縦横無尽に駆け回る!会津の彼岸獅子を追ってきた

福島県会津若松市で行われる春を祝う獅子舞である「彼岸獅子」なるものを拝見してきた。

春のお彼岸と言えば先祖供養の意味があり、雪解けと生命の息吹、喜びを感じる季節であることは確かだ。

ただ、なぜこのお彼岸の七日間を中心として、この地域に獅子舞が根付いたのかは定かではない。疫病避けと結び付いて天正2年(1574年)に踊ったという話もあるので、もしかすると初期段階において疫病避けと彼岸が同時に語られていた可能性がある。

それでは、彼岸獅子がいつから始まったのか?ということについてまず考えていきたい。

彼岸獅子は伝来と伝承を分けて考える

まずこの彼岸獅子の由来を考える上で、伝来時期と伝承時期を分けて考えねばならないということを強調しておきたい。つまり、獅子が初めて舞われた後にしばらくそれを継承することがなく、後になって獅子舞が継承され出したと考えることができるのだ。

では、文献上で初めて獅子舞が行われた記録として、天喜4(1056)年に前九年の役の時、源頼義・義家が安倍一族を撃つにあたり、長引く戦いの中で家臣の士気を高めるために行ったという説がある。

ただし、今日につながる会津の彼岸獅子の伝承の源流を辿ると、江戸時代の寛永年間(1624~43年)に下野国(現・栃木県)の古橋角(覚)太夫が喜多方に移り住み、下柴地域の菩提山安楽寺を中心として獅子舞の伝授したのが始まりだ。それが今日の彼岸獅子の演舞に繋がったとも言われている。

これが、前九年の役の時代のものとどれだけ似通っていたのかはよくわからない。

彼岸獅子に武士の血あり!?敵陣を突破して争いを避ける

この彼岸獅子を伝承してきたのはどの様な人々だったのだろうか?獅子舞といえば、身分の低い人々が旅芸人の形で諸国を巡業して回った興行的な獅子舞も存在する。ただ、会津地方の獅子は全くそんなことはなく、もっぱら担い手になったのは農家の長男である。また、村の青年会や若連中の様な組織を作り、そこに所属する若者たちが受け継いできた。

獅子舞に出ることは成人式に出ることと同じ様な感覚で、もし仲違いの様なものがあれば村八分と勘違いされて焦った親たちは酒を持って息子とともに謝りに行き、仲直りさせるということもあったという。それくらい獅子舞に参加することは大事で格式が高いことであり、かつ地域に住むことと同義であったことがうかがえる。

また、下級藩士たちの支援もあった様で、武道の型みたいなものが仕込まれた獅子舞の動きもある様だ。それゆえ、獅子の担い手たちのプライドも相当高かったらしく、街に出ると隣町の獅子との喧嘩も絶えなかった。その喧嘩の始まりは、弓舞の時に弓を立ててあるのが見える位置に獅子が来たことが合図となって、引き起こされる場合が多かった。弓舞というのは獅子が弓の周囲を舞いながら、最終的には弓を潜るのが最大の見せ場となるのだが、「弓を潜るのは俺だ!」と言わんばかりによそ者が来ると喧嘩になるということかもしれない。昭和初期までは、この様な獅子同士の喧嘩の光景も見られたと言う。

そういえば、会津戦争の際に、城主松平容保の家老である山川大蔵が、田島方面の守備に行っていたのを急遽呼び戻された際に、小松獅子を連れて「通り囃子」を奏し、あっけにとられている敵兵たちの攻撃を避けることができたという話がある。つまり、争い事を平和的に避ける様な役割を担っていたと言うこともできる。ちなみに、民俗芸能が藩境に集中したのは軍事的な争いを平和的に解決するためであったと言う話を聞いた岩手県北上市の時の話と通じるところがある。

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彼岸獅子を見てきた

さて、今回は2022年3月21日に行われた天寧獅子保存会による彼岸獅子を拝見してきた。

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祭りの流れは以下のようであった。

10:30-11:00 鶴ヶ城にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:00-12:30 阿弥陀寺にて演舞(庭入、弊舞、弓舞、袖舞の4演目)

