鬼とは何か?京都・大江山「日本の鬼の交流博物館」で考えた

鬼の記述についていつが始まりかといえば、出雲の国風土記に登場するひとつ目の鬼らしい。日本全国に多種多様な鬼伝承が残るが、もともと形など存在しない妖怪の類だったのかもしれない。あるいはそれはまつろわぬ民、豪族の脚色という場合もある。2021年7月17日、日本有数の鬼の里である大江山の「日本の鬼の交流博物館」を訪れ、鬼とは何か?という大それた質問を持ち込んでみた。そこでわかったことを振り返る。

▼日本の鬼の交流博物館、迫力ある外観は鬼の角をイメージして作られた

f:id:ina-tabi:20210720112844j:plain

大江山に伝わる3つの鬼伝説

まず、大江山に伝わる有名な鬼伝説は3つある。それぞれからわかることについて、整理しておこう。どれも神と鬼との共存、対立から生まれたことが見て取れる。

陸耳御笠の伝説

崇神天皇の時代、陸耳御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛、すなわち豪族がいた。『丹後の風土記残欠』や『古事記』によれば、妻・匹目とともに土地を追われ、与謝の大山という場所に逃げ込んだそうだ。当時、元伊勢の内宮外宮は崇神天皇が神鏡を奉斎した吉佐宮であり、陸耳御笠らを逃亡させた崇神天皇の弟・日子座王の子・丹波道主命四道将軍)の5子を祀る5社がある。鬼と神との同居の証である。これが本当であれば、紀元前の話だ。

英胡・軽足・土熊の伝説

7世紀、つまり飛鳥時代に河守荘山上ヶ嶽(大江山)には、英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちくま)に率いられた鬼の大集団がいた。これを聖徳太子の弟・麻呂子親王が討伐したと言われている。元伊勢皇大神社に訪れた際、麻呂子親王にまつわる場所があった気がする。それだけでなく、丹波・丹後において麻呂子親王伝説を伝える土地は70箇所以上に及ぶと言われる。これは疫病や飢餓の影響の原因となった怨霊を仏教が鎮圧するという考え方と日本古来の信仰とが結びついた結果という説もある。

酒呑童子の伝説

今から約1000年前、正暦元(990)年に大江山千丈ケ嶽に酒呑童子頭目として、茨木童子を副将、熊童子・虎熊童子・星熊童子・金熊童子を四天皇とした鬼の一味が立てこもっていた。藤原摂関政治の時代に、都あたりに出没して池田中納言の娘がさらわれたことをきっかけに、一条天皇源頼光に鬼退治の勅命を下した。武勇の高い渡辺綱坂田金時碓井貞光卜部季武の四天王を従えて、山伏姿に身を変えて、蔵王権現、元伊勢内宮外宮、天の岩戸を祈願して山に入った。それから住吉・八幡・熊野の3神が現れ、神変鬼毒酒(人が飲めば薬、鬼が飲むと毒となる薬)を授けられた。さらに山に分け入ると血染めの衣を洗う女の案内で鬼の城に入り、酒呑童子はそれを迎えて酒宴となった。酒呑童子は血の酒、腕や股の肉を食べさせ、それを受け入れた山伏たちを疑うことがなくなった。酒呑童子は打ち解けた態度で自分の半生を語るが、源頼光は神変鬼毒酒を振る舞う。そして、酔いつぶれた酒呑童子の首をきり、その際酒呑童子の首に噛み付かれたが3神にもらった星兜によって難を逃れ、都に凱旋した。平安京の繁栄に対して、酒呑童子はどのようなメッセージを残したかったのか。多くの謎が残る大江山の鬼を一躍有名にした出来事である。

