農山村を未来につなぐには?獅子舞と生業との関わりを考える。石川県津幡町河合谷の獅子舞

小矢部から471号線をぐんぐん山の中に入っていく。ところどころ台風で崩れている箇所がある。ここで本当に合っているのか。不安になるくらい山深い。一部通り抜けできない道路もある。たどり着いたのは、ひとつの神社。場所間違ってるのでは?なんて思いながら、その境内を上っていったら、担い手たちがわっとそこに集まっていた。

最上部の拝殿では神事が行われており、これが終わり次第、獅子舞が始まるようだ。拝殿前の鳥居のところにいる地域のおじさんと喋りながら森と呼吸をするように時間をすごす。このような山の中にも、民俗芸能は息づいているのだ。

石川県津幡町河合谷。この谷には2023年12月末の調べでは、住人が226人であり、その中心となる御山神社の秋祭りでは3つの獅子舞が継承されてきた。それが加賀獅子を源流とする下河合区報徳会の「にらみ獅子」、越中獅子の流れを汲む上河合区塵積会の「踊り獅子」、そして木窪区御滝会の「雄獅子」の3つである。しかし、今ではその中でも上河合と下河合のみで実施されており、木窪区では途絶えてしまっている。上河合が能登獅子という現地の方のお話もあったが、どちらかといえば越中獅子の系統である。河合谷という土地は能登獅子と加賀獅子の系統の地理的な境目でもあるように思える。

僕は大学時代にこの河合谷という地を訪れ、ゼミのフィールドワークに参加したことがあった。農山村の暮らしを満喫して、木窪大滝の辺りで素麺を食べたことが印象深い。さて、今回はその大学時代の先生のご紹介で、獅子舞を拝見する機会を得た。

主要拠点を回る2地区の獅子舞

2024年9月1日(日)、河合谷の御山神社を訪れた。9時からの神事のあと、10時ごろから獅子舞が始まった。獅子舞は上河合、下河合が交互に舞い、神社をはじめとした地域の主要な場所を巡る。今回は御山神社、橋、保育園跡、ふれあいセンターへと進んでいった。神社、境界、空地などは舞場として残りやすいのは学びになった。朝9時からの神事ののち、午前中は各所で舞い、昼間に休憩。15時最終演舞という流れだった。家を一軒一軒回らないで主要拠点を中心に舞っていく手法は、コロナ禍以降、感染防止対策や人手不足を背景として全国的に広がりを見せたように思われる。

実際に獅子舞を拝見して、上河合の能登獅子は子どもが積極的に参加している印象で、子どもと大人の棒振りのコラボが見られた。また、下河合はそれと打って変わって、非常に勇壮で激しい。常人ではなかなかできない演舞であり、クオリティの高さを感じた。スタイルの全く違う獅子が交互に共存することで、鑑賞者からしても飽きない演舞になっているように思えた。

また、昼間の休憩で使われたふれあいセンターは祭りの展示施設としても重要な機能を果たしているように思われた。館内には「祭事の館」という部屋があり、獅子頭や神輿などの祭具が常設されており、来館者はいつでも無料で見学することができる。途絶えてしまった木窪区の獅子頭はもちろん、大正期からの古い獅子頭がずらりと所狭しに並べられている。

上河合の獅子舞

下河合の獅子舞

牛の獅子舞、またしても箕獅子

最も驚いたのが、祭事の館の入り口に吊るされていた牛の顔をした獅子舞のようなものである。これは上河合区に伝わる「牛舞坊(うっしゃいぼう)」と呼ばれるもので、「にわか獅子」として秋祭りに飛び入りで参加したそうだが、現在は舞わなくなってしまっている。この牛の舞いの由来は、1183(寿永2)年の倶利伽羅源平合戦で、義仲率いる源氏軍を勝利に導いたとされる「火牛の計」のために徴用された牛の供養が起源のようだ。農具の「箕」を牛頭にみたて、胴体には獅子舞用の蚊帳を用いて棒振りとともに舞うという(参考:津幡町役場HP・https://www.town.tsubata.lg.jp/kankou/content/detail.php?id=167)。

