2025年7月10日、北海道で受け継がれる羽幌の加賀獅子を拝見した。この獅子舞を訪れようと思ったきっかけは、獅子舞の伝来経路への着目から始まった。石川県内灘町の獅子舞、そしてそこから伝来した加賀市橋立地区の獅子舞はよく取材している。一方で、内灘町から北海道に伝わった獅子があることはネットの情報で知っていた。そして、どこかで訪れたいとずっと思っていた。伝来元と伝来先で演舞の類似性を考えるとともに、土地の風土性を受けて、どのような変化が起こったのかも大変興味深いところである。そのような興味から北海道の羽幌を訪れることにした。
広い大地をみた
7月9日、成田空港から飛行機に乗って北海道に向かった。下北半島が見えてきた。希少な程にすらっとした半島だと思った。長くて細い海岸線の先に、建物だろうか。何かの構造物が見えてきた。右から左へ、ただただ流れていく景色。それが端まで至り、そして過ぎ去っていった。厳しい自然環境と人々の営みがあることを想い、「悠久」という言葉が浮かんできた。それから北海道の海岸線が見えてくると、とにかく広いという言葉しか思い浮かばなかった。ものすごい広さである。森と真っ直ぐな道路と、工場と、その先に山々が連なっている。
北海道にたどり着いた僕は、新千歳空港からJRに乗った。ホームに流れる音楽が、真夏なのにしんしんと降る雪のことを思い浮かべさせた。それにしても車窓は広大だ。広い耕作地が広がっており、緑の大地のはるか向こうに青い山々が連なっている。広大な大地を小さな電車がのこのこと進んでいく。
アイヌから獅子舞の古層を探る
旭川駅のひとつ手前の近文(ちかぶみ)という駅で下車した。本日は羽幌に行く前に、アイヌ関連のことを知りたいと思っていた。駅近くの豚丼屋さんで昼食をとってから、川村カ子トアイヌ記念館を訪れた。ここはアイヌ民族の動物を模した踊りやイオマンテに関するリサーチをする為に訪れた。

