獅子舞の爆発的ヒットの背景とは?富山県・新湊の春祭りを訪れ、歴史的展開から考える

富山県から獅子舞と地域の未来を考えたい。2022年5月14日、富山県射水市の新湊を訪れた。新湊の春季祭礼を見に行ったのと、高岡市を拠点に獅子舞文化を盛り上げるwebサイト「獅子魂」の発起人の方にお話を伺った。富山県は獅子舞が盛んなので、包括的に地域を読み解く指標にもなりうる稀な土地であると感じる。つまり、獅子舞を盛り上げることが地域を盛り上げることでもあると解釈できる土地だ。そして、獅子舞のこれからを議論することが地域の未来にとって非常に重要な意味を持つ土地でもある。それでは富山を訪れて考えたことを振り返っていきたい。

富山県はなぜ日本一の獅子舞大国?

富山といえば、獅子舞伝承数が日本一という話もある。これは平成6年の富山県教育委員会の調査で1170という伝承数が明らかになって以降に言われ始めたことだ。「獅子魂」の発起人である大島さんのお話だと、「春や秋のお祭りで隣町が楽しそう!という気持ちで、素朴で素直な気持ちから広まっていったのではないか」とのこと。確かに娯楽がない時代に、お酒飲んで、美味しいもの食べて、馬鹿騒ぎするという楽しさが元で爆発的に広がったのかもしれない。これは良いものをどんどん広めていこうという県民性によるものだと感じる。富山県内で最も獅子舞の伝承数が多いのは高岡。一方、氷見は盛んだが年々人口減少の影響で数が減っているのが顕著のようだ。また、富山市には空襲が原因で獅子舞が少ないので、なかなか獅子舞を富山県として推進していくという動きがあまりない。そのため、逆に自治体単位や有志が獅子舞を盛り上げていくという雰囲気がある。

新湊の獅子舞の歴史

新湊の獅子舞は技術、熱量ともに日本全国でも有数の土地と考えてよいだろう。港町ならではの活気と荒々しさとともに、各々の町内がプライドを持って「富山県で1番」だと思ってやっているので、なかなか良い意味でまとまらない風土がある。一方で各町内の演目をよく見てみると、似通っているところも多い。基本構成として獅子頭は黒が圧倒的に多く、獅子に対峙する天狗、キリコなどはどこも共通している。これは富山県民の良いものを徹底的に広め取り入れるという性質から来るものだろう。

この地域の獅子舞の始まりはどこからだろうか?新湊市教育委員会『新湊の獅子舞』(平成7年3月)によれば、昔、放生津で大火があったときに、東町の光明寺と荒屋の光山寺との間に、新規町という新しい町を作り、火事が起きないようにという願いを込めて、お宮を建ててその慶讃行事に新湊で初めて獅子を出すことになったという。その時、獅子舞を演舞する中心人物になったのが、魚商いの安さんという方。商売の暇を見つけては能登や加賀に獅子舞研究に出かけたようだ。安さんは天狗役となり名人技を習得したため、加賀藩の剣術者が手合わせを願い出るほどに、大きな話題をよんだという。

また、富山県教育委員会富山県の獅子舞-富山県内獅子舞緊急調査報告書-』(昭和54年3月)によれば、放生津の獅子舞の元祖はやはり新規町のあたりのようだ。新規町は現在の新湊市八幡町2丁目にあたり、そこにある秋葉神社の縁起では、西国で行われていた獅子舞が船乗りによって伝えられ、放生津八幡宮にて奉納されたという内容の記録が残っている。この獅子は現在神輿の露払い役として10月1日に登場するものだ。獅子方の道具箱には「文政十一歳子八月改」(1828)の紀年銘があり、これより以前に獅子舞が伝来していることが伺える。以上のように始まりには諸説あるものの、現在、新湊市には約80の獅子舞が伝来している。

総じて、全国的に考えれば、新湊の獅子舞の歴史は新しいと言えるかもしれない。考え方を変えれば、立山修験が始まった一千年以上前にも獅子舞はあったかもしれないが、それが変化して、原形をとどめておらず、獅子舞の歴史はどんどん塗り替えられているという風に捉えることもできる。そういう意味でとにかく良いものを取り入れる県民性が伺える。また、この特徴をよく表している事例としてたいまつを持つ獅子舞の流行ぶりにも注目すべきである。なぜか新湊の獅子舞はタイマツをもち、火を使ったスリリングな技が流行しつつある。おそらく修験か源平合戦倶利伽羅峠の戦いの影響だろうが、始まりは六渡寺という地域らしい。そこから一気に広まり、今では新湊の全域でタイマツを使った演舞が見られる。

