何十兆もの細胞が震える猪肉!宮崎県「銀鏡神楽」が受け継ぐ縄文の精神

宮崎の猪生ける山奥で、非常に貴重な神楽が伝承されているという。宮崎県で最も早く国指定の重要無形民俗文化財に指定された「銀鏡(しろみ)神楽」である。この神楽に登場する獅子舞の写真をネットで見かけて、ハッとした。これは縄文につながるほどの歴史の古い舞いだと直感した。とっても素朴で原始的な形態であり、獅子舞研究者として見ておかねばなるまいと思い、この神楽を訪れることに決めた。

12月14日から15日の日程で、鹿児島空港をハブとして、レンタカーで2日間の旅をした。まだまだ宮崎は暖かい。空港に降り立った時、徳島に来たような錯覚があった。バスのロータリーやロータリーの植栽として植えられている椰子の木などがそれを物語っていた。

途中、宮崎市西都市を過ぎると、ソフトバンクの携帯の電波が通じなくなった。家を見つけるのが大変なくらいの山道を川沿いに進んでいく。こんなところに家があるのだろうか?という疑問は膨らむが進むこと30分超。突如川の岸壁に輝く光がちらちらと見え始め、大勢の人々が集まる神楽殿が見えてきた。「あれが銀鏡神楽を行う銀鏡神社か」と驚いた。そこはどこからともなく人がわらわらと集まり、隔絶された秘境に大勢の人が密集しているという世にも珍しい光景が広がっていた。

僕がついたのは夜の20時半ごろ。猪の頭の奉納や神楽の最初には間に合わなかったが、式三番から神楽を拝見することができた。この場にいると、時間感覚を忘れる。神楽の舞台を囲うように屋根付きの場所で布団に入りながら、神楽を見つめる人もいれば、立ってずっと眺めている人もいる。何れにしても、誰も寝る気配がない。非常に驚いたのが、深夜の1時ごろに90歳を超えた老人が式十三番六社稲荷大明神の演目で登場して、元気にそして丁寧に舞い始めたことだった。特に重要な夜だから、老若男女を問わず皆起きているのだ。この神楽が老人の命を延ばし、そして輝かせているようにも感じられた。

ゆずとよもぎの田舎まんじゅう、鮎の塩焼き、ゆずジュースなど、地元のもので作られた食が盛りだくさん。夜を徹して屋台は賑わいを見せていた。屋台の人は「みんな遠いところから来てくれるから、ずっと徹夜ですわ!」と張り切っておられた。また、御神酒の振る舞いもあって、手元が見えない暗い中、半分酔った状態でおじさんが御神酒を注いでくれるもんだから、おちょこからこぼれながらも並々とお酒を注いでもらった。休憩所では、立っているのに疲れた人々の歓談の場になっており、ここで地域の方々にたっぷりと銀鏡神楽のお話を伺うことができた(後述)。空を見上げると、星が輝いていた。とりわけ木星の輝きは印象的だったほか、オリオン座も印象的である。ちょうど「ふたご座流星群」のタイミングとも重なり、非常に貴重な星空鑑賞だった。深夜2時を過ぎて寝不足になりそうということで、次の日の二十九番 獅子舞の取材に備えて、小中学校の駐車場に停めた車で車中泊をすることにした。

2日目(15日)の朝は霧がかかっていた。神楽の進行の時間が全くもって読めないため、目覚ましを5時半にかけた。あらかじめ入手しておいたYoutubeライブ配信URLにアクセスを繰り返して現在の演舞状況を確認しながら寝たり起きたりを繰り返した。5時半のタイミングでは「まだ二十一番か」と思って寝ることにした。それを6時15分、7時と繰り返し、そろそろと思って7時に起きて会場に向かった。まだ二十三番をやっていたが、入念な場所取りを行うため、早めに会場に向かった。写真と動画の撮影場所を吟味して、縄の位置が演者の首にちょうどかからないような構図で撮影できるよう、場所選びに苦労したが、完璧に良き場所を選び出して、最終的には撮影ができた。

獅子舞はまさに猪の舞いであった。あらゆる獅子舞のルーツの舞いに近いと思った。猪には領域があって、人間にも領域がある。それを過不足なく察しながら、生きていく。しめ縄という結界の中で行われた猪の獅子舞は山の神に尾っぽを掴まれながら、ほどほどに舞い、転がり、引っ込んでいった。わずか6分程の舞いであり、非常にシンプルかつ素朴な舞いだと感じた。

