岩手県の宝「黒森神楽」を取材!奥深い歴史を繋ぐ舞いに迫る<2024年お正月公演>

黒森神楽は宮古市山口に鎮座する黒森神社を拠点として行われる山伏神楽である。廻り神楽とも呼ばれ、岩手県沿岸部を中心に広範囲を舞って歩く。この巡業スタイルは三重県伊勢大神楽を連想するような獅子舞だ。国指定の重要無形民俗文化財であり、この巡業によって各地に獅子舞文化を根付かせてきた功績は大きく、また南北朝時代以降の獅子頭が20頭は残存しているため有形文化としてもかなり貴重である。このように獅子舞文化を語る上で非常に重要な意味を持つ黒森神楽の舞い姿をぜひ見ておかねばならないと思い、2023年1月3日、岩手県宮古市を訪れた。黒森神楽の山の神舞は2022年3月にみやこ郷土芸能祭で拝見して感動して、それから黒森神楽の展示室がある宮古市の山口公民館を訪問したことがある。ただ、獅子頭を振る権現舞は拝見したことがなかったので、今回ようやく念願の取材となった。

急坂を黒森神社に向かう

山道をひたすら歩いて、黒森神社に向かう。途中、手入れされた里山を見る。皆伐されている林もあれば、鬱蒼と茂るまさに黒い森のようなところもある。思った以上に登りがきつい。傾斜が45度くらいあるような坂を前のめりになりながら登る。途中、神楽の関係者やお客さんの車が僕を追い越していく。お年寄りはタクシーで向かっている人もいた。歩きは数名で、挨拶を交わしながら、その背中を追い越していく。挨拶をしないと気まずいくらいに森が深くて静かだ。ところどころ紫陽花の枯れ木があって、その種類がいちいちプレートに書かれている。どうやら紫陽花ロードのような形で整備しているらしい。

鳥居の前までついた。横に駐車場が広がっている。黒森神社はどこまでも気が澄んでいて、それは写真を撮影しているとよくわかる。庭があって、とぐろを巻く龍がいた。どこか蛇のように見える。さて、拝殿の前まで来た。関係者がずらりと並ぶ。社務所では箱根駅伝を観ている神社関係者がいる。これから始まる神事とはかけ離れた俗世的な世界がそこに広がっていて、日本の奥地、霊界までも結局皆人間の世界であるという実感を得る。それからしばらくして、鳥居本面から鐘と太鼓の音が響いてくる。直立する杉の木の合間を縫うように小さな人が数名大地を踏みしめ、囃しながらこちらに向かってくる。カメラマン達は一斉にその姿を捉える。ただ、思ったより見物客は少ない。黒森神社まで追いかけてくる人はやはり関係者か芸能マニアな地元の人が大多数であろう。

拝殿前で担い手達は止まり、そして、参道の左右に列をなす。神事は始まらない。宮司と始まりの時間を待つように、少し雑談の時間となる。子どもがあちこちを動き回り、担い手の間を縫うように様子を伺う。

清々しい舞い立ちの様子

黒森神社での舞い立ちは13時から始まった。宮司祝詞奏上や関係者による玉串奉奠などよくある神事があった一方で、扇をひらひらと回す舞いや、5分ちょっとの軽い権現舞も行われた。権現舞では獅子頭と胴体を被らずに2人で手で持ち、それが2頭分並んで行われた。それが終わると拝殿前で記念撮影が行われ、14時ごろには一旦解散して各々山口公民館へと向かった。ところで黒森神楽の社務所には牛王法院などの山伏系のお土産があったほか、鯛の形をした入れ物の尻尾におみくじが挟まっているものを実際の釣り具で釣るというものもあり、黒森神楽の演目のひとつである恵比寿舞にちなんだおみくじかもしれない。とても珍しいおみくじだと思った。

米の粉を額につけるシットギと権現舞

公民館では15時前から舞い込みが行われた。印象的だったのが、まずシットギである。シットギとは米の粉を練ったもので、お餅ではない。庭の中央には杵と臼。臼には米の粉を練ったシットギが入っており、それを杵やしゃもじ、すりこぎに付けて、さらにそれを観客の額や頬につけていく。インドの女性が額に赤い点を打つが、ここでは白い点がどんどん入れられていくのだ。そう言えばこの山口公民館のすぐ近くに「宮古田の神郵便局」という建物を見かけた。田の神さまがいる土地なのだろうか。豊穣への祈りのようなものを感じた。

この舞い込みのシットギでは、権現様も登場して、臼やしゃもじなどを持つ舞手とともに、臼の周りをぐるぐると回っていた。

また、シットギが終わった後、権現舞の2頭舞いが行われた。最初は担い手が獅子の胴体の外側にいて、獅子頭を手に舞うのだが、途中から獅子頭を被り、体を捻って銅幕を体に巻きつけたり、2頭の銅幕が絡み合って連結したりという様子が見られた。また大変興味深かったのが、途中松の木に火を灯した「門火(又の名を松明かし)」が運ばれてきて、獅子の前に2本置かれたことだ。地面に火を置く瞬間、ゆらゆらと何らかの所作をして置かれたのが、どこか儀式めいており印象深い。それから火は獅子の足によって揉み消された。これは火伏せを意味するようである。これを見た瞬間、「あ、富山県射水市六渡寺の松明のようだ」と思った。射水の獅子舞ではよく天狗が松明の火を持ち、ゆらゆらと動かして獅子と対峙する。これが大流行したのだが、修験道と火の関係性を考えるに、黒森神楽の火とルーツが同じようにも思える。

