2021年8月19日 大聖寺岡町 獅子舞取材
青年団長の西圭介さん(35歳)とその弟の西哲朗さん(32歳)にお話を伺い、獅子頭を撮影させていただいた。同行は山口美幸さん。現在、青年団は5人で、祭りの日に他の人に手伝ってもらう場合もある。社会人のなりたてから38歳までが青年団に所属し、OBの人は50歳くらいの人もいて、祭りを支えてくれている。大学生は学業優先なので、アルバイトという形で受け入れているという。もちろん社会人になれば、お金はもらえずボランティアとなる。
先日、北國新聞に記事が載った。50年くらい前に獅子舞が復活してそこからずっと続けているという記事だった。獅子舞の始まりはお祭り好きの男女がそこに祀ってあった獅子を舞い始めたことがきっかけだ。岡町は新しい町でもともとは6軒しか無く、一部上福田町だった。しかも田んぼが多く沼地だったのだ。子供の頃は、8番ラーメンとシェル石油しかなかった。小学校の時にサークルKができた。「ハザードたくとホタルが見える」といわれる場所だった。それにもかかわらず、1300年前の竹割まつりの記録には「敷地町、岡町、若新町が...」という記述が見られ、その頃にはすでに岡町が存在していたことが確認できる。
獅子舞の演舞で似ているのが大聖寺永町だが、あちらの方が少し早い。永町より岡町の方がゆっくりで、古い形態を残している可能性がある。獅子舞は当日、愛宕神社から始まる。獅子舞に入るのは頭、二番、三番、尻尾の4名である(二番、三番を内臓とも表現しておられたが正しいかどうかはわからないとのこと。ただそのようなイメージが生まれることは興味深かった)。
ps. 2021年8月22日8:30~ 愛宕神社にて 荻田さん追加取材
岡町の獅子舞は、「南郷町→菅生町→岡町」という順番で伝わった。昔、旧福田村があり、そこと岡町には町の区分とは別に百姓の結というコミュニティの中で交流があって、岡町には6軒しか人がいなかったので、合同で獅子舞を行なっていた。獅子舞はマイとマクリがあり、太鼓と獅子が登場するシンプルな獅子舞である。ご祝儀の額によって舞を変えることはなく、額が高いと少し丁寧に舞おうかなという意識にはなる。町内は60軒、消防本部なども回るのでそれを合わせれば80軒くらいを回る。昔は獅子舞大会のようなものをやっていた。
愛宕神社は、消防関係の人がよくお参りに来る。愛宕神社は火の神様で、元々は少なくとも明治時代までは敷地町の菅生石部神社と同じ敷地にあり、お城から見たら鬼門の位置で鎮火の意味を込めて、獅子舞を行なってきた。獅子舞は春・秋で行なっており、その理由づけとして鎮火の神様だと言っていた。もしかしたら菅生石部神社で御願神事で火祭りをするのは、関係があるかもしれない。
菅生町とかなり似ている古い獅子頭が愛宕神社の倉庫に保管されている。獅子頭のデザインは前後に長く、江戸時代の獅子頭の作りを思わせる。岡町には新旧2つの獅子頭が現存しており、材質は杉から桐に変更され、獅子頭の制作者も大工さんから鶴来の知田工房に変更された。
ps. 昔菊池カメラさんが獅子舞に研究をしていたが亡くなってしまった。その資料がまだ残っているかもしれない(後ほど取材予定)。
ps. 他の大聖寺の町の獅子舞で猿回しのような芸能が登場したことがあった。
▼愛宕神社近くの倉庫で、獅子舞の蚊帳探しをしていただいた。
<橋立地区会館 写真展>
8月21日~22日の10:00~15:00の日程で、獅子頭コレクション展が橋立地区会館で行われた。8町の獅子頭が勢ぞろいする様は圧巻だった。その中で、僕が過去に橋立の獅子舞を撮影した写真を展示させていただいたほか、両日ともに獅子舞に関するトークショーを13:30から開催させていただいた。お声がけいただいた公民館長の吉野裕之さんをはじめ、お世話になった橋立の皆様には本当に感謝である。この模様は、北陸中日新聞にも掲載いただき、詳しい経緯などもインタビューしていただいた。
