【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺畑町

2021年11月9日

16:00~ 大聖寺畑町

大聖寺地区会館のご紹介で、畑島繁則さんに突撃アポでお話を伺った。獅子頭の在り処はわからないとのことで、話だけでもということでお家を訪ねた。同行は北嶋夏奈さん。26~7歳まで獅子舞をしていた。もう、50年以上獅子舞自体実施していない。結婚式の時の披露宴で獅子を舞ってもらった記憶はある。この地域の獅子は「天狗獅子」と呼ばれていた。

獅子舞の練習はお祭り前に集会施設みたいなところがあって、そこで練習した。子供達が学校が終わり、大人が仕事が終わった後の夕方から練習を開始した。獅子舞の祭りは春が3月21日、秋は8月21日での両方で行なった。お祭りはお昼前から始まり、20軒の家を回って夕方ごろに終わるという流れだった。獅子舞の当日は町内の家を一軒一軒回って、ご祝儀をいただいた。祝儀の額はよくわからず、その額によって舞い方を変えることは無かった。ご祝儀が集まると、そこに少しお金を足して、温泉などに旅行に出かけた。

子供から青年団、壮年団が皆参加して獅子舞を運営した。獅子は3人、太鼓1人、笛2人、鉦1人、棒振りという構成だった。鉦が出てくる獅子舞というのは、加賀市では非常に珍しい。棒振りは鳥のような形の烏帽子を被る天狗だった。天狗になる踊り子は小学生から中学生の子供がやっていた。その棒振りの前にはタイマツが2つ炊かれて立てられており、それを渡すように柵があって、棒振りが柵を飛び越えて獅子と「チャンチャンバラバラ」をするという内容だった。獅子は柵を飛び越えることなく、棒振りだけがその柵を飛び越え行き来した。その柵というものの形状はよくわからないが、机ぐらいの高さだった。舞い方はおそらく柵越えがある獅子と柵越えがない獅子とがあったので、少なくとも2種類はあっただろう。

▼獅子舞をしていた時の様子を少しだけ紙に書いてくださった。中央の縦棒は天狗が飛び越えた柵のことである。

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獅子舞の始まりはよくわからないが、加賀市内(江沼郡)に師匠みたいな人がいた。「鉢巻きしてた獅子、無かったっけな」ということなので、おそらく舞い手がハチマキをしていた町内から教わったということだろう。奥様の話では、「桜まつりの獅子も(大聖寺畑町同様に)こんな感じだった」という話だったので、もしかすると、大聖寺の中に同じような形態の獅子舞があって、それを教えてもらったのではないかという可能性もある。また、火の上を歩くといえば、大聖寺錦町にあるお岩さんというお寺の行事があるが、それとの関連性はおそらくないだろう。

そのような話を伺っていたところ、八幡神社社務所を探してくださっていた町民の方から畑島さんに電話が入った。「あの、今、社務所を整理しとるんや。そしたら、獅子頭あるけど、ものすごく痛んでいるわ」とのこと。なんと、獅子頭がまだきっちりと保管されていたのだ!感動的な再会!50年ぶりの獅子頭のお披露目である。この巡り合わせというのも、何かの縁だろう。「そんじゃ、行くって!」という奥様の言葉とともに、お宅を出て、早速、八幡神社社務所に向かった。

社務所に着くと、そこに2人の男性が待っていてくださった。区長の山本一郎さん、地域住民の松村昇さんである。社務所の木の棚があり、その中には、獅子頭だけでなく、烏帽子2つ、尻尾1つ、法被多数、蚊帳2つ、烏帽子が持つふさふさが付いた棒振りの棒、前掛け、「塚本組」という運送会社の名前が書かれた鉢巻に使う手ぬぐいなどが保管されていた。鉦は保管されておらず、太鼓はおそらく町民会館の方に保管されているだろう。獅子頭は埃をかぶっていたものの、大量の防腐剤の効果もあり虫に食われることもなく、カビが生えているということもなかった。また非常に驚いたのは、獅子頭の素材が木ではなく紙だったということだ。紙製の獅子頭というのは加賀市で他に例がない。紙製なのでとても薄く軽く作られており、獅子頭の製作者と製作年が裏側に彫られているということもなかった。それゆえ、いつに誰が制作したものかはよくわからない。少なくとも、この獅子頭を若い頃から使っていたことは覚えている。今回、社務所の壁越しに、蚊帳の上に獅子頭を乗せる形で獅子頭を撮影させていただいた。この出会いは本当に奇跡だと思った。

獅子頭の内側はこんな感じで非常に薄く作られている。

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この大聖寺畑町という地域の歴史は非常に古い。町民会館には「黒観音」という珍しい観音様が保管されているらしい。今回訪れた社務所の中にも、たくさんの昔の写真が壁に飾られていたほか、ネパールか何かのお面まで飾られていた。また、のぼり旗の上に挿す巨大な剣も保管されていてこれには驚いた。津波城という城を陥して南北朝時代に建造された畑城という山城が八幡神社の後ろの山にあって、新田義貞四天王の一人である畑時能(はたときよし)という人物がこの土地を治めていた。その時の名残で、元々は八幡神社(はちまんじんじゃ)だけでなく、畑神社(はたじんじゃ)という神社が隣にあり、それを合祀して、今の八幡神社ができたというわけだ。昔は白山五院の関係で極楽寺町という名前もあり、また江沼郡福田村というものを昭和10年大聖寺と合併させる形で大聖寺畑町ができた。それにしても、畑町に住む畑島さんと畑時能という人物の歴史、すべて「畑」の字がつくのは非常に興味深かった。

▼畑島さんは社務所の倉庫にある道具をたくさん見せてくれた他、町の歴史の話も聞かせてくれた。

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