蛇体がくねると、舞い場は自ずと異界が開かれる。我々が想像することも難しい遥か遠くの世界へと一瞬で飛び抜けてしまいそうな凄みがある。そう、神懸かりだ。神域と通じる神楽の存在、それはどこまでも奥が深くて、到底理解がしきれない底知れぬものがあった。
2025年11月2日、島根県の神楽を3つ拝見した。今回のテーマは蛇である。蛇神信仰の強い島根で蛇という動物の芸能について考えたい。昭和54年に国の重要無形民俗文化財に指定された大元神楽。そしてそれを起源として後世にテンポが早く演出性が高まった石見神楽が成立したという流れを考えながら、この芸能の源流に迫りたい。今回の旅で、源流である大元神楽とそれの発展版とする石見神楽の双方を拝見できた。また大元神楽は6調子に対して、石見神楽は8調子とテンポが早い。その間といっても良い、同じく大元神楽をもとにした6調子の本郷神楽も拝見できた。全体的な視野を持つことを意識して、欲張りな日程を組んだが、今回の滞在日程を選んで本当に良かった。
広島からレンタカーで向かった。途中、安芸太田市というところで、大量の石垣が積まれた景観が見られた。また赤瓦や煙出しが数多く見られた。とても美しい風景だと感じて、車を唯一止めてしばしその風景を眺めた。

石見神楽「佐野神楽」の創作性
時間に余裕を持ちながら、浜田市のアクアスはっしー広場についた。アクアスでの佐野神楽はとにかく魅せる演舞。明治5年より8調子を継承する勢いある石見神楽の団体だ。演目は日本武尊、恵比寿舞、有明、大蛇の4つ。有明は鍋島藩の「化け猫騒動」を神楽にしたもので、オリジナルの演目であり、面が次々と変わり、人間から化け猫へと至る過程が徐々におどろおどろしくなっていき、非常に見応えがあった。大蛇は8頭勢揃いだった。これは僕が知る限りかなり珍しいことのようである。お客さんは親子連れの家族が多くみられた。アクアスはっしー広場自体が近くに遊具があり、子どもが遊べる場所がたくさんあるからだろう。頭が八頭、ずらりと並ぶ姿は壮観である。終了後には子どもにその道具を触らせるような機会も作っていた。





素朴な地域の芸能「本郷神楽」の姿
本郷改善センターでの本郷昼神楽は、とにかく素朴だった。こちらも明治時代成立の神楽だ。観客と演舞者との距離がとにかく近いと感じた。ここでの大蛇は四頭だったが、火を吹く演目などあった。地元の人しかいない印象で、半分以上は高齢者であり、演者もそのようであった気がする。蛇の胴体が取れた首だけの大蛇がパクパクしながら赤ちゃんを噛んだりしていた。なるほど、大蛇の形態は蛇頭をそのまますぽっと、頭に被るような作りをしていることを知った。ご祝儀の出し方がわからず、「大蛇から初めて拝見したのですが、いくら出したら良いですか?」と聞いてみたら「いいえ、大丈夫ですよ」とのことだったので、ひとまず千円出すことにした。
本郷神楽は受付で配布されたパフレットによれば、明治初期に結成された大元神楽の流れをくむ六調子神楽。保持演目は15演目であり、「岩戸」「天神」「神武」「鐘馗」などを得意としているようだ。本郷八幡宮での秋季大祭をはじめ、さまざまなところで演目を披露しているという。





浜田駅近くの豆狸というお店で海鮮丼と赤しんを食べた。けっこう人気店で30分以上待ちだったので、有福温泉にはいけず、風呂無しで大元神楽が行われる三俣八幡宮へと向かった。車はぐんぐんと山奥深くへと進んでいく。どこか人間の体内の中に入っていくかのように、何かに包まれたような感覚がある。電波も朧げで、雨まで降り出した。この先に民家すらあるかどうかわからないほどに道は暗く、そして徐々に通行止め等あり細くもなっていった。アドレナリンが出過ぎて、眠気も風邪っぽさも全部吹き飛んできた。
時を超える異界の幻出「大元神楽」
そして間も無く、屋台のような煮炊きの仮小屋的な雰囲気と立ち上る煙、そして神楽の笛と鉦が聞こえてきた。あれがまさに三俣八幡宮かと思った。会場は満杯で、外から眺める人もいる。こんなに夜遅く、22時にこれほど多くの人がこの地を訪れていることに感動したというか、ただならぬ雰囲気を感じた。厳粛であり軽快である伝統がそこにただ在るという感じがする。
