巨大な体をくねらせる牛鬼、謎の獅子舞ホタ、そして東北に由来する鹿の子...。どれも獅子舞のようであるが、曖昧な存在でもある。そのようなものと向き合ってみたいという想いで、2025年11月3日に愛媛県宇和島市吉田祭のお練り行事を訪れた。
この行事は2025年3月28日、国指定重要無形民俗文化財に指定されたばかりの行事である。吉田のお練りについて、一説によると寛文4年(1664年)に始まると言われる。江戸時代の1835年製作の祭礼絵巻が残されており、絵巻の様子と変化が少ないまま、現在に伝承されている点が珍しいとされる。毎年11月2日、3日で開催され、2日は八幡神社の例祭、伊勢踊りの奉納など。3日は卯之刻相撲、神輿の蔵出し、楠木正成・太閤秀吉・武内宿禰などの人形を乗せた屋台によるお練りなどが開催される。その中で、牛鬼、ホタ、鹿の子なども登場する。四国有数の大規模祭礼に向けて旅立った。
僕はその日の早朝まで島根県にいた。車で広島まで行って、そこから瀬戸内の海を高速船で渡った。初めてのリッチな船旅気分で、窓側座席にテーブルや充電席がついていてまるで新幹線のようだ。そこで充電しながら作業をしていると、うとうとして眠ってしまう。窓からは水面に照りつける眩しい朝の光が、窓越しに入ってくる。瀬戸内の海を眺めていると、その陽気さからまだまだ夏なんじゃないかと勘違いする。広島港を出た高速船は、呉港によってから、松山港にたどり着いた。高浜というエリアに降り立ったのだが、昼ごはんを食べられるところがなく、どれも看板はレトロ。弁当仕出しの看板のフォントが昭和っぽくて良かった。10分で歩いて駅まで行けるのに、無料のシャトルバスがあるという。これは歩いた方が現地の風景を眺めたり、暮らしに想いを馳せられそうで良いと思ったので、僕はあえて乗らなかった。
松山市駅に着くと、松山駅と市駅を間違えて乗っていたようで、松山駅発の特急を乗り逃してしまった。そこで、ご当地のじゃり天うどんと鯛めしをいただき、1時間のブランクを埋めて満を持して、宇和島へと向かった。それから宇和島市吉田町に向けて特急宇和海に乗りこんだが、その旅路は非常に起伏に富んでいた。途中、空が明るすぎて、こんな空と対局にあるような東北の空を思い浮かべた。そう、瀬戸内に来ると東北の空を思い浮かべたくなるのはきっと、対極に位置するからなのだと思う。青が本当に薄い青色で、アニメの描写でしかなかなか見たことがないような空の色だと思った。
それから、予定より一本遅れたために40分ほど遅れて、吉田町に着いた。駅を降りてみて感じたのは、とにかく陽気な南国感。駅がパステル調の配色で、ヤシの木が真ん前に生えている。これは面白いところに来た。街を歩いていると、おばあちゃんがのそのそとゆっくり歩いていて、なんだか牧歌的な雰囲気の古い街並みが残る街だと思った。
さて、今日は祭りの日。牛鬼や鹿の子、そして、宝多と書いてホタと読む獅子舞との出会いがあった。それぞれについて書いていくことにしよう。本当に素晴らしい出会いで、この3種の芸能はとくに、獅子舞研究とつながる重要な側面を持っていると思う。
宝多を拝見して感じたこと
川にかかる橋のたもとに祭り本部があり、その前で出し物が次々繰り出されていた。街全体としては閑散としているが、このエリアにのみぎゅっと人が固まって賑わっていた。神輿が3基いて、その前に大きな柱が建てられていた。
神輿に先んじて獅子舞のような生き物が舞い出した。その舞い方は非常に簡単なもので、少し舞ったかと思うと、観客の頭を噛んで、颯爽と退出していった。観客たちは写真を撮りたいからポーズしてくれといい、渋々少し立ち止まっていた。それで少しだけ観客の頭をまた噛んで、橋を渡ってその先にあった軽トラの2台に積まれた。ただ、それだけでその時の役目を終えた。それから神輿が3基、大きな柱の周りを上下に揺らされながら運ばれ、そして、その後は巫女が通ったり餅まきが行われたりした。
軽トラの見張り役に「この獅子舞のような生き物の名前はなんですか?」と尋ねた。「ホタというんだ。漢字は知らない」とのこと。あとで文献を調べてみたらホタと読んで宝多と書くことを知った。なんと縁起のよい名前だろうか!とにかく福をばら撒くような存在なのだろう。確かにそのおおらかな表情を眺めているとどこか幸せにつながるような気もしてくるのだ。
神輿の先払い以外で舞う事がないそうで、舞う瞬間を少しだけ拝見できたが、全然撮影ができなかった。角があって角張っている感じが牛鬼にも近いような気がする。非常に謎なのがなぜ大量にその姿を消したのかということと、二足歩行でなぜ手を外に出さないかということである。


宝多の起源とは?
