鶴、龍、蟷螂...。さまざまな動物仮装芸能の多様性には驚くものがある。2025年7月19日、静岡県森町山名神社天王祭舞楽を訪れた。唯一無二のこれらの芸能はどのように生まれ、そして、発展して今日まで継承されてきたのか。そして、獅子と優填獅子という2演目に獅子が登場することから獅子舞研究にも大きな進展がありそうだ。そのような期待をもちながら、森町の山名神社に向かった。
実際に拝見した舞楽の様子
午前に東京を出て、東海道線の鈍行で掛川まで行って、そこから天龍浜名湖鉄道に乗り換えた。鉄道がアニメとコラボしているようで、座席にアニメキャラが描かれており驚いた。それから森町病院駅で下車。まず図書館に寄ってから、山名神社へと向かった。森町は町名の通りに森が深い山々がみえ、そこから下流に流れる川沿いにその神社はあった。8台の屋台引き回しの効果もあって、若者が非常に多い気がする。
17時半ごろ、境内にたどり着くと、舞台の上の担い手は小休止の様子だった。どうやら、3番の鶴の舞が終わった後のようだ。もう少しで見られたのにと悔しかったがしょうがない。祭りで周辺の飲食店も時間短縮でお休みだったので、屋台の大阪焼きを食べたり、撮影場所の見極めをしたりして過ごした。


18時40分ごろ、いよいよ4番の獅子が始まった。首を左右に振ったり、飛び跳ねたりする動きが印象的で、体力を使うだろうなと思った。拝殿に対して正面を向いて舞う。左右にお囃子の奏者がずらりと並ぶため、正面しか撮影ができない。加えて、舞台の位置が小國神社よりも高いので、非常に撮影が難しい。見上げるように写すと、舞台の欄干で担い手の体が半分くらい隠れてしまう。5番の迦陵頻は頭の上に鳥居みたいなのが建っているのがとても気になった。6番の龍は柱の上に担い手がよじ登り逆さまになるのがアクロバティックで良かったし歓声が上がった。これはどこか梯子獅子やつく舞に通じる高さ崇拝と雨乞いの思想だと直感した。7番蟷螂舞は唯一無二の面白い演目だと思った。紐を引っ張るとカマキリのカマが動くしかけになっていて、これが動くのがとても面白かったしシュールさがたまらなく良かった。8番優填獅子は優填が輪を投げて獅子を捕まえるが、また離れてまた捕まえてというやりとりが良かった。しっかり捕まえられて舞台裏に引っ張り込まれるまで30分という長い演目であると感じた。彼岸獅子などに見られる弓舞で弓を潜るか潜らないかの攻防があって、最後に弓を潜る瞬間に歓声が上がるのだが、あれに近いものを感じた。荒れ狂う自然や生き物を手中に収め制御することの欲求が見事なまでに表現されているように思った。





途中から8台の屋台が現れて、あまり鑑賞に集中できなかった。ここから、7番蟷螂に至るまで、度々、屋台が現れてはどこかに行ってしまうということが繰り返されて、あまり鑑賞に集中できない時間が続いた。そしてふと気づいた。ああ、この舞楽の舞台は、本来屋台の上で上演されるものをただ、舞台に移しただけなのだと。だから、舞楽のお囃子がかき消されるくらい大声出した屋台連中がその舞台の周りをぐるぐるしていても問題はないもないわけだ。ここを初めて訪れる人なら、「鑑賞環境としてあまりに勿体無い」と思いかもしれないが、地元の人々からしたらこのノイズももはや当たり前で、むしろこれくらいがちょうど良いと思っているのかもしれない。そのように推測された。(実際に後日文献を調べてみると、山名神社天王祭舞楽保存会, 森町教育委員会『遠州飯田山名神社祇園祭舞もの』(令和元年5月)によればかつては舞と車が一体であったとのことである)

