2024年11月3日、佐賀県唐津市の唐津くんち、嬉野市塩田町宮ノ元地区 丹生神社の塩田獅子舞、鹿島市琴路神社の獅子舞を訪問した。一日中レンタカーを乗り回して、実際に解き明かされた獅子舞の物語を振り返ろう。
夜行バスはハプニングの宝庫
前日は民俗芸能関係のトークに出演のため、京都にいた。京都から博多まで夜行バスで往復したのだが、その道中は非常に心底騒がしいものであった。夜行バスは敷居カーテン無しの極めてプライベート性がない、隣の席に密着するくらいのところに人が座っている。その状態で寝ねばならない。僕の席の隣には、なぜか面白い人が座ることがある。今回は「夜行バスなのにひたすら電話し続けて寝ない男」だった。電話先は女性のようだった。
男「どうしよう捕まっちゃうかな」
女「僕は変態でーす!」(叫び声が車内に響き渡る)
女「犯罪者で捕まっちゃうよ?」
男「変態ですってなんやねん」
みんなが寝静まった午前3時ごろの会話だ。女性はイタズラで、男性をからかっていた。見かねたバスの車掌が男性を注意する。ボリュームを下げたものの、電話は続いていく。多分、カップルではない、出会い系だろう。こんな夜遅くまで、ダラダラと会話をするのは、相当な目立ちたがり屋か、精神的に何かおかしくなってしまったのではないかというほかあるまい。結局、僕は大して眠ることもできず、朝を迎えた。しかし一部始終が面白すぎたのでこれはこれで良い。
そうそう、帰りのバスでも携帯をなくした女性の携帯を捜索する騒動が起きた。「携帯がないです!ちょっとそこ見ていいですか」。次々に乗客が立たされていく。30分くらいしてやっと、車掌が座席と窓の近くの隙間に挟まっているのを発見。しかも、この女性は、途中でトイレに行きたくなって、夜行バスを停めた。そこで、全体行程の中でのトイレ休憩が一箇所増やされることになった。このように、もう想像もつかないくらいに、夜行バスはハプニングの宝庫である。
さて、話を元に戻そう。博多に着いた僕は、博多南まで新幹線に乗った。なんと所要時間10分、330円で新幹線に乗れる。おそらく博多南という駅は新幹線の整備場か何かがあるのだろう。在来線感覚で新幹線に乗れる路線はここより他に知らない。博多南からはレンタカーで佐賀県の獅子舞を回った。ここからが本題の獅子舞である。
町中を占拠する曳山たち!唐津くんち
唐津市に車を走らせる。市街が近くなるにつれて、車の交通量が増えていって、最後に川を渡るところで、まったく動かなくなってしまった。空や川、そして海が青い。まだまだ暖かい秋の唐津である。30分ほど駐車スペース探しに苦労して、スーパーマーケットの屋上に駐車。そこから完成や笛、太鼓の音を頼りに、大きな曳山を追いかけていく。
途中、粉を振り撒く曳山があった。これは愛知県豊橋市の豊橋鬼祭のタンキリ飴に通ずるところがあると思った。こちらは無病息災とのことだったが、唐津くんちの場合はどのようなのだろうか。また岸和田のだんじりなどと同様に曳山の上にそれを囃子たてる若者が乗り、指揮をとっている。
赤獅子、青獅子とつづきやはり見応えがあり、インパクトがある。途中、唐津市役所付近の交差点で先頭と最後尾が出合う瞬間があって、これはなかなかに熱かった。短時間で曳山を追っかけしてる自分みたいな人間からしたら願ったり叶ったりで、助かる道順である。
これだけ混んでいるのもよくわかる。いちばんのお気に入りは個人的には鯛だ。ゆらゆらと揺れている曳山はただ運んでいる曳山よりも何倍か魅力的に見えるのはなんでだろう。陸上、あるいは空中に生息する魚という存在がどこか異様で面白いと感じるようである。
途中、この鯛を眺めるお客さんがマンションの窓にびっしり張り付いていたのには驚いた。住民は高いところから眺めるのが常のようである。よく厳粛な地域だと神輿やそれに付随する芸能は同じ目線以下のところで見なければいけないという決まりがあるところがあるが、ここでは関係ないように思える。これは祇園祭方式というか「とにかく空いている空間は埋め観客となす」という言葉が思い浮かんでくる。
