【2021年9月】石川県加賀市 獅子舞取材 4日目 大聖寺耳聞山町・大聖寺今出町

2021年9月22日

10:00~ 大聖寺耳聞山町

区長・上田正義さんと、山田秀和さんにお話を伺った。もともとシンユウ会というものがあり、それが青年団の前身だった。青年団の復活が、25年ほど前で、そこから獅子舞を5年行い1回途絶えて、それから10年前に青壮年団が立ち上がって夏祭りをやろうということで獅子舞が再び復活した(過去の獅子舞の動画を撮ってあったので、それを参考に復活)。

菅生石部神社と春日神社で氏子が半分半分だったので、青年団の時はお正月の獅子舞をやろうということで、町内の内田さんが10人ほどの青年団メンバーを募り、舞い方を教えた。そして、予約が取れたところだけ、町内の家々を回った。朝回りだすと軒数が多い(150軒以上の時もあった)ので夕方までかかった。ちなみに、旧大聖寺川が菅生石部神社と春日神社の氏子を分ける境界線だった。耳聞山はもともと武家屋敷が多かったし、竹やぶの小高い丘もあったので、なぜ町内で氏子が分かれていたのかはよくわからない。耳聞山仲町に見聞堂という場所があり、それが耳聞山の名前の由来である。博士やら土地持ちの人が多かったのが町の特徴だ。

獅子舞の演目は過去かなりの数があったが、現在は1つしかやっておらず、太鼓と獅子のみの寝獅子である。「デコデコデン」というリズムから始まる。昔はそれから三角形を描くように舞っていたが、道路にはみ出す時間が長くなり、車を止めないといけなくなってしまうし、玄関前のスペースがない場合もあるので、結局前後に動く単調な動作に変わっていった。舞いの長短はご祝儀の額によって変えることはなく、むしろ疲れてくると舞いの長さが短くなったり、回る軒数が多いので太鼓を叩く手が疲れて動かなくなったりすることもあった。

獅子頭の製造年月日や場所などはよくわからない。修理を繰り返してきており、間違いなく50年以上、もしかしたら100年以上この獅子頭を使っているかもしれない。もしかしたら、戦前にも実施していた可能性がある。昔耳が取れたので付け替えたし、鈴も鳴らなくなってきたので、3回も追加で取り付けた。仮装山車をやっていた記録が昔のアルバムから出てきたこともあった。太鼓もかなり古いものを使っているが、いつに作られたものかがわからない。獅子頭は1つのみ保管されており、蚊帳は昔の紫色のものが1つと、新しくて赤いシンプルなものが1つ残されている。

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13:00~ 大聖寺今出町

区長の中野武男さんにお話を伺った。獅子頭は集会所や公民館がないため、清掃用具を置くような倉庫に保管されており、虫がわいてしまったようだが、それを綺麗にして用意してくださっていた。今は獅子舞を実施しておらず、平成2年くらいには途絶えていたと思われる。獅子頭の製作はおそらく白山市の鶴来に頼んだ。一番新しい獅子頭が作られたのは昭和48年で、それ以前にも同じような顔立ちの獅子頭があった。なぜか今の獅子頭は獅子から見て左側の歯が抜けてしまっていたので、舞い方的に左側に負担がかかっていたのかもしれない。

中野さんが初めて獅子舞に参加したのは昭和27年の小学校一年生の時だった。その頃から少なくとも獅子舞をやっていたが、それより前になるとどこまで遡れるかよくわからず、どこの町に習ったかも定かではない。昔から獅子舞は寝獅子で、寝るところから始まり、太鼓が「デコデンデコデンデコデン」となって起き上がって、あくびをして眠たいような表情をしてから、睨みを効かせるように斜めに持って舞った。子供獅子で小学校1年生から6年生がメインで舞いを行なった。蚊帳の中は小学校一年生で、獅子頭を持つのは小学校5~6年生、太鼓は小学校6年生か中学生が役割を担った。子供が25~6人いたので、一軒舞う毎に交代して回っていたし、蚊帳の中には少なくとも5人は一度に入ることができた。みんな入りたがるのだけど、5軒に1回くらいしか入れなかった。

