【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺菅生(追加)

1月19日

13:00~ 石川県加賀市大聖寺菅生

 

「獅子舞伝播の中心的な町」

菅生の獅子舞は上手なことで知られていた。この地域を中心として、黒瀬町鷹匠町、越前町など周辺の地域に獅子舞が伝わっていった。昔、菅生石部神社があったこともあり、地域の歴史も非常に古い。加賀市の獅子舞を解き明かす上で、この場所を調査することは必要不可欠と感じた。

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由来

獅子舞は明治生まれの人が京都から習った。またはその方と交流のあった京都の人(ヤクザの人?)が伝えた。最初はお座敷獅子だった。その獅子舞は、菅生から黒瀬町鷹匠町、越前町に伝わった。菅生の獅子舞は上手いことで評判で、片山津の獅子舞大会で2位か3位になったことがあった。また、菅生町は雌獅子で角がなくて赤く、菅生は雄獅子で黒くて角がある。昔は春と秋とか、あるいは年単位で交代でこの2つの町内が互いに舞って歩いた。菅生町の獅子舞は1800年代の非常に古い獅子頭が残されているが、もしかするとその当時には菅生にも獅子頭があったかもしれない。菅生の獅子舞が一度途絶えてから復活したものの、4~5年くらいしてから再び途絶えてしまって今に至る。獅子舞はすでに若い人がいなくなって10年以上前に途絶えている。

 

舞い方

太鼓と獅子のみの寝獅子で棒振りや笛はない。マイとマクリという舞い方があった。マイは右に踏み出すことから始まり、8の字を描くように舞う。これはもしかしたら京都などに伝わる能の動きを取り入れた獅子かもしれない。マクリでは豆拾いをする。マクリでは最後にダーとダッシュしながら豆を拾うという動作もある。この時、太鼓は固定させておく。構成人数は太鼓2人、獅子頭1人、尻尾1人、その間に2~3人必要だったので、6~7人は必要な舞いである。太鼓にはデデスカデンスッデンデンという太鼓のリズムがある。

 

担い手

若い衆が一人では入れず、何人かで一緒に獅子舞の担い手になった。3年ほど後輩がいなかった。中学生から初めて、30歳までが目安だった。浄土真宗報恩講をしていたので、若い人はそっちに入ることもあった。

 

祭りの様子

菅生には昔、菅生石部神社のお宮さんがあったが、これが敷地町に移った。そのタイミングで京都の北野天満宮から分祠の形で新しく作られたのが菅生神社で、後にここが獅子舞の拠点になった。大聖寺菅生の獅子舞は商売しているところを中心に、初老、還暦などの節目の人のところに舞いに行った。春祭り(3月8日)と秋祭り(9月13日)で五穀豊穣の獅子舞をしていた。神社に始まり神社に終わる獅子舞で、9時ごろから始まっていた。お昼はどこかに食べにいったという覚えはなく、おにぎりを持って歩いたという覚えもない。もしかすると家に食べに帰ったと思われる。春祭りはのちに大聖寺桜まつり(4月第2週)と同じ日になった。同じ日になった理由は桜祭りが賑わっていたので、そこと一緒にやろうという目的だった。秋祭りはそのままの日で続いた。獅子舞は金子町、木呂場町、弓町の一部などとともに合同で実施していた。氏子の範囲の関係で、5町で80軒がまとまり獅子舞をしていた。特に金子町、木呂場町は町内が小さいので合同で獅子舞をした。弓町は用水を境にして、氏子の一部が菅生とともに獅子舞をやった。2階建ての倉庫があり、精米機など町で共同利用するものを保管しているところに、獅子舞の道具も保管した。2階は獅子舞の練習場所になっていた。

 

獅子頭

獅子舞を復活させた時に、獅子頭を一度修理したことがある。塗り直したとはいえ、今も昔も獅子頭の色は黒だ。獅子頭裏には平成5年12月に井波で塗り師の太嶋明雄氏によって塗り直しの修復が行われたことが記されている。また彫りは渓久刀氏によるものだが、新調された年代については不明だ。

(取材先:町民の田崎典宏さん, 同行:北嶋夏奈さん)