【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材5日目 橘町

7月5日 

本日は石川県加賀市橘町の獅子舞の取材を行った。取材先は橘町区長の田中さとしさん。公民館がない町なので獅子頭には「宿」があり、その宿が田中さんのご自宅(獅子舞が3年前に途絶えてしまって、それ以来田中さんの家が宿)となっているため、そこで獅子頭や小道具の撮影とインタビューをさせていただいた。毎年、獅子頭の宿は町内の家を順々に回っていく。これは区長役とは別の回りかたをする。獅子頭は雌獅子で35~6年前に野々市市の浅野太鼓で購入した。獅子頭と太鼓は小道具の中では特に高価である。橘町は軒数が少ないが神社基本財産という町内会費のようなものがあって、それを毎月集めてうまく貯金しながらも寄付を募って購入していたようだ。その他の小道具は大工さんもいっぱいいるし、自分たちで調達できるものもあった。また、神社の太鼓と獅子舞の太鼓は別となっており、神社の太鼓も浅野太鼓で張り替えた。また、神社の太鼓にも獅子頭同様の宿があり、町内を一年ごとに回っていく。これは町内の家数が少ない橘だからこそ維持にお金をがかかる公民館を建てずに、各家持ち回りで祭り関連の小道具を保管しているという訳である。公民館がないといえば大聖寺京町もそうだが、ここは町の私有地に小さな倉庫があってそこに保管している。また橘町の小道具の話だと、衣装の前掛けに文字を書かないのが珍しい。ハイカラな衣装は橘町から出た大阪の方が20着も寄付してくれた。

 

橘町の神社は「多知波那神社」と書き、由緒正しい神社である。この件に関しては、ミセさんという方がよくご存知とのこと。伊勢神宮と直で繋がっていたという伝説があり、拝殿の板をめくると、歴史が書いてあると言われているが、流石にそれを見ることはできない。拝殿の奥にある神殿が崩れかけた時に、木の特殊な由緒正しい屋根を持っていることを知った。また、絵馬の歴史も面白いようで、10年以上前に絵馬を研究している人が訪れてきたこともあった。また、実際に現地を訪れると、狛犬が大量に奉納されていることに興味を持った。神殿の隅に並べられていたものも出してきて、外に飾るようになったそうだ。いつの時代の狛犬かは判明していない。

 

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橘町の世帯数は13軒で近年はほとんど数に変動がない。この軒数で獅子舞を運営できていたのは、昔は子供が多くて、それがスライドする形で獅子舞を継承していったから。獅子舞の始まりは、約50年前に遡る。奥谷町から獅子舞を習ったという。その前(田中さんのおじいさんの時代)にも奥谷町由来の獅子舞を行なっていたようだが、それが途絶えて復活したという形だ。本当の獅子舞の始まりというのはよくわからない。3年前に若い担い手がいなくなって、外に出てしまう人も多かったので、獅子舞が途絶えてしまった。自分たち(田中さん)の下の世代が少なかったという訳だ。最後の方は外に出た若い人たちが祭りの日に帰ってきていた。SNSで若い世代同士話しあって、親よりも先に帰るか帰らんかを話し合っていたようだが、みんな帰らんとなるとなかなか人が集まらない。そういう空気感も獅子舞の存続には重要な要素を占めると思われる。

 

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獅子舞は獅子3人とシシツキ(槍のようなもの)1人、笛2人、太鼓1人で構成される。運営は保存会がされていた。笛や太鼓はご年配の方でもできるが、獅子やシシツキは若い人が必要である。獅子舞は昼過ぎから神社に始まり区長役の家を回り、キュウリ・ムカシ・オオタツ・シシゴロシ、あともう一つの5つの演目を順番に舞った。最後は神社で5つを舞う。小学校の時(2~3年くらい)から習うのが当たり前だったので、3年前に最後の獅子舞をした時も練習はほとんどしないで舞うことができた。奥谷町の人が舞いに来る、あるいは合同でやるというのは難しく、自分のところは自分という感覚もある。奥谷町は能登由来の天狗面が登場する舞いをやるが、その天狗の部分は橘町には伝わっていない。獅子舞は9月16日にやっていたが、途中から子供が集まれるようにと、その前後の土曜日に変わった。その時、獅子舞以外のお祭りは16日のままにしたので、そこで獅子舞とその他が別日として分けられた形である。近年は獅子舞をやっていないため、9月16日のお祭りのみがあり、祭りの日には江沼神社(天満さん)の方がきて神事を執り行う。休める人は仕事を休んで、神社でお祓いをしてもらう。今でも、町の方々はお祭りには熱心に取り組んでおられるようだ。