さて、このような祭りはなぜ始まったのだろうか。唐津くんちのくんちとは「供日(くにち)」が九州の方言でなまった意味らしく、秋のみのりを神様にお供えするという意味があるようだ。御神輿の渡御が始まったのは、江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃。曳山は刀町が赤獅子を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納して以来のことであり、祇園祭を手本にしたとも言われていいる。この曳山は御神輿にお供するとともに、神様を警護するという意味があるらしい。現在の曳山はそのほとんどが明治期に製作されたものだ。1台あたりの曳き子は200~400人とも言われており、それが14基あるというのだからその規模には非常に驚きである。この曳山は昭和33年に佐賀県の重要有形民俗文化財、昭和55年には国指定重要無形民俗文化財に指定された。
さて、実際に練り歩きを拝見できたのはたったの1時間ほど。嬉野市に向かわねばならない。ダッシュして屋上駐車場に向かい、そこから車を走らせた。
参考文献
唐津神社HP(2024年11月5日アクセス)
https://www.karatsu-jinja.org/kunti
平らな顔をした獅子舞、丹生神社の獅子舞
唐津から嬉野へ車で急ぐ。武雄市に入ると緑が豊かで山々を縫うように進む。498号線沿いに嬉野市塩田宿に差し掛かったときに、長い行列を見た。「お!これは獅子舞がいるに違いない」、そう直感した僕は車を近くに停めて観に行った。
お神輿、綾竹踊、獅子舞の順番で列をなし、綾竹踊が行われたら、その後に獅子舞がワーワーと叫びながらダッシュして道のお祓いやら、家々に突入して頭上に獅子頭を掲げるような所作が見られた。特に舞うことはなく進んでいく。これを町中で繰り広げているようである。やや簡略化した獅子舞の受け継ぎ方にも思えるが実際にはどうなんだろうか。
ちょうど丹生神社にお神輿や綾竹踊、そして獅子舞が入っていく前に、その鳥居の前にちょっとした水路があって、ご祝儀を載せていた箱の上から千円がひらひらと風で舞い上がり、その水路の中に入ってしまった。水路は幸い浅瀬で勢いよく流れていかないので、消防士をしている獅子舞の担い手が「人命救助だ!」とか言って、びしょ濡れになりながら千円札を拾っていた。蛇足ではあるが、その後、次の琴路神社の獅子舞に訪問した際に、僕のカメラのフードが、ふとした拍子に神社前の水路に流されてしまって今度は僕がそれを追いかけて取る羽目になったときは、あれ!?こんな偶然ってある?と驚きあきれたものだ。
それから丹生神社境内では、綾竹踊の集合写真の撮影、獅子舞、綾竹踊という順番で披露された。屋台はチョコバナナが300円と安かったので買ってみると、先っぽにコアラのマーチがついていた。実際に獅子舞を拝見して、地域の家々を回っていた時とは、ガラッと雰囲気が変わったと思った。鳥居の外から獅子舞が走ってきた。拝殿を一周回って、表に戻ってきて、ワーワーと叫び、そして体を震わせる。その度に鈴の音が鳴る。それから赤と青(雌雄)の獅子舞が互いの体を寄せ合い、そしてXの字に合体する。最後はまた走って鳥居の外に行ってしまった。7分ほどのあっという間の演舞だった。奉納の舞いは町周りに比べれば厳粛な雰囲気でとてもかっこよかった。綾竹踊も見られたが、時間を気にしていてそこまでしっかり見られず、琴路神社の獅子舞へと向かった。