舞台での神楽演舞は感動的だった

さて、この圧巻の演舞ののち、公民館の中で黒森神楽の堂々とした日が昇るような絵柄の幕が張られた舞台にて、黒森神楽の舞台演舞が行われた。我先にと皆急ぎだし、前から席が埋まっていく。僕は少し出遅れたので、脇で立ち見をしながら、撮影を続けることとしよう。舞台から見て左手に獅子頭が2頭、それぞれが2個ずつ饅頭を咥えられて、置かれていた。2頭の間にはろうそくの火が2本。ここに神が降りてきた状態のようだ。

16時前から約2時間、ここで舞台上演が続けられた。演目としては、打ち鳴らし、清祓、大蛇退治、松迎、山の神舞、恵比寿舞と進んでいった。どれも非常に素晴らしい演舞だったが、特に印象深かったのが、大蛇退治と山の神舞である。

大蛇退治はスサノオが八岐大蛇を退治してクシナダ姫を大蛇の手から救うという出雲神話にのっとって進められるが、その大蛇の造詣が赤い衣装を纏った鬼だった。石見神楽の胴長の蛇とは全く造形が異なる。途中、座布団でスサノオの剣と戦う場面があったり、大蛇が会場内をうろうろして、お菓子かを配ったりちょっかいを出したりする姿も見られた。どこかひょっとこのような役割も感じられ、大蛇は単に悪さをして退治されるだけでなく人間に恵みをもたらしてくれる存在でもあり、自然の脅威と恵みの双方の側面を見ることができたように思う。思えば、さまざまな演目の合間にみかんやらお饅頭やらお酒やらをたんまり頂いた。「まだもらってないですか?」などと声を掛け合い、食べ物を分かち合う喜びとありがたみを噛み締める瞬間も数多く見られた。

また、黒森神楽の山の神舞は2022年3月に宮古市民会館でみやこ郷土芸能祭が行われた時に初めて拝見したが、その時以来の大ファンで、今回も拝見することができ、改めて感動した。小刻みに震えるように幕の裏から登場する山の神は、なかなか姿の全容を見せてはくれない。足がこちょこちょと動き、体の細かい動きが自然の営みの何かを形容するようでもあり、深い意味ありげな所作に思えてくる。その部分的で洗練された動きにまず感動を覚える。姿を現した山の神は依然として指先まで震えている。大地の息吹きや怒り、エネルギーを連想させる。繰り出される技は一つ一つが力強い。首を捻り、俯き暗かった顔がパッと明るくなる瞬間も良い。終盤に差し掛かり、お囃子のテンポはどんどんと速度を上げていく。呼吸をしていられないほどに腕を振り回し徐々に神がかりに至ったかと思えてくる。そうかと思えばくるりと首を回して囃子と手を合わせるようにパッと止まる。緩急の妙である。それから幕の裏に行き、天狗面を外して出てきた。体格の良い青年である。最も格式の高い演目である山の神舞い。30分近い演舞に拍手喝采であり、英雄の降臨を思わせる。これだけ素晴らしい舞いは日本全国を見てもそうそうあるものではない。とにかく感動した。何度見ても感動する舞いである。

その後、恵比寿舞の途中で、獅子舞がもう本日は登場しないことを確認して、おいとまする。走って宮古駅から盛岡方面の電車に間に合う。最後まで見たかったが、全て見られるわけではない。これはいつも取材で思うこと。どこまで見届けるべきであろうか。思案はしてもしきれない。黒森神楽という歴史がある奥深い神楽をこんな短時間で分かろうはずもないけれど、その中でも見るべきものは見られた。山口公民館での権現舞は観客が多すぎて良い写真や動画が少なかったのはやや心残りではあるが、最低限の取材はできた。そのような思いで、興奮冷めやらぬ心持ちの中、ライトアップでキラキラと電飾に照らされた宮古駅から18時8分発の電車に乗り込んだ。

広範囲を廻り歩く黒森神楽

さて、改めて黒森神楽を巡り歩くという視点から考えてみよう。今回の取材は1月3日のみだったが、次の日からは廻り神楽としての性格から、巡業の旅が始まる。ここからは文献をもとにした調査で明らかになったことを紹介していく。権現様(獅子頭)を携えて陸中沿岸の村々を巡り歩く。五穀豊穣、大漁祈願、天下泰平などの願いが込められている。この権現様が廻り歩く様子を神楽衆は「巡行」と呼び、神楽を受け入れる地域の人々は「黒森様が来た」という。巡行は旧盛岡藩の沿岸部を山口から北上する「北廻り」と南下する「南廻り」の方向に、隔年でまわる。神楽衆は巡行期間中、平日は仕事に従事しながら、土曜・日曜深夜まで神楽を行う生活をする(2024年は北廻りである)。

