山形県酒田市·遊佐町吹浦の獅子舞を見てきた

庄内平野と言えば、日本有数の米所。昔からどこか理由もなく惹かれる場所であったが、この地で鳥海山信仰と関わりのある獅子舞が開催されることを知った。また、酒田市獅子頭が街中に点在することでも知られている場所だ。それらへの関心が高まり、2021年7月14~15日の日程で現地に伺い、わかったことを以下に記す。

 

7月14日

①酒田大獅子一家巡り

酒田市内には酒田大獅子一家と称して、獅子頭が各所に16体設置されている。原因となったのは、1976年の酒田大火だ。その影響で1700以上の建物が消失し、3000人以上が被災したと言われる。これを受けて、火災という厄を払うべく、製作されたのが4体の大獅子だった(オスメス2体2組)。これは舞うものよりも遥かに大きく、地域各所に展示されているという方が正しい。それからこの大獅子の子供ができ、全て合わせて16体ということである。子供の獅子の名前は市民への公募で決まったそうだ。

元々酒田には獅子頭を飾るという伝統工芸の文化があり、観光関連施設で獅子頭を販売しているのを見かけるのだが、獅子頭流行の背景にはこのような文化的基層が存在していると言えるだろう。観光客は観光案内所で借りられる無料自転車を使うか或いは徒歩でこの16体を回ることになる。その設置場所近辺の散策も楽しめるので、観光ルート創出の側面もあるわけだ。

巨大獅子頭の設置事例は他に、茨城県石岡市常陸風土記の丘にある獅子頭展望台や、大阪府難波八坂神社の獅子頭舞台などがあるが、これだけ大量の巨大な獅子頭を見られる街というのは酒田の他に聞いたことがない山王祭では、この獅子頭に噛まれるという体験ができるという。また舞う獅子舞はこれとは別に登場するようだ。

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酒田市立図書館での調査

7月14日夜に鳥海山麓の大物忌神社でお頭様の登場する神事がある。それに向けて、お頭様に関する文献を調べてみた。佐藤源治『山形県の獅子舞』(昭和57年10月 獅子玩具館)に昭和49年5月8日、著者が大物忌神権禰宜の方にインタビューをした記録が掲載されていた。お頭様に関する禰宜の返答は「お頭様の神事の始めはわからない。もと宿坊が25坊もあったが、その坊でやってきた神事である。」とのこと。また、「お頭巡幸といって、元日から3月16日まで村々を廻るが、昨年から獅子を2頭にして2組で廻り、正3日か2月9日に終わることにした」とのことだったそうだ。また、獅子頭のことをお頭様やお頭と呼ぶのは庄内地域の特徴で、その始めが遊佐町吹浦字布倉の鳥海山大物忌神社のお頭舞だったとのこと。これから拝見する御浜出神事のお頭様もその最初期に始まったものであろう。

 

また、ここからは個人的な推測の域を出ないが、この神事としての獅子舞が正月に舞うこと、そして、大物忌神社の近くに「出羽二見」という伊勢を連想する景勝地があることから、伊勢の大神楽の影響を少なからず受けているのではないか?と感じた。さて、真実はどうであろうか。今後の検討課題の1つとしたい。