さて、今回の演舞は獅子が大幅に演舞が遅れていた。やはり上下動の大きい一人立ち獅子舞であって衣装をしっかり着て獅子頭をきつく固定しないといけないのだろう。これを固定するのに膨大な時間を要して、一度舞台裏にはけて一からやり直す場面も見られた。担い手側の苦労を垣間見た瞬間であった。当初は21時に終了となるところを、21時45分ごろにやっと全ての演目が終了となった。
もう天龍浜名湖鉄道の終電が過ぎていたので、ひとまず東海道線の駅まで歩くことにした。一番近い袋井まで1時間半ほど歩いた。その中で、体力的なきつさはあったものの、この祭りの裏の顔を見られた気がする。というのも、5~6人くらいの若い男女の担い手たちが家から出てきて車に乗って、仲良く帰宅するような様子が見られた。祭り後には簡単なホームパーティを開く家があるようである。また、近くの公民館では22時半を過ぎてもお囃子を奏する姿が見られ、その横ではお酒を酌み交わす工人たちも多数見られた。祭りが終わっても、また明日は祭り。その繋ぎの夜は、各思い思いに過ごしているようだった。さて僕は非常に疲れた状態だったが、コンビニでアイスを買って食べながら騙し騙し進んで、袋井駅に到着。そこから浜松のネットカフェで一泊して、翌朝の新幹線で次の取材先である埼玉県へと向かった。
山名神社天王祭舞楽の起源と歴史
森町史編纂委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(平成8年3月)P1053によれば、この舞楽の起源は明応元年(1492年)に大阪四天王寺から伝来したという。しかし、戦国時代の文禄4年(1595年)から江戸時代の寛文5年(1665年)まで70年間中絶していたという。1595年といえば豊臣秀吉の時代であり、1665年といえば江戸幕府4代将軍・徳川家綱の時代である。それで寛文6年(1666年)に松村孫兵衛が四天王寺に赴いて再び舞楽の伝授を受けて、今日伝承している形態になったという。
ただし、現在伝承されている8曲は現在四天王寺で演じられているものとはほとんど異なっており、鶴舞、蟷螂舞、獅子舞、竜舞など、想像も含めた動物の扮装をして舞うものが多く、ユニークな展開を見せている。これは小國神社、天宮神社との権威関係の中で、後世に伝授された山名神社ではそのまま受容することをためらい独自な発展を遂げることになったのだと考えられる。言い換えれば、小國神社や天宮神社に伝わる十二段舞楽をなんとか伝承したいという想いがあったが小國神社の十二段舞楽が鈴木家の専掌で特に色香舞などはなかなか他への伝授ができなかったことがあり、「2人舞を1人舞にしたり、模倣や混曲などの手法で伝授が許されて、次第に民間舞楽として発展して今の形態になったとされる。つまり、お店が乱立すると多様性が生まれるのと同じように、後発的に舞楽導入を計画した山名神社はもはや舞楽の域を超えた独自の民俗芸能として発展させたユニークな展開を見せている。
また山名神社天王祭舞楽保存会, 森町教育委員会『遠州飯田山名神社祇園祭舞もの』(令和元年5月)によれば、応仁の乱以前の京都祇園御霊会で舞われた芸能を、室町時代の永正の初め頃(1504年〜)に遠州宇刈郷西楽寺が執行する祇園会に取り入れられたとあり、これを伝えたのが南蛮貿易の豪商である小田原城主北条早雲の重臣外郎(ういろう)氏だったとしている。この芸能の影響が色濃く現れ、独自の展開を見せたのかもしれない。
また森町史編纂委員会『森町史 通史編 下巻』(平成10年3月)P633によれば、演目のうち最後の優填獅子以外は子どもの舞であり、稚児舞とも考えられる。舞い役の顔を隠すシャグマや赤い布が特徴的である。つまり、人間の舞ではなく顔を覆う精霊の舞としての性格を持っている。