アイヌの人々は和人とは土地所有の考え方が異なることを知った。カムイからの恵みがもたらされ、カムイの国に帰っていくという狩猟文化の世界観がある。そして狩りをする領域を「イゥオロ」と呼び、狩りなどをする領域として、地域や一族ごとに所有していた。つまり猟場と所有の関係が一体となっており、ある意味山に生きる獣の縄張り意識と近いところがあるかもしれない。しかしその所有概念ははっきりとした区画があるものではなく、曖昧なところがあったのではないか。明治政府の定める所有の概念と開拓民がなだれ込んできて、土地の所有者として定められた者以外が狩りができなくなった。そして、土地の国有化と農業推進は、アイヌの生活とかけ離れていたため土地を追われ困窮せざるを得なくなった。アイヌというのはアイヌ語で「人間」を意味するらしい。展示に「少数民族が欠けることは、丸い地球が欠けることです」の文字があり、非常に素晴らしい比喩だと思った。
特に印象的だったのが、イオマンテの儀式で使われた動物の頭骨である。目や鼻の穴から藁のような植物が通され、それが頭蓋骨をぐるぐると巻いている。これを眺めていたら、これはまさに獅子頭の祖系だと思った。土地所有概念が今とは違って、もっと、曖昧であった狩猟文化の頃の獅子舞。それは何か政治的なものの象徴として登場したのではなく、まさに目の前の広大な自然と対峙するための術であったはずなのだ。門崎允昭『アイヌ民族と羆ー羆儀礼の起源と発展』(2016年2月, 北海道出版企画センター)P33によれば、「脊椎動物では、神は頭部に宿っていると観た。それ故、頭部(頭骨)を神聖視した」とある。熊はとりわけ両耳の間に神が宿るとされるようだ。
それからアイヌの祭りで使われる御幣「イナウ」も印象的だった。アイヌでは御幣をお酒で浸す、奉酒箸(イクパスイ)の考え方があり、一滴のお酒が神々の世界で一樽になるという。三重県の伊奈冨神社の伊奈冨を思い出した。まさに神の依代であり捧げ物の象徴だろう。
そして獅子舞の起源と通じることとして、最も興味深い記述にも出会えた。本棚の文献を拝見していると、アイヌ文化保存対策協議会(編集)児玉作左衛門他(監修)『アイヌ民族誌』(昭和44年3月, 第一法規出版)P670の動物の踊りの項によれば、「日高地方にくま送りでくまを殺したあとに、ヘペレ・アイヌ(仔ぐま人間)とかアイヌ・ペウレプ(人間ぐま)といって、くまの真似をして檻に入っている男に縄をかけ、外に出すと散々にあばれて、人を追いかけたり噛みついたりするが、最後に人間に押えつけられ、首をしめられる真似をする。これは近年まで樺太でいぬをくまにつけて送り、古くは雄ぐまには人間の女を、雌ぐまには男をつけて送ったという伝承と関係があるかもしれないとも、また近いうちにくま送りができるようにという、呪術劇であるかもしれないともいわれている。くじらが浜に寄り上った仕草をするくじら踊りにしても、きつねが出て来て人間に弓で射たれるきつね踊りにしても、神々がこの呪術劇を見て、人間と交歓の時を過ごしたくて、人間界に遊びに来る(獲物になってとられること)という、獲物である神々をおびきよせるものであるともいわれている」とある。
これは加賀獅子や金蔵獅子の古層に眠る狩猟時代の記憶の再現としての獅子殺しの可能性を想起させるものであり、おそらく獅子舞とはかつてこのような獲物のおびき寄せの呪術としての動物の身体的所作の模倣と狩猟の再現という関係性が存在したのだろうと思うのである。そういえば、石川県加賀市山代温泉で子熊を飼う風習があったと聞いてイオマンテを想起したが、瀬川拓郎『アイヌ学入門』(2015年2月, 講談社)P88によれば、「昔は子グマを連れ、本州各地をクマ祭りの興行に歩くアイヌの人々がいた」という。こういう方面の可能性もありそうである。まだまだ想像の域を出ないが、アイヌのみならず、中国大陸方面からの獅子舞伝来以前にも日本全国的にこのような発想はあったのではと感じる。
博物館を後にした僕は、旭川市の中央図書館に籠り、そして、旭川ラーメン 梅光軒でラーメンと食べて、早々に泊まり明日に備えた。
羽幌の加賀獅子を取材
翌日、5時には起きて、始発の電車で滝川に向かった。滝川からはレンタカーを借りて、約2時間の道のりを羽幌に向かった。海風を防ぐ壁は秋田県の道路を思い浮かべた。途中、海岸線沿いの道路を進んでいった。低木の生える明るい丘陵地が右手にみえ、左手ははるか遠くまで続く海を眺めながら進んだ。次第に遠くに利尻島が見えてきた。「ああ、羽幌と利尻島はこんなに近いんだ」と思えてきて、本当に北海道の北の果てに向かっているという極北感を抱いた。苫前に入ると、風力発電の発電機が高々と聳える海岸線が美しかった。
そして、羽幌についた。大通りが町を貫き、〇〇条と名付けられた水平垂直の道路がたくさん並んでいる碁盤の目の雰囲気は開拓の土地だということを実感させた。羽幌に到着したのが午前10時過ぎだった。車を停めてから、なかなか獅子舞を見つけることができず、老人福祉センターのソファでくつろいでいる関係者に確認してみると、「北6条の方の通りをぐるっと回ってくるはずだよ」と教えていただいた。それでそちらの方向に向かってみると、案の定、太鼓の音が聞こえてきた。最初に出会ったのがオロチョン太鼓だった。どうやら祭礼行列が形成されているらしく、奴さん、猿田彦、神輿、獅子、オロチョン太鼓となっていた。「もう少し先頭の方に獅子がいるよ」と教えてくださり、実際に列を辿っていくと、果たして、獅子舞に出会うことができた。保存会会長の九谷さんに繋いでいただき、念願の羽幌の加賀獅子を拝見できた喜びを伝えた。本当に来れて良かった。関東からの道のりは長すぎるほどに長い。前会長さんも紹介いただいて、「かっこいい獅子舞見られて本当に良かったです」ということを伝えた。

