北海道にて熊と民俗芸能調査、衝撃の結末!「空亡」から考える新しい旅

北海道に降り立った理由を何度も問答せざるを得なかった。今年の取材の中で最も辛いことの多い取材のひとつとなった。その代わり、新しい視点を得た旅でもあった。今日はいつもと違うテイストの文章を書きたいと思う。2025年11月8日〜9日、北海道を訪れた。今回のテーマは熊をはじめとする動物にまつわる民俗芸能だった。熊という動物は脳裏にあるし、くま獅子舞も頭の中に描いている。でもなかなか近づけない。リアリズムがほとんどを占める自分の執筆の中で想像の領域を活用せざるを得ない状況となった。というより、そのような習慣が全くないので、脳内の発想や理解が追いつかないという方が大きい。それほど自分は現実感が強い世界観の中で確実に身体を使って刻むように土地を歩き、その経験を更新し続けている。だから目指しているものに「出会えないこと」は自分にとっては最も辛い局面に立たされるということになるのだ。ただし、それに出会えないことで、逆に自分はリアリズムの人間だということをまざまざと考えさせられた。思い通り書けるハッピーエンドよりも、未完成の物語に期待しながら旅を振り返りたい。

飛行機は無事に飛んだ

11月7日(金)、友人のinstagramのストーリーを見ていたら、「飛行機が雪の影響で飛ばなかった」というのが流れてきた。知床の方から新千歳行きの飛行機が飛ばなかったらしい。明日飛行機飛ばないかもという不安がまず沸き起こった。しかし、webをいくら確認しても何も延期や決行の様子はないので、8日早朝、始発電車で成田空港に向かった。朝が早すぎておにぎりを頬張れるほど身体が起きていない。それから、空港に着くと搭乗終了時刻を過ぎており焦る。いつの間にか時間が過ぎていた。走ってゲートに向かい、間一髪で飛行機に乗った。この時から僕はおかしかった。

奇跡的に窓側席に座ることができ、機内から風景を眺めながら、雲の上と下を旅した。新千歳空港に降り立つ時に、雪がちらちら見えたが、基本的に乾いた大地は茶色い色をしていて、それが延々と続いている。赤ちゃんが泣き続けてそれをあやすお母さんが必死だった。それから僕は新千歳空港に降り立った。東京に比べてはるかに寒い。マフラーを持ってくればよかったと思ったが仕方がない。寒さに耐えながら、電車とバスで白老のウポポイ(民族共生象徴空間)に向かった。途中、パンを買っていたら電車を逃して、結局電車に乗り過ごして、ウポポイに到着したのが14時だった。


ウポポイで学んだカムイの世界観

ウポポイを訪れたのは初めてだった。アイヌ民族はなぜか動物や植物をモチーフとした舞踊が多いことが気になっており、そのことを詳しく深めたいと思った。次の日にくま獅子舞を取材するので、特に熊と人間の関わりとそこに形成される世界観を捉えたかった。

印象的だったのが、カムイ(神)の考え方に関する展示である。カムイはすなわち動物や植物、そして道具などまでも霊威がある。生息域は3つあり、それは天(カント)、奥山(メトッ)、沖(レㇷ゚)にあるらしいのだ。つまり人間の住む世界の近くには海と山があり、その先には天が存在するという発想だ。展示文章によれば「クマのカムイは、カント(天)にあるカムイの世界からメトッ(奥山)にあるカムイの世界に降り、アイヌモシリ(人間の世界)へ行きます。メトッでは、人間と同じ姿をし、人間と同じような生活をします。」とのこと。これこそが人間と熊などとの関わりの中で生まれた考え方であり、アイヌ民族の最も重要な儀式である飼い慣らされた子熊をカムイに送るイオマンテの儀式つながる話である。それにしても、カムイとは3つの地点があり、天だけではなく、奥山にも沖にもあることを知った。ここには山と海の幸をいただく人間の姿があり、その先にある天への緩衝地帯があるということだろう。そして、カムイからアイヌモシリへは「気まぐれに」「時折」現れることが非常に重要である。神は気まぐれなのだ。これが縄文的狩猟の世界観であり、自然に相対する人間の向き合い方の非常に重要なスタンスなのである。