ここまで広範囲に長期的に巡行をする神楽は全国的にも珍しい。民家で神楽を演じる巡業の形が現在まで続いていること、神楽衆が昭和初期から平成生まれの世代まで幅広い地域から参加していることが特徴として挙げられる。また、南北朝期以降の獅子頭20頭以上現存し、近世期の記録も数多く残っており、歴史的にも貴重な資料を残す。平成18315日には国の重要無形民俗文化財に指定された。

この巡行形態が生まれた背景として、黒森神社は近世期の資料によれば、修験道の各派に所属しない俗別当(俗人身分のままで寺院統括の責任者を務める者)持ちの神社だったことが挙げられる。俗別当が神楽衆を率いて南部藩領の広い範囲を廻村していたわけだ。そのため霞を荒らす不届き者として、宝暦年間には地域の山伏や修験者から何度も訴訟を起こされた。黒森側は南部藩主のお墨付きを盾にこれらの訴訟に打ち勝ってきたが、宮古市八木沢地区など巡行に入れない地域もあり、それは今でも続いているという。

また儀礼や芸能が山深いところで発展した理由として、天皇家や貴族、武士階級が行う修験道の聖地への巡礼があった。特に11世紀以降に多くの天皇家の人々が吉野や熊野に聖地巡礼を行なった。泊まりごとの寺社仏閣で芸能の奉納をした。都から芸能者を連れて、3~4日に及ぶ芸能大会を開くことさえあった。このような社会情勢が多少なりとも影響しているかもしれない。

黒森神楽の起源と奥深い歴史

黒森神楽の歴史を辿ると、平成九年の黒森山麓の発掘調査では、奈良時代8世紀)のものとされる密教の宝具(三鈷鐃(さんこにょう)、錫杖、鐘鈴)が出土して、古い時代から信仰の拠点だったことが伺える。黒森神社がある黒森山は330mの標高で、その山頂にかつて存在した大きな杉の木が海上航海の目印になっていたようで、山そのものが信仰対象であったことがわかる(黒森神社付近に設置された「黒森山案内図」という看板によれば、黒森山は神奈備系の山として低山・優美・分水嶺であることから、約2000年も前から閉伊全域、すなわち陸奥国のち陸中国の人々の信仰を集めていたという)。

権現様と呼ばれる獅子頭南北朝初期から存在するが、神楽に使うものとして舞われていた証拠はない。神楽が記録として登場するのは江戸幕府が成立して以降のことである。元禄時代になると宗教職能者や芸能者の所属が決まり、社会が安定してくる。修験や山伏の人々も宗教活動をする範囲が定められて「霞場」「檀那場」と称するようになる。羽黒山や京都の聖護院に属する修験者たちなどを筆頭に勢力争いが勃発していたが、盛岡藩寺社奉行1688(元禄元)年1127日「黒森権現の裁配するところを、今後山伏は邪魔をしてはならない」とする「裁許書」を出した。このような山伏騒動の混乱に対して盛岡藩が対処して、徐々に修験者の所属宗派や「霞場」「檀那場」が決定していった。

黒森神楽が信仰され地域に広く受け入れられたた理由として、神霊の可視化という点があったからに違いない。神霊の姿を見たい、声を聞きたいと望む人々の要求に応え、それが獅子頭が舞うことで降臨した神の姿をみることができるという考え方である。

また、神楽衆にとっては神楽をすることによる金銭的な収入が貴重な収入源だった。ひと昔前までは農民や職人は冬に出稼ぎに行かねばならないくらい厳しい暮らしを強いられてきた。主食のコメ栽培には適さない、寒冷すぎる土地だからである。それで、神楽を舞えば、大工の日当と同じくらいの日当を得ることもできた時代もあるそうだ。神楽の宿を提供するのは地域の有力者で、神楽を演じる人々を泊めたり、食事の接待をしたり、見物客を接待したりと多額な費用がかかった。これは一軒の家に勢力が集中して地域社会の人々の反感を買わないように、富の再分配の要素があったとも言われている。そのような家がない場合は、神楽衆は数軒の家々に分宿する。宿を受け入れる側としてはその方が気持ちがスッキリするし、神楽好きや信仰が厚い家もあったと思われる。実際神楽宿を断った家が翌日に火事になったこともあるという。その際に橋の下に神楽衆は寝たらしく、村の入り口には獅子頭が逆さまに吊るされていた状況で起こった出来事とのこと。善悪両義的な存在として、黒森神楽は今日まで地域に受け継がれている。

 

参考文献

宮古市教育委員会『黒森神楽』平成203宮古市発行

宮古市教育委員会『「陸中沿岸地方の廻り神楽」報告書』平成11年3月 宮古市発行(文化庁岩手県助成事業)