三重県伊勢市、宮町駅に降り立った。19時16分、辺りはもう暗い。これから祭りが行われるわけだが、あたりは静まり返っている。本当にここで合っているのだろうか、20分の徒歩ののち、高向大社につく。途中、若い人が数人歩いており、携帯を見ながら何やら話している。ああ祭りがあるんだというなんとなくの確信は持てた。高向大社は明るく照らされており、非常に厳かだ。鬱蒼と茂った森が境内を包み込み、静かな奥深い空間を魅せてくれた。境内までの道の途中に、塞の神、あるいは道祖神のような石があり、紙垂のようなもので囲まれていた。境内に入ると、夜だからどこか神様がお休みになっているように思われたので、柏では虫に聞こえるくらいの音で済ませて、静かに取材に来たことの感謝を伝えて、その場を後にした。
しかし、ここで祭り準備が行われていないということは、、、と彷徨っていると、伊勢市役所の山本さんと道端でばったりと合流できた。そこで、高向公民館の方でやることを知り、一緒に向かった。道中、地域の家々にはしめ縄が張ってあったのが印象的だった。貴い神を迎え入れるかのように高いところで貼られていた。
公民館に着くと、火が焚かれていた。公民館の他に会所もあり、ここには旧式の御頭様が祀られていた。担い手たちのことを高向共盛団と呼ぶらしい。青年団でも保存会でもない組織で、若い人は16歳くらいから、ご年配の方まで多世代の男が集っている。若い人はこの街に生まれ育ったらほとんど義務的にこの団体に入るらしい。団員のモチベーションは騒ぐことが楽しいということらしい。確かにこのお祭りの雰囲気をとても楽しんでいるようだった。
打祭にひたすらついて歩いた
雄と雌の合流
街を回ってきた雄と雌の御頭様は太鼓や篝火を挟むようにして、会所の方面を向きながら衣装替えが行われる。髪の毛である紙製の〇〇を紐のようなものに付け替えてすぐに燃えてしまわないようにしているのだろう。
この御頭様は現在使われているものは昭和50年代に作られたものだという。会所に飾られた旧式の御頭様はいつ頃に作られたものかは分からず「もし年代がついていたらこれはもう有形文化財級なんじゃないか」という話を聞いた。一方で昭和に作られたこの御頭様はもともと伊勢の地元の方が彫ったそうで、値段はいくらだったのかよくわからないという。ただし胴幕は京都の西陣で作った非常に高価な織物で麻製であり、500万円するとのこと。これは火祭りで焦げるなどの危険性もあるものだけれども非常に高価であり、なかなかすぐに買えるものではない。日本全国を見渡してもこれほど高価な胴幕はなかなか存在するものではない。また、この胴幕の模様がとても面白くて、雄と雌で阿吽の絵柄の鶴が描かれている。なぜ鶴が描かれているのかはよくわからない。
だまし
衣装替えが済んだ御頭目掛けて、若い担い手たちが走っていく、それを奪いとろうとするかのようにせめぎ合う。これが何度も何度も繰り返される。途中でせめぎ合う男たちは上裸になり、その格好をした人がどんどん増えていく。
打祭(うちまつり)の開始
まず魚(名前は〇〇?)が供えられたり、ヤカンに入れられた熱湯が御頭の頭の上からかけられたりした。そこから松明が燃えて御頭様は動き出す。この松明は伊勢神宮からもらい受けるらしく、神聖な木を細い薪状にしたものである。
「火の粉が飛んでくるぞ!化学繊維の服は脱いどきな!」と言われジャンパーを脱いでリュックと背中の間に挟み、シャツ姿に。2月の寒さに震えながら、なるべくたいまつの火の近くでカメラを構え続ける。火の近くは非常に熱い。肌が高熱を発しており、暑さで服が溶けるんじゃないかと心配になる。火を離れたらそれはそれで寒い。ちょうど良い塩梅などはない。舞い手の服を見るとボコボコに穴が空いてびっくりする。内側にワイシャツを着るなど重ね着の工夫をしている人もいる。それまで上半身裸でいた担い手たちがしっかりと白い衣装に身を包むのは、この火に対する対策であり、「服を着るのが打祭の合図」と教えてもらった。