午前中は上北のエリアを2頭の獅子が回っていた。オレンジ色と緑色の獅子頭だ。家を一軒一軒回っていて、その都度演目が目まぐるしく変わっていくので、おそらく格式の高い家やご祝儀が多い家の舞いは豪華になる仕組みかもしれない。獅子頭で家主の頭を噛むだけの時もあれば、しっかり舞う時もある。最も盛り上がったのが、棒振りが勢揃いして、通りをずらっと、20人くらいで埋め尽くす瞬間である。これだけ多くの棒振りがいることに驚かされるとともに、先輩の背中を見ながら後輩が実践的に演舞できる機会なのではと感じられた。2頭の獅子が同時に舞う場面が見られたほか、時折2頭の獅子が分かれて回る場面もあり、町内をくまなく回るという意識が垣間見られた。移動は小走りのことも多く、回る軒数の多さも感じさせられた。午前中の演舞では、永光山法流寺での演舞がとても豪華で2頭舞だけではなく、寺院の中まで声を上げながら獅子を前のめりにして迫るようなシーンも見られた。ここでは小休止でお茶をいただいた。


午前中の演舞は12時10分ごろに終了。その後、花畑のあるはぼろバラ園で演舞者の記念撮影が行われた。その後、バラ園の芝生にブルーシートが敷かれて、獅子舞たちを寝かせて、そこで昼食の時間となった。昼食は唐揚げやスパゲッティ、おにぎりが入ったお弁当と、ソーメンだった。会長が僕の分まで用意してくださり、ぜひ食べてくださいと持ってきてくださった。芝生に僕も座り込んで、とてもありがたくいただいた。公衆トイレがとても汗臭くなるほどに、皆暑い中で頑張っておられた。

それから13時をまわり、いよいよ国道での演舞が始まった。はぼろ温泉サンセットプラザ付近から始まり橋を渡って、羽幌神社までの国道沿いを行列が練り歩いた。この羽幌神社例大祭で最も盛り上がる場面である。神輿が水を浴び、担い手がホースで水をかけるシーンが見られたが、これは橋立地区の獅子舞でもよく見られる光景なので、かなり親近感が湧いてきた。神輿は関係者宅の前で水を被ってから、大通りに戻ってくるコースをいくので、この間、獅子は待機となる。例年少しここで遅れるんですよねという声もあった。かつては屋台が国道沿いにずらりと並んだそうであるが、現在は一部に限られている。


それから、いよいよ獅子と神輿が喧嘩を始めた。オレンジ色の獅子頭と男神輿が競り合うのが1番初めであり、最も盛り上がる瞬間である。まず神輿が片側にバタンと倒れて、そこに獅子が突っ込む。押し合いが始まるのだ。神賑わいのような感覚なのかもしれない。この場面が盛り上がるからぜひ見てほしいと言われていたが、さすがにこれはすごすぎる。それから、女神輿や子ども神輿と緑色の獅子舞の揉み合いが始まる。これが一連の流れであり、羽幌神社に至るまでに国道沿いの交差点(四ツ角)で4回も繰り返した。神社の境内に入っても1回やることがあるそうだ。子ども神輿が上がるとき、軽いからかポーンと高いところまで投げられてそれをしっかり掴む担い手の所作がどこか印象的だった。それから神社の前までいき、そこでまたさまざまな歌や踊りを披露しているところでタイムアップとなってしまった。帰りの飛行機の時間があるので、最後までは拝見できなかったが、最も山場とされるこの競り合いが見られて本当に良かった。


それから羽幌神社の鳥居前で大勢が集まり、さまざまな出し物(オロチョン太鼓や踊りなど)が繰り広げられ、盛り上がり、そのまま拝殿へと近づいていった。

15時で最終の飛行機へ乗るためにタイムアップで帰路についた。眺めた海はとても美しかった。この海から渡ってきた羽幌の開拓民は何を想いこの土地に移住したのだろうか。確かに少し北陸の海にも似ているところがある気がする。同じ日本海ということでは似ているのかもしれない。静かな青々とした海がただ遠くまで存在していた。

