花祭と獅子舞の共通点とは?愛知県奥三河にて考えた

花祭は太陽神の信仰に基づく死と再生の祭りだ。やはり、山伏の香りがする。実際にこの地には白山修験、熊野修験、伊勢の御師などが訪れ、その芸能を伝えてきたというルーツがある。このことを知ってふと思ったのが、白山修験は謎が深いものの、少なくとも熊野と伊勢が絡んでいるので、獅子舞を伝えた伝道師と花祭りの伝道師がそれぞれ被っている可能性があるという推測だった。本当の起源は定かでないものの、花祭の起源の一つとして有力なのが、今回訪れた古戸の白山祭りだ。

花祭のキーワードは、日本の信仰を凝縮したような「死と再生」の物語

花祭について、中沢新一さんの著書『アースダイバー神社編』(2021年, 講談社)によれば以下の記述がある。

花祭を詳しく研究した折口信夫によれば、天竜川支流域の花祭りに登場する鬼を「春来る鬼」と呼んだ。つまり、冬至を挟んだ霜月に行われる祭りは古い季節の死を促進し、新しい生命の誕生と増殖を準備するふゆの鎮魂祭である。この鬼たちは、春の若い太陽を呼ぶ。新しい生命をみなぎらせた、童子の身体をした太陽として、この鬼たちは出現してくるのではないか。

なるほど、死と再生の祭りという点で、熊野修験らしい。熊野修験では、山中をひたすら歩き、熊野詣をした人々はまさに「再生」を目指したのだと思う。胎内くぐりもまさに、死と再生を促すものである。日が短く木々が枯れ生命力の衰えを感じる冬にこそ、太陽を切望する人々が、湯を沸かし鬼を登場させて太陽を呼び込む。そして、春の訪れを喜ぶ。そういう意味が込められているのだろう。

実際に、この花祭には鬼だけでなく、獅子も登場する。ただ、獅子は単なる獅子ではなく、ヤマタノオロチにすり替わっている場所もあるという。花祭を開催している15地区のうち、1地区のみ、獅子舞が見られずヤマタノオロチが見られる(ヤマタノオロチが登場するのは河内・花祭と中設楽・花祭)。これは白山修験つながりの出雲かそれとも何を示すのだろうか。確かに、島根県ヤマタノオロチの伝承があるものの、獅子舞が非常に少ないことで知られる。つまり、ヤマタノオロチは獅子舞と同様の意味で機能している可能性があるのだ。何れにしても、この獅子舞やヤマタノオロチ花祭りのトリ、つまり長い一日の中で最後に演じられるものだということは非常に興味深い点で注目するべきことだろう。

白山祭りは花祭の原点であり、ハイブリッドな信仰形態

古戸の白山祭りは山道を1時間ほど登ったところにある白山神社で行われる。今回はお祭りライターつながりの和光さんの車で登山口まで連れて行っていただいた。登山道は緩やかであったが、途中からものすごい傾斜に。苔むした岩だらけの世界が広がっており、登山口の結界と登山道中の2本の鳥居をくぐっていく感じが徐々に聖域に近づいていることを実感させた。やっとこさ登った場所には、白山神社。その裏手の数十メートル登ったところに寺院があった。これは神仏習合の証だと思った。そして、いくつかの木の根元にはお供え物があった。お供え物は、柿、ゴマ、餅、蜜柑、酒など、山の暮らしには欠かせない山の幸がてんこ盛りだった。全部手作りで、丁寧に作られたことがわかる。自然崇拝のアミニズムが息づいているのかもしれない。これらを壮観してみるに、廃仏毀釈以前の太鼓から脈々と続くハイブリッドな信仰形態が現在も残っていると直感した。

この白山祭りの神事はまず、午前9時ごろに神社と寺院のような小屋と、数本の木々にお供えをするところから始められた。お酒は小さな竹の筒に、おそらく御幣の本数のみ注がれていた。お供えをしてから、「祓いたまえ、清めたまえ」「畏み畏み申す」などのよく神社で聞く祝詞が挙げられるという繰り返しだった。ただ、仏教の念仏が唱えられる場所もあった。また、唯一とある木の根元のみ、かなり多くの神々が祀られているところがあった。そこでは、大根をくり抜いたところにお酒を注ぎ、飲み合うという姿が見られた。また、「神々現れて...これより打って返す!」と語気を強めて餅を投げるような場面も見られ、それが東西南北の各方位を向いて行われた。これは厄払いの動作か何かだろう。