それから、西米良温泉・カリコボーズの湯 ゆた〜とに入ってきた。特産のゆずがいれられたお湯があり、露天風呂も良かった。ここで、猪おにぎりや煮しめ楽コロッケを食べたが、供物のように器に入れられて出てきたのには驚いた。そして非常に具がギュッと詰まった濃厚な味だった。祭りのみならず、地域を通じて縄文の血が流れていることを実感した。

13時からはシシトギリが行われた。狩法神事といって、狂言の笑える様子を取り入れながらも狩猟の生活文化を民衆に伝える存在である。方言が強くてあらすじは少ししかわからなかったが、現代と異なる昔の狩猟の風習を生き生きと演じている様が、どこかタイムスリップしたような感覚になった。

そして三十三番神送りでは、顔の前と後ろに鬼のような2つの仮面をつけた3人が登場したことが非常に興味深かった。長野県の八面大王や岐阜県の両面宿儺と似た存在なのではないか。万能神としての象徴か、信仰の対象か。詳しいことはよくわからなかった。

三十三番の後に無料で猪の粥(シシズーシー)が振舞われた。1カップ分飲むことができた。冷めていたが、味が濃くてしっかりとした味だった。毎年味が違うそうで、今年は多少臭みはあったが、美味しく食べることができた。やはり濃厚な縄文文化の味がした。14自販ごろに全ての演目が終了して、その後に宮崎市を経由して、鹿児島空港から帰路に着いた。

この神楽を拝見していて感じたのは、徹夜で見る熱狂的な観客の多さだった。自分は神楽というものを何処か目的を持って、何かを明らかにしたいというふうにみていたが、現地人はただそこにあるものとして、老若男女がただ見つめているという構図だ。そこに何も目的など持っておらず、生活の営みとして眺めているのだ。

銀鏡神楽とは何か?

ここからは知識的な振り返りをしておこう。南北朝時代に京都方面から流入した神楽であるが、土地性を強く反映したここならではの神楽とも言える。自然の法則を見事に説き明かしているかのような神楽である。その演舞内容も非常に狩猟民族の特色を表すものが多く、山の神信仰を強く感じる。猪頭などの贄の奉納がある。タイムラインをまとめると、このような流れであった。

銀鏡神楽の1週間前 村の猟師総参加で猪狩り
12月12日 門〆(かどしめ)
12月13日 17:00頃(早めに始まるとき有り)星の祭り(式一番「星の舞」奉納)
12月14日 19:00~翌朝8:00頃 前夜祭、祭典式、式二番~式三十一番神楽奉納
12月15日 11:00~ 本殿祭 13:00~ 式三十二番「ししとぎり」、式三十三番「神送り」
12月16日 9:00~ 狩場祭、稲荷祭

式十三番六社稲荷大明神

銀鏡神楽の歴史

1489年の神社の創建から続く神楽で、歴史は非常に古い。社殿ができる前から実施していたという話もあり、それを遡ると、なんと南北朝時代に至るとも言われる。銀鏡神楽は米良山系の神楽の系統に入り、米良山系の神楽の源流を考えると、南北朝時代に九州の首府である大宰府を制圧し、南朝方としての九州制覇を成し遂げたことでも知られる懐良親王(かねよししんのう)が米良山中に身を隠しに来たときに、随従した都の舞人が親王を慰めるために上演したのが始まりと言われている。南北朝時代以降の熊野修験や、九州統一に力を注いでいた豪族の菊池氏の入山などもこの神楽の大きな発展に繋がったようだ。また銀鏡神楽の系流を鵜戸門流とも呼んでいたとされ、宮崎県日南市宮浦に位置する鵜戸神宮所在の神楽が日南地域や山間部に伝えられている。高千穂神楽の発祥も鵜戸神楽である。銀鏡からは天和(1681〜1684年)ごろ、濵砂淡路守重賢が鵜戸山道場に通って「鵜戸神楽」「鵜戸鬼神」などの演目を習得して銀鏡神楽に取り入れた。銀鏡神楽は南北朝時代の伝承を骨格としながらも、日向神話、狩猟民俗、稲荷信仰、星宿信仰、宿神信仰などが合わさって生まれた非常に複合的な神楽である。

