【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺八間道・塩浜町(追加)

10月27日

11:30~

大聖寺八間道

区長の村田俊宏さん(58)と町民の奥野幸治さんと同行の山口美幸さんとともに、江沼神社の獅子頭が保管されていると思われる倉庫に向かった。もう45年以上前に獅子舞は実施していない。だから倉庫に行くと言っても何が入っているかわからず、村田さん曰く「秘密の花園を覗きに行くようなものだ」とのこと。村田さんが物心ついたときには、既に「近くの大聖寺京町の獅子舞が羨ましいな。うちの町にも獅子舞があれば...」と感じていた。奥野さんより少し若い人が小さいときに獅子を舞っていたことを見たことがあるため、少なくとも70年前には獅子はあったのかもしれない。

江沼神社の旧拝殿が江沼神社の敷地内にあり、その後ろにある倉庫を開けてみるとそこにあったのは、獅子頭の箱!獅子頭が上段に大人獅子、下段に子供獅子だった。「昭和28年12月新調」と獅子頭の箱の蓋に書かれていたので、この時に大人獅子と子供獅子が同時に作られたのかもしれない。少なくともこの時以前に獅子舞を実施していたことは分かる。ただし、奥野さんによれば、子供獅子から大人獅子へどこかのタイミングで切り替わったという記憶もあり、そこら辺の詳細がわからない。大人獅子の裏側には少しカビが生えている。また、獅子頭の角が残されていたがこの双方にはめられる穴はなかったので、すでに無くなった獅子頭の角かもしれない。蚊帳2つ尻尾2つ太鼓1つも残されている。そういえば、大聖寺荻生町は昔、江沼神社から獅子頭を借りて舞っていたという話があったので、これはもしかすると大聖寺八間道の獅子頭だった可能性はある。

獅子舞は桜まつりの2日間のみ行っていた。青年団は何歳からやっていたのか、よくわからない。獅子は4人、太鼓2人で笛がない獅子だった。他の町内の本陣や知っているお店もいくつか回った。最初、山下神社での奉納から獅子舞を始め、本陣、町内の各家という順に回った。江沼神社での祭礼で獅子を舞った記憶はない。

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19:00~

塩浜町

獅子頭や祭りの撮影の追加のヒアリングとして、区長の西さんにお話を伺った。獅子舞の舞い方は8種類あり、サンベン、ニゲ、クルクル、アシキリ、アイナタ、アイボウ、マメ、アクビという演目である。最後の2つは棒振りがない。マメは獅子に体力を使わすために、豆を拾わせる動作をさせる。アクビとマメでは、獅子を持っている人が50mくらい引きずられるという舞い方で、奉の字を描く時の縦の棒の部分を描くときの動作である。アクビは非常に激しいので、伝統的な獅子頭は使えないということで、最後に格好良い黒い獅子頭で締めるという今の形態が生まれた。激しい舞いだからこそ、獅子頭を大事に使おうという意識も強いようだ。途中8の字を描くように獅子を回す。8の字は縁起の良い末広がりの意味がある。アクビとマメは神社の奉納の時にしかやらない。また、アイボウは2人で松明を回すイメージで、赤い棒を使って実施する。太鼓はオオバエとコバエがある。青年団は高校を卒業した18歳から入って25歳までというのが恒例だったが、現在は担い手が少なくて30歳くらいまで年齢が伸びている。オオバエは大人、コバエと棒振りが子供、中学生は応援に来てくれて雑用的なことを行い、獅子に入り始めるのが高校生の年齢である。笛は昔、青年団が難しい横笛を吹いていたが、今では子供が簡単な縦笛をふくようになっている。