それからウポポイの一角にあるウエカリチセ体験交流ホールにて実施された伝統芸能上演についても触れておこう。ここではアイヌ古式舞踊を拝見できた。いわゆる舞台と客席がある「ショー」になっており、写真撮影や録音は禁止ということで、ここでは画像なしで振り返ろう。シアター形式の映像とともに、その前に立つ演者の舞踊が見られるという形式であった。なかなか村の儀式のような形で観る事も難しいので、貴重な場だった。今回拝見できたのは、以下の4演目だった。全部で20分間のコンパクトな内容だった。

・サルルンカムイリㇺセ
着物の裾を上げたり下げたりして、鶴が飛ぶ様子を表現していた。本当にシンプルな動作が繰り返されて輪を囲んだり、一列になったりしていた。鶴の踊りであり、親鶴が子鶴に羽ばたき方を教え、一緒に大空を飛んでいく様子を表しているという。

・ユカㇻ/サコㇿペ
英雄叙事詩とも呼ばれ、主人公の多くは超人的な能力を持っていて、空を飛んだり遠くを見透かしたりするらしい。

ムックリ
小さな弁の音を口の中で響かせて鳴らすユーラシア各地の「口琴」の一種。自然に聞こえる雨や風の音、動物の鳴き声、自分の感情などを音色に乗せて表現しているという。

イヨマンテリムセ
この演目は心の芯に響いてくるようなものがあってどこか心の底から何かが溢れてくるようなものがあった。声色も声量もどこか重要な儀式をしているという風格があり高く響く。狩りで得た動物の魂をカムイの世界に送り出す「イオマンテ」や、祝いの席で踊るとのこと。いくつもの歌が歌いつながれることが特徴だ。

それから弓矢体験やチセ見学などもさせていただいた。もろもろ充実した滞在で、1日かけて回った方が良さそうなくらいのボリューム感だった。

アイヌ古式舞踊の源流を探る

1階のライブラリで「アイヌ古式舞踊の起源に関する文献はありますか?」と尋ねると、以前川村カ子トアイヌ記念館で紹介してもらった時と同じ本に辿り着いた。アイヌ文化保存対策協議会(編集)児玉作左衛門他(監修)『アイヌ民族誌』(昭和44年3月, 第一法規出版)である。ここでいくつか興味深い箇所をメモしておこう。

p659によれば、元来、アイヌの歌と踊りは1つのものであり、座って手拍子をとりながらうたう歌を「ウポポ」、立ち上がって踊りながらうたうのを「リムセ」と呼ぶ。最も日高地方を中心とした呼び方である。もともとは祭事の時に神と人間とが一緒になってよろこびを分け合うものであるから、歌詞は人間に呼びかけるものではなく、神に呼びかけるものだった。それゆえに意味のない音群が多くてその方が神が喜ぶと考えたようである。楽しみや退屈しのぎに目的が転化されたのは後世のことであるそうだ。

・鶴の舞について
P672によれば、つるが翼をひろげて恋の乱舞とも、解を飽食したときの歓喜の舞ともいわれるが、着物の裾をまくるということは、裾をバサバサさせて悪臭で魔物を追うときにやる。鶴はどういうわけか熊とは仲が悪く、いまに出会うと両現を前に突き出して、翼いかかって死生の死闘をするものであるといい、またある人が悪いくまにいじめられているとき、鶴が来て熊を追って助けてくれたともいわれている。したがってつるの舞というのは単なる恋の乱舞や何かではなくて、もっと人間生活と密接な関係にあるものであり、そこにはなんらかの異種間コミュニケーションの記憶が詰まっているように思える。

