頭保有してもいない。真和志町のみに獅子舞が残ったようだ。首里城が近い分、王宮から民間へと獅子舞の伝播が早かったので、沖縄県内でも最初期に近い頃に伝播したと思われる。

それがなぜ今に復活したのか。長い間復活の議論があったというが、実現までは長い道のりとなってしまった。交流獅子は簡易的に発泡スチロールで作られている。これから3年ほどかけてじっくりと大人用の木彫りの獅子が作られるという。その獅子頭制作は僕も以前工房に伺ったことがある仲宗根さんが担当するらしい。また、舞い方についても試行錯誤しながら作っていく段階である。途絶える前、過去にこの町で獅子舞をしていた人はもう少なくなって来ている。それでも獅子に対する想いが人々を動かせているのだ。

 

首里真和志町の獅子舞のルートは以下のようであった。3部構成であった。

16:30首里城 園比屋武御嶽石門前演舞

17:00〜道ジュネー(町回り)

19:00〜真和志クラブにて演舞

その後飲み会

 

まずは首里城 園比屋武御嶽石門前演舞から始まった。守礼門近くで、比較的首里城の入り口に近いところでの演舞である。まずは石門に対して拝み、そして棒術を披露してから獅子舞の演舞が行われた。多くの地元の人や観光客が円になって、獅子舞を見つめていた。演舞後は獅子に頭を噛んでもらう時間があったが、獅子があまりに大きすぎるのか、激しすぎるのか、観客が緊張しているのか、自ら進んで頭を噛んで欲しいという人が見つからず、まずは子どもの頭を噛んでいた。時にはギャーと泣き叫ぶ子どももいて、怖い子どもには怖いよなということを改めて感じた。20分ほどの短い時間ではあったが、首里城という世界遺産が近くにあることは、獅子舞を多くの人に見てもらうのに非常に良い場所だとも感じた。

道ジュネーでは、沖縄特有の細い路地を大きな獅子舞がぐんぐん進んでいき、向こうから来る車やら人を通せんぼしている姿が印象的だった。個人宅の庭先までぐんぐん進んでいく獅子舞は無礼講と言わんばかりに堂々としており、「子どもたちは獅子が侵入してる!シーサーが動いている!」などとワイワイ騒いでいた。首里城といえば観光地なので、観光客もびっくりしたように獅子舞を見つめていた姿は印象的で、最後の真和志クラブまで追いかけて来て話を聞きにくる外国の方もいたほどだ。頭を噛まれた観光客はとびっきりの笑顔を見せていた。

家周りの時に玄関先で封筒に包まれたご祝儀が獅子の口に入れられて、それによって舞ってくれるという場合と、通りすがりの人、例えば車から降りて封筒を渡す人なども見られて気軽にご祝儀を渡している感じがとても良かった。弓道部の身長180cmくらいありそうな担い手が獅子に入ると非常に迫力あり、パクパクという動作も激しくて印象的だった。また、次の獅子頭制作に向けて寄付も同時に集めており、千円札を集めていてそれを僕も寄付させていただいた。この寄付は11万円出してくれる人もいたようだが、基本的に千円札で集めていて、合計9万円も集まったようで非常に多くの人がこの寄付をしたようだ。

最後の演舞は、真和志クラブで行われた。公民館のような場所であり、獅子頭などの獅子舞道具もここに保管されている。18時半ごろに到着して最終演舞に向けて、準備が進められた。プレモルをもらって、すでに飲み会状態のような感じになってきた。演舞後に食べる食事もずらりとすでに並べられている。庭にビニールシートを敷いていたが、これは客席ではなくて、雨にぬれても獅子が演舞の際に滑らないような工夫だろう。それでライトがピカッと当てられて獅子が演舞を始めたのが19時ごろだ。まずは年長者がスタンダードなものを演舞してから、若手がマリを加える演目を披露した。2演目で終了となった。それぞれ非常に迫力がある素晴らしい舞いだった。

最後にアメリカから獅子頭が返還された話について触れておこう。高校生の弓道部の担い手が、図書館で昔の獅子頭の写真を見つけたことから始まったという。今の獅子頭とデザインが違っており、あれっとなったそうだ。それでアメリカ人が戦利品として持ち帰ったという写真も見つかり、これは今でも残っているかもしれないと思った。そこで現在獅子舞の保存会の副会長の山城さんがFacebookでその持ち主らしき人を調べて、昨年9月にメッセージを送った。それは獅子頭を戦利品として持ち帰ったアメリカ兵のお孫さんだったという。しかし、3ヶ月ほど返事が返ってこなかった。おそらく、最初は相手も半信半疑だった。その後、連絡は途切れた。その後突然、山城さんのお店のFacebookにある方から連絡があった。それがアメリカ兵の娘さんだった。メールで連絡をとりましょうとのことだった。最初は相手も半信半疑だったのだろう、質問をたくさん送って来たそうだ。それに丁寧にお返事をしているうちに信頼感が生まれ、獅子頭を沖縄に返すことが決まった。その返礼として、シーサーの置物や感謝状などを送った。今でも毎日のように連絡をとり続けているという。獅子頭公開は地域住民にとって本当に大きな奇跡的で大きな出来事になった。ダンボールがアメリカから送られて来てその開封の時には地域住民が駆けつけた。このエピソードから、獅子舞の役割を改めて実感することとなった。獅子舞は地域をひとつに結びつける存在なのである。

こちらの写真は右がアメリカからの獅子頭。左がその姿形がわからず作られた新しい獅子頭(地域の断髪屋作)どちらも立派な神獅子である。断髪屋(散髪屋)獅子頭を作る場合も多く、昔の人は器用だからプロでなくても獅子頭を作れたそうだ。獅子頭へのお供物はヤマグスク饅頭、うちゃぎというお餅、タンナファークルー、首里には酒蔵があってそのお酒の瑞泉と瑞穂である。また、地元のものでないものとして、金麦も供えられていた。

沖縄の獅子舞総論

2日は那覇市立博物館に立ち寄ってから、那覇空港から福岡空港への移動となった。次の滞在地・タイに向けての移動である。今回の9/2910/2の滞在を経て、沖縄の獅子舞への新しい印象を持つことができた。十五夜祭では、地域の各種芸能のど真ん中に獅子舞があり、チラシやポスターにはその写真が使われている。地域のまとまりの中心に獅子舞があり、神獅子と交流獅子があって、神様として崇拝されもすれば、賑わいの中心にも獅子がいるのがやはり特徴的だ。また、アメリカとの戦争の中で獅子頭や獅子舞の焼失や返還などの話題が絶えず、地域アイデンティティの断絶や復活を通した獅子舞の役割を再確認させられた。あるいは、沖縄が屈指の貿易港であり、朝鮮、中国、大和(日本の本州)、アメリカなどとの交流の中で、獅子舞文化の伝播が行われてきたという事実は、非常に多様な獅子舞文化を育むとともに、独自の文化圏の形成へと繋がった。そして屋根獅子(シーサー)や石獅子の普及もあり、やはり全般的に獅子に対する親しみを持った土地であることを再確認させられた。

 

参考文献
沖縄県教育庁文化課『沖縄県文化財調査報告書148集 操り獅子調査報告書』(沖縄県教育委員会, 2009年3月)p5-19.p117-p128

浦添市編集委員会浦添市史第三巻資料編2 民話・芸能・美術、工芸』(浦添市教育委員会, 1982年3月)p248-252, p264, p274-275