獅子舞の祭りの日は、9月中旬で2日間かけて行う。朝6時から夜の6時までで、2日目は6時半ごろからスタートする。町内140軒を回るだけでなく、他町や企業を舞いに行くので、トータルで160軒は回る。最初、青年会館から舞い始め、神社に奉納をしてから、区役、町内という風な順番で回っていく。「今年は山回り、今年は海回り..。」という風に毎年回り方を変える。大体の家で、「ニゲ」の演目を行う。また、お酒をもらったら、「目録!ビール1ケース!」などと言って、「クルクル」の演目も舞う。家の前には親戚などが集まってきて、ご祝儀を7連続で渡してくれたことがあり、その時は7回舞いを行なった。現在、獅子のご祝儀は5000円を出す人が多く、神輿の祝儀は3000円を出す人が多い。昔、ご祝儀は獅子と神輿で100万円は集まったが、現在は獅子だけでもご祝儀は100万円は越える。昔は青年団が飾りをつけた神輿を作ってくれていたが、最近は富山県の刑務所で神輿を作ってもらった。獅子のご祝儀に関しては、塩浜町だけでなくその周辺もご祝儀が高く、最も高いのは小塩辻町で、1万円を出す人がたくさんいる。

最後の奉納で神社に入ってくる時、棒振りの子供3人くらいを肩車して薙刀獅子頭に噛ませる理由は、獅子を退治したということを示すためだ。神社で民衆の見ている中で、最後に神社の前でも獅子を退治するという流れがある。そういえば、田尻町の獅子舞を2021年9月18日に拝見した時、神社から公民館に移動する時に、青年団の上役の人を肩車をして鳥居をくぐって公民館の前まで戻るということをしていたが、塩浜町のお話とどこか似ている気がする。この周辺の地域のいわゆる浜どこの獅子は肩車文化があるのかもしれない。

塩浜町の獅子舞の起源は九州にある。北前船に乗って塩屋町か橋立あたりにきた九州の人が、獅子舞を伝えた。そう考えると、昔、橋立地区で内灘の獅子舞が明治時代に伝えられる前の赤い獅子はもしかすると、塩浜町同様に九州から北前船の影響で伝わった獅子舞なのかもしれない。浜どこの獅子はお互いに対抗意識を燃やしていただろうし、繋がりもあったように思う。それらの獅子の文化圏の古層には、九州由来の獅子が継承されていたということかもしれない。また、浜どこ同士の交流は獅子舞の後に夜に行う輪踊りで特に行われていた歴史があり、塩浜町では娘が生まれたら「ケンボウ」という黒い自分の家の家紋が入った衣装を作りそれが未婚という印で、それを目がけて自分の町や他の町の男が声をかけにいくということが行われた。小松市の安宅では女性はカツラをかぶるなどの派手な衣装で有名である。

塩浜町の獅子舞には赤と黒獅子頭がある。黒は伝統的な色ではなく、赤い色の獅子頭を伝統的に使っている。黒い色の獅子頭は、修理の時にたまたま黒色を塗ってみようということでやってみたら格好良かったのでそうなった。昔は、表情の怖い獅子を舞っていた。真っ黒に塗られた目を持っていたが、後から金色を塗り、目玉を修理した。塩浜町の獅子頭は雌獅子である。雌獅子はゆっくりとしたイメージが強いが、この地域の獅子舞は非常に激しい。激しいからこそ、獅子頭の握り方も拳を作るように縦棒と横棒の交差点を握る。その方が、手首を返しやすいからである。また、激しい獅子なので、かなり軽く作られている。獅子頭が制作されたのが、白山市の鶴来である。一番新しい獅子頭は130万円で作ってくれた。昔、蚊帳の中には竹が入っていていた。ただし、今も昔も獅子舞も蚊帳の大きさは変わらない。また、なぜかわからないが尻尾を使わなくなった。竹や尻尾を通す穴は今でも所々蚊帳に残っている。おそらく激しい獅子だから持ってられないということで、50年以上前にやらなくなった可能性はある。

獅子頭の握り方

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ps.昔、高尾町の障害施設で和太鼓をしていた時に、十万石祭りで太鼓を叩いてほしいということで依頼された。大聖寺のどこかの獅子もそこに添えて演舞した。獅子は舞える人がいないということで、その後、神社に獅子頭を奉納して終わりという形になった。古老の方はこの時、涙ながらに「よし!」と納得したようである。こんな獅子だったかな?と獅子頭としての役目を果たさせる形で終えた。図書館の横の公園で舞いをしたので、その周辺の町の獅子の話かもしれない。今から15年くらい前の話である。