<演目>
(初まくり)約5分
①八初児(やつはち) 約15分:数え年8歳となり初めて稚児舞を演出する曲という意味。日月一対の天冠を被り舞う。2日目のみ、優填獅子の後に再度登場して半舞を舞う。これを「獅子追い」という。
②神子(みこ) 約15分:鳥居と太陽が彫られた天冠を被って、四隅で体を回転させる「スミを切る」という所作があり、優雅に舞う。
③鶴(つる) 約10分:鶴の頭で2人舞、頭は阿吽の一対。雌が先に退場して雄が1人舞をする。
④獅子(しし) 約27分:獅子の頭で2人舞、頭は阿吽の一対。雌が先に退場して雄が1人舞をする。頭を振ることから「うなづき舞」とも呼ばれる。
⑤迦陵頻(かりょうびん) 約15分:鳥居と太陽が彫られた天冠を被って舞う。迦陵頻伽(かりょうびんが)のことであろう。仏教における想像上の鳥。上半身が人、下半身が鳥。シルクロード各地に残る鷹の舞に類似する他、抜頭や陵王の形態をわずかに残す。
⑥龍(りょう) 約25分:竜をりょうと発音するのは陵王の陵を示している。陵王と納曽利の要素を見出せる舞い。
⑦蟷螂(とうろう) 約14分:囃子と舞い方は迦陵頻と同じ。蟷螂は紐を動かすとカマが動き、肘を広げると羽が広がる。
⑧優填獅子(うでんじし) 約45分:優填は1605年銘の非常に古い面を被る。直径約1メートルの輪で獅子をとらえる。
※2日目の獅子追い 総まくりは 約7分
優填獅子の起源と歴史
優填獅子の「優填と獅子」とはすなわち、祇園系の祭りであることを考えると「素戔嗚尊と八岐大蛇」の関係と見て良いだろう。山名神社の御祭神は素戔嗚尊である。つまり、この優填獅子が最も格式高い演目であり、最後に演じられる理由もわかるというものだろう。山名神社天王祭舞楽保存会, 森町教育委員会『遠州飯田山名神社祇園祭舞もの』(令和元年5月)P6によれば、「文殊菩薩の脇侍優填王の姿に牛頭天王をだぶらせている」とする。
森町史編纂委員会『森町史 通史編 下巻』(平成10年3月)P638によれば、「山名神社の御祭神が悪霊を押さえて鎮めるという内容の舞で、これでようやく祇園祭の舞物の目的を果たすことになる」という。また「優填役は古くは村松五郎馬家の世襲だったが現在は移動している。村松家が素戔嗚命役を伝承してきたのは、あるいは為政者として氏子=民を統率するという陰の目的があったとも想像される」とある。それくらい格の高い役柄として伝承しているのだ。
優填と獅子の組み合わせといえば、長野県駒ケ根市光前寺、長野県下伊那郡高森町瑠璃寺、そして今回の山名神社などに伝わっている。これは獅子あやしのある種の発展の一形態として捉えられ、長野県から静岡県にかけての展開と思われ、地方の大寺や古社を中心に広がったと考えられるのだ。そういえば、7年に1度の飯田お練り祭りで登場する東野大獅子にも宇天王という役が登場するがこれはまさに優填のことを指しているのだろう。
森町史編纂委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(平成8年3月)の水原渭江「山名神社の八段舞楽について」P1113 によれば、「優填獅子の優填というのは、仏教での華として知られる優曇華(うどんげ)の優填が訛ったものであろう」とする。優曇華とはすなわち伝説上の植物とされており、3000年に一度花を咲かせると言われ、滅多にない幸運や仏様に出会うことの難しさを説いている。この故事が素戔嗚尊や祇園信仰と結びついたということだろう。

蟷螂が登場する理由
蟷螂舞の成立には、まず舞楽の各種の舞い方の変化を見る必要がある。まず羽は迦陵頻に類似する。静かに両手で合掌する仕草と四隅を渡る形式は菩薩の舞のようである。また、抜頭や納曽利の影響すらも感じられるハイブリッド感がある。山名神社天王祭舞楽保存会, 森町教育委員会『遠州飯田山名神社祇園祭舞もの』(令和元年5月)によれば、「舞のモデルは錦小路西洞院と四条の間を巡行した蟷螂山であることは疑いない。伝承では、京より小田原に移った外郎氏が当地に伝えた代表的な舞と考えられる」とある。当時は曳山の上で舞うのみならず、「蟷螂20匹が群行」とあり、非常に壮観な蟷螂たちの舞いが繰り広げられていたことだろう。
それにしてもなぜ蟷螂が登場するのだろうか。祇園祭の蟷螂に関して、「蟷螂の斧を以て隆車りゅうしゃの隧わだちを禦ふせがんと欲す」という中国の故事に由来をもち、その起源は、南北朝時代に蟷螂山町(当町)在住の公卿四條隆資卿の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で同じく当町在住の陳外郎大年宗奇(ちんういろうたいねんそうき)が、永和2年(1376)に四條家の御所車に大蟷螂の模型を乗せて巡行したのが始まりといわれています。」(参考: https://tourouyama.jp/about/)とある。
上記の中国の故事は弱者が自分の力を考えずに強敵に挑むことのたとえであり、蟷螂が車に立ち向かうことを「蟷螂の斧」と呼んだそうだ。ことわざでは斧は前足で、隆車は高くて大きな車を表すという。
「韓詩外伝」には蟷螂が足を振り上げて、荘公の乗っていた車の車輪に打ちかかろうとした様子が記される。このカマキリの様子を見ていた荘公は、「この虫が人間であったならば、必ず天下をとる武将になるにちがいない。」と言い、車を迂回させてカマキリをよけて通った。これを聞いた武勇の人達は一層奮い立ったそうである。

参考資料
森町史編纂委員会『森町史資料編5 舞楽・民俗芸能・民俗資料』(平成8年3月)
森町史編纂委員会『森町史 通史編 下巻』(平成10年3月)
森町教育委員会『ふるさと民俗芸能ビデオガイドNo8 遠江森町の舞楽 山名神社天王祭舞楽』(平成6年3月)
山名神社天王祭舞楽保存会, 森町教育委員会『遠州飯田山名神社祇園祭舞もの』(令和元年5月)