唯一無二の獅子舞がある。口が扇子(末広)で赤髪の1人立ちの獅子舞がいるらしいのだ。この獅子舞が登場する徳島県海部郡海陽町「宍喰祇園祭」は、国が選択する「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」となっている。四国の獅子舞の取材が進んでいない僕は、これは絶対に訪れねばならない獅子舞と以前から感じていた。
僕はそのような期待の中で、大雨の中、徳島最南端の海部郡海陽町宍喰祇園祭に向かった。前日の夜、海陽町観光協会のホームページに「※7/17日(木)の神幸祭おみこしお浜出、だんじり宮出は悪天候ため中止となりました 」との記載が追記されていた。結局、祭りの出し物としては、稚児の舞い3演目などのみの見学になってしまうが仕方がない。
宍喰祇園祭の舞楽を観た
渋谷で仕事を終えた僕は急遽、品川から新幹線に乗り、大阪に向かい、そこからバスで徳島駅まで着いた。日を跨いだ頃にネットカフェに入り仮眠をして次の日の始発で、徳島駅から宍喰駅を目指した。温暖な和歌山の地を思い起こすような穏やかな風景が続いていく。確かに海の向こう側は和歌山である。
青々とした緑と広い海を眺めながら、最後はDMVと呼ばれるバス兼鉄道に乗った。阿波海南駅でお囃子の音が鳴って車体下部のタイヤが仕舞われて、バスから電車へと切り替えが行われてたのが印象的だった。観光客向けにフォトスポットも整備されており、写真を撮っていたら「そろそろ出発するよ!」と言われ慌てて乗り込んだ。
たどり着いた宍喰という地は、田園地帯と海が広がるとても自然豊かなところだった。宍喰駅の改札を出るとき、水槽の巨大なエビが出迎えてくれて、トイレには小さなカエルが生息しているし、近くの建物には燕の巣があって人間がある一地点を通過するときに必ずピーピー鳴いた。
さて、僕は徳島市内から通う人がいると噂の惣菜屋で噂のコロッケを買っていただいた。栄養満点な感じだった。そしておでんも美味しかった。準備万端で宍喰八坂神社に向かった。鳥居をくぐると、屋根が非常に反っている社殿がとても気になった。珍しい形だと思った。

まもなく10時から拝殿内で祇園祭の神事が始まった。これは特に他の地域と大きく変わったことはなく進んでいった。お祓いしてから、氏子総代や他の地域の来賓などの玉串奉奠が行われて終了した。お供物がなぜか大きなスイカだったことは強く印象に残っている。
そして、10時半からいよいよ3演目の舞楽が始まった。先槍、八ツ橋、獅子舞の3演目である。
獅子舞を拝見して思ったのは、拳を前や左右にに突き上げるような動きがたくさんある一方で、後半に向けて徐々にその勢いがなくなり、橋にもたれかかるような所作が増えていった。それぞれの演目が5分くらいなのであっというまだったが、子どもが行う演舞なのに複雑な動きも多くて、しっかり練習されているように感じた。終了後、もっと観たいという声が上がり、大雨で中止になっていたお昼の舞いを海陽町環境改善センターで実施することになった。



お昼は焼肉丼とうどんのセットを食べた。12時半にはまだまだ始まらないとのことで、12:45ごろに再び海陽町環境改善センターにいくと、先ほどの演舞と同じ演舞が見られた。そして、その後餅まきが行われて終了となった。

外は大雨だ。雨の中でどこでやるのか、やれることをやる。そういう精神の行き着く先に改善センターがあった。ここは体育館があり、室内で演舞披露しやすかったのだろう。例年と異なる開催だっただろうが、それでも力強く継承している人々に力強さを感じた。さて、それから海陽町立宍喰図書館で文献を調べていて、この祭りの輪郭がはっきりとしてきた。それからDMVに乗り帰路につき、徳島駅から夜行バスで東京に帰った。

