日本の獅子舞の源流のひとつとも言える三重県伊勢市。伊勢神宮をはじめとした信仰拠点があり、御頭神事と全国へ獅子舞を伝播した伊勢大神楽へと続く系譜、そして箕獅子といった原始的な舞、どれをとっても一地域の獅子舞とは思えない、どこか日本全国の獅子舞を考えざるをえない地域。それが伊勢だと思う。
1月2月といえば、伊勢の獅子舞が盛んな時期だ。お正月が開けたらどうも伊勢に行かねばなるまいという気持ちになってきて、伊勢市役所文化財課の山本様に電話でご連絡してから、1月14日(日)に現地に向かった。そして、さまざまな知識を教えてもらいながら、獅子舞見物をさせていただいた。今回取材したのは箕獅子1地域、御頭神事3地域の4箇所。1日の取材ながら、ぎっしりと詰まった内容となった。
手作り感あふれる農民芸術「箕獅子」
箕の作り手が獅子舞文化の伝播者であったという話や、箕を使って獅子頭を作ったという話は日本全国的に見られるものの、現在、箕を使って作られた獅子頭が残っている地域はほとんどない。昔は獅子頭は一年ごとに更新して作られた場合もあったようだが、保存という観点から、プロの職人に木造の頑丈な獅子頭を作ってもらうことになったのだろう。伊勢で箕はお田植え祭などの神事(現地読みはじんじ)で苗を運ぶために使われる重要な神器だ。それにしてもなぜこの箕が獅子舞文化の古層に存在するのだろうか。突き止めてみたいものだ。
JR二見浦駅から徒歩30分。広大な土地が海へと続く穏やかな風景を見ながら、朝9時ごろに西区コミュニティセンターに到着。着くと地域の方々が何やら準備を進めているようである。千葉からの来訪者に驚く方もいたが、暖かく迎え入れてくださり、準備風景を見守ることができた。コミュニティセンターには、箕獅子の間と花房の間がある。獅子がどれだけ愛されてきたかを再度実感した。
準備が完了すると、関係者が集まり初会が始まった。皇居、伊勢神宮、箕獅子の3方向に祈りを捧げたのち、獅子を持ってコミュニティセンターの外に出た。松蔭神社と花房志摩守供養碑を回って10時半には終了となった。神社も供養碑も森の中に秘められたように建てられているのが印象的だった。「舞ってみては?」と唆されて手足をノリで動かすということもあったが、基本的に獅子は舞わなかった。ただ、2人立ちで歩き、神社と碑に祈りを捧げ、10時半に終了。簡潔な内容となった。また再度、箕獅子はコミュニティセンターに入り、花房の間に飾られた。昨年の流れであれば、今日限りの展示であろう。昔は夕方まで舞ってそれから飲み会という流れだったそうだが、今では飲み会もなく午前中で終了となる。形式的ではあったが、箕獅子の雰囲気を楽しむことはできた。
伊勢最古級の作り、箕獅子の由来
箕獅子の由来を考えるに、伊勢市中心の山田の獅子は昔、皆箕で作られていたという事実がある。しかし、舞い方などを見ると、御頭神事などとは異なるのが注目すべきところだ。
江戸時代初期に二見地域が神領(神社の領地で、税の優遇などが受けられる)に復帰することに尽力した第7代山田奉行花房志摩守をしのぶための舞いとのことで、これが起源で始まった説がある。実際、最も重要な場所として花房志摩守供養碑があり、ここでは必ず獅子の奉納を行う。この花房志摩守への想いがあるから、箕の獅子が漆塗りの獅子へと変化しなかったのではないかという考え方もある(山本氏)。また古くは獅子舞と同時に注連縄行事も行われており、大注連縄とともに町中を駆け抜けて街全体を清める行事だったようだ。
ただし御頭が神の化身という意識があるのに対して、箕獅子はその意識があまりなく、どこか親しみ深い存在だ。獅子頭の展示会を開いたときに箕獅子は借りやすかったこともあった(山本氏)。
究極のブリコラージュ「箕獅子」の作り
箕獅子の作りに関して「ああでもこうでもないと試行錯誤して作ったんだろうな」と地域の方々が予想をしておられたのが印象的だった。現在は橙の眼と梅の木は毎年取り替えており、それ以外はそのままにしているそうだ。1994年のまつり博の際に作りかえられたようで、それまでのものとほとんど同じ作りだが、昔のものは鮮やかな赤というよりは茶色に近かったかもしれないという。中村佐洲という明治から昭和の絵師が箕獅子について描いており、それも貴重な資料として残っているようだ。
