【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 菅谷町・宮地町(追加)

2021年11月10日

13:00~ 菅谷町

菅谷町には獅子頭がないと思ってた。町民も獅子頭のありかを知らなかった。しかし、今回、昭和63年の資料で獅子舞をしていたという事実が判明して、では獅子頭はどこへ?ということで、八幡神社氏子総代の石川さんに調べていただいた。神社の倉庫か、地区会館の物置か。それでたどり着いたのが、神社の倉庫だった。そこには、2体の子供獅子があった。今回、撮影できて本当に良かった。製作者と制作年は書かれておらず箱も残っていないので詳細がわからなかったが、片方の獅子頭の顎が割れているのをみると、おそらく獅子頭が古くなったので、新調したということだろう。古い獅子頭は紐で耳が取り付けられ、鈴もついていた。一方新しい獅子頭は耳をはめ込む形のもので、逆さにすると取れてしまうような作りをしており、左右に向けてピンと張っているのが印象的だった。サイズが小さいので、子供獅子ということはすぐにわかった。さて、いつに獅子舞をしていたのだろう。

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石川さんはこの方なら獅子舞のことを少しはご存知かもしれないということで、蕎麦屋の山法師に以前お勤めで現在西谷地区・公民館長の竹中浩三さんをご紹介いただいた。その後、地区会館の事務の方を通じてお電話していただき、体調が良くない時もある中で、すぐに車で来てくださってお話をしていただいた。そして、菅谷町の獅子舞のかなり詳しいお話を伺うことができた。

獅子舞を始めたのが何年かはわからない。菅谷町出身で山中温泉の町長を務めたことがある田中實さんが、中島町の獅子舞が素晴らしいということを聞いて、獅子舞を何回か習いに行った。この獅子舞の創始には4~5人が関わっていて、太鼓、獅子、笛、棒振り..などの役割を決めて分担して習った。それを持ち帰って、菅谷小学校の5~6年生に体育館で教えた。菅谷小学校は今はなく跡地が町民会館になっているが、昔はここに小学校があって体育館もあった。ここで獅子舞の練習をしていたが、何回か、中島町の人にもきて教えてもらったこともある。これは7~8年は少なくとも獅子舞を続けていたことは覚えている。田中實さんはもう、2~3年前に亡くなってしまったので、獅子舞の開始についての年数は明らかでない。ただし、田中實さんが町長を務めたのは1999年から2005年ということが後ほどの調べで分かったので、この期間のどこかで習ったというよりかは、その前に昭和63年時点で獅子舞をしていたことが明らかなので町長になる前に獅子舞を習いに行ったということだろう。

現在、獅子頭は小さいものが2つしか残っていないが、昔は大きな獅子頭を子供が使っていたこともあった。中島町の獅子といえば、棒振りがメインで獅子がサブのような棒振りが活躍する獅子舞である。ただ、棒振りだけでなくそのほかの役も小学校5,6年生が務めた。大人が練習に関わっていたとはいえ、獅子舞の運営主体は子供会であった。青年団はどちらかというと輪踊りなどを担当していた。舞い方は2~3つほどだった気がする。獅子が数人、棒振りが3人くらい、太鼓が2~3人、笛も3~4人という構成で、小学校5~6年で10人いたかどうかという感じだった。

祭りの日は9月の第2日曜日になっているが、昔は9月16日ごろに行なっていた。春祭りでは獅子舞をせず、昔から獅子舞は秋祭りと決まっていた。獅子舞の練習は1ヵ月前ごろから行っていた。獅子舞は神社に始まり町内を回ってから神社に終わる獅子舞で、祭りの開始時間は9~10時ごろに始まり夕方に終わるという流れだった。町内110~120軒の家があるが、全ての家を回るわけではなかった。ご祝儀は最初個人で出していたがそれでは個人差が出て良くないということで、町内6~7班のそれぞれの活動費の中から一定額のご祝儀を出すことを取り決めていた。そのため、班長さんの家の近くで獅子舞を舞うというのが恒例で、班ごとに舞うということになっていた。1班いくらという風に金額が定められていたが、その金額については覚えていない。獅子舞のあとに輪踊りをする習慣があり、その輪踊りだけは3~4年前までは続いていた。しかし、若い人がなかなかいなくなって、それも今では途絶えてしまっている。今では秋祭りというと、神事に加えて、振る舞い酒、焼き鳥などが登場する。また、神輿を台車で引くということはある。

