【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 9日目 加茂町・大聖寺奥鷹匠町

2021年9月26日

7:00~ 加茂町

今日は選挙準備などがあり、朝しか公民館が使えないということで、早朝に獅子頭の撮影とヒアリングをさせていただいた。対応してくださった区長の加野邦昭さんと、取材のアポ取りから送迎までしてくださった吉野裕之さんに感謝したい。加茂町の町民会館に到着すると、出迎えてくれたのは2つの珍しい獅子頭!新しい方の獅子頭は顔が横に長く眉のコーティングがザラザラの金箔が貼ってある。しかも、古い獅子頭には耳と髪がなく、新しい獅子頭にも髪がなかった。新しい獅子頭は宝くじの奨学金によって購入したことだけは裏にプレートが貼ってあったのでわかったが、どちらの獅子頭もいつどこで作られたのかが定かでないようだ。また、獅子頭の髪の毛は実は蚊帳に取り付けられており、獅子頭を蚊帳に紐で取り付けることで、髪が装着される仕組みになっている。このような珍しい形態にも関わらず、蚊帳のデザインはよく見るようなものなので、なおさらどうしてこうなったのかが気になる。

獅子舞の祭りは1年に2,3月のいずれかの日と8月上旬の2回実施する。加茂町は農村地帯なので、五穀豊穣を願う田植え前と刈り取り前ということは想像できるものの、2月というのはかなり時期的に早いので、この季節感覚はとてもユニークである。獅子舞は、獅子2人、太鼓、笛で構成される。コロナ禍では獅子舞が実施できておらず、若い人も少ないので、獅子舞の実施をなんとか保っている状況だ。青年団は現在4人で、そのうち2人は新人なので練習ができていないのが辛い状況である。青年団に所属する年齢は20~24歳ごろと決まっている。大学生はずっとこの地域に住んでいる方で、引っ越してしまって通っている人は今のところいないようだ。演目は2種類で、太鼓の叩き方も2種類ある。祭りの日は町内60軒弱を周り、朝7時ごろに始まり、昼頃に終わる。これは市内の獅子舞の中でもかなり町内を回るスピードが早いと言えるだろう。祭りでは、公民館に始まり、神社の奉納を行い、区長、脇役、代理、各家庭という順番で舞う。ご祝儀は獅子を舞った後にもらうので、ご祝儀の額によって舞い方を変えることはない。ご祝儀の額は3000円、5000円が多いが、多いところは1万円、区長さんは2万円と決まっている。2万円をご祝儀で出す地域はかなり珍しく、獅子舞が盛んな橋立地区でも多くて1万円+お酒などとも言われているので、加茂町のご祝儀は高額だと言える。獅子舞の伝来経路は定かではなく、いつ頃からやっていたのかなどは聞く機会がないのでわからない。また、他の町内の獅子舞を見たことはないようだ。今回の取材で、加茂町の獅子舞はご祝儀、周回スピード、獅子頭のデザイン諸々珍しさを感じたので、ぜひこの魅力を地域の方にも知っていただきたいと感じた。

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18:00~ 奥鷹匠

鷹匠町の獅子頭は一昨日に撮影させて頂いていたのだが、獅子舞に関するお話を伺うことができていなかったので、今日は前回区長で獅子舞経験者の廣澤徹さんにお話を伺った。奥鷹匠町では、戦中は獅子舞をしていないのは確かで、戦前はどうだったのかはよくわからない。昭和24.5年から昭和40年ごろまで獅子舞が行われていた。昭和50年まではしていなかったような気がする。「前掛けをつくらないかんのや」とか、「雪駄を履かないかんのや」とか、そういうやり取りの中で徐々に盛り上がってきたはずだったのだが、いつの間にか人がいなくなって、獅子舞ができないようになってしまった。

廣澤さんのご年齢は79歳なので、獅子舞に参加されていたのは今から70年ほど前で、昭和26年(1951年)のこと。獅子舞を始めたばかりの頃の話だ。相当昔のことだが、今でも太鼓の音を覚えていて練習をしなくても演奏できる。太鼓2人と獅子3~4人で行う獅子舞だった。桜まつりの時のみ獅子舞を実施しており、加賀神明宮で奉納をしてから町内を舞ったり、その逆の順番の時もあった。奥鷹匠町は50軒ほどありその家々を回る。戦後の頃から町名は今も昔も変わらない。獅子舞の特徴は最初、寝た状態から始まる。ゆっくりと叩いていた太鼓は、徐々に激しくなる。頭に角があるのがオスだとも言われているが、獅子頭のオス・メスについてはあまり意識したことがない。

公民館はなかったので、練習場所は昔の郵便局(現在の老人センター)の敷地だったが、郵便局がなくなってからは広場で行うようになった。獅子舞の担い手は小学生と中学生で、青年団という呼び方はしなかった。最初は小学校3年以上でやっていたが、人数がいなくなってきたら、小学校1年生以上となった。大人が獅子舞を演じたことはなく、子供が遊びを持て余していたので、獅子舞をさせるというような感覚だった。大人は基本教える側というスタンスだ。獅子舞に興味がある子が15~6人集まって、子供獅子を行なった。

