【2021年8月】石川県加賀市 獅子舞取材 11日目 篠原新町・大聖寺荻生町

2021年8月29日

9:00~ 篠原新町 獅子舞取材

篠原新町の区長・上谷長英(ちょうえい)さんと、そのお知り合いの北出学芳(たかよし)さんにお話を伺った。同行は橋立公民館長の吉野裕之さん。獅子頭の髪型のバランスは横流しがしっくりくるとのことで、それに配慮しながら撮影を行った。

獅子舞は伊切町から習ったがいつ頃のことかがよくわからない。演目は4つあり、そのうち武器が登場するのは2つの演目だ。一番・二番・薙刀・相棒という名前がついている。また、笛、棒振り、太鼓、獅子がある。子供が棒振りと太鼓で、青年団が笛と獅子をする。笛はもともと青年団の担当だったが今は吹けなくなっており、伝承ができておらず、年長者が入ることになっている。祭りの日は9月19日だが、今年はコロナ禍で中止が決まっている。例年であれば、練習をしているころだ。お祭りがあるときは神社に始まり25軒ほど回って、お昼頃から知り合いや親戚を回って、神社で終わる。青年団は15人ほどいて、一部の人は他所の地域に住んでいるが祭りの日だけ帰ってくる。元々小学校3年生から獅子舞をするが、今は年齢が上がっている。

太鼓は大正時代制作のようだが、獅子頭はいつ作られたのかがよくわからない。獅子頭は角がなく、耳が大きく、目に黒い円が二重に描かれているのが特徴だ。とりわけ二重の円が描かれている獅子頭はとても珍しい。耳はとれやすいので、本番では外して舞う。

ps. 篠原新町の歴史

今回撮影を行った八幡神社(祭神:武勇の神である応神天皇)に建てられている案内板「篠原新町の由来」によれば、篠原新町に人々が住み着いたのは平安時代初期に遡る。漁猟や機織を営んだ遺物が残っているようだ。源平合戦の際には斎藤実盛が奮戦した場所となり、江戸時代(天保末年)には家数11、人口33人、塩釜11の製塩地だったようだ。

f:id:ina-tabi:20210830120425j:plain

 

13:00~ 大聖寺荻生町 獅子舞取材

大聖寺荻生町でお祭りが15分の短縮版で行われるということで、伺ってきた。獅子舞は実施されなかったが、区長の山下二三男さんをはじめ、獅子頭の撮影と祭り関係者10名ほどにお話を伺うことができた。

獅子舞の始まりは下福田町の獅子舞を習ったことだった。この地域の獅子舞には、大蛇を退治するという意味合いがある。今は町内の稲荷神社を拠点に獅子舞が行われるが、昔は江沼神社にも獅子を舞いに行ったので、江沼神社から習ったことも検討する必要がある。昔は竹で蚊帳の枠を組んで、10名ほど中に入っていたが、今は竹で枠を組むことがなくなり2~3人しか入らなくなった。担い手不足というのが関係しているだろう。青年団が多いときは10人超いたが、今は5人もいない。中学1年生から30歳までの年齢の若い人々が青年団に所属した。壮年団のような組織はない。

祭りをしているのは3月13日と8月28日、9月13日で、9月の秋祭りのみで獅子舞をしてきた。農家が多い土地でもあったので五穀豊穣の意味がある祭り(※)だが、獅子舞はそれとはまた別で五穀豊穣の意味を考えながら舞うことはない。町内に昔は50軒あったが、今では17軒のみとなっている。獅子舞の演目は1つで、寝ているのを起こす寝獅子だ。豆拾いといって、獅子頭を下の方でパクパクするような仕草もある。昔は祭りの日だけでなく、結婚式でも獅子舞を実施した。以前、下福田町でも結婚式で獅子舞が登場した話を伺ったので、この地域一帯でそのような習慣があったと思われる。