宍喰祇園祭の特徴
さて、この祭の全体像をここで描いておこう。日本三大祇園の一つと言われる宍喰八坂神社の祇園祭は、毎年7月16日の宵宮と7月17日の本宮で構成される。16日には金幣(きんぺい)・鷲住(わしずみ)・商人(あきんど)という3つの組のだんじりと関船が神社に練り込む。夜には花火がある。
17日は神社で例大祭式、獅子舞・八橋・先槍という稚児舞(舞楽)がおこなわれ、お神輿と共にお浜出に出る。その後もち投げが行われ、ダンジリが町を練り歩く、 また、大山・小山と呼ばれる2台の山鉾(山車)も組み立てられ披露される(以上、webサイト「まつりーと」(2025年7月18日アクセス)を参考にした)。
祭礼は昔は旧6月7日から14日までの7日間であったが、現在は新暦の7月16.17日の2日間で開催している。京都祇園祭の地方的展開として、祭祀組織や出し物が特徴的であり、平成11年12月3日には国選択の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」となっている。
宍喰の地名の由来
それにしても宍喰というのは珍しい地名である。宍喰町教育委員会『宍喰町誌上巻』(昭和61年3月)によれば、「ししくい」の旧名は「あしくい」だったとのこと。「昔、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」といっていたように、豊葦原は、稲のよく実る国という意である。葦昨も、稲を作って主食とした住民という意味から生まれたのであろう」とのこと。もしくは中島源『宍喰風土記』(昭和44年, 平和印刷所)P67によれば、蘇民将来の茅の輪が葦と関連するという話もある。
葦昨、脚昨、完昨、完喰、宍昨、宍喰というふうに、時代の流れで変化を遂げ、明治の初めには完全に「宍喰」を使っていたようだ。
なぜ葦から宍になったのか。宍も完も肉(にく、しし)と同じ字であることから、獣の匂いがする字である。宍喰町教育委員会『宍喰町誌上巻』(昭和61年3月)によれば、「当地方は、海に面しているが、山地が広く、古くから鹿、猪などの獣類の生息がきわめて多い。また昔から猪のことを「しし」と呼んでいる。この外にもうさぎ、さる、たぬきなども多い。その上、鳥類の種類も多く、きじ、やまどり、かも、はと、ひよ、もずその他数多くの鳥が、四季の木の実や果実、山菜をあさって棲んでいる」とある。地方の特産として火縄銃の火縄の生産地であったこと猟も盛んであったらしい。どうやらこのことが、宍喰の語源という説がある。
その一方で、「獅子吼」に由来するという説もある。地域の真福寺には「師子吼山、真福寺」という文書が残されている。獅子吼には仏が説法によって、悪魔や外道を排撃して正道を宣揚することを、獅子が吼えて百獣を恐れさせる威力にたとえる言葉とのこと。つまり仏道の奥義が肉を喰らう宍喰になったというのだ。いずれにしても、宍喰の言葉には、獅子舞の根底の概念に通じる何かがあるように思われる。
宍喰祇園祭の起源
東京宍喰会『宍喰町の伝記』(昭和43年7月)によれば、宍喰八坂神社は、鎌倉時代の頃より、京都の祇園社、備後鞆の祇園社とともに、日本三祇園のひとつとされている。その理由は明らかにされてこなかったが、どうやら蘇民将来説話が関係するようだ。備後風土記によれば、武塔神(むとうのかみ)が南海の女神のもとに夜這いに行ったときに日が暮れて宿を探すことになって、土地にいる蘇民将来(兄)と巨旦将来(弟)という兄弟がいて、ますお金持ちの巨旦将来のもとを訪れた。すると、みずぼらしい格好をしていた武塔神は追放されてしまった。次に蘇民将来のもとを訪れると、喜んで迎えて、粟柄を敷き、粟飯を炊いて武塔神をもてなしたという。
