獅子舞生息可能性都市~名古屋編~(基礎調査版)

名古屋といえば、日本全国の獅子舞界において非常に重要な場所である。

日本全国に獅子頭が量産されるきっかけを作った「名古屋型の獅子頭」が生まれた場所だからだ。寄木づくりで残材を有効活用して軽くて安価な獅子頭作りに成功した。それに加え、日本最古の年記銘月獅子頭が存在するのも名古屋近くの愛西市だ。

しかし、獅子頭作りは盛んなのに、肝心の獅子舞はあまり数が多いとはいえない。伊勢という江戸時代以降の獅子舞伝播の中心地があったにも関わらず、なぜだろうか?今回は名古屋という場所の獅子舞生息可能性を見抜いていきたい。

名古屋市中心部の獅子舞生息可能性

さて、ここで名古屋の獅子舞生息可能性について調べていこう。 

まずは以下のように、名古屋市内を緑の線で囲った。その中でも名古屋市の西側は住宅街であり、すでにいくつか獅子舞が生息している。また、名古屋市の東側は閑静な住宅街であり、西に比べると獅子舞が少ない。

名古屋駅西側の中心市街地はVの字の形をしており、JR線に挟まれた谷のような商業地である。北には名古屋城があり、この城下町として発展した。このエリアは獅子舞が生息しておらず、からくりや山車などが多い。実際にこのエリアで獅子舞の生息可能性はどのようであるかについて見ていきたい。

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今回は2022年3月25日に名古屋駅を起点としてVの字の商業地を歩き回り、獅子舞のルートを考えてみた。

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名古屋の中心部に獅子舞が存在するとしたら、名古屋高速2号東山線を境に、南北にエリアを分けて考えねばならない。南側は神社と商店街、北側はオフィスと公園ということで、町の傾向は大きく異なる。しかし、実際に歩いてみると不思議なことに、どちらも獅子舞的価値観をほのかに感じるエリアだったので、両エリアの根底にある価値観には共通した部分があるように感じられた。

多分、名古屋に住む当事者たちは完全に異質なエリア同士と思っているだろう。獅子舞によってこの両エリアを結びつけることが、名古屋市という街の新たな可能性を見出すとともに、「名古屋とはどういう街なのか?」の答えにつながるのではと感じている。以下、名古屋の獅子舞生息可能性について、各場所の解説をしておきたい。

<北側エリア>

若宮八幡社

北側エリアは閑静なオフィス街や公園が広がっている。ひときわ格式が高い神社が、この名古屋総鎮守である若宮八幡社だ。愛知県は総じて八幡信仰が盛んに見られるように思われる。その中で名古屋の総鎮守である神社である若宮八幡社でもし獅子舞が実施されれば、名古屋の中心市街地の獅子舞として成り立つのも納得できる。

白川公園名古屋市美術館

若宮八幡社の周辺は比較的閑静であるが、白川公園という大きな公園がある。その中には、現代美術を鑑賞できる名古屋市美術館名古屋市科学館などがあり、市民の憩いの場になっている。この地において、獅子舞をやるとするならば広々と舞うことができるし、家族連れにも評判が良いだろう。

下園公園

人々の憩いの場、水の上に浮かぶ島に、喫煙者たちが集いたむろしている。オフィス街の中にあって、唯一のオアシスとでも言おうか。一方で、一人でお昼ご飯を食べている人も多い。いわゆるお一人様が、この場に来て想い想いのお昼を過ごしているというわけだ。空間的には広々としており獅子舞を見てもらえる可能性も大きい。公園に訪れた人を巻き込んで、共に獅子舞をすれば、新しい出会いが生まれるかもしれない。

瀧定名古屋株式会社

名古屋の都市景観賞を受賞したオフィス。玄関前に森のような雑木林のような景観が広がっている。作られた自然とはいえ、都会の中におけるどこかタイムスリップした空白地帯のような感覚があり面白い。玄関までのアプローチも長いので、獅子舞が舞う場所も十分にある。

