佐賀の地域性とは?地形や祭礼から土地を読み解く旅

今まで旅したことがなく新幹線で通過したことしかなかった佐賀を旅してみようと思った。福岡から佐賀への地続きを感じ、そこに佐賀という特質が見えれば良いと思った。訪れたことがない土地に訪問することは新鮮である。新しい土地を読み解く手法との出会いをどこか期待していたのかもしれない。

夏夜の博多を歩く

2024年7月18日(水)、福岡空港から地下鉄に乗って、間も無く到着した夜の街は夏夜の熱気に満ちていた。まずは空港からたどり着いたのは博多駅だ。博多駅を出るとウエーブを描く建物のフォルムがどこか金沢駅の鼓門のごとく象徴的な存在に感じられ、そこにきた人を記念撮影に誘っているような雰囲気を持っていた。実際にそこを訪れる人々は、友人に何らかのポーズをさせながらも、広角気味にそのフォルムを写真に収めていた。
博多は男性より女性の方が人口が8万人も少ないらしい。知り合いの博多在住者は女性の方が結婚に躍起になっていると言っていた。それだからだろうか。化粧品の消費量は多いし、秋田や京都に並ぶ三大美人として博多美人が挙がることが多い。塩顔な人を見かけると中国人や韓国人が母国語を話している場面に立ち会うことも多く、大陸が近いことを感じた。
最初の夜は博多ラーメンの中でも泡系元祖と言われる博多一幸舎のラーメンを食べてきた。これはうますぎると思った。泡系のこってり豚骨ベースのラーメンは、お腹への負担は意外となくあっさりとしているが、意外としっかりと食べた感覚になれるところが良い。白ご飯も追加で注文した。白米が進むラーメンだと思った。粒感がしっかりありながらも柔らかいお米が非常に泡系ラーメンとマッチしていた。

博多の夜の街を歩いていて、最も面白いと思ったのが、南池袋公園と同じ構造をした公園緑地が博多駅のすぐそばに存在することだ。これだけの大都市の中にあって存在感のある広々とした芝生が広がる緑地はゴテゴテ感がなく素晴らしいと思った。地下に駐輪場があって、その上に芝生をメインとした緑地が広がっている構造は、東京の南池袋公園そっくりだ。ちなみにこの公園は「明治公園」というらしい。いかにも帝国主義のような名前をだと感じざるを得ないが、名付けには何らかの理由があるのだろう。

今ここにある風景を感じること

さて、1日目を終えて考えたことは自分と旅との関わりについてだった。自分は移動することと、文章を書くことが物事の真実を考える気づきのための最も必要なことだと考えている。文化人類学的な長期的な滞在を行うフィールドワークはそこまで必要とは考えない。移動することによりその風景が瞬間的にそこに現れ消えていくこと、その刹那にこそ気づきがあるのであって、何度も見すぎるとその風景は意味がないような存在に思えてくる。そこに不安定な次元の揺らぎを感じて、それを見逃すわけにはいくまいと凝視するのである。
この感覚は寂しさと隣り合わせという裏の顔があって、発見の喜びはそこに定着する現地人への憧れと、その暮らしに溶け込むことは本質的にはできないという寂しさを含んでいる。だから、僕は帰れる巣を作る鳥の気持ちがよくわかるし、定着する住処が必要な欲張りな存在でもあるのだ。移動を本質としていると、集団行動は苦手だ。集団への貢献度合いは非常にお粗末になる。大きな権力(大企業や大学など)には馴染みきらない。集団の中心か周縁かと言われれば周縁にいる。だから、自由な旅人や鬼のような物の怪、あるいはマレビトなどと自分を重ね合わせることもある。