鉱山開発という視点から見た鬼

修験道が鉱山の鉱脈を握っていたように、鬼も鉱脈のネットワークを持っていたというのは、今回の大江山の取材で確信に至った。酒呑童子の出生地は新潟の弥彦であり、弥彦神社には製鉄民から崇拝を受けるひとつ目の鬼が祀られているという。また、鬼が嫌われる理由は、鉱山開発により、鉱毒下流に流れるため下流域の人々から嫌がられるからだそうだ。加えて、個人的には大江山下流には元伊勢という日本古来非常に重要な信仰の中心地があったわけで、それも少なからず関わっているかもしれないと感じた。鉱山労働で煤けた顔がどこか里人にとっての鬼のイメージを作り出したということかもしれない。今では、鉱山の跡地は岩がむき出しになり、険しい山の中の唯一平地を形成している。また、その鉱山の跡地になぜか野球の練習場ができ、イカズチなる名称の少年野球チームが練習に励んでいた。この土地の古層には鬼が労働して切り崩してできた平地があり、こんな山深く急峻な場所に平地の練習場ができるという異次元な土地利用にとても興味をそそられたわけである。それにしてもなぜ、この土地には鬼のよき行いが伝わっておらず、悪行ばかりが知られているのか。これはまた別軸で検討せねばならない。

※赤鬼と青鬼の起源について、赤鬼が阿形で雌、青鬼が吽形で雄というのが一般的な考え方である。これをもっと踏み込んで考えると、赤鬼が溶けた灼熱の熔鉄の象徴、青鬼が地下から掘り出された原鉱の象徴と考える人もいるようだ。つまり、鉱山開発や製鉄に携わった人々こそ鬼と呼ばれた人々であったことを示している。

本物の鬼と物語の鬼、善行が民間に伝承されているか

鬼は本当に酒飲みだったのか、これは後発的な商業イメージにより作られた話ではないかと思う。酒呑童子について言えば、酒好きという前提で、「人間が飲んで大丈夫だが、鬼が飲むと毒に当たる」というお酒を熊野、八幡、住吉の3神から持たされた源頼光が、鬼を退治するという流れである。つまり、お酒好きが祟って鬼は殺されるわけだ。これは源氏の隆盛を物語るストーリーでもあり、鬼は都で強盗して騙されて殺された悪者でしかなくなっている。しかもよくよく調べてみると、酒呑童子というのは、桓武天皇の第5皇子の家来の末裔ではないか。源氏と平家の対立構図もどことなく見て取れる。鬼が実在の人物ならば、民間伝承のなかで、善い行いをした一方で権力者に討たれたという流れがなければ、これほど語り継がれるということは考えにくい。飛騨高山の両面宿儺しかり、長野県安曇野の八面大王しかり、各地の鬼は国史的には悪者で民間伝承の的には善者であるという場合も多いのである。それならば、全てが虚構であり作り上げられたストーリーだったという点を検討すべき必要もあると感じるのだ。

ところで、世界鬼学会2019年第23号会報によれば、鬼の両義性(善悪)に関して、興味深い話が掲載されている。通常、節分の豆まきでは「福は内、鬼は外」と唱えるのだが、青森県弘前市岩木山麓にある鬼沢という村では、「福は内、鬼も内」と唱えるという。鬼が村に水路を引いてくれたという伝説が伝わるからだ。また、奈良県天川村天河神社では、神職役行者の家臣である前鬼・後鬼の子孫ということで、「福は内、鬼は内」と唱える。また、京都府福知山市三和町の大原神社では、鬼が節分の日の深夜0時に本殿において神の力で善良な存在へと改心し、村人に福を授けると伝わる。また、この地をかつて治めていた綾部藩主が九鬼氏だったことから、「鬼は内、福は外」と唱えるようである。これら鬼に対する解釈の多様性には、驚きである。

鬼に対して結論を出すならば

海外と日本の比較、あるいは時代性の違いなどを相対的に考えてみても鬼という存在にはある一定の考えが根底にある。日本の鬼の交流館の展示によれば、それは世界的秩序=コスモスからはみ出し、混沌(カオス)にひそむ超越的な力を表現しているというのである。