写真展開催の経緯を簡単にご紹介すると、1890年ごろに金沢の北にある内灘町からコレラが原因で加賀市橋立地区(まず最初は小塩町から)に集団移住した漁業者がいて、それを機に故郷の白い獅子舞を始めたという。それが、橋立3町に今でも伝わる獅子舞で、元はコレラの流行の厄払いの意味も少なからずあったと思われる。舞い始めた頃の社会情勢は今のコロナと重なるものがあり、しかも獅子舞が実施できていないことから、ぜひここで地域の方に獅子舞を見ていただく機会を作ろうということで今回の開催に至った。
2021年8月20日
橋立地区会館 写真展 準備
2021年8月21日
橋立地区会館 写真展 1日目
加賀市と橋立地区の獅子舞に関する講演会①
・白山で食事
食事処・白山には様々な獅子舞が舞いに来るそう。大聖寺錦町、関栄親子獅子保存会、直下町などである。これらは普段お客さんとして食べに行くことがあったり、白山のスタッフがその町出身だったりと知り合い繋がりで、祭りの日に舞いに来るそうだ。獅子舞は舞うのと同時に、お昼を食べに来る。2階の広いお座敷で30名くらいの貸切りで行うとのこと。大聖寺の獅子舞の特徴として、地区ごとに舞うというよりは、このように知り合いの繋がりの中で舞う場所を決めるというのがとりわけ興味深いポイントである。
▼白山のふわふわな親子丼
2021年8月22日
橋立地区会館 写真展 2日目
加賀市と橋立地区の獅子舞に関する講演会②
◯知田工房の知田さんが獅子舞トークにご来場
写真展とトークショーに鶴来の知田工房の知田さんが来てくださった。そして、歯の数が10本が雄、8本が雌と言われていて、これは富山県の氷見市で聞いたお話であるとのこと。個人的にこれは初耳だったのでとても驚いた。知田さんは橋立地区の獅子頭に関して、橋立町、田尻町、深田町の新調と黒崎町の修理で関わってくださっているようで、実際にお会いできて本当に良かった。黒崎町はもともと富山的な特徴のデザインで蛇目を持つ獅子頭だが、知田工房で制作された。また、制作の際には、田尻町の場合よく噛み合わせる歯打ちの動作があるので、顎が外れやすく、その点で丈夫に作っているという。獅子の動きを考えながら、獅子頭を作っているというのが、とても興味深く感じられた。
◯地域の方から聞いた橋立の獅子舞の昔話
学校で舞ってからプールでひと泳ぎして、また練習を始めることもあった。また、トイレットペーパーを投げたりして遊んだ。学校のマイクを使って、音楽を流したこともあった。そのほかにも電線にぶら下がる、停まった車があったらお酒をかけるなどの伝説がある。
▼北陸中日新聞 2021年8月22日朝刊 小室さんに詳しくインタビューいただいた。
大聖寺番場町 獅子舞取材
◯区長の平石春樹さんに稲荷神社(地域の集会所)にご案内いただき、獅子頭を撮影させていただいた。お宮さんも獅子頭も比較的新しいのが印象的だった。蚊帳が平成4年制作のもので、獅子頭もそのタイミングで購入したようだ。
◯獅子頭の撮影後、平石さんに八木紀男さんという獅子舞に約50年関わっておられる方をご紹介いただき、家の玄関でお話を伺った。中学校の頃からこの地域に住んでおり、獅子舞を見てきた68歳の方である。ミヤザワ土建という会社の方が神社で獅子を舞ったのが獅子舞の始まり。大聖寺永町でやっている獅子舞の太鼓のリズムか何かを真似て取り入れたと宮本ひろしさんから聞いたような気がする。もともと9月9日が祭りの日だったが、若い人がなかなか来られないということで、途中土日にずらすという話もあり、それから日曜日に変わった。それ以来、9月9日が平日の場合はその前の日曜日にやろうということになった。昔は秋だけなく春にも獅子舞をしており、4月9日にやっていた。獅子舞の練習は神社の鳥居の中の参道で外で行うので、雨が降ったらやらない。