猪を模した獅子舞の演舞

第二十九番獅子舞は、白衣を着た担い手一人が獅子頭を持ち、獅子の尾とされるその裾をもう一人の面をつけて頰かむりをした人物(山の神)が持つという独特な形態を今に伝える。口を開閉しながら舞台の周りを回り、その後ろに続く7人が軽く飛ぶような所作で舞い回る。獅子は転んで背中を床に擦り付ける「ニタズリ」を行うが、山の神は獅子を離さずに面棒を使いながら獅子を守る。これは山の神が猪である獅子が暴れて田畑を荒らさないように守っている様子を表す。ニタズリとは猪が毛の間に帰省するダニでほてる体を湿地に転がって冷やすものでニタウチとも言い、「のたうちまわる」の語源とされる。また、ニタズリの際に獅子が四方に張ったしめ縄の外に転げ出ると新年は不作になるという言い伝えがある。

拝見した瞬間感じたのは、伎楽の行道獅子の系譜であるということ。獅子頭の形は小型で赤茶色をしていて、睨みが効いている。これは日本全国に伝わる伎楽の獅子である。ただ、その舞いは非常に独特であり、天照大御神を祀る祭壇に向かって、登場した獅子は7人の山の神によって抑えられながら、飛び跳ねまわっている。九州の獅子舞の起源を考えたときに、とりわけ伎楽の流入の文脈での獅子舞の流入は、天武天皇の時代が記録としては最古級である。朱鳥元年(687年)4月、新羅の客をもてなすために、奈良の川原寺から伎楽が筑紫に運ばれたと日本書紀に記されているが、それとの関係性は定かではない。

狩猟文化を伝える神事狂言

三十二番 シシトギリとは猪狩りのために猪の足跡を繋いでいくアトミ(跡見)のこと。方言を使って神事狂言劇を演じるもので、土地の重要な生業である狩猟の模様を模擬的に演じ、土地の神様、とりわけ山の神・狩りの神(鹿倉神)に猟獲への感謝の気持ちを表現したものである。祭壇の榊飾りに用いた椎の木や柴を広げて、ヤマ(鹿倉)と見立て、一方でマナイタを猪と見立ててそれを柴の中に隠しておく。そして、苦心の末に猪を仕留める様子を表現する。猪を仕留め、尻尾をついに切り取るという場面などがある。舞いの形式はないが、この土地の生活の様子を伝える重要な神事狂言劇として、番付の中に「三十二番」として加えられている。

細胞が震える縄文の雄叫び

銀鏡神社の休憩所でたまたま接待にいらしていた銀鏡神楽の担い手の方に、銀鏡神楽に関するお話を伺うことができた。

ーーこの神楽の歴史を教えてください。

銀鏡神楽は銀鏡神社の大祭で奉納される。銀鏡神社は懐良親王磐長姫命大山祇命の三柱を祀り、御神体は背後の霊山・龍房山と御神鏡である。龍房山に向かって、樹齢何百年ものイチイガシがあった。昭和5年の大風で倒れたが、その根本は保存されている。イチイガシの周りでしめ縄を張って、神事をしていた。龍房山には山伏の修験者がたくさん入っていた。祝子(ほうり)には12の家系があった。時代の変遷とともに、そういうのがなくなっていった。今、40人の祝子がいる中で、28人のみ神楽を舞える。中学一年生から96歳までさまざまな人がいる。平均すると60〜70くらいの人が20名。専門集団がいなくなると、産土神に願い、願祝子という制度を作った。神様にお伺いを立てて、現在は近隣の西都市市街地をはじめとして約9割が外部の担い手によって継承されている。

ーー獅子舞に関心があります。

狩猟時代が長かったので、猪、鹿、うなぎ、うぐい、ヤマメなどをとって生活をしていた。猪は複雑な存在で、山の中では貴重な蛋白源で50〜80kgのものをドンと獲ると、一家5人で食いつなぐこともできます。そして、囲炉裏に当てといて長期保存もできます。ものすごく貴重な存在です。神様にはたくさん獲らせてくださいとお願いしますよね。その一方で、猪が増えすぎると、焼畑をやってますので、照葉樹林文化で、ベトナムも中国の雲南も同じように、そば、あわ、ひえ、大根、あずき、大豆などを作っています。それらはみんな猪も好きですから、だからタンパク質を増やして欲しいと願ったら同時に害獣も増えるということなんです。こちらの人が素朴な気持ちで、ほどほどに全滅しないように塩梅よく願うんです。徹底的に収奪はしないわけなんです。お互いが距離感を持って生きていく。猪はゴロゴロと転がるんですよね。あれはニタズリといって、ドロドロしたところでやると寄生虫が払えるし、火照った体が冷えるし、まあ、動物の習性でやるんです。しめ縄の結界があるんですけど、その結界から出ないように、あなたたちの生活領域から出ないように、ここからは出てはいけませんよって、山の神様がついて回るんですよ。山の神様があそこから出たらあかんと見張っているんです。そういう素朴な信仰形態が反映されています。

ーー神楽の初期段階から獅子舞はあったのですか?