交差されたたいまつに目掛けて、御頭は左右にくるくると回る。掛け声は、「三ヤ!」と言えば23歳、「六ヤ!」と言えば26歳、という風に舞手の年齢や所属を表している。それにしても火の粉が飛び散る中で暴れ回る御頭の姿は非常に迫力があった。御頭の重さはなんと30kgあり、それを頭の上で持つ担い手は非常に苦しい。交代の掛け声が来ると、即座に次の担い手に変わる。松明の火の下を潜ってから御頭を持つのをループ的に繰り返しているのだが、これはどこか神域への門という感じがした。
たいまつは路上に立てかけられており、燃え尽きると次々と新しい松明が燃やされ、常に火が灯り続けている状態である。松明の結び目の数は12で、稲藁を家の高さくらいまで長く継ぎながら縛っている。ただ、閏年は13の結び目を作るという決まりがあるらしい。ここら辺も大変興味深い。
斬り祓い
村境に設けられた斬り祓い場がある。そこで見物衆から「カレイーはどうね!」と声が上がり、アラレ状のお餅が撒かれる。その後、斬り祓いの儀式が始まる。しめ縄をまず刀で斬る。この場所自体がそもそも興味深くて、神社でも個人の敷地でもない、この儀式のための空地とでも言おうか。村境に来たる疫病よけのための神事であろうと思われる。しめ縄が切られたら、この場にたいまつを持った人々と獅子舞が走ってやってきて、太刀により軽い峰打ちが入ると御頭は胴体によって即座に丸められ、そのお姿は見えなくなる。
その後、突然、担い手たちは走り始めた。その奇怪な行動に思わず自分も走ってついていく。獅子頭がなぜここで隠されたのだろうか。そして、なぜ走るのか。どこか首を切られた獣が苦しみ悶え、そして、暴れているかのような感覚を得た。走って向かった先は再び会所の前であった。
ここでロウソクが灯る中、獅子頭が供えられ、横の広場で若者たちが「おたか踊り」と呼ばれる踊りを始めた。原始人間はこのように獣と対峙していたのではないかと思わされた。納めの踊りである。その踊りは輪を形成しながら回り続け、静粛というよりかは時に賑やかで、円の中心部分を肩を組んだ男性2人組が早いスピードで回るというシーンも見られた。
それが一通り終わると、団長とご年配の方の挨拶がそれぞれ行われた。若者の「高向の御頭神事が大好きです!10年前〇〇が言ったことを僕も言えました」と先達に敬意を表しながら自分もそれに続けたことに対する熱い想いを叫ぶ団長の言葉にとても感銘を受けた。最後にバンザイをして、その場を終えた。
祭りの後、消防団が残りの日を消化する作業を淡々と行っていた。道端にはたくさんのたいまつの炭が転がっており、道を覆っていた。
19時台から見ていたお祭りが終わったのは23時半ごろ。もう日が変わろうとしていた。そうそう、これほど長い時間夜に行われるのは、古い形式を今に残している証拠だし、さすが国指定重要無形民俗文化財に指定されただけある。僕が拝見できたのは夜だけであったが、担い手たちは朝から神社での奉納舞や、祷屋(とうや、神事で準備・執行・世話役を行う人)宅での舞いなどを行ってからの今である。ものすごい長い時間をしているわけだが、19時台からでも十分濃かった。伊勢には本当に奥深い民族行事が伝承されているとつくづく思うわけである。
ヤマタノオロチ伝播論、「い」から始まるトライアングル
ところでこの御頭神事、ヤマタノオロチを模しているようだが、以前富山県射水市で拝見した松明が登場する獅子舞の演目「大回し」に非常に似ていると思う。こちらでは七起こしの舞はないが、大きな酒樽の酒を飲んで酔っ払い剣で刺される所作や、トグロを巻く所作があり、これはヤマタノオロチを示すという。また、タイマツを使うことは両者の類似点として挙げられる。胴体が長いことから百足獅子とも呼ばれる。
