2022年1月27日19:00~, 29日10:00~
永井町
「物的証拠がない中で、獅子舞の歴史を探る」
獅子舞の歴史について書かれている冊子を見せていただいた。永井町は現在、獅子舞を実施しておらず、獅子頭も現存していない。かつての獅子舞の姿を知る上で、非常に貴重な手がかりである。
由来
獅子舞の始まりはいつ頃のことかわからない。最も古い証言は、昭和3年の昭和天皇が即位した時に行われた御大典記念の時に、当時の永井村の若者が獅子を持ち、村のほとんどの人がそれを見守っていたというものだ。獅子舞の祭りは9月20日に実施していた。永井町には神社が2つあり、獅子舞の拠点となったのが本村があった箱多満里神社の方だ。ここに獅子舞の道具の保管をしていたほか、お祭りの日はこの神社から獅子舞が出て、終わったら帰ってくるという流れだった。出村に位置する白山神社は、獅子舞の発着場所とならないものの家々を回る中で立ち寄る。箱多満里神社も白山神社も女の神様を祀っており、箱多満里神社は塩土老翁(しおつちのおきな)が御祭神で、箱は船、多満里は船がイカリを降ろして碇泊している様子かあるいは船が数満里を航海してきたことを表す。永井町は昔入り江だったのだ。この名前を持つ神社は、日本全国を見渡しても宮城県にあるのみで珍しい名前である。
終戦後の復活
その後、長い戦争で獅子舞が途絶えてしまったと考えられる。終戦後である昭和22年ごろに獅子舞復活の機運が高まり、神社の道具小屋に保管されていた獅子舞道具一揃いを出してきて、修理したり洗ったりして使用することになった。当時、能登から来ていた清水さんという方に青年団が獅子舞を習い、毎晩集まって練習を実施した。この時の舞い方は4通りあり、後に2通りくらいまで舞い方が減っていった。太鼓1人、獅子2~3人、笛2人、棒振り1人が必要だった。
しかし、せっかく獅子舞が復活したものの、すぐに翌年の昭和23年には途絶えてしまった。その背景にあったのが、昭和23年6月28日の北陸地震(福井地震)である。大被害を受けて多くの家が壊れてしまい、しばらく獅子舞は休止となった。
獅子舞の断絶と道具の焼却
その後、昭和25年に獅子舞が復活したものの、その10年後の昭和35年には再び途絶えてしまった。担い手の人数が足りなくなったためと言われている。町内に50軒ほどの家があったが、青年団に入る人も少なかったので、担い手不足になった。これは大学に行ったり、サラリーマンとして外に働きに出る人が多かったりしたからだ。
獅子頭と天狗面の焼却
それから平成22年ごろに獅子頭と天狗面は虫食いなどに遭って修理不可のため、神社にて焼却された。この経緯としては、社務所とか本殿が古くなって、雨漏りをしたり壊れたりしており、ネズミやら蛇やら虫やらが建物の中まで入ってくるような状態だったので、整備しなくてはならないということで片付けを実施した。その時に、旗や幟やら獅子舞の道具やらが出てきた。箱にも入っておらず、防虫剤もない状態で保管されていた。もう使い物にならないということで、すぐに1月の左義長行事の時に焼却した。もともと三木小学校のグラウンドでお正月の飾りを焼く左義長の行事をしていたが、近年は野焼きをしたらいかんという声も多く、各地域で自分たちでやるか山下神社などに行ってやってもらうかが一般的になっている。獅子頭や天狗面の焼却は箱多満里神社の境内で行なわれた。獅子舞がなくなったものの、立派なお神輿が盛り上げるお祭りは、現在も継続されている。また、現在は青年団はないが、壮年会がある。
参考文献
『ながいまちを探る』ながいまち研究会 平成25年5月吉日
『ながいまちを探る 第3号』ながいまち研究会 平成28年1月吉日
(取材先:山崎浩さん, 同行:山口美幸さん)