寝獅子の源流とは?石川県小松市串町で獅子の舞い方を調査

10月25日

10:00~13:00

よこえ酒店の横江博昭さんにお話を伺った。先日、片山津温泉で獅子舞の取材をしたときに、能登半島田鶴浜から来た建具職人である山口半次郎が明治時代に獅子舞を伝えたことを知った。そして、その獅子舞が周辺の柴山町、新保町、高塚町などに伝えられたこともわかった。この流れのなかで、片山津温泉から小松市串町にも獅子舞が伝えられたことも知り、片山津温泉ではすでに1度途絶えてしまった寝獅子の舞いを今にとどめている。昔の寝獅子の舞い方はどのようであったのか?を知る良い機会だと思ったので、今回取材を申し入れた。こまつの曳山交流館みよっさの橘さんに、串町公民館の方をご紹介いただき、それから横江さんをご紹介いただいた流れである。

 

横江さんが経営されている酒屋にお邪魔した。昔、寝獅子は人を楽しませる演劇的な要素が強い演目だったのかもしれない。加賀市潮津町の寝獅子の動画を横江さんにお見せしたところ、物語の顛末が寝獅子にはあったが今ではそれが少し崩れているようだ。一方で、今では一瞬一瞬のおどける面白みを意識するようになったということかもしれない。寝獅子とはいえ、今と昔では大事にするものが少し異なっているようにも感じた。その後、串町公民館で、串町の寝獅子について拝見したところ、棒振りとひょっとこを折衷したような踊りをしていることがわかった。ひょっとこが獅子を棒で突いたり鼻に棒を突っ込んだりしてからかっているところまでは滑稽だったのだが、それに反応した獅子がひょっとこに噛み付くという場面にギョッとした。まるで人間が動物に食われるみたいだ。最後は獅子が退治されるのだが、顔が横倒しになって終了となった。加賀市側では、潮津町が片山津温泉由来の寝獅子をやっているが、ひょっとこは獅子に酒を飲ませるものの、獅子に噛みつかれることはなくひたすら逃げるのみだ。最後は獅子頭が太鼓の上に置かれて終了となる。加賀市潮津町と小松市串町でそれぞれ寝獅子の形態の発展の仕方が違っていたと思われる。

 

▼旧公民館で現在使用している獅子を持つ横江さん。背後の黒板には、獅子舞の本番の日程が書かれている。

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元々、串町の獅子舞の起源は、大正時代に高島という大工の弟子に長吉という人がいて、片山津から寝獅子を習ってきたことに始まる。「あの人の寝獅子見たいな」という風に噂が広がっていき、「長吉寝獅子」と呼ばれて有名になった。寝獅子のなかでも長吉寝獅子というジャンルがここで確立したわけだ。それで、本流というか芸事として素晴らしい寝獅子は隣の昔は江沼郡だった額田町の方に残った。今の串町の獅子は芸事というよりかはただ寝転んでいるような印象も強いが、それも今の若者の青春の過ごし方やスタンスであると割り切ってお考えのようだ。

以前の取材で、片山津から串茶屋にも獅子舞が伝わったということを聞いていた。串茶屋は遊女の街で、串町の隣に位置する。遊女については江戸時代に集団で埋葬されたお墓がずらりと並ぶ場所もあり、多くの遊女がいたことが伺える。串町は串茶屋の出村である。町の成り立ちからして、芸事の文化が盛んな土地だったのだろう。それが獅子舞の舞い方にも反映しているように思える。また、串茶屋は現在、子供獅子をしている。昔は串茶屋も串町と同じ青年団が回っていたが軒数的に回りきれんということになって、別のところに獅子舞を習いに行って、新しい獅子舞を始めた。つまり、昔は串茶屋も串町も同じ青年団を形成していて、そこに片山津からの獅子舞が伝わったという流れである。

※『串町史』(平成4年)によれば、江戸時代の藩政の頃から獅子舞をしており、明治時代に一度形態が変化したようだが、その詳細はわからない。現在の獅子舞は大正6年(1917年)頃に「片山津隠者」の型を参考に新しく習った棒振り型のものである。この時の姿は、「赤熊(シャグマ)の毛」を頭に被り、草鞋を履いて演舞していたようで、現在でも草鞋を履いて演舞するのは変わっていない。また、この大正6年頃にはすでに寝獅子が伝わっており、頻繁にやってはいけない演目ということで厳しい指導がされた。

 

