本当に素晴らしい祭りコンテンツとは?獅子舞マニアが祭りの世界の広さを知る

最近の祭り見聞録。

大規模な祭礼行事に出かけることが多い。獅子舞という括りだけでは盲点になりがちだった、祭りというものの全体感について、考えざるを得ない。

4月14日には岐阜県高山市「春の高山祭」、5月4日には岩手県奥州市「江刺甚句まつり」にいった。どちらも市民参加の気質がある祭りだ。高山祭には獅子舞大行列、江刺甚句まつりにはしし踊りの大行列がある。これだけすごいことしているのに、祭りの1コンテンツに過ぎない。はあ、世界は広いなとつくづく思うのだ。

単純な格好良さや美しさ、豪華さが魅せる祭りってのもある。獅子舞マニアになるということは、そういう全体的視野から見た立ち位置というのが見えずらくなり、獅子舞なら何でも面白いマインドになりやすい。一歩引いて見ると、多くの人が感動する祭りってその一部にすぎないんだって気づけた。

それにしても、最近訪れた祭りのシシは格好良かった。最後に残るのは、一歩ひいても素晴らしいと再確認できる感情や心しかないんだと思う。

高山祭の獅子舞大行列。

江刺甚句まつりの百鹿大群舞。

残すべきまつりとそうでない祭りがあるって話もある。時代に応じて変化してかないといけないし、人口減少が進んでいけば、さあ、村の祭りで子ども神輿と獅子舞どっち残すの?子どもの方が盛り上がるから子ども神輿?それとも、ご祝儀もらえて村の蓄えになるから獅子舞?とか、そういう判断につながっていく。

文化庁の予算づけも、結局自分たちの力で継続できない祭りを、予算かけてまで継続させる価値ってどこにあるんだろうみたいな話もある。人気で多くの人が残そうと思えば、しっかり残っていくもんでしょという厳しい意見もある。そういう中で、残る祭りって何だろう。各地域で長期的な視野の中で、どういう話し合いがされれば、OKなんだろうか。

冗長的だからなかなか受け入れられず、簡略化していく祭りはよくある。祭りなのか、イベントなのか。神事なのか、都市祭礼なのか、問うべき振れ幅もある。先日訪れた山形県天童市人間将棋」なんかは、イベントに近い祭りで企業スポンサーガンガン入って、有名な棋士読んで、集客してる感あった。これは求められている祭り感あった。

小さい村祭りみたいなものってどうなっていくのが良いんだろう。素晴らしさの価値基準とは?集客数、それとも地域の人々の想い、記事のビュー数...?よくわからない高揚感とか、祭りの帰り道に余韻に浸れるような祭りが良いかな。今日はいい1日だったってね。

まあここまで考えたときに、獅子舞マニアとしては獅子舞ばかり取り上げるけど、大衆的な視点で良い祭りは世の中にたくさんあって、やっぱり個人的な良かったよねっていう祭りと、世間的な視点を通して選りすぐったものを推すのと、違うもんだなと思う事もあるのだ。そこらへんとしっかり向き合っていきたい。