鈴鹿・獅子神御祈祷神事から、日本の獅子舞のルーツを探す

始発の電車に乗って伊勢市駅から鈴鹿市を目指した。真っ暗の中、電車は出発する。徐々に辺りが白み始めたとき、眩しくて微細な光が窓から差し込み、そして田園地帯を地平線からまばゆい太陽の光が照らしていた。獅子神御祈祷神事。日本で最も古い獅子舞を今に伝えるという。「最も古い」をどう考えるのか。獅子舞の定義とは何か。そこについて本日はじっくりと向き合いたいと思った。2024年2月11日(日)に三重県鈴鹿市椿大神社(つばきおおかみやしろ)で行われた、獅子神御祈祷神事を訪れた時の様子を振り返る。

最寄りの加佐登駅に降り立った時、その空は赤みを帯びて、青空が少しずつ明るくなってきた。バスを待つこと30分。本当にバスは来るのだろうかと思っていた時、やけに縦長のコミュニティバスがやってきた。そこでようやく、本日椿大神社を訪れることができることを確信した。バスに乗ること40分。途中、バス停のアナウンスがいろんな子どもたちの声で、とてもユニークで良いと思った。

それから、椿大神社についた。これは多くの人に開かれた神社だと思った。とにかく敷地面積が広い。椿の木といえばとても縁起が良い樹木である。椿には厄除けの意味があるほか、平安時代には高貴な花として珍重されてきた。この神社はまず、猿田彦系の神社の本宮である。伊勢の猿田彦神社ではなくこちらが本宮のようだ。別宮である椿岸神社の主祭神は、その妻であるとされるアメノウズメである。

境内を散策する中で、鳥居を潜ってすぐに見えてきたのが獅子堂という建物だった。獅子舞が根付いていることを再確認した。中には見たこともないような金色のはっきりした顔立ちの獅子頭が左右に飾られ、そこで御祈祷が行われていた。後に神社の方に伺ったところ、ここはもともと獅子舞が奉納されるために使われていた場所だが、現在は交通安全祈願に使われているという。確かにこの獅子堂の前には車がたくさん停まっており、神主さんがひとつひとつお祓いしている姿も後々見かけた。

そして、境内を散策していて拝殿を訪れた。神主さんに獅子舞を実施する位置について尋ねていると、重要なことに気づいた。午前中の舞は一般人立ち入り禁止、メディアのみとのこと。取材申請をせずにきたために、最初中に入れてもらえなかった。獅子舞研究してて本も作るんで、そこでの掲載を視野に入れてきたんですという話をしたら、ようやく受け入れてもらえた。後出しの申し出というのはやや危険である。ところで、この拝殿の横には、千葉県松戸市出身の佐渡ケ嶽部屋満宗親方(元琴の若関)が奉納した鉄砲柱なるものがあり、同業者の奉納物として、非常に親近感が湧き、ご縁のようなものを感じた。

実際に見れた午前9時からの舞いは荘厳かつ重厚。なかなかに古式を今に残していると思った。椿大神社『椿の宮 第50号』(2024年1月)によれば、舞いの種類は「古来より七段七節の舞が伝わっている。七段に関して①初段の舞では、天地人四方八方を祓い清めるべく、猿田彦大神役を務める口取役が手に持つささらを用いて祓う場所を指し示す。最も重要な舞い②起こし舞は御神霊の奮い起こしであり、岩戸伝説や鎮魂に通じるもの③扇舞は神人和合を意味し神様と獣が心を通わせる舞い④後起こし舞は起こし舞とほぼ同じ内容で途中から拝観者側を向き後へ続く舞への節目の意味もある⑤御湯立ては病気平癒や無病息災を祈るもの⑥小獅子の舞は子どもの健全育成⑦花の舞は五穀豊穣を予祝する舞の七つである。また扇の舞の内容としてすら舞、扇舞、逆手、背追い、追い立て、扇起こし、捨て扇の7曲で構成されていることを七節という。

最初の拝殿での舞いは、初段の舞いである。ここで重要なことに気がついた。舞う獅子とは異なる、置かれた獅子があるのだ。表情からすれば、浅草神社のびんざさら舞の時に出てくる獅子舞、あるいは鳥越神社の獅子頭にも似ているように思われた。そして、目は蛇目の型式をしていたので、富山県と同じ特徴を持つ。何か関連性があるのだろうか。その真相はよくわからなかった。

それが終わると猿田彦大神の神陵の前で軽く舞ってから、別宮である椿大神社へと移動した。椿大神社では午前10時から、後起こしの舞までが行われた。先ほどの拝殿に比べるとより舞い場が正方形に近い。奥行きが感じられる舞い場であり、獅子頭はここには飾られていなかった。


それから、獅子舞の一行は鳥居を出て、西岸寺に入って行ってしまった。ここまでで10時半。30分ほどの舞だった。午後は14時から獅子堂の前で広く観衆に向けて舞をするとのことだったが、午前と舞いが変わらないこと、そして、午後からは予定があることなどから、この舞いは見ずにバスで帰路に着いた。

