【2021年7月】石川県加賀市 獅子舞取材7日目 橋立の獅子舞の起源とは?.....田尻町(再取材・撮影)・新保町・小塩町(再取材)・冨塚町(再取材)・石川県河北郡内灘町大根布

7月7日

今回の石川県加賀市の獅子舞取材の最終日。いろんな予定がどばっと入ってきた1日だったが、獅子舞に関して、かなり理解が深まった1日だった。その時の様子を振り返る。

橋立の獅子舞の起源を探る取材

2021年8月下旬に橋立町で獅子頭と写真の展示イベントが行われることになっている。そこで写真を展示させていただくのだが、その前に橋立町の獅子舞の起源について知っておく必要があると思い、最終日には橋立公民館館長の吉野裕之さんとともに、様々な方にお話を伺った。

 

まず明治19年1886年)にコレラの大流行によって、全国で37万人、石川県では2万人の死者が出た。これは現在新型コロナウイルスによる日本の死者数が約1.5万人だということを考えると、驚異的な数字である。この流れにより、石川県河北郡内灘町でも大根布地区だけで325名の死者が出た。元々季節ごとに日本中様々な所で漁業を営んできた大根布の漁師たちは1890 年代に日本中で村外への漁業移住を決めた人も多かった。その中でも、石川県加賀市小塩町(橋立地区)に移住した人々がいて、半農半漁の生活を送った。その人々が内灘の白い獅子頭が登場する獅子舞を橋立に伝えたと言われる。(参考: 橋立地区会館だより,2021年)

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田尻町 横山伊佐美さんインタビュー(10:00~)

横山さんは橋立町で初めてディーゼルエンジン付きの船を作った80代男性の方。宗松というおじいさんが、移住するならここで良いということで兄弟とともに、内灘の大根布から橋立に移住した。当時は漁民の町として、大根布が一番大きかった。知事の高橋与一さんが終戦の食糧難の中で、底引き網の許可を与えたこともあった。また、取れる魚が違うこともあって、長崎に出稼ぎに行ったこともあった。長崎は西洋のお菓子が並んでいたことが印象深かったという。

 

伊佐美さんが最初に獅子舞に関わったのは、小学校6年生の時から。伊佐美さんの父は獅子舞に関わっていなかった。田尻町のかわら屋の人(地下の人、つまり在郷の人)が青年団長をしていた。学校から戻ってくると、厳しい指導のもとで太鼓を叩いた。田尻町は一ヶ月ほど練習する。今の獅子頭は4つ目の獅子頭で、昔のものと大きさは変わらない。橋立の獅子舞は戦中でもやっていた。田尻町の獅子舞が地域の家に招いてもらい祭りのお昼に飲み食いをする宿をするようになったのは昭和30年代から。

 

宿提供した経験のある橋立公民館の館長・吉野裕之さんはビールは100本、10万円分の食費で30人前の食事を振る舞ったという。田尻町の獅子舞は明治からなのか、大正からなのか、昭和なのかはわからない。ただ、小塩町だけは明治からやっていたのは資料に残っている。疑問点は田尻町が雄、小塩町と橋立町が雌の獅子頭を使っているということ。小塩町は列が整っていて指導がしっかりしており、田尻とは違う舞いにも見える。もしかすると、内灘の違う場所からそれぞれ習ってきたかもしれない。田尻町は黒崎村だったが、小塩町は橋立村だった。行政区分が違った分、田尻町はもともと赤い獅子でよそもの意識があったはずだが、なぜか後々白い獅子舞が根付いたのだ。

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②小塩町 濱稔さんインタビュー(13:00~)

濱さんは小塩町在住、昭和10年生まれ。小塩町の人は元は地下の人が農業をしており、内灘からの移住者は漁師をしながら生活をしていた。また、本業だけで生計を立てず、塩づくりをしていた人もいたと考えられる。地下の人(在郷の人)は茅葺の家に住んでいたが、内灘から来た人は掘っ建て小屋のようなところに住んだ。お祭りも別々でやっていた。棒振りは漁師の関係者、自分らは笛とか太鼓しかできなかった。しかしはそれではいけないということで、手打ち式をして白い獅子をみんなで始めた。太平洋戦争にも、皆一緒に戦争に出かけた。彦野さんという方が内灘から小塩町に移住して獅子舞を伝えたのではないかと言われている。

 

今では、昔は袖絞って体を出して舞うので、ちょっと形が崩れているように見える。獅子頭は上段、中段、下段という、回す位置によって段階がある。頭の上で回すのが上段。これをやっている人は一人だけ見たことがある。昔は中団(腹あたり)で回す人が多かったが、今では下段(腰下)で回す人が多くなっている。踊り手の力量が低下しているのかもしれない。ただ、棒振りなどの舞い方のタイプは変わっていない。

