【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺突撃取材(熊坂町・大聖寺一本橋町・大聖寺前鷹匠町など)

10月22日

10:30~大聖寺田原町 @直谷さん宅

直谷さんに獅子頭のありかを確認した。ほとんど使っていない子供獅子の獅子頭が小屋の中にあるかもしれない。区長さんに許可を取れば見せてもらえる。また、錦町の林さん(十一町出身)に獅子舞で使う笛を作るように頼んだことがあった。後日の再取材が決まった。

 

11:00~ 熊坂町 @大聖寺地区会館

伊林先生に、熊坂町の歴史についてお話を伺った。熊坂には江戸時代まで遡ると、元々7つの集落があった。それが北から順に、大同、花房(ケブソ)、吉岡、庄司谷、畑岡、北原、石坂の7つだ。町内会が分かれているのではなく、街道レベルに人の往来が激しくはない道沿いにポツリポツリと家の塊があって、それを1つ1つ名前をつけていったという具合である。町内会は同じなのに、バラバラという状況がとても面白い。しかもしれぞれの集落に神社が1軒ずつ存在する。これは、大聖寺下福田町の行政区の作り方と似ている。

また、大聖寺下屋敷町の取材で、獅子舞は7つに分かれていたのかは定かではないが、少なくとも昔、いくつかバラバラに獅子舞を持っていたことは明らかになっている。それで、今は熊坂町で1つの青年団を形成しているが、もしかすると、各集落ごとに分かれていた時の獅子舞の道具がどこかに残っているかもしれない。それはまだ見つけ出せていないが、その時の獅子舞はどうなったのか?熊坂町の謎の1つである。大聖寺下屋敷町は熊坂町畑岡から獅子舞が伝わったというのは下屋敷町の取材で明らかになっているので、少なくとも畑岡には獅子舞があったようだ。各集落ごとに神社が違えば、祭りの形態も違ったことが推測される。基本的には五穀豊穣の祭りなので、春と秋の例大祭が行われた。日付は皆バラバラで行われただろうが、熊坂町内の集落同士の交流というのはあまり行われていなかったかもしれないとのこと。

ps. 大聖寺の関町に関してもお話を伺ったが、なぜ今、大聖寺で最も古い獅子の形態であるお座敷獅子の形態をとどめているのか?ということについて、正解はわからなかった。北陸の関所といえば、親不知のところと大聖寺の関町がメインで、あとは口止め番所がいくつかあったという具合である。それほど、有数の関所であるから、獅子舞?という話かと思ったが、関所に旅人が滞在するとか文化的な交流があるとかそういう話は聞いたことがないようだ。それどころか関町のあたりは人家もまばらで、お隣の今出町は新しくできた町ということで「今出た町」という名前が付けられている。関所というのは、経済的に恵まれていないような職人さんとか、下層の技術者とか、妊婦さんとか、関町から越前町にかけて住んでいた。そのほかの家は、関所を守るための足軽が屋敷を構えて住んでいた。そのような場所に旅人が宿泊をするということはなく、大聖寺本町などに宿屋は構えられたのだ。

 

11:30~大聖寺八間道

西山先生のお家に突撃インタビュー。獅子舞はしていたし、獅子頭はあるとのこと。獅子舞がないと思っていたので、びっくりだ。獅子頭はどこかわからない。一軒ずつ聞くしかないだろうとのこと。ただし、奥野さんなら知っているかもしれないとのこと。それで奥野さんのお宅にお邪魔することに。お留守だったので、またの機会に伺うことにした。

 

12:00~永井町

元区長さんにお電話をさせていただいた。永井町にはなぜか神社が2つある。それが、白山神社と箱多満里神社の2つである。このうち、箱多満里神社の社務所に、獅子頭が保管されているという情報を得た。社務所から調べていく必要がありそうだ。

 

13:00~ 大聖寺鷹匠

宮崎さんのお宅に直撃インタビュー。獅子頭は谷さんの家にある。元々、一昨年の区長会の時にアイリスに預けてあるという話が出てきた。ただ、その後に谷さんの家が広くなったから、そちらに獅子頭が移動した。元々、中学生でも獅子舞をしていたので、子供獅子だったことはわかっている。後ほど、本格的に取材を行う。

 

14:00~ 大聖寺一本橋

細川晶子さんにお話を伺った。親子獅子を前から実施していた。これはかなり古い獅子で、大聖寺関栄よりも前からやっていた。大きい獅子頭があり獅子舞が途絶えてから、それを道具屋さんに預けていたがなぜかそれがなくなり、箱だけ残っていた。今あるのは小さい獅子頭だけだ。現在は小野坂不動産にそれが飾られている。その小さい獅子頭は、おそらく獅子舞には使っていない。獅子頭は基本的に自分たちの町内で作っていた。他に発注したというのは聞いたことがない。小野坂不動産にはその祭りの写真が残されている。また、一本橋町の山車は加賀神明宮に預け、それを買ったのかどうか..本町がそれを受け継いだ。獅子は昭和34年生まれの息子さんが大人になる前には、すでに実施していなかった。町内の軒数が減っていったのが獅子舞が途絶えた背景である。