そのようなお供え物と祝詞および念仏がひと通り済むと、白山神社の前の祠に戻ってきた。その祠の前で、舞いが披露された。構成は舞人1人、太古1人、笛4人だった。それに3パターンくらいの動作があって徐々に激しくなっていった。その後に、お酒を飲みながらみかんやら干し柿やらを食べるという休憩タイムに入った。お酒が15度にも関わらずあまり強くないように感じられ、とても甘かった。これはなぜだろう、1年も山の上のお酒を保管しておくと、甘くなるらしい。結界をつなぐしめ縄には、切り絵のようなものが垂れ下がっており、そこには神社や太陽やら様々な左右対称の絵柄が切り取られていた。これはどうやら、物語らしい。神楽を構成する物語ということだろう。

それから、榊を四方に立てしめ縄で繋いだ結界のあるところ場所で、焚き火を囲みながら、舞いが披露された。これは非常に神聖なものだった。先ほどの祠の前での舞いと同様に舞人1人、太古1人、笛4人という構成は同じである。途中、舞人が2人くらい入れ替わった。そして、白山神社の中から御神体が布に包まれて姿を現したのだが、これが隕石らしい。空から降ってきたようで、これにはびっくりした。隕石を神として祀っているのだ。

また、この舞いと同時並行で、神社の中でも神事が執り行われていた。どうやら、神事と舞いとは別物のようだが、これにも驚いた。舞いの方は自治体の教育長さんやらが出席しているように、古戸地域の方々が継承しているものであり、神事の方はあくまでも神社側の行事ということかもしれない。この行事全体(最後の舞い)が終了したのは、お昼過ぎの13時ごろだった。本当は長丁場で1日がかりで行われるようだが、新型コロナウイルスの流行に伴い、縮小開催ということになったらしい。ほぼ地元の人だけだったので、かなり厳かな感じで執り行われたような印象だった。

また、今回白山神社を訪れてみて、とある文章が壁にかかっているのを発見した。それには昭和48年12月10日作成ということで、以下の内容が書かれていた。

創成年号は確かならざるも、古くからの言い伝えには延喜年間(今より一千七十年前)一人の京聖が加賀国白山より御神霊を迎え此の御山之奉斉し此の地を清浄になすと御霊験を顕すため日夜難行・苦行を遊されたという・・・当地古戸の御珠の舞が振草系の元祖である。

なるほど、延喜年間ということは901~923年ごろにこの神社は創建されたわけで、これ以降に振草系の花祭は伝承されたわけだ。それにしても、創建は白山信仰を起源とすることが明確にわかったのは大きな収穫だった。

花祭会館で行われた展示、芸能の見える化とつなげる力

白山祭の終了後にお餅やみかん、結界の切り絵などをもらったのちに下山。花祭会館で、花祭の展示を拝見することができた。そこで、東栄町まちづくり協会の伊藤さんにこれまた非常に興味深い展示のお話を伺えた。写真と説明だけだった花祭の展示を、もう少し地元の人目線で暮らしの中でどのように受け継がれてきたのか、より工夫して見てもらえたらということで展示をされていた。やはり、祭り当日のみ手伝いを申し出てくれる外部の人もいるらしいが、当日のみだとできることも少ないとのこと。どのような準備段階を経て、祭りに至っているのか含めて感じてほしいということのようだ。また、コロナ禍において花祭りの実施ができない中で、地域の担い手同士の横の繋がりが希薄になっているようで、そこをつなげることで見えてくるものもあるとのこと。今回の展示にはこの社会情勢を受けて必要性を感じての開催ということもあったようだ。

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一番印象的だったのが、花祭の準備風景を花祭会館の倉庫を活用して障子に写真を貼り付ける形で再現していた展示だった。この写真を見ていてふと先程までの古戸の白山祭りの様子を思い返してみると、祭りの最後に榊やらわらじやらゴザやら全てを焚き火の中に入れて燃やしてしまうのが印象的だった。これはその年のものは一年で使い切ってしまうという四季と田植え稲刈りの五穀豊穣的な生活サイクルの一部として回っているのだ。釜も田んぼの土を使っており、それを祭りが終わるとその田んぼに返すそうである。これこそまさに、東北の人形道祖神の制作が一年サイクルで行われているのと同じ考え方だと思った。これは死と再生を示すだけでなく、技術を毎年伝承していくことにも繋がる。日本人独特の保存させずに朽ちさせ、新しく建て替えるという木造建築のサイクルにも通ずる考え方だと感じた。ただし、釜も固定設置の便利なものを使い始めた地域も多いようで、西欧から入ってきた便利な保存をするという考え方が伝統的な生活文化の中に浸透しつつあるようだ。