この丹生神社の獅子舞について図書館で調べてみた。佐賀県立博物館『佐賀の祭り・行事調査事業報告書 佐賀の祭り・行事』(2002年3月)によれば、この獅子舞は馬場下地区の10部落が当番(この仕組みは綾竹踊も同じ)で行うもので、そのうち9部落を順々に回る。獅子頭ではなく獅子面と呼び、これは宮ノ元が所有しているものを用いている。もともと昭和10年に鹿島市南川地区のものを手本にして宮ノ元が制作したと伝わる(平成23年8月9日発表嬉野市文化財保護審議会委員 金子信ニ氏の文章『嬉野市郷土研究会 嬉野市の民俗芸能』によれば、昭和10年10月、渕野栄次氏による制作と書かれている)。獅子面は祭礼の1ヶ月前に宮ノ元から借り受けるものとして、3ヶ月ほど前から始まる練習ではザルを使って行うという。神輿行列につき、そのお下りとお上りの行列に加わるものである。法被に股引きの姿で、赤と青双方共に2人立ちの獅子舞であるとのことだ。鹿島市南川について個人的に調べてみたところ、ほぼ琴路神社の獅子舞が行われているエリアのすぐ横であることから、おそらくこれは琴路神社の獅子舞について述べているのではないかという推測もできるかもしれない。
人気者参上!琴路神社の獅子舞
僕は鹿島市に車を走らせた。15時半、ギリギリかと思っていたが、琴路神社の近くで、しっかり獅子舞を見かけることができた。2頭の獅子舞が家に入ったり出たりしている他に、天狗のような面とサンバ層のような傘をかぶっている者がいる。これは後に担い手に聞いたところによると、剣突(けんつき)と呼ぶらしい。確かにその手には剣のような鋭利な刃物が実際についている道具を持っている。とても切れ味が良さそうだ。これは昔の形態を今に受け継ぐ簡略化されていない獅子舞だと思ったし、先ほどの丹生神社と似ているものの、こちらの方がおそらく古い形態を今に残すことは想像に難くない。
門付けもただ家の玄関に侵入するだけではない。細かい所作が残されている。まずは門付けをするにあたり、あばばばいと声を上げながら、獅子舞が敷地に侵入して、赤と緑(青)の雌雄一対の獅子舞の体が交差するところから始まる。その後、獅子舞が玄関の中に入ったり人にちょっかいを出しているうちに、赤と青(緑)の剣突が今度は剣を交差させる。この所作はどういう意味があるのかわからない。いずれにしても、雌雄一対とでもいうべきか、陰陽の合一というべきか。この世界の秩序を表現するように、厄を祓う獅子舞という獣が、厄を祓っていく。
家と家の間の道では、子どもたちが獅子舞をひたすら追いかけていく。これは丹生神社の獅子舞の時と比べると圧倒的に多く、子どもの数が半端ない。最後の舞い場である琴路神社に近づくにつれて、子どもの数はどんどん増えていく。子どもたちは必ずと言っていいほど、赤と青(緑)の獅子舞に襲われる。男の子は好奇心で襲われにいったり、逃げ回ったりしていて、女の子は何人か固まって肩を寄せ合いながら悲鳴を上げている。「あばばばばばばい」。その恐ろしい、獅子舞の急襲は子どもに大人気であり、同時に非常に恐れられていた。腹の底から低い声で唸るように叫ぶのと、動きがあまりにも激しいものだから、獅子舞の胴体が引きちぎられるんじゃないかとヒヤヒヤするほどである。しかも全力ダッシュで常に動き回るものだから、あまりに体力が有り余っている。担い手の大人もまるで子どものようであると思った。その姿を眺めていて僕が思ったのは、この獅子舞は南の鹿児島県悪石島のボゼ、あるいは沖縄県宮古島のパーントゥなどで見られる来訪神にも近いように思われた。脅かす、いたずらをする神々が地域をくまなく回っていくという姿はどこか、近いものがあるように思う。
この風景は非常に素朴であった。獅子舞が舞い急襲しまくっている横で、のんびりと馬を連れたおじさんが歩いてきたのには驚いた。馬はペットなのか?と思ったが、これはのちに、今回の祭りで後ほど神社にて走り回る馬の一頭のようである。馬は人間の背丈に比べるととても小さかった、仔馬である。暴れる獅子舞にやられた子どもが、持っていた自転車を放り出し馬に飛び乗り、ゆっくりと乗馬を始めた姿にも驚いた。この光景はカオスすぎる...。
獅子舞の担い手の一人が、「馬に獅子舞を飛び乗らせたら面白いんじゃないか?」と突拍子もない話を始めた。しかし、獅子舞を見たら馬が興奮が興奮してしまったようなので、獅子舞よりも先に馬を歩かせて鉢合わせないようにしようということで決着がついた。「馬に乗馬する獅子舞が実現したら面白かったのに」と内心思った。馬はなぜか、道中に糞をまきちらしていた。しかし、そんなことはどうでも良いという風に、地域の見物人や獅子舞の担い手はその横を通り過ぎていく。ここは日本ではなく、東南アジアの田舎の村なのではないか?と思うほどに田園地帯の素朴な日常が広がっていることにほっこりした。
