沖縄の獅子舞の特徴とは?獅子舞とシーサーの違い、米兵が持ち帰った獅子頭の話など

2023年5月29日~6月5日まで、沖縄県に滞在して、3人組の獅子舞ユニット獅子の歯ブラシの滞在制作を行っていた。その合間に、沖縄の獅子舞について、概観を知ろうと考え、獅子頭職人にお話を聞いたり、県立図書館で文献を漁ったりした。その時に知ったことをここにまとめておこう。

沖縄の獅子舞の特徴

沖縄の獅子舞の特徴は、2人立ちであるということ。1人は頭、1人は胴体、という風な役割分担になっている。獅子頭は獰猛というよりはユーモラスであり、胴体にはふさふさとした毛が生えている。また、五穀豊穣、悪疫退散のために行われる場合が多く、悪鬼の横行する旧暦7月15日〜旧暦8月頃の季節をメインに実施される。

沖縄の獅子舞の歴史

沖縄の獅子舞の起源は、石造りの獅子の最初の記録である、14世紀ごろの玉陵の獅子などとともに考えねばならぬだろう。実際に400年前には浦添にコーレー具志堅が朝鮮半島から獅子舞を伝えた記録がある。もう江戸時代初期には獅子が舞っていたはずだ。沖縄最古の獅子舞とも言われる汀良町の獅子舞の年代は不明だ。また、那覇市史には、少なくとも江戸時代中期以降に始まったのではという推測もある。八重山諸島には、400から500年前に獅子頭が流れ着いたという民話もある。また、『琉球国由来記』(1713年)に獅子舞の記録が登場しないことから、それ以降に広く普及したのではないかという話もある。

沖縄の獅子舞は王朝に使節が訪れた時にもてなすなどして、毎回飽きさせないために違うデザインのものを持つ必要があったので、一度作ったものは民間に譲り渡した。これが、獅子舞普及の一種の起爆剤になった。

沖縄最古の獅子像でいうと、浦添ようどれ陵(1265年)、首里玉陵(1501年)、首里城歓会門(1477年)、瑞泉門(1470年)などが非常に古い。これらが沖縄の獅子で最も古い例であろう。これは魔除けと火災の効果を持っている。民間が史実として獅子像を彫刻して用いたのは尚貞王21年(1689年)に八重瀬岳付近で屋根獅子が置かれた記録がある。これがのちにシーサーになった。獅子が火を食べると言われている。実際に沖縄の獅子舞も「火を喰う舞神」として、祀られる場合もある。

首里城歓会門

首里玉陵の獅子

沖縄の獅子舞と戦争

沖縄の獅子舞はアメリカ軍が持ち帰った(3事例あり)とか、沖縄戦で消失したとか、そういう話題がある。戦争と獅子舞との関係性は大きなテーマだ。これはおそらく、地域アイデンティティの喪失とも関係してくる。獅子舞とは地域においてどのような存在なのか、という問いにぶつかる話でもある。2023年6月には78年ぶりに真和志町獅子舞保存会に獅子頭が返還され、大いに話題になっていた。 

沖縄の獅子頭職人は少ない

獅子頭職人が少ないことで、良いものであれば同じデザインを量産することも仕方がない。作れる人がまず少なくなっている。それで「これ作ったから持ってけ!」という風に、なんでも持っていってほしいという職人の意識が一部で生まれてしまっているのは問題。地域固有のデザインは失われつつあり、とりあえず獅子舞ができれば良いという意識になりつつある。市場競争がもっと生まれていくことが沖縄の獅子頭の世界の大きな課題だと感じた。

獅子頭職人はかなり少ない。おそらく沖縄全体で専業にしている人はほとんどいないのが現状。三味線づくりなどとの兼業で行なっている。今も昔も儲かる仕事ではないし、獅子舞の数も限られているため、職人の数は少ないままで変わりはない。

沖縄固有の獅子頭づくり

獅子頭(沖縄の言葉でウンチョービ)はデイゴの木、馬の毛、漆などが使われている。基礎は設計図を作り、それを粘土に起こして、木に獅子頭を彫り込み、漆を塗る。これで作業期間は1年間。獅子頭ひとつの値段は、200万円以上するものもある。獅子頭のサイズは本土よりも大きなものが比較的多く、重さは4kgくらいが普通。獅子頭那覇に近いほど派手でカラフルになる。一方で、離島になればなるほど素朴で黒っぽい獅子頭になる。獅子頭をあづかる家をシシヤーという。

首里城復興のための板の木彫りの文字彫りなどを任せられることもあるが、地域の獅子頭を彫っている方が楽しいということもある。出世の欲がなく、地域の獅子頭が生き生きとしているのが嬉しいという意識の人も多い。

制作途中の獅子頭

興味深い話

浦添の龍福寺で、寺の獅子が田の稲穂を食い荒らすので、農夫たちは大変困っていた。田には獅子の足跡が残っており、寺の獅子像を見ると腹のあたりや足に田んぼの土がついていた。そこで農夫たちの話を聞いた王様が、寺に田を与えたので、その後の被害はなくなった。その田んぼがシーシダー(獅子田)と呼ばれている。又、獅子像の修理をした際に、獅子のお腹に籾殻が残っており、隙間がないのになぜお腹の中に籾殻があるのか、不思議に思ったという(参考:浦添市編集委員会浦添市史第三巻資料編2』1982年3月)。ここでいう獅子は土地の獣であり、自然を開発する人間とのせめぎ合いを示す逸話なのだろうか?石川県金沢市のハジカミ神社に伝わる麦喰獅子と同じような話で、全国的に眠る逸話の一端にすぎないのかもしれない。

 

参考文献

浦添市編集委員会浦添市史第三巻資料編2』(1982年3月)
川平村の歴史編纂委員会『川平村の歴史』(1976年12月)
南原町立中央会館 『沖縄の民俗芸能(1)』(1991年3月)