それから再び同じ道を車で戻り、滝川からは富良野ラベンダーエクスプレスで札幌に向かい、そして、札幌から新千歳まで帰った。新千歳から成田への便は遅れたけれども無事に飛んでよかった。本当に短い滞在だったが、見るべきものは見られた。とにかく遠い土地に行ったことを改めて実感した。北海道に行くのは、海外に行くのと同じ感覚だ。やはり青森と北海道ではまた国が違うように思うのである。刺激的な大空と大地を感じ、そこでのびのびと継承される芸能に触れることができるのだ。
羽幌の加賀獅子の基礎情報
7月の8日が宵宮、9日が本祭、10日が後祭である。9〜10日に獅子舞を実施する。海では鰊(にしん)漁が完了したお祝い、農家は春仕事がひと段落した休みの時期であり、豊作祈願と身体安全を願う夏祭りであるとのこと。以前からこの羽幌の祭りは有名であり、札幌や旭川からも見物客が来るほど盛大に行われてきたようである。男御輿以外の御輿は、後からできたようである。女神輿は築別炭山の山神祭の御輿だったが平成元年から羽幌神社の御輿行列に加わったようである。またオロロン太鼓の由来について担い手によれば、「オロロンってのはウミガラスの鳴き声だよ。オロロンって鳴くんだ。(羽幌町の)天売島にしか今繁殖していないんだ。それでオロロン通りとかオロロン食堂っていうのも生まれたんだ」とのことである。御輿行列の構成としては、天狗(猿田彦神)、越中赤坂奴舞、御輿、加賀獅子、おどり山、笛、太鼓、鉦などの囃子が加わる華やかなものである。道の四つ角にきた時に御輿と獅子の揉み合いが行われるが、これを「練り合い」という。喧嘩していたのが、練り合いになったようである。
担い手によれば、獅子頭は雌雄一対で、川南が茶色(オレンジ色)で川北が青色(緑色)である。練り合いの先頭で男御輿と対峙するのは川南の方の獅子であり、川北の獅子舞はその他の御輿とともに後に続く。獅子頭は大きく20kgもあるとされる。ちなみに、獅子頭の制作は担い手によれば「石川県の森佐というお祭り道具屋さんで作られた」とのことである。
獅子舞の演目としては6演目あり、1人踊りが「一本棒、薙刀、八の字」で、2人踊りが、「合わせ棒、鉄扇、無手」とのことである。花棒や鎖鎌は内灘からは伝来しなかったようで「鎖鎌はなかなか難しい」ということで伝来しなかったという話もある。
そのほか、羽幌には平神社の祭礼に奉納されている越中獅子舞があり、道庁の開拓成功検査に合格した日を記念して、9月10日に実施されているとのことである。富山県井波付近の獅子舞を継承していると考えられる。
羽幌の加賀獅子の起源と歴史
古老曰く「羽幌には獅子が二つあった。川北と川南で、いずれも石川県河北郡内灘町からとり寄せたものである。「カヤ」には、若者が四〜五〇人も入り、獅子頭に向かって「棒振り」が舞った。棒振りは三〜四人だった。川北の獅子舞は、青年の集まりである「同志会」が中心になり、七月の羽幌神社の祭典に奉納した(川北の漁業 坂本与三松談)」とのこと。
『新羽幌町史』によれば、獅子舞の始まりは明治20年代に捕鯨を営むために石川県河北郡内灘町から羽幌に移住した人々によって開始され、継承されてきた。古老の話にもあるように、4〜50人の人が蚊帳に入る非常に大きい獅子舞だったようだ。
おそらく大正期と昭和期の2度の休止期間があったと思われる。『羽幌の文化』によれば、大正期に獅子舞が復活したのが末期ごろ(担い手談では大正11年)とされ、加賀出身者(内灘町大根布)の親睦会を結成して、獅子舞を再現したことが始まりとされている。親睦会の子どもたちは一心会を結成して、笛と太鼓を伝承したそうだ。羽幌神社に川南加賀獅子と川北加賀獅子が奉納されてきて町民に親しまれてきた。