農具の箕にまたしても出会った。富山県氷見市熊無、三重県伊勢市の箕獅子、岐阜県関市のどうじゃこう、北海道浦幌町の浦幌開拓獅子舞など、箕獅子に関する数々の伝説に出会ってきた僕は、獅子舞文化の伝播者としての箕職人とその獅子舞と。これからも大いに注目していきたい。

河合谷の獅子舞の始まり

河合谷は現在は津幡町ではあるが、昔は羽咋郡だった。獅子舞の担い手について河合谷の獅子舞の始まりを聞いてみると、「羽咋から高岡への道がつながっていて産業としては林業や養蚕が盛んだったので、それを売る場所として高岡との交流があったんです。高岡には炭を売って、高岡から衣類を買ってという経済的な関係性がありました。その中で高岡の方から獅子舞が入ってきたんです」。富山県氷見市熊無で聞いた話とどことなく似ている。商売人が獅子舞の文化を運んできた、そしてこれも箕獅子伝搬圏というわけである。また道は羽咋の方にも道は伝わっていたので、そちらとも商売的な交流があったらしい。もともと河合谷は羽咋郡だったが、津幡町へと合併で鞍替えになった歴史がある。これらは津幡町史に詳しく掲載されているらしい。

獅子舞が伝わったのは大正の頃である。下河合の一番古い獅子頭は「大正元年」の文字が書かれている。木窪区では7~8年前までは獅子舞をしていたとのことである。木窪区の獅子頭には血管のような表現があり、勇ましい。柿渋を塗っているために赤い獅子頭である。昭和35年加賀國住人雲峰の文字、京都に住んでいる人が獅子頭をこの職人に発注し、寄贈したとのことだ。最盛期には周辺地域を含めて、加賀獅子が木窪、牛首、下河合、能登獅子(越中獅子?)が上河合、瓜生に伝わり、それぞれ獅子舞をしていたそうだが、今では上河合と下河合の2つのみで実施されている。

もともと地域ごとに神社があったものの、明治の頃に御山(おやま)神社が合祀する形で作られた。この神社建立のための村の人の娘が人柱となり、なんとかこの神社が建立されたという。この神社に獅子舞がまず伝わって、周辺地域に伝播したということだろう。

これから農山村を繋ぐには?

ところで、取材終わりに河合谷の直売所で購入した笹寿司がとてもおいしかった。お寿司に合うお米なのかもしれない。ふっくらとしてみずみずしく、鯖とお米が生き生きしている。こんなに美味しい寿司はなかなか食べられるところはない。

獅子舞は地域の生業とともにある。河合谷の獅子舞の担い手は、 通いの人も多くて地域に住んでいない人もいると聞いた。 でも獅子舞があるから、1年に一度、集まれる機会があるというお話をする方もいた。 獅子舞の役割をもう一度考える機会になったと同時に、この方々、楽しく集まれる機会がもっとできると良いとも思った。 田植えと稲刈りで集まって、獅子舞が舞うこと(五穀豊穣)とセットになる気もした。 そういえば能登半島中能登町には獅子米というお米があるらしい。米(まい)と舞(まい)がセットになるのは面白い発想である。いずれにしても獅子舞と地域の生業はセットで考えねばならない。自然豊かな山奥で感じたのは、人の暮らしと獅子舞の密接な関わりであった。

ps. おわら風の盆に立ち寄った話

この日の夜、おわら風の盆に行ってきた。町中で男女が踊りまくっている賑やかな夜が3日間続く。風の盆というのは、稲がちょうど風の被害を受けやすい時期であり、お盆過ぎの季節である。対風呪術としては、しし踊りもそうなんじゃないかという説もあるが、風に対抗するにはどうしたらいいか。その答えが踊ることだったわけであり、おわらの踊りにも深い意味がある。七五調の唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練りまわったのが「おわら」の起源とも言われるそうだ。

(参考:おわら風の盆HP https://owara-gyoujiunei.com/