八百屋とかお菓子屋とか他の町内の個人商店に舞いに行ったこともある。各町内に本陣があり、他町の本陣にも舞いに行ったこともある。祭りの時、お昼はあらかじめ食堂に「何人よろしくお願いします」と予約を入れておいてから向かった。もしくは、奥鷹匠町の本陣で休憩がてら、食堂から仕出しをもらうこともあり、例えば親子丼ぶりを頼んだことがあった。戦後だったので貧しい子供も多く、祭りの日のお昼はしょっちゅう食べることができないご馳走が食べられるという感覚だった。それはとりわけ昭和30年頃に感じていたことだ。

ご祝儀の額については子供の頃なのであまり記憶がない。子供は獅子舞の後に、お風呂がタダになるので、近くの銭湯に入りに行った。最近、大聖寺に銭湯は無くなってしまった。また、本屋さんで使える図書券をもらったこともあり、ノートや本を買いに行った記憶もある。当時の獅子舞の記録というのはほとんど残ってないが、かろうじて廣澤さんの弟が獅子舞を舞っていた時の写真が出てきた。いつの話かわからないが昭和7年頃から撮りためてきたアルバムに挟んであったので、獅子舞が始まった最初期の頃のものだと思われる。獅子頭は白木のもので、法被を着て、渦巻き模様がついた何かの文字が書かれている蚊帳をつけて、獅子舞を行なっていた様子が伺える。どこの家で撮影したのかはよくわからない。

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そういえば、桜まつりとは別に、水森神社の敷地内(大聖寺荒町)で、獅子舞の大会が開かれたことがある。周辺の獅子舞が集って、どの獅子舞が面白いか、愉快か、上手なのかを競い合った気がする。11か12歳の時、昭和25~26年くらいの時の話だったとは思うが、大聖寺の町史には載っていないし、記憶は定かではない。その時に天狗さんが出てきて踊ったり、笛を吹いたり、親子獅子(大聖寺関栄の話?)が出てきたりした気がする。この大会で奥鷹匠町の獅子舞は3位だった。奥鷹匠町から役員(審査員のこと)が一人も出ていなかったので不利だったのかもしれないが、後から「あの子供達上手やったんでないけ?」という話が出て順位が昇格した。

獅子頭は木がむき出しで、漆が塗られていない。今回は、区長の宮崎さん経由で大聖寺地区会館に持ってきていただいたようで、その連絡を受けて撮影を行なった。それというのも、奥鷹匠町には公民館がない。ということは、個人が50年以上もこの獅子頭を保管していたということかもしれないが、誰が保管していたものかよくわからない。昔は漆が塗ってある獅子頭を使っていたのだが、子供がなんやかんややって壊れてしまった。そこで、廣澤さんが子供の頃、町内に大工さんがいて、桐の木を使って獅子頭を作ってくれた。でも、漆を塗るのが祭りに間に合わず「仕方ないからこれ使え!」と木がむき出しの白木の状態で子供に渡した。町内の人々は「白木の獅子なんてどこにもないわ」と呆れる人もいたが、その中でも「白木の獅子も趣があるから、そのままにしとけ!」と言う大人がいたので、漆を塗らずにそのままになった。獅子頭をよく見ると、白い絵の具が薄くわずかに塗っているようにも思えたが、それは廣澤さんから言わせれば「手の垢や!」とのこと。目だけはなぜかきちんと黒と金で塗ってある。鼻の頭には年輪の節の中心が来るようになっており、それを考えると、獅子頭を作った人が相当な技術者だった可能性がある。木は中心から徐々に成長していくので、形が変わる恐れがあるので、年輪の中心を獅子頭の鼻の部分に持ってくるというのは合理的な判断というわけである。しかも一木造りなので、大きな木材が必要になるが、その木材はどこから調達したのかがよくわからない。昔大聖寺には木を扱う大工さんの中でも木造建築関係で腕の立つ人がいて、獅子頭づくりも行っていたと思われる。しかし、この奥鷹匠町の獅子頭を作った人に関しては、今ではもう亡くなってしまっており、多分あの人だろうというのは予想がつくけれども名前が定かではない。獅子頭大聖寺地区会館にて撮影させていただいたときは、青っぽいビニールに包まれていたが、確か「獅子頭」と書いた箱があったように思う。箱の開け方は上下に稼働するような蓋だった記憶がある。

昔の記録については全く残っていなくて、昔は区長さんが一年の中であった出来事について記録するようなノートがあったのだが、そういうものもどんどん溜まっていくので、どこかで整理しなくてはいけなくなる。公民館がない場合はどこに行ってしまうかもよくわからなくなる。町内の歴史をどのようにアーカイブしていくべきかについても考えさせられた取材だった。廣澤さんのように個人アルバムを持っておいでの方の写真から読み取れることもあり、何より記憶が確かでお話ができる方がいてくださることの貴重さを実感する取材であった

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