【2021年9~11月】石川県加賀市 獅子舞取材 河南町(追加)・大聖寺下福田町山岸(追加)

11月16日

15:30~ 河南町

田んぼだったところに植えられた柿の木の剪定作業をされていた、西出さん(85歳)にお話を伺った。同行は北嶋夏奈さん。昔青年団長をしていた時、獅子舞はあった。舞い方は槍を持たない形の獅子舞を実施していた。当時は大学に行ってしまったので、青年団は子供の時代から20歳くらいまで所属した。20歳ですでに青年団を卒業ということはとても早い段階での卒業である。4つ上の杉田さんという方だと獅子舞の話は詳しいかもしれない。

その木の剪定作業をされていた向かいのお家にお住まいの瀬口明彦さん(75歳)にもお話を伺った。数年間、獅子舞が途絶えていたが、町内の昔の人(西野さん、中道さんなど)から獅子舞を教えてもらって、瀬口、寺田、中尾の3人で復活させた。後輩の人も巻き込んで復活させることとなった。舞い方は今と変わらず1つのみだったが、昔の方が少し演目の長さが長かった。5分くらいの舞いだった。太鼓2人、獅子4人という構成で、これは今も変わらない。

お2人の話を総合するに、85歳の西出さんが団長をしていた時から、75歳の瀬口さんが獅子舞を復活させた時までの約10年間の間に、数年間獅子舞が途絶えていたことがわかる。今からおよそ60年くらい前の話だろう。

▼木の剪定をする西出さん

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16:00~ 大聖寺下福田町山岸(やまぎし)

収穫した山芋の整理を道端で行なっていた女性の方に連れられ、獅子舞に詳しい方を探した。同行は北嶋夏奈さん。詳しい方を探している道中、少しお話を伺えた。青壮年団が獅子舞を実施しており、長男が参加することに決まっている。ただ、子供は5~6歳になると男女関係なく獅子舞の尻尾をさせてもらえることはある。現在は40~50歳くらいの人がメインで獅子舞をして、孫がそれを見に行くというようなイメージである。太鼓と獅子で舞う獅子舞だ。

その後、谷幸男さん(85歳)を紹介していただき、立ち話で1時間ほどお話を伺うことができた。谷さんは18歳から42歳まで獅子舞の親方をしていた経験がある。下福田町山岸の獅子舞は、下福田町東組西組(本村)から獅子舞を習った。中学校1~2年生くらいの時に、市議会議員の人やら川畑板金の人やらが、獅子舞を教えにきてくれていた。結婚式を挙げる人がいて、急遽獅子舞を実施せねばということで、それがきっかけで獅子舞を始めた。その時の獅子舞のメンバーの一人として、谷さんが選ばれた。獅子頭の回し方がわかると、太鼓を覚えられた。厳しい指導のもとで、獅子舞を練習していった。谷さんの親世代には獅子舞がなかったので、この時が下福田町山岸の獅子舞の始まりだったかもしれない。下福田町山岸の土地は山沿いに藁葺き屋根の家があったが崖崩れがあって、下福田町東組西組の方に引っ越したという関わりもあり、歴史的にも下福田町山岸と下福田町東組西組には密接な関係がある。

3月の田植え前と8月のお盆と11月23日の収穫感謝の新嘗祭の3回は必ず、獅子舞を実施してきた。正月の厄除けなどの時は舞わない。お宮さん、町民会館、各家、大同工業を1~2時間ほどの短時間で回ってご祝儀をいただく、という流れは3回とも同じである。仕事の終わる時間に配慮して17時ごろに始まり、18時から19時には終わるという獅子舞を実施してきた。ただし、昔は獅子舞の宿が決まっていて、カレーライスや肉じゃがをもらって食べたような記憶がある。つまり、午前・午後で獅子舞を実施していた時代もあったということだ。

獅子舞の祭りでは、大概は5000円くらいのご祝儀が入った。ご祝儀が入ったら子供はお小遣いがもらえて駄菓子屋に子供達だけで行ったこともあった。また、若い人は山代までよく飲みに行っていた。コンパニオンを呼んで、「延長延長!」と言って、長時間遊んで楽しんだ。

結婚式の時は、皆家で式を挙げた。その時、獅子舞も舞いに行った。「にしのしんごさん」が20年前に結婚式を挙げて以降は、町内で結婚式を挙げて獅子舞を舞いに行くということはしていない。結婚式で獅子舞をすると、町内のいろいろな人が見にきた。結婚式の時に披露した獅子舞は、寝た状態から始まり、ノミ取りなどの仕草があった。お座敷の獅子舞だった。これは町内を回る時の演目と異なるもので、町内を回る用と結婚式の時用で舞い方は2種類実施していた。この演目の違いは、町内回る時は3回獅子頭をかえす動作があるが、結婚式の場合はそれに加えてノミ取りなどの動作が入ってきた。結婚式では演目が終わると、蚊帳の中にみんな入ってきてお酒を飲んだ。そして、(蚊帳の中から頭が出ている人に食べ物を食べさせるという)二人羽織などの芸も披露しなくてはいけなかった。芸を披露すると、「なんやそれ!もう一回やってこい!」と言われたこともあって、恥ずかしくてやってられなかったこともあった。昔の家は30畳の広い部屋とかもあったので、このようなことができた。何周忌などの行事の時は、その度に(大聖寺新町の)菅波屋などの料理屋から食事を手配していた。どこの家も20人前くらいのお皿や御膳などがあったので、どこでもこのような宴会が開催できた。