<箕獅子の作り>
・橙の皮に絞り袋の眼を付ける。橙は西区コミュニティセンターから道を挟んで反対側の敷地に生えている木のものを使うと決められている。
・ひょうたんの鼻のてっぺんには梅の木を立てる。
・下顎には右手側にハンドルがついており、それを握って開閉する。これは右利きの人が多いからということでこうなったのかもしれない。
・頭の内部構造にはフサフサなシュロが使われている。
・タテガミは紙垂と言われジャノヒゲである。
・胴体は緑色の蚊帳である。尻尾付近に二見興玉神社の夫婦岩の如く、しめ縄が垂れ下がるような絵が白色で描かれている。
・獅子頭とともに子どもがつけるくらいの小さな能面が保管されていたが、これが何に使われたものかよくわからない。箕曲中松原神社の御頭神事で獅子が休むための天狗役がいたが、あれもお面である。とすれば、面が獅子と対峙する役柄だった可能性はあるが、いかんせん天狗ではないのでなんとも言えない。
・農機具の箕が獅子頭の他に置かれていたが、これは広場に皆で集まった時に、おひねりを募集したことがあって、それを入れるのに使ったそうである。
友喰いの舞などの珍しい舞い方
地域の方によれば「もう10年以上も舞いをしていない」とのこと。『二見町史』(昭和63年3月)によれば、本来であれば初穂の舞、見直しの舞、遺徳感謝の舞、笹喰いの舞、中の舞、友喰いの舞、高砂・相生の舞、銭くくみの舞、竹折りの舞、獅仕舞が行われたという。その全ての舞いの前に、若衆が「ヨォーイ、ヨォーイ」と連呼する。また獅子が舞い始めると、「シッカリ舞ワンセ」を連呼したり、舞いの最後に「ヨロメヤ、ヨロメヤ」と言うらしい。上村邦夫氏は『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)で、「踊りそのものは他の獅子舞とことかわりなくまことに単調なものだ。振り付けなど考える暇もなく、当意即妙に踊ったものだろう。獅子頭も近在から借り入れる段取りもできないままに出来合いで演じたから、却って素朴で真摯な形が三百五十年もの間、受け継がれてきたのだろう」と述べている。即興的で創意工夫が随所に見られ、そして土地に根付いたこのグルーヴ感が伝統に発展したというわけだ。
それにしても、初穂の舞から始まることからして、田植えと大きな関連性を感じずにはいられない。興味深いのは「友喰いの舞」で、これは仲間を食べてしまうと思いきや、自分の尻尾を食べようとしてクルクル舞う所作とのことで謎が深い。また、竹折りの舞は日本の竹にふんどし一丁の男が登り、竹が折れるまで登るとのことで、獅子舞との関連性は謎である。また、獅子舞の担い手以外は基本、縄くくりの神事のためふんどし一丁だったそうで、これが恥ずかしいが故に担い手がなかなか集まらなくなったという話もある。寒いよりも恥ずかしいが衰退理由だったこともどこか興味深い点である。
日本中の箕獅子文化との繋がりあり
その源流のひとつに宇治山田がある。ただし、箕で獅子を作るというのは同時多発的だった可能性あり。参考事例として、筆者が取材する中で知った箕関係の獅子舞は、能登半島の熊無の獅子舞、石川県加賀市の関栄親子獅子、秋田県の本海獅子舞番楽だ。あとは伊勢太神楽の資料関連に、その起源として箕獅子の話がよく出てくる。また、伊勢市役所文化財課の山本氏によれば、岐阜県の「どうじゃこう」や新潟県の佐渡に「たかみ獅子」など、それぞれ類似例が実在するという。個人的にはまだ取材できていないが、新潟県のさんばいし神楽が気になっている。
農民文化なので五穀豊穣。元は3月に実施していた可能性あり。舞いが実施されていたときには「初穂の舞」から始まったことからして、田植え前の重要な祈りが込められていた可能性がある。ただし、現在は1月に移動して、お正月を祝う意味も込められている。