また、若手中心で「花祭部」というものができ、そこが中心となって今回の花祭りの展示を運営しているという。今回の展示費用は会場費こそかかってないものの、ほとんど私費で行われているようで、メンバーの熱意が伝わってきた。現状の花祭の課題としては、いろんな人が関われるような役割の振り方が重要とのこと。担い手を育てようというよりは今いる人に対してどのように適切な役割分担ができるかが大事という実感があるという。「必要なものは持っていて大事なのは交通整理」という言葉が印象的だった。そのための場所や仕組みが必要ということである。現在は、花祭部が住んでいる人中心となっているが、今後は住んでいる人だけじゃない関わり方もあるのかもしれない。豊川などから通いながらの担い手をする人も実際にはいるようだ。このような方々が動きやすくなるというのも大事だろう。外の人が関わることで、内の人が気づくこともある。

また、伊藤さんはテントサウナ作りもされているようで、テントの中でサウナをしてから、外の川で天然の水風呂に入るというのも楽しみとのこと。綺麗な川があり、とても良いロケーションだ。「個人的にはテントサウナも花祭りに繋がる部分があるんです。」とのこと。これは非常に大きな気づきとなった。暗くて狭くて蒸気が立ち込めて、その独特の空間で人がコミュニケーションをしている。フィンランドの人はその蒸気に神が宿ると考えるようだが、まさにこれは花祭りの湯気に神が降りてくるというのと同じ発想である。

花祭には「へんべ」という動作があり、これは大地の精霊を呼び起こすという意味があるようで、神を呼び起こすという意味では、湯気と同じ発想かもしれない。そして、「へんべ」と言えば、個人的には、飛騨地方の「へんべとり」という獅子舞を連想させる。へんべとはここでは蛇のことで、大地を這う蛇をとるから「へんべとり」ということかもしれない。それがもし正しいと仮定すると、花祭りとへんべとりは非常に似通った太陽神の信仰と言えるかもしれない。花祭りにおいてへんべは非常に重要な基本動作で、稚児の舞を3歳ぐらいの子供がまず始めるように、かなり基礎的な動作として身につけさせる。花祭の担い手は非常に多世代であることが特徴だが、小さな幼児期から長老の年齢までこの動作をしっかりと身につけ、地域の信仰に身体がもう馴染んでいるような人が多いと思う。外から来た人にとっては無自覚ではあるが、地域にとっては当たり前。それが、「へんべ」という動作に現れているのかもしれない。

また、自覚という意味では、各地域の花祭の担い手は、自分の地域と他の地域の違いがわかっている人も多いようだ。これは全地区を見える化していくような今回の展示や花祭会館自体の存在、そして、花祭のMAPを制作するような観光関連の動きなどが複合的にからまりあった結果だろう。獅子舞的視点で言えば、富山県や石川県、岩手県香川県、栃木県など様々な地域でこの「芸能の見える化」という動きがあるように思うが、まだまだ進んでいないのが実態だ。お互いの地区から学び合い、自分の地区を誇りに思う。そういう動きがどんどん進んでいくというのも大事なことだろう。一方で見える化してしまうと、観光化される危うさもあり、そのバランスをどう考えるかが重要な点だと感じる。

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また、花祭会館内では花祭りに登場する、獅子舞の写真や獅子頭の展示なども行われていた。花祭における獅子舞の起源は定かではないが、比較的似たような風貌のようなものが多く、これは鬼の面が各地区全く異なるのと対照的である。いわば、サブ的な芸能として、獅子舞が継承されているということだろう。そして、獅子舞の風貌は渦型が多く、伊勢の太神楽の獅子舞のような獅子頭にも近いような形態に思われた。花祭会館の展示スタッフに獅子頭の制作についてお話を伺ってみたが、どこで発注しているのかよくわからないとのこと。おそらく地域外で制作しているようで、地域内では作られていないようだ。また、豊川のある神社で祀られている複数の獅子頭御神体で、この辺では一番古いイメージがあるとのこと。あと獅子頭は傷みが多く、花祭の鬼の面よりかは更新のタイミングが早い。そのため、比較的獅子頭は歴史が浅いという印象が強いようだ。花祭の鬼面は、細い座布団のようなものを2つ組み合わせてその上からお面を被せるのであまり傷みが少ないということかもしれない。花祭の獅子舞は釜をぐるぐる回ってから、お酒に酔っ払って寝ちゃったり、退治されたりするような演目があるようだ。また、噛まれたら良いことがあるという考え方もある。花祭の獅子舞という領域はあまり研究が進んでいないように思われるので、この点には今後も積極的に注目していこうと感じた。