大通公園

先日、獅子舞生息可能性を確かめた札幌同様に、名古屋にも大通公園がある。札幌の大通公園は東西に伸びるが、名古屋の場合は南北に伸びていることに特徴がある。どちらも火防線の目的で作られ、テレビ塔がトレードマークになっているのが共通している。札幌の大通公園ができたのが1911年で、それに対して名古屋のができたのは1963年だ。50年ほどの開きがある。名古屋の大通公園の歴史は浅く、実際現地を見ていて若い人が多く集っていると感じた。カフェのテラスや芝生、ベンチなどが数多くあり、このような場所から獅子舞を見てもらえる可能性も高い。担い手確保のためにも、若者向けに舞場の1つとして考えておくのが良いだろう。時折、ミストが放射されているので涼しいし、こういうところで獅子舞をしたら幻想的になりそうだ。

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f:id:ina-tabi:20220330183342j:plain<南側エリア>

YABATON SHOP

名古屋名物の矢場とん味噌カツ。その食べられる前の丸々と太った豚のキャラクター(ぶーちゃん)が、中庭にドカンと置かれている。まるで銅像のようだ。矢場とんのお店では通常、店の壁面に埋め込むようにぶーちゃんが置かれている場合もあり狭そうだが、ここでは中庭の大きなスペースにどかーんと置いている。YABATON SHOPがアンテナショップであることを考慮の上、このような置き方をしているのだろう。本社脇にアンテナショップがあることを踏まえるとここが情報発信のハブであり中枢である。獅子舞に置き換えてみれば神社のような存在であろう。であるならば、ぶーちゃんは神聖なモニュメントだ。

f:id:ina-tabi:20220330183616j:plain三輪神社

この神社にはウサギが大量に生息する。「なでうさぎ」という石像を撫でると、幸せが訪れるという。絵馬は全部ウサギだ。手水舎ら切り株やらにもウサギの人形がたくさん置かれている。都市空間の余白という考え方には、単なる空間的なものではなく、とにかくぶっ飛んでいる雰囲気が余白のようなものにつながることもある。この場所だったら、獅子舞の演舞というある意味ゲリラ的な行為を受け止める余力があるようにも思わせてくれるのだ。

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万松寺

大須新天地通りの一角にあり、大量のお店に囲われているのがこの万松寺という存在だ。賑やかな場所にある上に、一見すると現代的な建築のお寺なので、最近に作られたのかなと思ったが、よく調べてみるとこのお寺の起源は500年前に遡るらしい。このお寺を開基したのは織田信長の父・信秀であり、信秀の供養を行ったのもこのお寺のようである。大須新天地通りの中核として、この場所で獅子舞を実施すれば、かなり多くの人に獅子舞を見てもらえるように思う。そして、獅子舞が新しくできたとしても、その新しさを許容してくれる人がきっといるに違いない。

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仁王門通

大須仁王門通や東仁王門通りなどがある。これらの通りは道幅が広く、まず獅子舞の空間的生息可能性が高い。道端には大量のダンボールが積まれている。これだけの段ボールを道端に置いておけるだけの余白が存在するのだ。それに加え、祈りの精神が今も変わらず息づいている。この「箪笥のばあば」は古くから伝わる箪笥の守り神のようだ。着るものが高価だった時から、各家の着物を守る神として信仰されてきたようだ。この体を触ると、「着るものには困らない」という。

大須観音と富士浅間神社

名古屋高速2号東山線の南側は、北側に比べると商業が活発であり賑やかな印象だ。大須の商店街をメインに考えるならば、信仰の中心となる寺社は大須観音と富士浅間神社になるだろう。敷地面積からしても、ここが一番広くて観客も集まりやすい。話題性もある。だから、これらの寺社を帰着点として獅子舞を考えてみるのが良いかもしれない。