獅子舞の舞い方は、早くもゆっくりでもない。1つしか演目はなかった。太鼓2人、獅子4人、笛1人で実施していた。棒振りはなかった。大聖寺錦町の林さんという方が笛を作っていた。これは、大聖寺田原町でも聞いた話だ。それに加えて、一本橋町では、笛の中にレントゲンをかけたことがある。どんな良い音色が出るかどうか、お医者さんが中を見たくなるくらいの笛だった。作ったご本人も獅子舞の当日に笛を吹きにきた。この林さんは獅子舞を一本橋町の住人に教えた人でもあった。昔、中華料理の白山の駐車場のところに住んでいた。もし、今生きておいでなら90歳くらいだっただろう。今では、細川さんが最年長で現在、85歳である。

ps. 大聖寺十一町は獅子舞がないかもしれない。85歳の一本橋町の方でも、隣町の獅子舞はみたこともないとのこと。

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15:00~ 大聖寺鷹匠

原楽器の桑原由至(よしゆき)さん(55歳)にお話を伺った。獅子舞の始まりはよくわからず、現在獅子舞を実施していない。昭和55年の後、10年続いたかどうかである。最後の10年の間では人手不足で子供とOBのまだらで獅子を断続的に実施していた。本来は子供獅子なので、大人の数が子供の数を上回らないように配慮をしていた。獅子舞を運営していたのは、子供会ではなく町内会だった。

昭和40年生まれの桑原さんが小学校1年生から参加して、上は高校生までだった。現役時代は、どこの町内でも子供だらけで子供獅子をしている町が多かった。1ヶ月くらい前に19時から小一時間毎日練習して、本番は4月の大聖寺桜まつりだった。獅子舞当日は、大谷派のお寺の教務所が本陣になり、そこで1回目獅子舞をして、その後おそらく加賀神明宮に行ってから前鷹匠町の町内を回り、最後に教務所に戻ってきて終わるという流れである。この教務所というのが、公民館の機能を持っていて、獅子舞の練習もこの敷地内で行われていた。獅子頭の保管も最初はこの場所だったが、途中から区長さんの持ち回りになった。

祭りの日は午後からのスタートとなった。子供たちは学校が早退になるので自分たちだけ優遇されたような楽しみがあって、獅子舞に参加したらお駄賃とお菓子ももらえた。おそらく土日の2日間獅子舞は行われた。

獅子舞の演目は1つしかない。獅子と太鼓の大バチ小バチだけのシンプルなもの。寝るところからスタートして、太鼓でドンと起こされて、乱れ太鼓のようになって、最後は暴れるという獅子である。最後はドンドンで閉めて終わるという流れだ。一軒あたり3000円くらいのご祝儀だった。ご祝儀の額によって、舞い方を変えるということはしなかった。また、他町から獅子舞が舞に来るということは特になかった。

獅子頭の制作は、白山市美川町に発注した。いつ誰がなどの詳細は不明だ。

鷹匠町の町内には、現在お若い方が多い。小学生くらいの子供含めて、子供獅子ができる年齢の人が多く引っ越しをされてきている。その背景には、大阪病院の近辺に新しいお家が立っていて、ちらほらと若い人が入ってきたということがある。それでも、現在、獅子舞は実施してない。獅子舞を経験した人は現在、45歳以上の人で3~4人くらいしか町内にはいない状況である。

 

ps. 大聖寺田原町との比較

大聖寺東町(田原町)は60軒以上あり、前鷹匠町以上は大きくて獅子舞をもっと長くまで実施していた。法被を着て、太鼓に大バチと小バチがあって、横笛(篠笛)もあって、獅子を先導する役がいた。獅子を先導する役の人は、サーカスのように棒を持って、獅子を操るような動作をした。これは、棒振りとは違う役割があった。また、子供が獅子舞をしたが、男の子だけでなく、女の子も獅子舞に参加していた。おそらく獅子頭まで女の子が回す時があった。これは人手不足ではなく、そういうのが当たり前に行われていた。これは他町にはない男女平等の獅子舞ともいうべき珍しい獅子舞である。東町にある桑原楽器には、桜まつりの日に大聖寺南町や大聖寺関町の獅子舞が遠征として舞いに来る。

 

18:00~ 直下町

田中自動車のスタッフの方に三谷地区の直下町の獅子舞のお話を伺った。昔は雌獅子があったが、雄獅子になった。雌獅子は、日谷町や曾宇町と同じような舞い方の赤い獅子頭ものもだった。しかし、それはパッカーンと割れてしまった。それをしばらく保管していた。今の雄獅子は橋立地区の田尻町から習った獅子頭で、「東西東西、目録1つ...」という口上も田尻町と同じである。雌獅子があったのは、今から25年以上前に聞いた話で、おそらく50年以上前の話であろう。実際はいつの話だか詳細はよくわからない。

 

20:00~ 大聖寺魚町

田中宏造さん(78歳)に電話でお話を伺った。太鼓をたたく、暴れ獅子だった。夫婦獅子で、棒槍がある獅子で最後に退治した。鶏のトサカのような被り物もあった。奥谷町から獅子舞が伝わり、獅子舞と同時に天狗も伝わってきた。自分たちは獅子舞を舞ったことがない。囃子方や踊りの方をしていた。今90歳くらいの方が生きておれば、獅子舞を経験したことがある人もいただろう。後日、詳しく再取材をさせていただくことになった。