演目は1つだけで、太鼓と獅子舞だけをやってきた。獅子舞の舞い方は後ろ、左斜め前、前という3点を結ぶ形で舞うので、三角を描くイメージだ。最後はダダダと太鼓に向かって走って終了となる。ご祝儀によって舞いを変えることはない。町内42軒の家々を回っていく。獅子舞の構成メンバーは獅子頭と尻尾と中の人で3人、太鼓はコバエ(リズム取り)とオオバエ(大きく鳴らす)という2役がある。合計5人は必要だが、7人いても交代があまり出来ずに辛いので、もっと人数が必要だ。青壮年部は20~50歳がメンバーの年齢の目安だ。昔は強制で出てこいと言ったら出てくれる人も多かったし、遊び感覚のところもあったが、今は無理に誘えない時もある。獅子舞の横にいるだけでも、蚊帳の中で足を合わせてくれるだけでも良いから出てきてくれたらという気持ちでいる。
獅子頭も蚊帳も太鼓も全て浅野太鼓に頼んだ。他のところに頼む予定だったが、日がないので、早く作ってくれるところを探していた。知り合いの繋がりで、獅子頭を安く作れたようである。一刀彫りではなく、機械で作るので、四角い感じのものになった。結構、軽く作らないと重くてなかなか舞うことができないので、それを配慮した形だ。昔は手彫りの獅子頭を使っていた。ツノがないので、獅子頭は雌獅子である。それゆえ激しくはなく、ゆったりとした舞いだ。
◯八木さんに毛利さんとその息子さんをご紹介いただく。この町に来て、52年とのこと。いつ獅子頭を直したとか、いつ獅子舞を始めたとか、区長の日記を見たらわかるかもしれないようだ。しかし、最近は神社の集会所を整理してしまったからか、残っていないかもしれない。
◯八木さんはもともと太鼓だったそうだが、獅子を舞っていたことのある近所の長谷英文さんもご紹介いただきお話を伺った。お風呂に入っていたようで30分後に再訪問した。神社の鍵をお持ちで、再度神社に訪問。太鼓の台が大正のものとわかり、おそらく大正時代には獅子舞をやっていた可能性が高いことがわかった。また、太鼓自体は昭和60年頃のものがあり、比較的新しいことも判明。その昔の太鼓の年代は不明だが、破けたりひびが割れてしまったので、変えたようだ。
全体を通して、大聖寺番場町の獅子舞に関して、基本的には「獅子舞の始まり」という点に関して、調査するのがもっとも難しい点かもしれない。今回、5人の方にインタビューしたが、「昔からやっていた」というのがお決まりで、あまり地域の方にとって重要事項というわけでもないようだ。ただ、獅子舞の記録の本を作りたいという話をしたら、これだけの方をご紹介いただけたというのはとてもありがたいことだ。
▼町内の方々が「いつから獅子舞やっとったっけ?」と盛り上がる
2021年8月23日
大聖寺中新道 獅子舞取材
区長の澤田敏志さん(昔獅子舞を観る側だった方)にお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子頭は2つあり、子供獅子だった。昔は加賀神明宮を拠点としてお祓いを受けてから獅子舞を行なっていたが、今では獅子舞を行なっていない。青年団や壮年団は今は無くなってしまった。