稲荷神社は元々、殿様の避難場所だった。由緒ある神社なので、重要文化財にするという話もあったが、今のところ実現していない。人々はこの神社に来るのに、大聖寺川から船で上がってきた。また、能舞台が昔あって、能を見にきた人々もいただろう。戦国時代には、朝倉の軍勢を見張っていたという話も残っている。合戦が多かったので、地面を掘ると人骨が出てくるという話もある。また、白い字でお経が書かれた石が見つかったこともあった。昔は検問所(関所)が近くにあって、武士の家やお寺が多い土地だった。氷室があったことでも知られる(昔、雪を詰めて氷を貯蔵する氷室はとても貴重だった)。昔は川魚をよく食べていたが、今はあまり川魚を食べなくなった。

 

※9月13日が秋祭りの日になった由来としてある話が残されている。昔、大聖寺藩政時代に、藩の財政が厳しくなり、農家への年貢米取り立ての再調査と耕作面積測量を厳重に強制執行しようとしたところ、住民の逢坂伝平なる者が、白装束に身を固めて切腹自殺の覚悟を決めて藩主に土下座して直訴した。武勇果敢度胸ある振る舞いに心打たれた藩主は、この者を死刑にすることなくその場を退去せざるを得なくなった。貧しい農民の危機を逢坂伝平が死を賭けて救ったこの日を祭礼の日として定めた。祭りの名前は「オヨゴシ」祭りと名付けられた。オヨゴシとは精進料理に欠かせない素朴な珍味である。(年代不明、山下芳男さん80歳、新聞記事コメントより)

 

f:id:ina-tabi:20210830120515j:plain

 

ps.獅子頭の材質は桐材で赤色、制作地は大聖寺一本橋町で、制作者は林龍代さん。制作年は昭和26年8月である。頭もちの名称は「カシラモチ」で、1人が行い交代要員は3人だ。頭もちの位置は胴体の内で、服装は上が法被、下が運動服である。鉢巻をして、赤いきれを腰に巻き、前掛けをつける。蚊帳には青色の巻き毛模様と茶色のうず模様があり、竹の輪は入れないが、過去には4.5本入れたこともある。尾の形状は36cmの棒に90cmくらいの赤い麻糸の束をつける。演舞の特徴は「ウイタウイタ」と言って立ち、水の字を書くように舞う。この由来は昔、3月7日に村全体が焼ける大火事があったためだ。現在、3月7日は火祭りの日とされている。また、お囃子は獅子の胴体の外にいて、太鼓は男2人により叩かれる。獅子の組み立ては神社境内で行い、お酒を供えてお参りしてから、そこで舞う。この時、獅子の口にお酒を飲ませ、自分達も飲む。それから区長さん方、相(脇)役方で舞い、一年交代で村の西方東方の順で各家を回る。最後に境内で舞い、片付ける。獅子は基本的に天候に関係なく行うが、雨のひどい日は玄関や小屋の中で舞う。獅子舞運営の主体は青年団で、下福田町の獅子の舞い方を取り入れた。現在の獅子頭が昭和26年にできるまでは、江沼神社の獅子頭を借りて舞っていた。江沼神社との結び付きは強く、江沼神社の獅子が舞うときは、いつも荻生町の若い衆がその舞いをしていた。現在の獅子頭は江沼神社のものと同じ型である。荻生町の青年団の構成は昔ながらのしきたりで長男以外は団員になれない。戸数が少なく、このようなしきたりがあるため、団員が少ない時は退団者に協力してもらい獅子を出す。昔、青年団は若連中と呼ばれていて、数え歳で15~30歳までが所属できた。お花代は3,000円から5,000円で、区長が10,000円、相(脇)役方が7,000円ほどである。(年代不明、獅子頭の箱に入っていた「獅子舞調査表」より抜粋、著者・加代等さん)

 

▼年代不明、青年団の写真。

f:id:ina-tabi:20210830120606j:plain

 

ps. 稲荷神社のご神体は石である。本日祭りの時に宮司さんや区長さんがご神体の位置を確認したところ、以前見たときと比べて少し場所が移動していた。もしかしたら神社の整理で移動したのかもしれないが、滅多にご神体を見ることもないだろうし、非常に不思議な話である。そこで以前の場所に戻したそうだ。その後、区長さんの帰宅に同行して、神社のいわれが書いてある写真を見せてもらうことになった。しかし、区長さんがパソコンを開いてみると、保存されていたはずの写真がなくなっていた。何の因果かわからないが、この出来事の顛末は非常に不思議としか言いようがない。