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北側と南側を接続するバスケット広場

ここからは大須商店街から少し離れて名古屋全体を俯瞰してみたい。大須観音と富士浅間神社からそこまで離れていないところに、名古屋総鎮守として名高い若宮八幡社がある。名古屋中心部の神社といえば、若宮八幡社という意識も強い。ただし、名古屋高速2号東山線というかなり道幅の広い道路が通っており、これは大須商店街とは少しエリア的に異なる印象は強い。ただし、ここがうまく接続すれば、名古屋独自の地域的な境界を超えた新しい獅子舞の形が成立するかもしれない。名古屋高速2号東山線の高架下には、地域の若者たちが集うバスケコートなどもあり、このような憩いの場の存在が獅子舞の越境に対する可能性を示唆しているようにも思われる。

獅子舞生息の視点①寺社の数が多い

総じて見るに、名古屋は寺社の数が非常に多い。一度獅子舞をやるにしても、これだけ多くの寺社を検討範囲に入れようと思えてくる都市は他になかなか存在しない。それだけ祈りの数と種類が豊富であることが名古屋の中心部の特徴と言えるだろう。

愛知県は寺社数で日本トップのようだ。この背景としては奈良・平安時代以前に自然信仰が根付いていたからとか、江戸時代に尾張徳川家が浄土宗を中心として信仰を保護していたからとか、様々な説が飛び交っているが真相は定かではない。

獅子舞生息の視点②道路幅が広い

また、名古屋の特徴として道路の幅が広いことが挙げられる。片道4車線というのが当たり前だ。これは戦後の復興計画により大きな道路整備することになった背景がある。地域の土地面積に占める道路の割合を示す道路率は名古屋が全国1位だ。

この道路幅があることにより、「地域の境界性」が強調されていると感じる。つまり、道路を渡り向こう岸に行くには地下道やら歩道橋などを長い時間かけて渡る必要があり、信号も少なくなりがちだ。だから名古屋の地域区分は面白くて、賑わっている地域があると思えば、道路を渡った瞬間に閑静なオフィス街に突入するということもよくあるように感じられる。

この反面で、交通の利便性が向上するため、市民の経済活動はより発展するし、防災面では救急車や消防車の緊急出動が容易になる。また、火災の延焼も防げる。それに加え、地震による建物の倒壊があっても、通行止めのリスクを減らせる。おそらく地域的な境界の分断が起こる一方で、経済活動や防災の観点からは優れた都市設計になっているのだ。

 

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ここからは名古屋市鶴舞図書館で調べた文献史料をもとに、現在の名古屋市内に現存する獅子舞に関する史料を色々と探ってみた。

名古屋市内に獅子舞は少ない

愛知県教育委員会『愛知県の民俗芸能』平成26年3月31日によれば、名古屋市内の民俗芸能は断絶4,中断1を含めて54団体が確認されており、その中でも獅子舞は2つのみである。どちらも港区南陽町の神明社で10月第1日曜日に開催される祭礼に登場するもので、茶屋後男獅子と七反野男獅子という名前がつけられている。この内、七反野男獅子は中断している状態である。

また、愛知県教育委員会『愛知の民俗芸能』平成元年3月31日によれば、もともと名古屋市内には男獅子と嫁獅子という2つの系統の獅子があった。以前、南陽町には25の集落があってそのほとんどで男獅子が演じられていたとされる。ただし、その起源をはじめとする全容は不明である。寛政年間である1789~1801年に海部郡七宝村字徳実から海部郡東南部や名古屋市港区方面に、徳実流男獅子の形態が伝わったことは記録に残されている。また、嫁獅子に関しては、嫁獅子四座が存在し、その中に港本宮町の獅子が含まれていたとされる。神楽系の獅子であり、獅子頭を着けるのが女性の主役であったことから、こう名付けられた。

獅子舞などは名古屋駅の西側に分布

獅子系芸能はより名古屋駅より西側に多く、中心市街地である東側にはもっぱら山車やからくりなどが登場する大規模祭礼が多く、練り歩きが祭りのメインであることが伺える。

これは、住人の所得的なものとも深い関わりを持っていると考えられ、名古屋駅より西側地域は木曽川揖斐川長良川などの川の反乱に長い間悩ませられてきたこともあってから、土地の価格が東側地域に比べて5分の1以下だったこともある。