最も初期段階から生活に根ざしたものです。とちどちの慣習や文化を反映せざるを得ない。だから、京都のような舞い方をそのまま反映することはできないのです。飲んでいるときに自然と踊っているようなものが自然と舞いになっていくんです。山の中ですから、そのときに取れた一番大事なものを神様に供えるわけですけれども、一般的にはお米ですね。全てのエネルギーを育んでくれるものです。依存せずに何世代も連作障害が出ないですよね。お米はいろんなエネルギーを持っていて、日本では祭壇の中央に供えるんです。形が変わったお餅とか、アルコールとか、全部お米です。この銀鏡神社では、お供え物で一番大事なのが、猪の頭です。祭壇の中央にあります。日本人がカーナビを供えるようなもので、昔は猪が一番大事だった。程よく焼畑を全滅させることはない。今でいえば、生態系の世界を経験則で考えていたのです。

ーー供えた猪はどうするのですか?

これは食べます。骨を砕いて、骨の髄と肉を削いだものを一緒に雑炊にするのです。シシズーシーと言います。明日(15日)の13時以降に振る舞われます。これを食べると、縄文に還った感じがします。宮崎牛ってご存知ですか?3年連続日本一になっているのですが、1万〜3万円する部位もあるんですけど、それを持ってきて、猪とどっちにしますかと聞かれたときに、質問が終わる前に僕はこの猪をパッととります。それくらい猪というのは、塩焼きで食べたりするとね、もうなんというか全身のね、30〜70兆の細胞がひとつひとつ震えるというか、ドドドドドドドドと震えるんです。縄文のね、雄叫びのような感覚があって、自然と同化するっていうか、風が吹けば風になる。雨が降れば雨になる。原初のエネルギーがワーっと湧き上がってくるんです。そういうイメージで猪を食べると、本当に浄化されますよね。環境保護団体や動物愛護団体もいますんで、こちらもほどほどにね。

ーー猪は毎回何頭供えるか決まっているんですか?
基本的には奇数ですよね。1、3、5、7、9という風に。こっちで6頭ならこっちで、何頭という風にトータルの数で考えます。一番多いときは20頭を超えます。僕が12年前にきたときには12.3頭でしたね。

ーー担い手のモチベーションは?

産土の神様に対する信仰心が基盤にあります。僕が中学校の頃は銀鏡に3000人の人がいたんですよ。でも今は200名ちょっとしかいないんです。それでも神楽をしていて、すごいマンパワーなんですよ。昔と変わらないんですよ。人が少なくても、村人総出で出てきてくれて。自分たちでできることで協力してくれているんです。お米を一升提供していただいたり、自分で作ったしいたけを持ってきたり、そういう風に力をあわせてやっていて、それがあるから神楽も続いているんです。ボランティアの方々も応援に来てくれています。

ーーどの舞いが貴重とかはあるんですか?

どれも同じです。狩猟文化があって、それが演目に取り込まれているんですね。土地神様の舞をします。式十番を私は舞います。地舞があって、これとセットになっているのが面白いところです。土着のイメージが大事で、古事記日本書紀に登場する神様ではなくて、山岳信仰の流れの中で必要になってきた土地の神様なのです。土地神さまがたくさん登場するんです。舞人は神と一体になって舞うということです。だからけばけばしさはなくて、石見神楽とか、高千穂神楽のようなものとも違い、地元の神楽です。陰陽道唯一神道などいろんなものが習合しています。日本人も元々、キリスト教の教会でも神社でも結婚式を挙げますよね。クリスマスをやってケーキを食べたらすぐに除夜の鐘を鳴らします。そういう感覚と近いですね。

猪粥(シシズーシー)

