【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材4日目 保賀町・大聖寺上福田町・上河崎町・吉崎町

7月4日 

本日は石川県加賀市南郷地区の3つの町の獅子舞を取材させていただいた。各町の区長さんや青年団の方などにお会いすることができた。その時に伺ったお話を以下にまとめておく。

①保賀町

区長の徳山真裕さんと祭礼委員会の会長・中出さんにお話を伺った。獅子舞の運営は祭礼委員会がやる。その組織の名前を椨の木(タブノキ)」という。現在はコロナ禍で各家を舞う獅子舞を実施できていない状況で、奉納の舞いがメインとなっている。また、三密を防ごうとすると集まりにくい状況なので、練習もあまりできていないようだ。祭礼委員会は高校生から入って、今では最高齢の人が48歳となっている。卒業のタイミングは特にない。祭礼委員会ができたきっかけは、青年団の人数が足りなくなって、祭りをやってない空白の時期があった。それから復活した時に、祭礼委員会というのができた。48歳くらいまでの人が所属しているが、舞う人はだいたい35歳までの人である。

 

タブノキの御神木

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お祭りの本番は9月の第3土日で行なっている。昔は日が決まっていて、9月18日あたりの平日にやっていたが、人が集まるように土日に変更された。お祭りの当日は朝7時くらいから開始するが、家を一軒一軒回っていた時代は、朝5時くらいから開始して130世帯分くらいを1日で回っていた時もあった。朝はあまり見てくれる人もいなかった。獅子舞が終わるのは夜8時くらいである。近年は町民会館、神社、観音様、区長さん宅、班長さん宅など10~15軒を回る。その場合は朝の10時くらいには終わる。春の祭りもあり、それは町民会館、神社、観音様だけを回る簡易的なものだ。

 

舞い方は「寝獅子」と「立ち獅子」の2パターンがある。寝獅子は神社でしかやらない。獅子頭を新調したのは、10年くらい前のこと。獅子頭の耳がとても大きく、横ではなく前を向いて取り付けられている。井波で製作した。今は3代目である。一つ前の獅子頭は顔が取れて顎と頭しかない状態になっており、練習用で使っている。獅子舞はどこから習ってきたとか、いつ習ってきたのかという詳細はわからない。 

 

②上福田町

青年団長のとうりさんにお話を伺った。獅子舞はどこで習ったのか、わからない。70歳のおとうさんの代から今と同じ獅子舞を行なっており、40年は少なくとも同じものをやっている。獅子頭は3つあり、古くなったものも大事に保管している。全部、富山の井波で作られた。前の獅子頭のデザインなどを参考にして、発注を行なったそうだ。発注するごとに徐々に獅子頭が重くなった実感があるという。獅子頭の耳は布を当てて、外した状態で大事に保管している。獅子頭の制作年は一番新しいものが平成31年作で、その前が昭和に作られたものである。

 

お祭りは3月の第3週の日曜日と、8月の第3週の日曜日の2回やっている。コロナ禍では祭りができておらず、団長になってからは一度も獅子舞ができていない。青年団長は2年交代なので、このままだと団長の時に獅子舞ができないかもしれない。来年の3月にはできたら..と考えているそうだ。お祭りの当日は朝7時か6時くらいから始める。100軒以上を回る。新築が多くなっており、世帯数は増えている。シャンシャン、カンカラカン、チョウチョウ、三番叟が1号、2号の5つのリズムがある。三番叟がは、小学校1~4年、5~6年で棒の長さが違う。シャンシャンをよく踊り、子供の家はカンカラカンが多くて、チョウチョウは新築の家などで踊る。チョウチョウは祝いの意味が込められていて、頻繁に行う訳ではないので踊れる人が少ない。昔から踊りは変わっていないが、少し型が崩れているという話もある。青年団が若いので、一層昔との違いがひきたってしまっているということもあるだろう。ただし、これは現代風に踊りやすいように進化しているとも言えるかもしれない。

 

獅子舞の担い手になるのが小学校1年から小学校6年まで、大人が30歳くらいまでとなっており、かなり若い方が多い印象だ。青年団は全部で10人はいる。獅子舞の構成としては、太鼓が1人、獅子が3人、笛が1~4人くらい。獅子舞に参加した子供は小さい子は1000円、小学校5~6年は3000円がもらえて、お菓子ももらえる。各家からもらうご祝儀は3000円以上である。ご祝儀の額によって舞い方が変わるわけではない。演目はいくつかの種類があるので、青年団がその場で何を演じるかを決める。

 

▼上福田町の獅子頭

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③上河崎町

区長の舛田俊一さんにお話を伺った。平成30年に新調したのが最も新しい獅子頭。デザインから推測するに、おそらく富山の井波で作ったものだろう。宝くじの助成金で購入したため、獅子頭の耳に宝くじのマークのシールが貼られている。古いの合わせると合計4体の大きな獅子頭が公民館に保管されている。獅子頭は古いと捨ててしまうところも多いので、このように大事に保管されているのは珍しい。一番古い獅子頭は塗りがシックな風合い(つや消し?)で、その点では大聖寺菅生町の江戸時代作の獅子頭と似ている。獅子頭は徐々に軽量化している傾向がある。4体の獅子頭が並立することなく順々に使われてきたということは、おおよそ100年以上、獅子舞が行われてきたと考えられる。上河崎から獅子舞を習ったという地域もあるので、歴史もかなり古いだろう。

 

