7年に1度の大祭!獅子舞が大集結!飯田お練りまつりの盛り上がりの秘訣とは?

7年に1度というのは諏訪大社例大祭との関わりがある。その希少性から祭りの盛り上がりは半端なく、コロナ禍であるにも関わらず、大勢の来客が見られた。基本的には目玉となるのが、獅子舞の練り歩きと門付けである。

実際に現地で獅子舞を見てきた。その様子がこちら。

東野大獅子

一色獅子舞

民俗芸能サロンの祭り展示


飯田の獅子舞の源流とは?

飯田の巨大な獅子舞をひと目見たとき、まず浮かんだのは大蛇だ。ウネウネとした巨体をくねらせるような動きもまるで蛇そっくりである。

さらに言えば、おそらくこの蛇は出雲の信仰にも関わるヤマタノオロチだ。出雲と諏訪は民族的に近い系統なので、諏訪祭祀圏でもある飯田にヤマタノオロチの信仰が存在するのも頷ける。ちなみに801年に坂上田村麻呂が飯田郷を諏訪大社に寄進して以来、大宮諏訪神社をはじめとする飯田の寺社は諏訪神を祀ることが多い。さらに飯田の南には西三河があり、ここに伝わる花祭りには実際にヤマタノオロチが登場するものもある。花祭りにおいて、獅子舞とヤマタノオロチは同じ役割をする。それ故にヤマタノオロチがある地域には獅子舞がなく、獅子舞がある地域にヤマタノオロチがないという場合もある。これが融合した形態こそ、飯田の獅子舞と言えるだろう。

この蛇信仰の系統は北上して飛騨でへんべえとりの小蛇退治の獅子舞に、そのさらに北の富山県の百足獅子の系統にも繋がり、更にそこから北陸を東に遡り東北へと続く蛇やら龍やらの進行経路が見えてきた。以上は多くの私見を含んでいるが、これが本当であれば壮大な物語である。

お練りまつりの始まり

慶安4(1651)年に飯田藩主の脇坂安元が諏訪大宮神社の社殿を大きく改築し、それを祝って翌年3月1日に祝賀祭を開催したのが、お練りまつりの起源とされる。

正徳5(1715)年、安平路から風越山にかけて大きな山崩れが起き、大水が飯田を襲った。いわゆる「未(ひつじ)満水」とよばれるこの大水害の際に、住民が大宮諏訪神社に集まって祈願したところ町は難を逃れたという。中断しがちだったお練りまつりを定期的に実施するようになったのはこの時だったと言われている。

この時は4年に1度(2年に一度という説もあり)だったが、享保19(1734)年の大祭ののちに、諏訪社本宮に合わせて7年目ごとに開催するようになった。

飯田の華やかな獅子舞を支える経済基盤

今に至るまでお練りまつりはどのように発展していったのだろうか。まず、ターニングポイントとして押さえておくべきは、寛政6(1794)年から城下の18町が幟(はた)屋台、囃子屋台、本屋台を競って建造して、豪快に曳き回すのが名物になったということ。これは尾張三河地方の祭礼の影響を受けたと考えられており、この祭りを支えたのは中馬交易などで栄えた飯田の商人たちの財力だったと言われている。

次なるターニングポイントが戦後の昭和22(1947)年だ。戦後まもなくのこの年に市街地のほとんどが焼け野原となる飯田大火が発生し、古い屋台のほとんどが焼けてしまったという。その3年後の昭和25(1950)年から飯田商工会議所が立ち上がり、奉賛会を組織。飯田の中心市街地のみならず周辺地域の芸能を巻き込みながら、お練りまつりが復興された。この時、飯田の農村部には、明治期以降に養蚕で経済力をつけた人々が多く住んでおり、各神社の春祭りに屋台獅子や籠獅子などの大型獅子が演じられていた。それらがそのままお練りまつりに登場するようになり、現在の獅子舞を中心としたお練りまつりが成立した。

ここで疑問となるのがなぜ信仰圏が近い諏訪ではあまり獅子舞が盛んでない一方で、飯田では獅子舞が盛んなのか?ということだ。ここからは個人的な推測になるが、三河という獅子舞が全国に伝播することになった起点になる地域が近くに存在していたこと、そして、飯田がこれらの地域との交易によって富を築いていたことなどが挙げられるだろう。実際、明治期以降に名古屋方面に獅子頭制作を発注していた地域もあるようだ。