唐津から佐賀市へと移り変わる風景

翌日19日、電車に乗って博多から唐津に向かう途中で、電車は山に押しのけられるように海岸線ギリギリへとその道のりを徐々に変更していった。海は広いけれどもその先には常に島があって島の多い海はその先に広がる大海を想像させた。雨が降ったり止んだりと不安定な天気になって、おどおどしながら唐津駅に着いた。気候がもわっとして暖かく、熱気に包まれる感覚が、関東に比べて大きいように感じられた。
僕は横浜の黄金町バザールで出会った人と再会し、唐津を旅した。地形が山と海とグネグネ道の広がる唐津は祈りや祭礼の匂いを強く感じた。七ツ釜や名護屋城玄海原発のエネルギーパークなどを旅した。とりわけエネルギーパークはとても印象的だったので詳しく触れておこう。ここはある種の科学館であり博物館のような機能を持っていた。原子力発電所の安全性PRの側面が強かったものの、原子力についての理解が深められたほか、ふるさと館では佐賀県内の祭りの大規模展示があり、また公園の遊具はなかなか遊びがいがあるシーソーや滑り台があった。植物園もあるようだった。原発が親しみやすい場となっているのが面白かった。原子力発電施設は現地の人にとっては高給取りだったそうだが、現在では安全性などからなかなか風潮としてやりたがる人も少ない。その中で、原子力発電そのものがクリエイティビティに溢れており、改革が必要な過渡期なのかもしれないと思った。

そこから佐賀市へと移動した。佐賀市唐津市に比べると平坦な道が続いている印象が強かった。一方で佐賀市内は盆地地形にある地方都市という感じで、街路樹、チェーン店、道幅の広い車道や歩道が広がっていた。とても便利でなんでもある街並みだった。賄い食から発展したシシリアンライスや生卵を入れるあっさり系豚骨の佐賀ラーメンを食べ、地域の食と向き合うこともできた。

祭礼行事の備忘録①鳥栖山笠

20日佐賀市を起点に鳥栖市にも足を伸ばし、祭りに触れた。まずは鳥栖山笠を訪れた。この祭りの始まりは昭和3年のこと。当時祇園祭の振興策として西町(今の秋葉町)が商店会長の吉竹春次郎さんが中心となって、博多山笠を参考に山笠を出すことを思いつき、その原型が作られた。当時は2メートルほどの榊と据え山があるのみでもろもろの飾りが当日までに間に合わなかったようだ。当時は車がなく、力綱でその山笠を担いだ。戦後の山笠は毎年作り替え、天幕を張って各町が隠しながら制作をして山雅さの当日にお披露目するという形をとっていた時もあった。太平洋戦争での中断や大水害での中止などを乗り越え現在も継承されている。
山笠開始当時四基だった山車は現在六基となり、鳥栖の道を埋め尽くす様は非常に迫力がある。本通筋商店街周辺を練り歩く「総かぶり」や中央公園の旗周りを速く回る「祇園旗廻り」などがある。見どころは山車を大きく前後に揺らす「がぶり」であり、何百キロとある山車とその上に4〜5人が乗っている状態の山車を持ち上げて前後に揺らす様はとても迫力がある。また、今回は拝見できなかったが、山車を激しく回転させる「差し廻し」というものもあるようだ。

またこの鳥栖山笠の期間は猛暑であり、担い手たちに水を勢いよくかける「力水(ちからみず)」というのも興味深かった。お店や個人宅でタライや柄杓、ホース、洗面器、水鉄砲などを用意して山車を担ぐ担い手に応援の意味を込めて水をバシャー!とかけるのだ。たまに沿道の観客も思いっきりそれを浴びてしまうこともあり、とりわけ子どもが間違えてかけてしまうこともあった。僕もカメラが濡れたが、少しで済んだし微笑ましかった。とりわけホースでの力水の場合は水の噴射口の近くで水を潜るように通り抜けられれば、問題なく水を浴びずに通過できることに気がついた。歩道は車道近くではなく、そこから離れたところを歩くことが肝だと思った。

鳥栖山笠の山車である六基は「舞台」とも呼ばれるらしい。それぞれに意味が込められているという。本通町の「神楽獅子」は神社で奉納する獅子舞を表し、本町の「飛びたつ鷲」は子どもが力強く大きく羽ばたくことへの願いが込められている。中央区の「弁慶号」は開拓当時に北海道で走っていたSLであり、鉄道の町である鳥栖ということで作られた。京町は「京町恵比寿」であり、七福神のひとつである福の神を山車としている。秋葉町の「浮立面」は鬼を示し、己の中の鬼を見つめそして福に変化させ内に返すという。また魔除けとしても知られる。東町の「唐獅子」は住民の健康や平和の願いが込められている守り神だという。
鳥栖山笠を実際に拝見してみて、獅子の威力がものすごくつたわってきた。巨大なものへの憧憬や畏怖、そしてそこにかけられた想いは、町に一体感を生み、地域をあげての大盛り上がりの祭りを作り出す。街ごとの競い合いは祭りを盛り上げそして、自分たちの街への誇りを醸成しているように思われた。