周辺には屋台というほどに経済がそこに在るわけではなく、値札もないような感じで大鍋とお玉と箸と皿がガサっと置かれていて、長机に座っておでんを食べている人がいる。どうやら料理してるおじさんに百円を払っているようだ。その横で焚き火をしながら友達たちと話している人がいる。「まだ半分いってないんだもんね」「あと7時間あるからね」などといって、酒を片手に火を取り囲む。徹夜をしてもほぼ眠気が来なかったのは、今日が初めてかもしれないと思ったくらいに冴えていた。神楽によるアドレナリンの放出は類を見ないほどである。
さて、22時に会場に到着して、まずは神事が執り行われていた。拝み塩を振り撒きということを繰り返していた。それが終わると拝見できた舞いはまずゴザ舞というゴザを使った演目と、岩戸舞だった。この2つは特に人気のある演目のようで多くの観衆がいた。それから神事が挟まって人は少なくなったが、以前として毛布を被りながら一眼レフを構えるような熱心な老若男女が前列の位置をキープし続けている。



23:30ごろ、焚き火を囲み酒を飲み干す大男に、今日は何時までやってますか?」と聞くと、「朝7時までだよ」とのこと。「藁蛇はいつ出ますか?」と目的の蛇のことについて尋ねると「予定では3時となっています」とのことだった。うーむ、たぶん、レンタカー返却の時間を考えると寝れるのは今しかなさそうだ。
0:30ごろ、車中泊を試みる。しかし、1:49に冴えてきて起きてしまう。「アアエホエアエエエ...」みたいなよくわからない声が山にこだましてきて、気になって眠る気にもなれず、神楽を奏する拝殿へと向かう。そしたら、坂上麻田村麻呂がどうたらという物語が演じられていた。
そういえば、2018年に中国福建省の福建土楼という100人規模の巨大な円形のシェアハウスを訪れた時のことを思い出した。僕は近くのゲストハウスに泊まったのだが、円形の土楼は光続け、その周囲では夜中まで歌い踊りその声が巨大な山々の闇にコダマしてずっと聞こえていたのだが、あの感覚が蘇ってきたのだ。石見神楽も大元神楽もどこか衣装が派手で、派手好きな精神性が中国に何か通づるところがある気がする。それでずっと中国のことを考えてしまって、考えてもみれば山陰地方の八岐大蛇は中国の龍舞にそっくりではないか。蛇が龍で繋がるのはまだ序の口で、蛇頭の造形や長く伸びる蛇胴の雰囲気もどこか似ているように思うのだ。中国地方は地理的にも中国に近い。ただし中国とは古代律令制において、京都から中程度の距離という意味で名付けられた名前のようなので、本質的には意味は異なる。どこまで関係があるかは、直感的なものにすぎない。
それで結局それ以降は寝ることなく、ただ次々と神楽が展開されるのを見ていた。右手に刀2本、左手に同じく2本、口に一本咥えて五刀流を操る男が出てきた時には驚いた。その刀たちを操りながらも高速ででんぐり返しをするのだ。

最も奇妙だったのは、天蓋の紐を引っ張って、火之迦具土神などの文字や紙に象られた造形が踊るように揺れる演目だった。天蓋はある種の天とつながる結界であり、邪を祓う空間である。それは宇宙でもあり、森羅万象を表現しているとも言う。紙の色は青色=東・春、赤色=南・夏、白色=西・秋、黒色=北・冬、黄色=四土用(春・夏・秋・冬 それぞれの土用)という配色のようだ。そういえば後ほど出てくる鐘馗が持つ輪っかが緑、赤、白なのは冬以外の季節だななどと思う。
天蓋の演目では、天蓋がボコボコと動き出す。人間ではない何者かがその舞台で舞っているように思えた。その紐を操る人間の担い手3人は日常風景の中で談笑しているかのような笑顔を見せるのだが、実際にその場で起きている奇妙な出来事との差異が知らず知らずのうちに強調されているような気がして、この現象はなんだったのか整理がつかない。つまりこの演目はなぜ生まれたのか?ということが想像もつかない。