遊佐町吹浦での御浜出神事

18時半に出羽國一之宮大物忌神社を神輿が2体出発。先頭に提灯の子供2人、次に幣束を持った神官が1人、その後にお頭様(獅子頭)を持った人が一人、太鼓や巫女、近所の子供達5人(空の木箱を携える)と続き、最後に神輿1台目、神輿2台目という行列が出来上がり、神社の鳥居をくぐって、約15分程度歩き西浜までたどり着く。神輿はなぜ2台あるかというと、大物忌神社だけでなく、その横にある摂社の月山(つきやま)神社の神輿を含むからだという。毎年、基本的に8人で神輿1台を担ぐので、西浜にたどり着くのにかなり時間がかかるが、今回はコロナ禍で密を防ぐために、台車に乗せた神輿を1台につき4人でそれぞれ引っ張るというスタイルをとっていた。近年はコロナ禍という理由もそうだが、人手不足も相まって神輿を担ぐ人が減っているという現実もあるという。西浜にたどり着くまでの道中、先頭から2番目の幣束を携えた神官は、神輿が道の角を曲がる場面が2度あり、その際に立ち止まって幣束を左右に振る姿が印象的だった。また、提灯は行列の先頭にあるだけでなく、道中の家々にも取り付けられており、この理由は地域の町議会議員の方のお話によれば、神輿が通る際に夜道を明るく照らす必要があるからだという。道中、徐々に曇っていた空が冴え渡り、鳥海山の頂上が見えて、夕焼けとともにその美しい姿をあらわにして我々の行列を見守ってくださっていたのが印象的だった。また、獅子頭を左右に手で抱きかかえるように運んでいたのもとても印象深いと感じた。

 

神輿が浜に着くと、海に向けて祭壇が作られるとともに、様々なお供え物(内容が確認できなかった)が備えられ、それの横にお頭様(獅子頭)が海とは逆側を向けて置かれた。四方には植物が立てられ、縄と紙垂で結界が作られた。町議会議員の方に、「結界の中に入ってはいけないけど、四方どこからでも撮影していいよ」とおっしゃっていただいた。小さなローカルな祭りだが、基本的にサービス精神旺盛で、見ず知らずの若者をすんなり受け入れてくださるのは、海沿いの町ならではの寛容さがあるからだろうか。ちょくちょく「良い写真撮れた?」と声をかけてくださったのがとても嬉しかった。当たり前のことかもしれないが、どんな地域に行ってもコミュニケーションをとることはとても重要で、そこから読み取れることがたくさんあると実感した。

 

さて、結界が張られた神域においてまず最初に行われたのが、お頭様の舞だった。2人立ちの舞いで動作はそんなに複雑ではない。基本パターンとしては右方向から頭を180度ひねり口をパクパクさせ、ぐるっと円を描くように回転して、神官の持つ笏(しゃく)を口にあてがわれたり、祭壇に顎を乗っけるようにして置かれるとともに神官が頭を下げたり、というような感じだった。山形県長井市のながい黒獅子まつりで獅子舞を拝見した時も感じたのだが、「獣の首を祭壇に捧げる、そしてそれに人々が感謝する」というようなシーンを想像させる獅子舞が多いように感じる。これは今の所山形県でしか見たことはないが、昔は全国的に行われていたことで、それが東北の一部に残されているということだろう。まさしく狩猟民の名残である。さて、このお頭様の舞もそう長くはなく、あっという間に終わってしまった。再び祭壇にお頭様が供えられて舞は終了となった。f:id:ina-tabi:20210719110843j:plain 

お頭様の舞の後は、巫女の舞が始まった。これも扇子で口を隠したり、一周グルリと回るような動作が多く、そこまで複雑な動きではない。これも数分ののちに終了して、最後に玉串奉天を地域のお偉い方々が行い、終了となった。この一部始終が行われている間、つねに結界の外では藁が燃やされ、燃え広がらないように適宜バケツに水をくんで火にかけていた。この日はなんと今年のパラリンピックの聖火にも使おうという話になっているらしい。聖なる火は儀式の間中ずっと燃やされていた。

 

この儀式ともいうべき神事の一連の流れが終わると、一行は来た道を隊列を崩すことなく、行きと同じ順番で大物忌神社の境内に帰っていった。途中、提灯を持つ子供たちが足早すぎて、少し立ち止まるような様子も見られたが、終始、無事に神事を執り行うことができ、神社に戻った。社務所で提灯持ちと木箱持ちの子供たちはお小遣いをもらっていた。行きの時に謎だった空の木箱というのは、おそらく祭壇を作るときのお供え物を入れるのに使われたのだろう。あまり意識して観察していなかったが、おそらくそういうことだ。また、抱きかかえられた獅子が神輿の前を歩いていたのは、道を厄払いするという意味で、伎楽の行道にも通じるところがあると思った。それにしても、お頭様のカラフルさには驚いた。赤や黄色などの色の髪をしており、緑などの色の入った蚊帳を用いていた。