さまざまな獅子舞の源流「御頭神事」
正月15日ごろ、あるいは2月11日ごろに悪霊を祓う行事。町の氏子総代やトウヤと呼ばれる人が中心となって各社で所蔵する獅子頭(御頭)を神楽師たちによって舞わしてもらう。「檜垣貞佳日次略記」には大永3,6年(1523,27年)に失火による汚れで獅子舞が延期された記述があり、それより昔から実施していたものと考えられる。少なくとも御頭神事は室町時代には既にあったようである。最初は伊勢市の中心地の山田産土八社から始まり、それが周辺の農村部や漁村部などの周辺に広がっていくという展開を見せた。大体は七起こしの舞という八岐大蛇の舞いを共通して神社に奉納するが、より周辺部の方が古い舞いが残っている場合が多い。国指定の無形民俗文化財に指定されている高向の獅子舞などがある。また有形文化という意味での獅子頭づくりは伊勢の中で地産されているケースは珍しく、他の地域で頼むことも多い。
この御頭神事を元に作られたと言われているのが、日本全国に獅子舞を伝えた伊勢大神楽であり、伊勢大神楽の最初の記録は山本源太夫家に残されている『伊勢太神楽由来ノ抜キ書』(1661年3月)であり、この年代につながっていくわけである。また獅子が神様の仮の姿と考えるなら東北の神楽や番楽などに登場する権現様と共通の考えである。獅子が八岐大蛇に近い意味として捕らえるなら愛知県の花祭ともつながる。何れにしても日本全国規模に広がる獅子の思想の根幹部分を担うもののひとつとして御頭神事がある。
最古級の御頭神事「箕曲中松原神社」
箕曲中松原神社の御頭には天文21年(1552年)の銘があり、記録が残っている中では数ある御頭神事の中で最古級のものであることがわかる。箕曲にも「箕」の字が使われており箕獅子との関連性について気になっていたが、神社境内に書かれた看板に「この土地の古名「美乃」「美野」、あるいは勢田川の流れが曲がるところを意味する「水曲」「箕曲」に由来していると言われています」と書かれていたのみにとどまった。
まず境内の南側に位置する池の前の鳥居のところで御頭が3回頭を下げる「水鏡行事」が行われる。これが行われるようになった由来は、出発前に姿をみたいのだが御頭が手鏡には映らないので、1.5m四方ほどの大きな池に顔を映して見るということだそうだ。大事な舞いの前には獅子舞も自分の姿を確認しておきたいということだろう。
最初の神社での奉納として行われる12時40分ごろからの七起しの舞いを拝見した。ここでの獅子は獅子というよりは大蛇に近い。須佐之男命が八岐大蛇を退治している様子を七段に分けて表現している舞いだという。お酒を飲んで酔って暴れるが改心して天上に至り神になるというストーリーをもつ。
この舞いの途中、天狗面を被った人物が獅子と向かい合い、演目が終わるごとに獅子がその人物の肩で休むというのが印象的だった。天狗面は被ることはない。富山県や能登半島などは天狗面を被った人物が獅子と対峙して、獅子の行く手を阻むという印象が強いが、伊勢の天狗は全く動かない。猿田彦を反映したものかなんなのか。非常に興味深い。
獅子頭に噛んでもらうときに、「おひねり」を求めてくる。お金を払うと塩を頭にかけてもらって、それから獅子頭に噛んでもらうという手順だ。単にお遊びで噛んでもらうよりかなり神聖な感じがした。ちなみにおひねりは1000円くらいまでの額が多かったように思う。頭を噛んでもらったのち、御頭につけられた紙垂をちぎったものをいただいた。「財布に入れておくとご利益があるよ」とのこと。財布の中に大事にしまっておいた。
それから一旦、神社を離れたが、夕方に戻ってきた。16時半から「剣の舞」があることを人事の掲示板で知っていたからだ。しかし、大幅に遅れてしまい、16時50分ごろに到着したのでもう終わった後かと思っていたが、奇跡的にすぐに担い手たちのトラックが到着して舞いが始まった。獅子舞も進行が遅れていたようだ。その名の通り、剣を使い空間を切るまさに厄祓いらしい所作が見られた。