獅子舞がなぜ途絶えたのか?といえば、指導者がいなくなってしまったのが大きい。子供が大きくなったら自分が教えてもらったことを下の世代に教えることもできただろう。しかし、そう上手く継承していくことはできなかった。伝統文化を継承していくことはとても難しいことであるということを実感する。いつに獅子舞が途絶えたのかはよくわからない。竹中さん自身は大聖寺を拠点に、加賀市全域の会員に対して、能楽を教えている。春とか秋の発表会や、菅生石部神社でそれを披露することもある。だからこそ、実感することもあるのだろう。

西谷地区では菅谷町以外に獅子舞をしていた地域がない。九谷ダムと我谷ダムができたので、かなりダムによって居住面積が縮小した。我谷ダムは着手年が1958年、竣工年が1965年であり、これができる前には西谷地区には8~9町の町があったが、それが今ではダムの底に沈んだところも多く現在3町しか残っていない。獅子舞をしていた町がダムによって沈んでしまったという可能性もあるが、そこに関して詳しいことはよくわからない。

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19:00~ 宮地町

 

宮崎伸子さんの紹介で、青年団の吉田元気さんと砂田瑠架さんにお話を伺い、獅子頭の再撮影をさせていただいた。同行は山口美幸さん。獅子頭は平成3年に町民の西村功紀さんと庄谷昭一さんによって寄贈されたものが非常に綺麗な状態で残されている。どこで作られたのかはよくわからない。獅子頭の作りはしっかりしているが、かなり軽いことが特徴だ。また、45年前には違う獅子頭を使用していたことがわかっている。獅子頭の初代のことや始まりについてはよくわからない。

毎年、8月16~17日で獅子舞をしている。朝8時半くらいに神社に始まり、町内を回って公民館で16時半くらいに終わると言う流れだ。町内には45軒の家がある。お昼は公民館に併設された青年団の団室で食べる。ご祝儀は様々だが、5000円以上を出す場合が多い。ご祝儀とともに、お酒をくれることもある。獅子舞が終わり次第、公民館の玄関付近で、ご祝儀を誰がいくら出したのかを紙に書いて貼る習慣がある。獅子舞が終わった後は、昔は輪踊りをしていたが、今では輪踊りの櫓を出すことはなくなり、ビンゴゲームなどのイベントなどを行う。コロナ禍でも獅子舞をしたが全軒回らず、8月16日に神社と役職のみ舞いに行った。春祭りでも同様に、コロナ禍で獅子舞を実施できた。春祭りでは通常、町内全軒ではなく町の役職についている人の家のみを舞い、日程は3月の3週目の日曜日である。秋に比べれば獅子舞の回る軒数は断然少ないため、こちらは通常通り実施できたようだ。

舞い方は棒3種類と薙刀3種類があり、通常、人がいる家はそれを交互に1種類ずつ、合計2種類を舞う。棒も薙刀もそれぞれタテ・ヨコ・アイボウの3つの名前がつけられた演目だった。留守の家でも舞うが、いつも2種類舞ううちの1種類のみを舞うなどして対応する。その場合、棒か薙刀かどちらを舞うかは、舞い手同士のじゃんけんで決める。昔は演目が8つがあり、棒にも薙刀にもそれぞれ「ナナメ」という演目があった。獅子舞は橋立地区から伝わったと言われているので、橋立の獅子舞とも演目や舞い方が似ている。橋立の方が現在演目数が多いが、それが洗練されて結果的に棒3種類と薙刀3種類が残ったという形だろう。棒や薙刀には金色のテープが貼られている。獅子2人、太鼓、笛、棒振りと言う構成である。

今回お会いした2人は現在22歳で、その年齢でも青年団長を務めると言うから驚きだ。非常に若い担い手がたくさん確保できているようである。青年団は高校1年生(15歳)から始まり、卒業は下の人が入ってきたら卒業できるという流れになる。上が30歳までやっていた人もいたが、本来であれば25歳くらいで卒業をする場合が多い。現在は8人の青年団がいてそのうち5人は高校生で、その他は22歳である。基本は部活優先で、19:30~21:00の練習なのであまり部活にはかからないような時間帯で祭りの一週間前ごろから公民館前で練習をしている。担い手の確保のため、高校生の家に青年団長1人で勧誘にいく習慣になっており、基本的に断られると言う場合は少ないが、過去に引っ越してきたばかりの人に断られると言うことはあった。獅子舞の指導に関しては基本的に青年団の中で行われるが、青年団を卒業した30代くらいの2~3人が舞い方の確認のため、練習を1ヶ月の間に4~5回くらい見に来てくれる。

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