鳥取県の麒麟獅子舞の正体を探る

鳥取の獅子舞はなぜ麒麟の頭なのか?以前から疑問に思っていた。ちょうどコロナ禍でありながら、いくつか公演が予定されているという情報を得たので、良い機会と思い、2021年7月18日に現地を訪れてきた。鳥取県はどこか穏やかでゆったりした空気感があり、それもあってか麒麟獅子舞自体もかなりゆっくりしたタイプの獅子舞と感じた。図書館での文献調査を含めて、麒麟獅子舞について知ったこと、感じたことを以下に記す。

鳥取県立図書館で資料を調査

鳥取県教育委員会事務局文化財課『「因幡麒麟獅子舞」調査報告書』(2018年)によれば、麒麟獅子舞が奉納されていた神社が180社で、麒麟獅子舞の頭数は198頭だった。つまり、氏子中を門付けしてまわる場合に新旧の獅子頭を使う場合もあるということだが、奉納の舞はどこも一種のようである。ただ、獅子舞は伝わっていても中断しているところも多く、この調査が行われていた際に、実際に舞っていたのが132頭だったという。同じ獅子舞が複数の神社に奉納する場合もあり、神社数は135とのこと。平成8年は147(野津),平成22年は144(キリノジークラブ)という調査結果もあり、減少傾向にある。

 

麒麟獅子舞が伝わる地域では、「獅子」「獅子舞」と呼ばれて親しまれ、「麒麟獅子舞」という名称が使われることは少ない。この言葉自体、明治時代末期に使われ始めたようである。文化財や観光資源として対外的に広く麒麟のイメージが定着していったようである。また、麒麟獅子舞の周辺には神社の神幸の獅子舞が数多く伝えられており、麒麟獅子舞が登場する前の獅子舞の形態として考えられている。この中には現在、伊勢大神楽的な特徴を有するものもある。

 

野津龍『因幡の獅子舞研究』(平成5年11月)によれば、想像上の動物である麒麟「麒」が男性で「鱗」が女性であり、またそれが逆という説もある。いずれにしても、それぞれの麒麟獅子舞について言えば、男女の区別があるわけでは無さそうである。麒麟獅子舞の多くが神社を背にして舞い始めることから、獅子は神殿から出現した御祭神の化現と考えることもできそうだ。因幡地方の獅子舞を権現流と称することから、山伏神楽や番楽から発生した東北の権現舞とも近い由来と見ることができる。つまり麒麟獅子舞を徳川家康東照権現から来るという見方があるが、それ以前に「神仏などが権(かり)に現れる」という意味に捉えることができるわけである。ただ、徐々に本来の意味は薄れ、神社に奉納の舞いを行い神慮を慰めるという意識が強くなっていったと考えられる。

 

麒麟獅子舞がいつに始まったかという源流論に関しては、正倉院伎楽面に遡れるという話もあるが、伎楽には一角獣の角が無いことからそれは難しいのではないかとのこと。ただし、2人立ち等の唐獅子系の獅子頭の特徴があることから、正倉院伎楽面に派生する地方伝播の過程で変化した形態とみることもできそうではある。中世説としては岩美郡国府町岡益の長通寺に伝わっている麒麟獅子舞の獅子頭室町時代製作とも言われており、これでいくと一般に提唱されている江戸時代に鳥取藩主となった池田光仲が1650年に獅子舞を始めたという以前に、その原型のようなものが因幡地方に根付いていた可能性があるということだ。

 

次の検討事項として、江戸時代に広まったとすれば、光仲はどこから麒麟獅子舞の着想を得たかという話である。元々1650年に日光東照宮鳥取に勧請した際に、光仲が奉納芸能に獅子舞を選び、池田藩獅子庄屋として小椋·佐藤の両家を指定して稽古に当たらせたというのが京都市歴史資料館長の山路興三氏の見解であり、昭和52年の『獅子の系譜 鹿躍と獅子舞』に掲載された。日光東照宮には麒麟の獅子舞はない。因幡地方にあるのと、わずかながら北海道や兵庫に分布しているのみである。であれば、日光東照宮麒麟の絵図や彫刻など芸能とは違うものから着想を得たということを含めて検討せねばならない。また、上記獅子庄屋が獅子舞普及のカギを握っていたわけで、その存在こそが麒麟獅子舞の伝播を因幡地方に留めた大きな要因とも言えるだろう。

 

麒麟の信仰というのは、王者が仁なる行いをすれば麒麟がこの世に出現する、或いはそれが聖人が世の中に出てくる前兆とも考えられてきた。光仲がこの聖人に自分をなぞらえたとも考えられる。光仲とその一族が芸能に精通したことは知られていて、その芸能を多少改編することも簡単なことだったため、例えば獅子に対峙する役割として霊獣である猩々を採用することも難しいことではなかっただろう。八頭郡八東町才代の澤神社の麒麟獅子舞は光仲の寝具に使用した布を獅子の蚊帳に用いたといわれており、獅子舞への力の入れようが伺える。

 

獅子頭に一角がついている理由について、猩々が手にする朱の棒には神霊を招き降ろす依代或いは神木の意味があり、それ同様の意味があったからとも考えられている。また、中国古代社会では、牡鹿の「麟」の角を厄払いの副葬品として祀っていた。また、突いても他を傷つけない一角として、麒麟は仁獣として理解されていた。また、この角が陽根の象徴とされていたようである。これは西洋のユニコーンとも共通しており、汚れなき処女が側によると幼児のように大人しくなるとも考えられている。

 

いずれにしても、ここまで考えれば麒麟獅子舞に白幣がついていることも理解でき、一角とともに御幣の役割を得て、頭を振ることで悪霊を祓うとともに神霊を降臨させるという意味が存在すると言えるのだ。麒麟獅子舞の舞い方の大まかな構造は、前段に猩々の主役となる神降ろしの舞があり、中段に獅子舞の中心部分である獅子の神遊び、後段に猩々と獅子が一緒になって神霊の世界に還御される神送りの舞という風に三段構成で行われる。

 

②仁風閣で麒麟獅子舞の演舞を見る

高校生のみによる麒麟獅子舞の演舞が行われた。高校に麒麟獅子舞を行う部活があるということにまず驚いた。そしてスタッフもずらりと揃っていて、応援体制も整っていた。高校生らしいあどけなさはあったが、子供が実際に仁風閣という歴史的建造物で演舞を行う機会があるということ、そしてそのような文化的土壌に麒麟獅子舞に対する思いの強さを感じた。

 

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③道の駅きなんせ岩美で麒麟獅子舞の演舞を見る

因幡の獅子舞という大きな括りで保存会が立ち上がり、そこに各地域ごとの保存会が50ほど所属しているという。日本遺産に指定されたことも大きいだろうが、この麒麟獅子舞の文化を集約して、道の駅を始め観光施設で演舞していくよう取りまとめる組織があること、その運営に行政が積極的に関わっていることが素晴らしいと感じた。また、「獅子舞体験」を大事にしており、コロナ禍では控えぎみではあるが、演舞のあとは子供の頭を噛むということもしているようだ。

 

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鳥取県は総じて、麒麟獅子舞を応援する土壌、基盤がしっかりしていると感じた。日本遺産に指定されていることもあるだろうが、集約する組織の存在と横の繋がりの柔軟さがあり、冊子としてのアーカイブ、観光PR としての対外的な発信が上手く行われているように感じた。鳥取市の中心街には、様々な言語で休憩ベンチが案内されており、そのベンチが麒麟獅子舞の形をしていることから考えると、海外向けの発信も行っているように思えた。まさに鳥取麒麟の街であると感じた。