・クジラ踊りについて
p673によれば、北海道日高から胆振地方の海岸のくじら踊りがある。寄りクジラのあることを念願する呪術劇とのことで、元来巫女が鯨が浜により上がることを予言したことに由来する。また白老では、両手を広げて手先を動かすからすの仕草があり、「クジラに寄ってクワックワッと啄む真似をする。カラスやカモメが騒ぐことが、鯨の寄ったことを示したりするものである。またクジラがとれたときにこの踊りをし、さらに夜になって上座の方に一人の男がうつぶせになって横になっているのを、両側に坐った女達が指先でそれを軽く叩きながら歌をうたうと、男が少しずつ手足を動かしはじめる。これが生き返りを意味しており、くじらの姿をして来た神を復活させて海に送り返し、またどっさり肉を背負って来てもらちための呪術劇であったことを物語るものである。先ほどの沖(レㇷ゚)に対するアクションのようである。

・ねずみ踊りについて
P675からはさまざまな動物の物真似踊りが展開される。日髙地方のねずみ踊りはくま送りなどの大事な儀式の終わった後の余興芸だ。ねずみが罠の中にあるエサをとればねずみの勝ち、罠にかかればねずみの負けというものだとか。

・うさぎ踊りについて
静内のうさぎ踊りもくま送りなどの大事な儀式の終わった後に実施する。爪立ちをしてしゃがみ、手を叩きながら、歌って跳ねるという。

・きつね踊りについて
釧路地方にはきつね踊りがあり、四つん這いになりあっちこっちいく。よもぎの矢で射ると、矢の当たったきつねはひっくり返って、手足をバタバタさせる。また屈斜路湖半ではきつねが踊っているところに犬に扮したものが出てきて、きつねを押さえたり逃げられたりもする。山狩り前の豊猟を祈念した先祝いである。

・ばった踊りについて
道中央から道東地方のばった踊りもある。両手を後ろに回して、腰の上で両手を擦り合わせるというもので、神謡に出てくる。美しい娘がいて、我こそは夫として相応しい神であるとばったの神が寄ってくる場面がある。

このように、アイヌ民族の動物の舞踊が多いことには非常に驚かされる。自然をよく観察してそこに関わりを見出し、そして何か物事が好転することを祈るための舞いかけるという所作を生み出して行ったのだろう。

ウポポイから学んだこと

ウポポイは総じて、ある種の夢空間のような現実離れした雰囲気を感じる。それは禁止事項の看板やトイレの看板などが全てアイヌ語が付されているところからもそう感じた。また伝統芸能鑑賞、弓矢の体験、料理体験、楽器演奏の体験など、体験コンテンツがとても多かった。また触って良い展示もあった。直感的に楽しめる部分が多いなと思った。僕なんかは、資料的なものをもっともっと詳しくたくさん見てみたいと思うものだが、あまり詳しく知らなくても良い観光客の方々にとってはこれくらいがちょうど良いのだろう。とても楽しめるテーマパークのような存在だと思ったし、この空間を通じて人々がアイヌ文化に触れることで、伝承が年間を通して毎日続いていくという循環が生まれているのだと感じた。

伝承が難しくなった生活文化はパッケージ化して伝承空間を建設して、観光客を流すことで、ある種の時を超えた真空パック化が進むのかもしれない。しかしこれは生活文化というよりは、もはやエンタメ文化へと移行した形での伝承である。中国人観光客が物珍しそうにパシャパシャと写真を撮って帰っていくのを見ると、刺激と反応の世界だなと思ったが、こうでもしないともう残らないところまで来てしまっていることにも恐ろしく感じるところがある。沖縄のシャングリアしかり、土地の文脈や地形、自然環境や生活文化をうまく取り込んだ形のテーマパーク化はこれからもどんどん進んでいく予感がする。土地を超越した夢の国を作り出してしまうディズニーではない、テクストディズニーみたいな感じがした。さて、この日は札幌に泊まって、その日を終えた。


