【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺神明町・大菅波町(追加)・大聖寺観音町

10月28日 

10:00~ 大聖寺神明町

加賀神明宮の太田さんと地域住民の福村宏喜さん(70歳代)とその弟・外二さんにお話を伺った。町民会館に伺うと、獅子頭が2体、黒くて古い獅子頭と赤くて新しい獅子頭が保管されていた。黒い獅子頭には裏に「○波町 野村清太郎」の文字が書かれており、獅子頭のデザインから推測するに、富山の井波で製作された獅子頭だろう。赤い獅子頭は町内の予算で浅野太鼓に頼んで獅子頭の新調をした。浅野太鼓は次の桜まつりまで1年かけて獅子頭を作ってくれたが、おそらく浅野太鼓は他の所に発注して製作したと思われる。昔、公民館がない時は古い建物がその敷地にあり獅子頭もそこで保管されていた。

元々は子供会が獅子舞を運営していて、小学校1年生から中学校3年生までが所属した。一部幼稚園の時から例外的に獅子舞の蚊帳の中に入って舞ってくれた子供もいた。中学校3年生くらいの子供が年下の子供に教えるいう方法で練習を行っていたので、そこに大人の指導が関与していなかった。その過程で、自分たちの舞いやすい形で、少しずつ舞い方も変化していった。昔から公民館がない時代は、獅子舞の練習は加賀神明宮で行なっていた。夕方以降は暗くなるので、あまり遅くまではできないこともあり、夜19時くらいまで実施していた。部活をしている子も「獅子舞の練習をやるから」と駆けつけてくれたこともあった。獅子が5人、太鼓が2人という構成だった。平成13年ごろに子供会を解散した。所属するのが3家族だけになって、そのうち1家族が抜けるというタイミングで解散となった。その3年くらい前まで獅子舞を男女で合わせてやっていて、それでも子供の数が足りなくなって獅子舞をやることがなくなった。最後は男2人女4人でやっていた。女の子は太鼓をメインで行なっていた。

春は桜まつりのお祭りの前の日に1日だけ、町内のみ獅子舞をしていた。また、秋は夏休みの一番最後の日、9月1日の八朔祭りの前日にも獅子舞を行った。お祭り当日はお店が出て回りにくいので、前日に実施した。祭りの当日はまず神明宮から回り始め、町内も回ってからどこかの家の前で終わるという形である。町内、50軒程度の家があり、昔は子供がたくさんいた。お小遣いとお菓子がもらえて、女子はなかなか参加できなかったので、男子が羨ましかった。お小遣いといっても1000円程度だったが、屋台で買い物もできるので嬉しかった。ご祝儀は3000~5000円ほどだった。それで子供会の運営もこのご祝儀によって運営をしていた。また、大聖寺神明町は加賀神明宮があるので本陣がなく、他町の獅子舞が舞いに来るということがあまりない。ただ、神社への奉納ということで、加賀神明宮に舞いにくることはある。神明町にも本陣を作ろうという話もあったが結局実現はしていない。

獅子舞の舞い方は1種類しかなかった。誰かが習ったものを子供が伝えていったというのは面白いポイントだ。寝た状態から太鼓の音で起こされて、最後は獅子が暴れて上を向いた形で終わる。獅子舞の始まりはいつ誰が伝えたものかはよくわからない。

元々、大聖寺神明町は機織りの工場があって、外から仕事で通ってくるような人が多かった土地である。機織りの工場がなくなってから分譲地が増えて、新しく入ってきた人が多い土地だからこそ、昔のことを知る人はもうかなり少なくなっている。獅子頭を持っていたのは、もしかすると機場の人だったのかもしれない。桜まつりは昭和に入ってからなので、それ以前の獅子舞の祭りの形態についてはもっと詳しい調査が必要そうである。

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13:00~ 大菅波町

地域住民の中出邦夫さんに獅子頭の撮影とは別でお話を伺った。5.6年前くらいに担い手が少なくなってから、獅子舞ができなくなった。獅子舞のお祭りは8月16日だった。その前は8月20日、9月ということもあったが、徐々に時期が早くなっている。田んぼの収穫の時期が早くなってきているからだ。収穫の前に、祭りを行うのが恒例である。昔は学校を卒業したら、牛を飼い牛小屋を作り、農業をしている人もいたが、今では勤め人も多くて兼業農家がどんどん増えている。その流れの中で、休みが取れなくなって、祭りの開催にも影響が出ているというわけだ。8月16日はお盆ということで、休みが取りやすいということもあって、この日程で祭りを行ってきた。また、春祭りでも獅子舞をやるが、町役しか回らない。盆踊りは行わず、午前で終わった。一方で、秋祭りでは、町内の家々を回り盆踊りもやる。町内は80軒ほどあるが、昔は40軒しかなかった。昔と比べると田んぼが減った。工場がなくなって、団地もできた。青年団は最盛期で、20~25人ほどの人がいたこともある。年齢は中学3年から25歳くらいまでが普通だが、町内が小さくて人が足りなくて、28歳くらいの人もいた。まず小さい方の太鼓から習い始めた。3年目になると獅子を舞うことができる。