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お祭りは春と、8月の第3土曜日に実施している。170軒くらい家があるので、朝早くから舞い始めないと一日で終わらない。太鼓と獅子舞のみで、棒振りなどはいない。南郷は棒振りがいるので、少し獅子舞のイメージがそれとは異なる。昔は獅子舞のお祭りののち盆踊りもやった。ご祝儀の額は一般的には3000円、町役の人は少し高めに払う。今は獅子舞運営は青年団だけではやっていけないので、年齢を上げるために保存会を作った。また、青年団のOBを青茄会(あおなすかい)と言い、お祭りなどのイベント企画をされてもいる。これは壮年団と似た機能を持つ組織だ。明治時代以降に書かれたと思われる青年団の決まりに関する書物があり、公民館に掛け軸のような形で飾られている。一般的には昔は青年団はすごい力を持っており、全国大会を行なったこともあった。その結束力が垣間見れる貴重な書物である。

 

④吉崎町

片野一也さん(吉崎町区長)、桶田和芳さんを上田朋和さんにご紹介頂き、お話を伺った。吉崎町は福井県側と石川県側に分かれている。元は越前国だったが、平安時代加賀国と分けられて、明治17年内務卿の山県有朋(やまがたありとも)が最終的に、福井県と石川県の県境の線を引いた。吉崎町に伝わる太鼓には「化粧町(けしょうまち)」という文字が書かれている。おそらく、吉崎町のことである。吉崎御坊蓮如上人が開いた場所だが、人が集まる場所になったので、遊郭も自然とできていった。だから、「化粧」はそれが由来となっている。吉崎御坊のお山のところには、それに関する句碑(ここでは「化生」という漢字)が建っている。この句碑があって初めてこの地が化生町であることがわかった。この類の話は、金沢市二俣町の神社にも残っており、街道沿いなので吉崎との繋がりもあったと言われる。また、吉崎御坊のお山には高村光雲が作った蓮如上人の銅像もあり、戦争の時に供出しなくてはいけなくなったが、怪我をする人が出て祟りがでるということで取りやめになった。この山には石碑など様々な石造物があり、信仰の聖地ということが再確認できる。

 

▼化生町の由来に関わる句碑横の説明書き

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また、瀬越町と吉崎町の神社は関連性がある。瀬越町が男の神社で、その神様が吉崎町の女の神社に夜這いに行く。男の神社には裏門があり、そこが夜這いのルートだった。吉崎の神社は福井大地震(1948年)の時に壊れて瓦が散乱していた。北前船の関係で裕福な町だったため、拝殿はかつて2つあったがそれらは破壊されてしまった。裕福な町といえば、瀬越町も道路がアスファルトではなく、コンクリートで固められていたし、お金持ちの家2軒が町の税金を全部払っていたということもあった。

 

▼夜這いのルートになった門?

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※7/6追記 夜這いの門とはこの門ではなく、違う木の門だったかもしれないとのこと。また、瀬越町と吉崎町は姉妹同士で、瀬越町の神様が吉崎町の神様のところに遊びにいったという説もある。

 

吉崎町は福井県側が春日神社で神楽、石川県側が白山神社で獅子舞を行う。獅子頭は知田工房で制作した。また、獅子舞は塩屋町から教わった。塩屋町とは太鼓の叩き方や獅子の舞い方が一緒だ。吉崎町には、桶田さんが作成した金色の神輿用の獅子頭がある。しかし、この獅子神輿ができる以前は、なんとアンパンマンの神輿を運んでいた。今から20年も前の話である。獅子舞の祭りは3月20日と9月19日に行なっていた(石川県側の話)。始まりは7~8時で午前には終わらせていた。午後からは子供神輿が行われた。福井県側の吉崎町にも獅子舞があった時があり、それが石川県側の吉崎町をまわったこともあった。商売していたところを中心に5軒ほどをまわった。福井県側と石川県側で祭りの日が異なっていたためである。獅子舞の種類は1種類で、寿の文字を描いた。ご祝儀が多い場合、ノミ取り(筆者的には柳田國男『獅子舞考』で獅子舞の起源としてにわか踊りの話が出てくるがそれとの親和性を感じる)の動作を右左と行なった。ノミがなかなか取れないので、寝てしまうような動作もあった。寝てしまったのちに、太鼓の音で目が覚めた。獅子舞というのは、獅子に魂を吹き込む感じで舞わねばならない。いくら教えても、人によって個性が出てくる。

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獅子舞を最後に舞ったのは県境の館ができた年(2015年)である。それ以来、獅子舞は行なっていない。獅子舞が途絶えたきっかけは、人手不足だった。最後に獅子舞をやっていた時は5~6人だった。獅子舞を行うのに最低必要な人数が4人で一見ハードルが低いものの、交代する人も必要なので、10人以上は担い手がいないといけない。獅子頭を持つ人間が一人だと特に厳しい。獅子頭の後ろにいる人も舞っているのについていく必要がある。ストーリーがわかっていて、各々の個性も把握して、今から行くぞ行くぞという風に舞わなくてはいけないのだ。昔は塩屋町と瀬越町と吉崎町が合同で塩屋の緑丘小学校(53年前に設立)に集まり、20周年あたりで舞ったことがある。その時には、塩屋町と吉崎町の獅子舞は似ていると思ったが、瀬越町のはまた違う舞いだと感じたそうだ。獅子頭に関しても塩屋町と吉崎町は似ている。現在、獅子頭は使い込まれ、髪の毛が少しずつ薄くなっている様子がうかがえる。今では使っていないものの、大事に保管されている。