 

親父がいた時代に、内灘から来た人と地下の人が喧嘩していたのを覚えている。内灘から伝わった獅子舞は小塩町に初めに伝わったのは間違いない。白い獅子になる前に小塩町にあった獅子頭はグリーン系の青い獅子頭で金色の模様が入っているものと、木がむき出しになっていた獅子頭があった。どちらが新しいものだったかがよくわからない。どうして、白い獅子頭がこれらの獅子舞から変わったのかのかはわからない。ただ言えるのは昔お宮さんがあった場所がなく、今は貴船神社から獅子舞が始まる。獅子舞が始まる神社が変わったという事実があるようだ。獅子頭が白くなった理由は、おしろいを塗ることで雌獅子を笑わすために作ったという話があり、花棒が登場するのもこれが理由だ。内灘にも白い獅子頭があったので、それをそのまま伝えたとも言える。田尻町や橋立町に直接、内灘町から伝わった獅子があるというのは今の所聞いたことがない。

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③石川県河北郡内灘町加賀市橋立地区の獅子舞の起源を探る(18:30~)

橋立地区にお住いの方だけではなく、実際に内灘町の方にもぜひお話を伺いたいと思い、急遽大根布地区にお電話。小塩町に獅子舞を伝えたと言われる内灘町の大根布地区の区長・中村壽(ひさし)さんをはじめとする、約5名の区議会の皆様にお話を伺った。

大根布地区は区議会制を採用しており、大根布地区行事連絡協議会があり、祭りをはじめ様々な行事の運営を行う。その中に5つの連合会(町内会)が属しており、地区一帯となって祭りを作り上げているのが特徴である。獅子舞に関して詳しいお話を伺ったので、その時の様子を振り返る。

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まずは、こちらの友人が撮影した橋立町の獅子舞の動画を見てもらったところ、皆口を揃えて「似ている!」とおっしゃって頂いた。ただ、舞いに関していえば、橋立地区の方が棒振りの動きが激しく、大根布地区の方が動きがゆっくりである。内灘の獅子舞がどこから伝わったか詳しいことはわからないが、金沢の大名行列や獅子舞の影響がかなり見られる。また、天狗も登場するので、能登半島の獅子舞の影響も少なからず受けているのではないかと思われる。

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大根布地区には5つの獅子舞・獅子頭が伝わっている。獅子頭の特徴を整理すると、以下のような形態が見られる。

 

第一連合会(第一町内会):白い獅子頭

出村連合会(第二町内会):白い獅子頭

中嶋連合会(第三町内会):オレンジの顔と緑の角をもつ獅子頭

上出連合会(第四町内会):オレンジの顔と金黒の角を持つ獅子頭

下出連合会(第五町内会):オレンジの顔と金の角を持つ獅子頭

 

以上のことから、橋立3町(橋立町・小塩町・田尻町)の白い獅子頭は大根布地区の第一連合会や出村連合会の獅子頭と類似している。区議会の方々のお話によれば、獅子頭が白いのは、ラシャ(羊の毛)を使っているから。ラシャを使うと獅子頭が丈夫に仕上がるようだ。獅子頭の制作は白山市鶴来の知田工房の方に250万円くらい(蚊帳と合わせた金額)で作ってもらっている。制作元は橋立地区の獅子頭と同じであるが、ラシャを使っているというのは橋立地区では聞いたことがない。獅子頭の購入費用は助成金(宝くじのものなど)に巡り会えばラッキーで、寄付を募ることもある。獅子頭のオス・メスについては意識したことがない。ただ、獅子頭には角があるため、おそらく全てオスだろう。メスはいないと思われる。獅子頭には宿があり、各連合会ごとに5つ設けられている(町会長さんの家が獅子頭, 集会所がその他の小道具を保管)。また、公民館事業の一環で、2016年に内灘町獅子頭を全て役場に集めて展示を開催したことがあった。

 

▼お話を伺った後に撮影させていただいた中嶋連合会(第三町内会)の獅子頭

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また、大根布地区において花棒を使うことはないが、内灘町・室地区には花棒が伝わっている。これは花棒を持って獅子を遊ばせて油断させ、メイケン(57cmほどの両刃の劔)でとどめをさすというものである。最後に獅子の頭持ちがメイケンの棒振りを胴上げするのが恒例のようだ。花棒に関しては内灘町の他地区には見られないが、唯一の例外が昭和3年に御大典記念として大根布地区の上出連合会(第四町内会)が一度だけ演じたことがある。(参考文献:『内灘町誌』1982年)このことから、石川県加賀市橋立地区に見られる花棒は内灘町・室地区から伝わった可能性が高い。