日本の鬼の交流博物館のパンフレット『鬼とは・・・』によれば、日本の鬼の成立は8世紀ごろと言われており、この鬼概念の成立にはインド・中国・朝鮮の鬼概念が影響を与えている。インドや中国における鬼概念は死者との強い結びつきがあり、仏教の発展とともに広がった考え方だった。一転して、韓国の鬼というのは儒教的な発想が強く、土俗信仰とも結びついた。門排(ムンベ)といって鍾馗が鬼を捉える絵を家の軒先に飾り災厄などを防ぐという風習も生まれた。日本では712年成立の古事記に鬼に関する記述はなく、その8年後に編纂された日本書紀では「もの」と訓読する鬼のような存在が登場する。日本書紀では佐渡ヶ島に漂着した粛慎の風習や容貌に脅威を感じて逃げたという話が掲載されている。その後733年に成立した出雲国風土記で、一つ目の鬼が登場して、これが鬼の初出とされている。このころの鬼は、柳田國男が言う所の山人であり、大和政権に征服された人々への賤称であったのではとも言われている。

平安時代以降は、怨みをのんで死んだ人の霊が祟る御霊信仰、自然の脅威に対して天文・暦・方位などを思考や行動に生かしていく陰陽道、浄土信仰の中で生まれた地獄の思想などを背景として鬼のイメージが確立してきた。鬼といえば、牛のような角と虎のような牙、まだらの褌などのイメージのことである。牛と虎のイメージは陰陽五行説における鬼門からきているとされ、その鬼門の方角である東北は死霊が出入りする場所であり、冬と春の狭間・つまり死と誕生の接点であり、現実に都から見て権力に従わない蝦夷が住む方角であったわけだ。鎌倉時代は新仏教の台頭と地獄思想に影響を受けた『餓鬼草子』などの絵巻物に知られるように名僧によって鬼もそれに苦しめられた人々も救われるという思想が広まる。鎌倉以降に有名になった鬼の話は、大江山酒呑童子、安達ヶ原の鬼婆、戸隠山の鬼女紅葉の3つ。室町時代以降は能(謡曲)に鬼の出てくるドラマ(幽鬼物)が多く、その半分に鬼が登場する。江戸時代の鬼は小説や芸能、演劇の世界の中に娯楽として生きることとなり、鬼の恐ろしさや現実味が薄れていくこととなる。

ここまで鬼の時代性を見てきたときに、最初は異民族との接触や支配者と被支配者の対立構造の中に鬼が生まれていたが、平安時代以降に社会不安の増大とともに幻影としての恐ろしい鬼が確立され、鎌倉時代以降の武士の台頭とともに鬼は武勇によって駆逐される武勇賛美の道具として語られるようになり、室町時代に魔王の地位を失った鬼が能の世界で破滅的心情の中で極限に追い詰められた人々の意思を視覚的に表すようになり、江戸時代以降は恐ろしさや現実味のない娯楽の対象として見られるようになったわけだ。

現代は妖怪ブームと言われているが、日本史上鬼がブームとなったのは、平安時代末期、室町時代末期、江戸時代末期だったという。いずれも社会的不安が絶頂となり、政治的空白が存在していた時期である。岩井宏美氏の考え方を借りるならば、現代日本人は精一杯働き表面的な安定性を実現しているものの、精神的には空虚で人間関係に悩まされていることも多い。このような時代だからこそ現れる鬼もいるのではないか。だからいま、鬼の歴史を理解することが必要ということかもしれない。 

Ps.獅子頭と鬼の目が似ている点について。

ところで、この博物館に展示されていた酒天童子の神楽面の眼が中心円と外円によって構成されていた件について、よくよく考えてもみれば、これは獅子頭の邪(蛇)の目と同じではないかと直感的におもった。獅子頭の邪(蛇)の目は富山県に多く見られるデザインで、蛇と関連性のある獅子舞というのは富山、岐阜、山形等日本海側に多く分布している。ある種の雨乞い信仰であり、農耕とも結び付いているものだ。この博物館 館長さんに鬼にも雨乞い信仰があるというお話もしていただいたので、これは本格的な検討の余地がありそうだ。