【岩手県北上市】鬼剣舞・鹿踊、民俗芸能を巡る旅

鬼剣舞鹿踊、この2つの民俗芸能が行われることを知り、8月14~16日の日程で岩手県北上市奥州市を訪れた。鬼剣舞鹿踊も全国的にみて盛んなのは岩手県だ。この県には、本当に民俗芸能が豊富にあると改めて実感する。以下、訪れた場所ごとに学びを振り返る。

2021年8月14日 岩手県北上市鬼の館・鬼剣舞取材

まずは図書館で調べ物をしてから、鬼の館で鬼についての知見を深めるとともに、夜は芸能居酒屋で鬼剣舞を見るという盛りだくさんの1日となった。

 

江釣子図書館で資料を収集(10:00~12:30 )

まずは資料を探そうと思い、北上市江釣子図書館を訪れた。

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北上市の特徴は岩手県のほぼ中央に位置する。北上市の成立背景は、江戸幕府300年の歴史の中で南部藩と伊達藩という経済的・文化的側面が全く異なる2つの行政区分をその藩境の部分で統合してできた。統合は昭和29年4月1日に黒沢尻町、和賀郡飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、胆沢郡相去村、江刺郡福岡村の一町六ヶ村が対等合併する形で行われた。この意図としては、戦後の混乱期の中で、脆弱な経済基盤から脱却しようという動きの中で町村合併促進法の制定などが背景となっていた。

 

元々、南部藩と伊達藩との交流は非常に盛んだった。北上平野の陸地における藩領は北上山地方面から見るとどこが境なのかわからないので、人為的に境界線が引かれたものだった。一方、北上川南部藩と伊達藩の船頭は繋がっており、相手方の領内で亡くなると墓もそちら側で作られるという事さえあった。

 

その背景のもとで、北上市にはなぜか民俗芸能が種類・量ともに圧倒的に多く伝承されている。その要因としては古代から中世にかけて数多くの人が生活していた痕跡があり、信仰もそこに存在したことは想像に難くない。伝承されている民俗芸能の種類としては安倍一族の黒沢尻五郎正任や極楽寺文化、空也から一遍上人へと続く念仏踊りなどを起源とするものが多い。

 

その中でも、念仏踊り」と「しし踊り」に関しては、旧伊達領から旧南部領に伝わったというケースが多く、そこにも境界線に対する意識が見て取れる。念仏踊りは念仏剣舞鬼剣舞などの阿修羅系の念仏踊りである。また、しし踊りは幕ではなく太鼓をメインとする太鼓踊系鹿踊だ。これらの伝来ルートは両藩の農民の共同草刈り場の作業や駒ケ岳山頂のお駒堂の補修、両境塚の管理なども考えられるが、多くの場合は制約の少ない北上川を通じた川の道だっただろうと考えられる。その中で例えば念仏剣舞を取り入れ独自の鬼剣舞に変換したなどの改良が加えられて定着したと考えられている。

 

また、民俗芸能が藩境に集中する理由として、境を通じてお互いに情報を得ながら、競って芸能を定着させたからだと推測される。また、それが両藩の境に住む農民の民心安定に繋がると考え、領主が奨励したとも考えられるようだ。常葉学園短大講師吉川裕子氏『民俗芸能における鹿踊』によれば、遠州の奥地にある西浦田楽について、団体の中での役割がそれぞれ決められており、それを隣の人に教えないという歴史的風習があった。それは遠州と信州の山境にある地域なので、戦国時代には重要な拠点で、境を守る武士団との関連性が高い。芸能には集団と集団が途中で出会った時に、太鼓や鉦で競う儀礼の行事を持っているが、単なる挨拶というよりも軍隊同士のすれ違いの意味があったのではないかという事である。(北上市教育委員会『北上民俗芸能総覧』(1998年)p20-40「北上市の民俗芸能 分布と概説」より)

 