羆に接続する旅は困難を極めた

11月8日、いよいよ苫前くま獅子舞の取材の日。日本最大の獣被害とも言われる三溪の羆事件と、それを元に創作された苫前くま獅子舞を取材する。近年は非常に熊の被害が大きくなっている。熊からどう身を守るのか?というノウハウも数多くSNSの動画で見かける。熊反対派と熊擁護派の間で強い意見の対立があり、スレッズやXなどで激しい応酬合戦があるように思う。温暖化により森が枯れてドングリなどの餌不足を引き起こし、また人工林が増加することで野生動物の食料がなくなり農作物への介入を余儀なくされ、また風力発電施設や太陽光ソーラーパネル建設など森林破壊は後を経たない。これが人間が熊の生息地を奪っているという意見である。それに対して、人口減少で森は原生林に近くなり、徐々に熊は豊かな森を手に入れてさらに人間の生活圏を脅かすようになったという話もある。秋田県では知事が熊を駆除する特殊部隊編成や自衛隊派遣要請をするなどの話も挙がっており、駆除への抗議電話に対し「ガチャン!」と受話器を置く強い姿勢も話題となっている。このような社会的な背景も意識していきたい。

この日は始発電車で滝川駅へと向かった。徐々に露わになる風景は、雪山と紅葉のコントラストが美しくてつい見入る。そしてなんといっても広い大地が魅力的である。どこまでも続く畑作地は清々しい気持ちにさせてくる。滝川駅でレンタカーを借りて、1時間半。海沿いは山が近くまでせり出している。山の麓の道路をスイスイと進んでいく。途中、道の駅 おびら鰊番屋で熊の剥製が置かれていたので写真を撮影した。視界が良好、波の立ち方が強く現れてきて、さあ、ここから苫前に入る。

まず向かったのは、苫前郷土資料館。しかし、ついてみると、ドアが縛られており、全く開館している気配がない。googlemapでは空いていることになっているのにと思って、詳しくホームページを見てみると、10月31日を持って冬季閉鎖の期間に入ったようだ。そんなことになっているとは知らなかった...。資料館に行けないことを知って、がっかりして、資料的な補填は図書館でおこなうことにした。苫前町役場の前には「とままえだベアー」がモニュメント的に建っていたので写真を撮影しておいた。

それから羆事件の跡地に向かうことにした。車で向かうこと30分ほど。途中、三溪神社という神社があり、その鳥居脇に「熊害慰霊碑」という碑が建てられていた。そこには大正4年12月9.10日に受難した人々の名前が記されていた。羆事件跡地まであと5kmのところで「射止橋」という橋に差し掛かった。ここは「巨羆射殺で最初の被弾地点がこの橋の付近であり、記念して「射止橋」と名付けられた」と書かれていた。一気に熊への現実感が増して行った。民家もまばらになってきて、ほとんど人気がなくなっていく中で、たまに作業小屋のような小屋が見られるようになる。突如、「立ち入り禁止」「入ったら罰金100万円」などの看板が乱立し始めた。約100mの道路沿いにいくつもの立ち入り禁止看板を見たかわからないほどに赤字で書かれた看板が乱立していた。恐ろしくて怖くて寒気がしてきた。たまにインクが滴っていて、血に見えてきた。この土地は私有地だから入らないで欲しいという強い主張なのだろうが、熊がその先にいることをどうしても想像してしまう。それを超えると、不思議なくらいにススキが綺麗な野原が広がっていて...。

その先には、なんと車の通行止めが敷かれていた。車両通行止め。おそらく理屈的には冬季閉鎖の時期が来たということだと思うが、全く雪など降っていないではないかと思った。おそらく車を降りて徒歩であれば法律上入っても良いようなものであると思うが、「この先にいくな」と強い念を押されたような気がした。羆事件の跡地まで車で行けば10分もかからないが歩いたら30分は余裕でかかる道のりである。羆が大量に生息しているエリアなので、昼間とはいえ30分歩くのも恐ろしくなってしまった。向かおうと車を降りるが、なかなか体を前に進める気力が湧いてこない。木の葉が揺れる音、滝がザァーと流れる音、それら全てが心穏やかではない。普通であれば美しいと心奪われるような音でさえも、その裏に羆の存在を連想してしまう。ススキがゆらめき、紅葉の赤と黄色の木々がとても明るくて爽やかで素晴らしいと思ったのだけど、これがかえって僕を不安にさせた。こんなに心地の良い野原を熊ものびのびと歩いていたいだろうなんて考えてしまう。一歩一歩が恐怖でしかない。そこで僕はやむなく引き返すことにした。これが本日、2回目の挫折である。なぜか、とにかく僕の歩みを止めてくる何者かがこの土地に存在すると思った。その見えない何者かに僕は操られているような気がするのである。帰りの道中、狐が出てきて癒されたが、実際に僕が癒されたのはその一瞬くらいだっただろうなと思う。