太っ腹な獅子舞「上社 御頭神事」
キッチンたきがわの御頭舞、神社での奉納演舞の2つを拝見した。子どもたちが和気藹々としていたのが印象的だった。近所の人々がわらわらと集まってきて、輪を作り囲むように獅子舞を見物している。頭を噛んでもらうのに、こちらはおひねりは不要で、それに加えてみかんをいただける流れとなっていた。とても太っ腹だと感じた。箕曲中松原神社のものに比べるとやや簡略化されている印象を受けた。神社でいただいた甘酒には生姜をお好みで入れるようになっていて、しょうがが効いてて美味しかった。
伊勢市『伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、この地域の御頭は雌だと言われている。その理由として目や口が赤いからだという。伊勢市の御頭は雄ばかりのようで、雌は非常に珍しい。
非公開神事が公開された「有滝町 御頭神事」
有滝町は伊勢市の外れの海沿いの町であり、港町の信仰が息づいている。最後の獅子の練り歩きに関して、今年から始めて「見せてはいけない神事」を「見せる神事」に転換。その始めの一歩として、市役所の文化財課にカメラマンとして写真撮影を依頼した。その知り合いの知り合いとして同行させていただく。何も話してはいけない厳かな雰囲気の中、忍び足で後ろをついていく。もともと伊勢市『伊勢市史 第八巻民俗編』(平成21年8月)によれば、「太鼓持ちは、御頭が通ることを町民に知らせるために太鼓を叩き、町民は御頭に出会わないように寝たふりをする」とある。町民が寝たふりをするほどに見てはいけないものだったわけだ。カメラで撮影したら、そのカメラが壊されたという逸話も残る。なぜ見る方向に転換したのか、ということでいえば働き方の変化や担い手を募るといった意味があるようだ。
宮司さんによれば「昔は日が変わるくらいの真夜中にやっていた神事なのですが、最近は18時過ぎとなっています。次の日に仕事の方もいますからね」と。最近は働き方などの観点で、夜遅くまで神事をすると疲れが残るからということで、少し暗くなった時間帯にやっているようだ。柳田國男「日本の祭り」(P106)などに見られるように、昔は祭りは祀りであり、神事性が高く、暗い夜を徹して非公開のものが多かったという。物忌みと精進につながる考え方だ。しかし、それが徐々に娯楽性を増して昼間に時間帯を移すこととなる。まさに日本の神事の簡略化を想起させる事例だ。今回の有滝町の事例に関しては、おそらく自らが穢れることを防ぐよりも、神聖なものに日常的な穢れを移さないという類の物忌みだったのではないかと予想する。それほどに神聖な御頭に対する穢れの感覚値の変異が起こったとも言えるかもしれない。
また1番面白いと思ったのが、御頭の紙垂をむしり取りそれをお守りにするという風習は他の地域同様にあるものの、それに「大吉」などが書かれており、おみくじ方式に変化したようである。「これがあれば皆獅子に寄ってきてくれるのではないか」という宮司さんのアイデアによるものだ。担い手不足が深刻な今、人が寄ってくる方法をとことん考えねばならないという想いが伝わってきた。「若手のホープがいるから!」などと、一番若そうな元気な男の子の方を叩く何気ない姿が、どこか大きな期待と責任を思わせた。
滝がない町なのになぜ有滝町なのか、というのも面白かった。満月の夜に海がザーザーと波を立てるようでその音が滝のように聞こえたことが由来という。獅子舞の合間に藁で作られた「蛸(タコ)投げ」というのがあり、雌蛸(沖の瀬のタコ)と雄蛸(高瀬のタコ)を投げて、見物人が取り合う。拾った人がこれを屋根に上げておくと豊漁になるらしい。どこまでも海の民らしい行事になっていて、ここならではが感じられた獅子舞取材だった。
参考文献
伊勢民俗学会 山本様 作成史料『地誌史料に見える御頭神事と二見町西区に伝わる箕獅子舞』
二見町役場『二見町史』昭和63年3月, p423-p425
伊勢郷土会『伊勢 郷土史草 20号』(昭和56年10月)