ここで後々調べてわかった知識的な補足を挟もう。宝多(ホタ)と読む獅子舞はホタカブなどと呼ぶ場合もあるようだ。ホタの語源は非常に謎に包まれている。さまざまな説があるので紹介しておこう。
・牡丹獅子の牡丹の濁音が消えてホタンとなりホタに変化
・木の切れ端である榾(ほだ)の転化
・生殖神の祭典を囃すのに用いる「ホイタケ棒」に由来
・大阪の「ほたへる」という言葉に由来
・「ざれる」という土佐方言によるとする。
・東北の鹿踊りにその祖系を求める。
・夢を食うと言われる古代中国の架空の動物「バク」に由来
夢を食うというのは、ホタが夜の行事に本質を持つということなのか、はっきりしたことがわからない。しかし、現在ほど簡略化する前は、どうやら夜が明けるまで街を練り歩いたそうである。この夜の練り歩きがなんと一時期、300〜400頭を数えたといい、その百鬼夜行的な凄みがあったに違いない。これだけ数がいたのに、現在は3頭しか見かけなかったので、他の数百頭はどこに消えたのか。非常に不思議である。現在は国安の郷、愛媛県歴史文化博物館、立間八幡宮などにもいくつかは所蔵されているようである。
いずれにしても吉田独特の形態であり、宇和島からこの土地に来た家士の創作と考える人も多いようだ。頭の造形は牛鬼に近いようにも思えるが、定型の形がなく小さなものから大きなものまでそのサイズもさまざまである。下顎から垂れ下がる布地には墨書があり、「八幡大菩薩という文字」や「雲龍の墨絵」などが見られる。後頭部には御幣、演者は白装束にわらじがけ、腰には白いしめ縄をつける。どこか修験者の出立ちにも見える。真後ろには八幡様参詣の御神符をつける。
このホタの起源は元禄年間の1688年頃とされ、「天下の奇習」とうたわれたようだが、大正以降にその形が崩れ、そのきっかけは活動写真 (映画)の登場だったようだ。そこで扮装を競い始める現象が生じたという。そこで伝統的な型の喪失が起こったようだ。それにしても往時の姿は非常に壮観だったに違いない。どうやらかつては暴れるケンカボタが発生したようだ。また昭和7年生まれの女性の証言では、宵宮のホタは夜更けになげ玉と言って投げると大きな音がするものを投げていたという。ホタが遠くにいるときは家の障子からこっそりとのぞき、近づくと障子を閉めて逃げたという。
大きな頭の練り歩くタイプの「八幡ボタ」は神輿の走り込みに先立って、群衆をかき分けて道を作る意味では、先祓いの性質がある。八幡ボタには雄と雌があるという説があり、角が2本と1本の2頭が一対になっているという説がある。ただし僕は今回、1本の角の方しか拝見することができなかった。吉田町教育委員会『吉田町誌 上巻』P567によれば、「どんな理由かしらないが、大正年代にはすっかり角が一本になってしまった」とある。それも不思議な話である。
面白いのは、手を出さない二本足の一人立ち獅子舞であるということ。つまり手は獅子頭を持つわけで、頭に装着するタイプではない。宇和島市教育委員会(文化・スポーツ課)『宇和島市民俗文化財調査報告書1 吉田秋祭の神幸行事 総合調査報告書』P261によれば、この特徴を二人立ちの獅子舞との類似性と合わせて、「八幡宝多のような神輿に随行する特徴等もあわせて考えれば、行道の獅子舞が独自の変化を遂げたものと考えるのが自然に思われる」とも記述している。



牛鬼を拝見して感じたこと
それから僕は牛鬼について歩いた。牛鬼は初めて拝見したが、とにかく大きな体をして、ズンズン街の中を進んでいく。重量をものともせず、車輪がつけられているためか、その移動速度は非常に速い。