祭礼行事の備忘録②蓮池八坂祇園祭の獅子舞

もともとこの土地の獅子舞は、越後国から肥前国蓮池藩の鍋島公のもとに伝えられたものを継承している。佐賀県の無形民俗文化財となっている三重の獅子舞とその起源を同じくしており、これも越後国が源流だ。おそらく蓮池八坂祇園祭の獅子舞も三重の獅子舞と同じような舞で、二段継ぎの舞いなどもあったかと思われるが、現在は簡略化されて舞うと言うより練り歩く印象が強い。形態を見るに、越後国とはいえどそのさらに源流を辿るとおそらく三重県伊勢大神楽や御頭神事に行き着くだろう。紙垂がもさもさでそれを取って神棚に飾る風習や、頭を大きくぐるぐると振って回る様子、そして迷路のような道の至る所に縄と紙垂が張り巡らされている風景、夜に提灯を灯しながら進んでいく様子、そして村境へのお祓い意識が強いことなどが三重県の御頭神事を取材した時にそっくりなのだ。祭りだけでなく、そこに広がる町の作りや風景そのものが三重県伊勢市あたりと重なって内心驚いた。ここまで祭礼は風景を左右するとともに、ある土地との共通点を表出させるのだ。

獅子舞自体は、春は五穀豊穣、秋は報恩感謝と年2回継承されてきた。現在は八坂神社の祇園祭で7月に開催されている。今年は八坂神社をスタートして、蓮池町の街中を練り歩き、下宮とされる魚町公民館の社で休憩してから、また八坂神社に戻るという経路を辿った。もともと行きで1日、帰りで1日という風に2日間で開催されていたようだが、今では19:20から22時までと1日完結の祭りとなっている。
この練り歩き行列には獅子舞、天狗(3本の刃がついた槍に面が取り付けられたもの)、神輿、提灯持ち、木箱持ちなどがいる。獅子舞も天狗も赤と青(緑)で一対となっており、福岡の祓い獅子の構成を思わせるもので、おそらく赤の雌と青の雄という構成だろう。木箱の中には白米や果物などのお供えが入っているようだ。

獅子舞は道中、頭を振りながら練り歩く。提灯が照らされた家の前でゴザが敷かれたところに寝て、棒を持った人物に頭を叩かれて起こされ、また頭を振る練り歩きを再開することの繰り返しである。昔はここで叩き起こされてから二段継ぎとも言われる担い手が肩車をしながら獅子を舞うような所作も行われしっかりとした舞いを継承していたようだが、現在ではそのようなことはしていないようだ。途中川にかかる橋など村境と思われる場所に行列とは別に単独で獅子のみおもむき、そこで頭を振ってからまた行列に合流するという姿が多々見られた。村境を祓うという意識の表れだろう。太鼓の台にはスピーカーが取り付けられ、笛の音が流れているが、これは笛ができる担い手がいなくなったために録音で代替されているようである。
獅子舞の所作は途絶え、そして笛の担い手もいなくなってしまった。昔は子どもも獅子舞をしていたようだが、それはできなくなってしまっており、蓮池公民館に子どもの獅子のみ胴幕と獅子頭とがセットで飾られているので、それを見てきた。簡略化された獅子舞でありながら、やはり地域の子どもたちをはじめ人だかりができる風景は変わらないようである。子どもが「獅子舞だ!」とその姿を発見して走っていく様子も見られた。地域が集う風景は変わらないことは、素晴らしいことだと感じた。

未知が既知になる

佐賀は僕にとって既知の土地になった。知らないことばかりなのだけど、少し見ただけでわかった気になっている。新鮮な感情は真空パックしておかないとね。心の声が文章を書かせている。大事な記憶は書き残しておかねばならない。
唐津の起伏と対照的に佐賀市には平坦な街並みが広がっていて、それぞれに多様な祭り文化が広がる。佐賀の自然と都市とを一気に見られた贅沢な弾丸旅だった。既知の風景が増えていくことに何の意味があるのだろうか。自らが暮らす土地との違いを発見したい。そう思うくらいに鈍感だから、経験しないとわからない。土地を移動することは気づくことであり、鈍感さの証明でもあった。

参考文献
永竹威『ふるさとの民俗 佐賀の芸能・祭り 郷土シリーズ第8集』佐賀県文化館 昭和42年2月
篠原真『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 鳥栖』(制作年不明)
株式会社中広『月刊TOSS 2022年7月号』