鬼剣舞の由来は、1200年余り前、大宝年間(701~704年)に山伏の元祖である役小角吉野川で水垢離をとり大峰山で苦行を行い、大願成就して7月七夕の夕暮れにこの念仏踊を創ったと伝わる。大同年間(806~810年)には出羽国羽黒山中で本舞踊を実施。康平年間(1058~1065年)の初年に安倍貞任、正任がこの踊りを自己の領内に推奨したと言われている。踊りは仏教と深い繋がりを持ち、煩悩を消滅し、大慈悲を以って衆生を導き大菩薩心を発起する妙法。南無阿弥陀仏の名号を唱え、鬼が浄土往生の喜びや悪魔退散、天下泰平を祈念しつつ踊り狂う様子を表したものである。鬼面に角が無いのは鬼が摂取不捨の利益に預かり仏道に帰依したことを表すものであると言われる。(門屋光昭『民俗写真帳 我が鬼剣舞の里 -鬼剣舞と北国農民の祈り-』(昭和57年 トリヨーコム)より、「岩崎鬼剣舞リーフレットの引用)

 

岩崎鬼剣舞の由来は、康平の頃(1058~65年)に安倍頼時の子黒沢尻五郎正任がこの踊りを好み、将兵に出陣や凱旋の際に踊らせたのが広く伝わったと考えられている。享保17(1732)年の「念仏剣舞由来録」の巻末には、延文5(1360)年岩崎城で城主・岩崎弥十郎が君主・和賀政義を招き、剣舞を踊らせたところ、政義は大いに喜び、家紋である笹リンドウの使用を許可したとある。また、和賀北上地方に分布する12組の踊組はいずれも岩崎鬼剣舞を源流とする。岩手県文化財愛護協会『文化財普及シリーズ4 岩手の民俗芸能~ 国と県指定団体のすべて』1999年)

 

②鬼の館(13:30~17:00)

日本や世界の鬼について展示紹介してあるミュージアム。とても見応えがある展示で、3時間くらいは見入っていた。写真や絵画やら彫刻やらビジュアルをバンと前面に出しており、解説を読む人は少なかった。自分だけ解説ばかり読んでいたなと思った。加えて、多くの大人は子供に「悪いことをしたら鬼が出るよ」と言い聞かせていて、世間的な鬼の認識ってそういう感じなんだと分かって良かった。つまり、善良な鬼のことは皆忘れてしまっているのだ。僕は展示を見て、逆に善悪つかない物事の重要性を伝えたいのではないかと感じた。優しい鬼も怖い鬼も様々な鬼がいる。とりわけインドネシアのバロンダンスは面白いと思った。光と闇の神が争い、決着がつかないことを表現しているという。これは日本の鬼や神の概念にも通じるところがあるそうで、ぜひ今後研究してみたいと感じた。

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 郷土芸能居酒屋鬼剣舞(19:00~20:00)

鬼剣舞が見られる居酒屋があるというので行ってみた。今回は二子鬼剣舞の演舞が行われ、とても感動した。一定距離をとって、お座敷席から鬼剣舞を見物する形だったので、コロナ禍であるがとても安心である。加えて、芸能好きだけでない居酒屋の席で芸能を届けることは関心層を広げる意味で、とても良い取り組みと感じた。しかも、芸能団体にとってもPRの場になり、居酒屋にとっては大きなコンテンツとなる。お互いにwin-winだと感じた。

一番庭、刀剣舞のふるい踊り、狐剣舞の3つの演舞が行われた。鬼には化けられなかった狐が登場するのが狐剣舞で、鬼剣舞と同じ衣装を着る。基本は8人で踊る。山伏の交流によって伝えられたという。念仏の芸能なので、先祖のなぐさめや無病息災を願う。8/16お盆のお祭りが起源であるが、それからこの郷土芸能居酒屋など様々なところに頼まれて演舞に行くようになったという。 

