【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 10日目 小菅波町・大聖寺西町

2021年9月27日

10:00~ 小菅波町

以前獅子舞の本を購入してくださった坂東秀夫さんが区長小浪正夫さんと、農家の東出時弘さんに声をかけてくださり、坂東さんの子供2人含め5人の方にお話を伺えた。築2~3年しか経っていない新しい公民館に獅子頭が3体保管されていた。2番目に古い獅子頭はサイズが大きく、持って舞うのに体力が必要な感じだった。一番古い獅子頭は、昭和20年代制作(終戦の年)で、顎が外れてしまっており、横棒を通して形を固定している。全て、石川県白山市鶴来で作ってもらったそうで、赤色の雌獅子であることは共通だ。ただ、この3つの獅子頭よりもさらに古いものがあったそうで、それは現在残っていない。ということは少なくとも戦前から獅子舞をしていたことになる。小菅波町は作見地区周辺では最も早く獅子舞を始めたと言われ、明治初期に大聖寺相生町から習ったという記録が1986年の加賀市の獅子舞に関する調査で明らかになっている。この時の調査によれば、作見地区の各町は違う地域から獅子舞を習ったという特徴があり、獅子舞を教え合うような文化というのは少なかったと思われる。ただ、戦後の頃は片山津の湯の祭りの獅子舞大会や、加賀市獅子舞大会、作見地区文化祭での獅子舞大会など、各町が獅子舞を競い合う機会は多かったと考えられる。

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獅子舞は春は3月10日、秋は9月5日のお祭りで舞われたほか、結婚式で舞うこともあったが、現在は稲刈り前の8月下旬の秋祭りのみとなった。お祭りの日は朝の6時ごろから夜まで行う。子安神社に始まり、区長、区役、各家を回って最後に神社に帰ってくる。今年はコロナ禍で区長さんや区役さん2.3人しかできなかったが120~130軒ほどの家があり、通常はその家々を回る。加賀温泉駅ができて以降、世帯数は徐々に増えている。獅子舞の運営は青年団が減ったため平成16年ごろに保存会が立ち上がって、それ以来保存会が獅子舞を実施してきた。現在保存会に所属している人の年齢は35歳~60歳で、60歳だと獅子を舞うことが難しくなるのでそのほかの役割を担う(特に保存会を卒業する年齢などは決まっていない)。現在、青年団、壮年団、子供会は町内には存在しない。昔、蚊帳の中には10人ほどが入っていたので中に竹を通して大きく空間を作っていたが、近年は蚊帳に4人のみが入るようになっている。獅子舞の演目は1つで、寝ている獅子が太鼓の音とともに起きて、左右に振れてから豆拾いをするという舞い方である。最初は太鼓の音がゆっくりだが、徐々にリズムが早くなる。昔は太鼓と獅子に加え、笛を吹く人もいた。しかし、昭和20年代にはすでに笛を吹く人はいなくなった。それ以降は笛は使われておらず、公民館に転がっていたことを覚えている。獅子が舞うだけでなく、子供の頭を噛むこともある。ご祝儀の金額は決まっておらず、平均3000~5000円出す。獅子舞を舞ってからご祝儀を受け取るので、金額によって舞い方を変えることはしない。隣の家が舞い方が違うというのはどことなく気まずくなるので、舞い方は統一している。ただ、夏祭りの日には親戚が来る時も多く、1軒につき2度目の祝儀を渡して舞ってもらうこともある。

ps. 小菅波町の町民会館の玄関には、天井に太鼓が張り付いている。何かお知らせがあるとき、集まって欲しいときに区長が叩くそうだ。

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参考資料

作見地区の歴史をまとめた冊子、年代著者不明

石川県教育委員会『石川県の獅子舞 緊急調査報告書』昭和61年

 

13:00~ 大聖寺西町

区長の大塩俊明さんにお話を伺った。大塩さんは現在70歳手前で、元々大聖寺西町のご出身の方である。「あまり歴史の話になるとよくわからなくて..」とおっしゃっていたが、想像に反して、かなり詳しいお話を伺えた。自分の考えたこと含めて以下に記しておく。

大聖寺西町は行政区が非常に複雑ゆえに祭りの形態がとても面白い。大聖寺地区に所属しながらも、西町町民会館は加賀市熊坂町に属している。つまり、大聖寺地区と三木地区の境界に位置しており、獅子舞に関してもどちらの影響も受けていると言える。かつて大聖寺駅前から広い地方町というエリアが西町の方まで広がっていて、西町付近には関所があったようだ。何れにしてもこの場所は少なからず境界性を帯び、様々な文化が入り混じった大変興味深い土地である。