▼旧公民館の青年団の団室は獅子とともにお宝がたくさん眠っている。

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串八幡社の祭礼時、秋祭りで獅子舞を実施してきた。春祭りでは獅子舞を実施しない。小学校5~6年や農家の長男から24歳までが獅子舞をする。現在は20人ほどで実施している。寝獅子は卒業近い人が務めることも多い。24歳からは織物関係など町内の仕事に携わるのが中心になって、壮年団に所属するが、獅子舞には関わらなくなる。青年団の人とは別に子供たちを集める必要がある時には、子供会に頼むが、図書券500円などでは最近はやってもらえないので、5千~1万円くらい出す。小学校5年生だと1万円くらい出す。

現在町内では、青年団と町内会で分けて獅子舞が行われている。串町には1200軒の家があり大所帯なので、青年団だけでは回しきれなくて、横江さんが町内会長をした時に2つの組織に分かれた。班ごとにするという案もあったが、それでは寂しいのでということで、町内会と青年団に分けられた。昔から「正月3日盆3日祭りは2日でおこまいか」という言い伝えがある。3日も4日も稲刈りの最中に祭りをしているわけにもいけないというわけだ。青年団は9月15日前後の3日間、町内会は9月15日前後の2日間獅子舞を行う。串八幡宮、お寺、町内会長を回ってから、年によって何班から回るというのが決められている。朝5時くらいから日が暮れるまで実施する。

舞い方は、寝獅子とあと2つ(長棒と短棒?)がある。寝獅子はご祝儀が1万円が入った時に特別に行い、ほかは大体500円くらいを出す場合が多い。今も昔も大体ご祝儀の額は変わっていない(平均的な獅子舞のご祝儀の金額が低く、逆に払いやすい設定になっているのは、おそらく軒数が多く少額でも財力があるからだろう)。昔はすごい大きな動作だったが、現在は舞い方の表現が小さくなっているような印象がある。獅子舞の祭りとは別に、獅子舞の県大会、全国大会もあったし、北島三郎やらが出ていたNHKのふるさと自慢に出させてもらったこともあった。ひと通り町内を回ると20万円くらいは貯まるので、青年団で集まって日帰り旅行に行くこともあった。

 

▼獅子舞が始まる串八幡宮は石造物がたくさん。獅子・獅子頭狛犬などの奉納もあった。昔は馬など石造物にまたがって遊んだらしいが、今ではそのようなことをしたら怒られてしまう。

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また、獅子頭に関しては、超大量に保管されていてびっくりした。まずは旧公民館1階の青年団の部屋に2体、2階の民俗資料の展示室に3体、現在の公民館に3体の計8体が保管されていた。青年団の部屋に置いてあるのが青年団が使う獅子頭で、現在の公民館に保管されている獅子頭が町内会が使う獅子頭である。また、旧公民館の2階に保管されている獅子頭は、町内会か青年団か所属がよくわからないものの鼻が割れた獅子たちがゴロリと飾られていた。鼻が壊れる理由は、獅子に対して棒をぶつけるのが当たり前で、そのような舞い方になっているからである。最も古い現存する獅子頭青年団の部屋がある旧公民館のものだと「昭和15年まで使用」と書かれている一方で、現在の公民館にある町内会の獅子頭には「皇紀2600年(昭和15年のこと)参宮記念奉納」と書かれている。古い獅子頭はもっぱら井波に頼んでいたようだ。また、獅子頭の色に関しては、町内会の最新の獅子頭が赤色であるが、そのほかは全て木がむき出しになっており、色が塗られていないという点は興味深い。白木の獅子頭は、一本の桐の木を使い、節があってはならない。

 

▼旧公民館に保管されている昔の獅子頭や天狗面、ひょっとこ面など。

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また、天狗やひょっとこの面も多数見られたが、天狗というのは意外だった。片山津温泉の獅子舞には、三番叟が登場するものの、天狗は登場しない。三番叟がどこかのタイミングで天狗に切り替わった等の可能性が考えられる。また、昭和29年に作られた大太鼓等、3つの太鼓が旧公民館横の農家(横江さんの敷地内)に保管されていた。太鼓もかなり盛んに行われてきたことが伺える。これらの太鼓の脇に獅子舞に使う棒も取り付けられていた。

それにしても、旧公民館が資料館として解放され、小学校の授業にも使われているとのことで、これは素晴らしい取り組みである。隣の串茶屋でも公民館の中に資料館が作られているしこの周辺の地域は民俗資料の保管が非常に進んでいると感じた。

 

▼旧公民館横の農家に保管されている大きな太鼓。

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