くま獅子舞は中止に

そして、街に戻ってきた。飲食店でイカが柔らかく煮込まれたいさりびカレーをとても美味しくいただいた。量は少なかったが、イカがとても柔らかく煮込まれていてそれがとても良かった。その後、苫前公民館でおこなわれる公民館フェスティバルに向かった。会場について13時半からのプログラムを確認すると、「苫前くま獅子舞」の文字がないことに気がついた。その代わり熊の紙芝居があるようである。

そこで開場時間の13時になり、受付のスタッフに「あの、今日くま獅子舞はいつ実施するのですか?」と確認してみると「直前で人手不足になってしまって、今日は出られないみたいなんです。申し訳ありません」とのことだった。「ええええ!」と驚いてしまった。「今日、東京から取材に来たんですよ」とついつい悔しさを言葉にしてしまった。今夏に公民館に電話した時は「くま獅子舞が出るのは11月9日です」と教えてもらっていたし、つい2週間前に念押しと簡単な取材を考えていることを伝えるために電話した時も「11月9日にくま獅子舞が出ます」とおっしゃっていたので、絶対にくま獅子舞は見られるものだと確信していた。もう残念すぎて、その場に居合わせたくま獅子舞の保存会の会長さんを紹介してもらったものの、「東京から来ていたんです。取材したいと思っていたのに残念です。見たかったです」と言い残して帰った。スタッフも目を見張るように驚き、残念そうにしていた。もうこればかりはしょうがない部分もある。事前にくま獅子舞が見られないものだということを教えてほしかったが、公民館に電話番号を伝えていなかった僕が悪かった。その辺りの詰めが甘かったということだろう。

結局、熊だけではなく、人間が演じるくま獅子舞も気まぐれなのかもしれない。人間も熊も同一視してしまう自分がいる。みんな気まぐれだ。狩猟に出かけて、獲物に出会えなかった猟師の気分になった。今日という今日は出会いたかった。だって、ここ半年もくま獅子舞を観たいと思ってきたのだから、もう出会えるだろうと思っていた。でもダメだった。第一、くま獅子舞は年間の演舞予定がはっきり決まっているわけではなく、「毎年どこどこの例祭で舞います」みたいな決まりがないものだから、尚更出会うことが難しい。僕はその場を立ち去るしかなかったわけである。


羆事件の概要

それから公民館併設の図書館に少し寄って、留萌の図書館にも寄って帰った。羆事件の真相を文献から知ることができた。そしてその文章を読み始めて背筋が突然寒くなってきた。くま獅子舞の背景にはこんな事実があったなんて...知りもしなかった。