牛鬼の門付けはとても印象的だった。牛鬼がまいりましたー!などと言って玄関を開いて挨拶をする。もう挨拶が終わる頃には牛鬼は通り過ぎている。牛鬼はとにかく歩くのが早い。なかなか追いつけなくてたまに走ることもある。
家の前を通る時は、「〇〇さま、〇〇」と掛け声をかけて牛鬼は通り過ぎていく。一軒一軒舞って歩く獅子舞と異なるのは、舞うというよりかは挨拶をして回っているような感覚なのだと思う。ただ、観客の頭を噛む所作がたまに見られたのは、牛鬼がどこか獅子舞という意識があるからではなかろうか。首が揺れると舌も揺れる感じがとても可愛らしいと思った。あと構造として興味深いのは牛鬼の胴体の中に入り動かす人と、外で方向性を修正する、あるいは支えるような役割の人がいるということ。この内と外の担い手の連携プレーによってこの巨大な躯体が動いているのである。時には町の人でない外部から来た若い女性に、「中入ってみるか?」と聞くこともあった。外の担い手は美味しい焼き鳥か何かの串を持ちながら、フランクな身のこなしで牛鬼を支えていた。
牛鬼を撮影していて思ったのはなかなか撮影が難しい。何しろ動くのが速いし、大きい堂々とした雰囲気を伝えたいので、近くに来てから焦点距離を小さい数字でダイナミックにまとめるという方法が効果的なのだろうが、牛鬼がすぐに通り過ぎちゃうので、それを追いかけて撮ることの繰り返しで体力は消耗する。そのくらい牛鬼は化け物級に動き回る生き物であることも興味深いところだ。


牛鬼の起源とは?
牛鬼の発生はどう考えるべきか。大本敬久『愛媛の祭礼風流誌』(2001年, 『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』6号』)によると、神に供奉する動物としての牛観念を基礎として、南予地方の牛鬼が成立したとする。一般に神に供奉する、あるいは使いとして祭礼に取り入れられる動物に馬があり、しかし、牛鬼のみならず鹿児島県日置郡の牛のツクイモンなど、神を先導する動物として馬ではなく、牛を意識する地域が南日本に多いとされている。
牛鬼の描かれ方として、『太平記』巻32に記述があるような全身が黒毛で覆われ、牛のような2本角、口に牙、指が3本という特徴が見られる。一方で、『百鬼図鑑』(1737年・佐藤嵩之)などに描かれるのは土蜘蛛系牛鬼であり、胴体は蜘蛛の形、頭には2本の角となっている。これは『百鬼夜行絵巻』などでは、牛鬼というよりも土蜘蛛に類するという考えもあるようだ。その生息地としては、淵や滝、海など水が多いところと言われ、水辺の妖怪という性格を持つ。また『太平記』などでは、牛鬼が女性に化けることも多いようだ。これらの特徴はどうやら蛇に近いように思われるが、この牛と蛇の伝承が水や女性と結びつくのはどうやら東アジアの特に中国南部とも共通するようである。これは牛鬼が東日本に存在せず、もっぱら西日本での広がりがあることと地理的に結びつく現象と言えるだろう。
牛鬼という妖怪はもともと、長崎、岡山、奈良、徳島、高知、山口などの西日本のさまざまな県に伝わっている伝説がある。伊予の国における牛鬼の起源は山口の牛島にいる牛鬼を伊予の藤内図書という人物が退治したという伝説があり、これに始まるという話もある。それから造りものとしての牛鬼の起源は、愛媛県喜多郡の領主である戸田勝隆の家来である大洲太郎が赤布で牛鬼の形を作り、猛獣の来襲を防いだという。それにしても赤布だけで防ぐというのもなかなか強気なエピソードである。