24~5日練習をして、祭りの本番に臨んだ。獅子舞の練習ではお酒を飲んでいたので、学校の先生から少し止められたこともあった。昔はスパルタで、練習を始める前に掃除をして、練習中も「(獅子頭を持つ人は蚊帳を使わないで練習したが本番同様に)頭が飛び出さないように」などと厳しい指導が入った。体の格好から教えていくようなイメージだった。獅子舞の練習は公民館で行なっていた。昔公民館は鍵がかかってなくて、のんびり昼寝をしにくるような場所だった。そこで、サラリーマンの人の話を聞いたり、映画を見た人の話を聞いたり、珍しい人が来ると話を聞いていたこともあった。公民館ができる前は、青年会館があったが、終戦後は小松に海軍の予科練があり、そこから色々もらって公民館を建て替えた。広間の畳をあげて、練習をしていた。公民館が焼けたこともあったが、獅子頭がその時に焼けた記憶はない。もしかするとその時はお宮さんに獅子頭が保管されていたのかもしれない。あと織物工場があった時は、その前にある広場で練習をしていたこともあった。

獅子舞の祭りの日の1日のスケジュールは、朝6時半から7時くらいから舞いを始める。もっと昔は家数が少なかったので、8時くらいから始めることもあった。ご祝儀の金額は、5000円くらいだ。その金額によって舞い方を変えることはない。終わるのは夕方ごろで、お宮さんで盆踊りの準備を行う。盆踊りでは、他町との交流も活発に行われた。他の村に踊りに行くこともあった。獅子舞では他町に舞に行くことはあまりなかったが、「まるじゅう」という料理屋は青年団の知り合いがいてその繋がりで舞いに行ったこともある。また、昔は片山津の湯の祭りに出たり、どこかの護国神社例大祭で市役所に頼まれて奉納獅子舞をした。

舞い方はゆったりとした「一番」、少し激しくなる「二番」というものがあり、これは続きで行なっていた。寝たところから始まる、ゆったりとした舞いである。太鼓2人と獅子3~4人がいて、笛や棒振りはいない。獅子舞のやり方は、明治の初め頃に大聖寺の岡町の方から習ってきた。大菅波町の獅子頭は金ピカなものがあるが、赤いものを塗り替えた。なぜ金色にしたのかはよくわからない。大聖寺の長崎さんという道具屋がいてどこからか完成した獅子頭仕入れてきたので、それを購入したこともあった。

 

17:00~ 大聖寺観音町

地域住民で昭和25年生まれの山尾さんに、獅子頭が保管されている観音堂でお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。獅子頭の箱には、「明治14年... 」と書かれていた。明治時代の獅子頭だとしたら、相当古い獅子頭である。昔の字体だったので、そのことからも歴史あることが伺える。ただし、獅子頭の製作者に関して、獅子頭の裏側に「井波 武部豊」と書かれている。武部豊さんについてインターネットで調べてみると、大正6年生まれと出てきたため、獅子頭の箱の年数と合わない。もしかすると、武部豊さんが獅子頭を新調したのではなく、明治時代の獅子頭を修復したという可能性も考えられる。耳が長く鼻が高い獅子頭だ。蚊帳には「観」「音」「町」などの文字が散りばめられている。獅子頭が保管されている箱に入っている新聞には「平成4年」と記載があったので、古い獅子頭でもかなり手入れがされてきたことが伺える。観音町の観音堂は那谷寺から毎月18日にお参りに来る。観音堂はお寺ではなく、処刑場があったことの名残で、供養の意味合いで建てられたお堂である。そのような信仰と獅子舞との繋がりはよくわからない。ご神体は石のようだが、観音堂にお参りに来るお坊さんだけが見たことがある。

今では獅子舞を実施していない。桜まつりの時に、獅子を舞った記憶がある。桜の木を建てて、屋台車を引いてその上で踊るというものもあった。小学校1年から獅子を持たせてもらっていたが重すぎて地面についてしまうこともあって、それで獅子頭に禿げた跡がついている。自分より10歳ほど年長の人に獅子舞を教えてもらった。60年以上前の話である。山尾さんの同級生は当時町内に住んでおらず、自分より5歳くらい下から1.2.3人と子供がいるようになった。自分が中学3年の時は小学校高学年が年長者だったので、その後は何年か獅子を舞えない時期があったと思われる。それで、自然消滅のような形で獅子を舞わなくなってしまった。子供が子供に獅子舞を教えるというやり方だったので、子供同士の伝承が難しくなっていった。自分と同年代の子供が多くいれば伝承もうまくいったのかもしれないが、そううまくはいかなかった。元々、20軒弱の家しかなかったので、子供と同時に住民も元々少ないという背景がある。

獅子舞の練習は観音堂の前で行った。雨の日は観音堂の中でも太鼓の練習や蚊帳の中に入って踊る動作の確認などをしていた。桜まつりの日の獅子舞のスケジュールは、最初の日は町内を回って寸志(ご祝儀)をもらい、次の日は他町の商売屋さんに行って獅子を舞った。子供は獅子舞をすると、お菓子やお小遣いがもらえた。

舞い方は寝た状態から始まり、左右に振れて、暴れて、太鼓の前でわーっと獅子を振り上げて終わる。ノミ取りをして口をパクパクさせるような舞いもあったが子供にとっては疲れて難しい舞い方でもあり、腰をあげる時よっこいしょと大きい身長の人が持ち上げて補助する場合もあった。お話を伺った限りでは、舞い方は大聖寺神明町とおそらく同じようなやり方である。舞い方に関する名称については特に意識したことがない。子供獅子でも小学生は蚊帳の中で足だけ動かす場合が多く、獅子を回すのは中学生以上が主だ。太鼓2人、獅子4人の構成である。ただ、それに加えて小学生よりも小さい子供が、蚊帳の中に入って来て一緒に舞うこともあった。

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ps. 2021年10月30日 諏訪雄士様より

獅子頭が保管されていた箱に書かれた文字は「明治十四年 辛巳 四~頭(四四頭=獅子頭)出来 観音町」と読解できるのではないかとのこと。確かにそうかもしれない。