大獅子の練り歩きが可能な空間と寛容性

実際に祭りを見物していて、とにかく獅子頭も胴体も大きいという印象を持った。なぜ胴体が大きくなるかというと、太鼓と木組みが胴体の中に入り、大きな胴体を持ち上げているのだ。笛は外側になっているが、鳴らしものを胴体の中に組み込むという発想は演劇におけるバックミュージックの発想だろう。もしこれが正しければ、石川県の巨大な加賀獅子とも通じる思想だ。

胴体が巨大であるということは、それを通すだけの道路空間が必須ということであり、中心の商店街で獅子舞が通れない空間はない。それどころか2頭の巨大獅子がすれ違う場面すら見られた。当然、歩道は歩けないので車道を歩くことになるわけだが、獅子が通っているときに車は獅子に道を譲るのが鉄則である。車に乗っている人は基本的に獅子に注目してせかせかせず、祭りの雰囲気を楽しむのだ。

獅子頭民主化が進んでいる

獅子頭は15万円から50万円と全国的に見ればそれほど高価ではない。ただし、かなり大きな幌や太鼓、衣装などを加味すれば、道具を揃えるのもかなり大変だ。

また、この地域には遊具として獅子頭が出回る文化もあり、飾るための獅子もある。獅子頭づくりはクオリティを求めない代わりにたくさんの作り手がいるという意味での民主化が進んでおり、この傾向は茨城県石岡市山形県酒田市にも類似しているように思われる。段ボールで作った獅子舞であれば3000円程度の安価な値段で手に入るので、手作り感を追求すれば、富山県氷見市の段ボール獅子頭を作る文化にも通じるところがある。

飯田市内でお祭り用具を販売されている片桐屋さんによれば、「この飾り用の獅子頭は中国で作っています。ただし、今回舞っているお練りまつりの獅子頭飯田市の人が作っている場合が多いです。うちでは祭りの法被や鉢巻きを作っています。」とのこと。飾り用の獅子は海外で作ってもらう場合もあるようだ。

また、獅子舞の担い手を18年している方によれば、「獅子頭は飛騨高山や仏壇づくりが有名な北信地域などに発注することもありますよ。」とのこと。獅子頭づくりの地域が周辺に点在しているというのも素晴らしい。

担い手を集める秘訣は保存会

さらに言えば、飯田の獅子舞を運営するのは、基本的に獅子舞保存会の場合が多い。保存会はほぼ年齢に関係なく入会できるのが良い。青年団や若者組、若連中などであれば年齢が限定されてしまうし、なかなか大学に行って一時期地域外に出た人が戻ってきたときの受け皿にもなりにくい。人口減少時代に、多くの人を巻き込むためには、やはり保存会という形態はとても理想的である。飯田の場合は獅子が巨大なこともあり、1地域につき40~50人の担い手がいるのが普通で、全国的に言えばとても多いと言える。それ故に担い手不足解消を考えるにはこの地域に学ぶことも多い。

獅子舞の担い手を18年している方によれば、「参加団体は色々変わってきました。伝統的なところも現代的なところもあります。新しく獅子舞を最近作ったところもあり獅子舞が盛り上がっています。うちの団体は担い手が40~50人です。町内の若い人は声かければ入ってくれる人は入ってくれますね。壮年団や青年団が舞手を請け負っていて、卒業した人が笛を務めたりして多世代が関わっています。4月9~10日は地域の各家を回る春祭りをします。」とのこと。保存会でなくても地域が一体となって、獅子舞に関わるような体制が整っているようにも思える。

 

そのほかにも、街中に祭りの写真を展示・紹介する民俗芸能サロンがあったり、飯田駅の待合室にお練りまつりの写真が展示されていたり、飯田駅の観光案内所がお練りまつりの窓口になっていたりと様々な工夫が満載で、街全体がまつりを応援しているように思えた。コロナ禍でもこれだけの盛り上がりが作れるのは素晴らしい。これに関しては、新型コロナウイルス対策のためにアルコール消毒と検温ができるテントを町の中の各所に設置して、あとはご自由にというスタンスがどこか見物客の自主性を重んじているように思えて、今の時代ならではの素晴らしい開催方法のようにも思えた。

<参考文献>

飯田商工会議所『令和4年飯田お練りまつり公式ガイドブック』2022年3月

小林経広 ほか編『目で見る信州の祭り大百科』1988年12月, 郷土出版社