ご祝儀は10円で饅頭が3個変買えるくらいの時代に100円くらいもらっていたような記憶がある。町内以外にも、肉屋、魚屋、八百屋、大同工業の社長の家など日頃から買い物しているところやお世話になっているところにも舞っていた。子供獅子だがいつもご祝儀をもらうときは大人が付いて歩いて「今出町です」と声をかけて歩いた。町内30軒の誰かがお世話になっていたら、それだけで舞いに行ったので、かなり広範囲のエリアを舞いに行った。他の町も舞いにくるので、商売をやっている店からすればご祝儀だけでかなりの金額が無くなってしまいそうだが、実際はそうでもなかった。なぜなら、獅子舞を舞いに行った町の人はご祝儀を出してくれる店をきちんと覚えていて、日常的に買い物などでそのお店を利用するようになるからだ。そうやって、獅子舞のご祝儀を始まりとしてお店に対する付き合いを始める人も増えて、お金が回っていった。つまり、商業地である大聖寺というエリアにおいて、獅子舞のご祝儀は経済を回して活性化させインフレを起こす仕組みとして機能してきたことがわかってきた。これこそ大聖寺加賀市内屈指の数の獅子舞が行われるエリアである由縁だろう。そう考えると大規模なスーパーマーケットが参入して個人商店が潰れたことが獅子舞の衰退にも大きく関わっているとも考えられる。

また、個人経営の各お店を回っていると、例えばお医者さんのところで違う町同士の獅子舞が鉢合わせることがあった。東北や東海地方の郷土芸能の話を聞いていると、鉢合わせた時に獅子同士をぶつけるということをよく聞くのだが、ここではそのような行為はなく、比較的平和に順番待ちをして譲り合いながら実施されているようだ。こういうことを考えると、大聖寺というエリアは行政区分に対する意識、または境界線の感覚が比較的薄いということなのかもしれない。

子供獅子は4月16日ごろの桜まつりの時に、学校の一限が終わってから早退して、10時ごろに出発した。お昼は昔経営されていたうどん屋に行った。そのうどん屋に行くのがとても楽しみだった。町内・町外からお金をもらって夕方ごろに町内に帰ってきて、ご祝儀の額を確認した後に、子供達はお小遣いをもらえた。そのお小遣いを持って、18時ごろに神明宮の近くの屋台に行って仮面を買ったり色々な買い物をしたりして帰ってきた覚えがある。集会所も公民館もないので、獅子舞の練習は3月20日くらいから近所の広場で夜19:00~20:30か21:00あたりの時間で実施していた。

もともと今出町は芸妓さんの町で、昭和50年前後まで華やかだった。神社は加賀神明宮で、廃仏毀釈でお寺がなくなってお宮さんになった。今出町の獅子舞も加賀神明宮と関わりが深い。また、昔は越前町にも弓町にも仲町にも銭湯があった。そこがコミュニケーションの場になっていた。しかし、現在は銭湯がなくなってしまったので、大聖寺の人は山中・山代・片山津などに行く人も多い。中野さんも温泉を巡る回数券を持っているようだが、歩いて行けるところにお風呂があれば…と感じているようだ。中野さんは「子供の頃は面白かったわい」と懐かしくその時代を振り返る姿はとても印象的だった。また、漆器関係の営業で東京都心から千葉県の茂原の方まで行ったそうで、僕が千葉から獅子舞の取材で加賀に通っていることをお話しすると、「おたくがこちらに来られる気持ちもわかる」とおっしゃってくださった。玄関先での立ち話だったが、たっぷりと獅子舞から地域のことまでお話を聞かせていただき、多くの気づきに繋がる取材となった。

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