ゆずとよもぎの田舎まんじゅう

ほどほどにという精神

担い手は「猪を食べると縄文に還る」という。縄文は1万4000年続いた。持続可能な暮らしのヒントが隠されているかもしれない。「猪とれますように」と願うことは、たんぱく質の摂取のために重要であった。しかし願い過ぎても、ヒエ、アワなどの農作物に害が出るため、ほどほどに願うことが大事なのだ。焼畑は山に火を放って草木を焼き払い、作物を植えるというサイクルがあり、これは実は猪や鹿に火の恐怖を知らしめるためでもあったとも言われる。つまり、猪は獲れて欲しいけれど、作物は守りたい。神様に願う時にはほどほどにすることが大事なのだ。

何事もほどほどにという精神は、方角に対する意識に現れている。銀鏡地域の狩猟では、午前は「三ダイ」午後は「九ダイ」を重視する。例えばその日の干支が「子」なら、午前は子から三つ目の寅の方角、午後は九つ目の申の方角に猪がいるとする。避けねばならない方角は「逆めぐり」といい、時計の12時に子を置き、そこから起算して狩りをする日の干支の数字の方角に行かないようにする。その方角には猪を奪われることを憐れむ神がいて、生き物を守るため、たとえ行っても獲物がないと言われる。

天体的世界観を反映した銀鏡神楽

また今回、会場にいらしていた映画『銀鏡』の監督と話していてわかったことがある。神楽とはもともと植物や人間の生命エネルギーが弱くなり日照りの少ない冬に行うことが多い。この暦と舞との関係性というのも大変興味深いものがある。

「子丑寅の子は種子の種、丑は糸をつけると紐になって根から紐が出てちょっと芽が出た状態、寅は絡むという字になって引っかかるようなほど芽が出てきた状態です。それがずっと続いて、亥は門構えをつけると、閉じるという意味になります。最後に花ができて実になって枯れていって全てのエネルギーが封印されるのが亥なんです。猪をことほぐことで、子にいく力を猪からもらいます。亥の意味は色々あるなと。食料としての役割はもちろんあるけれど、陰陽五行に照らし合わせると、十二支の亥を祀るとした可能性は高いです」とのこと。もともと銀鏡神楽は旧暦だと、11月のお祭りらしい。暦としては秋の終わりに当たるのが亥である。

またこの暦という考え方と照らし合わせて、獅子舞に登場した7人の鬼は、北斗七星かもしれないと直感した。そういえば、舞いの1番は星の舞である。星の舞は「二十八星宿信仰」に基づく神楽で、この舞いによって、銀鏡の地主神である「宿神」が降臨する。星宿とは古代中国の天文学的な分類のことで、太陽の軌道に沿った道である「黄道」の軌跡に存在する二十八星座を宿としてまとめたものだ。星座と星宿の違いは、星座は目立った星々を結び合わせて図像化したものであり西洋の考え方である一方、星宿は軌跡を記録して時を把握した東洋の考え方である。前者が星を平面で捉えているのに対して、後者は星を動くものとして捉えている。この中で北斗七星は古代中国の天文学的な分類における七曜を示し、「日、月、火星、水星、木星、金星、土星」を示す。また、オリオン座の3つの星は神楽において三宝荒神であり、天、地、火を表し日本古来の地主神のことである。

神楽が脈々と受け継ぐ精神性

今回の銀鏡神楽の取材を通して、演舞や食などから縄文の気配を強く感じた。人口減少時代に組織形態は12家族から願祝子に変わっても、山の神にお伺いを立てる精神性は変わらない。そこには山の神がいて、その自然に生かされているという精神が脈々と繋がれている。猪は増えても減ってもよくない。良い塩梅を考えている。それは季節という時間的な流れや天文学的な星の配置など、長い間、悠久の時を刻む自然に対する観察眼でもある。持続可能な暮らしとは何か?環境問題が深刻化する中で、縄文ブームが到来している昨今。我々が銀鏡神楽から学ぶのは、変わることのない自然の摂理とそれと共存する人間の姿かもしれない。

御神体である龍房山を望む

参考文献
濵砂武昭『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』(弘文堂, 2012年7月)
写真 高見剛, 文 高見乾司『神々の造形・民俗仮面の系譜 「九州の民俗仮面」』(鉱脈社, 2012年10月)
高見乾司『米良山系の神楽 その伝承世界と仮面神の系譜』(鉱脈社, 2010年8月)
山口保明『宮崎の神楽ー祈りの原質・その伝承と継承』(鉱脈社, 2000年12月)
野尻抱影『星の民俗学』(講談社, 1978年)