獅子魂から学ぶ、日常的なところに潜む獅子舞意識

獅子魂に学んだのは日常の中から何かを改革することの必要性である。もはや祭りは担い手たちだけのものではない。祭りマニアだけが盛り上がるものでもなく、地域としてそれを受け継がねばならない。そこには土地の資源があり、それを元に生み出した観光業やグルメ、地場産業などと獅子舞が常に結びつくような存在でなければいけないのだと感じる。それは獅子舞が地域単位で受け継がれる存在であり、地域をよりよくしていくものであり、その土地に潜む厄を払い幸せをもたらす存在であるからである。そのような本質的な意義を語ることで、獅子舞はやっと地域のものになる。

興味深かったのは、獅子舞の担い手を「獅子メン」「獅子女」などと呼んでいるというお話。獅子の担い手たちは祭りの衣装を纏うとなぜか粋な存在になる。細い人も太った人も、なぜか誇らしく感じられる。そういう日常には見られないギャップのようなものが立ち現れる。そこに名付けをすることで、獅子というものが地域の人々の意識の中に醸成されるのだ。また、「獅子めし」もそうである。獅子舞の時に食べられる食事は全部、獅子めし。なるほど、獅子めしと呼び始めれば、獅子舞がより身近になってくる。呼び方を少し工夫するだけでも、獅子舞がより身近に感じられ、その必要性が生まれてくる。言葉の持つ力って本当にすごい。

この獅子舞意識を日常に潜ませるという行為は、富山県内では様々なところに見られる。高岡-新湊を結ぶ路面電車万葉線は、2020年から獅子舞のデザインの列車を一両走らせており、それを「獅子舞トラム」と名付けている。また、氷見市のZONAというカフェではアイスに獅子の顔を型どったモナカが付いてくる。そして氷見市の小島ダンボールさんはダンボールで手作りできる獅子頭を販売している。このように、祭りだけでなく、富山県民が日常的に獅子舞に愛着を持てるような瞬間が日常に溢れているのである。

歴史的展開に、富山の獅子舞を位置付ける

考えてもみれば、獅子舞の文化は歴史的にどのように醸成されてきたのだろうか?もともと飛鳥時代奈良時代平安時代までは、確実に獅子舞は宗教にくっついていく形で広まった。鎮護国家思想のもとで全国にお寺ができ仏教が普及して、その仏教行事の中に行道の獅子舞というものが組み込まれていたはずだ。鎌倉・室町時代以降はものづくりの観点から獅子舞の普及が始まった。綿産業の勃興により獅子舞の胴幕が普及したし、彫り師たちが仏像を掘る側で獅子頭も彫りだした。

獅子魂のようにいわゆる広告業的な視点から獅子舞が爆発的に普及したのは江戸時代以降だろう。伊勢神宮御師たちが伊勢大神楽をしながらお伊勢参りを全国的に勧めていった時に用いたのが「伊勢暦」であり、毎日の時間感覚を把握するという極めて日常的な行為を庶民的に普及させることに成功した。あれは伊勢のお札とともにかなり珍重されたものだし、伊勢講を作って田畑を耕して経済的な潤いを作りお伊勢参りをさせるという極めて日常生活的なサイクルをも作り出していた。これは伊勢大神楽という非日常的な祭り要素が日常的なその他の行為に紐づいていたことを示しており、したたかな御師たちの広告代理業だか旅行代理店だかよくわからない特殊な活動が人々の意識を根底から変えていった一つの大きな事例だろう。

ただし、現在の富山県の動きというのはそこまで中央集権的祭祀に基づくものではなくて、お好きにどうぞ精神から各地域の祈りみたいなものが珍重され、ボランティアから始まる地域活動ともいうべきか。ある意味ゆるい意識の醸成の仕方だと感じる。獅子魂の活動というのも仕事で利益を追求するものではなく、有志の立場で地域に関わるというスタンスを保っている。これこそが「伝統文化の継承には不可欠なこと」であり、獅子舞の歴史が長いように、長いスパンでできることを少しずつやっていくことが大事なのだと、あくまでも控えめな姿勢が少し見え隠れしているのが面白い。

これはトップダウン的に思想が広まったのではなくて、隣町がやっているから楽しそうだし、自分たちもやってみようかという極めて内発的な動機と横の繋がりによって広がっている。町同士のコミュニケーションの活発さこそが、富山県を獅子舞王国にした一方で、超伝統的な獅子舞ではなく比較的新しく上書きされやすい獅子舞であることをも示唆している。だから、超個性的な獅子舞とか超古いみたいな獅子舞が少ない。これはおそらく、富山県という比較的湾状で平野的な土地が多い場所であるからこその特徴であり、氷見の獅子舞が五箇山まで伝わっちゃうというスピード感とか移動距離とか、無線LAN飛びまくっているみたいな移動の活発さを感じざるを得ないわけである。