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(2019年撮影 橋立町の花棒)

 

区議会の方々のお話を参考に、大根布地区の獅子舞についてより詳しく見ていくこととする。大根布地区のお祭りは10月の第3土日月曜日で行い、その中心になるのが加賀國二之宮の小濱神社でこの周囲に20軒以上の屋台が立ち並ぶ。その中でも獅子舞が行われるのが土日である。この2日間に、大根布地区の5つの獅子舞と神輿が小濱神社に集まり、順々に出発していく。その際に、白装束を着た人々(町内の厄年の人)が神輿を運び8の字を描きながら歩き、その神輿に獅子舞が噛みつきながら付いていく。このスタイルで神社の外に出て、各町内を回る。大根布地区には1000世帯があり、これを5つの獅子舞がそれぞれの町内を回る形で行われる。町内を回った後は、神社に帰ってきて徐々に蚊帳の中の人数も増えて奉納の舞をして終える。このお祭りの一連の流れは朝10時に始まり、夜19時に終わる。獅子舞、神輿、奴、天狗などが見ものである。ご祝儀は3000円くらいを出す場合が多い。

 

また、獅子舞を舞う機会は、一年に一度、この祭りの日以外にはない。結婚式やら新築祝いやらで舞うという地域も周りにはあるだろうが、歴史的に漁師が海に出て出稼ぎをする文化が根付いている内灘町大根布地区では、仲間がみんな集まって賑やかに盛り上がれる意味で5町で統一した祭りの日があることは一年の中でとても貴重な機会だと考えられるわけだ。この祭りは昔、現在のようなスタイルとは異なり、船に神輿を積んで1週間祭りを行い、学校も休みになったこともあったそうである。

 

大根布地区では蚊帳の中に入る人数に決まりはない。ただ、橋立地区の獅子舞に比べると、蚊帳の中に入る人数はかなり多いように思われる。獅子が蚊帳を噛むということもある。また、各家を回る時の「金貨一千万両、御酒肴は...」という口上は全く同じである。一方で、橋立地区に見られる「ロッコイ!ロッコイ!」という掛け声は大根布地区の獅子舞には見られず、「キラッサイ!キラッサイ!」という掛け声が行われる。また、5つの獅子舞全てにシャガを被った子供の棒振りが登場するので、その点も橋立3町に類似していると言える。黒・白のシャガよりも白シャガの方が偉いというのは橋立地区と同じである。ただ、シャガを被った子供が最後に蚊帳の上に乗っかるというのは、大根布地区のみに見られ橋立地区には見られないかもしれない。

 

このように、橋立地区と大根布地区の獅子舞は様々な共通点があり、昔から漁師同士で交流もあったと思われる。今でも大根布地区の方々は冬になると橋立地区にカニを食べにいく人もたくさんいる。大根布地区では各町内、毎年DVDを残しており、そのDVDをたくさん見させてもらった。その中で、ケーブルテレビの取材映像のDVDもあり、それをぜひ橋立地区の方々に見ていただきたいとのことで、お貸しいただいた。とてもありがたい。8月下旬の橋立地区での獅子舞展示の際にお見せして、後ほどお返ししたい。最後は駅まで送っていただいた。

 

参考文献

内灘町誌』1982年

大根布公民館『新たなる出発 未来へ繋ぐ』2017年

 

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新保町 獅子頭撮影(11:30~)

青年団の島崎雄三さんにお話を伺った。平成27年に作られた獅子頭が保管されている。耳をつける穴はあるが、お祭りの当日も耳をつけるという習慣はない。おそらく雌獅子である。お祭りの日程は9月12.13日。去年はコロナ禍でできず、今年はどうなるかわからない。柴山町と伊切町と一週間ごとに行う。新保町と柴山町とはお互いのお祭りに出かけるなど、活発に交流がある。青年団は高校生から始まり、卒業時期は特に決まっていない。蚊帳の中には3人、棒振り、太鼓、笛がいるので、結構人数が必要な獅子舞である。青年団の数は約30人くらいいる。獅子舞はもともと片山津から習った。柴山・伊切・新保は舞い方が似ており、3種類ある。棒振りはお化粧を真っ白にするのが特徴だ。棒振りの棒は紅白の色のものを使う。

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冨塚町 木村さんご夫妻インタビュー(14:00~)→下記ブログに追記

ina-tabi.hatenablog.com