しかし、昭和30年ごろに川北の獅子舞が消滅して、獅子頭のみが残る形となってしまった。鰊漁の不振によって関係者が少なくなり中断したようだ。ここで何があったかはよくわからないが、『北海道の民俗芸能』P43によれば、「出稼等、生活に追われる状況となり」とある。また担い手にその詳細について伺ったところ「人がいなくなったから」という答えが返ってきた。
『新羽幌町史』によれば、川北の獅子舞はすでに戦時中に消滅したようなので実際はどうなのであろうか。曖昧な期間があったのかもしれない。
昭和49年に再度保存会を結成して、子ども会活動の中にも獅子舞を復活させたい想いで、10数名の子どもの参加によって再現された。現在でも羽幌の加賀獅子は川北と川南が揃って羽幌神社の獅子舞を構成しているが、この実現には多くの苦心を乗り越えてきた歴史が背景として残されているようである。
地域一丸となって作り上げられる祭り
羽幌の加賀獅子で特筆すべきは、担い手の人数である。獅子舞もお御輿もみな「担い手不足ですが」とは言うものの、獅子舞だけでも総勢100名を超えるという担い手が勢揃いする姿は圧巻だった。小学校も中学校も学校自体が祭りの日はおやすみになるということ。それが祭りの賑わいを作り出しているのだろう。「なぜこんなに担い手が数多く集まれるのですか?」と尋ねてみた。すると「ある1人のままさんが知り合いづてでLINEで広めてくれるおかげで、子どもがこれだけ集まっている」とのこと。でもやっぱり構造的な何か秘密があるのではと思って「学校は祭りの日はお休みなのですか?」と聞いてみると「小学校も中学校も休みです。(祭りの日は)学校には子どもがいなくて授業にならないから、おやすみなんですよね」とのことだった。学校が祭りに対して理解があるのは素晴らしいことだし、それくらい祭りの規模が大きくかつ地域一丸となって実施されていることがわかるお話である。その影響力は学校だけではなくて、道路交通にも及ぶ。「祭りで国道を止めるのは北海道で羽幌だけ」とのことである。
石川県の内灘や橋立との比較
石川県内灘町から羽幌に獅子舞が伝来したが、石川県加賀市橋立地区も同様に伝来した地域である。そこにどのような類似性が見られるのだろうか。祭りに熱い土地柄で、学校も休みになるくらいのめり込んでいる感じは、橋立の獅子舞とも近いところがある。演目はかなり類似がある。羽幌の加賀獅子の演目は6つとのこと。花棒や鎖鎌は見られなかった。ロッコイロッコイの掛け声は共通である。しかし『北海道の民俗芸能』P43には「はやしにドッコイ、ドッコイ」という記述がある。また羽幌にはエイサーという掛け声があり、これはあまり石川県側ではあまり見たことがないと思ったが、金沢の獅子舞で棒振りが獅子に飛びかかる時に「エイヤー」の掛け声は見たことがある。ちなみに四ツ角での競り合いはつまり交差点こそが厄の溜まり場という意識があるからであろう。石川県でも津幡町では四ツ角での獅子の競り合いが最も見どころになっているが、あれと似たような感覚がある。いずれにしても、石川の加賀獅子と羽幌の加賀獅子の比較は非常に興味深いものがあった。

参考文献(アイヌ)
アイヌ文化保存対策協議会(編集)児玉作左衛門他(監修)『アイヌ民族誌』(昭和44年3月, 第一法規出版)
門崎允昭『アイヌ民族と羆ー羆儀礼の起源と発展』(2016年2月, 北海道出版企画センター)
瀬川拓郎『アイヌ学入門』(2015年2月, 講談社)
参考文献(羽幌の加賀獅子)
堀忠勝『北の祭り<第2週>』2014年12月
青山芳雄他6名『羽幌の文化』昭和58年3月,羽幌町文化連盟
新羽幌町史編纂委員会『新羽幌町史』平成13年2月,羽幌町
北海道教育庁社会教育部文化課『北海道の民俗芸能』昭和62年3月, 北海道教育委員会