いく年かの後に武塔神が8人の若者を連れてこの地を訪れ、蘇民将来とその妻には茅の輪を腰の上につけるように命じて、8人の若者が村中を暴れ回り、茅の輪を腰につけていた蘇民将来夫婦以外の巨旦将来をはじめとした村人を皆殺しにしてしまったというのだ。それで蘇民将来夫婦に対して武塔神は悪い病気の流行の際には茅の輪を腰につけて蘇民将来の子孫だといえ、きっと難を免れるだろう、と言い残して去っていったというのだ。大正時代までは医療が十分ではなく、茅の輪を戸口にぶら下げる習慣があったようだ。この武塔神こそが八坂神社の祭神である須佐之男命であり、南海とは宍喰の里を意味するとされる。
宍喰八坂神社、京都の祇園社、備後鞆の祇園社の日本三祇園の地域では、荒々しい須佐之男命への配慮で、雛節句は男の節句が終わった後に実施するという共通点がある。須佐之男命のずっと後世に、景行天皇の時代に鷲住王とその子孫がこの宍喰地に来て開発に努めたことから、縄文式文化から弥生式文化へと移行したともされている。この地は魚や貝、鳥獣の肉や、木の実などが豊富であったことから、縄文文化が長く残っていたようである。
宍喰祇園祭の舞楽
中島源『宍喰風土記』(昭和44年, 平和印刷所)によれば、もともとは宝物として能面の翁、千歳、三番叟があり、この3面の舞いが伝わっていたはずである。相当古いものだろうが、その年代が明らかではない。この型は平安時代に始まり、鎌倉時代中期に現在の形となり、室町時代中期には神道と統合したとされる。これこそが能楽の源流である翁猿楽である。
それがいつの間にか、現在の奉納舞は先槍(露払)、八つ橋、獅子舞の3つの舞いとなっているのだ。露払の役割は千歳を踏襲していると考えられる。これは露払の先槍を連れて八つ橋なる猟師が獅子を撃ちにいく物語を能舞に仕込んだと考えることができる。
宍喰祇園祭の獅子舞の起源
その物語は年代は明らかではないが、小谷の赤みが谷というところに、「赤み」という怪獣が住んでいたらしく、これは実際には猿の一種だったとされる。里に出ては田畑を荒らし、赤ん坊をさらうため、里人は困っていた。ここと思えば、あちらに行くというふうに変幻自在な怪獣で、さんざん人を悩ましては山に逃げ込んで姿を隠してしまうのだ。
そこで髭の仁作という猟師が立ち上がり、猟犬を連れて猟にでた。猟犬が赤みを見つけ飛びかかり川に飛び込み川の上の岩でやり合い、仁作がしまいに鉄砲でめた撃ちにして殺した。今でもこの岩の上には犬の足跡が残っているという。そして赤みを退治してみると、毛がふさふさとしていて見事なものだったため、これで獅子頭を作って八坂神社に奉納した。神社側は仁作の勇気を讃えて神歌の千歳に猩々の狂言を加えて現在の能舞を作ったという。八つ橋が舞う時の「老いせぬや、老いせぬや、薬の名をも菊の酒(元の歌詞は水)。盃も浮かみ出でて友に逢うぞ嬉しき、この友に逢うぞ嬉しき」は謡曲の「猩々」の一節である。
ちなみにこの「赤み」に関して、徳島県教育委員会『徳島県の民俗芸能ー徳島県民俗芸能緊急調査報告書ー』(平成10年)P69によれば、この怪獣のことを赤い目をしたことから「赤目」、猟師の名を銀次、愛犬の名を金五郎と記述している。またこの怪獣の毛で作られた獅子頭は、後に大阪の職人に修繕を御願いしたときに、擬似の毛ととりかえられたものが完成して、それを本殿に納めて、他の模造品を現在は使って舞っているという。
ちなみに赤み(赤目)が出たという小谷の日比宇川というのは相当山奥であり、宍喰八坂神社からおよそ車で10分以上、7km以上山の中に入ったエリアのことだと思われる。