また高知県四万十市西土佐江川崎の記述であり、大正14年(1925年)刊行の『高知縣幡多郡誌』には、牛鬼の由来として文禄年間に豊臣秀吉朝鮮征伐の際に虎の害を被っていたが、大洲五郎なる者が牛鬼を乗りだすと虎は驚いて逃走したというふうな記述が見られる。これが資料的には最古の記述なので、由来伝承は全般的に比較的新しいと言える。この虎退治の話が、「狼退治」に変容したのが、南宇和郡愛南町御荘である。ここの牛鬼は山に出る狼を退治するために、藩主伊達家の許しを得て、出したのが始まりとのことである。ここに獣退治の視点が地域間で伝播している現象は非常におもしろい。
また加藤清正が朝鮮征伐(1592年)に、敵を威圧するために作ったものに由来するという話もある。吉田藩には加藤清正の遺族と自称する大阪浪人で、加藤金太夫なる人物が支えていた記録もあり、ここに加藤清正や熊本と吉田藩の接点があるという説もある。また、熊本の山鹿地方にその祖形があるとする説もある。
あるいは闘牛説もあるようだ。南宇和歴史民俗文庫の藤田儲三が指摘する説として、江戸時代に闘牛が盛んになった時に、特殊な餌を与えて大きくしたがために農耕用に使い勝手が悪くなって、賭博性を帯びるようになったので、闘牛禁止令が出されたという。それで困った住民が竹籠などに木で角をつけて古紙を張って、柿渋などを塗って頭として、竹と棕櫚で胴体を作って、闘牛の真似をしたというのだ。確かに闘牛用に仕上げるためなのか、湾曲したような寄せた角をしている牛鬼が各地で見られるという。
ただこれだけ多くの牛鬼伝説があるものの、牛鬼を巨大な作り物として祭礼に登場させたのはどうやら愛媛の風習と考える向きが強いようだ。
吉田で牛鬼は「うしょうに」「うしょうにん」と呼ばれているようである。「八幡文書」によれば、天明(1781年)、立間尻浦から神幸御供として牛鬼を出した記録がある。これは宇和島から伝来したようで、この流れは鹿の子と同じである。吉田の牛鬼の特徴はどうやらその暴れ方にあるようである。町内の各戸に首を突っ込み、悪魔祓いをするということで、家が壊されないように昔は丸太で柵を組んでいたこともあるという。また、喧嘩もつきもので、首にとりすがって、舌を引きちぎり、角を折ろうとするものが出たり、牛鬼の頭が潰されることもあったという。そういう喧嘩も昔はつきものだったようだが、今はそれに比べればおとなしくなったものと思われる。牛鬼には神輿渡御のために場を清めるという役割がある。これはどこか獅子舞にも似たようなところがあると思う。そういえば牛鬼をからかいながら逃げる人々を「てがい」というそうだが、これは高知のテガイ獅子とも同根であり、発音はもちろん、芸能的の源流的な意味でも同じような類であることを思わされる。




鹿の子を拝見して感じたこと
鹿の子はとても拝見したい芸能だったものの、実際のところあまり拝見できなかった。最初にこの街に到着したときに、鹿の子が家やお店を一軒一軒門付けしている姿を拝見して、とてもゆっくりと風雅に無表情に舞う姿がとても印象的だった。最後に一礼をして次の建物に向かうときも律儀に一列になってて移動するのである。
ただ、そこまで詳しく見なかったのは、最後の宮入りでガッツリ見られることをどこかで期待していたからである。住吉神社での宮入りを待った。問い合わせた時間だと16時から鹿の子が実施するらしく、パンフレットにもそう書いてあったが、なかなか来ない。それで担い手に確認したところ、なぜかもともと18時前にやる予定だったことが判明。図書館での資料収集もしたかったので、泣く泣く宮入りを拝見することを断念した。商店街を回るところを一瞬拝見しただけで終わってしまったが、もうしょうがない。こういうこともあるものだ。


鹿の子の起源とは?