それから藁蛇はついに3:20ごろに姿を現した。拝殿に供えるように置かれていたようだが、祭壇の高い位置に置かれていたため気づかなかった。それを男たちが手に持っておろしてくる。蛇の頭が先頭で、胴体、尾っぽにかけて複数名の男が蛇を揺らしながら、天蓋の下まで持ってきて、それで舞い始める。徐々に動きがシンクロしてきて早くなってきて、動きがどこか現実離れしてくる。最後の方はどこか担い手も朦朧とした感覚があったのではないかと思う。しかし、神がかりまでは伝承されていないのかもしれないとも思った。そこで藁蛇は天蓋に結び付けられて、その演目は終了した。

その後は空間の四方を払い清めるような刀の舞があった。天蓋の白い紙をひとつとってそれを挟みながら隣の人の刀の刃先を握って、円形になって舞う手繋ぎならぬ刀繋ぎのような舞いもあって非常に驚いた。こんな恐ろしいことが軽々とできてしまうのかと。身のこなしに対する正確性が要求される点でらどこか職人芸のような大道芸のような感覚を持った。

最後に鐘馗まで拝見して朝5時ごろ、帰路についた。徐々に空の表情が出てきて太陽がのぼってくる。北広島の小高い山並みを縫うように車は進んでいく。途中開けた山間部の中の平野とも言える空間はどこか違う惑星に来たかのような美しさがあった。ぽつりぽつりと家があって、薄明かりがついていて、散歩をしているおじさんがいて、すすきの野原も続いていく。BGMもかけながら、呑気に進んでいく。最初は感動に浸っていて、ネットカフェでシャワーを浴びるかと思っていたが、それももったいなくなってあの素晴らしい神楽の後は温泉だろと思って、それで安芸の湯という温泉にいってから、レンタカーを返した。
レンタカーを返す時、こだわりが強そうなおじさんはこういった。「322kmも走ってやけに燃費がいいな」と驚くように、同胞のような眼差しを向けてきた。車がとても好きなのだろう。「ここらと違って島根県は寒かったでしょうに」「ああ、夕方でも気温10度でしたよ(この季節なのに)」。陽気な風が瀬戸内を吹き付けて、小舟を揺らす。瀬戸内の穏やかさはこの小船が風に揺らされる様が物語っている気がする。山に登って帰ってきたような気持ちである。
大元神楽の起源と全国的位置付け
ここからは伺った神楽の源流について考えてみたい。まず参考にさせていただくのは山路興三氏による「大元神楽の性格とその変遷」である。中世に発生した血縁的共同体の内部に、先祖神を祀る信仰が見られ、それを執り行う宗教者は神の降臨を仰ぐことを祭祀の中心とした。当時は伊勢、熊野、吉野といった修験系の宗教人が民俗信仰を集合させて各地に入り込んでおり、西日本では男性の宗教者を法者(ほき)、女性の宗教者を命婦(みょうぶ)・巫女などと呼んだようだ。修験者が霞場を持つように彼らも活動圏を持ち、最初は非定住民だった者が地域の小祠や小堂の管理者になって定着したと考えられているようだ。その中で祭祀を執り行い、神が至現することで寿福をもたらし悪霊を鎮める行為を人々の眼前で展開することを重要視した。そこで神に扮する「能」が神楽の庭で演じられるようになったようだ。
「能」を余興の主眼に置くこの系統の神楽が分布したのは東北、江戸の里神楽、中国、四国、九州と幅広く、この神楽が分布しない近畿・北陸地方には大成された能があり、また中部地方には湯立による浄めを中心にした熊野、伊勢、諏訪の信仰圏とのことだ。ただし伊勢大神楽は全国的に伝播し、例外的にその信仰圏を跨いでいる状況である。
大元神楽の分布する石見地方では、中世からこのような祭祀組織があったかは不明である。しかし、例えば石見国邑智郡川下村(現川本村)には田原、江下、瀬尻、笹畑、村木、多田という六神の大元神が祀られており、村単位の組織形態ではなく、祭祀組織が個々で大元神を祀っていたのは、近世的氏神組織と異なるそれ以前の形態を持っていた可能性を示唆するようだ。
これは大元神楽でも当てはまる話のようだ。とりわけ大元神楽は式年祭の執行の目的を「先祖神の意思を聴く」ためであったようである。また「式年祭までの間に没した一族の霊を、祖霊として祀りあげること」を重要視したのだ。そこで重要になったのが祖霊の降臨を仰いで託宣を受ける「神懸かり」だったわけである。
