【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 塩屋町 黒崎町(追加)

今までの石川県加賀市における獅子舞取材で話を十分に伺えていないところを中心に、追加のヒアリングを開始。今回は塩屋町と黒崎町に伺い、たっぷりとお話を伺った。

 

2021年10月2日

13:00~塩屋町

区長の西野和人さんにお話を伺った。塩屋の小学校で青年会の映画撮影イベントがあり、そこで地域の伝統芸能を披露するというということで、獅子舞が行われそこだけ見学させていただいた。塩屋町獅子頭は今年、新調されたこともあり、新しい獅子頭を撮影する目的もあった。富山県井波の職人·荒井寿斎さんが獅子頭を重く作りすぎてしまったということで、無料で作り直す形で令和3年7月吉日に新調された。宝くじの助成金に当たって250万円で制作したものを今回作り直しということになった。塩屋町は暴れ獅子なので、あまり重くては舞いの性質上難しい。今回新調された獅子頭は以前に比べると5分の3くらいの重さになったように感じる。また、塩屋町では伝統的に雄雌ペアで獅子頭を発注する。雄雌の見分けは雄が黒い髪の毛で、雌が白い髪の毛だ。それに伴って尻尾の色もそれぞれ黒と白である。雌の獅子頭の方がやや小さめだ。塩屋町といえば大きな獅子神輿も祭りの時に登場するが、それも男性が担ぐ雄獅子と、女性が担ぐ雌獅子に分かれている。このように獅子といえば、雄雌できちんと分けるのが塩屋町の伝統なのだ。今回撮影するにあたって、青年団の方にお話を伺っているとき、集合写真の時に尻尾を口にかませてよく写真を撮影するということを聞いた。そこで、尻尾をくわえさせて写真を撮ってみた。新品の獅子頭は鼻などがてかるので撮影が難しかったが、なんとか撮影をすることができた。

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17:00~ 黒崎町

青年団OBの野口雄輝さんと、そのご友人、青年団、計4人にお話を伺った。同行は吉野裕之さん。とても味のある青年会館に獅子頭が3つ保管されている。2番目に古いのは、飾り獅子はすぐに壊れてしまい、ボンドで修復した。1番目と3番目はサイズが少し大きく、特に一番新しい獅子頭は南方系の台湾獅子のような顔をしている。この最も新しい獅子頭は、鶴来の知田工房で作ったものだ。目玉は富山の蛇の目のような特徴があるが、頭の高さがある感じは石川県の知田工房らしい作りをしている。獅子頭には横付きの耳がついていたが、舞いが激しくて蚊帳が耳に当たるので縦付きにした。激しい舞いをする獅子の中では、かなり大きなサイズの獅子頭である。

昔蚊帳は紅白のものを使っていたが、今では麻の鮮やかなものを使用している。紅白の蚊帳を使っていた時は手で支えていたが、麻の蚊帳にしてからは棒を通して支えるように変わった。また、紅白の蚊帳を使っていた時は、雨の日に赤色が滲み出して新品の法被を赤く染めてしまったことがあり、縄で縛って蚊帳の中に入らない時もあった。そのような経緯で蚊帳のデザインが変わった。この蚊帳の持ち方やらデザインやらは橋立3町の影響を受けている。今回、新調した蚊帳を作った能登の職人をご紹介いただいたので、その方にも後ほどぜひお会いしたい。

獅子舞をするには、最低7人必要だ。太鼓2人と獅子5人が少なくとも必要だ。蚊帳の中には、多くの人が入らないといけない。青年団はLINEには20人くらいいて、当日来るのは15~6人くらいだ。青年団に所属するのが、18~34歳が所属する。団長を終えた古株の方も、ゴミ拾いや様々な雑務で関わることもある。また、祭りの時にのぼりや櫓を立てるのは青年団のみで行うので、青年団の役割が他町に比べて少し多い。子供会は子供神輿、婦人会は盆踊りという役割が決められている。祭りの時は、1日目には子供のビンゴ大会、2日目は大人の盆踊りというのもやる。

祭りの日は以前は10月だったが、現在は9月の第4土日で行っている。23~24日あたりで行なっていたが、それも若い人の仕事の都合上で多少柔軟に決めている状況だ。去年と今年はコロナ禍で実施できておらず、橋立3町が先に祭りなので、まちづくりの関係で、そこが中止になると、中止にせざるを得ない。普段は朝8時に神社での奉納の獅子舞から始まり、夜19時くらいまで町内120軒を回る。軒数が多いので、2日間かかかる。ご祝儀は子供獅子は3000円、獅子舞は5000円という相場があって、青年会に入ったら獅子に1万円を出すことになっている。ご祝儀の額によって100%ではないけれども舞い方が変わることはほとんどない。

お昼ご飯は青年会館で食べていたが、田尻町の宿の文化をコロナ前の2年間取り入れて、地域の家に青年団を招き入れるということを始めた。コロナ後にこれを継承するかは団長次第で、田尻町では家のサイズが狭くなってきていることもあるしかなりおもてなしが大変なので団長の家になることが多い。それらのハードルを越えねばならない。黒崎町では基本、お酒は青年団の持ち込みで、食事は宿をする地域の家一軒が負担することになる。

黒崎町の獅子舞の始まりはよくわからない。暴れ獅子なので、塩屋町大聖寺のいくつかの町が舞やデザイン共に似ているような気がする。舞い方は、寝た状態から起きてから、牡丹と豆拾いの2つがあり、それを前半・後半とも呼ぶ。斜めになって太鼓を常に睨んでいたり、「ロッコイ!ロッコイ!」という掛け声をかけるところは橋立3町に似ている。昔の人は低い姿勢で獅子を持っていたので、まるで空気椅子のような体制でとてもきつかった。舞いも太鼓も昔の人に聞くと少しずつ話すことが違うので、動画がない時代に伝言ゲームのように獅子舞の舞い方が継承されていったことがわかる。ただ、神社の奉納のスタートの時だけ太鼓の叩く回数が1発多くバチが太いものを使うカンサマ獅子というものがあり、そこだけは伝統として昔も今も変わらず伝わっている。

ps. 同行の吉野さんによれば、橋立地区に金沢の北の内灘町からから漁師たちが移り住む前に、行政区としては橋立字小塩、黒崎字田尻だった。つまり、黒崎町は田尻町と歴史的にも密接な関係性があったのだ。田尻町は半農半漁の生活をしている人も多く、一方で、黒崎町は農業に従事する人が多かったが一部漁師をしている人もいた。このように黒崎町は一見、田尻町を始め橋立3町と近い関係性にありながら、生業の違いなども少しあって、そのような背景があって独自の獅子舞が誕生したとも考えられる。

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