苫前町史編さん委員会『苫前町史』(昭和57年11月)を参考に惨劇の経過を要約すると、身の丈2.7メートル、体重340kgの巨大な雄熊が現在の苫前町三溪の集落を襲った話である。まず大正4年12月9日、太田家という家を襲い、4人一家のうち家にいた内縁の妻と預かり子の2名を殺害した。山側の窓から顔を出したことに2人が悲鳴をあげて、それに逆上した熊が襲い掛かり、殺して遺体を咥えて去ったわけである。捜索隊が銃を撃ってクマを追い払い、遺体を取り戻した時には頭骨、頭髪の一部、ほとんど食い尽くされた膝下の両足だけだったようだ。それで10日夜に太田家で通夜がおこなわれたが、恐ろしさのあまり数人しかその場に姿を現さなかった。通夜が一息ついた20時半に、再び熊が現れた。遺体を取り返しに来たというのだ。棺桶がひっくり返されて、遺骸がバラバラになった。それで屋内の人々の悲鳴が上がり、一人がやがて鉄砲を放つと熊は山へ消えた。しかし、この後、なんと熊は太田家から500m離れた老人、女、子どもの避難所になっていた明景宅へと向かった。そこで10人が居合わせていたが、このうち助かったのが、数名のみだった。長男力蔵が10俵ほどの雑穀俵に隠れて熊の視線を逃れて、長女ヒサノは疲れ切って眠っていたのを突如目を覚まして放心状態となっていたために奇跡的に被害を免れたという。そのほかほとんどは妊婦含めて即死や重症といった恐ろしい被害を被った。妊婦は「腹破らんでくれ!のど喰って殺して!」と叫びながら食われてしまったという...。この熊は合計で7人を殺し、3人に重傷を負わせたのである。救援隊は熊討伐のために明景宅で遺骸を囮にしたが効果はなく、12月12日〜14日には羽幌警察署ほか、地域の人々で結成された総勢600人が出動してたという。13日の迎撃で熊が負傷していることがわかり、14日にはマタギ仲間で名高い山本兵吉老(65歳)の2発の銃弾によって仕留められた。この羆退治のために、なんと異例の陸軍第七師団の出動要請がされていたが、このクマを射止めた報を受けて引き返したという。また、14日午前10時に熊を討ち取ってからまもなく、10時30分ごろから好天がかき曇り一寸先も見えない暴風雨となった。夕刻までの7時間。荒れに荒れて風速40〜50メートルを記録したという。それで、「熊嵐」という名称がついたという。また、事件当時7歳だった大川春義はこの惨事を引き起こした熊を恨み、災害の再来を防ぐために一生をかけての熊退治を自分の責務と感じ、熊100頭退治を目標として21歳で狩猟許可を取得。40数年間熊撃ちを続けて昭和52年についに悲願を達成したという。同年、現在の三溪神社境内に熊害慰霊碑を建立して、犠牲者の霊を慰めたという。なんて恐ろしい戦慄するような出来事だったことだろうか。この事件の詳細を知って、自分自身がものすごく悲しくなってしまった。これが羆事件のあらましである。

またこの事件を題材として昭和47年に「郷土芸能苫前くま獅子舞」が誕生、昭和57年には苫前町第一号の無形民俗文化財に指定された。民俗芸能の世界では、伝統的なイオマンテのような儀礼が今日、動物愛護の観点などから非難を浴びるとともに、担い手も不足して継承が難しくなってしまった。その一方で現代的な芸能として昭和に立ち上がった「苫前くま獅子舞」はおそらく、現代人が熊と相対する時の意識にもどこか重なるような何かを見出せるのではないかとも思う。それは大正時代の日本最大の悲惨な獣害事件のひとつとされる羆事件の物語を後世に伝えるという物語調の芸能となっている。つまり「演じる」「伝える」「語り継ぐ」ことを主とした芸能の形である。舞いは村民が子に事件の舞台である現在の三溪に入植するところから始まり、開墾、収穫、熊騒動へと続く流れが演じられる。熊が退治された後、希望を回復し立ち直る開拓民と共に、最後は退治された熊も起き上がり開拓民と共に舞うという。人間と動物が共存できることを目指して、幕は閉じるというのだ。これだけ悲惨な物語を携えながらも、最後は動物との共生をするような物語になっていることには驚きを隠せない。

そしてヒグマの事件に比べれば自分の境遇なんてちっぽけなものだ。この事件のことも悲しかったが、自分が何やっているんだろうという悲しさも重なった。この事件に接続する術を僕は、リアリズムの体験としてほとんど持ち得ていない。類感的に自分の詰めの甘さにも悲しくなってしまった。結局、資料館も、ヒグマ事件跡も、くま獅子舞も、何も見られずになんの収穫もなく帰ることになってしまった。本当になんのために、北海道まで来たのか。時間とお金が本当に勿体無い旅だったなと思った。僕は無音の車中で、ただ淡々と帰路の時間を稼いだ。いつもであれば音楽をかけるところだが、そのようなことはしない。ただ淡々とこの事実に向き合った。夜は札幌で泊まり、次の日の朝、飛行機で東京へと戻った。