 

最後に宮司さんにご挨拶した時に、「この神事の起源はご存知ですか」と尋ねてみたが、よくわからないとのこと。おそらくかなり古い日本古来の神事を今に伝えているに違いない。そう思った理由はまず、この神事が昼ではなく夜に行われること、そしてお頭様の舞い方が獣を神に捧げるような狩猟民族の舞いを想像させるからである。獅子頭自体はそこまで古くはないかもしれないが、舞の形式はかなり古いものと感じた。ご挨拶をして、夜道を一人少し寂しいような気持ちで、吹浦駅に向かった。吹浦駅は明かりに集う虫がたくさんだった。すこし暗いところで、30分間電車を待った。それにしても、このような地域の方だけで語り継がれている神事を知り合いゼロの僕に見せていただけて、声までかけてくださるなんて、とても感激であった。

 

7月15日

酒田市立資料館 第221回企画展「祈りと医療―昔の人は病とどう向き合ってきたか―」

酒田大獅子一家巡りを完遂させたのち、土門拳記念館に訪れて、その後酒田市資料館を訪れた。ここでは獅子舞に関しての気づきのみを書いていく。明治時代に酒田市コレラ流行の拠点となってしまった地域らしい。明治10年頃に始まった城輪獅子舞はそのコレラ退散を願うべく当時の宮司が城輪神社にこもって祈祷し、それから患者の家々をまわったのが始まりという内容が展示にかかれていた。平成5(1993)年山形県の調査によれば酒田には44件の獅子舞が確認され、そのうち約半数の20件が明治期に始まったようである。

 

ところで、石川県加賀市の獅子舞調査において、橋立地区の獅子舞は明治時代のコレラ大流行によって河北郡内灘町から多くの人が移住してきたことをきっかけに生まれたという。厄を払うという役割から考えれば、当然獅子舞は疫病から我々を守ってくれる存在である。またそれだけに留まらず、橋立と酒田市との繋がりについても今後検討していきたい。思えば両地域は日本遺産に登録された北前船の寄港地であるという共通点があり、昔から漁師町だった。両地域に交流があったとも言えるわけだ。内灘と橋立の関係のように、橋立と酒田との関係ももしかしたらあるかもしれない。そのような可能性も考えていきたいところだ。

⑤平田図書センター

吹浦の御浜出神事の由来、手がかりを探したい。鳥海山の獅子舞や番楽に関する本があるという平田図書センターを訪れた。結局それに関する本は内容が写真のみで文章がほとんどなく手がかりがつかみづらかったが、少しヒントになる本も見つけた。山形県教育委員会山形県の民俗芸能-山形県民俗芸能緊急調査報告書-』平成7(1995)年3月によれば、鳥海山大物忌神社に伝わる五日堂祭について書かれていた。

 

これは五穀豊穣を占う祭りで、1358年に北畠顕信が現在の秋田県本庄市小友村を神領として寄進した故事に基づき、本庄市小友村から粥を煮るための米と葦管が来ていたという話があり、それに絡めてお頭様の獅子舞を1月に実施しているという。ここでも回し方は時計逆回りのようで、御浜出神事とその点は同じ。あとお頭連中が「御判」と称した牛王札を配るそうで、ここで「ああなるほど」と思った。中世の山伏修験の人々が牛王札と獅子舞の信仰をセットで広め、その後ろ楯として武士の権力者たちがいたことは過去文献から明らかなことであり、この地にもその影響があったことは伺える。これは必ずしも御浜出神事の由来に繋がるものではないかもしれないが、大物忌神社の信仰的な背景が少しでもわかってよかった。