宍喰八坂神社近くから小谷方面の山々を望む。

稚児舞3演目の流れとその意味は?
実際の舞いの物語としては、先槍(露払)2人を狩子として従えて神に祈り酒を酌み交わして、猟師である八つ橋が小さな太鼓とぶちを持ち獅子を撃ちにいく。獅子は赤みの毛を被って、赤い衣を着て出てくる。獅子の舞いは林の中から出て暴れる姿と、仁作に打たれて狂い死ぬ様子が表現されているという。昔は旧正月7日に仁作の赤み撃ちにちなみ射的の行事もあったそうだが、現在は実施されていない。
徳島県教育委員会『徳島県の民俗芸能ー徳島県民俗芸能緊急調査報告書ー』(平成10年)P70を参考に3つの舞いの特徴を記述すると、
先槍:2人の子どもが装束をととのえ、短冊をつけた笹竹を振り回しながら3回歌う間に舞う。
八つ橋:やや年長の子どもが小さな太鼓と枹を持って、親善で酒を酌み交わして獅子狩りに行く所作となっている。5回歌う間に舞う。
獅子舞:赤みの毛皮の獅子頭を年長の子どもが身に纏って、赤い袴を着て、獅子が林から出てきて暴れて、仁作に打たれて狂い死ぬ様子が表現されている。7回歌う間に舞う。
こう見ていくと、ここからは私見であるが、3.5.7という刻み方は七五三のようである。7歳まで子どもは神の子であり、死亡率の高い時代におけるある種の奇跡の軌跡とも言えるこの刻み方。それは中国の陰陽五行説における陽、すなわち喜びや祝いとつながる数字でもある。これは子どもが演舞することと何らかの関係があるに違いない。
それから獅子舞の赤い髪はまさにシャグマであることは言うまでもなかろう。キビキビとした所作はどこか後世の江戸時代以降に発展した加賀獅子を彷彿とさせる。加賀獅子にも白と黒のシャグマを被るものがあるが、これは2人1組の演舞があるから呼吸を合わせる意味で白黒になったのであって、シャグマはおそらく元は赤色で赤熊として展開されたのであろう。これはクマの毛ということであるが、この宍喰の土地では猿の怪獣である「赤み」に変換されている。もともと赤シャグマとは四国に伝わる座敷童のような妖怪という話もあり、それを子どもが演ずるのは理にかなっている。
それからこの獅子舞を拝見して絶対に触れねばならないと思ったのが、能の石橋(しゃっきょう)である。能における石橋は文殊菩薩の浄土と現世の境にかかる橋である。牡丹の花が咲き乱れ、そして石橋に現れる獅子は文殊菩薩の霊験であり、勇壮に舞う非常にめでたい舞いであり、能の中でも特筆すべき演目で限られた人のみが舞うことができる。この時獅子役の人物は獅子口(ししぐち)と呼ばれる石橋専用のお面を被る。これは歌舞伎にも取り入れられ、明治時代以降の連獅子にも影響を及ぼすことになる。今回の宍喰祇園祭の獅子舞は、牡丹の花が彩る振袖を着ていたり、赤いシャグマを身に纏ったり、能の影響を受けていたりする点で、まさに石橋の流れの地方的展開とも言えるかもしれない。

参考文献
宍喰町教育委員会『宍喰町誌上巻』(1986年3月)
中島源『宍喰風土記』(1969年, 平和印刷所)
東京宍喰会『宍喰町の伝記』(1968年7月)
徳島県教育委員会『徳島県の民俗芸能ー徳島県民俗芸能緊急調査報告書ー』(1998年)
植木行宣『山・鉾・屋台の祭りー風流の開花』(2001年11月, 白水社)
その他にも『宍喰村誌』などの多数の文献で宍喰祇園祭りの言及あり。宍喰教育委員会は『宍喰祇園祭関係書類』として2003年7月にこれらの文献の該当箇所をファイリングしており、それが宍喰図書館に所蔵されている。