何も得られない「空亡」の旅に、新しい感覚を見出す

さて、今回の旅をどう振り返ったら良いものか。前日に再々確認しておけばよかったが、それにしても夏から決まってた年に一度の大きな予定がこんなにすぐにころっと中止になっちゃうんだという驚きがあった。本当にギリギリのところで、継承しているような状況も想像に難しくない。唯一の救いはこうして文字を書けるということ。どんな状況になっても文章は書けるのだ。文字どのような事実も受け止めて形にしてくれる不思議な力があると改めて思う。

そして獅子舞研究は人間が生きている中での生活文化の本当に一側面を抽出しようとする行為である。つまり、たった15分のくま獅子舞の演舞を見るために、2泊3日の大掛かりな予定を組んでしまう。そしてそれが見られないと、なんのために来たのかということばかり考えてしまう。投資に「ポートフォリオを組む」という考え方があるが、あれを実践したら良いと思った。今回はそのポートフォリオの組み方が甘くて、くま獅子舞に取材を賭け過ぎていたのだ。時間も切り詰めすぎているからこういうことが起こるわけで、最近は予定が詰め込み過ぎていてキャパオーバー気味だったことも反省点である。

それとあと思うことは、僕は「ベツ」と名がつく土地を訪れるとき、どこか自分が自分じゃなくなる感覚がある。これは本当に不思議な感覚である。これの漢字バージョンが特に苦手意識があるが恐ろしいのでその漢字すら書けない。今回は具体的な地名は書かずに「三溪」と場所名を現代名にごまかした。思い込みの肥大化か、単なる傾向の可視化なのか。アイヌ語でいうペッ(川)に由来する言葉だ。そわそわしだしてしまって、「彼岸」という言葉が思い浮かんだかと思うと、何かを手放さねばならない衝動に駆られる。そして汚い言葉を唱えたり、汚いものを直視したくなったりすることもある。厄を厄でぶつけたくなる感覚であり、これは特に北海道に多い地名で、今回はたまたまそうなってしまった。もうそれが恐ろしいことなのだ。誰も悪くないんだ、誰も。ただ僕が変な感性を働かせ過ぎているところがあるのかもしれない。また今回もこうなってしまった。しかし、そのような意識が僕をまた違う次元に導いてくれる感じもした。自分の中で何かを捨てて、何かを拾うような自らの生命の更新と脱皮のための重要な段階をここで経験していると思い、身を引き締めた。奥まった山の中で胎内潜りをして再生するような重要な経験。それが今回の旅であったことを確信する。北海道の広い海にいろんなものを流してしまいたくなった。

僕はふと四柱推命の空亡について考えた。そう、今年は空亡の年だから、もう仕方がないのだ。予定が前倒しになったり、後ろ倒しになったり、そもそも成立しなかったり、そんなことばかりの一年だ。いきなりなぜ?という急展開が起こるのは、もう大きな季節の巡りと、個人の立ち位置の関係性で生まれているものだから、仕方がない。ただしここで思うのは、何かを得た時より得られなかった方が気づきが多く、実は面白い文章を書けるものかもしれないと自分を勝手に肯定している自分もいる。そうそう、悲劇は戯曲化されやすいのだった。たぶん悔しさも悲しさもやるせなさも、全部戯曲化されやすいと思う。それらを全部ひっくるめて、新しい物語を作ってやる。ここをもがいて、新しい何かを掴み取りたい再生の旅。その途上ではあるが、ここで筆を置くことにしよう。

参考文献
苫前町史編さん委員会『苫前町史』(昭和57年11月)
アイヌ文化保存対策協議会(編集)児玉作左衛門他(監修)『アイヌ民族誌』(昭和44年3月, 第一法規出版
Yahoo!ニュース「「もう戦争だよ」クマ被害急増に前秋田県知事が怒り 犠牲者の状態「本当にむごい」「葬る方だって惨め」」(2025年11月10日アクセス)https://news.yahoo.co.jp/articles/f8daa748a9b99d15488db94f800494a17346cbb4