【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 作見町・弓波町・大聖寺北片原町

2021年10月8日

16:30~

作見町

作見地区誌の編纂委員会の事務局長をされた東野隆一さんにお話を伺った。同行は橋立公民館長の吉野裕之さん。獅子頭は3つあり、全てデザインが同じである。ただ、獅子頭がどこでいつ作られたのかは不明だ。新しいもの以外は、少し壊れてしまっている。

祭りの日にちは8月13~14日だ。祭りの当日は5時に稲荷神社で獅子舞を奉納してから町内を回り始める。最初、区役の家を回ってから、町内200軒を2日かけて全て回る。2日目の最後は神社ではなく町内のどこかの家で終える。ご祝儀の額は5000円ほどが平均で、区役になると1万円くらいになる。ご祝儀の額によって舞い方が変わることはない。ご祝儀をもらったときに、輪踊りのときに合わせて出店されるお店で、かき氷や飲み物など2~3種類が買える券をプレゼントする。その券に抽選番号が書いてありその発表があるので、祭りの時は神社周辺が人でいっぱいになる。舞い方は長いのと短いのとで、名前がついているかはわからない。神社では長いのを舞い、一般的には短いものを舞うことが多い。太鼓2人、獅子3人で、横笛が数名いるという構成だ。

青年団は、祭りの日には2班に分かれて、新旧の獅子頭を持って、地域内を回る。1班につきそれぞれ10名は必要なので、青年団の人数としては20名ほどで、年齢でいうと高校生から30歳の人が所属している。最近は昔と比べると少し舞い方が変わったようにも思える。青年団が獅子舞をするのは基本的に秋祭りの時だけだが、青年団員が結婚する時などは、獅子舞を舞いに行くことがある。

作見地区は昔、片山津町に所属しており、湯の祭りなどで獅子舞大会が開かれていた。また、加賀市全体で獅子舞大会もあった。おそらく、一時期は毎年やっていたのではないかと思われる。弓波町(昭和27年)や大菅波町(昭和35年)が優勝した時もあった。昭和33年、加賀市政が発足して青年学級もできて、地域活動が盛り上がっていた時期だった。

加賀市の獅子舞について、明治時代に広まったものが多い。これは、廃仏毀釈国家神道にも大きな関わりがあるので、調べてみると面白いだろう。作見町明治20年ごろに小松市から習ったのが獅子舞の始まりである。明治以前は、作見町の周辺は神社ではなく寺院がコミュニティの中心だった。楽市楽座をしていたので、経済の中心でもあった。神社にもお坊さんが住んでいた。明治時代以降に神社の役割が転換して、それが獅子舞の受容と関わっていたのかもしれない。青年団も婦人会も戦前・戦中・戦後と富国強兵の流れで作られたものだ。それ以前は若連中などがあったが、青年団という組織はなかった。青年団の役割も戦前と戦後でかなり異っているものの、この青年団が多くの地域の獅子舞の担い手となっていて、今でも残されていることにも注目していく必要がありそうだ。

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18:00~

弓波町

区長の西出進司さんにお話を伺った。同行は橋立公民館長の吉野裕之さん。獅子頭は1つ残されている。獅子頭の箱には、昭和37年8月に新調と書かれているが、町の人の名前しか書かれておらず、誰がどこで作ったものかは定かではない。獅子頭の裏には「竜代作」とだけ書かれている。獅子頭の髪の毛は2種類の素材を使っており、もしかすると後で髪を継ぎ足したのかもしれない。

獅子舞は10年以上前になくなったが、現在は台車に獅子をつけて回っている。この台車は大工仕事をしていた町内の人が制作した。獅子が舞いから台車になった経緯としては、祭りに何もないから寂しいということで、何かやりたいということで始められた。大人数名の引率のもとで、小学校1~6年までの子供が獅子と太鼓付きの手作りの台車を回している。1軒500円ずつご祝儀をもらって、最後に子供に商品券の形で渡している。各家を回るときは、子供がアドリブで太鼓を叩いたり獅子をパカパカさせたりする。現在、青年団はなく、その年の祭りの仕切りは区長さんがやる。

作見町の祭りの前日の8月12日(お盆前)が弓波町の祭りの日になっている。ただ、近年は仕事の休みが取りにくいということで、12日の近くの日曜日という形に変更された。まず弓波神社の奉納から始まり、町内70軒の家を回り、再び弓波神社に戻ってきて終わる。獅子舞をやってた時は、早朝から18時くらいまで実施していたが、今では半日あれば町内を回れる。2020年、2021年はコロナ禍で実施ができていない状況だ。