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2021年8月15日 岩手県奥州市 増沢鹿踊取材

時代劇のロケ地として有名なえさし藤原の郷で鹿踊の定期公演が行われることを知り、行ってきた。団体めがけて見に来る観客もいて、山形や宮城からも来ることがあるそう。コロナ前は15団体およそ100匹の舞い手が踊ることもあったようだが、今は屋根のあるステージ上で団体ごとの演舞のみとなっている。

演舞では、中立ちを中心に8頭の鹿が役割を分担しながら行っていた。初めて拝見した印象としては、衣装の派手さと大きさが勝るので、踊りはあまり複雑なことができない。その分、太鼓の音が非常に大きく、図体も揺らすだけで迫力がある。やはり、仙台方面から来た芸能というのは、武士の威厳みたいなものを感じる。遠野などで行われている幕系のしし踊りと、この太鼓系鹿踊では芸能が全く別物に見えるのだ。

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 ps. えさし藤原の郷の食堂で食べた卵そばなる食べ物がとても美味しかった。やはり、普段なかなか行かない土地に来たら、郷土料理が食べたくなる。

2021年8月16日 岩手県北上市 岩崎鬼剣舞取材

岩崎の鬼剣舞は北上最古の鬼剣舞である。8/14にもともと鬼の館で演舞を予定していたが、当日行ってみると緊急事態宣言のため中止とのこと。慌てて滞在を伸ばし、今回の地域での演舞のことを教えてもらい、再度駆けつけた形である。また、鬼の館の館長さんとたまたま岩崎城跡で会い、道中の移動を車に乗せていただいた他、諸々の解説等をしていただき、本当に感謝したい。僕の他にも北上市の広報の方々や鬼剣舞の研究をされている大学生などが取材に訪れていた。以下の流れで鬼剣舞の演舞が行われた。

 

①岩崎城跡にある和賀忠親の供養搭、鬼剣舞の供養搭(昭和64年に建立)の2つの前で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、最後に線香を添える。

 

泉岳寺にある鬼剣舞の供養搭(明治時代に建立)、本堂の前で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、鬼剣舞を演舞した後に、最後に線香を添える。

 

③稲荷神社の拝殿、鬼剣舞の供養搭(大正時代に建立)で太鼓、鉦、笛を鳴らし歌を歌い、手を合わせ、鬼剣舞を演舞した後に、最後に線香を添える。(鬼剣舞は供養搭の前のみ)

 

鬼剣舞の演舞は、泉岳寺鬼剣舞供養搭、本堂、稲荷神社の鬼剣舞供養搭の3箇所で行われた。供養搭の建立はいつ立て替えると定められている訳ではないので、立て替え時期の判断はよくわからないとのこと。供養とはしし踊り等によくある狩猟によって捕らえた生き物などではなく、先祖への供養という気持ちが強いようだ。お供え物は、基本的に家にあるもの、庭でつくっているものなどがずらりと並んでおり、メロンやバナナなどの果物からナスなどの夏野菜が置かれていた。また、泉岳寺では供養搭近くにたまたま生えていたみょうがをお供えしていたのが印象的だった。

鬼面は赤、緑、白、黒など様々で、中国の陰陽五行説に基づいて方位と色が定められているようだ。演舞の中では、ソロで1人の演者が瓦を運ぶという大道芸のようなものがあったが、たまに運ぶのを失敗する。素手で間違えていたのかと思ったら、これも演技の一部で愛嬌とのこと。この演技力には脱帽である。また、明治以前は神仏習合だったので、仏教の踊りにもかかわらず、いまでも神社でも踊っていることが興味深い。

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今回、全体を通して感じたのが、岩手県の人のおおらかさと自然の雄大さであった。その点が隣の城下町としての色が濃く都会的な要素を感じる宮城県とは大きく異なると感じた。先週に宮城県を訪れたこともあってか、余計にその県境への意識が強くなった。各都道府県にはそれぞれ県境が設けられる意味があり、その土地独自の民俗芸能が息づいているのだ。