・昔、30年前まで4月中旬の大聖寺桜まつりで獅子舞を実施していた。大塩さんが知る限りでは、最初の獅子舞は能登半島で行われているような棒振りが出てくる獅子舞で、猿田彦が登場した。三木地区は能登の木こりが獅子舞を伝えたと言われており、天狗が登場するので、天狗と猿田彦は同じと考えると、西町の獅子舞は能登半島の影響を受けているとも考えられる。一方で、大聖寺地区には錦町に猿田彦が登場するので、錦町の影響も受けている可能性がある。実際、西町の獅子舞がいつ始まったのかや、どのように伝えられたについてを知る人がいないため詳細は定かではないが、獅子舞に対峙する猿田彦と天狗の存在について注目すると何か手がかりがつかめそうである。加賀市内では現在、天狗・猿田彦が登場する獅子舞は三木地区と大聖寺西部のみなので、このエリアには共通の文化が伝承されており、加賀市内では特異的な事例であることをまず述べておきたい。この西町の最初期の獅子舞について特徴としてはまず、猿田彦が登場しその人は烏帽子をかぶっていた。獅子頭はいつに制作されたのか定かでないが、とても素朴な作りをしていて優しい表情をしている。この時、獅子舞を演じていたのは大人たち(青年団)だったが、いつ頃だったかこの形態の獅子舞は途絶えてしまったという。

・獅子舞が途絶えて何年か経ったのち、「やっぱり獅子舞しよう」という話が出てきたそうだ。「賑やかしで子供に獅子舞をさせてみては?」という話が出たので、子供による獅子舞が始まった。このタイミングで獅子頭も小型のものに変わった。また、この新しい獅子頭に蚊帳も取り付けられていたのだが、なぜか毛布のように分厚いものが付いていた。この獅子頭もいつしか使われなくなって、3つ目の獅子頭を購入した。それが越中井波で昭和59年に50万円で購入したものだ。この時の獅子舞は復活と言っても大人獅子の時とは舞い方がかなり変わっていたと思われる。

・今から約30年前から、桜まつりで獅子舞を行うことはなくなり、祭りが神社のものではなくて町内会の夏祭りのみに切り替わった。それから何年か経って「獅子がいなくて寂しい」となって、最初期の頃の獅子頭を神輿がわりにして運ぼうとなった。実際に神輿を作って運んでみたけれども、子供達にとっては重たくて大変だという結論に至り、台車に乗せてゴロゴロと運ぶ形となり現在に至る。この台車は子供会が作ったものだ。台車を使って獅子を運ぶのも子供会の子供たちで、神輿ほどの人数はいなくても運べる。獅子は口が閉じられ、「西町」の文字が入った台車の台にくくりつけられており、固定された状態で保管されている。その台車の台を台車と装着して当日はゴロゴロ引いて練り歩く。町内は現在、150軒近くの家がある。昔は家が少なかったが、田んぼなどを埋め立てて新興住宅が建ち、それが今では町内の3分の2以上を占めている。新興住宅の出現とともに、祭りの形態が変わっていったとも言えるだろう。夏祭りでは、獅子の神輿以外は、子供会や婦人会などの有志が焼き鳥などの出店をする。また、神輿を回してから、ビンゴゲームやら、ビニールシートを引いてどじょうの掴み取りやら、そうめんを食べる大会をすることもあった。企画は毎年全く違っており、その内容は区役が考える。町内のコミュニケーションを取るのが目的で、そこに神社などの信仰は絡んでこないため、宮司さんを呼んでお神酒飲みということはない(新興住宅の中でも、例えば加賀市湖城町は獅子舞があり宮司さんを呼んでお神酒飲みを行う)。そのため、伝統的な行事を受け継いていかなければならないという考えはなく、新興住宅らしく柔軟に楽しいことを考えて「何か出来ないかな?」という発想で行なっている。夏休みの時期に、1日完結の祭りをする。大体は土日で行う。獅子舞が途絶えたのは笛、太鼓、獅子と役柄が多い中で、子供がいなくなったからだったのだが、最近は子供が多くいる。

▼台車の台と獅子

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▼台車の車輪

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・獅子舞の最初期の頃から今に至るまで、ずっと加賀神明宮の氏子であることに変わりはない。神明宮を中心とした桜まつりに獅子舞を出すことなどはもうなくなったが、それでも本陣を構えて踊りや獅子舞、神輿などを受け入れられる体制は整える。神社がない町だからこそ、神明宮は少し離れてはいるけれども地域にとって信仰の目的地にはなっている。また、この地域の人々は加賀神明宮、江沼神社、菅生石部神社を3社詣と考えて、お正月にはこの3社を回る。獅子頭が少なくとも3つあるということは、すぐにポンポン購入できるものでもないので、かなり歴史的にも古い獅子舞が伝承されてきたことがわかる。太鼓もバチもとても素朴で、バチはおそらく手作りだろう。

獅子頭の古さは、左から2番目、3番目、1番目

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