大元神楽の最古の記録を辿るのはなかなか難しい。邑智郡川本村三原の武明八幡宮には文明年間(1469〜88年)の宮座文書があり、中世的宮座による祭祀が実施されていたことが記されている。また邑智郡大和村都賀の八幡宮に天正年間(1573〜92年)頃に田楽や相撲が演じられていたことなどの記録が残るのみのようだ。
江戸時代後期には国学の台頭で修験色の一掃と「古事記」「日本書紀」への回帰が起こって神楽台本が書き換えられて、その規範としてすでに江戸時代初期に改革が進められた佐田大社の神能だったとされる。その改革の中心となったのは石見地方では石見国邑智郡川下村(現川本村)であり、備中では川上郡成羽、安芸山間部では山県郡壬生などだったようである。
そして石見地方では、幕末から明治期にかけてさらなる改革があり、那賀郡鍋石村(現浜田市)の国学者藤井宗雄等が文化文政期の台本に手を加えて言葉を古語に変えたり、これまで六調子だったテンポを八調子という早いものに変化させて時代の要求に応えようとした。これにより現浜田市や江津市などに普及して、魅せる要素の強調という工夫が生まれた。また明治以降に神祇院により「神職演舞禁止令」「神懸り等の禁止令」が出された。これにより神職によって伝承されてきた神楽が民衆の手に渡った。これにより神の意思を聞くという神楽の目的が後退して、娯楽性の表面化が起こり、中には伝承がうまくいかなくなった地域もあったようである。
しかし、大元神楽は山深い山間部に位置しており、神職自体の神楽への愛着が強かったことから、特に神事や採り物舞の大部分をずっと演じたままで現代に至っている。また神懸りも有志の手によって密かに続けられていたところもあるようだ。現在、大元神楽と呼ばれているのは、邑智郡東部の六調子神楽である。その特徴として「大元様」と呼ぶ神を勧請して式年に祭祀を執り行うことが挙げられる。これは地域共同体を単位とする村氏神ではなく、共通の大元様という祖霊を祀るグループが、4年、7年、13年などの式年で行う祭礼である。ただし近年は村域内の大元様を集めての数年に一度の合祀の祭祀となっていることもある。
また近年、最も大元神楽の式年祭をよく残すと言われるのが邑智郡桜江町の八戸川一帯のようで、旧井沢村の神楽帳には天保10年という古い年号が見られるという。大元神楽の貴重な歴史を今に伝える存在である。
また神懸かりと託宣の形式を近年まで残しているのが、浜田市旭町山内、浜田市旭町木田、江津市桜江町小田、江津市桜江町八戸などであり、その多くが旧邑智郡に位置する。ただしこれらの地域では必ずしも神懸かりが成功するとは限らないとのことである。桜江町市山を中心とする神楽団の有志がその方式の伝承に努めているようだ。神懸かりをする者は託太夫と呼ばれ3人が選ばれ、信仰が厚いものであれば誰でもよく、潔斎をしてその場に臨むようだ。
近年の神懸かりは式年祭の中でもとりわけ「綱貫」という行事中に行われる。その流れとしては、大元神を勧請した大きな蛇形の綱(託綱)を神殿から持ち出して、頭から尾までの蛇体を複数人の神職が持ち、太鼓や神歌が奏される中で、五方を拝して巡る。太鼓のリズムが早くなると蛇綱を持つ神職たちも小走りになって、巡る。そして、蛇綱を東と西の柱の間に1文字に渡す。そして、白布で天蓋に吊り下げる。実際に僕が拝見できたのはここまでだった。しかし、地域によってはこの後に、ミサキ幣で託太夫の背を打ったり、託太夫を胴上げしたりするようだ。それで神懸かりがもしあるなら、胴上げ時に託太夫が奇声を発して、体が三尺ほど飛びはねる。飛び跳ねてすぐに尻餅をついてしまうと神懸かりが解けるので、腰だき役が付いて落ち着かせる。また、あまり飛び上がりすぎて綱の高さを越すと、託太夫は死ぬと言われている。神懸かりがあるとすぐ「五龍王」と呼ばれる問答神楽が演じられ、お米を撒いて祭り場を清める。その後、託太夫は蛇綱にもたれて揺らされて、神勧請の合唱が起こる。そして、その後に田畑の作柄、災難、村中の状態など神懸かりをしたものに問う託宣がある。それから祭主がウチハライの呪法で神返しをして、神懸かりをしたものはそのまま翌朝まで寝ているとされる。この神懸かりの方式に対して早すぎる神懸かりの起こり、あるいは最後まで神懸かりしきらなかった場合などもあるようだ。
