氷見市の獅子舞はなぜ盛ん?神社の数が影響?氷見獅子舞ミュージアムに行ってきた

氷見市はカンブリに代表される漁業、美味しいお米が食べられる場所などとして発展してきた。なぜこの地が日本全国でも有数の獅子舞の数を誇るようになったのか?その地域的な背景に迫って行きたい。そのような思いもあって、ひみ獅子舞ミュージアムに行ってきた。

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ひみ獅子舞ミュージアム設立の経緯

スタッフの仲英伯さんや新井豊さんにお話を伺った。ひみ獅子舞ミュージアムは、平成14年に農村漁村の国からの援助で建った建物である。氷見市全体を博物館にしようという構想があって、獅子舞の故郷という意識もあった。その流れの中で、獅子舞ミュージアムがこの地域にできた。氷見市の各地区に対して補助金に出るような形だったので、池を中心に釣り場を整備するような地域もあったし、地域のコミュニティの中心となる場所を整備しようという流れの中で行われた政策だった。獅子舞を展示してあるところは日本全国見渡してたくさんあるけれど、250人が収容できて獅子舞の実演ができるようなミュージアムはここにしかない。

氷見市の獅子舞の由来

まず氷見の獅子舞の由来は、まず青年団に入ったらギオンブリを習うので京都の祇園だろう。それから天狗が出てくることもあり敦賀の王の舞の影響もある。それから、金沢の加賀獅子からも伝わったと考えられる。また能登半島の七尾の熊獅子やら輪島の御陣乗太鼓やらの影響もある。

氷見の獅子舞はどこに伝わったの?

氷見の獅子舞は北海道への開拓民が現地に伝えたり、石動山の大工や壁屋さんなどの職人が五箇山に行った時に獅子舞を伝え、拡張していった。また、農機具の藤箕を作る職人がそれを売りに歩いたり、三尾という地域では米を振る「ソウケイ」を売りに歩いて、中能登羽咋に伝承されたものもある。

氷見市の獅子舞は、なぜこんなに盛んになったの?

「お宮1つに1つの獅子舞」という意識があり、氷見市には神社が177あり数が多いというのが、獅子舞の数の多さとの相関関係になっている。小さな祠であっても、それを神社の1つと数え、獅子舞を成立させているということもあるかもしれない。大野という地域には、1つの町なのに4つの神社と4つの獅子舞があり、祈る場所が多様である。また稲政という地域では獅子舞が一時期途絶えており、戸数が30いくらしかなかったにも関わらず、獅子舞の道具を揃えるのに730万円かかった。つまり、一戸あたり20万円以上の出費が必要だった。このように祭り魂のある地域もあり、お金もそこそこ持っていないと成り立たない発想である。また、地域によっては、舞い方が同じだと春と秋で分担してお互いの地域を回り合うという場合もあるようだ。また、氷見市含む呉西地区では嫁さんをもらったら、もらった里の祭りには行くのが習慣になっていた。ローテーションで担い手を回すほどであったが、少子化青年団が少なくなり年齢が上がりつつあるのが現状だ。

氷見市の獅子舞の特徴

演目の数が10以上ある場合も多く、演目数が多いのが特徴だ。山と海では激しさが違い、ヨソブリとイソブリという風に演目の名前も変わる。また、太鼓は鏡鏡のようでそれを囲うように鳥居がついており、太鼓の上に神様がいるという意識があり、神社が移動していくようなイメージだという。笛は縦笛が多い。また、獅子頭はほとんど赤色で、赤い獅子は女の獅子だという人もいるが、そうではない。飛騨から来たお客さんがスタッフの方にお話されたことには、赤い獅子の中でも雄獅子が1つ展示されており、その特徴は「上歯の本数が多いこと」と「耳が立っていること」であり、雌獅子の特徴は反対に「上歯の本数が少ないこと」と「耳が垂れて下がっていること」である。

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