昔獅子舞をしていた時は、太鼓と獅子のみで、演目は1種類だが、フルバージョンから簡易バージョンまで舞いの長さによって3種類に使い分けていた。太鼓でドンと起こされて、市顎暴れ獅子になるような舞い方である。昔は秋だけでなく春祭りでも獅子舞を実施していた。春は町は回らず、神社の敷地の四隅のみを舞った。青年団がなくなり獅子舞が途絶えてからも、有志や年寄りを集め少し獅子舞をやってみるという機会を設けたようだが、今ではそれを披露する機会はなくなっている。また、祭りの後は、作見地区の人が集ってくるような輪踊りも行われていたが、今では実施していない。

今回、弓波町の公民館に伺ってテラス席があるようなかなり近代的な格好良い作りをしていた。獅子の形態を柔軟に変え、獅子舞を継承が困難になったら途絶えさせるというわけではなく、台車の形で次の世代に繋いでいったことと合わせて考えてみるとより一層、新しいことにどんどん挑戦していくような町という印象を持った。

※石川県教育委員会の獅子舞緊急調査報告書(1986年)によれば、弓波町の獅子舞の始まりは大聖寺敷地から明治時代に習ったと伝わる。

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18:40~

大聖寺北片原町

区長の浅井洋平さんにお話を伺った。同行は橋立公民館長の吉野裕之さん。獅子頭は昭和64年に修復したものがある。子供獅子なので、サイズはかなり小さい。耳が取れたことがあり、それも少し手直しされている。太鼓は昭和7年のものがあり、かなり歴史がある。太鼓のバチは大バチと小バチがあり、これは少し新しい。また、昭和61年に制作された練習用の獅子頭も2つ残されており、これは木をつなぎ合わせて簡易的に作られたものだ。作者はおそらく、浅井さんの祖父である。補修をしていない尻尾も残されている。緑色の蚊帳もあり、これは引っ張ってすぐボロボロになって、新調したような気がする。ただ、蚊帳の色については昔から変えていない。集会所は現在使っておらず無くしてしまうことも検討していたが、このような祭り道具が残されているので、なかなか無くすことはできない。

浅井さんが獅子舞を実施していたのは、小学校1年から小学校5年まで。その卒業の年(昭和64年)で獅子頭が修復されたが、その年以来獅子舞を実施していない。子供獅子は子供会が実施していた。その前に、もしかしたら青年団が獅子舞をやっていたのかもしれない(大聖寺は大人獅子から子供獅子への移行したケースがかなり多く見られる)が、詳細がよくわからない。半袖で練習をしていた覚えがあるので、祭りをやっていたのはおそらく秋のお彼岸の時期だった。春の大聖寺桜まつりのように他町まで舞いに行くということはなく、春日神社の氏子なので神社で舞ってから町内30軒少々の家々を回った。午前中だけで獅子舞は終わらなかったように思う(もしかすると昼ギリギリで終わった時もあったかもしれない)。子供はご祝儀は直接もらうことはできず、使い道はわからなかったが、獅子舞に参加したらお菓子をもらえた。獅子舞一曲だけでかなり腕が疲れてきた覚えがある。獅子頭が自分の頭より下がったらいけなかった。頭が出ていたら、練習の時バチンと頭を叩かれた覚えがある。それでも、皆楽しんで取り組んでいた。獅子舞の舞い方については覚えていない。去年まで生きていたおじいさんが北片原町の獅子舞について詳しかったが、語れる人が年々減っている。

昭和40年前後が、獅子舞の担い手が多かった。昭和61年ごろでも20人近くの子供が獅子に参加した。子供獅子が途絶えた昭和64年には7人になっていた。常に役割がローテーションしていて、獅子頭が疲れたら大バチをやらねばならないなど休みがなくなっていき、実施が難しくなっていった。祭りの日が秋ごろでまだ暑い時期だったこともある。男の子の低学年は蚊帳の中に入り、4年生ぐらいが尻尾、高学年が獅子頭と太鼓の大バチだった。女の子は太鼓の小バチと蚊帳の中という役割を任された。蚊帳の中の人数というのは特に定めがなく、わあわあやっていた。女性が獅子舞に参加していたというのは、あまり例がないので珍しい。

※石川県教育委員会の獅子舞緊急調査報告書(1986年)によれば、北片原町の獅子舞は昭和57年ごろに休止していたことがあった。

▼練習用の獅子頭。かなり珍しいデザインである。

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