1代目の獅子頭は谷さんの家の真横にある家の倉庫に保管されていた。目やら舌やらが壊れてしまったのでこれは放ってしまっただろう。30年ほど前に、2代目の獅子頭をどこかで購入した。太鼓は浅野太鼓に修理に出した。そしたら、店内に大きな太鼓があってびっくりした。獅子頭を持っていると、蚊帳が後ろから引っ張られるので「腕が痛うて..」となった。獅子頭が重いことも原因の1つかもしれない。

獅子舞の構成は、獅子2人、太鼓のオオバエとコバエの2人、で合計4人は少なくとも必要である。昔は声をかけると皆すぐに集まってきたが、今はテレビやゲームがあって家から出たがる人は少ないので、担い手の確保が難しくなってきている。下福田町山岸では、獅子舞は長男しか担い手になることができない。消防団も長男の人が務めている。長男が大事な子供であり、女の子しか生まなかった場合は、外に出されるということもあった。嫁として外に出されることもあった。それだけ、農作業に男手が必要な時代だったのだ。そのような経緯もあり、町内には子供を14人も生んだ母親もいる。人数が多かったからか、お墓に同じ名前がつけられていることもある。男の子が生まれたら、村中に見せて歩くことが普通だった。わー!と歓声が上がり、万歳三唱をした。谷さんの場合は長男だったために、高校を決められ、企業も決められ、親の言いなりで生きてきた。本当は小松製作所に勤めたかったが、大聖寺の江沼チェーンに勤めざるを得なかった。(実際には手伝いをあまりしなかったが)親が田んぼの手伝いをすることを望んだからだ。あの頃は、車をかっ飛ばすのが趣味だった。マツダのロータリーばかり乗っていた。車は20歳から乗っていた。最近は皆、軽ばかり乗っていると感じる。

谷さんは12歳の時に少年兵として、満州事変に参加した。農家の人たちは普通は行かなかったが、長男で男一人なので、行かざるを得なかった。下福田町で満州事変に出兵したのは、おそらく自分だけだ。4人で運ぶ20ミリ機関砲を揃えて撃った。遥か遠くの看板でも破壊することができた。零戦主翼についている機関砲と同じ種類である。その頃、日本人は中国人のことを今となっては言葉としては悪く聞こえてしまうかもしれないが、「チャンコロ」と呼んでいた。若い頃はバンド活動もしていた。できちゃった婚だが、結婚式が遅れたともいう。広島カープのファンだから、広島で新婚旅行をした。下福田町山岸には溜池から水が流れていてそこで昔は野菜やら洗濯物やらを洗っていた。でも、上流のもんらが水路でお尻を洗ったので、うんこが流れてきた。民政委員になって村を回っていると、いろいろなことがわかる。一人暮らしで死んでしまった人がいて、前日までコーヒーを一緒に飲んでいましたといって、現場検証をした。どうやら、布団をバッと広げた時に、パタンと倒れてしまったらしい。谷さんはタバコを吸ってはいけないと言われているがどうも止められず、タバコを吸い続けている。入院しても「わしどうもねえんや」と言って、脱出を試みた。ガラガラと戸を開けると、看護師さんが立っていて「こら!何しとんじゃ!」と言われた。4回目にして脱出に成功したが、エレベータのボタンを押した時に、「どこ行こうとしとんじゃ」と後ろから看護師に引っ張られた。6回目にやっと脱出に成功して、駐車場でタバコを吸っていた。そしたら、警備員が騒いでいたので、タバコを隠した。それからざわざわしてきて、看護師が並んで睨みつけてきた。ああ、恐ろしや。「あんたみたいな患者は初めてだ。出てってください」と言われた。とにかく、入退院を繰り返していた。退院した時に、サークルKでタバコ吸って女と話していた時に倒れた。店員に怒られ、また救急車で小松の八幡や市民病院などに運ばれた。入院してエコーとって血液検査しても原因がつかめず改善しなかったので、「谷さん、切ってみるか」と言われたが「それだけは勘弁してくれ。お願いしますから」と言ってやめてもらった。あと、顔色が悪いということで、検査したら脳梗塞ということもあった。この腕は点滴溜めで出来とる。今では、夜の11時になると、星を見ながら一服するのが楽しみだとのこと。1時間話をする中で、谷さんはタバコを6本吸っていた。「もうお迎えが..」などと話をするので、「お大事になさってください。長生きしてくださいよ!」と伝えておいた。

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