他にも3通りの神懸かりの方式があり、それは「天蓋引き」の曲の際や、山の俵を背にして舞い最後に俵を太刀で突き刺した際、あるいは白布を採り物として舞う「帯舞」の際にも神懸かりが起こったそうである。ただ、現在では執行されていないそうだ。
石見神楽の変遷
さて、石見神楽は大元神楽を基礎としつつも、佐太神社の佐陀神能 (さだしんのう)の影響を大きく受けている。慶長年間の初期、佐太神社の神楽の司である幣主祝(禰宜)である宮河清秀が京都で習い覚えた能の謡曲「高砂」を基礎として神能を脚色して作り上げたとされる。宮河家はもともと猿田彦の猿女の末孫として猿田と称していたが、佐太神社の正神主から異議申し立てがあり、伊勢の宮川の名にちなんで宮河と名乗ったそうである。この佐陀神能が石見に波及したのが非常に早く、安濃郡には慶長の頃、石西地方には延享の頃だったとされる。もともと天蓋を張らずに狐舞以外は面をつけないような簡素な舞だったものが、それ以降に改革されていったようだ。天保年間に浜田折戸の田中清見という人物が近隣に舞を広めさせて、個人の体格や性格に合った舞いをひとつしか教えないという完璧主義の精神で、全体的な神楽の技術底上げに成功したと言えるだろう。幕末には神職から民間への流れが加速して、舞人の構成が大きく変化したようだ。明治以降の台本改訂の際、木彫りの面が軽い張り子の面に変わり、蛇胴がついて写実性が増したという。また島根県教育庁古代文化センター『中国地方各地の神楽比較研究』2009年12月P24の文言で「石見神楽は劇的なものなら何でも取り入れようとした多様性溢れるものであった。つまり、個性的で、排他的ではなく、雑種的、包容的であった」とする。
藁蛇の世界観
さて、これらの神楽の根底にある世界観に、やはり藁蛇と蛇信仰の世界観が眠っているように思われるのである。藁蛇のない大元神楽は存在しない。そのくらい重要な位置付けなのだ。蛇と言えば昔から、山から現れる存在であり、山といえば人々は水の源流地であることを連想する。蛇行という言葉は川の流れを表す言葉でもある。または異界のような存在であり、そこから現れる人間とはかけ離れたような出立ちは、まさに神秘であることは言うまでもない。
蛇の生態は非常に注目すべきところがさまざまにある。例えば、蛇は愛し合うときに長い胴を絡み付かせて、長い時間をかけて密着すると言うのだ。これは人間にとっても憧れの姿であるに違いない。そして、成熟した蛇は約40日に一度脱皮する。これは新生するという願いと重なるところでもある。
舞い場をくねる蛇こそが、大元神楽の最高の夜を作り出しているのだ。
大元神楽伝承地にも、数々の蛇にまつわる話が残されているという。竹内幸夫『私の神楽談義(1)大元神楽』(1995年8月, 柏村印刷株式会社)P75 によれば「(江尾)では、日照りが続き、その極に達したときは、皆が集まって藁蛇を作り、それを千丈渓(桜江町江尾)の大淵という深い淵に沈めて、祈った」と近年亡くなった方の証言を記す。また「隣の今田集落でもその地の、枕が滝(桜江町今田)において行った」と言われているそうだ。これは蛇が水を得て龍となり、滝を昇って天に至り雨を呼ぶ類感呪術の類のようだ。
参考文献
邑智郡大元神楽保存会 編集『邑智郡大元神楽』(昭和57年3月, 邑智郡桜江町教育委員会), 山路興三「大元神楽の性格とその変遷」
島根県教育庁古代文化センター『中国地方各地の神楽比較研究』2009年12月
矢富厳夫『日本の美を舞う 石見神楽』平成12年1月, 石見神楽高津社中
竹内幸夫『私の神楽談義(1)大元神楽』(1995年8月, 柏村印刷株式会社)
その他, 本郷神楽演舞時のパンフレット資料等