それゆえ、名古屋城下のまちづくりはとりわけ東側地域に発展した。享保6年(1731年)に藩主の徳川宗春が名古屋に入ってから芸能の奨励策が進められ、商売も繁盛していった。諸国から旅芸人が集められ芝居見物や山車の盛行により賑わいを見せた。名古屋駅より東側の市街地周辺にも獅子神楽は多数伝承されたはずではあるが、現在は行われておらず、やはりからくり人形や山車の方が目立つように思われる。また、都市化の進行や第二次世界大戦中の戦災、昭和34年の伊勢湾台風などの要因により、多くの民俗芸能が消滅したと言われている。

愛知の獅子舞の源流

愛知県教育委員会『あいちの民俗芸能』平成3年1月21日によれば、愛知県内における獅子舞の生息域をベルト上に拾っていくと、海部郡、名古屋市港区、知多半島、西三河豊橋市という風な繋がりが見られ、ここから推測すると、より海側の地域に多く分布しているようにも思われる。

愛知の獅子舞の大本の源流は、元々伊勢から伝わった御頭神事であろう。これは江戸時代以前に伝わったものであり、伊勢大神楽が全国的な伝播を見せる前の形である。愛知県史編さん委員会『愛知県史』平成20年3月31日によれば、尾張で唯一伝わる御頭神事は永正14年(1517年)、伊勢の箕曲大社の神主が山田の八社に伝えたとされる獅子頭の1つが伝来した南知多町篠島のオジンジキ様である。オジンジキ様とは獅子頭のことだと言われているが、これが正月3日から4日にかけて八王子社から神明神社に渡御する。オジンジキ様は全体をオグシと呼ばれる紙垂で覆われているのでその姿は謎に包まれており、オジンジキ様を持つ人の体も半分はオグシで隠れる。持つ人は3人おり、皆オジンジキ様に息がかからないように紙で口を覆う。あくまでも「オジンジキ様は見てはならない」と伝えられている。

獅子頭の在銘で言えば、この南知多町篠島のものよりも古い獅子頭が愛知県内には存在する。中でも中世の年記銘がある愛西市日置八幡宮と星大明社の獅子頭は特筆して古い。1252年の刻銘がある日置八幡宮獅子頭は、日本最古の年記銘であり、破損が多く修理が繰り返されていることから口の開閉など歯打ちの所作が行われていたことが伺える。また、獅子あやし鬼神面が保存されていることから、伊勢地方の御頭神事的な行事が行われていた可能性がある。また、星大明社の獅子頭は右手で鎹(かすがい・鉄の握り手)を持ち、左手で下顎の穴の空いている中央を持つことが推測でき、これは行道獅子ではなくて曲芸的な獅子舞の先駆的な存在であったことを物語っている。

名古屋型の獅子頭は日本全国に!

無形文化の獅子舞に対して、有形文化である獅子頭の資料は格段に少ない。『伝統産業実態調査報告書』昭和54年3月 名古屋市 P.45によれば、獅子頭の材料の大本である材木調達は、名古屋城築城の際に、加藤清正が堀川上流にある西区木挽町、材木町で製材を行ったことに始まる。木曽山脈や飛騨地方から木曽川を通って良材が運ばれ、桑名からは堀川に運ばれ、そこから西区の方までたどり着いたという。

名古屋市史 産業編』大正4年 名古屋市 P.190によれば、この材木は下級武士が仏具を作るのに使われ、それと同時に獅子頭づくりも盛んになった。つまり、仏具の職人が獅子頭も作った。明治時代以降は、問屋制家内工業が発達して仕事の分業化と専門性が増したことから、賃金が低廉した一方で人的資源が増加して、家具職人から良質で安価な残材を大量に手にすることができた。これにより獅子頭も残材を貼り合わせて安価な寄木造りにより量産される傾向が生まれ、これは高価で一木造りを基本とする北陸の加賀獅子とは真逆であるとも言える。この名古屋型の獅子頭は日本全国に向けても量産され広がりを見せた一方で、作者不明のものも多く出回っているという特徴もある。