12:30-13:00 七日町通りの3店舗、渋川問屋、七日町菓坊、ろうそく販売のほしばんで演舞(庭入のみ)

お昼休憩→飯盛山方面に門付け→16:30くらいに終了。

実際に演舞を拝見してみると、まさに太鼓踊り系の3匹獅子舞という風だった。首の振り方がカクカクとしており、これは鳥の動きだと思った。とりわけ鶏舞という芸能があるが、あれにも近い気がする。この地の獅子舞は鶏と何らかの関係性があるのではないかと直感的に思った。

また、弊舞は現在、弊舞小僧というキャラクターが登場する。昔は子供がやっており、この役に選ばれることが大変な名誉であったという。15年前以来、子供がやっておらず、現状では人手が不足しており「ひょっとこ」がそのポジションについているとのこと。注目を集め人を笑わせる存在..。子供とひょっとこというのはどこか役割意識が似ているのかもしれない。

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獅子舞の多様なあり方

注目すべきポイントは、以上の祭りの流れからもわかるように、観客がいる中で見せ場を作る一方で、地域に向き合うという姿勢を大事にその両立を実現しているということ。

12:30までの行程においては、カメラマンや報道関係者、祭り好きの人々が輪を作るように人垣をなし、その演舞を楽しむ。僕もそのうちの一人として、今回、この彼岸獅子を取材させていただいた。

一方で、12:30からは「さあ、取材が終わったからお昼でも食べに行こうか」と思っていたら、なんと、まだ演舞をしているではないか。今まではお城やお寺などの会場に人を集めて演舞する形式だったが、この時間帯からは七日市通りのお店を何軒か順番に門付けして回っていたのだ。太鼓と笛の音が明るいストリートに響き渡っていた。

つまり、ここからは宣伝を全くしないで、地域とのお付き合いの中で順々に門付けをしていくというわけだ。門付けする家は、歩道を目一杯まで使ってその空間で踊る場合と、店の中に入って踊る場合の2つのパターンがあった。また、歩道を使って踊る場合、店の中から店主が見ていなくても踊っている場合があった。それを見ていた沿道の人は「店の中の人、見ていないじゃないか!」と驚く声も上がっていた。

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門付けが3軒終了し、獅子役の人々は衣装をとってオフモードに。裏路地にスタスタと歩いて行ってしまい、これから食事にでも出かけるようだ。帰りがけに話を聞いてみると、「お昼食べてきます!そのあとは山(飯森山)の方に向かって踊っていきますよ」とのこと。

それから僕はその場をあとにして、お昼を食べて福島県立博物館に行き、さざえ堂に向かっているときに、再び彼岸獅子に遭遇した。16時前くらいのことである。飯森山の前のお土産やさん・松良に立ち寄って演舞しているところを見かけたのだが、その時にはもう沿道の観客がいなくなっていて、完全にお店の人と獅子たちのみのコミュニケーションが成立していた。

ただ、たまたまその横を通った観光客は「今日は特別な日なんだねえ。これてよかった」と言っていたのが印象的だった。それからもドンドンヒョロヒョロと町のどこかでお囃子の音が鳴っているのも聞こえることがあり、「ああ、そこら辺に獅子がいるのね」と気配を感じることもあった。

また、会津若松市の町中で「お彼岸セール」のような形で仏壇や仏像を販売しているお店を見かけた。お彼岸に対する意識が強い地域性を持っているのだろうか。それから、そのようなお店のガラス窓に、獅子の絵が描かれたビラのようなものを貼っているのも見かけた。獅子を盛り上げようという意識のようなものを感じた。

 

<参考文献>

・伊藤昭一『会北史談』, 令和元年6月, 会北史談会

会津若松市会津の民俗芸能』平成11年12月

・小島一男『会津彼岸獅子』昭和48年6月