今、70歳くらいの団塊の世代の方々がいた時、青年団の時が全盛期だった。最初は小学校から中学校の子供が獅子舞をしていたが、徐々に高校生が参加するようになって、最近は子供がいなくなってしまったようだ。40年前の獅子舞をやっていた時の写真が集会所に飾られている。最後の方は女の子も獅子に入ることもあったそうだが、写真には男の子だけが写っていた。太鼓と獅子が舞いを演じるという形のもので、蝶々を追いかけるような動作もあった。獅子舞の蚊帳の中には、4~5人入った。集会所には獅子舞の道具に混ざって、お年寄りが運動に使う新聞紙の棒がたくさん置かれていたのが興味深かった。また、桜のマークが入ったとても可愛らしい半被が残されていた。獅子頭は2つあり、そのうちひとつに昭和28年に大聖寺の彫り師・林龍代さんと塗り師の南部吉英さんが制作したという内容が裏に記載されていた。大聖寺で獅子頭が作られたのは初めて聞いた。そして獅子頭の傷跡が鼻先に集中していたことから、おそらく地面すれすれで舞っていたのかもしれない。また、その獅子頭には、富山のデザインの特徴である蛇目がついており、上河崎町の獅子頭にもよく似た特徴が見られた。
二子塚町 獅子舞取材
前年区長の塚谷弘道さんと、今の区長の酒井耕蔵さんにお話を伺った。同行は山口美幸さん。獅子舞はいつ頃から始まったかというと、昭和16年生まれの人が中学校2年生の時、つまり、昭和30年に今までの獅子舞を変えて、松山町から習った獅子舞を新しく取り入れた。もともと動橋川の堤防決壊のため、その工事の人夫で能美市粟生という地域から人が来ていて、夜はその川の近くに寝泊まりをしていてその時に獅子舞を習ったようだ。高台である二子塚町、低い土地の松山町、という土地の状況があり、松山の堤防決壊にさいして、様々な町の人が工事に来ていたのだ。庄町もおそらく、この時松山町から獅子舞を習ったと考えられるが、幹は同じでも少しずつ枝葉が違うような感覚がある。戦争で散々海外など行って、やっと戻ってきた。だから希望が欲しいということもあって、復興の意味も込めて華やかな獅子舞を始めようということで、松山町で習った獅子舞を始めた。それ以前は太鼓と獅子舞のみのシンプルな獅子舞があったが、それはいつから始まったのか全くわからない。獅子頭は新旧共に残っており、昔のやつは塗りが変わっていて両耳が取れており、修復を重ねた跡があった。しかし、どちらもいつ作られたのかわからない。新しい獅子頭は富山県の井波で作ったということは分かっている。
二子塚町に伝わった獅子舞は、短棒、長棒、太刀、短刀など結構色々な種類の演目があった。獅子退治の演目だった。尻尾は青竹に馬の毛をつけて手作りで作った。小学校5~6年から棒ふりをした。テレビも何もないから娯楽の意味でやっていたのだが、元をたどれば豊作を願い害虫が入らないようにする祈りの意味もあっただろう。夏祭りの日は8月27日と決まっていた。稲刈りの前に、豊年合わせがあり、それが終わってから稲の刈り取りをするという風習にのっとった日程である。獅子舞をしていた時代は、36軒ほどの家があり、同級生が9人もいた。団塊の世代のベビーブームだった。小学校5年から中学生が獅子をやり、一旦学業のため高校生で中断して、大学生(18歳)の年から再開してから30歳までが青年団に所属していた。その上は壮年団である。
それから衰退をしていって、2012年に獅子舞は途絶えてしまった。やはり、棒振りができる小学校高学年がいなくなってしまった。足で棒を飛び越えるような大道芸人みたいなこともやってたので、そういう見せ場がなくなったのが衰退の原因だった。最後の方は「やめるのはもったいない」と言いながらも、「誰もがいつかはやめることになってしまうだろう」という空気感があった。今は、お祭りの日はお参りのみとなってしまった。今は稲刈りが早くなったのと、若い人が毎年仕事が休めなくなったので、お盆の前の土日となった。田んぼだけで生きている人もいなくなったので、お盆休みの後に休んでとも言えず、この日程となった。
ps. 広報さえぐさには勅使地区の獅子舞に関する話がたっぷり書かれている。このような冊子はとても貴重だ。
ps.田尻町の小村たつおさんは獅子舞やコレラでの内灘から橋立への移住についてとても詳しいとのこと。
以上バタバタしており5日間まとめての更新となってしまったが、とても充実した滞在となっている。