伊達藩から移入したとの説が根強く、元からの根深い民族性に根差したという説よりも圧倒的に強い支持を得ている。東北のしし踊りの元祖とも言える行山流のしし踊り(八鹿踊り)の発祥は岩手県南三陸町志津川にて発祥したとして、元禄年間(1688〜1703年)より、水戸辺村住人伊藤伴内持遠によって各地に広められたとされ、その一つが岩手県一関市の行山流舞川鹿子躍などである。そう考えると、年代的に宇和島に伝わったのが早すぎるような気もする。ただし、1703年編纂の『貞山公治家記録』には天正15年(1587年)7月24日、盆に家臣の片倉小十郎の家で「獅々踊」を見たという記録がある。この年には伊達政宗は米沢にいた時代であり、ここですでにしし踊りを見ていたというのは非常に貴重な記録であろう。伊達政宗が仙台に入場したのは慶長6年(1601年)である。つまり、伊達家としし踊りの接触の歴史は古いのだ。愛媛には仙台からしし踊りが持ち込まれたという記録はないものの、ほぼ間違いないとする書籍が多い。
伊達政宗の長男・伊達秀宗(1591〜1658年)が元和元年(1615年)に宇和島藩に入部して、元和4年(1619年)に古社寺を調査。宇和津彦神社のをしたが、その際に練り物として仙台から鹿踊を持ってきたのではとされている。またおそらく宇和島の龍光院という真言宗寺院に関する記録として、「龍光沙門伝照旧記」には宝永3年(1706年)に「星霜五十七回を経」と記され、つまり57年の時を経て「鹿頭悉く破損」とあり「鹿頭等十体」を修理したとする。つまり、この記述から慶安2年(1649年)には実施していたと考えられる。
東北では「シシオドリ」と読むが愛媛では「シカオドリ」と読むことが多い。「シシ」ではなく「シカ」という読み方にどこか、具象的な感覚を感じる。確かに、造形も実際の鹿に近いような気もする。大正時代には「シシオドリ」という呼ばれ方もあったようだが、戦後はもっぱら「シカオドリ」がほとんどのようだ。
香川県に近い、今治市、西条市、新居浜市などの人口が多い地域には分布しておらず、より人口の少ない地域で盛んに行われているという特徴もある。例えば吉田藩があったエリア(南予地方)は、人口140万人のうち20万人という少ない人口の地域だ。
東北のしし踊りで見られる入端、案山子踊り、墓踊り、松島切りなどの演目は愛媛県では見られない。一方で、雌獅子隠しは東北同様に重要演目として、それに類する演目が愛媛県でも確認できる。
鹿の子は宇和島が八つ鹿、吉田が七つ鹿で、その他も六つ鹿がわずかにあり、8割型が五つ鹿で非常に多いという分布になっている。もともとは八つ鹿で東北から伝播したものだが、徐々に頭数が減ったようである。これは藩内で地域的にどこが権威があるかが、その数に関わっているという話がある。吉田の鹿を拝見していて、僕が感じたのは無表情で静かなる美みたいな感覚もあった。鹿の表情、作り、そしてわずかな動きにどこか意味があるような哀愁漂う雰囲気も見事である。
吉田の七つ鹿踊りの構成としては、雄鹿が2頭、雌鹿が1頭、若鹿が2頭、子鹿が2頭がいる。雌鹿を奪い合う雄鹿同士の狂乱も見事で、これは関東以北の雌獅子隠しの演目に当たると思われる。親鹿のふく笛の音は鹿の鳴き声を表すようである。

3種の芸能から感じること
さて、このように宝多、牛鬼、鹿の子を拝見したのち、宇和市中央図書館に寄った。この図書館は郷土資料が大充実だった。とにかく文献が多いから、なかなか1時間のみの時間の中で、その文献全てを確認することは難しかった。また東京に帰ってから、国立国会図書館などで再度資料確認が必要そうである。それから再び夜の山路を縫う特急宇和海に乗って帰路についた。
牛鬼、ホタ、鹿の子という3つの民俗芸能は、いわゆる広義的には獅子舞に属されるが、本当に獅子舞とくくって良いものだろうかと疑問もあるような民俗芸能でもあった。しかし、牛鬼が頭を噛むという所作を持つことを発見でしたし、どこかで獅子舞という概念がちらつくような瞬間もあった。獅子舞という概念が取りこぼしてきた芸能、あるいはそれに含まれる芸能。いずれにしても、その芸能を固有に丁寧にみて、その地域性を拾い集めていくことの楽しさや重要さを教えてくれる。それが、この宇和島市吉田町の多様な獅子舞的芸能の姿であった。



参考文献
宇和島市教育委員会(文化・スポーツ課)『宇和島市民俗文化財調査報告書1 吉田秋祭の神幸行事 総合調査報告書』(平成30年7月)
吉田町教育委員会『吉田町誌 上巻』昭和46年3月
大本敬久『東北民俗の会公開講演会 東北から伝播した四国の鹿踊』2014年6月