この御祈祷神事について、始まりの歴史を遡ると、山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「人間はみな神の子であるが、人間の心に動物霊が宿ると動物的となり、戦争をしたり殺人を犯したりする。大祓をして清めれば、再び神の子として立ち返ることができる、と神道では考えている。(中略)百獣の王である獅子に動物霊を追い払わせるという意をもって、聖武天皇吉備真備大臣(当時の総理大臣)に命じて椿の木で神面と獅子頭を彫刻して奉納し、獅子舞神事を始めた。そして、伊勢国はもとより諸国を巡見して大祓を実施した。(中略)秘伝によれば、この神事は修験神道の元祖行満神主が始め、聖武天皇の勅願によって斎行されるようになったという。」とある。「天下泰安・四海静穏・風雨順時・百穀潤屋」の勅願のもとに始まったようだ。丑、辰、未、戌の付く年を舞年としており、3年に一度の開催だ。いずれも4という数字が頭に浮かんでくる。天地人・四方八方を祓い清める舞いという。

吉備真備がディレクター、行満神主が現場監督みたいな感じだったのだろうか。そこら辺のニュアンスがよくわからない。ただ、行満神主というのは現在、椿大神社の神主である山本家の祖先であると伝えられている。また獣に関わる者、猟師や解体業者たちがどこか不可視化されて被差別民となり、逆にそこに触れないことが清浄を保つコツであるという風に読めなくもない。一方で当時は疫病が流行っており、衛生面だったり争いごとには特に繊細で敏感になった時期であったに違いない。そのような時代背景のもとで獅子舞は生まれたのだろう。また、上記の椿の木で獅子頭が作られたのは740年という年号で、姉妹一対で同じ木から作られたとも言われている。

あとは伊勢国を日本の信仰の中心に置く、という意味で、獅子舞は一役買ってた可能性がある。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年,たま出版)によると、「日本全国から伊勢国に入ってくるすべての人を獅子の舞で祓い清める」とある。椿大神社から伊勢湾の海岸までの6里(約23.5km)の間にあるどの地域にも獅子舞神事が伝わっており、どこから伊勢に入ろうとしても、獅子舞がいる地域を通らねばならないそうだ。伊勢に行く旅人はとにかく全国から参じたわけで、その分、人が集まるところに厄ありということで、強力な厄祓いが必要だった可能性がある。その一方で「神宮には狛犬がない」とこの本では述べられているが、厄祓いは獅子舞によって完結させる意図が伺える。聖武天皇は本物の獅子舞好きだったかもしれない。それによって日本の精神的な根幹を担う伊勢の地を完璧に清めるという呪術的かつ地政学的意図があったとも言える。

ざまざま憶測が湧いてきた。先ほどの話は岩手県遠野市に伝わる長野獅子踊りと山谷獅子踊りに伝わる、獅子舞始めの伝承譚と少し異なる。ここで伝わるのは、鹿の胎児の話だ。聖武天皇の妃が病気になった際に、鹿の胎児を薬効として飲ませたら、病気が全快したという。これは獅子神のおかげだとして、これを祀り、そして踊りを披露するようになり、それが巡り巡って岩手県遠野市まで伝わったのだという。これはもしかしたら、大陸系獅子舞と北方系しし踊りを同じ「シシ」として折衷しようとしたことから、その理由づけのために作られた話かもしれない。それは長野獅子踊りや山谷獅子踊りが鹿踊ではなく「獅子踊り」と表記することからも歴然である。この話は後付けなのか、本当の話なのかはよくわからないが、いずれにしても、少なくとも北方系と大陸系の獅子の文化が混ざり合っていく過程についてよくわかる話なのである。

まずはこの神事が始まったのが、1300年前、聖武天皇の頃であるとされる。聖武天皇といえば、東大寺大仏殿開眼が思い浮かび、それが752年という年だ。ここで伎楽の獅子舞が奉納され、それが寺院経由で全国に伝播するきっかけになった。それと時を同じくして、日本最古の獅子舞と言われる獅子神御祈祷神事が、三重県鈴鹿の地で始まっていたというわけだ。獅子神御祈祷神事の伎楽の獅子との関連性がよくわからず、椿大神社の方もわからないと話されていたが、天狗は鼻高面からきている可能性はある。つまり、ペルシャなど西アジアの外国人の鼻が高い面がシルクロードを伝わって正倉院に入り、それが伎楽に出てきて、それが鈴鹿、伊勢に入った時に猿田彦の天狗面に変わっていたというわけだ。

ここでなぜ、椿大神社が獅子神御祈祷神事を日本で最初の獅子舞だと主張するのか考えてみた。伎楽の獅子というのは舞うよりも、行道獅子なので歩くという要素が強かった。だから、これを獅子舞としてカウントしなかったということではあるまいか。さらにいえば、北方系のしし踊り文化を獅子舞としてカウントせず、シシの文化の類似性よりも踊ることと舞うことは違うのだと強調した結果、獅子舞の最初は獅子神御祈祷神事なのだと、言いたいということかもしれない。

ここから近い伊奈冨神社の獅子頭は長い間、日本最古の年記銘付き獅子頭として、1280年銘が入るが、ここに獅子舞を伝えたのが、獅子神御祈祷神事をしていた椿大神社であり、この流れはわかっている。ただし、愛知県日置八幡宮の年記銘付き獅子頭の年代が、1252年銘と判明し、さらに困惑する結果となる。この獅子頭、八幡信仰圏によって伝播したのではないかという話もあり、京都とのつながりが見え隠れする。いずれも獅子頭の年記銘から、獅子舞の始まりを類推することは難しく、年代も鎌倉時代以降のものしか無い。ただし、獅子舞伝播勢力の観点から言えば、伊勢系統と京都の八幡信仰系統が名古屋辺りでせめぎ合っていたのではあるまいか、という推測がある。