また、山形県長井市辺りの黒獅子も百足獅子、あるいは龍の獅子と言われているが、これも実はヤマタノオロチの部類だと思う。黒くて彫りが深い獅子頭は、どこか高向の御頭神事の獅子頭にも似ており、また伊勢の山田産土八社のとも非常に類似する。山形県長井市の獅子頭職人渋谷正斗氏の話によれば「伊勢度会脇出の一之瀬神社の獅子頭が長井の総宮神社の獅子頭と酷似してるんですね。伊勢信仰も盛んな江戸期前の時代に伝わったのでは?と想像しております。また総宮神社の古い資料には『宇治山田産土八社の獅子舞と似たり』という文節があります」とのこと。
あとヤマタノオロチといえば、愛知県の花祭りである。花祭りにはヤマタノオロチが出てくる地域には獅子舞がおらず、獅子舞がいる地域にはヤマタノオロチがいない。すなわちヤマタノオロチと獅子舞は似た役割を担っており、どこかで変異した可能性が考えられる。あまり話題を広げすぎてもよくないが、ヤマタノオロチは龍、そして蛇に通ずるとすれば、蛇獅子・へんべえとり(岐阜)との繋がりもあるかもしれない。
出雲、北陸、そして山形という日本海側の人々の交流と伊勢、愛知、岐阜といったの獅子舞文化の繋がりが見えてきて面白い。ここら辺の信仰の類似性についてはまたこれから解き明かさねばなるまい。
また高向の御頭神事における会所に最後の御頭様が置かれた際に、御頭様の横に天狗面が置かれていた。雄の御頭様は大きくて脇の天狗面は鼻が高かった。一方で雌の御頭様の脇にある天狗面は鼻が低かった。この天狗面は富山県の射水市では、獅子と対峙する松明を持った天狗が出てくるので、それとの関係性と類似しており、獅子だけでなくこの天狗の存在が獅子舞伝播の分析には欠かせない気がする。高向の御頭神事には、皇学館大学の教授が来ていて話を伺ったらこの天狗の由来はどこから伝わったのかよくわからないものの、伎楽の鼻高面や猿田彦への類似が確認されるとのことで、これらとの関係性にも注目したい。天狗=猿田彦といえば生まれは出雲の神様なので、出雲とのつながりが確認される。この伊勢、出雲、射水。「い」から始まるトライアングルの関係性はいかに?と問い直すことを課題として、研究をさらに進めたいところだ。
奇行狂態の多い妖童出現、御頭を振り村を救う
さて、この高向の御頭神事について、歴史を最後に振り返ろう。「神領山田の系統に属する」というから、山田産土八社との類似がある。神役人佐々木重兵衛高行が寛文四年(1664年)正月に古記を書き写したものを原本とする『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「御頭之開眼供養記」によれば、長暦2年(1038年)8月11日、高向住人本滝定行が、高向東北の鯛祭田の辺りにあった大きな柳の木が3年前から枯れていたのを切って、2頭の御頭を作り、両氏神(高向大社・加牟良社)に献身したものであるという。氏寺正法寺が御頭の保管場所であり、周辺一帯にいくつもの御頭があったようだ。また『伊勢国渡会郡高向郷高向村神社記』に所蔵される「正法寺記」によれば、正法寺の円覚和尚に育てられた神童木椙少年の話が出てくる。宇須乃野社の社頭にあった神木大杉の木の精と言われており、奇行狂態の多い妖童だったという。養和年中(1181〜82年)に全国的な飢饉・悪疫で死者続出となったが、この妖童が御頭を出してお祓い清めを行うとたちまち悪疫が退散したそうだ。この時以来、打祭での御頭振りが行われている。これらの記録から、御頭神事の舞い始めの時期は定かでないものの、少なくとも800年前には行われていたと言えるだろう。それ以来、古制を維持して受け継がれ、昭和52年5月には国の重要無形民俗文化財に指定された。(参考文献?)