獅子舞は門付けが終わると、琴路神社の目の前の家の中に入っていった。その家の前には狛犬が堂々と構え、頑丈な門構えが印象的である。神聖な者しか中に入ってはいけないような雰囲気が漂っている。その中に、獅子舞が入っていったのだ。疑問ばかりが膨らむ。獅子舞はそれから30分余りその家の中から出てこなくなった。そのうちに、神輿の行列がやってきて、みんな獅子舞のことなんか忘れるくらいにそれに見入っていた。
ある拍子に獅子舞が出てきた。そして走ってきて、鳥居の前で舞って、その後に剣突も舞って、境内の中に入っていった。神社内の水路を超える橋の上で突然、獅子舞が下から水を掬い上げる担い手に呼応するように、水浴びを始めた。どういうことだろう。何かを清浄に保つために必要な所作なのだろうか。それが終わると、拝殿前まで走っていって、そこでも鳥居の前同様に舞い始めた。その後、拝殿前から突然走り出して、境内にいるありとあらゆる人間に対して脅しかけるような急襲がまた始まった。あまりにも激しすぎて、獅子がちぎれてバラバラになっちゃうんじゃないかと思った。時には、獅子が人に取り押さえられて、どうしようもなくなったような時もあった。しかし、また野に解き放たれるように暴れ回ってという繰り返しが起こった。それから社務所のような建物に最後に引っ込んでいって、獅子舞は終了となった。おおよその出し物が全て終わったのが、17時半ごろだ。あっという間の2時間だったが、めちゃくちゃ濃い2時間だった。
僕はこの琴路神社の獅子舞の境内での振る舞いを見て、和魂と荒魂という言葉を思い浮かべた。神には優しい姿と怒りを露わにする姿がある。その中でも荒魂の部分を担うのが獅子舞なのかもしれない。暴れまくって人が変わったように狂っている。それを取り押さえようとする人もいる。それらが合わさって祭りの秩序、そして豊かな地域の住民同士の交流が行われているようにも思えた。
佐賀県固有の獅子舞「顔が平らな獅子舞」の真実
さて、ここらへんでまとめに入るとしよう。僕は琴路神社の獅子舞の取材を終えて、車で20時の博多南での返却に向けて、焦りながら帰路についた。携帯の充電もなく、夜の山道も進まねばらならない。カーナビもない。どうしようみたいな感じだったが、なんとか携帯を車で充電できて、でも充電は増えなかったが5%前後を維持しながら、最後までたどり着くことができた。やはりレンタカーは所要時間を30分以上多めに見積もったほうが良い。最後にガソリンスタンドに寄るし、夜道は安全にいきたい。それでまた330円の新幹線に乗って博多まで辿り着き、バスまでダッシュして、夜行バスの出発に間に合い、京都を経由して千葉に帰ることができた。
さて、今回の最も大きな佐賀滞在の目的は、「顔が平たい獅子舞」の真実に迫ることだった。この獅子舞は鹿島市の松岡神社、三嶽神社、琴路神社、五の宮神社の他、嬉野市や有明町に伝承されている。おそらく鹿島市の琴路神社あたりが最も初めに伝来された場所とも考えられるが、真実は定かではない。顔が平たい獅子舞はザルを逆さまにしたような形ではあるが、基本的には粘土を下地に和紙を張り重ね、そこに漆を使って彩色してある。これは朝鮮半島の獅子舞の形態の多くと、とても似通っている。日本の多くの獅子舞は頭を噛むということをサービス的に行うが、口の開閉が難しいこれらの獅子舞は、頭を振ることに重きが置かれているように思える。また、赤と青(緑)の獅子舞が一対で行われており、これは雄雌合一、あるいは陰陽合一のようにも思え、以前大分八幡宮で見た獅子舞ともこういうところは似ているなと思った。竹細工という観点で言えば、日本全国に継承されている箕で作られた獅子舞やサンカとの関連もあれば非常に興味深い。実際にこの起源に迫ることはなかなか難しかったものの、今後も調査を続けていきたい。